20.池上四郎


             池上四郎は1857年5月11日(安政4年4月18日)、会津藩士池上武輔の四男として現在の会津若松市で生まれた。

             11歳の時に会津戦争が起こり、兄の三郎と共に会津若松城に籠城した。戦後しばらくして斗南藩が成立すると、

             家族で斗南(現在の青森県の東部)に移住した。寒冷の地で食料が乏しく、一家は厳しい生活を送ったようである。

             1877年(明治10年)に西南戦争が起きて多数の警察官を採用することとなり、池上四郎もこの年に内務省警視局の一等

             巡査に採用された。その後、石川県や富山県など各県で警察官僚として勤務した。

              そして、1887年(明治20年)10月31日付けで長崎県監獄課長兼長崎県典獄に任命された。当時、長崎で発行されて

             いた鎮西日報に次のとおり報道されている。
   
    
             【明治20年10月30日付鎮西日報】

               ●池上氏

                 京都府警部にて下京警察署長たりし会津の池上四郎氏ハ、今度長崎縣へ出向を命ぜられ、来る廿七日出発の

                筈なりと。


             【明治20年11月1日付鎮西日報】

               ●典獄更任

                 長崎縣典獄松本正直氏ハ昨三十一日任長崎縣属叙判任官二等第二部衛生課長に命せられ、京都府警部池上

                四郎氏ハ任長崎縣典獄叙判任官二等第二部課長に命せられたり。


 
               ところで、典獄とは現在の刑務所長に当たる。池上四郎は長崎区の新大工町にあった長崎監獄の典獄も兼務して

           
いた。また、長崎県監獄課は長崎監獄がある新大工町に置かれていた。

              なお、長崎監獄の建物は、西南戦争時には戦傷病者を収容する陸軍病院として使用されていたようである。

              池上四郎は1890年(明治23年)2月8日付けで警視庁勤務を命じられ、2月10日に上京して行った。長崎には

             30歳の時に赴任して来て、32歳の時に東京へ移ったので、長崎には2年3ヵ月余り滞在している。

              池上四郎の異動に関する当時の新聞記事などを以下に掲載する。
  


             【明治23年2月9日付鎮西日報】

              ●池上典獄と幡本書記

                 長崎縣典獄兼監獄課長池上四郎氏は警視庁に採用に付き昨日出向を命ぜられ、同課属兼書記幡本廣治氏は

               長崎縣副典獄判任官五等に同日叙任せり。

   
              ●池上四郎氏出発

                 同氏は別項にもある如く警視庁にて採用に付本日の上り郵船より家族引連れ上京するよし。



             【明治23年2月11日付鎮西日報】

              ●池上氏の見送り

                長崎縣典獄より警視庁へ転任したる池上四郎氏ハ、昨日午後四時解纜の上り郵船西京丸にて上京せり。

               同氏の転任は監獄官吏惜み居る由にて、既に昨日同氏の乗船の際は監獄官吏及びその妻子小使等に至るまで大波

               止まで見送り離別の感情を表せり。

 
              ●送別会

                一昨九日午後三時より長崎監獄員は当市伊勢町三十七番戸に於て池上典獄の送別会をなせし由。来会者ハ

               凡そ八十名。席上池上典獄を送るの辞ありて各歓を尽し夜に入りて散会せしといふ。



             池上四郎が長崎滞在中に次女が生まれている。六女の紀子(いとこ)は1907年(明治40年)に大阪市で生まれ、

            1927年に茨木県保安課長をしていた川嶋孝彦(後に内閣統計局長)と結婚した。この二人の次男が学習院大学

            名誉教授の川嶋辰彦氏で、辰彦氏の長女が秋篠宮皇嗣妃殿下の紀子様である。したがって紀子様は池上四郎のひ孫に

            当たられる。


             なお、川嶋孝彦は昭和2年(1927年)年6月から3年7月初めまで約1年間地方事務官として長崎県内務商工課長兼水産課長に

             任ぜられ、長崎県庁に勤務した。池上紀子(いとこ)は明治40年(1907年)生まれなので、紀子が結婚した時は19歳頃だった。

             結婚した翌年に夫が長崎に転勤しているので、妻の紀子も一緒に長崎で暮らしたと思われる。


             以下に、池上四郎が長崎滞在中に鎮西日報に記載された長崎県内の監獄に関する記事を掲載する。


             【明治22年6月9日付鎮西日報】

               ●池上典獄

                 長崎縣典獄池上四郎氏は平戸監獄巡視の為め、昨八日出発せり。


            【明治22年6月12日付鎮西日報】

               ●長崎縣各監獄在監人

                 去月末長崎縣各監獄在監人の現在員数は未決囚男六十一人、女二人、計六十三人、己決囚男七百七十六人、女四十二人、

                 計八百八人、総計八百八十一人なりといふ。 



            【明治22年9月25日付鎮西日報】
  
               ●監獄会議

                 来る廿八日より各監獄看守長を招集し長崎縣監獄課に於て会議を開くよし。


            【明治22年9月29日付鎮西日報】

               ●看守長会議

                  長崎県各監獄看守長会議は昨廿八日より新大工町なる監獄課に於て開会の筈なりしも、同日迄来着せざる向もありしに

                付、明三十日に延期したるよしにて、右会議に附すべき事件の概要ハ看守、押丁、女監取締の服務心得、囚人待遇に関する

                件その他新監獄則に抵触せる廉を更正削除する等のことなりと。






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