19.小野木源次郎
明治25年10月16日付鎮西日報に小野木源次郎梅香崎警察署長が福島県の二つの郡の郡長になったことが記載されている。
【明治25年10月16日付鎮西日報】
〇小野木警部
(同日午後7時15分東京特発)
長崎本縣警部小野木源次郎氏は福島縣行方宇多郡長に任せられたり
【明治25年10月16日付鎮西日報】
〇小野木警部の栄転
現福島縣知事日下義雄氏かつて長崎縣に知事たるに当たり、新に任に就きし下僚少なからず。即ち書記官に中村治郎氏、
本山正久氏、警部長に吉田弘蔵氏、縣立学校長に猪飼麻次郎氏、室原重福氏、縣属依田昌吉、小林軍雄、阿部貞利、嘉村
今、朝吉三氏、警部小野木源次郎氏、成田喜雄氏等あり。而してこのうち一、二を除けば他は実に知事一己の抜擢に係りし
者なりと雖も、その人物の多数は何れも若手にして且つその職に殆当 各敏俊の聞こえありたり。而して日下氏非職を
命せらるるの前後に於いて以上諸氏亦漸次に本縣を去るに至り、判任の今尚残れる者僅かに小野木警部等あるのみ。
同警部の長崎縣に来たりしは実に十八年三月の頃にして、爾来勤続八年に及び今や佐賀縣出身大いに幅を利かすの時代に
逢い尚残留せりと雖も、氏の技量更に益顕赫にして今日の警吏中氏の席次当に第一に在るのみならず、その敏腕亦これに
適うと称せらる。
故に久しく本縣各警察署中の最難所たる梅香崎に署長と為り、その地位を改むるに至らず、今春本縣警務課長の欠員あるに
及び氏これに命せられたりと雖も、梅香崎警察署長の地位は尚ほ旧に依て兼務せり。然れども氏をして警察署長たるに了ら
しむるは惜しむ可しと為し、密かにその栄転に付いて周旋するものありしを以てその後氏が上京せし時に偶々転任の風説あり
たるも、忽ちにして立ち消えと為りたりしが、一昨夜本社に達せし電報によれば、氏は端なくも福島縣行方宇多二郡長に栄転
するに至れり。(電文には島根とありしも同縣に行方宇多の郡なし。蓋し福島を島根と誤りしものか)
これについて、或いは説を為すものあり。曰く、目下本縣内ことに警察部内は佐賀出身又はその流れを酌むものに非ずんば
殆んど勢力なきを以て氏は十分にその腕前を顕わすの余地無きを恨み、而してその豪骨又時に警部長をして自在に駕御するを
得ざらしめ、双方相適わざるの結果遂にこの分離を見るに至れるものならんかと。
然れども、氏は漫に反抗を好むの人に非ず。されば徒に恨みを含む可くもあらず。又眞崎氏はつとに警部長中の老練家を
以て称せられたるもの焉んぞ一警部を駕御するに困む可きにあらず。
然らば即ち今日の栄転は復た福島縣知事日下義雄氏が氏の豪骨敏腕を有しながら、十年一位なるを惜しみ、これが為に周旋し
遂に栄転を見るに至りしには非ざる乎。而して福島は氏の故郷なり。氏の始めて郷を出て官を東京に求むるや僅かに警視庁の
巡査たるを得たりと云う。爾来転々栄進し郡長として久し振りに郷里に還る。氏が父老に示す可き錦衣は敢えて不足あること
無けん。吾輩は乃ち氏の為めに深く賀すると共に、本縣の為めに良警官を失うたるを惜しむの情に耐えざるなり。
附記す。氏が本縣警部たるの間の功績少なからず。近くは大北電信会社火災の際負傷をも顧みず救助に尽力し、居留外人に
我義侠を示したるが如き亦その一なる可し。然れども、これらは一小事のみ。その殊勲は七年前清兵暴動の際に在り。乃ち当日
北洋水師の水兵上陸で大浦居留地より廣馬場を経て山の口に至る間に乱暴狼藉を極むるや、長崎警察署は巡査をしてこれを
思案橋に拒かしめたるも、敢えてその東部を救う能はず。而して、居留地若干の警部巡査は鎮圧するの力及ばざるを以て氏は
吶喊声裡に意を静かにし、梅香崎署内の巡査を尽く繰り出し、鎮撫に従事せしめ、独り署を護れり。
然るに忽ちにして清兵数百署前に屯集し、暴言乱行を極め将に署内に闖入せんとせしより、氏は乃ち帯剣を抜き一人にして
門を扼し以てその体面を全うするを得たり。この事当時の鎮西日報に詳記し又各地の新聞紙に転載せられたれば、今尚ほ、記憶
するものある可しと雖も、更に記して氏が技量の虚称ならざる一証と為す。
昭和51年(1976年)に発行された『長崎県警察史』上巻に、清国水兵暴動事件についての記述があるが、その中に小野木源次郎梅香崎
