管理人より
令和2年12月
長崎監獄と池上四郎
秋篠宮妃紀子さまの曽祖父に当たられる池上四郎は、明治20年10月31日付で京都府警部兼下京警察署長から
長崎県監獄課長兼長崎県典獄に任ぜられました。典獄とは今でいう刑務所長です。当時、長崎県庁の監獄課と長崎
監獄は長崎区の新大工町にありました。下の写真が長崎監獄の写真です。撮影者は坂本龍馬の写真を撮ったことも
ある上野彦馬です。
『長崎市史年表』(昭和56年 長崎市役所発行)の明治14年(1881)9月の項に、「桜町の監獄が狭くなったため、片淵
郷の乃武館(だいぶかん)跡に監獄を新築して未決監を収容する(翌年桜町の監獄をここに移す)」と記載されています。
乃武館は、上記年表によると、慶応3年(1867)8月21日に長崎奉行が市中警備のため総員359人から成る遊撃隊を
組織して長崎奉行直属の親衛隊とし、海援隊に対抗したそうです。その屯所(詰所)が乃武館と呼ばれる建物でした。
翌慶応4年閏4月19日、九州鎮撫使の沢宣嘉は遊撃隊を振遠隊と改称し、軍事と警察を兼任させました。
上記の写真は、『写真集 明治大正昭和 長崎』(国書刊行会 昭和54年発行)に掲載されているものですが、「片淵官軍
病院」として紹介されています。そして、「明治10年西南の役の時、長崎には官軍の本部がおかれていたので、戦傷者を
収容する病院が現在の片淵町につくられた。」と記載されています。この写真は、国立公文書館が『長崎師団仮病院写真』
として紹介しているものと同じであり、国立公文書館の記述を踏襲して、「片淵官軍病院」と紹介されたものと思われます。
しかし、『長崎市史年表』では、官軍病院は、片淵郷の畑地に建てたと記載されています。次のとおりです。
「1877(明治10)
3.29 第1分遣長崎軍団病院を大音寺に置く。(以後、市内の18寺院、83戸の民家に軍団病院病舎が置かれ
た。)
※ 西郷軍との戦いで、官軍にも多くの傷病者が出たが、その収容も長崎が引き受けた。激戦当時、長崎
に送られてくる傷病者は日に数百人、病舎に収容しきれず、片淵郷の畑地に掛小屋を建てて仮病舎
に当てたほどで、患者を運ぶ担架も足りず、モッコで運ぶ騒ぎだった。 」
「掛小屋」とは臨時にこしらえた興業用などの小屋を言うそうですが、上記の写真が果たして「小屋」に見えるでしょうか。
私にはしっかりと建設された建物のように見えます。屋根は瓦葺きのようにも見えなくもないですね。
高橋信一元慶應義塾大學准教授は、著書『古写真研究こぼれ話 二』の中で、写真に写る片淵の大きな施設を「軍団仮
病院」と説明されているが、昭和15年に完成した長崎監獄の間違いであり、明治25年以前に上野彦馬が撮影した写真
であると述べておられます。
会津出身の池上四郎は、明治20年11月から23年2月まで長崎監獄の典獄兼長崎県監獄課長として勤務しました。
長崎県庁の監獄課は長崎監獄のあった新大工町内にあったので、長崎監獄の敷地内の建物のうちの一つにあったと思
われます。明治22年5月末現在の長崎県内各監獄の在監人数は合計881人(鎮西日報明治22年6月12日記事)で、池
上四郎が勤務していた長崎監獄には、542人が入監されていました(鎮西日報明治22年10月3日記事)。
長崎監獄は長崎県内で最大の監獄でした。明治41月4月、長崎監獄は諫早に移転し、国内五大監獄の一つとして開設
され、大正11年10月長崎刑務所に改称されました。 明治32年に監獄の管轄が内務省から司法省へ移管したことに
より、監獄の運営は長崎県から国へと移管しました。
令和2年11月
秋篠宮妃紀子さまの祖父について
11月8日に、秋篠宮さまが皇位継承順位1位になられたことを広く示す立皇嗣の礼が開催されます。次の天皇は
秋篠宮さまがなられるわけです。ここで、秋篠宮皇嗣妃殿下紀子さまの祖父、故川嶋孝彦氏に関する当時の長崎日日
新聞記事をご紹介します。川嶋孝彦氏は昭和2年6月に茨木県警察部保安課長から長崎県の地方事務官として異動
しました。長崎県庁で内務商工課長兼水産課長として勤務していましたが、昭和3年7月10日に異動が発表され、
広島県警察部特別高等警察課長を任じられました。特別高等警察課は特高と言われ、思想取締を行う部署であり、
当時新設されたばかりでした。7月11日付け朝刊の第1面に異動の記事、7月12日付け夕刊第1面にインタビュー
記事が掲載されています。
【昭和3年7月11日付け長崎日日新聞朝刊第1面】
地方事務官異動
長崎県4名を発表
今回新設された思想取締特高課長並びにこれに伴う地方事務官の異動は10日、左の如く発表された。
(関係の分)
長崎県地方事務官
川 嶋 孝 彦
任地方警視(6等)命広島県警察部勤務
【昭和3年7月12日付け長崎日日新聞夕刊第1面】
茨城県の保安課長から地方事務官となって本県に来たのが昨年6月。商工水産課長たることまさに1年。又も
警視に逆戻りで広島県の警察部に転じた新設の特高課長に内定している。
「意外でした。警察部の移動は想像して居ったが、吾々に波及するとは全く思ひませんでした。然し命に依って
動かされたら何処でも行かねばなりません。本県在住僅かに1年で、殊に産業の太宗たる水産方面に携わった
ことは非常に経験で、仕事はこれからと思ったのに、今動くのは非常に残念です。栄転など言はれると気が引ける
様ですが、広島県は初めての土地です。但し郷里和歌山とは幾分近くなるので、夫れだけは気安いです。
もっとも角サーベルが私には縁がある訳でしょうから、昔とったきねつかで大いにやりましょう。」
と元気であったが、川島氏は去る6月末に当年2歳の坊ちゃんを亡くされ、家庭では尚その後事に多忙を極めて
居る際で、気の毒である。
家族で長崎に赴任し、その長崎で可愛い息子を亡くしたとは、本当に気の毒なことでした。川嶋孝彦の妻は、会津藩
出身で長崎県の監獄課長をしたことのある元大阪市長池上四郎の六女、紀子(いとこ)でした。
明治天皇の祖母は元平戸藩主松浦清(静山)の11女 中山愛子であり、長崎県は本当に皇室とご縁がありますね。
令和2年10月
長崎から会津にもたらされた凧と南蛮菓子
会津地方の名物の中には、長崎に起源をもつと考えられているものが2つあります。それが会津唐人凧と、南蛮菓子の
かすてらあん会津葵です。この2つとも、会津藩内で生産された朝鮮人参を清国へ輸出して財を築いた長崎の会津藩御
用商人 足立仁十郎(1801~1881)が会津に仕事でやって来た時に、足立が長崎の唐人凧とカステラを持って来たのが起
源とも言われているようです。
足立仁十郎は20歳の時、大阪の薬種商「田屋辺」に奉公するようになり、文政9年(1826)から天保2年(1831)にかけて
人参指導のため会津を訪れました。この間、文政12年(1829)、田辺屋をのれん分けしてもらって、長崎で「田辺屋」を始め
ました。ですから、会津唐人凧は1829年以降に長崎から会津を訪れた足立仁十郎が長崎土産として持って来たと考えら
れています。
1.会津唐人凧
会津唐人凧の図柄は、「ベロくん出し」、「日の出波」、「武者絵」、「風神」、「火伏せの竜」など約20種類ある
そうです。戊辰戦争で籠城した際には、子どもたちが鶴ヶ城から唐人凧を上げて、将兵の士気を高めたそうです。
それにしても、ベロを出す図柄はとてもユニークですね。会津独自の図柄ではないでしょうか。
2.かすてらあん会津葵
会津葵は藩主である会津松平家の家紋であり、お菓子の押文様は藩公の文庫印「会津秘府」を写したものだそうです。
また、かすてらあんの原材料は、卵と小麦と牛乳だそうです。
かすてらあん会津葵は、あん入りカステラの創案が国から認められ、1962年に科学技術庁長官から創意工夫功労章
を受けています。
私も何年か前に、長崎市で歯科医をしている会津若松市出身の方から会津の土産として、かすてらあん会津葵をもらっ
て食べたことがあり、たいへん美味しかった記憶があります。
令和2年9月
長崎水道設置の経緯
来年令和三年(二〇二一年)は、明治二四年(一八九一年)に長崎に上水道が設置されてから一三〇年
となる記念の年です。今月は長崎に上水道を設置することになった発端について調べてみました。
まず、日下義雄長崎県知事が東京帝国大学助教授の吉村長策を長崎県技師に採用して水道工事の設計を
させたところ、事業費は三〇万円と見積もられました。そして、水道事業を運営するため会社を設立することに
したのですが、長崎では折からの経済不振で区民が苦しんでいるのに、さらに上水道建設で区民に莫大な
負担がかかるとして、区民から猛反対が起きてしまいました。結局、水道会社設立計画は断念され、代わりに
長崎区立で水道事業を行うことに変更されました。
ところで、この水道会社設立は商工会員の瓜生震が建議したことがきっかけで、長崎県と長崎区が賛同して
設立しようと動いたのでしょうか。それとも、長崎県と長崎区が水道設置を建議するよう瓜生震に働きかけたので
しょうか。長崎市役所が発行した『長崎市議会史 記述編 第一巻』では、このどちらの説も採用されています。
おそらく執筆者が別々だったのであろうと推測されます。
まず前説では、
「明治十八年(一八八五)、コレラの流行を契機に、長崎商工会は地域経済の将来への危機感を募らせ、
水道敷設の計画を発表した。これは、翌十九年に、長崎県(知事日下義雄)や長崎区(区長金井俊行)
の強い支持を受け、官民一体の事業計画として進められようとした。」(一ニ五貢)
次に後説では、
「明治十九年(一八八六)、日下知事は金井区長に防疫上から水道設置の急務を説き、知事と区長は
水道建設のための水道会社設立で意見の一致をみた。そこで意を受け、当時、三菱の炭礦部長であった
瓜生震は、水道会社設立の建議書を長崎商工会に提出した。」(九三貢)
日下義雄と瓜生震は以前から親しい仲だったのではないでしょうか。それは瓜生震が飼っていた犬を
日下義雄にあげたことからもわかります。日下義雄が長崎県知事を免職されて、長崎を去る時に鎮西
日報に次の記事が掲載されました。
【明治二三年一月九日付鎮西日報】
●駿犬旧主に帰す
日下元知事の所飼たりし駿犬は当港第一等と呼ばれたる巨犬なるが、日下氏当地出発の時に
同犬の旧養主たる瓜生震氏へ譲りたるよし。
この記事から推測して日下義雄と瓜生震は仲が良かったと思われます。そう言えば、日下も瓜生も共に明治4年
出発の岩倉使節団の一員でした。 欧米を一緒に旅行している間、知り合いになり、親しくなったかもしれません。
長崎に水道を設置しようと日下義雄と瓜生震は意気投合したかもしれません。
令和2年8月
「精霊船に関する諭告」
明治26年8月22日付けの鎮西日報に、「精霊船に関する諭告」と題する記事が掲載されています。当時の精霊船の
大きさがわかり、長崎の伝統行事に関するものなので、ここに紹介いたします。
【明治26年8月22日付け鎮西日報】
●精霊船に関する諭告
追々盆祭に近づきしに付き、北原市長は昨21日、一編の諭告を発したり。曰く、精霊船の帆檣間々五、六間以上に
達するものあり。電燈線に触れて不測の災害を生ずるの恐れなしとせず。
多人数群集の際は特に危険のことなれば、成るべく電線以下に短縮し、若し以上に及ぶものあらば、該線下を通過
する毎に必ず檣(ほばしら)を倒してその害なきを期すべしと、好注意と云うべし。
ここで、帆檣(はんしょう)とは、帆柱(マスト)のことであり、1間は約1.8mです。したがって、帆柱の高さが五、
六間というと、9m~11mとなりますので、船の長さもよほど長かったと思われます。
現在の長崎では、帆柱を立てた精霊船を見かけることはありませんので、いつの頃からか禁じられているみたいです。
長崎の明治時代の精霊船はどんな様子をしていたのでしょうか。帆柱がないだけで現在と変わらないのでしょうか。
写真があれば見たいものです。ちなみに、島根県の西ノ島町では海上で「精霊船流し」が行われているようです。
なお、明治時代の長崎は江戸時代と同様、お盆は旧暦の7月15日でした。明治26年の旧暦7月15日は新暦の8月26日
でした。
会津でも精霊流しがあるかどうか、インターネットで検索したら、あることはあるんですね。しかし、長崎の精霊流しと違い、
「灯籠流し」のことを会津では精霊流しと言っているようです。会津の人が長崎の精霊流しを見たら、さぞビックリすることで
しょうね。会津出身の長崎市長北原雅長も、長崎に来てビックリしたのではないでしょうか。
令和2年7月
会津人 只野藤五郎について(2)
今月も只野藤五郎についてです。彼は長崎県会議員と長崎市会議員をしていたことがわかりました。
1.長崎県会議員
第1回長崎県会議員選挙が明治12年1月に行われ、定数62名の県会議員が選出されました。長崎区は定数3人で、
松田源五郎、森寛平、斎藤三郎吉が当選しました。この当時の長崎県には現在の佐賀県域も含まれていました。
明治16年6月の太政官達により、同年7月1日に佐賀県が長崎県から分離独立したことにより、定数34名の
長崎県会議員選挙が行われました。長崎区の定数は3人で、斎藤三郎吉、只野藤五郎、森栄之が当選しました。
明治16年9月5日から10日まで臨時県会が、9月17日から10月16日まで通常県会が開かれました。
通常県会では、只野藤五郎の席次は5番でした。そして、通常県会最終日に半数の議員が抽籤で退任することに
なり、長崎区では只野藤五郎が退任となりました。
翌17年3月に県会議員定数が3名増えて37人となり、半数が退任したことによる後任選挙と、定数が3名
増員となったことによる増員選挙が3月中に行われました。後任選挙の部では、長崎区から只野藤五郎が選出され
ました。この時の只野藤五郎の族籍は、長崎区本石灰町43番地、平民として届けられています
只野藤五郎はいつまで長崎県会議員に就任していたかというと、明治23年2月に半数改選の選挙が行われた際、
只野は半数改選の対象にはなっていませんでした。次の半数改選の選挙が行われたのは明治25年10月ですが、
選挙後の通常県会の議員席次に只野藤五郎の名前は掲載されていません。したがって、只野藤五郎は明治25年
10月で県会議員を退任していることになります。
『長崎県議会史 第2巻』(昭和39年発行)に明治23年半数改選時の議員職業、地租納税額、生年月等が掲載
されており、只野藤五郎は次のとおり記載されています。
天保6年(1835)8月生まれ、地租納税額10・650円、商業、長崎市本石灰町43、平民
只野藤五郎は長崎県会議員に初当選した明治16年(1883)当時の年齢は48歳だったことがわかります。
2.長崎市会議員
只野藤五郎は、明治22年4月21日から23日に行われた第1回長崎市会議員選挙に当選しました。
人口5万以上10万未満の市は定員が36人とされていて、長崎市では36人の市会議員が誕生しました。(任期6年)
当時の選挙制度では、市会議員は立候補制度はとられず、選挙権を有する選挙民がその市の被選挙権のある者の
中から選挙することになっていました。しかも、三級選挙制といって、選挙人は納税額によって3つの等級に分けられ、
全選挙人の納める納税額の3分の1にあたる者は1級選挙人、次の3分の1に当たる者は2級選挙人、残りの者は3級と
され、それぞれの級の選挙人は定員の3分の1にあたる12名の市会議員を選挙しました。
したがって、数が最も少ない1級選挙民も12名、最も多い3級選挙民も12名を選挙するので、1票の格差は1級と
3級とでは約21倍もありました。
具体的に言うと、1級の12名は38票から30票で当選し、2級の12名は116票から104票で当選し、3級の
12名は675票から638票で当選しました。只野藤五郎は3級当選者であり、得票数は646票でした。
明治22年5月9日に第1回長崎市会が招集され、議長と議長代理者(副議長)の選挙の結果、只野藤五郎はは20票
を得て議長代理者に選出されました。ところが、就任1ヶ月余りたった6月13日の市会において、只野は「時事に感
ありて辞す」と書かれた辞表を提出し、議論があった末、只野の議長代理者辞任が認められました。只野がどうしてわずか
1ヶ月で辞任したのか興味が引かれます。只野は市の執行機関である市参事会の名誉職参事会員(6名)にも選出されま
したが、任期は4年なのにやはり1年で辞任しています。当時只野は長崎県会議員も兼務していて、多忙が原因だったの
かどうかわかりません。他に原因があったのかもしれません。
第1回長崎市会議員選挙では水道設置問題が最も大きな争点となりましたが、只野藤五郎は水道反対派の中心人物の
一人でした。彼は「崎陽共益会」という会を組織し、その幹事となり、水道反対派の多い町々を組織して、「同盟会」と呼ば
れるグループを作りました。そして、水道賛成派の町々からなる「連合町」と激しく対立しました。
国内3番目となる水道が長崎市に明治24年3月完成しましたが、両派の対立はその後も続き、明治26年に知事と市長
の仲裁でやっと和解するに至っています。
参考文献
『長崎県議会史 第1巻』 昭和38年3月31日 長崎県議会発行
『長崎県議会史 第2巻』 昭和39年3月31日 長崎県議会発行
『長崎市議会史 第1巻』 平成7年3月 長崎市議会編集発行
『長崎市制六十五年史 前編』 昭和31年3月31日 長崎市役所総務部調査統計課編さん発行
令和2年6月
会津人 只野藤五郎について
只野藤五郎は、長崎で活躍した商工業者であり、会津出身者です。ただ、どんな事業を行っていたかは今のところ私には
わかりません。
長崎商法会議所が明治12年10月1日、現在の十八銀行所在地において創立されました。会頭に松田源五郎、副会頭に青
木休七郎が就任しました。そして明治16年12月、長崎商法会議所の組織を変更して長崎商工会が桜町に設立されました。
