井深 彦三郎
『東亜先覚志士記伝 下巻』(黒龍会著 昭和41年)に井深彦三郎が掲載されているので、以下に全文を紹介する。
「 慶応二年七月二日、会津若松城下に生る。父井深宅右衛門重義は会津藩の遊撃隊長たりし勇武の士であった。戊辰の役彦三郎は
母及び姉妹伯母等と共に若松城に籠城し、開城の後父母に従って一時青森県下に移住したが、再び郷土に帰って小学校の教育を受け、
明治十六七年の頃、志を立てて東京に出で、築地の某学校に入り英語を学んだ。
偶々荒尾精が大陸経営を論ぜるを聞き、之に共鳴してその門下に投じ、荒尾が漢口に楽善堂を開くや、彼地に渡って同志として
活躍の第一歩を踏み出した。稍々支那語に熟達するに及び、売薬行商人となり、辮髪を蓄え支那服を纏ひ、深く支那の奥地に入って人情
風俗等を研究し、備さに艱苦を甞めつつ他日の雄飛に資した。やがて荒尾が上海に日清貿易研究所を設立する目的を以て内地遊説の
為め帰朝するに方り、彦三郎も亦之に従って帰朝し、荒尾の活動を助け、日清貿易研究所の開設された後も、上海に於て専心その事業を
助けた。
明治二十七八年の日清戦争には自ら志願して陸軍通訳となり、戦地に活躍、後樺山資紀が台湾総督となるや、その部下に在って日本
政府の趣旨を島民に理解せしめることに力を尽くし、一面また島民等の意志を新統治者たる総督府側に諒解せしめることに意を用ひ、
その間の功労実に少からざるものがあった。其後北京に赴いて内地新聞への通信等に当っていたが、露国の満州進出によって日露の
風雲漸く急を告ぐるに及び、其筋の内命を受けて一団の有志と共に蒙古探検隊を組織し、蒙古の沙漠地帯を横断して斉斉哈爾に
到着したのであったが、同地の日本人旅館に投じ入浴を終へて、いざこれより食事の膳に就かんとした時、突然同旅館は露兵の包囲を受け、
一行は忽ち捕縛されて、軍事探偵といふ嫌疑で軍法会議に附せられるべきこととなった。しかし一行は軍人にあらずして地理探検者なりと
主張し、極力軍法会議の審判に附せられることを拒否した結果、転じて哈爾濱の民事裁判所の審判に附せられることとなり、哈爾濱に
護送されて同地の監獄に投ぜられた。然るに天佑ともいふべきか、同監獄に出入する日本人洗濯婦があって、その女の義侠に依り、洗濯物
の中に書面を入れて獄吏の眼を掠め、漸く急を日本総領事館に告げることを得たのである。斯くて領事館では驚いて直に北京の日本公使館
に急報し、公使館からの正式交渉に依り遂に虎口を脱し、北京に帰還することを得た。やがて日露の開戦となるや陸軍の秘密計画たる特別
任務班に参加し、彼の横川、沖等とは別行動を取って、満州蒙古の隣接地帯方面で馬賊の招集並びに指揮に任じ、一団の同志と共に露軍の
腹背を脅かすべく決死の活動を演じたのである。当時井深の属する特別任務班では軍用金が欠乏して活動に窮したことがある。その際彼は
北京に帰って軍用金を携へ来る任務を引受け、北京で多額の銀貨を受取り、之を車に満載して支那語を操りつつ幾多の難関を突破して首尾
よく根拠地へ齎らし帰ったのであった。
特別任務班の活動が一応終るや、総司令部附の通訳官となり、大山総司令官に従って各地に転戦した。その時彼は通訳官として佐官の
待遇を受けていた。平和克服の後は奉天将軍趙爾巽の顧問に聘せられ、日本政府及び陸軍当局が奉天将軍と重要交渉をなす際には、
必ずその間に立って斡旋に努めるのが例であった。趙爾巽が奉天を去った後も彼は奉天に留り、推されて日本居留民の民団長となり、公私
各方面に力を尽し、奉天に日本赤十字社支部が設置されたのなども、彼の尽力に負ふ所が多い。日露戦役後功により勲六等に叙し、年金
若干を賜った。奉天民団長を除して内地に帰った後、故郷会津地方の有志より推されて衆議院議員の候補に立ち、当選して議政壇上の人と
なり、勲四等に叙せられた。
大正五年北京に於て病に罹り同年4月4日同地の客舎に逝いた。年五十一。墓は東京青山墓地にある。彦三郎為人恬淡豪快、短軀
ながらに斗酒尚ほ辞せざるの概あり、仲卿と号し詩歌の嗜みも浅からず、流石に会津武士の後たるに背かなかった。実兄井深梶之助は
基督教界の長老として重きをなし、また青山学院院長として教育界にも貢献した所多き人である。」
年表
慶応2年(1866)7月2日 会津若松で井深宅右衛門の三男として生まれる。
慶応4年/明治元年 (1868) 2歳 会津戦争が勃発し、会津若松城に籠城する。
