18.高嶺秀四郎
旧会津藩士・高嶺忠亮(ただすけ)を父に持つ会津若松出身の高嶺秀四郎は、日下義雄が長崎県知事として在職していた時、
長崎県立の長崎獣医学校で教諭(獣医学士)として勤務していた。
高嶺秀四郎は、農学に関する日本初の総合教育・研究機関である駒場農学校の獣医科を卒業している。同級生に幕末、
会津藩の京都守護職時代に公用方をしていた広沢安任の養子・広沢弁二(農商務官僚・政治家)がいる。
駒場農学校は当初は内務省に所属していたが、明治14年(1881)に農商務省が設立されると、農商務省の所属になった。
駒場農学校は東京大学農学部や東京農工大学農学部などの前身にあたる。
高嶺秀四郎は、明治20年代前半から後半にかけての鎮西日報に時々名前が登場している。特に明治26年は長崎市で狂犬病
が横行し、人や牛馬等が狂犬に咬まれて死んだり病気になったりして多数の被害が発生していた。このため、高嶺秀四郎等が狂犬病
に関して調査研究を行っている様子が鎮西日報に掲載されている。また、明治22年には長崎獣医学校の第二代校長になっている。
以下に当時の鎮西日報記事をいくつか掲載する。
●獣医の集会 (明治22年12月11日付鎮西日報)
長崎獣医学校の本年夏卒業生徒十名の内二名は会社へ聘せられ、八名はその居村にありて開業し、
縣内の牧畜に関する衛生、改良等に熱心し居るよしなるが、同校長獣医学士高嶺秀四郎氏は一己人の
資格を以て右十名の卒業生徒及び在校の教諭諸氏と謀り、来る十五日を以て本港に来集し、同時に
忘年懇親会を開き、その際学術経験上得たる材料を交換し、且つ牧畜改良の機関として獣医会なるものを
設立するの計画をなし、全縣下有志の賛成を受ける心組みなるやに聞けり。
●長崎獣医学校卒業証書授与式 (明治25年7月26日付鎮西日報)
同校は昨日第四回卒業証書授与式を行ふ。式場は教堂に之を設け同場及び門頭に国旗を交叉し、
午前九時職員生徒入場。ついで来賓着席。高嶺校長勅語を奉読し了りて卒業証書を授与し、祝辞を述べ、
卒業生総代宗像市太郎氏答辞を朗読す。
次に知事代理中村書記官の演説ありて十時三十分閉式せり。来賓は本縣高等官及び常置委員、
縣立公立学校長、新聞記者等にして今回の卒業人名(十二人)は左の如し。
大分縣 堀 今朝雄 鹿児島懸 宗像市太郎
対馬 財部 啓太郎 西彼杵郡 深江雄二郎
北高来郡 吉賀 才三郎 佐賀縣 谷口 富吉
東彼杵郡 橋口 文市 熊本縣 河原田 緝蔵
鹿児島縣 向井 栄次 東彼杵郡 中尾 祐作
南高来郡 城臺 好治 南高来郡 桑島 沖松
●狂犬の脳漿を兎に試植す (明治26年4月25日付鎮西日報)
別項所掲の如く再昨廿二日長崎獣医学校に於て解剖せし狂犬は人を咬傷するに至らざりしも、高嶺
獣医学士の診断により狂犬と認定して解剖せしに、果して相違なかりしかば高嶺氏は中濱博士等と
共に狂犬の脳漿を取りて之を数頭の兎に試植せり。
元来狂犬病は一個のバチルスに起因するものにて、其の豫防として脳漿を兎又は猿に試植し、其感染を
まって痘苗の如く之を人身に接種することは、恐水病専門家たる仏国の大医 パストー氏が多年同国政府の
保護により充分の研究を遂げて最良の結果を得たるを以て、既に英、米、伊、魯各国にも流行し、独り独逸
のみ未だ之を実行せざるも着々効験ありたることなれば、此の際十分の経験をなさんため右の如く脳漿を
試植したるなりと云へり。尤も右は試植後凡そ二週間を経ざれば充分の効を奏せざる由にて、夫れ迄は
栗本医学士、高嶺獣医学士の二氏担当して之を研究する筈なりとぞ。
●狂犬解剖 (明治26年4月25日付鎮西日報)
豫て狂犬病に関して取調中なりし中濱医学博士は高嶺獣医学士と共に去る廿二日市内紺屋町某方の狂犬を
長崎医学校内にて解剖し、病理其他に関して詳密なる取調をなしたり。
●高嶺技師 (明治29年4月25日付鎮西日報)
本縣技師高嶺秀四郎氏は一昨日の明石丸にて神戸に向け上京の途に上りたり。
長崎獣医学校の沿革は、次のとおりである。
〇長崎獣医師学校の沿革
・明治 9年 6月20日 長崎病院医学場が開場
・明治10年12月10日 長崎医学校に名称を変更(県立)
・明治14年 7月 5日 長崎医学校に獣医学部を設置
・明治21年 3月31日 長崎医学校を廃止 (第五高等中学校医学部となる)
・ 〃 長崎獣医学校を長崎商業学校内に設置(県立)
校長に長崎医学校の深見次郎教諭を任命
・明治21年 7月31日 長崎獣医学校第1回卒業証書授与式を長崎縣尋常中学校(現在の長崎歴史文化博物館敷地内)
体操場にて執行
・明治27年 7月31日 長崎獣医学校を廃止
ところで、長崎獣医学校があった場所であるが、明治21年に設置された当時は県立長崎商業学校内に設置されていたが、当時県立
長崎商業学校は興善町にあった。翌明治22年7月に県立長崎商業学校は伊良林に新築、移転した(明治34年5月に長崎市に
移管されて「長崎市立長崎商業学校」と改称)。長崎商業学校は校舎が移転しても、長崎獣医学校はそのまま興善町に学校が廃止される
まであったと思われる。
なお、昭和3年に発行された中村孝也著 『日下義雄傳』 には、日下長崎県知事と一緒に写った高嶺秀四郎の母親の写真が掲載されて
います。息子に会いに長崎をしばしば 訪問したそうであるが、その時に撮影されたものだそうであうる。
高嶺秀四郎の兄・高嶺秀夫は日下義雄の親友だったそうである。幕末には第九代会津藩主松平容保の小姓になり、明治維新後は文部省
に入り、アメリカに留学している。帰国後は教育者として活躍し、東京師範学校校長、東京美術学校校長、東京音楽学校校長、東京女子
師範学校校長などを歴任した。
参考文献
『長崎市制六十五年史 (前編) 』 長崎市役所編さん・発行 昭和31年
『長崎医学百年史』 長崎大学医学部編集・発行 昭和36年
ウィキペディア 『駒場農学校』
ウィキペディア 『高嶺秀夫』
ウィキペディア 『広沢弁二』
ウィキペディア 『長崎市立長崎商業高等学校』