会頭には長崎商法会議所に引続き松田源五郎が就任しましたが、副会頭に就任したのが只野藤五郎です。副会頭に選
任されるくらいだったので、只野藤五郎は長崎の財界でかなり有力な人物だったことが推測されます。
明治19年10月1日に開催された長崎商工会の委員会において、会員の瓜生震は長崎区内の水道改良の計画を商工会
に建議しました。その後、総会に掛けられて承認されたので、長崎商工会の副会頭 只野藤五郎の名で長崎県知事日下
義雄あてに長崎水道会社設立の請願書が提出されています。
このことが当時長崎で発行されていた鎮西日報に掲載されていますので、紹介します。
【明治19年11月9日付け鎮西日報】
●水道会社設立請願書
長崎商工会が会員瓜生震氏の建議により長崎水道会社設立を長崎県知事に請願すべきことに議決したる次第は、
過日の紙上に掲げしが、その節副会頭只野氏の提出にて可決せし請願書案は左の如し。
水道会社設立請願書
謹んで請願す。這般本会会員瓜生震より本区に水道会社設立に係る建議を呈出せしにより、本会は本月
一日これを臨時委員会に附せしに、その事業の盛かつ大なるをもって到底総会の審議に附すべきものと査定せしをもっ
て、爾後総会開会の準備をなし、同月二十五日臨時総会を開きしに、本会に於てはつらつら考えるに、本区昨夏及び当
夏二度の悪疫流行し、その勢い頗る猖獗にして悲愁惨怛の態を現出せしも、その筋において検疫
その当を得ると、莫大の官民費とをもってこれが防御とこれが消滅とに汲々せられたるをもって、目下よう
やく愁眉を開くの秋に達せりといえども、伏してこれは斯くこの年悪疫流行に際しそれがため当港に被る損害は、実に数
十百万円に達すべし。 社会の不幸これより大なるはなし。かつこの年悪疫発生の原因は種々これありといえども、飲料
水の不潔に因するをもって最も多しとするの説は、 当時精覈なる調査上の与論たるは断乎として疑うべき
に非ず。しかるに当区の倉田水及び井水たる試験上、上等に属するもの十中一、二に過ぎず、その他は下等あるいは
下等にして下等、最も多きに居る悪疫の流行する亦宜なるかな。 故に本会は、該建議をもって目下必須の事業なりと満
場の賛成をもって、ここに本請願書を呈出するの評決を得たり然り。(以下は省略します。)
長崎商工会会頭代理
副会頭 只野藤五郎
月 日
長崎県知事 日下義雄 殿
【明治19年11月12日付け鎮西日報】
●水道会社設立請願の副伸
この程商工会副会頭只野藤五郎氏より金井区長へ提出されし長崎水道会社設立請願書は、昨日副伸書とも日下
知事へ進達されたるよし。
明治22年4月1日に市制が施行された際、長崎市の執行機関である長崎市参事会の会員に只野藤五郎が選任されました。
就任したのは明治22年6月から明治23年6月までの1年間でした。当時の市政は、執行機関である市参事会と決議機関
である市会をもってスタートしました。市参事会は、市長、助役、名誉職参事会員(6人)で構成され、名誉職参事会員は
市会議員または市民の中から市会において選挙されました。任期は4年で、2年ごとに半数が改選されました。只野藤五郎
は任期途中で辞職しています。
只野藤五郎がいつ長崎にやって来て、いつまで長崎にいたのか、どんな事業をしていたのか、いつどこで亡くなったのかに
ついては、今後研究していきたいと思います。只野藤五郎が会津出身ということがわかる資料として、次の鎮西日報記事を
最後に掲載しておきます。
【明治22年6月15日付け鎮西日報】
●長崎に人物なきか
長崎人士は従来他方人士のために押し倒さるの勢いありとは土着の人々が常に慨嘆する所にて、最初玉園会
発起の旨趣もここにありとか聞き及べるが、今度市制実施に付き選挙されたる重立ちし役員の多く他方人士なるぞ
不思議なれ。すなわち左にその原籍を掲ぐれば、
市長北原雅長(会津人)、助役和田要四郎(島原人)、参事会員毛利康之(長崎人)、同松本孝平(長崎人)、
同森敬之(元島原人)、同只野藤五郎(元会津人)、同林耕作(長州人)、同若杉峰之助(長崎人)、
市会議長家永芳彦(元佐賀人)、同代理者高橋保馬(島原人)
之について見るときは市長、助役、市会議長、同代理者なる重役はことごとく他方人士のために占められ、
唯市参事会員の半数だけが長崎人士の手に残りたる姿あり。(以下省略します。)
参考文献
『長崎市史年表』 昭和56年3月20日 長崎市役所発行
長崎商工会議所ホームページ 『長崎商工会議所の変遷』
令和2年5月
川嶋孝彦とその妻 紀子について
秋篠宮皇嗣妃殿下紀子様の祖父は和歌山出身の官僚で元内閣統計局長の川嶋孝彦であり、祖母は会津出身である元
大阪市長池上四郎の六女 紀子(大阪出身)ですが、この度、川嶋孝彦について書かれた論文がインターネットで見つかり
ましたので、この欄でその論文を引用させていただきたいと思います。その論文は、一橋大学経済研究所の佐藤正広教授
が平成29年(2017年)5月に書かれた「川島孝彦―人物像と統計―」です。総務省統計研究研修所が委嘱して書かれた
論文です。
川嶋孝彦は、明治30年(1897年)2月23日に和歌山県で生まれています。大正11年(1922年)11月に文官高等試験
行政科に合格し、翌12年(1923年)3月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業しています。
翌4月、三重県警部兼三重県属に任命されて警察畑を歩み始めます。大正14年(1925年)1月、茨木県警察部保安課長、
昭和3年(1928年)7月、広島県警察部特別高等課長、昭和4年9月、兵庫県警察部外事課長に任ぜられました。
この間、川嶋孝彦は茨木県警察部保安課長として在職中の大正15年(1926年)3月に29歳で、池上四郎の六女、池上
紀子と結婚しています。
そして、昭和2年(1927年)年6月から3年7月初めまで約1年間地方事務官として長崎県内務商工課長兼水産課長に任
ぜられ、長崎県庁に勤務しています。池上紀子は明治40年(1907年)生まれですので、結婚した時は18歳か19歳でした。
結婚した翌年に長崎に赴任していますので、妻の紀子も一緒に長崎で暮らしたものと思われます。期間は短かくはありま
したが、新婚時代を長崎で生活し、いかがだったでしょうね。昭和2年の10月には長崎くんちを二人で見物したかもわかりま
せん。昭和56年発行の『長崎市史年表』によると、昭和2年9月29日、蒋介石が元南京市長らを従えて長崎入港の上海丸
で來日し、直ちに雲仙に向かい、九州ホテルに宿泊したそうです。そして10月2日に神戸に向かっています。11月9日には
長崎丸に乗船して上海に向かっています。蒋介石が長崎県滞在中は、川嶋孝彦は長崎県庁の課長として何かと忙しかったこと
でしょう。
川嶋孝彦は昭和3年7月に広島県警察部へ異動を命じられた際に、長崎日々新聞のインタビューを受けて、次のように答
えたそうです。
「 本県在任わずかに1年で、ことに産業の太宗たる水産方面に携わったことは非常に経験で、仕事はこれからと思った
のに、今動くのは非常に残念です。」
長崎県は現在も国内有数の水産県ですが、昔は今とは比較にならないほど水産業が盛んだったようで、確かに「産業の
太宗」であったと思います。そういう県の水産課長を務めたので、いい経験になったことでしょう。しかも内務商工課長も
兼務していたので、多忙だったことでしょう。
一方、妻の紀子は父親の池上四郎が約40年前の明治20年11月~23年2月に長崎県監獄課長と長崎監獄の典獄(後
の刑務所長)を兼務していたことで、一種の懐かしさを感じてやって来たのではなかったでしょうか。池上四郎と妻のハマは
末娘可愛さに、かつて自分たちが滞在した長崎に紀子を訪ねてやって来たかもわかりません。川嶋孝彦は、もっと長く長崎
県に勤務してほしかったと、長崎の人間として思いました。
参考文献
『川島孝彦―人物像と統計―』 著者 佐藤正広 一橋大学経済研究所教授
『職員録』 昭和5年1月1日現在
令和2年4月
池上四郎について
池上四郎は1857年5月11日(安政4年4月18日)、会津藩士池上武輔の四男として現在の会津若松市で生まれました。
11歳の時に会津戦争が起こり、兄の三郎と共に会津若松城に籠城しています。戦後しばらくして斗南藩が成立すると、
家族で斗南(現在の青森県の東部)に移住しました。寒冷の地で食料が乏しく、一家は厳しい生活を送ったようです。
1877年(明治10年)に西南戦争が起きて多数の警察官を採用することとなり、池上四郎もこの年に内務省警視局の一等
巡査に採用されました。その後、石川県や富山県など各県で警察官僚として勤務しました。
そして、1887年(明治20年)10月31日付けで長崎県監獄課長兼長崎県典獄に任命されました。当時、長崎で発行され
ていた鎮西日報に次のとおり報道されています。
【明治20年10月30日付鎮西日報】
●池上氏
京都府警部にて下京警察署長たりし会津の池上四郎氏ハ、今度長崎縣へ出向を命ぜられ、来る廿七日出発の
筈なりと。
【明治20年11月1日付鎮西日報】
●典獄更任
長崎縣典獄松本正直氏ハ昨三十一日任長崎縣属叙判任官二等第二部衛生課長に命せられ、京都府警部池上
四郎氏ハ任長崎縣典獄叙判任官二等第二部課長に命せられたり。
ところで、典獄とは現在の刑務所長に当ります。池上四郎は長崎区の新大工町にあった長崎監獄の典獄も兼務して
いました。また、長崎県監獄課は長崎監獄がある新大工町に置かれていました。
なお、長崎監獄の建物は、西南戦争時には戦傷病者を収容する陸軍病院として使用されていたようです。
池上四郎は1890年(明治23年)2月8日付けで警視庁勤務を命じられ、2月10日に上京して行きました。長崎には
30歳の時に赴任して来て、32歳の時に東京へ移りましたので、長崎には2年3ヵ月余り滞在しました。
池上四郎の異動に関する当時の新聞記事などを以下に掲載します。
【明治23年2月9日付鎮西日報】
●池上典獄と幡本書記
長崎縣典獄兼監獄課長池上四郎氏は警視庁に採用に付き昨日出向を命ぜられ、同課属兼書記幡本廣治氏は
長崎縣副典獄判任官五等に同日叙任せり。
●池上四郎氏出発
同氏は別項にもある如く警視庁にて採用に付本日の上り郵船より家族引連れ上京するよし。
【明治23年2月11日付鎮西日報】
●池上氏の見送り
長崎縣典獄より警視庁へ転任したる池上四郎氏ハ、昨日午後四時解纜の上り郵船西京丸にて上京せり。
同氏の転任は監獄官吏惜み居る由にて、既に昨日同氏の乗船の際は監獄官吏及びその妻子小使等に至るまで大波
止まで見送り離別の感情を表せり。
●送別会
一昨九日午後三時より長崎監獄員は当市伊勢町三十七番戸に於て池上典獄の送別会をなせし由。来会者ハ
凡そ八十名。席上池上典獄を送るの辞ありて各歓を尽し夜に入りて散会せしといふ。
池上四郎が長崎滞在中に次女が生まれています。六女の紀子は1907年(明治40年)に大阪市で生まれ、
1927年に茨木県保安課長をしていた川嶋孝彦(後に内閣統計局長)と結婚しました。この二人の次男が学習院大学
名誉教授の川嶋辰彦氏で、辰彦氏の長女が秋篠宮皇嗣妃殿下の紀子様です。ですから紀子様は池上四郎のひ孫に
あたられます。
令和2年3月
柴五郎将軍と旧大村藩士長岡重弘
会津藩出身の柴五郎が書いた『ある明治人の記録』という本の中に、長岡重弘という人物がたびたび
登場します。柴五郎少年に対して何かと面倒を見てくれています。この長岡重弘と言う人は、肥前大村
藩の藩士だった人で、明治元年に明治政府の官吏となり、明治3年1月に民部省に入り、明治4年7月
に民部省が廃止された後、同年9月に大蔵省勤務を命ぜられました。そして、明治5年2月に東北地方
11県への出張を命じられ、長岡重弘は5月末に青森県を訪れました。『ある明治人の記録』に次のと
おり記載されています。
この本によると、柴五郎と長岡重弘との最初の出会いは、明治5年5月末、柴五郎少年が青森県庁に
給仕として勤務していた時、地租改正調査のため東北地方を巡回していた大蔵省役人一行が青森に滞在
した際に、東京に留学したいので帰路一行に同行させてほしいと宿所へ訪ねて行った時でした。この
一行の首席が大蔵省七等出仕の長岡重弘で、長岡は同行することを快く承諾してくれました。
そして6月初旬、次の巡回先に向かうため青森を出発しました。この時の様子について柴五郎はこの本の
中で次のように記述しています。
「長岡氏は牛輿に乗り、他は徒歩なり。長岡氏は心優しき人にて、幼少の余をいたわり、同氏の
輿に同乗させ、あるいは駅馬に乗せるなどして、実際に歩行せるは一日のうち四、五里なり。」
青森から東京までの旅費や雑費も長岡重弘と次席の市川正寧(信州松本出身)が支払ってくれていま
す。東京に着いてから五郎は定住先が決まるまでの間知人・縁者の家を転々とするのですが、市川正寧
や長岡重弘の家にもしばらく寄宿させてもらっています。
こうして苦労した末に、明治6年3月末、柴五郎は陸軍の幼年生徒隊(後の幼年学校)の試験に合格
し、陸軍兵学寮に入りました。この時とても喜んだ一人が五郎を寄宿させてくれていた旧会津藩士の山
川浩でした。市内に出かけて行って軍服を買い求め、帰って来てからはその着方を五郎にいちいち教え
てあげています。
その軍服を着て五郎は青森県庁以来の大恩人である細川藩出身の野田豁通(青森県庁で大参事を務めた)
を訪ねて行って挨拶しています。また、
『長岡宅、市川宅など、世話になりたる家を馳せめぐりて、挙手の礼をな』しました。
この時柴五郎はよほど嬉しかったらしく、手記には『余の生涯における最良の日というべし』と記して
います。
柴五郎は長岡重弘のご恩を終生忘れなかったようで、長岡重弘の孫の長岡弘氏が書かれた手記『大村
勤王同盟三十七士 長岡重弘伝』(「大村史談」第21号)に、次のとおり記述されています。
「私の母が長岡へ嫁いで間もない夏に、小柄な品のある老紳士が訪ねて見えた。祖母の下座に平伏して
御挨拶されたと。私の母も名将柴大将とは露も思わなかったと語る。「柴でございます」と申された。
座敷で祖母と親しく話されて、帰って来た父健作にも平伏してご挨拶を賜ったと。祖父重弘の墓に水
を持って同行した近所の老人は、大将がお帰りになってから陸軍大将柴五郎氏と聞いて腰抜かしたと
のエピソードがある。長与へはその後も再三来られて、恩がえしに私の従妹を養女に迎えてお世話した
いとのご内意でした。」
その従妹に当られる方は、結局柴五郎の養女にはなりませんでしが、柴五郎が長岡重弘に対して、ど
んなに感謝していたかがわかります。
3月1日、長岡弘氏(故人)の奥様のご案内で、柴五郎を研究されている県内にお住まいの方と一緒
に、長崎県西彼杵郡長与町嬉里郷にある長岡重弘のお墓参りをさせていただきました。かつて、この
お墓に柴五郎が訪れたのかと思うと感慨深くなりました。
令和2年2月
長崎水道事務規程と工事の一時中断について
長崎の水道の歴史について、これまで何度かこの欄で紹介して来ましたが、今回も当時の資料を追加して長崎の水道の
歴史に触れてみたいと思います。
明治22年(1889)1月22日に臨時長崎区会が開かれて区立水道布設案が可決され、1月25日に金井俊行区長が水道
布設工事を長崎県に委託し、県は4月22日に工事を開始しました。 県は翌月に水道事務規程を設けています。鎮西日報
に次のとおり内容が記載されています。
【明治22年5月18日付け鎮西日報】
●長崎水道事務規程
一昨十六日長崎県庁にて庁中一般に達したる長崎水道事務規程は左の如しと。
第一条 県庁内に長崎水道事務所を置き、長崎水道布設に関する一切の事務を取扱わしむ。
第二条 長崎水道事務所に左の役員を置く。
管理、工師長、事務長、工事担任、事務担任
第三条 管理は知事の指揮を受け、長崎水道布設に関する一切の事務を管理す。
第四条 工師長は知事、管理の指揮を受け、長崎水道に関する一切の工事を計画施行し、及び工事の監督に任ず。
第五条 事務長は管理の指揮を受け、長崎水道布設に関する事務を整理す。
第六条 工事担任は工師長の指揮を受け、各部の工事を分担す。
第七条 事務担任は事務長の指揮を受け、長崎水道布設に関する事務を分担す。
第八条 長崎水道事務所には第二条の他雇員を置き、工事及び工事に課する事務を補助せしむることあるべし。
第九情 長崎水道事務所に置いて取扱ふ所の文書は、知事及び県名を以て発布するものを除くの外、管理に於て
別段の手続きを設け、之を処理するを得べし。
このように、水道事務規程を設けて工事が始められたのですが、間もなく工事は中断されてしまいました。
その理由は、明治22年3月31日をもって長崎区が廃止され、4月1日に長崎市がスタートしたことにあります。
地方自治が区制から市制に移行したことにより、議会も区会から市議会へと変わりました。市議会議員選挙が実施
されて議員の入れ替わりもありました。これにより、水道工事という重大な案件は市議会で工事を続行するかどうか
議論を尽くす必要があると判断されたために、水道工事は一時中断されてしまいました。また、工事を急ぐのは穏当では
ないとして、中止するよう政府から内々に訓示があったようです。このことが次のとおり、当時の鎮西日報に記載されて
います。
【明治22年8月16日付け鎮西日報】
●水道の授受
本日午前九時より左の議案について市会を開かる。
旧長崎区水道工事引継に係る諮問
旧長崎区に於て設計の水道工事に関する事件は、さきに区会に於て議決の末実地に着手、既に鉄管の義も
注文済みて着々計画の後、多数人民のなお之を非とするものありて、一時事業遅緩に属しおりしに、引続き
市政の施行に際し事務引継のときに臨めり。故に元区長に於て目下差支えなき分は工事見合わせ置きし趣を
以て、今般右関係の書類ことごとく皆市参事会に引継ぎたり。本会に於ては素より重大の事件と認めるに依り、