警察署長が書いた報告書が掲載されているので、その全文を次のとおり紹介する。
〇 小野木源次郎梅香崎警察署長の報告
一、八月十五日長崎に上陸したる清国水兵は、四百五・六十人にして概ね午後一時前後外国人居留地の第三号乃至第八号
波止場から上陸せり。
一、長崎区(市)広馬場町清国人割烹店は、恩福楼・宝和楼・恒福楼・文圃の四戸にして水兵暴挙の際群集して居たるは、
恩福楼と宝和楼なり。
一、清国水兵暴行前水兵より侮辱をうけたる警官は三名、暴行の際侮辱を受けたるは福本富三郎(即死者)なり。(すでに
昼間から侮辱の行為あり)
一、清国水兵の侮辱は、警官に突き当たりたる四度、西洋小刀を持つて突き抉る形容を為したる三度、手棒を奪わんと
したる二度なり。
一、清国水兵の群衆が、しばしば警官を侮辱するを以て広馬場町立番巡査二名を増加したるは、午後七時四十分なり(それから
立番巡査は三名となる)。
一、清国水兵暴挙に付鎮撫のため上司の指揮を待たざるうち直に出張したる警官六名、上司の指揮に従ひ出張したるもの
九名(うち水上派出所から四名)その後広馬場町に出張したるもの十二名、水兵暴挙の際(梅香崎署の襲撃を指す)出張
したるもの十二名なり、ほかに雇外人(通訳)一名都合四十名なり。(清国水兵ら四百五・六十名に対し梅香崎署員四十名、
長崎署員中五・六名が警戒にあたったに過ぎない)
一、広馬場町に於て防禦したため死亡したる警察官一名同負傷者十六名、その他の場所にて負傷せる警察官二名なり。
(これは梅香崎署員 ―長崎署の死亡一名負傷者三名を除く― の死亡者だが、大部分は広馬場の水兵の暴挙鎮撫中)
死傷者を出し、その後の負傷者は僅かに二名に過ぎないことがわかる。
一、清国水兵の梅香崎署の襲撃は、東の方より三回、西の方より一回にして東より来たる三回は、一回の人員凡そ五・六十名
づつ署の隣端空地前まで襲ひ来り、西より来たる一回は人員凡そ十四・五名にて署より十八・九間を隔りたる郵便局裏道路
まで襲ひ来たる。(清国士官の指揮せりを認めたり)
一、清国水兵中暴行者を取押へたるは広馬場町にて二名梅香崎町にて三名、新地橋上にて二名、新地町にて一名、いづれも
刀傷を受け二名は重傷、他は軽傷なり。
一、署長の指揮による帯剣したる警官は九名にして予て帯剣し得るもの十名、そのうち防禦の際抜刀したる警官は十一名なり。
一、水兵暴行のため負傷したる人民(長崎人)は十四名なり。
一、清国水兵より奪ひ取られたる警察官の携帯品中手棒帽子など若干、奪ひ取られたる見込みのもの帽子一個佩剣の鞘二本
のほか若干なり。
一、清国水兵から差押へたる物品は、日本刀一振、竹鞘一本(仕込刀の鞘)定遠名の水兵帽三個、済遠名の水兵帽三個、
威遠名の水兵帽五個、黒帽一個、棒片二本のほか帯などあり。
一、水兵暴挙の際港内の通船を止めたるは、外国人居留地第一号波止場より第八号波止場迄にして其の時間は午後八時五十
分から同十一時ごろまでなり。
一、水兵暴挙に際し、清国理事府(領事館)へ通知せしこと三回、初め属員の出張を求めたるは午後八時二十分ごろにして、
属員が出張したるは同八時三・四十分ごろなり、出張の属員は二名にしてうち一名は、梅香崎町にて遁走し、他の一名は
広馬場町にて遁走しついに水兵の暴行を制止せず。
一、清国水兵の暴挙は午後八時二十分ごろにして全く鎮定したるは翌十六日午前一時ごろなり。
一、負傷の警察官と、取押へたる負傷の清国水兵は、直に応急手当を加えたのち検視し、翌十六日午前三時ごろ先づ負傷の
清国水兵を長崎病院に収容し、つづいて負傷の警察官を同病院に収容せり。
広馬場町は昭和41年(1966年)に本篭町や船大工町の西半分と合併され、篭町という町名に変わっている。
なお、小野木源次郎が管内を巡視していることが次のとおり掲載されている。
【明治22年11月20日付鎮西日報】
〇小野木署長
所轄内巡視中の梅香崎警察署長警部小野木源次郎氏の一行は昨十九日高島を経て、福田村を巡視し本日帰署の予定なり。
参考文献
『長崎県警察史』上巻 編集 長崎県警察史編集委員会 発行 長崎県警察本部 昭和51年
『長崎市の地名』 ウィキペディア