17. 神保巌之助




     神保巌之助はペリー来航の前年である嘉永5年(1852年)5月18日に生まれた。同じ年に生まれた者として、明治天皇、

    児玉源太郎、山本権兵衛らがいる。また、この年、ストウー婦人が「アンクルトムの小屋」を出版している。亡くなったのは、

    大正14年(1925年)5月21日で73歳の時だった。この年3月に孫文も亡くなっている。

     巌之助の長兄は幕末に長崎を訪れた会津藩軍事奉行添役の神保修理で、平成25年のNHK大河ドラマ『八重の桜』では、

    斎藤工が演じている。神保巌之助の妻は幾ヱと言い、長崎県西彼杵郡戸町村(現長崎市)出身である。

    巌之助と幾ヱとの間に4男2女がいて、四男孝之が柔道家・西郷四郎の養子になっている。

     神保巌之助は明治3年に小倉藩の後身である豊津藩(小笠原家)の藩校育徳館に留学した旧会津藩士の子弟7人のうちの一人で、

    7人のうちでは最年長者でだった。翌年5月1日、7人のうちの郡長正(父親は萱野権兵衛)が切腹した際には巌之助が介錯を

    している。巌之助はこの時満18歳だった。


     さて、神保巌之助は実兄の北原雅長が長崎市長在任中の明治25年4月7日に行われた上長崎村長選挙に当選している。

    そのことが次のとおり鎮西日報に掲載されている。なお、当選した時の年齢は満39歳だった。

 
     [鎮西日報 明治25年4月9日付]

        ●上長崎村長   は一昨夜の同村会にて選挙せしに、神保巌之助氏十三票、中島藤十郎氏五票にて

         神保氏当選せり。神保氏は北原氏の弟なり。兄市長たり弟村長たり。亦以て一門の栄と為すべし。」



     当時の上長崎村の行政区域は現在全て長崎市に編入されているが、当時の上長崎村は次のとおり10郷があった。


        船津郷(現在の西坂町)、岩原郷(現在の立山1丁目-5丁目)、西山郷、木場郷、片淵郷、夫婦川郷、

        馬場郷(現在の桜馬場1丁目-2丁目)、中川郷、本河内郷、伊良林郷



     北原雅長は上長崎村の中川郷に住んでいたが、中川郷は現在は中川1丁目~2丁目、鳴滝1丁目~3丁目となっている。

    なお、『神保修理の事』と題する明治35年4月5日付けの東洋日の出新聞には、次のとおり誤りではないかと思われるものが

    記載されている。


     「この修理なる人は、先年当長崎の市長たりし北原雅長氏や、又大浦戸町上長崎村辺の村長たりし神保巌之助氏等の実兄なれば、

      之を長崎の人々に紹介するも敢えて因縁なき業に非らざるべしと思へば余白に収めつ。」



     「大浦戸町上長崎村辺」という表現になっているが、「大浦、戸町辺りか上長崎村辺り」という意味だろうと思われ、この記事を

       書いた記者は神保巌之助がどこに住んでいたのかはっきりとは知っていない。

     上長崎村は一部が明治31年(1898年)に長崎市に編入され、残る全域が長崎市に編入されたのは大正9年(1920年)である。

    なお、当時の地方自治制では市長の任期が6年であるのに対し、町長や村長は4年であった。

    また、町村長は町村会が町村公民中から選出し、知事の認可を受けて決定されていた。したがって、明治25年4月7日に

    上長崎村長に当選した神保巌之助は明治29年の4月途中まで上長崎村長をしていたと思われる。


     その後いつ長崎を離れたかは不明である。当時の鎮西日報を調べたが、長崎を離れたことは掲載されていなかった。

    巌之助の四男孝之が明治33年9月17日に生まれ、その直後の11月20日に西郷四郎が「福島県若松市鳥居町無番地

    戸主神保巌之助四男」の孝之を養子として入籍したことが「史伝 西郷四郎」に掲載されており、遅くとも明治33年には

    郷里の会津若松に帰っていたかもしれない。あるいは、単に戸籍の住所がそこになっていただけかもしれない。

     「史伝 西郷四郎」には、「巌之助一家は、後、長崎を離れて、栃木県の西那須の日下農場を経て晩年は郷里会津若松に戻り」と

    記載されている。


      以下に、神保巌之助の名が登場する鎮西日報の記事を掲載する。

  
       [鎮西日報 明治28年12月17日付]