しばらく書類を預り置き、その授受の当否を市会の意見に付し、以てその針路に頼らんと欲す。
●中止の理由
これまで水道工事を中止しおりし理由は右の議案中に躍々たり。即ち、市制の施行に際したる故に、中止
したるものなり。さすれば政府に於て長崎区役所の事務引継のときに臨み、やはりドンドンと工事を急ぐは
穏当ならずとて中止を内訓したりというが実正なりしことと知らる。
当日の議会の様子が 『長崎市会傍聴略記』と題して翌日の鎮西日報に掲載され、「傍聴人は議場の内外に充満せり」
と記載されています。市民の関心がいかに高かったかわかります。
一時中断されていた水道工事は、明治22年11月9日の長崎市会でようやく水道工事継続議案が可決されました。
これにより、明治24年3月に本河内高部ダムが完成しました。
令和2年1月
長崎に水道布設を建議した長崎商工会会員 瓜生震
長崎市の本河内高部ダムが完成したのは明治24年(1891)3月で、鉄管やろ水施設を持つ近代的水道としては、
横浜・箱館に次いで国内で3番目でした。そして、5月16日から市民への給水が開始されました。
水道工事については、明治22年(1889)1月22日に臨時長崎区会が開かれて、区立水道布設案が可決されました。
そして、1月25日に金井俊行区長が水道布設工事を長崎県に委託し、県は4月22日に工事を開始しました。
途中、工事が一時中断されていましたが、明治22年11月9日に長崎市会が開催され、本河内高部水道工事継続議案が
可決されて、工事が続行されました。
こうして水道事業は市営として運営されたのですが、最初から市が直接運営することが考えられていたわけではありませ
ん。最初は民間会社を設立して、その会社が水道事業を行うことが建議されました。それを建議したのは、長崎商工会会
員の瓜生震(うりゅう・ふるう 1853-1920)です。『コトバンク』によると、瓜生震は福井藩士の子として生まれ、長崎に
遊学して蘭学を学び、坂本龍馬の海援隊に入って活躍しています。明治4年工部省鉄道寮に入り、この年岩倉使節団に
加わって欧米を巡遊し、明治8年に帰国しています。そして鉄道寮に復帰したのですが、明治10年に官を辞め、三菱が経
営する高島炭鉱会社に入りました。そして高島炭鉱長崎事務所の支配人になり、明治26年に三菱合資会社(後の三菱財
閥)の本社副支配人、32年に営業部長となりました。
瓜生震が長崎に水道を布設するよう建議したことが明治19年10月3日の鎮西日報に掲載されていますので、ご紹介
します。
【明治19年10月3日付け鎮西日報】
●水道改良の建議
一昨夜西濱町清洋亭に於て長崎商工会の委員会議了の際、商工会員瓜生震氏より商工会に対し、長崎区内水
道改良の計画を建議せられたり。その建議案は左の如くにて、これには内外専門家の実測も概略整い居る由なるが、
同会にては建議に対し、一ニ討議の末事業重大にわたるをもって、不日ことさらに商工会委員の総会を開き審議すべ
きことに議決し、その建議案は左の如し。
長崎区に水道設置の議案
要目並びに説明
長崎は本邦五港の一つにして、しかもその地形、気候共に他の四港に譲らざる一勝地たり。しかるに近来、虎列拉痘
瘡その外悪疫本邦並びに隣国の諸港に流行し、長崎はこれの発生の原地たりとの汚名を蒙るに到れり。
これ甚だしき誣言にして、病源は印度その他南方の諸国なりといえども、本邦に於て発したるは長崎をもって嚆矢とす
るが故に、本邦人に対してはこの誣言を咎め能はざるなり。もとより本港は五港の一つにして、常に外国船の輻輳する
所なるをもって、これらの病毒を輸入するもまた速やかなるは当然なりといえども、横濱神戸等も等しく開港地にして外国
船の出入りは当港に勝るも決して劣らざる所なりしかり。而してその常に先づ長崎に発生し、他に伝播するについては必
ずその媒介をなす者あるが故なり。
この媒介者は一つにして足らず、区民の風俗習慣家屋の構造等かつて大いに力ある者なりといえども、その最も重なる
者は飲水なり。本区の飲料水は倉田水と井水にして、倉田水は不潔なる田野より流出する水を濾しもせず、そのまま
木管等をもって導きたる者なるが故に飲用適当とは期しがたく、井水は当春の検査によるに十中七八は飲用不適、残る
ニ三も多くは下等飲用水にして、真に上等なる者は百中一ニに過ぎず、疫病の流行するも敢えてたのむに足らざるなり。
また、元来長崎は井水に乏しく、この熱地において盛夏に街路灌水の設けなく、各人炎暑の苦を覚ゆること実に甚だし
く、ために衛生上大いなる害をなし、かつ、商業にも幾分の妨害を免れ能わざるなり。また、火災に臨み消防夫等井水の
乏しきに苦しみ、ために防ぎうべき者も遂に延焼に帰せしむること常なりと言う。
以上陳述したる如き本区の残欠を補うため、かつ、軽便なる水車をもって機械を運転し、市内の溝渠に清水を流通して
時々これを洗浄し、小管をもって自家の泉水浴室等に清水を導く等の公便を得るために、日見峠旧道の傍らにおいて海
面より凡そ直立百五十尺の所に地を選び、三ヶ月乃至六ヶ月の本区総需用高に対する水を貯蓄し得べき大水溜を造り、
これに同所近傍の山谷より流出する清水を導き集め、濾水盤を置いて更に清潔にし、鉄管をもって長崎区内に導き、
蛍茶屋以北の街道は勿論、北は筑後町大黒町、南は浪ノ平古河町、西は沿海の諸町、北は新大工町爐粕町を限り、区内
町々家々に等しく清水の便利を得せしむるの目的をもって、ここに諸君の賛成を乞い、県知事閣下の特別なる補助を願うて
一つの水道会社を起さんと欲するなり。即ち右企画の大略を記し、諸君の参考に供具す。
この後も続くのですが、長くなりますので省略します。この後は、このホームページに掲載しますので、興味のあられる
方はご一読ください。当時はまだ「ダム」という言葉は使われていなかったようで、この建議文では「水溜」(みずため)、
または 「大水溜」と書かれています。
瓜生震のこの建議内容は、その後の水道工事へと受け継がれて行ったようです。
長崎の水道の生みの親と言えば、当時の長崎県知事の日下義雄と長崎区長の金井俊行があげられますが、瓜生震の
建議がなかったならば、水道布設はもっと後になったかもしれません。あるいは、日下義雄と金井俊行が同じ仲間として
瓜生震に建議させたのかもしれません。当時の状況を想像するだけで、なかなか面白いです。
いずれにしろ、瓜生震は長崎水道の恩人だと言えるでしょう。元海援隊員ということも私は知りませんでしたので、
この人物はなかなか興味深く思われます。
参考文献
『長崎市史年表』 編集 長崎市史年表編さん委員会 発行 長崎市役所 昭和56年
コトバンク 『瓜生震』
日本の歴史ガイド~日本のお城 城跡 史跡 幕末~ 『瓜生震』
令和元年12月
日下義雄長崎県知事の東京出張(2)
明治19年12月13日に日下義雄長崎県知事は船で長崎を出発し、20年2月12日長崎に帰って来るまで、上京していまし
たが、その目的は19年8月に起きた清国水兵暴動事件についての政府への報告と、長崎に上水道を布設するための資金
援助要請でした。前月は清国水兵暴動事件についての政府への報告について簡単に説明しましたが、今月は上水道布設
のための資金援助要請について述べたいと思います。
2.上水道布設のための資金援助要請
日下義雄が実際に政府のどの部署に資金援助を要請したかは明確にはわかりませんが、おそらく内務省の県治局
地方費課だったのではないかと思われます。と言うのも、明治20年1月11日付けの鎮西日報に「至急上京」と見出しの
付けられた記事があるからです。
【明治20年1月11日付け鎮西日報】
●至急上京
長崎県地方費課長畑島源次郎氏は昨十日上京を命じられ、即日出港の薩广丸にて出発されたり。何等の御
用筋なるか未だ聞知せず。
当時の地方費課は地方税や財政などを担当していたものと思われ、上水道布設財源について国と長崎県とで協議が
行われたのではないかと思われます。
明治22年1月開会の臨時長崎区会で「区立水道布設議案」が紆余曲折の末、可決されました。この議案は30万円
の工事費用のうち5万円を政府補助金、6万円を長崎商工会独自の商工振興基金である貿易五厘金からの支出、19
万円を公債発行で賄うというものでした。 したがって、日下知事は明治19年12月から翌年2月にかけて上京し、国へ
補助金の交付などについて陳情活動を行っていたものと思われます。
ただ、長崎での上水道の運営主体は当初から長崎区(長崎市)を考えていたわけではなく、水道会社を設立して、その
の会社が水道事業を運営するということが考えられていました。その辺の経緯については次回に述べたいと思います。
長崎における上水道布設工事は長崎市から委託を受けて長崎県が行うことになり、明治22年4月22日、県は本河内
水源地開発工事に着手しました。そして、明治24年3月に完成し、5月16日に市民への給水が開始されました。
令和元年11月
日下義雄長崎県知事の東京出張(1)
令和元年8月のこの欄で、日下義雄長崎県知事が長崎に水道を布設するために政府に資金援助要請しようとして、明
治19年12月13日に長崎を出発し、翌年2月12日に長崎へ帰って来たことをご紹介しました。2ヵ月間も出張していた
わけですが、今回は当時の新聞をご紹介しながら、もう少し詳しく述べようと思います。
日下知事の東京出張の主な用務は2つあったようです。一つはこの年8月13日と15日に長崎で発生した清国水兵
暴動事件の解決のための政府との協議、もう一つは水道布設のための資金援助要請です。
1.清国水兵暴動事件解決のための政府との協議
清国水兵暴動事件の解決を図るため、明治19年9月6日から長崎で清国側と談判が始まりましたが、日本側の
談判委員に、外務省の鳩山和夫取調局長と長崎県の日下義雄知事が選ばれました。しかし、なかなか話し合いが
進まず、11月15日を最後に長崎での談判、即ち両国委員会は打ち切られました。また、両国委員会そのものも12
月7日に政府の訓令によって解散されました。このため、日下知事と鳩山局長は政府に報告するため、12月13日
に上京しています。そして、12月21日の政府の閣議に日下知事は出席しています。
なお、鳩山由紀夫元総理大臣や鳩山邦夫元衆議院議員は、この鳩山和夫局長のひ孫です。
【明治19年12月14日付け鎮西日報】
●出発
本県知事日下義雄君及(び)外務(省)取調局長鳩山和夫君ハ昨日午後四時出港の横濵丸にて上京されたり。日
下知事の上京は矢張支那水兵暴行事件に関してのよしなるが、本年中に帰県さるることハ六ヶ敷かるべしといへり。
【明治19年12月19日付け鎮西日報】
●日下知事の転宿
日下知事着京の後ハ采女町精養軒に投宿されしことを前号に記せしが、同君ハ昨十八日より麻布市平町十二番
地外務省官舎へ転宿せられたる旨その筋へ電報ありし由なり。
【明治19年12月28日付け鎮西日報】
●東京通信(12月21日特発)
・長崎事件の閣議
本日午前十時頃より伊藤、井上、山県、大山、山田、松方、森、榎本の各大臣が内閣へ出頭して、長崎談判
事件に付き会議を開かれたるよし。当日ハ青木外務次官、山尾法制局長官、田中書記官、日下長崎県知事に
も出席ありて午後三時頃各退山されたり。
・鳩山取調局長の再出発
外務省取調局長鳩山和夫氏が再び長崎へ出発されたる御用向は、最初長崎両国委員会において三十九回
の会議を開きしにも係はらず、僅かに十三日事件の半を取調べりたるのみにて、十五日の事件は未だ着手に
及ばざる前既に解散したる事ゆえ、今度国際上の談判となるに及べば尚更精細詳密の取調をなさるるべからず
とて、今度再び出発を命ぜられたるものなりといふ。
【明治19年12月29日付け鎮西日報】
●水兵事件取調
彼清国水兵暴行事件に付鳩山、デュソンの両委員ハ一昨二十七日より交親館に於て関係人の取調を始められ
しが、同日召喚を受けしハ、楽遊亭主人中村新三郎及び長崎警察署詰警部補代理巡査宗正喜の両人なりしも、
中村新三郎ハたまたま他出中にて出頭せず、宗正喜氏のみ審問を受け、本日ハ誰も召喚なかりしとぞ。右に依て
考察を下すに、楽遊亭ハ八月十三日夜、清国水兵の暴行を働きし場所にして、宗巡査ハ其急報を得て現場へ出張
せし人なりと云へば、今回の取調べも十三日夜水兵暴行の起頭より順次に取調べらるるものと思ハる。
【明治20年2月11日付け鎮西日報】
電 報
●水兵事件結局 (昨十日正午十二時二十分東京特発)
長崎事件ハ外務大臣と清国公使と互いに商議を遂げ、八日に双方当に審理し、懲罰す可きや否ハ共に両国
司法官庁にて各の自国の法律に照らし、公平に審理し、互いに干与せざらん事を約して其局を結びたり。
●日下知事 (昨十日午後四時十五分神戸特発)
日下知事本日午後六時当港発の横濵丸にて帰県せらる。
令和元年10月
日光東照宮
9月21日に、日光東照宮へ行って来ました。私はここを訪れるのは2回目で、最初に訪れたのは平成元年か2年でし
たので、実に30年ぶりの訪問です。当時とは違い、外国人観光客がずいぶん多かったです。
最初の訪問では徳川家康の墓は見学しなかったのですが、今回は初めて見学して来ました。太平の世を築いた英雄
のお墓を一度見学できて良かったです。
また、せっかく来ましたので、宝物館も見学しました。徳川家康が使っていた鎧や刀などいろいろ遺品が展示されてあり、
よく保存して来たものだと感心しました。ずっと見ていたら、なんと幕末の会津藩主松平容保が明治になって日光東照宮
の宮司になっていた時に書いた掛軸が展示されているのに気づきました。「東照宮」と書かれた掛軸です。
その松平容保の直系の子孫が現在、徳川宗家の養子となり、徳川宗家第18代当主として徳川宗家を継いでおられる
そうです。その子供の次期当主徳川家廣氏は今年7月の参議院議員選挙に立候補して残念ながら落選されました。
長崎ともご縁があり、長崎大学の国際連携戦略本部の客員教授に就任されておられるそうです。
長崎に来られた際は、ぜひ食事をご一緒させていただきたいものだと思います。
拝殿
徳川家康の墓
日光東照宮宝物館
令和元年9月
京都守護職本陣 金戒光明寺
7月29日に、以前から訪れてみたいと思っていた京都の金戒光明寺に初めて行って来ました。
京都駅から100系統の市バスに乗り、岡崎道停留所で降りて、歩いて10分ぐらいで着きました。
金戒光明寺は法然上人が創建した浄土宗の寺院で、幕末に会津藩が本陣を置いた所として知られています。
今年6月9日に「会津藩殉難者墓地」内に松平容保公の石像が建立されて除幕式が行われています。
建立したのは京都会津会で、除幕式には会津松平家第14代当主の松平保久氏ら約100名が参席されたそうです。
実は、この除幕式には長崎会津会の会員4名も参席しており、そのうちのお1人から今回の除幕式があったことを教えて
いただいた次第です。
金戒光明寺の高麗門
お寺のホームページによると、徳川家康は京に直轄地として二条城を作って所司代を置き、何かある時には軍隊を配置
できるように黒谷と知恩院をそれとわからないように城構えにしたのだそうです。
黒谷に大軍が一度に入って来られないようにするため南側には小門しかなく、西側に城門のような立派な高麗門を建て
たそうです。ホームページには「黒谷」と書かれていますが、もちろん金戒光明寺のことです。
また、1千名の軍隊が駐屯できるよう宿泊施設(宿坊)がたくさん作られていました。実際、藩主以下千人の会津藩士が
この金戒光明寺に駐屯しました。
山門
楼上には後小松上皇直筆とされる額が掲げられていて、「浄土真宗最初門」という文字が書かれています。
法然上人が開いた浄土教の教えがこの地から始まったことを示しているのだそうです。とても由緒あるお寺ですね。
高さが約23mもあるという立派な門です。
御影堂
宗祖法然上人の75歳時の御影(坐像)が奉安されているそうです。昭和19年に再建されています。
会津墓地への案内石
会津藩殉難者墓地
金戒光明寺には子院(しいん)、即ち本寺の境内に付属する小寺院が18あり、そのうちの一つ、西雲院に会津藩殉難者
墓地があります。会津藩士をはじめ、使役で仕えたと思われる苗字のない者や婦人合わせて352名が祀られているそうです。
松平容保公
6月11日付けの京都新聞(デジタル版)によると、会津藩第9代藩主松平容保公が京都守護職を務めていた頃の写真
をもとにして作られた高さ1.2mの石造です。高さ0.75mの台座に載せられています。
令和元年8月
日下義雄知事への長崎居留外国人からの「表情書」
明治20年2月、長崎に上水道を布設しようとして政府に資金援助要請のため上京していた日下義雄が
長崎に帰って来ると、待ち構えていたかのように長崎居留の外国人たちが県庁を訪れ、日下知事の県政に
感謝の気持ちを伝える書状を日下知事に手渡しました。そのことが次のとおり鎮西日報に掲載されています。
記事には63人が連署した書状の翻訳文と、知事の回答書の翻訳文が掲載されています。
記事は63人が連署した書状を「表情書」と記載しており、まさしく情を表す書であり、言い得て妙ですね。
【明治20年2月17日付鎮西日報】
●居留外国人の表情書
日下本県知事の居留外国人中に名望あることは是れ迄も屡々事端に顕わるる所なるが、過日同知事
帰県に際し、居留外国人相会して六十三名連署の表情書を作り、クラアリンガー等六名総代となり、
去る十四日県庁に到り面たり。之を呈したり。
右は日下知事の治績に満足を表せるのみならず実に内外交誼の親密に至れるを見るに足る。同知事
よりは早速回答書を送られたり。今其文を得たれば左に訳載す。
拝啓 閣下の御帰県に際し我々長崎居留外国人が再び我 の間に御在住なさるるに付き満足の切情を
表明するに恰当(ぴったりあうこと)の時期と相考候。
昨年中閣下の責任重き職務に拮据せられたる勤労は実に尋常ならず、
