長崎を訪れた会津の人々
  ~長崎会津関係史研究会のホームページ~

                            
  日下義雄らの尽力で建設された本河内高部ダムえん堤         日下義雄               五厘金之碑          
  (低部ダムと共に2017年に国の重要文化財に指定)  

●会津藩士・会津出身者

1.日下義雄 1851(嘉永4)-1923(大正12)

1-2. 長崎居留欧米人からの感謝状

2.北原雅長 1842(天保13)-1913(大正2)

3.西郷四郎 1867(慶応3)-1922(大正11)

3-2. 特派員西郷四郎の記事

4.山本覚馬 1828(文政11)-1892(明治25)

5.小松済治 1848(嘉永元年)-1893(明治26)

6.神保修理 1834(天保5)-1868(慶応4)

7.古川春英 1828(文政11)-1870(明治3)

8.小川 渉  1843(天保14)-1907(明治40)
 
9.秋月悌次郎 1824(文政7)-1900(明治33)

10.山川健次郎 1854(嘉永7年)-1931(昭和6)

11.出羽重遠 1856(安政2)-1930(昭和5)

12.酒井文吾 

13.柴五郎   1860(万延元)-1945.(昭和20)

14. 松平 留  1760(宝暦9)-1826(文政9)

15. 井深彦三郎 1866(慶応2)-1916(大正5)

16. 池上三郎 1855(安政2)-1914(大正3)

17. 神保巌之助  1852(嘉永5)-1925(大正14)

18. 高嶺秀四郎

19.小野木源次郎 1854(安政元)-1925(大正14)

20.池上四郎  1857(安政4)-1929(昭和4)

日下長崎県知事非職の真相


清国水兵暴動事件時の清国艦隊長崎入港日について


長崎の上水道布設に関する当時の新聞記事


「管理人より」アーカイブ 1 

  「管理人」よりアーカイブ 1目次

  ※平成25年12月~令和2年12月分収録

「管理人より」アーカイブ 2

  「管理人より」アーカイブ 2目次

  ※令和3年1月~


会津・白河旅行記



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                   山川健次郎東京帝国大学総長の訓示


   先日、長崎会津会の高久和也会長から、大正4年11月5日付の東洋学芸雑誌第32巻第410号に掲載された山川

 健次郎の『東京帝国大学学生入学宣誓式に於ける山川総長の訓示』というタイトルの講話文をいただきました。

  原文も読みやすいのですが、現代文に直して、さらに読みやすくしましたので、ぜひ読んでいただきたいと思います。

 
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          東京帝国大学学生入学宣誓式に於ける山川総長の訓示


               本稿は山川総長が新入学生に与えられた訓示であるが、また一般青年が読んで得るところが
             多いと思われるので、乞うてここに掲載する。
                                              編者



   列国が軍備を解いて、万民が太平を謳歌する黄金時代が来ることは、近い将来には期待すべきではありません。

  現時、ヨーロッパの大戦がどのように終局しても、数十年の後には必ずまた大戦争が起るに違いありません。
  
  それならぱ、軍備の充実に最も大切なのは国民尚武の気風なのであります。
   
   元来、学問をする人はとかく文弱に流れやすいものですが、文と武とはいわゆる「鳥の両翼、車の双輪」(二つの

  ものがそろってはじめて役に立つもののたとえ―筆者注)のごとくであり、その一つを欠くべきではありません。

  古人も、文事ある者は必ず軍備あり、と言いましたが、文弱に流れるのは、ことに戒めなければなりません。 

   わが国の隣国である中国は理論上は文武が並立していますが、とかく武を卑しむ風潮があります。すなわち、尚武

  の気風が乏しいので、夷狄として卑しんでいた北方民族からしばしば苦しめられ、甚だしきに至っては遂にこれに征服

  されたのも1回に止まらないのであります。

   昔、ローマが滅んだのも国民が安逸を貪り、尚武の気風を失ったからです。わが国において、昔藤原氏が政権を失

  ったのも、つまり尚武の気風が衰えたためで、これに代わったのは尚武の気風の満ちた武士でありました。こんなふう

  なので、国を維持するには国民に尚武の気風が旺盛でなければなりません。尚武の気風が衰えるときは、遅かれ早

  かれその国は亡ぶのであります。

   孟子も、「敵国外患無き者は、国恒に亡ぶ」と言いましたが、外部から刺激がないと、国民均しく目先の安楽をむさぼ

  りやすく、尚武の気風を失って、遂に亡んでしまうものであります。
 
   さて、尚武の気風というのは、君子のため、国のためには水火の中にも飛び入ることを辞さず、という気風をいうので、

  わが日本は建国以来尚武の気風を盛んに奨励されました。昔中国の文物に心酔した結果文弱に流れましたが、その

  後武家政権になって尚武の気風が旺盛となり、弘安の役にはあのように強い蒙古の襲来を撃退して、蒙古をして再び

  わが国を窺うことを思い断たせたのでした。

   ただ尚武を奨励する弊害として、黷武(とくぶ)すなわち、みだりに武を用いやすいことは注意を要します。

   現今、欧米の新聞・雑誌などではドイツのミリタリズムを打破しなければならないと叫んでいます。このミリタリズムを

  わが国の新聞などでは軍国主義と翻訳しているようですが、吾輩はこれを黷武主義と翻訳したいと思います。

   力のあるところには権利が備わるという都合のいい前提にしたがって、神聖であるべき国際間の条約を無視し、名分の

  ない戦争を起こして他国を侵略することを図る、これが黷武主義です。これは、ぜひ打破すべきですが、兵を用いるか

  否かは、正義による尚武主義と全く天と地ほどの違いがあります。

   近頃の青年たちの間には、男らしい日本男児の気風を失って女々しい軟文学にふけり、似非芸術に溺れるものが

  少なくないと聞きます。このような気風がわが青年たちに広がり、尚武の気風が衰えれば国家の前途は誠に寒心に

  堪えないところであります。

   諸君は最高の学府の学生にして、天下数十万の青年たちの羨望するところであり、これらの模範となるべきものです。

   したがって、諸君の一挙一動は影響するところが少なくないのですから、よろしく尚武の気風を養い、柔弱な青年の

  惰眠を撃破して、国家を擁護する任に当たることを心掛けるべきであります。


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   今年3月21日、長崎会津会顧問で山川健次郎のひ孫である木下健東京大学名誉教授は同会会員の自宅で行わ

  れた講演で、山川健次郎は国家主義の人であったが、軍部の国家主義とは別物だった、マルクス経済学者の大内

  兵衛は山川健次郎を帝国主義者と言っていたが、尚武や防衛を説いても、侵略を奨めたことはなかった、と述べられ

  ました。このことは、ここに紹介した講演からもうかがい知ることができると思います。 

  

  


 更新情報

28.令和2年 5月31日  「池上四郎」の項をアップしました。 

27.令和元年12月30日 「長崎の上水道布設に関する当時の新聞記事」をアップしました。

26.平成31年 3月2日  「小野木源次郎」の項をアップしました。

25.平成31年 2月16日  「高嶺秀四郎」の項をアップしました。

24.平成30年10月 8日  「神保巌之助」の項に神保巌之助の名が登場する
              当時の鎮西日報の記事を掲載しました。

23.平成30年 9月22日  「神保巌之助」の項をアップしました。

22.平成30年 9月22日  「池上三郎」の項をアップしました。

21.平成29年 7月 2日  「管理人より」アーカイブスの目次を作成しました。




            
   
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