        ●上長崎村の開校式と凱旋祝

           豫報の如く一昨十五日午前十時より今回新築の岡村小学校に於て挙行せり。

        校は高燥平旦の地にありて連山其後を擁し、清鮮の気超俗の風自ら生徒を教養するの資たり。

         校門に交叉せられたる旭旗は清風に翻り竿頭より四方に垂れたる数十の国旗及び軍旗球燈は

        天日に映じて更に一層の雄姿を発輝せり。

         来賓には江幡司令官、原田郡長、武部師範学校長、飯島副官、荒木縣属、明石監視区長、金子浦上署長、

        両新聞社員、軍人数十人及び会員三百五十余人なりし。尤も当市長も来賓の筈なりしも疾病の為め不参

        なりしと。生徒は庭前の運動場に集りて愉快気なる心は其挙動に顕れて大呼するものあり、疾駆するもの

        あり、談誘するものあり、応答するものあり。また其中の或る者は軍人の胸間に貴婦人会の寄送に係る

        磁石の煌々たるを見、兵隊さん達は大将さん(司令官を指して)も持たない勲章を持てり。きっと金鵄

        勲章ならむなど太と珍しげに囁嚅せる状実に無邪気にして可愛し。

        生徒の着席するや村長は来賓を式場に導けり。場の正面には両陛下の聖影を安置し奉りて、其下に 

        卓を設けて老梅数十枝を挿めり。生徒を中央に起立して来賓は左側に軍人は右側に着す。

         一同最敬礼。校長、神保氏恭しく開扉し奉り、次に君が代の唱歌を奏し、次に校長勅語を奉読し、

        次に村長の祝詞あり、校長の祝詞あり、女教師の祝詞あり、生徒総代の祝詞あり。来賓江幡氏小学教育の

        必要を述べ、原田氏祝賀の辞と共に聊か学生に揶示せらるる所あり。武部、飯島、明石等の祝辞あり。

         村長此にて開校式を終りて凱旋式を挙ぐる旨を告げ、唱歌(君が代)、次に村長祝詞、次に江幡氏

        帰郷軍人に告ぐるの辞、及び数氏の演舌あり。次に凱旋軍歌を奏して退場、宴席に就く。杯酒献酬の間

        校運の隆盛を祈るものあり、旅順の雄挙を説くものあり、賀するものあり賀せらるるもの和気靄然。

        生徒等が東奔西走愉快に餘々万歳の声を耳にしながら退場したるは午後二時過ぎなりし。




       [鎮西日報 明治29年2月11日付]

        ●上長崎尋常小学校の幻燈会
 
           去る八日午後七時より上長崎尋常小学校に於て教育幻燈会を開けり。観客数百忽ちにして満場に溢れ
 
           立錐の地なく、後れて至る者は寒気を忍んで戸外より傍聴するの止むを得ざるに至れり。
 
            神保同村長は開会の辞を述べ、引き続き校員幻燈を使用し懇々教育の必要を縷述せしに、大いに
 
           生徒父兄の感情を惹起し満場為に静粛となり、無邪気の子供等は眠り気を催したるを以て変るに忠勇
 
           武烈なる日清戦争書、外国地理及び風俗書を映して欠伸の神を追ひ払へば、拍手喝采の声殆んど隣家の
 
           安眠を破れり。無事閉会したるは同十時三十分頃なり。因みに曰ふ。本校は昨夏新築以来日に月に
 
           就学の数を増加し、昨二十八年度の初期に比すれば末期は二倍強に及べり。且つ此度本縣有志教育会
 
           より借り受けたる幻燈使用の効果は生徒就学上少なからざる影響を見るならん。縣下の幻燈なき各学校
 
           に於て之を使用せんとせば、同教育会は喜びて貸与する由なり。左れば他の学校に於ても幻燈を借りて
 
           幻燈会を催ふさば教育上大いに益する所あるべし。




           幻燈とは、スライドに描かれた画像や写真をライトとレンズによって拡大してスクリーンに投影するものだそうで、

          明治期に登場して教育の場で利用されたものだそうです。


          なお、当時の上長崎村立上長崎尋常小学校は、現在の長崎市立上長崎小学校であり、所在地は長崎市下西山町9番1号です。

          明治29年当時は、片淵町3丁目56-58番地にありました。




        参考文献    牧野登著 『史伝 西郷四郎』  島津書房  1983年 


                佐藤 知条 『幻燈利用における教育的な状況に関する一検討 

                      ― 動物を描いたスライドの分析から ― 』  湘北紀要 第33号 2012年 


                ウィキペディア 『長崎市立上長崎小学校』 



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