此間に発生したる難事は少からざるが、中にも地方の福祉を妨げ人民の健康を害したるもの有りて事態
容易ならざりしが、閣下の方略宜しきに適い兼ねて不抜の堅忍を以て事に当たられたるより、此等の
難事を排除すること得たる儀と慮外ながら彼存候。就中客夏虎列拉流行に際し、措弁の当を得たるが如き
衛生に関する全般の方案に深く意を留められたるが如き讃嘆すべき所に有之。
畢竟するに、諸般有形的の改良が到処に顕著なるは皆閣下が管内に在住する人民の為めに福利を図謀する
に全力を傾竭せらるるの明証なり。又閣下は、独り職務上に於て敬服すべきのみならず交際上に於ても大いに
公衆の敬愛する所にて、之が為め貴管人民と我々外国人との間に交情親密を加ふるに至れり。
茲に連署を以て
具陳仕候也。
千八百八十七年二月十四日
日下長崎県知事殿閣下
エフ、リンガ エー、ドレウエル、 エー、ノルマン エー、グロウア
テー、グロウア シイ、ソルタア ジエー、ゼツセルセン ジエー、デウソン
ジエー、ジヨンス エム、スミツス ゼイ、コール アル、フイリツプス
シー、クラー ビイ、メソン シー、ジヨージ エチ、ダンス
エフ、クーダア ゼイ、デンテイ エー、スコツト アル、パウア
エー、チベルリン ジイ、セーラア デイ、クロー アル、ハミルトン
エチ、デウアイン ゼイ、ヒル シイ、アルノルド ゼイ、ストダアート
ジイ、ポジール エナ、ウアーセン アル、ホーム エチ、アンジール
ジイ、マンスブリチ ゼイ、エンスリ ゼイ、コルダア ワイ、ウエンヂ
エチ、ウイルソン エチ、ストーン イー、レーン ウイ、コストリツフ
ウイ、コツフポド エス、マスシイ シイ、ボーデンハウス ジイ、ボウスル
エチ、スタウト ジイ、サトン エー、レツドリーン エチ、モンドレル
エチ、ハスケル ウイ、ヒジナテル ゼイ、ビルチ エー、グリツフイス
デー、クリステンソン シイ、サトン エム、サルモン ゼイ、コスン
エス、ローレンス ビー、ドール ジイ、フアバー エス、ゴルトマン
ジイ、ビールド エチ、ミルス ダブルユ、フーパア
右回答
拝啓 治県上の成績に関し長崎居留外国人全体の為めに諸君より連署を以て御示諭之趣推奨過甚拙者の
敢へて当る所に無之候。唯、平素本県の繁栄と人民の福利とを増進するの点に鋭意することに就き、
一般公衆の是認に偶へる一事は拙者の特に宣述するを喜ぶ所なり。
然れども、此際拙者が精励拮据より生せる微功は全く衆力の補助に由りて、能く之を致したる儀にて
一身の能くする次第にあらざることを記せざる可らず。此の補助は自今後も継続せんこと切望に耐えず。
今般君より公然御表示を辱うしたる高情は拙者が本職を奉るに当り、画定せる方針を力行するに於て
一層奮励を増し、一は以て地方の利益を保捗し、一は以て内外の交際を益々親密ならしむるに至らんとす。
因りて拝答斯くの如 くに御坐候也。
明治二十年二月十五日 長崎県知事日下義雄
エフ、リンガ君
エー、ドレウエル君
ダブルユ、フーパア君
其他各位
上下 長崎居留外国人が書いた御礼状
(長崎歴史文化博物館所蔵)
一番最初のフレデリック・リンガーの名前は、長崎ちゃんぽんの「リンガーハット」の店名に
使用されている。
【追記】
日下義雄が上京したのは明治19年12月13日です。明治19年12月13日付けの鎮西日報に、
「●知事上京
日下知事ハ御用の都合に因り、本日の横濵丸にて上京せらるる由なり 」 と記載されています。
「御用の都合に因り」とだけ記載されており、上京のはっきりした理由は記載されていません。
日下義雄の妻、可明子夫人が2日前の12月11日に亡くなり、前日の12月12日に葬儀が行われたばかりと
いうのに、もう葬儀の翌日に長崎を離れるとはずいぶん異常な速さです。
可明子夫人は東京の飯田町出身で、江戸幕府の御用商人山内家の第四女でした。一刻も早く東京の家族に可明子
夫人の死を伝えたかったのかもしれません。明治19年12月18日付けの鎮西日報によると、日下は12月17日
に東京に着いています。
日下が長崎に帰って来たのは明治20年2月12日であり、2月13日の鎮西日報に次のとおり記載されています。
「●日下知事帰縣
日下本縣知事ハ随行員長崎県属原辰四郎、同岩田甲子次郎の両氏と共に昨日午前三時入港の横濵
丸にて帰縣、昨日より出務せられたり。」
長崎を発って2カ月後に長崎に帰って来たわけですが、東京では長崎に上水道を布設するため、政府に資金援助の
要請をしていたものと見られています。しかし、資金援助を要請するだけでは2カ月近くもかからないでしょうから、
日下義雄自身の個人的な用事も結構あったのかもしれません。
明治20年2月2日付けの鎮西日報に次の記事が掲載されています。
「●日下長崎縣知事
久しく上京中なる同知事ニハ来る八日ごろ東京出発帰縣の途に就かるるとの報、ある向きへ達したるよし。
一時ハ世間に種々の風説ありて、或いは外交官に栄転せらるべしと云ひ、或いは某縣に転任せらるべしと伝
え、官吏社会迄が狼狽せし人ありしよしなるが、帰縣の報あるを見れば、全く前説の虚に属すると知るべし。」
上記の記事は「久しく上京中」とだけ記載され、日下知事の東京での活動については触れていません。日下の上京中に
長崎縣地方費課の職員が急遽東京に呼び出されていることから、やはり長崎に上水道布設のため、内務省を中心に関係
方面に資金援助要請活動を行っていたものと思われます。
日下知事が2月12日に長崎に帰って来た2日後に、フレデリック・リンガーらが県庁を訪問し、コレラ対策のため日下
知事が尽力していることに対する感謝の文書を日下に提出しているのを見ると、日下義雄の上京目的が上水道布設の資金
援助要請であったことが、長崎居留の外国人たちに知られていたことが推測されます。
平成28年11月
古川春英が西洋医学を学んだ小島養生所
江戸時代末期の医者で、会津藩の蘭学所教官を務めた古川春英は、1864(元治元)年37歳の時長崎に遊学して西洋医学を学びました。
その学んだ場所が日本で最初の近代西洋医学教育病院である小島養生所です。正式名称は単なる「養生所」なのですが、小島郷の丘に建て
られたことから長崎では一般に小島養生所と呼んでいます。また、江戸の小石川養生所にちなみ長崎養生所とも呼ばれています。
この小島養生所は1861年9月20日(文久元年8月16日)に開院され、2階建の病棟が2棟あり、合わせて124ベッドありました。
その他開院時には、大村町の医学伝習所がこの小島養生所の隣に移転し、医学所と改称されました。1865(慶応元)年4月に、この小島
養生所と医学所は統合されて精得館と改称されています。
小島養生所が設置された当時、初代頭取は松本良順で、養生所設置を幕府に要請したオランダ人医師ポンぺは教頭でした。1862(文久2)
年にポンぺが帰国すると、彼に代わって教頭に就任したのが、オランダの軍医ボードウィンでした。古川 春英は1867年1月27日(慶応4年
1月3日)に戊辰戦争が勃発して会津に帰国することになるまで、この小島養生所(精得館)でボードウィンから西洋医学を学びました。
ここには寄宿舎が併設されていたことから、古川 春英もここで起居・生活を送ったことと思われます。
なお、その後この地には佐古小学校が存在していましたが、2016(平成28)年3月末をもって閉校になり、現在解体工事が進められて
います。
4月1日に仁田小学校と統合されて仁田佐古小学校となった学校の新校舎がここに建てられることになっています。
旧佐古小学校近くに立つ小島養生所の看板 中央の建物が小島養生所
解体工事中の旧佐古小学校 旧佐古小学校近くから市街地を望む
旧佐古小学校運動場へ上る階段 旧佐古小学校運動場と旧校舎
階段の斜面に立つ養生所跡の碑
長崎大学病院の源流となった小島養生所の絵が描かれている。
平成28年10月
大村純鎮の正室留姫について(2)
第9代大村藩主 大村純鎮 (すみやす 1759~1814)が、第5代会津藩主 松平容頌(かたのぶ)の養女 留姫(1760~1826)と結婚及び
離縁したことについては、大村藩の藩政日記を集約した 『九葉実録』 という古文書に記載されています。この 『九葉実録』 は大村藩
第4代藩主 純長(すみなが)治世の慶安3年(1650)から幕末の第12代藩主 純熙(すみひろ)の時代まで約230年間に渡る藩政日記
を集約・編纂したものです。集約された理由は、藩政日記の量が多量になったことと、長年の保存で破損、雨漏れ、鼠害などにより内容が
後世に伝え難くなったため、幕末になって藩の祐筆役が中心になって全64巻に編纂されたものです。
この古文書64巻は平成6年、大村史談会の約8年に及ぶ解読の末に翻刻出版され、お陰で古文書が読めなくても、内容を理解するのに
便利になりました。
さて、大村純鎮と松平留との結婚及び離縁についてですが、詳しくは記載されていません。離縁についてはわずか1行で終わっています。
以下に、全文を掲載します。
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安永五年
(九月)十三日 公會津侯松平肥後守容頌 ノ女留子実ハ容頌ノ伯父靭負佐ノ女 ヲ娶ントシ、
幕士長谷川太郎兵衛ヲ介シ請表ヲ呈ス
十一月六日公江戸ニ至ル 十五日上営献物例ノ如シ 二十六日閣老等公召シ、教ヲ傳フ
松平肥後守養女其方母方江引取置追而其方江婚姻相整度由願之通被仰付候
(松平肥後守養女 その方母方へ引き取り置き、追ってその方へ婚姻あい整いたきよし、願いのとおり仰せつけられ候)
十二月七日結納式ヲ行ヒ、夫人入輿ス 是歳様(※原文には木へんがありません)教寺請テ曰ク 自今貴邸ニ上ラハ
客禮ヲ以テ待遇セラレヨト 之ヲ充ス
六年丁酉正月九日公婚姻式ヲ行フ 十五日上営シ、紗綾二巻ヲ将軍ニ、銀二枚ヲ世子ニ献シ以テ謝ス
此月新夫人ノ傳 両角数右衛門二五口俸ヲ賜ヒ番頭次班ト為シ、新夫人ノ用達西村幸助二三口俸ヲ賜ヒ中小姓ト為ス
(三月)九日公江戸ヲ發ス
寛政九年
十一月廿九日夫人松平氏大帰ス 以テ上告ス
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここで、大村純鎮と留姫に関していくつか箇条書きに整理してみます。
・宝暦9年 8月20日 [1759年10月10日] 大村純鎮が生まれる。
・宝暦9年12月11日 [1760年 1月28日] 留姫が生まれる。
・安永5年 9月13日 [1776年10月24日] 留姫を娶るため幕府に請表を提出
・安永5年12月 7日 [1777年 1月16日] 結納式が行われる。
・安永6年 正月 9日 [1777年 2月16日] 婚姻式が行われる。
・寛政9年11月29日 [1798年 1月15日] 大村純鎮と留姫が離縁
結婚式を挙げたのは大村純鎮も留姫も共に満17歳の時であり、離縁したのは純鎮が満38歳の時、留姫が満37歳の時でした。
したがって二人の婚姻生活は約20年~21年続いたことになります。「大帰ス」というのは、離縁して実家に帰ることをいうのだそうです。
大村藩主の菩提寺本教寺にある大村純鎮の墓の事蹟にも夫人が大帰(ス)と書かれています。
留姫の父 松平容章が1786年、母嘉代が1804年に亡くなっていますが、2人の墓が会津松平家の菩提寺の一つである江戸の実相寺にあること、
また、留姫の墓も実相寺にあることから、留姫は会津までは帰らず江戸に留まったと考えるのが自然かもしれませんね。
なお、興味深い人物が挙げられています。「幕士長谷川太郎兵衛」という人は、池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」のモデルである長谷川平蔵宣以(のぶため)
にとって本家にあたる人で、長谷川正直ともいい、旗本であり石高は1450石だったそうです。
長谷川正直も長谷川平蔵宣以も江戸の火付盗賊改方の頭として活躍しました。長谷川正直が大村純鎮と留姫の結婚の仲介をした時は67歳で、この時、
持筒頭という将軍を護衛する鉄砲隊の隊長を務めていたようです。火付盗賊改方頭を辞めてから10年経っていました。17歳の大村純鎮が67歳の長谷川
正直と以前から知り合いだったとは考えにくいのでが、どういう縁で純鎮が留姫を娶るために長谷川正直が幕府に「請表」を提出することになったのか、興味が
引かれるところです。
両角(もろずみ)数右衛門という人が 「新夫人ノ傳」という役職に就任していますが、「新夫人ノ傳」(しんふじんのもり)というのは実家から付けられた
養育掛又は警固役をいうそうです。ですから両角数右衛門は会津藩士ということになります。おそらく、用達の西村幸助という人も会津藩士だったでしょう。
『会津イン東京』というウェブサイトの「幕末会津藩殉難者名」にも西村姓の者が12名記載されています。また、留姫には会津藩から派遣されたお側付きの女性も
数人いたのではないでしょうか。
大村に帰るため安永六年三月九日に江戸を出発していますので、結婚式は江戸で行われています。おそらく大村藩の藩邸で行われたことでしょう。将軍に献上
した紗綾(さあや)というのは絹織物の一種で、光沢があるそうです。この時の将軍は第10代の徳川家治です。将軍への献上品が紗綾2巻で、世子へは銀2枚という
のは少し質素な気がしますが、いかがでしょうか? 大村藩の財政力の程度を窺い知ることができるのではないでしょうか。
最後に、留姫を離縁した理由について述べたいと思います。
留姫を離縁したのは、寛政9年11月29日ですが、この年の『九葉実録』 の2月5日付には、大村純鎮から老中安藤信成あてに次のとおり
上申書が出されたことが記載されています。
(寛政九年) 二月五日閣老安藤對馬守二上申ス
先達而御届申上候私妾腹之男子春之進當已拾五歳罷成候
弥丈夫相成候付而嫡子仕候 此段御聞置可被下候
以上
二月五日 大村信濃守
つまり、自分の妾が産んだ春之進という男子が既に15歳になり、いよいよ丈夫になったので嫡子にしたいと言っています。
その後、『九葉実録』に次のとおり記載されています。
三月朔公江戸ヲ発ス 五日公子春之進君ノ嫡位ヲ正シ、且ツ諱純昌ト名ツクルヲ衆庶ニ告ケ、
因テ自今世子ト唱ヘ、且ツ昌ノ字ヲ避ケシメ、又側室八重女ヲ殿ト唱ヘシム
八重(鈎氏)という側室が産んだ子が世継ぎになるとともに、八重も「殿」と呼ばれるほど地位が上がったことで、娘二人が夭折して子の
いない正室留姫は居心地が悪くなったのではないでしょうか。留姫が疎んじられるようになったのかもしれません。
それで留姫の方から離縁の申し出があったのかもしれません。もしそうであれば留姫がなんとなく気の毒な感じがしますね。
留姫は文政9年(1826)に66歳で亡くなりました。江戸にお墓があることから江戸で亡くなったものと思われます。
なお、江戸時代、大名の正室や嫡子は人質として江戸に常住することと定められていて、各藩の江戸藩邸、それも上屋敷に正室と嫡子は
居住していました。調べてみると、大村藩の上屋敷は現在の千代田区永田町の国立国会図書館の敷地にありました。したがって、留姫は
大村純鎮と結婚して以来、一度も大村へは来たことがなかったと思われます。留姫のお墓が大村家の菩提寺のある大村市の本経寺になく、
会津松平家の一つである東京・三田の実相寺にあるのは、大村純鎮と離縁したからでした。
参考文献: 「九葉実録」 1巻・2巻 平成6年 大村史談会発行
「大村史話」 中巻 昭和49年 大村史談会発行
平成28年9月
大村純鎮の正室留姫について(1)
平成28年7月の『管理人より』でも少し紹介しましたが、第9代大村藩主 大村純鎮 (おおむら すみやす 1759~1814)の正室になった人は、
初代会津藩主保科正之の六男 正容(まさかた 第3代藩主)の九男 容章(かたあき)の娘です。容章と側室 嘉代の次女として生まれ、名前は
留です。留姫は宝暦9年(1759)12月11日に生まれ、その後、第5代会津藩主 松平容頌 (かたのぶ)の養女となって、安永5年(1776)12月7日
に17歳で大村純鎮に嫁いでいます。
文政9年(1826)に67歳で亡くなっており、お墓は東京都港区三田の実相寺にあります。
私はどうして留姫のお墓が大村家の菩提寺のある大村市の本経寺ではなく、東京の実相寺にあるのか不思議に思っていました。インターネットで
留姫について調べてみたところ、大村純鎮と離縁しているようです。『呆嶷館』 というウェブサイトの中の「資料、参考書籍」の「会津松平系譜」に
第3代正容の系譜があり、「容章」のところに留姫が記載されており、離婚と記載されています。
また、『花筐館』というウェブサイトの中の「葵の間」の「江戸大名系譜」に会津松平氏系譜があり、
第3代正容の系譜の九男容章をクリックすると、側室嘉代との間にできた留姫についての記載があり、括弧内に離縁と記載されています。
私は、今年7月初旬に本経寺内にある大村藩主大村家墓所を訪れ、第9代大村純鎮公のお墓を見学しました。墓所は石霊屋(いしたまや)という
形式のお墓になっています。
大村藩第9代藩主 大村純鎮の墓所
左写真に見える建物が石霊屋と言われる形式のお墓ですが、この石霊屋の壁面に純鎮公の事蹟が刻まれています。
その中に留姫のことが次のとおり記載されています。
「 公初娶會津侯容頌女為夫人生二女夭夫人後有故大歸 」
これによると、2人の女の子を産んだけれども早く亡くなったこと(夭折)、後に故あって帰ったことがわかります。会津には帰らず、
江戸に帰って生活し、そのまま江戸で亡くなって、会津松平家の菩提寺の一つである三田の実相寺に葬られたのでしょう。
留姫の父親の容章(かたあき)公や母親の嘉代のお墓もこの実相寺にあります。また会津藩の藩祖保科正之の継室於萬や幕末の会津藩主松平容保の次女
泡玉院のお墓もあります。父容章は1786年、母嘉代は1804年に亡くなっています。
