16.  池上三郎
 


   1.経歴

      池上三郎(1855-1914)は明治時代に検事として活躍した人物である。弟の池上四郎は元大阪市長であり、秋篠宮妃紀子様の曽祖父である。

     三郎と四郎の父・池上武輔は会津藩御使番の内田武八(190石)の二男として生まれ、池上善左衛門(250石)の婿養子となって

     文久2年(1862年)に池上家の家督を相続している。妻は善左衛門の長女ウメで、池上武輔は後に会津藩の郡奉行になっている。

     三郎も四郎もこの武輔とウメとの間に生まれており、長兄は夭折し、次兄の友次郎は鳥羽伏見の戦いで戦死している。



      三郎は元治元年(1864年)に会津藩校日新館に入学、慶應4年(1868年)8月23日に新政府軍が会津若松に進撃して来ると鶴ヶ城に籠り、

     城に入った13~15歳の少年有志で編成された護衛隊に加わり、中軍護衛隊(約50名)として新政府軍と開城まで戦い抜いた。

     籠城戦では北出丸へ迫った敵を撃退するなどの軍功もあげている。


      明治3年に家族で斗南藩へ移住したが、翌4年には上京して福地源一郎の学塾に入った。ただ、福地源一郎は明治4年11月

    12日(新暦の12月23日)に岩倉使節団の一等書記官としてアメリカ・ヨーロッパ訪問へ出かけたので、福地源一郎に師事した

    期間短かったと思われる。その後、福沢諭吉の慶應義塾や「横浜の父」と言われる高島嘉右衛門が横浜に開校した私塾、藍謝堂でも

    語学などを学んだ。明治6年(1873年)には現在の茨城県土浦市 にあった土浦藩の藩校郁文館の後身で洋学を教える化成館の

    英学教師となった。


      その後、福地源一郎が明治7年(1874年)12月に主筆となった東京日日新聞(後の毎日新聞)に入って記者となり、仕事の傍ら法律も

    勉強した。そして明治10年(1877年) に司法省に入った。現在の山形県庄内地方で明治6年末から13年末にかけて起きた

    農民運動、いわゆるワッパ騒動で大いに手腕を発揮して、検事補となり、明治14年(1881年)に検事に昇進した。
 
 
      この明治14年に長崎上等裁判所が長崎控訴裁判所と改称され、さらに明治19年(1886年)5月4日裁判所官制が公布されて

    長崎控訴院と改称された。池上三郎は長崎控訴院と改称される以前から長崎に検事として赴任している。三郎と同じ旧会津藩出身の

    日下義雄が第8代の長崎県令として明治19年3月21日長崎へ赴任して来たが、4月1日に池上検事が日下県令に会いに長崎県庁を

    訪問したことが、当時の長崎で発行されていた鎮西日報に次のとおり掲載されている。


     ●訪問

         日下長崎県令は昨日午前丁抹(デンマーク)領事を訪はれ、また長崎控訴裁判所
  
       検事池上三郎君は同県令を県庁に訪はれたり。

                                     (明治19年4月2日付け鎮西日報)   


      池上三郎は長崎控訴院検事局検事から明治26年(1893年) 3月に大阪控訴院検事局検事となった。その後、神戸地方裁判所の

     検事局の長である検事正となった後、明治38年(1905年)11月には函館控訴院の検事局の長である検事長に就任した。

      大正2年(1913年)に休職し、翌3年(1914年)11月10日に東京渋谷の自宅で満59歳で亡くなった。 


       池上三郎は、数冊の法律専門書を共同執筆したり監修したりするなど、法律家として相当学識が深い人物だった。 

     池上三郎が出版に関わった法律書として、次のものがある。


      『刑法対照 全』    池上三郎編纂  明治13年10月出版

      『実例引証 治罪手続』  只野龍治郎著 池上三郎閲 明治15年4月出版

      『治罪法区戸長必読』   只野龍治郎著 池上三郎閲 明治15年6月出版

      『本邦法令 上』  小沢謹歩著  池上三郎閲・出版  明治16年出版

      『本邦法令 下』  小沢謹歩著  池上三郎閲・出版  明治16年出版

      『巡査憲兵上等兵 刑事執務概則』  神戸地裁検事正 池上三郎著
                            明治31年出版


     上記の図書のうち、『刑法対照』では福地源一郎が序文を書いている。国立国会図書館デジタルコレクションにリンクしましたので

    ページを進めていただくと福地源一郎の序文を見ることができる。これは、池上三郎と福地源一郎の関係を知る上で貴重な資料と言える

    のではないかと思われる。

     福地源一郎が主筆になっていた東京日日新聞で池上三郎は福地から大いに薫陶を受けたことだろうし、ひょっとしたら政府に顔のきく

    福地のお世話で司法省に入ったかもわからない。少なくとも推薦はあったものと思われる。それほど恩顧を受けなければ池上が自ら

    編纂した本の序文を福地に依頼しないと思われる。

     
     それにしても、法律を学んでわずか数年しか経たないのに、法律の専門書を編纂するとは、池上三郎はたいへんすごいと思う。

    しかも新聞記者をしながら法律を勉強しており、よほど猛勉強したことであろう。本当に頭が下がる思いであり、見習いたいものとだ思う。




           