明治3年 斗南へ移住。
明治?年 会津若松に戻る。
明治?年 会津若松で小学校を卒業。
明治16,7年頃 (1883,1884) 17~18歳 上京し、築地の学校で英語を学ぶ。
明治18年?~19年 陸軍参謀本部支那課附将校 荒尾精の日中提携による西洋列強からのアジア保全・興隆の考え方に
共鳴 し、その門下に投じる。
明治19年 (1886) 20歳 荒尾精陸軍中尉が陸軍参謀本部の命を受けて中国に渡り、漢口楽善堂運営を前任の伊集院大尉から
引き継いだのを機に、中国に渡る。 荒尾精や同志と共に、漢口楽善堂を拠点として中国大陸の調査・情
報収集活動を行う。中国語が熟達すると、薬売り行商人となり、辮髪をし中国服を着て深く中国の奥地に
入って人情風俗等を研究した。諜報活動を行っていたものと見られている。
明治22年 (1889)4月 23歳 荒尾精が上海に日清貿易研究所を設立するため及び入学者募集のため日本に帰国すると、井深彦三
郎も荒尾精に従い帰国する。関東・北越・北海道・京阪の各地を遊説後、長崎に滞在。
明治23年 (1890) 24歳 春、長崎から東京にいる義理のいとこの西郷四郎に鈴木天眼の書籍 『新々長崎土産』 を送る。
〃 6月21日 西郷四郎が「支那渡航意見書」を残して講道館を出奔する。その足で中国渡航に便利な長崎に赴いた
といわれている。長崎で西郷四郎と井深彦三郎が再会する。
〃 9月前 上海に日清貿易研究所が設立されると、所長となった荒尾精や150人の学生より先に長崎から上海に
戻る。 同研究所で日中貿易実務担当者養成等の事業に従事した。
明治27年 (1894)7月 28歳 日清戦争勃発。自ら志願して第一軍司令部の通訳官を勤めた。
明治28年 (1895)5月 29歳 台湾の初代総督となった樺山資紀の通訳官となって台湾に渡る。
明治29年 (1896)7月 30歳 荒尾精の妹テイと結婚。
〃 10月30日 荒尾精が台湾滞在中、ペストにかかり満37歳で死去。
明治30年 (1897)10月 31歳 台湾で娘八重が生まれる。
明治35年~36年頃 ロシアの満州進出により日露の風雲急を告げると、その筋の内命を受けてモンゴル探検隊を組織し、
モンゴルの砂漠地帯を横断してロシアとの国境に近いチチハルに到着。日本人旅館に滞在中、
ロシア軍に軍事探偵の疑いで捕縛され、ハルピンの監獄に投ぜられる。同監獄に出入りする日本
人洗濯婦の助けで、洗濯物の中に書面を入れて獄吏の眼を掠め、ようやく急を日本総領事館に
告げることができた。その結果、北京の日本公使館とロシアとの交渉により、北京に帰還することが
できた。
明治37年 (1904)2月 37歳 日露戦争が起こると、陸軍の秘密計画である特別任務班に参加する。満州とモンゴルの隣接地帯
方面で馬賊の招集及び指揮に任じ、一団の同志と共にロシア軍の腹背を脅かすべく決死の活動を
行う。
〃 7月 38歳 テイと協議離婚。
明治38年? 特別任務班の活動が終了すると、満州軍総司令部附の通訳官となり、大山総司令官に従って各地に
転戦した。この時、通訳官として佐官の待遇を受けている。
明治38年 (1905) 39歳 9月5日に日ロ戦争が終結。その後、奉天将軍の趙爾巽(ちょう じそん)の顧問となる。日本政府や
陸軍当局が奉天将軍と重要交渉をする際は、必ずその間に立って斡旋に努めた。
明治40年 (1907)3月 41歳 四川総督に就任した趙爾巽が奉天を去ると、そのまま奉天に残り、推されて奉天の日本居留民の民団長
となる。井深彦三郎の尽力により奉天に日本赤十字社の支部が設置される。
明治45年 (1912)5月 46歳 福島県郡部6区から第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選する。この時、福島県若松市区から立候
補した元長崎県知事の日下義雄も約10年ぶり2回目の当選をしている。
大正5年 (1916)4月4日 51歳 北京で死去。墓は東京の青山墓地にある。
【参考文献】 牧野登著 『史伝西郷四郎』 昭和58年
黒龍會編 『東亜先覚志士記伝』 (下巻) 昭和41年(昭和11年発行の復刻版)
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