下の写真は純鎮公の石霊屋に刻まれている留姫に関する部分です。
それにしても、わずか2万7973石の小藩ながら、大村藩主大村家の墓所は立派なお墓が多く、巨大なものもいくつかあります。
小藩でありながら、このような規模の大きい墓所は全国的に異例と言えるのではないでしょうか。
平成28年8月
長崎港水上飛行計画について
夏ですので今回は水泳に関する話題を取り上げたいと思います。私の3番目の子供は小学校の頃、長崎游泳協会主催
の夏季水泳教室に通っていました。8月になると長崎市民総合プールで行われる大名行列にもふんどし姿で参加したことが
あります。また一度は、長与港から時津の砂浜まで5,6時間もかけて泳ぐ大村湾遠泳大会に参加したこともありました。
1月3日には旧ねずみ島で行われる泳ぎ始め式にも参加し、終わった後はお母さんたちが作った豚汁を寒さで震えながら
食べていました。
長崎游泳協会の前身 瓊浦游泳協会は東洋日の出新聞社が母体となって明治35年(1902)8月に創立されました。
「瓊浦」〈けいほ〉という名は長崎の古くからの別称で、「玉のように美しい」と言う意味で、「たまのうら」とも発音され
ます。
この瓊浦游泳協会の実質的な創立者は、当時、東洋日の出新聞社の社員であった西郷四郎と言われています。協会は大正元年
(1912)に創立10周年記念事業として、長崎港の海上を飛行機で滑走させ上空へ飛び上がらせて一般大衆の観覧に供することを
計画しました。まず海上飛行機の設計を当時の日本飛行界の権威である、福岡の陸軍連隊の日野少佐に依頼し、日野少佐が考案した
エンジンを三菱造船所に発注しました。飛行機の機体はヒノキ材で組み立てられた木製のもので、操縦は日野少佐自らが行うことに
なっていました。ところが、この事業は残念ながら大失敗に終わり、4千円の赤字を出したそうです。
当時、民間人が長崎港で飛行機を滑走させるには長崎要塞司令官の許可が必要だったようで、西郷四郎は大正元年10月2日付で
次のとおり 『飛行機滑走許可願』を要塞司令官宛に提出しています。
「 飛行機滑走許可願
今般当協会ハ創立十周年ノ記念トシテ飛行機ヲ作製致候ニ付、来ル十月五日ヨリ十五日迄ノ主ニ
十日間港内浦上淵郷字鼠島ニ於テ一般公衆ノ観覧ヲ許シ、此ノ海上滑走ヲ相試シ度候間、御許可
相成度此段願上候也
瓊浦游泳協会代表者 西郷四郎
大正元年十月二日 長崎要塞司令官 横山彦六殿 」
計画は見事に失敗したということが 『史伝 西郷四郎』〈牧野登著〉 に掲載されていますので、水上飛行機が海上を滑走して
上空へ飛び立つことはなかったようです。この計画はおそらく西郷四郎が中心になって進められたものと思われますが、なかなか
壮大なことを考えるものだと思います。
参考文献:牧野登著 『史伝 西郷四郎』 島津書房 昭和58年
平成28年7月
大村家と会津松平家の関わりについて
初代会津藩主保科正之の六男 正容(まさかた 第三代藩主)の九男は容章(かたあき)という人ですが、20歳の時に分家が許されて
1万石の当主になっています。宝暦9 (1759) 年12月11日、その容章と側室 嘉代との間に次女 留姫 (蓮受院)が生まれましたが、留姫は
第5代会津藩主 松平容頌 (かたのぶ)の養女となって、第9代大村藩主 大村純鎮 (おおむら すみやす 1759~1814)の正室になっています。
文政9(1826) 年に亡くなっています。お墓は東京三田の実相寺にあります。
時代が下って、旧会津藩主 松平容保公の七男 子爵 松平保男(まつだいら もりお 会津松平家第12代当主)の3男6女の第1子として
生まれた長女 芳子は、大村純毅(おおむら すみたけ)と昭和2年12月19日結婚し、東京会館で披露宴を行っています。この時の媒酌人は
大村出身の福田雅太郎陸軍大将と会津出身の柴五郎陸軍大将でした。大村純毅はこの年12月5日に陸軍砲兵中尉に昇進したばかりでした。
昭和3(1928)年8月に長女 正子が生まれ、翌昭和4(1929)年11月には次女 直子が生まれました。正子と直子は松平容保公のひ孫になら
れます。
お二人の父親 大村純毅は昭和8(1933)年5月に大村家の家督を相続し、大村家第33代当主となりました。また、同年6月に父親の持つ
伯爵の身分を継いでいます。
昭和27年12月10日、49歳で大村市長選挙に当選し、第5代大村市長になりました。江戸時代、大村藩の藩主だった大村家の当主が大村市長に
なったわけです。多くの市民が喜んだことと思います。昭和43年12月9日に65歳で市長を退任するまで4期16年大村市長を勤めました。
現在の大村市庁舎は大村純毅市長が在任中の昭和39年10月に完成したものです。
市長退任後の昭和45年には大村湾カントリークラブの初代社長に就任しています。昭和49年3月11日に大村市の名誉市民第1号の称号を
贈られ、同年4月17日に71歳で亡くなりました。
ところで、大村純毅は昭和46年5月会津を訪れましたが、芳子夫人の弟 松平保興の書いた手記によると、戊辰戦争の西軍戦死者151名が
眠る融通寺を大村純毅は訪問し、大村藩士の墓を一つ一つ丁寧に参拝したそうです。市長在任中に会津から依頼を受けて贈った「大村桜」は
大村藩士の墓の集まっている場所に植えられたそうです。春になれば、義兄が贈った大村桜が美しい花をいっぱいつけ、大村藩士の霊をいつまでも
慰めてゆくことであろうと、松平保興は手記の最後に書いています。 (『大村純毅傳』)440~441貢)
大村純毅・芳子夫妻のお墓は大村藩主大村家の菩提寺である本経寺にあります。
昭和51年に発行された 『大村純毅傳』 には、昭和2年12月19日に撮影された大村純毅・芳子夫妻の結婚写真が掲載されています。
芳子夫人はとても美人で気品が感じられます。また、昭和12年8月に大村純毅が日華事変出征を前に家族4人で撮った写真も掲載されており、
白のセーラー服を着た正子・直子のあどけない姿がまたかわいらしいですね。記念に、この二つの写真を大村市立図書館でコピーしてもらいました
が、著作権の関係でここにご紹介できないのが残念です。
本経寺
第9代大村藩主 大村純鎮の墓所
平成28年6月
大村藩の婚姻外交
江戸時代、藩を維持するために養子の藩主を迎えたり、他藩の藩主の娘を藩主の正室に迎えることが数多く行われたようです。
大村藩でもそうでした。以下、ウィキペディアに掲載されているものを紹介します。
1.会津藩主の養女が大村藩主の正室になる
会津藩では初代藩主保科正之の六男 正容(まさかた)が第三代藩主となり、姓を保科から松平に改姓しています。この正容の
九男が容章という人で、容章の長男は容詮(かたさだ)という人で、容詮の長男 容住(かたおき)が六代藩主となり、容住の次男
容衆(かたひろ)が7代藩主になっています。
容章の孫とひ孫が6代と7代の藩主になったわけですが、容章の娘が第9代大村藩主 大村 純鎮 (おおむら すみやす 1759~1814)
の正室になっています。この正室になった人は第5代会津藩主 松平容頌 (かたのぶ) の養女でした。純鎮の長男の第10代大村藩主
純昌(すみよし)の母はウィキペディアによると「均氏」と記載されていることから、純鎮の正室となった会津藩主の養女は残念ながら
世継ぎを産んでいないということになります。正室に子供ができず、側室の子が跡継ぎになる場合が多いですね。
2.大村藩主の子供が白河藩主となる
第10代大村藩主 大村純昌の五男は白河藩の第4代藩主となった阿部正備 (あべ まさかた 1823~1874)です。
第3代白河藩主の阿部正瞭 (あべ まさあきら)が亡くなったため、養子となって跡を継いだわけです。この第3代藩主も養子でした。
そして、この第4代藩主 阿部正備の娘が第8代藩主阿部正静 (あべまさきよ 1850~1878)の二番目の正室となっています。
阿部正静は慶応2年(1866)6月19日に第8代の白河藩主となりましたが、同日付で棚倉藩へ転封を命じられました。戊辰戦争では
奥羽越列藩同盟に参加し、新政府軍と白河口で戦いましたが、敗れて降伏しています。戦後は東京へ強制隠居処分に処せられました。
この時、阿部正静はまだ18歳という若さでした。
3.大村藩主の娘が真田藩主の正室となる
大村藩最後の藩主 第12代の大村純熈 (おおむら すみひろ)の次女 隆子は松代藩最後の藩主 第10代の真田幸民の正室になって
います。
4.余談
最近出版された『新編大村市史 第四巻近代編』 にとても興味深いことが記載されていますので、ご紹介します。
会津戦争に加わった大村藩兵は、明治元年10月7日福島に着陣しましたが、大村藩士で新政府軍参謀の渡辺清は米沢から福島にやって
来て大村藩隊と合流し、10月10日、大村藩兵とともに白石に北上した時、盛岡藩平定の報を聞いたため、福島に戻っています。10月14日に
福島を出発して帰途に就きましたが、この時棚倉藩主の阿部正静と元白河藩主の阿部正備を警衛しています。阿部正備は第10代大村藩主
大村純昌の五男であり、現大村藩主の純熈(大村純昌の十男)の実兄です。棚倉藩はこの関係を利用し、棚倉藩士が新政府軍の軍役夫と
なることを条件に棚倉藩への救援を新政府軍参謀の渡辺清に依頼しました。
渡辺清は元白河藩主の阿部正備が大村藩主純熈の実兄という由縁から正備への忠義は大村家の忠義と同じと見なし、棚倉藩の依頼を
了解したそうです。
なお、おそらくこの後でしょうが、棚倉藩主を強制隠居された阿部正静は阿部正備の実の娘を二番目の正室に迎えています。阿部正備は
明治7年に52歳で亡くなりましたが、阿部正静は明治11年に28歳の若さで亡くなりました。
阿部正静の正室となった阿部正備の娘はその後、京極高典の正室となり、最後は大久保忠礼の正室となりました。阿部正静はなんとなく
悲劇のヒーローのような気がしますが、皆さまはいかがでしょうか。
平成28年5月
柴五郎と佐世保要塞司令部
会津出身の陸軍軍人 柴五郎(1860~1945)は、大正8年(1919年)8月に陸軍大将になり、同年11月に台湾軍司令官に進んだ後、
大正10年(1921年)5月軍事参議官になり、大正12年(1923年)3月に予備役を仰せ付けられています。
明治33年(1900年)3月、39歳の時に清国公使館の駐在武官となって北京に赴任しますが、山東省で発生した義和団が6月に北京に
攻めて来た時は、8月に8ヵ国連合軍が北京に入城するまで各国軍が協力して公使館区域に籠城していますが、柴五郎中佐がこの籠城
戦で実質的な指揮を執り、その奮闘ぶりは各国から称賛され、乱平定後各国政府から勲章まで授与されています。
実はこの明治33年6月に陸軍佐世保要塞司令部が佐世保要塞砲兵連隊内に設置されています。日下義雄が長崎県令として赴任して
来た直後の明治19年5月に海軍の鎮守府が佐世保に設置されることが決まり、明治22年7月1日に佐世保鎮守府が開庁するのですが、
佐世保軍港を防御するために陸軍の佐世保要塞砲兵連隊が明治30年10月に設置されました。佐世保要塞司令部が設置された2ヶ月後の
8月に庁舎が光月町に新しく完成したことから、司令部はそこに移転しています。現在、体育文化館が建っている付近です。初代佐世保要塞
司令官は長州出身の山根武亮少将です。5代目の司令官として赴任したのが柴五郎少将で、明治41年(1908年)12月21日から明治42年
(1909年)年8月1日まで就任しています。この要塞司令官という職は当時「ヨウナイ司令官」と蔭口をたたかれていた閑職だったそうで、柴五郎
少将は佐世保勤務はに1年も満たずに、重砲兵第2旅団長として翌年8月下関へ転勤しています。下関へ赴任する途中、長崎市を家族で
訪問しています。
佐世保要塞司令部の庁舎
(『地図でみる佐世保』から掲載)
明治43年頃の佐世保重砲兵大隊の写真
(佐世保要塞砲兵連隊の後身)
(『佐世保市史 軍港史編』 上巻から掲載)
参考文献
ウィキペディア 『柴五郎』
ウィキペディア 『佐世保要塞』
『佐世保市史 通史編』下巻 佐世保市史編さん委員会編 佐世保市発行 平成15年
『させぼ歴史散歩』 筒井隆義著 芸文堂 平成17年
『地図でみる佐世保』 平岡昭利編著 芸文堂 平成14年
平成28年4月
高津平蔵 ~対馬を訪れた会津藩士~
高津平蔵は佐藤覚左衛門信庸の第4子として天明5(1785)年に生まれています。名は泰、字は平甫といい、通称は平蔵です。
後に、淄川と号しました。「淄」という字は「溜」の字の異体字です。実父の信庸が樋口家から佐藤家の養子となったように、平蔵も
高津伝吾成良の養子となって、高津家を継いでいます。一時期、実父の旧性樋口を名乗ったこともありました。母親は長崎に遊学して
王義之の筆法を清国人から学んだ会津藩の書家の加賀山蕭山の妹です。
文化5(1808)年、25歳の時に北方警備のため、家老北原采女に従って樺太に9ヵ月間派遣されていますが、その時の記録として、
『終北録』を著しています。これは会津藩の樺太出兵に関する唯一の記録になっています。
文化8(1811)年、28歳の時に高津平蔵は、藩命により幕府の学問所である昌平坂学問所(昌平黌)に入学して、林大学頭述斎や
古賀精里に師事し、朱子学を学んでいます。古賀精里は佐賀藩出身の儒学者で、佐賀藩多久出身の儒学者 草場佩川も同じ時期に、この
昌平坂学問所で古賀精里から学んでいます。
この文化8(1811)年3月29日、江戸時代最後となる朝鮮通信使の一行が対馬にやって来ました。応接のため日本側の使者が対馬に
派遣されましたが、林述斎や古賀精里に随行して高津平蔵と草場佩川も対馬に赴いています。草場佩川はこの時の記録として 絵入りの
『津島日記』を著していますが、高津平蔵と共に行動した様子も記述しており、平蔵のことを「樋口」と記述しているところがあるところ
から、平蔵はこの頃はまだ高津家の養子にはなっておらず、樋口姓を名乗っていたものと思われます。
実は、高津平蔵と草場佩川はこの時、朝鮮の使者との筆談による通訳を務めていました。古賀精里や朝鮮通信使の製述官 李顕相(号は太華)
らが著し、草場佩川が編纂した『対礼餘藻』 の中で李顕相は、
「 両位少年高士孰是淄川誰為珮川 」
(両位の少年高士、孰れが是れ淄川、誰をか珮川と為す)
と二人のことを記述しています。また対馬で林述斎の通信使応接の代行を務めた松崎慊堂が著した『接鮮瘖語』という書物の中で、製述官
李顕相の言として、古賀精里と高津平蔵、草場佩川のことを次のように称賛しています。
「昨、病枕に於いて、精里公の詩文を見るを獲たり。其の学術文章、俱に極めて超詣、従者の諸詞伯も亦た皆な翩翩と
して凡庸の才格に非ず。何ぞ其れ盛んなるや。」
「超詣」(ちょうけい)とは造詣抜群なことをいい、「翩翩」(へんぺん)とは筆勢が軽妙な様子をいいます。 (高橋博巳著 『草場佩川』 31項)
6月25日、朝鮮通信使一行が対馬府中を出港するのを見送った後、7月2日には高津平蔵と草場佩川は有明山を越えて佐須郷に
ある廃寺で朝鮮仏像を見学し、小茂田へ行って、蒙古軍と戦って戦死した宗助国公の碑を見学しています。
対馬を出航したのは7月4日でした。対馬に2ヶ月間滞在した高津平蔵は後に『対遊日記』を著しています。
高津平蔵は学識が豊かで、詩文にも優れ、佐賀藩の草場佩川と並び東西の「儒者二川」と称されました。また、藩校 日新館の
教授として多くの子弟を育成するとともに、松平容衆、容敬、容保の3代の藩主の侍講も務めました。
嘉永6(1853)年に吉田松陰が会津を訪れた時、海防などに詳しい高津平蔵は松陰に教えを授けています。慶応元年10月20日に
病のため81歳で亡くなりました。
なお、高津平蔵の次男 高津仲三郎は戊辰戦争後、会津にできた新政府の役所である民政局の役人となって会津の人々を苦しめた旧越後
藩士の久保村文四郎を束松峠で伴百悦、井深元治らと共に斬殺しています。
高橋博巳著 『草場佩川』 2013年 佐賀県立佐賀城本丸歴史館
辛基秀・仲尾宏編 『善隣と友好の記録 体系朝鮮通信使 第8巻』1993年 明石書店
佐賀大学電子図書館・『津島日記』、『対礼餘藻』
ブログ 『福島の歴史物語』
ウェブサイト 『会津の著名人』
平成28年3月
北原雅長と歌集について
初代長崎市長の北原雅長が序文を書いた歌集が長崎歴史文化博物館に保管されています。印刷されたのは明治24年(1891年)で、この時は
北原雅長にとって長崎市長就任3年目の年にあたり、満49歳の時でした。この時期、北原は既に立派な歌人になっていたようです。薄い冊子のこの
歌集の名称は「花かつら」というもので、当時の長崎で第一の歌人と言われた中島広行が80歳になったのを祝って印刷されたもので、中島広行の
大勢の弟子たちが詠んだ短歌などが掲載されています。長崎県内の歌人の作品以外にも北海道や東京、京都、熊本など全国から作品が寄せられ
ています。
では、中島広行とはいったいどういう人物だったのでしょうか? 「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に紹介されていますので、紹介します。
中島広行 なかじま-ひろゆき
1817-1900 幕末-明治時代の歌人、神職。
文化14年生まれ。肥後(熊本県)で長瀬真幸に、長崎で中島広足(ひろたり)に国学をまなび広足の養子となる。慶応4年長崎府国学
教授方取締助教、ついで広運館本学局教授となる。明治28年長崎諏訪(すわ)神社宮司(ぐうじ)。明治33年2月8日死去。84歳。肥前
島原(長崎県)出身。本姓は植木。初名は隼太。
この歌集には北原雅長の作品も掲載されています。私にとって意外だったのは、北原雅長の歌のすぐ隣に金井俊行の作品が掲載されていることです。
金井俊行は明治22年(1889年)の初代長崎市長選挙では北原と争った人物で、その時は長崎県知事の日下義雄とともに長崎に上水道を敷設しようと