   2. 長崎へ転勤

      池上三郎は明治18年(1885)9月19日付けで大審院検事から長崎控訴裁判所(後に長崎控訴院と改称)検事へ異動になった。

     そして明治26年(1893)3月8日頃に今度は大坂控訴院へ異動を仰せ付けられた。池上三郎が長崎へやって来たのは異動発令から

    ずいぶんと遅れ、明治18年11月30日だった。池上三郎の幼い子供が早死したことが大きな原因だった。当時の鎮西日報にそのことが

    記載されている。池上三郎が大阪へ赴任するため長崎を離れたのは明治26年3月27日だった。したがって長崎に滞在したのは、

    約7年4ヵ月だった。官僚としては長かったと思われる。年齢で言うと、池上三郎は1855年3月14日に生まれているので、

    30歳から38歳にかけて長崎に滞在している。



      仕事ぶりはとても優秀との評判が当時の長崎の司法関係者の間で話題になっており、ある弁護士は、「控訴院に池上氏あり。

    疑いが晴れて無罪になる者の数は1年で少なくない」と語ったということが当時の鎮西日報に記載されている。また、普段から

    いつも心眼はまっすぐで、道理をはっきり見分け動くことがなく、罰を正し冤罪を解いた、ということも記載されている。

      私にとって会津藩の人は謹厳実直なイメージがあるが、池上三郎もやはりそのようなタイプの人だったようで、とてもまじめで

    正義感の強い人物であったことがわかる。実際に検察官池上三郎が関わった裁判が鎮西日報に記載されているので、この欄の

    一番最後にご紹介する。


      池上三郎の送別会には長崎控訴院と長崎地方裁判所の判事と検事一同が参加したことも掲載されている。7年4ヵ月も長崎で

    勤務したことで、ずいぶんと多くの司法関係者から信任が厚かったことと思われる。人々から惜しまれて長崎を去ったことと思われる。



     【明治18年9月30日付け鎮西日報】

       ●判事桑田親五は去る十八日、検事羽野知顯外弐名は一昨十九
(いず)

         も司法省に於て左の通り仰付けられたり。

                予審掛を命じ候事 (横浜始審) 判事桑田 親五
   
                                 (長崎控訴) 検事羽野 知顯

                長崎始審裁判所詰を命じ候事
  
                                 (大審院)   検事池上 三郎

                長崎控訴裁判所詰を命じ候事
          
                                 (議事局員) 検事春木 義影
 
                大審院詰を命じ候事
 
                                〔右三件本年九月二十一日官報〕 
    

       ●羽野池上両検事      本日の官報欄内にも掲ぐる如く当控訴裁判

         所詰検事羽野知顯君は当始審裁判所詰を、大審院検事池上三郎君

         は当控訴裁判所詰を命ぜられたり。又羽野検事は一昨日事務の引

         受を
(おわ)り昨日より事務取扱われたり。


     【明治18年10月7日付け鎮西日報】 

       ●池上検事     当控訴裁判所詰を命じられたる検事池上三郎君は
     
         本月中旬頃ならでは赴任あるまじといへり。 
   
      
     【明治18年11月10日付け鎮西日報】 

       ●池上検事     長崎控訴裁判所在勤を命ぜられたる検事池上三郎

         君は次の下り郵船横浜丸より来崎の筈なる由噂さす。


     【明治18年11月17日付け鎮西日報】 

       ●池上検事     長崎控訴裁判所在勤を命ぜられたる検事池上三郎
     
         君は一昨夜入港の横浜丸より赴任の筈なりしよしの処、同君の子息

         夭死に付き此度までは着任相成らざりし


     【明治18年11月28日付け鎮西日報】 

       ●池上検事     大審院詰たりし検事池上三郎君は過般長崎控訴

         裁判所在勤を命ぜられ志の処、幼児の死亡等にて着任も遷延せし

         に、本月二十日横浜出航の薩摩丸にて出発せられたる由なり。
     
         二三日の内には多分着崎せらるべし。


     【明治18年12月2日付け鎮西日報】 

       ●池上検事     長崎控訴裁判所在勤を命ぜられたる検事池上三郎

         君は一昨日入港の名古屋丸にて着崎。昨日より出勤せられたり。


     【明治26年3月9日付け鎮西日報】 

               電  報

       ○長崎控訴院検事更迭
             (昨八日午後一時東京特発)