した長崎区(長崎市の前身)の区長でした。選挙では争っても同じ歌人仲間だったようです。
北原雅長と金井俊行の短歌を掲載しておきます。
すかの根のなかき春日の長かれとねかふは君か齢也けり 北原雅長
玉園の宮居とともにいやなかなか君か齢をいはひつるかな 金井俊行
プライベートな話になりますが、私も新年の目標として短歌を始めようと思い、まずは百人一首から覚えようと思って本を購入して覚え始めたのですが、
まだ最初の4つしか覚えていません。 これでは100覚えるには時間が相当かかりそうです。
平成28年2月
山川健次郎の長崎訪問
1月27日付の西日本新聞に 『九大初代総長の日記発見 近代教育の礎築いた山川健次郎 九州各地の視察裏付け』 という見出しの記事が
掲載されました。昨年2月に研究者が山川健次郎の子孫の家で約200ページの健次郎直筆の手帳を1冊見つけたもので、その中には、明治40年
1月~2月と42年2月に九州を訪れた時の日記も含まれているそうです。
当時、山川健次郎は九州工業大学前身の私立明治専門学校の設立準備を行っていましたが、文部省の教員評価などにも携わっていたそうで、
明治40年1月~2月に大分と宮崎を除く九州各県の学校を視察して回っています。
1月27日付けの西日本新聞には、長崎での様子も紹介されており、長崎高等商業学校 (後の長崎大学経済学部)を訪問した際、隈本
校長から予算が増えれば生徒も増やせるという趣旨の提案に対して、現在専門教育機関が不足しているので、ぜひ決行したいと賛同したそうです。
当時の新聞記事によると、山川健次郎は明治40年1月20日から25日まで5泊6日の行程で長崎県を訪れています。
行程は次のとおりです。
1月20日 午後6時頃熊本から長崎市に到着。平戸町(現在の万才町)の伊崎屋に宿泊。
1月21日 午前 長崎県立長崎中学校を視察、講演を行う。
午後 長崎高等女学校を視察、講演を行う。
1月22日 午前 長崎県師範学校を視察、講演を行う。
午後 長崎高等商業学校の校長から懇請され、同校を視察。その後、大村の長崎県立中学玖島学館
(県立大村高校の前身)を視察、講演を行う。
1月23日 平戸の長崎県立中学猶興館(県立猶興館高校の前身)を視察。
1月24日 平戸滞在
1月25日 平戸を発って、佐世保経由で佐賀県を訪問。
なお、県立長崎中学校、長崎高等女学校 長崎県師範学校での講演は、東洋日の出新聞や長崎新聞に連日掲載されていますが、私のこのホーム
ページの「山川健次郎」の項に紹介していますので、ぜひご覧いただければと思います。
明治40年1月26日付けの長崎新聞には、山川健次郎の発言として、「近頃、わが国の中学校では教員も生徒も中等教育の目的を偏解しているから
困る。中学校の教員は中学校の目的を全く高等学校入学の準備所と心得ている。中学校は完全なる国民を養成する所であって、その傍ら高等学校入学
の準備所であることを了知してもらいたい。」と述べたそうです。
山川健次郎の講演内容のうち、女学校で述べた恋愛論や女子教育についての考え方は非常に興味深いものがあります。
明治40年1月22日付 東洋日の出新聞
平成28年1月
長崎會津会発足
昨年6月20日、幕末・明治期に長崎で活躍した会津出身者の功績を広く長崎県内外に紹介するとともに、長崎と会津のかけはしとなることを目的と
して長崎に長崎會津会という団体が誕生しました。白虎隊の会長崎支部(工藤新一支部長)を母体にして発足したもので、会長に大堀哲長崎歴史文化
博物館館長、顧問に木下健長崎総合科学大学学長が就任されています。
大堀会長は福島県の会津坂下町のご出身で、平成17年11月3日に開館した長崎歴史文化博物館の館長に当初から就任されています。
木下健顧問は山川健次郎のひ孫にあたられ、昨年3月東京大学教授を定年退官された後、翌4月から長崎総合科学大学の学長に就任されています。
昨年6月20日、長崎會津会の発足と木下健氏の長崎総合科学大学学長就任を記念して 『長崎と会津をつなぐ絆』 と題する講演会が開催されました。
まず、工藤新一白虎隊の会長崎支部長が『長崎の中の会津』と題して日下義雄初代長崎県知事や北原雅長初代長崎市長、柔道家西郷四郎など会津
人が長崎でいかに活躍したかについて紹介がありました。
その後、白虎隊の会本部の副会長で長崎會津会の顧問である木下健氏が『私が聞いている山川家の人々』と題して、大河ドラマ「八重の桜」で活躍した
山川大蔵や弟の健次郎など山川家の人々についてご紹介いただきました。講演の中で山川健次郎は東京帝国大学や京都帝国大学の総長の他、九州
帝国大学の初代総長や九州工業大学の前身である明治専門学校の初代総裁にも就任しており、九州とも縁が深い人物であったことが紹介されました。
そして、長崎會津会は12月5日に、『長崎と会津をつなぐ絆』2回目の講演会を開催しています。近代統計学の祖 杉享二と南洋の砂糖王 松江春次の
ご子孫である松宮伊佐子氏が 『長崎と会津をつなぐ私の家族たち』 と題し、また松宮克昌氏 (松宮伊佐子氏の御主人) が 『近代統計学の祖 杉享二伝』
と題して講演されました。杉享二(すぎ こうじ 1828~1917)は長崎の出身で、胸像が長崎市の長崎公園内に建てられています。松江春次(1876~1954)は
旧会津藩士 松江久平の次男として会津若松で生まれています。松江春次は南洋興発株式会社を設立し、サイパン島やテニアン島に製糖工場を作るなど
して南洋群島最大の企業として発展させ、その経営手腕から「砂糖王」と言われるようになりました。松宮伊佐子氏は、杉享二と松江春次のご子孫にあたられ、
長崎人と会津人の血を引いておられます。なお、松江春次の兄 松江豊寿は第一次世界大戦中、ドイツ人捕虜を収容した板東俘虜収容所(徳島県鳴門市)の
所長だった人で、映画『バルトの楽園』で一躍有名になりました。
長崎会津会は同じ12月5日に、長崎で活躍した会津人に関係のある史跡巡りを行った後、日下義雄の最初の妻 可明子夫人のお墓の清掃を行っています。
杉享二の胸像
西郷四郎のお墓を訪問
日下可明子夫人のお墓を清掃
平成27年12月
米内光政と佐世保
米内光政(明治13年(1880)-昭和23年(1948)は海軍軍人で、連合艦隊司令長官、海軍大臣、内閣総理大臣になった人ですが、出身は岩手県の
盛岡です。盛岡と言えば慶応4年(1868)5月に成立した奥羽越列藩同盟に盛岡藩も参加しています。
そして同年8月、盛岡藩は奥羽越列藩同盟を離脱して新政府軍に寝返った久保田藩(秋田県)へ攻め込むのですが、9月25日に新政府軍に降伏
しています。米内光政の父親は盛岡藩の貧乏士族出身です。
米内光政は昭和12年(1937)2月から昭和14年(1939)8月までの海軍大臣在任中、山本五十六次官とともに、陸軍が進める日独伊三国軍事同盟
締結に反対し続けます。この同盟を締結すると米英を敵に回すことになり、米英と戦争しても日本に勝ち目はないことを十分知っていたからでした。
陸軍に味方する右翼によって暗殺される危険があったのですが、大臣在任中はずっと同盟締結に反対し続けました。そして米内は昭和19年(1944)
7月から昭和20年(1945)11月まで2回目の海軍大臣を経験するのですが、この在任中に戦争終結に尽力します。ポツダム宣言後、原爆が投下されたり
ソ連が参戦しても陸軍などは本土決戦を主張するのですが、米内は最高戦争指導会議で本土決戦に反対し続け、最終的に天皇が戦争終結の決断を
して終戦を迎えました。
実は米内光政は佐世保と縁があり、三度も佐世保に勤務しています。最初は中尉時代の明治37年に佐世保鎮守府附となり、日露戦争の最中、
佐世保の丸善醤油の古賀家に宿泊していました。おかげで醤油の作り方を覚えたそうです。二度目は中佐の時で佐世保鎮守府の参謀でした。
三度目は中将時代の昭和8年(1933)に佐世保鎮守府司令長官に就任しています。佐世保や長崎の芸者たちに人気があり、よくもてたそうです 。
(阿川弘之著 『米内光政』) また、米内は大正13年(1924)、大佐時代に戦艦「陸奥」の艦長になりますが、当時「陸奥」の母港は佐世保になって
いました。陸奥といえば、微量の放射線漏れを起こして問題扱いされた原子力船「むつ」が思い起こされますが、佐世保で修理されたのも、かつて
「陸奥」が佐世保を母港としていたことと関係があるのかもしれませんね。
昭和14年、米内が海軍大臣時代に、佐世保銀行と佐世保商業銀行が合併することになった時、佐世保に縁の深い米内大臣に 名づけ親になって
ほしいとの依頼があり、米内は「親和銀行」という名前をつけてやったそうです。現在も親和銀行本店内に米内直筆の「親和 光政書」と書かれた額が
飾られているそうです。
米内光政は佐世保鎮守府司令長官として赴任する途中に持った記者会見で、記者たちに次のように語ったそうです。
「僕は実際、佐世保を郷里のように思っている。今度も、佐世保へ来たというより佐世保へ帰ったという気持だ」
確かに、佐世保は人情の篤い所という気がします。佐世保の商店で買い物をする時にたびたびそう感じたことがありました。
米内光政は昭和天皇の戦争反対のご意思をよく理解していたため、昭和天皇から深い信頼を寄せられていたそうです。
盛岡市にある盛岡市先人記念館には米内光政記念室が設けられており、昭和天皇から下賜された硯箱なとが展示されています。
参考文献: 阿川弘之著 『米内光政』
平成27年11月
東洋日の出新聞社で活躍した西郷四郎
東洋日の出新聞は明治35年 (1902)1月1日長崎市において創刊されていますが、『史伝 西郷四郎』 (牧野登著) によると、
発行人鈴木力 (天眼)、編輯人西郷四郎、印刷人丹羽末広だったそうです。長崎県立長崎図書館で創刊当初の新聞を見たいと思って
同図書館郷土課を訪れたところ、明治35年の1月と2月の同新聞は当館にはないということでした。そこで3月の東洋日の出新聞を見たところ、
第1面にはまだ発行人、編輯人、印刷人は記載されていませんでした。4月も同様ですが、4月5日の記事に 「神保修理の事」、
4月8日の記事に 「神保修理」 と題して第1面に旧会津藩士のことが紹介されていますが、創刊間もないこの時期に旧会津藩士のことを
紹介しているのは同じ会津出身の西郷四郎の意思が働いていたのではないでしょうか。このウェブサイトの 「神保修理」 の項にこの2つの記事を
掲載していますが、これを見ると第1面にはまだ発行人、編輯人、印刷人が記載されていないことがわかります。
翌年の明治36年3月1日の新聞第1面を見ると、発行人鈴木力、編輯人尾池義雄、印刷人丹羽末広と記載されています。この尾池義雄という
人物は創立社員10人のメンバーに含まれていません。
このウェブサイトの 『西郷四郎の記事』 の項に明治36年11月10日の新聞を掲載していますが、これを見ると発行人鈴木力、編輯人福島熊次郎、
印刷人丹羽末広となっていて、編輯人だけが代わっています。この時期は西郷四郎は朝鮮と清国との国境の都市義州に特派員として派遣されて
います。
いつからかは調べていないのでわかりませんが、明治38年に東京帝国大学総長を辞任した旧会津藩士の山川健次郎が明治40年1月に
長崎を訪問した時、東洋日の出新聞は連日山川健次郎の講演内容を紹介していますが、この時の第1面には発行人兼印刷人西郷四郎、
編輯人福島熊次郎と記載されています。
西郷四郎は新聞の発行や編輯・印刷に関わるばかりでなく、新聞記者として日露戦争直前の朝鮮や辛亥革命勃発時の中国から記事を送って
いますが、長崎にいる時にもしばしば記事を書いています。明治36年3月4日の夜、長崎駅で巡査1名と車夫1名が刃物で殺害されるという県下を
騒がす事件が起こりましたが、東洋日の出新聞は連日この事件を報道しています。多良岳に逃げ込んだ犯人を追って警官100名が捜索に
繰り出されましたが、西郷四郎も特派員として諫早に派遣されています。
3月9日の新聞に 『兇賊追跡の特派』 と題する記事が掲載されていますので紹介します。
「長崎県下をさわがしたる今回の兇賊は深く多良岳の奥に遁れたりとて、警部長署長を始め百名の警吏該方面に繰出し、
草を分けても探し出さんといきまくその苦労や誠に多とすべく、実に近来の大珍事たり。これについて本社は昨朝あたりは
兇賊就縛の報に接すべしと期待せし所、待てどもその報に接せざるより、ここに社中の一名を選抜し兇賊の追跡に任じて
各警吏苦心の実情を視察し、場合によりては危地をも踏む事に決しすなわち昨午後の汽車にて右選抜されたる特派員
西郷四郎氏は諫早方面へ急行したり。
しかる所午後4時5分諫早発にて西郷特派員は左の電報を送り来る。
嬉野彼杵方面へ逃れたる形跡有り今より行く
これによれば賊は山中より脱し里に出でたるものと見ゆ。果たしてこれがため彼の天網にかかる事を早むべきか否か
いずれ後報を待つ外なし。」
そして3月14日と15日の2回に分けて、『怪賊追跡行』と題する記事が西郷四郎の名前で掲載されています。なお、犯人は4月2日に熊本で
逮捕されましたが、東洋日の出新聞は4月3日に号外を出して、詳細を伝えています。やはり西郷四郎が特派員に選ばれたのは彼が柔道家
だからでしょう。実際3月7日の記事によると、北高来郡湯江村で犯人を逮捕しようとした巡査が犯人から重傷を負わされています。
いつか3月14日と15日の『怪賊追跡行』と題する記事をこのウェブサイトに掲載したいと思います。
平成27年10月
日下義雄長崎県知事への欧米人からの感謝状
先月5日、長崎歴史文化博物館で開催された大堀館長の今年度第3回館長ミュージアムトークに行って来ました。今回のテーマは、『長崎居留地を
舞台に活躍した人たち ~ フレデリック・リンガーと日下義雄 (初代長崎県知事)を中心に~』 というものでした。日下義雄のことが説明されると知り、
興味を持って聴講しました。内容は期待したとおり素晴らしいご講演でたいへん感動した次第です。内容はレジメに書かれてあるものから簡単にご紹介
しますと、
1.長崎居留地の整備と明治日本の近代化
(1)長崎居留地の誕生 (2)長崎港を埋めた3回の造成工事 (3)居留地造成の難工事を請け負った天草の人
2.明治期の長崎居留地~古写真から~
(1)第3次造成工事が完了した明治7年頃の長崎居留地 (2)明治20年代以降の長崎居留地
(3)居留地全盛の明治20、30年代の長崎居留地
3.居留地を舞台に活躍した人々
(1)トーマス・グラバー (2)倉場富三郎 (3)ウィリアム・オルトの活躍、(4)イギリス出身のウォーカー兄弟の活躍 (5)フレデリック・リンガー
(6)居留地における長崎の環境と基盤の近代化に尽力した日本人①瓜生 震 ②日下義雄
という構成でした。
大堀館長のご講演の中で最も印象に残ったのは、長崎の上下水道整備に尽力する日下義雄に対して長崎居留地に住む欧米人が感謝状を贈ったと
いう部分です。私はこの事実を初めて知り、とても感動しました。当時、長崎ではたびたびコレラが流行してたくさんの人々が亡くなっています。コレラが
流行する原因はなんといっても上下水道が整備されていなかったことにありました。当時の長崎はまだ水道というものはなく、井戸水やわき水などに
頼っていたため、長崎を訪れる外国人が排泄する大便からコレラ菌が地下水に入り込んで、コレラが流行したようです。
日下義雄はかつてアメリカやイギリスに留学していたので英語を流暢に話すことができたそうで、長崎居留地に住む欧米人とも親しく交流したようです。
特に貿易商フレデリック・リンガーとは友情を築いて長崎での水道設置や長崎港の生活環境改善などさまざまな活動で、フレデリック・リンガーから支援
してもらっています (ブライアン・バークガフニ著 『リンガー家秘録 1868-1940 』 P79)。
ちなみに、長崎ちゃんぽんの「リンガーハット」はこのフレデリック・リンガーの名前からとったものだそうです。
日下義雄知事は長崎に水道を作るため東京に出かけて政府に資金援助を要請しましたが、長崎に帰って来ると、居留地の人々から英雄として迎え
られたそうです。それだけ居留地の人々は水道設置を切実に望んでいたわけですね。ブライアン・バークガフニ長崎総合科学大学教授の上記の書物に
よると、長崎在住の欧米人たち63人がフレデリック・リンガーを筆頭にして署名し、感謝のメッセージを次のとおり書いているそうです。
「我々からみて、貴殿の責任感を持ったこの1年間の行動は非凡なものであり、さまざまな困難が 取り 除かれたことは、貴殿の機転と根気強い
ご尽力があってのことだと感じております。 その関係で、我々が特に感心しておりますのは、貴殿が去年夏に起きたコレラの大流行の際に 取ら
れた評価すべき対策、そして公衆衛生の包括的なシステムに対する貴殿の絶え間ない努力と 配慮であります。」
(明治20(1887)年2月12日付の感謝状)
明治20年当時、長崎の居留地にどのくらいの外国人が住んでいたかわかりませんが、63人という多くの外国人が日下義雄に感謝状を贈ることに
賛同したという事実に、日下義雄の誠実さ、勤勉さが感じられるのは私だけではないと思います。
参考文献 ブライアン・バークガフニ著 『リンガー家秘録 1868-1940 』 2014年 長崎文献社
写真: 長崎歴史文化博物館提供
平成27年9月
山本五十六について (2)
先日、阿川弘之著 『山本五十六』(新潮文庫)をやっと読み終わりましたが、またもう一つ長崎県とご縁のある事実を知ることができました。
というのは、山本五十六連合艦隊司令長官は前線視察のためニューブリテン島のラバウルからバラレ島の海軍基地へ向かう途中、ブーゲン
ビル島の上空で待ち伏せしていたアメリカ軍戦闘機に銃撃されて即死するのですが、山本の乗っていた飛行機はそのまま撃墜されて、同島
のジャングルに墜落しました。