          長崎控訴院検事池上三郎氏は大坂控訴院検事に補し、大坂地方裁判所検事

         川淵龍起氏は長崎控訴院検事に補せられたり。  

           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

              雑  報

       ●池上検事の転補

          当方面司法部内に於て俊秀識達を以てつとに世評に上りし者は長崎控訴院検事

        池上三郎君なり。吾輩はある状師のかつて君を称して「控訴院に池上氏あり。依て

        以て青天白日を得る者一年その数鮮少にあらず」と言へるを聞く。窃に之を生平に

        徴するにその心眼の正明にして動かざる、罰を正し
(えん)を解く、発して(あやま)ることあること

        無きが如し。真に群中の
脱穎(だっけい)なり。是に於て在任日永ふして声名日に高し。今や忽

        焉抜かれて大阪控訴院に転補せらる。蓋林検事長の君を忘る能はざるに由るなり。

        吾輩
(あに)愛惜の情なからんや。然れども是君の栄なり。君の名声亦益盛なるものあら

        ん。往矣懋哉。
    


     【明治26年3月18日付け鎮西日報】 

       ●池上検事送別会     長崎控訴地方判検事一同にて池上検事の送別会を昨夜

          伊良林
(がん)花亭に開きたり。


     【明治26年3月28日付け鎮西日報】 

       ●池上検事     当控訴院より大坂控訴院に転せし検事池上三郎氏は昨日午後出港
  
          の西京丸にて赴任せり。


     【明治19年1月20日付け鎮西日報】 

       ●刑事控訴公判      一昨日長崎控訴裁判所に於て判決ありたる控訴事件は、鹿児島県薩摩国鹿児島郡鷹師馬場町士族

        小野昌秀(三十六年八月)が殴打創傷の被告となり、鹿児島軽罪裁判所に於て重禁錮二年に処せられたる裁判に服せず

        長崎控訴裁判所に控訴したる事件にて、裁判長は松下判事、陪席は横地、藤井の両判事なりしが、検察官(池上三郎君)は

        原裁判所が公判に於て被害者の告訴状及び中 村八郎次外三名の始末書を朗読せず、且つその証憑に付被告人に対し

        弁解を求めずして有罪となしたるは不当の裁判なるにより、附帯の控訴として原裁判の取消を要むる旨陳述あり

        弁護人佐藤龍斎氏は創傷疾病に至らざるものなれば違警罪に該るべきものと主張し、裁判長は式に依て訴訟書類を朗読せしめ

        且つ長崎病院の診定により裁判を下されたる要旨は、被告人は鹿児島郡伊敷村平民山下三右衛門が同郡鷹師馬場中村八郎次へ

        負債ありて、厳重の督促を受くるより国料休次郎を以て示談申し入るるあとを聞知し、自ら好んでその仲裁人となりたる末、

        明治十八年十月十日午後九時金主中村八郎次の門前において仲裁の謝金に付き三右衛門に対し談判中ついに意の如くならざるを

        怒り、陰嚢右側腹部を蹴りために軽傷をなしたるも疾病休業に至らざる事実は、告訴状、証言、医師診断書、鑑定書、始末書、証明書

        供述等により証憑充分なりとなし、刑法第三百一条第三項その疾病休業に至らずと雖ども身体に創傷をなしたるものは十一日以上

        一月以下の重禁錮に処するに該る犯罪と為し、原裁判はその当を得ざるを以てこれを取り消し、更に重禁錮十五日に処せられ且つ

        検察官の附帯控訴あるを以て被告人の刑は原裁判言渡の日より起算しすでに刑期経過せるを以て直ちに放免を言渡されたり。    




      裁判手続きに誤りがあったため、池上検事は検察官として原裁判の取消しを求める附帯控訴を行っているが、刑事訴訟手続きに詳しい

     専門家としての一面が現れている例と思われる。
 



     
     【明治20年3月2日付け鎮西日報】 

       ●公証人試験    は兼ねて報道し置きたる如く、昨日より交親館において執行ありしが、本日にて終結せるよし。

        右試験委員は長崎控訴院評定官松下直美、同検事池上三郎、長崎始審裁判所判事掛下重次郎の三氏なりといふ。






             引用文献   ウィキペディア 『池上三郎』、『池上四郎』




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