当時、ブーゲンビル島南端のブインには海軍の佐世保鎮守府で編成された第六特別陸戦隊が駐屯していました。この陸戦隊の中から捜索
隊を出して墜落した山本長官機を捜索させたのですが、なにせ現場は深い密林で、樹木で覆われているので、捜索するのはなかなか容易な
ことではなかったようです。午前中捜索に出かけたのですが、その日は探すことができず、翌日も夕方近くまで探し出すことができずに疲労で
ぐったりして休んでいたところ、先に山本機を発見して駐屯地に帰る途中の同島駐留の陸軍部隊と遭遇し、山本機を発見したことを聞きます。
翌日早朝、その陸軍部隊に案内してもらって佐世保第六特別陸戦隊は山本長官以下11人全員の遺体を用意していた担架に載せて、ブインの
海軍基地(第一根拠地隊)へ運んだのでした。遺骸はその翌日そこから車で15分ほど離れたところにある佐世保第六特別陸戦隊の農場でダビ
に附されたそうです。
以上の事実を知って、私は早速休日を利用して佐世保にある旧海軍墓地(東公園)を訪れました。インターネットで検索して佐世保第六特別陸
戦隊の慰霊碑が旧海軍墓地にあることを知ったからでした。慰霊碑の前で黙祷し、慰霊碑をカメラに収めました。公園内にある休憩所に入って
みると入口に社団法人佐世保東山海軍墓地保存会発行の「佐世保東山海軍墓地 墓碑誌」という本がありました。それによると、佐世保鎮守府第六
特別陸戦隊が佐世保を出発した昭和17年9月2日に1558名いた隊員が、米軍による空襲や飢餓、マラリアなどで多数の犠牲者が出て、昭和
20年8月27日に最後の閲兵式を実施した時、参列した隊員は500名にも満たなかったそうです。
私はこの旧海軍墓地を訪問した後、海軍史料館も見学に行きましたが、そこには山本大将の書いた書が展示されていました。明治16月2月に
連合艦隊が佐世保に寄港していますので、その時に書かれたものかもしれません。さすが長岡の出身らしく、その書には長岡藩の藩是である
「常在戦場 」という文字が書かれてありました。写真撮影が禁じられているのが残念でした。
参考文献
阿川弘之著 『山本五十六』 新潮文庫
志岐叡彦著 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』
ウェブ 『ぶらり重兵衛の歴史探訪』 →「旧陸海軍部隊と遺跡」→「佐世保鎮守府第6特別陸戦隊」
http://www.geocities.jp/bane2161/satin6rikusentai.htm
平成27年8月
山本五十六について (1)
連合艦隊司令長官と言えば東郷平八郎と山本五十六の二人がすぐ頭に浮かぶほど、この二人はあまりにも有名ですね。
今回は山本五十六について述べたいと思います。大部分、阿川弘之著 『山本五十六』(新潮文庫) からの引用であることを前置きしておきます。
山本五十六は明治17年に旧長岡藩士高野貞吉の六男として、新潟県の長岡で生まれています。父貞吉が56歳の時に生まれたので、五十六と
名付けられています。彼は戊辰戦争の時、長岡藩の総督として新政府軍と戦った家老の河井継之助を尊敬していたそうで、「河井先生の小千
行きの時、西軍に一人の西郷がいたら、長岡藩を賊軍の汚名から免れさせ、長岡を兵火から救うことが出来たろうに」と、しばしば人に語っていた
そうです。
山本五十六が海軍(兵学校)に入ったのは明治34年で、高野五十六だった彼が養嫡子として山本家の相続人となったのは大正4年5月で、この
時大尉でした (同年12月少佐に進級)。山本家は長岡藩で代々家老の家柄で、戊辰戦争時は山本帯刀義路(やまもと たてわき よしみち)が会津
の飯寺村で遊撃隊長として奮戦していましたが、新政府軍の宇都宮藩兵から捕縛されて、斬られています。明治維新後山本家はお家断絶とされて
いたところ、明治16年に家名再興が許されて帯刀の長女の鈖治(たまじ)が当主となりましたが、跡継ぎがいなかったので、それから31年後に五十
六が望まれて山本家の相続人となった次第です。改姓の届出がなされたのは翌年の大正5年9月20日です。
そんな五十六がまだ高野五十六であった28歳の時、すなわち大正元年12月1日付けで佐世保鎮守府予備艦隊参謀として佐世保に赴任して来て
います。赴任して来てすぐ佐世保の料亭 「宝家」で宴会があった時に小太郎と言う名でおしゃくに出ていた鶴島正子と知り合いになりました。正子は
諫早の生まれで本名をツルと言い、この時まだ弱冠12歳でした。おませな美人だったそうで、海軍士官たちから可愛がられていたそうです。五十六
はこの正子を佐世保の大きな料亭の一つ、「いろは」によく呼んで踊らせ、自分は寝転んでそれを眺めて遊んでいたそうです。また、正子は山本に
おんぶされて、よく菓子や果物を買いに連れて行ってもらったりしています。この鶴島正子は大正の初めの頃、「文芸倶楽部」という雑誌の表紙に
「九州一の名花」という説明入りの写真が掲載されたことがあったそうです。
山本は佐世保鎮守府予備艦隊参謀として勤務後、軍艦「新高」砲術長 横須賀鎮守府副官兼参謀、第二艦隊参謀、海軍教育本部部員などを歴任
しますが、大正7年8月に旧会津藩士 三橋康守の三女、礼子と結婚する少し前に佐世保で偶然再会し、それから急に関係が近くなり、よく手紙を交換
するようになりました。山本からもらった手紙がスーツケースに一杯になるほどでしたが、空襲で全部焼けてしまったそうです。昭和15年の春、正子が
40歳の時、佐世保市内に 「東郷」 という小店を持って、その家の女将になっていましたが、連合艦隊旗艦の「長門」が別府に入った時、佐世保から
わざわざ別府まで出かけて行って山本と逢っています。また、翌昭和16月2月に、連合艦隊が佐世保に入った時、入港中の四、五日間、「東郷」で
司令長官山本の身辺のお世話をしたそうです。山本五十六の愛人と言ってもいいこの鶴島正子は、昭和43年11月11日に亡くなるまで生涯を独身
で通しましたが、山本の周囲のほんの一握りの人たちから、「山本五十六の初恋の人」として知られていたそうです。 (敬称略)
参考文献
阿川弘之著 『山本五十六』 新潮文庫
ウィキペディア 「山本五十六」
平成27年7月
清国水兵暴動事件時の清国艦隊長崎入港日について
明治19年(1886)と言えば、旧会津藩士の日下義雄が第8代の長崎県令として長崎に赴任して来た年です。前職は明治18年10月22日に
任命された農商務省駅逓局(えきていきょく)の総監監房長で、駅逓局と工部省電信局などが合併して同年12月22日に逓信省が設置されますが、
日下義雄は12月28日に逓信省の大書記官も兼任しています。 なお、この明治18年12月22日に太政官制が廃止されて内閣制度が始まり、
初代内閣総理大臣に伊藤博文、外務大臣に井上薫が就任し、逓信大臣には榎本武揚が就任しています。日下義雄の長崎県令発令は明治19年
2月25日ですが、実際に長崎にやって来たのは3月21日です。7月12日に県令廃官となり、7月19日に官制改正により長崎県知事に任命されて
います。長崎県知事という職名としては日下義雄は初代ということになります。
前置きが長くなりましたが、日下義雄が長崎にやって来てまだ4ヶ月余りしかたっていないのに、国を震撼させるような大事件が8月に長崎で起こり
ました。清国の北洋艦隊の4隻がウラジオストクから清国へ帰る途中、長崎に寄港したのですが、長崎に上陸した清国水兵が8月13日と15日に
市民に乱暴を行い、ついには、警官隊と衝突しすさまじい乱闘戦が繰り広げられました。この事件で日本側死者2名・負傷者29名、清国側死者8名・
負傷者42名を出して日本と清国との間で外交問題になり、伊藤博文は外務省内にこの事件を処理するために1局を設けさせています。9月に入って
長崎で両国の委員3名ずつからなる調査委員会で談判が始まりましたが、日下知事も日本側委員の一人になって談判に参加しています。しかし、
いっこうに解決することができず、長崎での談判は11月に打ち切られ、翌20年2月8日になって井上薫外務大臣と徐承祖(じょ しょうそ)欽差大臣との
間で条約が締結されて事件が解決されました。
さてここから本論ですが、清国艦隊が長崎に入港したのは既に出版されている書物では8月1日と記載されていますが、これは間違いで本当は8月
10日なのです。最近出版された長崎史談会・長崎市観光政策課発行の 『まちなかガイドブックⅡ』 という書物にも8月1日と記載されています。
この本は 『長崎県警察史 上』 (長崎県警察本部 昭和51年発行)という本から引用しているようですが、この本自体がまちがっているので同じ間違い
をしているものです。そもそも8月1日に入港したのなら事件はもっと早く発生したはずではないでしょうか? 当時の新聞を見てみると、明治19年8月
11日付けの鎮西日報に「清艦入港」という見出しで次のとおり記載されています。
「予定の如く定遠(旗艦)、鎮遠・済遠・威遠の3号は孰(いず)れも昨10日午后1時40日分浦潮斯徳より入港せり。定遠と鎮遠とは船底
頗(すこぶ)る損し居れば近く立神船渠に入れ外部修繕をなすならんといへり。」
この記事によると 「予定の如く」 と報道されているので、事前に長崎側へは連絡されていたことがわかります。詳細については、このホームページの
『清国水兵暴動事件時の清国艦隊長崎入港日について』 と、『日下義雄』 に記載していますので、ご覧いただけたら幸いに思います。
それにしても残念ながらこのホームページを訪れる人が少ないので、この誤った入港日のことについては長崎史談会の会報に投稿するなどして
周知していきたいと思います。平成25年に長崎市役所の市史編さん室に出向いてこのことを教えてあげたんですが、市史編さん室が発刊を担当した
『新長崎市史 第三巻近代編』 に生かせられなかったのは残念です。長崎市役所が過去に発行した 『市制百年 長崎年表』 ( 平成1年)や 『長崎
市史年表』 (昭和56年)では 北洋艦隊の入港日を8月1日と記載しているので、この 『新長崎市史 第三巻近代編』 を発行する際に8月10日である
と修正しておけばいいものを、ただ8月としか記載しなかったのは非常に残念でなりません。来年でこの清国水兵暴動事件も発生から130周年になり
ますので、それまでには周知されるよう微力ながら努めたいと思います。
参考文献 「日下義雄傅」
平成27年6月
長崎と会津にゆかりのある人々-井深八重- (2)
井深八重は大正8年(1919)7月10日、ハンセン病の疑いで静岡県の神山復生病院に入院するのですが、その後のことについて触れる前に、
彼女が1年3ヶ月間在籍した長崎県立長崎高等女学校時代についてもう少し述べたいと思います。
井深八重は大正7年3月に京都の同志社女学校専門部英文科を卒業した後、4月に長崎県立長崎高等女学校の英語教師として赴任しました。
昭和5年に鉄筋コンクリート造4階建ての新校舎が建設されていますが、この時新築落成記念として出版された 『長崎縣立長崎高等女學校一覧』
という本によると、4学年合わせた生徒総数は大正7年3月末現在で574名と記載されています。ちなみに1年後の大正8年3月末現在では597名で、
その後も毎年生徒数は増えていっています。また、大正7年度の生徒の入学志願者は440名で、実際に入学したのは196名となっています。
また、この 『長崎縣立長崎高等女學校一覧』 には現職員の名簿の他に旧職員の名簿も掲載されており、井深八重の名前も記載されていて、
「本校就職年月」は大正7年4月、「勤続年月数」は1年3ヶ月、「職名」は 『教諭心得』 と記載されています。平成14(2002)年12月に発行された
『人間の碑―井深八重への誘い―』(発行:井深八重顕彰記念会)という本に、牧野登氏が執筆された井深八重小伝が掲載されています。それに
よると、国立国会図書館に大正7年6月に作成された 『長崎縣立長崎高等女學校一覧表』 という記録がマイクロ・フィルムにされて保管されている
そうで、井深八重の名前は「教諭心得」として教員25名の一番最後に記載されており、受持学科は英語、族籍として「福島士族」と記載されている
そうです。八重が担当した英語は各学年を通じて週に3時間あったそうで、1学年と2学年は必修科目で、3学年と4学年は「随意科」となっていました。
随意科というのは今で言う選択科目のことと思われます。英語担当の教諭としては、八重の他に在籍10年の男性教諭と、イギリス人の嘱託教諭が
別にいたそうです。昭和5年11月発行の上記 『長崎縣立長崎高等女學校一覧』 に掲載されている「旧職員」名簿に「嘱託」として記載されている
「エリザベス・メリー・キーン」という名の外国人がこのイギリスの嘱託教諭と思われます。彼女は大正5年4月から5年間勤務しています。
また、長崎高等女学校には明治35年当初から寄宿舎が設けられていますが、牧野氏執筆の小伝によると100名くらいの生徒が利用していたようで、
井深八重も生徒とともに寄宿舎で生活していたらしいということです。まだ20歳にすぎない若い女性が遠い長崎にやって来たことを考えれば、やはり
寄宿舎に入ったと考えるのが自然と思われます。
牧野氏によると、長崎時代、八重は教鞭をとるかたわら、明治初期にアメリカ人宣教師エリザベス・ラッセル女史によって創立された活水女学校に
通って、英語に磨きをかけていたそうです。長崎での教員生活がわずか1年余りで終わってしまったのはとても残念な気がします。
井深八重顕彰記念会発行の 『人間の碑―井深八重への誘い―』 には井深八重の写真が6枚掲載されていますが、この中に 「長崎県立長崎高等
女学校英語科教諭時代(21~22歳)」という説明書きのある写真があります。おそらく、牧野氏も書いていますが長崎市内の写真館で撮影されたもの
と思われます。知性的で上品な面立ちをしたなかなかの美人で、この本の中で牧野氏が、『当時の八重が「生徒の憧れの君」であったと当時を追懐した
旧教え子の手紙が残されている。」と書いているように、女学校ではありますが生徒たちにたいへん人気があったことがうかがわれます。
平成27年5月
今月から長崎に滞在したことのある会津ゆかりの人々を不定期に紹介していきたいと思います。
長崎と会津にゆかりのある人々-井深八重- (1)
井深八重(1897(明治30).10.23-1989(平成元).5.15)はハンセン病患者のために一生を捧げた看護師です。
井深八重の祖父は幕末、会津藩で軍事奉行や藩校日新館の校長を勤めた井深宅右衛門(重義)です。ちなみに宅右衛門の妻は西郷頼母の
妹八代子です。井深宅右衛門の長男は明治学院創設者の一人である井深梶之助で、三男が井深彦三郎で八重の父親です。彦三郎はいわゆ
る大陸浪人として活躍し、西郷頼母の養子・西郷四郎を鈴木天眼(長崎で西郷四郎らと東洋日の出新聞社を設立)に紹介した人物です。
井深八重はこの井深彦三郎とその妻テイとの間に明治30年(1897)に台湾で生まれました。その後、日本に戻って東京で生活していましたが、
八重が7歳の時に両親が離婚してしまい、政治活動等で多忙な父親の元を離れ、伯父の井深梶之助の家に預けられました。井深梶之助はこの
時、明治学院の総理(明治24年(1891)11月~大正10年(1921)まで第2代目総理)の職にありました。明治37年(1904)3月、東京市芝区白金
今里町の白金尋常高等小学校(現白金小学校)に入学し、明治43年(1910)3月に卒業しました。そして、翌4月京都の同志社女学校に入学しま
した。家族の元を離れて、ここで8年間の寄宿舎生活を送りながら普通学部、そして専門学部英文科へ通いました。京都在住時代、新島八重とも
おそらく会っているのではないでしょうか。この間、大正5年(1916)4月に父・井深彦三郎が51歳で北京で亡くなっています。
大正7年(1918)3月、同志社女学校専門学部英文科を卒業、翌4月、長崎県立長崎高等女学校に英語教師として赴任しました。長崎県立長崎
高等女学校は明治34年(1901)11月29日に長崎市西山郷(現下西山町)の地に開校し、翌35年5月1日に授業が開始されています。敷地内に
は校舎の他に寄宿舎(橘寮)や附属施設がありました。昭和23年(1948)4月1日、学制改革により長崎県立長崎高等女学校は廃止されて、代わ
りに長崎県立長崎女子高等学校が発足しました。しかし、この学校は長くは続かず同年11月30日に長崎県立長崎高等学校、長崎県立瓊浦高等
学校、長崎市立女子高等学校と統合・分離されて、長崎県立長崎東高等学校と長崎県立長崎西高等学校になり、長崎県立長崎高等女学校の校舎
は長崎県立長崎東高等学校校舎になりました。昭和51年(1976)8月に長崎東高校の新校舎が立山に完成して、全日制課程が移転、定時制課程
はそのまま使用していましたが、昭和55年(1980)3月、定時制課程の廃止により、ついに廃校となりました。翌年校舎は解体され、跡地の一部は
長崎県立東高跡地公園として整備された他、道路や住宅地になりました。この長崎県立東高跡地公園には長崎県立長崎高等女学校跡の碑と長崎
県立長崎東高跡の碑が建てられています。この公園は長崎市立上長崎小学校の裏手にあります。
井深八重は同志社女学校を卒業した後すぐに、この長崎県立長崎高等女学校の英語教師として赴任して来たのでした。この時満20歳でした。
どういう理由で長崎の学校に来ることになったのかわかりません。この時期長崎には、井深八重の親類として西郷四郎(1866~1922)がいます。
おそらく西郷四郎とも会ったことでしょう。井深八重が長崎で教員生活を始めて1年が過ぎ、ようやく長崎での生活にも慣れて来た頃、体のあちこち
に赤い斑点がいくつもできました。なかなか消えないので福岡の大学病院で診てもらったところ、ライ病の疑いが濃厚という診断を受けました。ライ病
とは現在で言うハンセン病のことです。皮膚がただれたり、顔などが崩れたりして、昔は不治の病として非常に恐れられ、人に伝染するとして患者は
隔離されていました。
伯父の井深梶之助や伯母に病名が告げられると、大正8年(1919)7月10日、井深八重は病名が告げられないまま、伯父・伯母に付き添われて
静岡県の神山復生病院というハンセン病院に隔離入院させられてしまいました。八重は恐怖と絶望のあまり、「一生分の涙を流しました」と後に語って
いる。 (続く)
平成27年4月
旧大村藩士 長岡重弘 ー会津人柴五郎の恩人ー (2)
長岡重弘について前回に引き続き、経歴を紹介します。
長岡重弘は樋口忠左衛門の次男として、現在の西海市西彼町風早郷で生まれましたが、この風早は樋口家の知行地(大名が家臣に与えた
土地を いう)でした。樋口家は元々彼杵の樋口郷の出身で、代々大村藩士として彼杵樋口郷や松原、城下の久原に住んでいました。長岡重弘
は満14歳の時に大村藩士長岡源五右衛門の養子となりましたが、大村出身の著名な物理学者 長岡半太郎(1865.8.19-1950.12.11)にとって
本家にあたる家の養子になったのでした。長岡家の本籍地は長与村で、長与村は江戸時代は大村藩の領地でした。
ところで、長岡重弘はいわゆる大村藩勤王三十七士の一人です。幕末、大村藩においても佐幕派と勤王派の争いがあり、慶応3年(1867年)
1月、勤王派の俊才、松林飯山は佐幕派から暗殺されています。また、同じ日に勤王派の一人、家老の針尾九左衛門も佐幕派に切られて重傷を
負っています。大村藩を尊皇倒幕へ導く原動力となったのがこの勤王三十七士でした。
文久3年(1863年)12月、久原の長岡治三郎(長岡半太郎の父)の家で長岡治三郎、長岡重弘(新次郎)、渡辺清、渡辺昇、根岸陳平、中村
公知の6名が尊皇攘夷運動の盟約を結んだのを契機に同志を募っていき、慶応年間に至って最終的に37名が盟約に加わりました。この37名が
藩の幹部となって、藩論を尊皇に統一し、倒幕へと突き進む原動力となったのでした。
戊辰戦争では渡辺清率いる大村藩一番隊は東海道征討軍の先鋒を務め、江戸で彰義隊を攻撃し、会津若松では小田山で若松城を砲撃してい
ます。長岡重弘も戊辰戦争に加わっていますが、若松城攻めに加わったかどうかはわかりません。
時は遡りますが、安政2年(1855)に幕府が長崎に海軍伝習所を開いた時、大村藩は医師の尾本公同を長とする和蘭塾を長崎に開設しました
が、渡辺清や中村公知らとともに長岡重弘もこの塾に参加しています。表向きは医学の質問ということで出島に出入りし、オランダ人に接近して兵
学を学ぼうというものでした。結果は失敗に終わったそうですが、大村藩のこうした向学心は賞賛すべきものと評価されています。
参考文献
「西彼町郷土誌」 西彼町教育委員会発行 平成15年
「長与町郷土誌」下巻 長与町発行 平成8年
「大村史談」第8号
「大村市史」上巻 大村市役所発行 昭和37年
「大村史話」下巻 大村史談会発行 昭和49年
「大村史―琴湖の日月―」 久田松和則著 平成元年
平成27年3月
旧大村藩士 長岡重弘 ー会津人柴五郎の恩人ー (3)
長岡重弘については、長与町が平成8年3月1日付けで発行した『長与町郷土誌』下巻に紹介されており、その内容を次のとおり年代順に箇条書き
で整理してみました。
1834年(天保5年)1月12日 樋口忠左衛門の次男として西彼町風早郷で生まれる。幼名は源吾、通称は新次郎。
1849年(嘉永2年)11月 大村藩士 長岡源吾右衛門の養子となる。(数え年15歳)
〃 12月 藩主の旗本五十騎御組入り
1854年(嘉永7年) 9月 蘭学修業のため長崎に出向
1863年(文久3年) 一朝有事に際しての脇備長柄奉行を仰せ付けられる
1864年(元治元年) 藩校五教館の観察となる(30歳)
1868年(慶応4年) 6月 藩から京都聞番の要職を拝命。同月政府出入りとなる。
1868年(明治元年) 新政府の官吏に登用される
1870年(明治3年) 正月 民部省の庶務係を拝命する。この頃、政府から豊後日田へ郡県御事係理のため、3ヶ月の出張を命じられる
〃 11月16日 民部省の権大属に任ぜられ、東京詰めとなる
1871年(明治4年) 正月 庶務権正に昇進。
〃 9月 民部省から大蔵省に移籍
1872年(明治5年)10月 大蔵省から司法省へ移籍
1873年(明治6年) 6月 正七位に叙せられる
1875年(明治8年) 5月 七等判事に任じられ、長崎上等裁判所判事となる。
1881年(明治14年)11月 福岡始審裁判所所長となる。
1882年(明治15年) 6月 従六位に叙せられる
?年 退官する。
1889年(明治22年) これまでの経歴を生かして公証人として働くようになる。
1890年(明治23年) 長崎市議会の参事会員に当選。
1893年(明治26年) 長崎市の学務委員となる
1902年(明治35年) 長与村の村会議員に当選。(~1913年(大正2年)4月まで就任)
1915年(大正4年)1月28日 本籍地の長与村で死去。(満81歳)
大蔵省に在籍したのはわずか1年1ヶ月の間ですが、この期間に長岡重弘は柴五郎少年と出会っています。
柴五郎の手記 『ある明治人の記録』に次のように書かれています。
「(明治5年)5月末、地租改正調査のため、東北地方巡回の大蔵省役人の一行、青森に滞在す。首席は
さかん
肥前大村の人、大蔵七等出仕の長岡重弘、次席は信州松本の人、大蔵属市川正寧、その他土肥、北村、
山田等の属僚をしたがう。」(83頁)
長崎上等裁判所は後の長崎控訴院で昭和20年まで存続し、同年福岡へ移転し、これが昭和22年に福岡高等裁判所になりました。
福岡始審裁判所は後の福岡地方裁判所です。長岡重弘はここの所長になっており、退官しなければもっと出世していたと思われ、もったいない気が
します。長与村の村会議員も勤めていますが、出世欲の強い人だったら、県会議員や国会議員を目指していたかもしれませんが、長岡は実にあっさり
した方だったと思われます。
柴五郎少年から東京留学の志を聞き、東京へ同行させてくれたり、その途中、幼少の柴少年を自分の牛輿に同乗させてくれたり、東京の自宅に
柴少年をしばらく寄宿させてあげたのも長岡重弘の人柄がとても円満で、義理人情に篤かったからだと思われます。
柴五郎将軍は後に長岡重弘の自宅を訪問して長岡を見舞ったことがあり、長岡の妻のキミ氏は後々までそのことを自慢話にしていたそうです。
(『長与町郷土誌』下巻 579頁)
参考文献: 『西彼町郷土誌』 西彼町教育委員会編集・発行 平成15年3月1日
平成27年2月
『ある明治人の記録』ー会津人柴五郎の遺書ー (2)
柴五郎の恩人の一人に大村藩出身の長岡重弘という人がいます。この『ある明治人の記録』という本の中に長岡重弘はたびたび登場して
柴五郎のためにいろいろと世話してくれています。
この本によると、柴五郎と長岡重弘との最初の出会いは、明治5年5月末、柴五郎少年が青森県庁に給仕として勤務していた時、地租改正
調査のため東北地方を巡回していた大蔵省役人一行が青森に滞在した際に、東京留学したいので帰路一行に同行させてほしいと宿所へ
訪ねて行った時でした。その一行の首席が大蔵省七等出仕の長岡重弘で、長岡は同行することを快く承諾してやりました。そして6月初旬、
次の巡回先に向かうため青森を出発することになりました。この時の様子について柴五郎はこの本の中で次のように記述しています。
「 長岡氏は牛輿に乗り、他は徒歩なり。長岡氏は心優しき人にて、幼少の余をいたわり、同氏の輿に同乗させ、あるいは駅馬に乗せなどして、
実際に歩行せるは一日のうち、四、五里なり。 」
青森から東京までの旅費や雑費も長岡重弘と次席の市川正寧(信州松本出身)が支払ってくれています。東京に着いてから五郎は定住先が
決まるまでの間知人・縁者の家を転々とするのですが、市川正寧や長岡重弘の家にもしばらく寄宿させてもらっています。
こうして苦労した末に、明治6年3月末、柴五郎は陸軍の幼年生徒隊(後の幼年学校)の試験に合格し、陸軍兵学寮に入りました。この時とても
喜んだ一人が五郎を寄宿させてくれていた山川浩でした。市内に出かけて行って軍服を買い求め、帰って来てからはその着方を五郎にいちいち
教えてあげています。その軍服を着て五郎は青森県庁以来の大恩人である細川藩出身の野田豁通(青森県庁で大参事を務めた)を訪ねて行って
挨拶しています。また、『長岡宅、市川宅など、世話になりたる家を馳せめぐりて、挙手の礼をな』しています。この時柴五郎はよほど嬉しかったらしく、
手記には『余の生涯における最良の日というべし』と記しています。
長岡重弘はその後本籍地の長崎県長与村に居を移しています。晩年、嬉里郷の自宅を柴五郎将軍が訪ねて行って、長岡を見舞ったことがある
そうです。長岡重弘のことについては、次回でもう少し詳しく述べたいと思います。
平成26年8月
”名は体を表わす” -日下義雄の義人としての行い-(4)
京都高台寺内の小院、月真院に品川弥二郎の墓があります。高台寺は周知のごとく、北政所ねねが豊臣秀吉の冥福を祈るために建立
した寺で、月真院は伊藤甲子太郎ら新選組から別れた御陵衛士の最後の屯所があったところです。長州萩出身の品川弥二郎は明治33年
(1900)に亡くなりましたが、その17年後の大正6年に会津出身の日下義雄は品川弥二郎の墓前に石燈籠を建立しています。当時のお金
で約500円かかったそうですが、現在の貨幣価値に換算しても相当の費用と思われます。
日下義雄は井上馨や伊藤博文など明治維新に功のあった長州出身者と親しく交わっていますが、会津出身者や会津在住の人々はこうした
日下義雄をどう評価していたでしょうか。 品川弥二郎の墓前の石燈籠建立式で日下義雄は吉田松陰の作った詩を朗吟し、松陰の意気、精神
を受け伝えた人がこの品川弥二郎であり、私はそれを偲ぶのであると述べたそうです。品川は「国を富まし、民を豊かにするには、ただ殖産興業
あるのみ」という意見を持ち、農工商の各方面にわたっていろいろと計画し、いったん人を信じればどこまでもその人に任せて、十分手腕を発揮
させるやり方をとったといいいます。
日下義雄は品川弥二郎からも知遇を受けて親しかったようですが、こうした品川の物の考え方に深く共鳴するところがあったと思われます。
参考文献 「日下義雄傅」
平成26年7月
”名は体を表わす” -日下義雄の義人としての行い-(3)
明治元年9月22日会津藩が降伏した後、旧会津藩領各地には新政府によって民政局が置かれましたが、会津若松にも10月1日に
民政局が置かれました。翌年6月15日に若松をはじめとした各地の民政局が統合されて若松県庁が設置されるまで、若松ではこの
民政局によって統治されるわけですが、会津戦争で死亡した人の遺体は埋葬することが禁じられ、長い間遺棄されたままでした。このため、
監察方兼断獄頭取という役にあった越前福井藩出身の久保村文四郎は旧会津藩士たちから憎まれ、明治2年7月、任務を終えて越前
に帰る途中、会津の束松峠で伴百悦ら旧会津藩士4名によって暗殺されました。この暗殺者の一人、井深元治は明治5年に東京で捕らえ
られて翌年2月小伝馬町の獄舎で亡くなりますが、遺体は小塚原回向院に投げられたそうです。
日下義雄は明治27年10月、東京・谷中墓地に井深元治の墓を建立しました。日下はこの時、福島県知事という明治政府の官職に就いて
いながら、明治政府に反逆した人の墓を作ってやるとはよほど豪胆だという気がします。日下義雄の義侠心を表わす典型的な例と言ってよい
と思います。
※ 参考文献 早乙女貢著 『続 会津士魂 三』 2002年 集英社文庫
ウェブサイト 『谷中・桜木・上野公園 路地裏徹底ツァー』の「井深元治」
平成26年6月
”名は体を表わす” -日下義雄の義人としての行い-(2)
日下義雄は明治29年9月15日付けをもって弁理公使を辞職し、同月26日付けで第一銀行監査役に就任しました。明治6年6月11日を
もって創立されたわが国最初の銀行である第一国立銀行が明治29年9月26日から民営化されるのに伴い、監査役という役職が初めて
設けられ、日下義雄は須藤一郎という者と一緒に監査役に就任したのでした。以後、明治41年8月3日まで監査役の地位にあり、その後は
大正12年3月18日に亡くなるまで同銀行の取締役を務めました。
45歳で第一銀行監査役に就任したわけですが、これは頭取の渋沢栄一の勧誘によるものでした。実業界に身を置いた日下は以後、渋沢
栄一の指導を受けて実業界で活躍しています。前半生は官界で井上馨から、後半生は実業界で渋沢栄一から大いなる恩を受けています。
日下義雄は亡くなった時に12項目からなる遺言書を遺しておりますが、そのうちの1項目に次のように記載されています。
「 一.井上侯爵及び渋沢子爵万歳の後、その墓前に各一対の灯籠を供え、感恩の意を表せられたき事。 」
日下義雄は亡くなるまで、井上馨と渋沢栄一の恩を忘れず、その恩に報いようとしたのは、日下義雄の義理堅さを表わすものと言えるでしょう。
参考文献 中村孝也著 『日下義雄傳』
平成26年5月
”名は体を表わす” -日下義雄の義人としての行い-(1)
”名は体を表わす”とはよく言ったもので、日下義雄は義理深く、至誠あふれる行動を何度もとっています。今回から数回に分けて、
その行いを紹介したいと思います。第1回目は井上馨が内閣総理大臣として組閣を命じられた時の話です。
明治34年、第4次伊藤内閣(明33.10.19~34.6.2)が崩壊した後、伊藤博文と山縣有朋などの働きによって井上馨に大命降下がありま
した。井上馨は、大蔵大臣在任当時の右腕だった渋沢栄一が大蔵大臣に就任することを承諾したら奮ってその任に当ると述べました。
このため芦川顕正 (内務次官・文部大臣等を歴任) や楠本正隆 (旧大村藩士。東京府知事、衆議院議長等を歴任) などは当時第一
銀行頭取にあった渋沢栄一に入閣するよう熱心に勧誘します。井上馨に対する情誼により固辞することができなくなった渋沢は、第一銀
行の重役に諮って銀行業務に支障なしと判断されたら大蔵大臣就任を承諾すると返答したのですが、いざ重役たちに諮ってみると、一斉
に反対されてしまいました。中でも強く反対したのが、日下義雄でした。日下は明治29年9月から第一銀行監査役を務めていました。
日下は第一銀行創立当時の事情や将来の利害得失を詳しく語り、大蔵大臣就任の不可なることを断言しました。この時の日下の顔に
至誠の表情が現れているのを見て、渋沢栄一は就任を辞退することを決意しました。こうして、渋沢は日下やその他の重役たちと共に
伊藤や山縣を訪ねて了解を求め、正式に辞退することとなったのでした。
渋沢栄一の大蔵大臣就任辞退を聞いた井上馨は、政権運営に頗る不安を感じ、内閣を組閣することを断念しました。賊軍とされた会津
藩の出身でありながら日下義雄は井上馨の知遇を得て、出世していったので、井上には大きな恩があり、恩返しのためにも渋沢に大蔵大臣
就任を強く勧めるべきとも思われますが、後日、井上は当時を回想して、大命を受けなかったことは却って幸いだったと述べています。
ここに、目先の利益や栄光を考えない日下の深い思慮を見ることができます。なぜ却って幸いだったのか私にはよくわかりませんが、日下の
このような思慮深い面が井上馨から信任を受けた理由の一つだったのではないかと思われます。
今回の話は、『日下義雄傳』に寄せた渋沢栄一の序文に記載されています。
平成26年4月 ー もう一人の ”サダキチ” ー
”サダキチ”と聞くと、私たち会津に興味のある者には白虎隊士の飯沼貞吉がすぐ頭に思い浮かびますが、ここで紹介するのは、
カール・サダキチ・ハルトマン(1867.11.8-1944.11.22)です。サダキチの父親は会津藩にとって大いに関係のある人物で、山本覚馬が
長崎で小銃1300挺の購入を交渉した相手 レーマン・ハルトマン商会のカール・オスカー・ハルトマン(1840-1929)です。
オスカー・ハルトマンはドイツのハンブルグ出身で1863年(文久3年)に長崎に来て、貿易業務に従事し、ドイツのオルデンブルク出身
のカール・レーマン(1831-1874)と共に、長崎で1866年(慶応2年)10月にレーマン・ハルトマン商会を設立しています。
オスカー・ハルトマンは長崎で日本人女性 ”さだ” との間に2人の男の子をもうけており、次男がサダキチです。
サダキチは幼くして母親を亡くしたため、兄と共にドイツの親戚の家に預けられて教育を受け、後にドイツ帝国海軍の兵学校に入れられ
ます。しかし、文学好きのサダキチには肌が合わず、パリに脱走します。これが父親の怒りを買い、勘当されて1882年6月に無一文で
アメリカのフィラルディアの親類の家に預けられました。そして、独学で文学や芸術を学んでいます。
サダキチは写真を芸術として扱った先駆者であり、文芸・演劇・映画などの評論家として活躍するとともに、脚本家、俳優としても活動して
います。死亡したときは、「タイム誌」が彼を3度結婚し、15人の子をもうけたと報じているそうです。サダキチの人生はまさに社会の習慣に
縛られず、自由気ままな生活を送った、ボヘミアンとしての人生だったようです。
参考文献
『山本覚馬覚え書』 竹内力男著 同志社談叢第21号
『出島―長崎―日本―世界 憧憬の旅 ーサダキチ・ハルトマン(1867―1944)と倉場富三郎(1871―1945)ー』 ケネス・リチャード著
ウィキペディア 『サダキチ・ハートマン』
平成26年3月 ー 明治の兄弟 ー山川家の人々ー ー
最近、白虎隊の会長崎支部の会員から 『 明治の兄弟 ー山川家の人々ー 』 というタイトルのDVDを1枚もらい受け、早速見てみました
がとても感動し、途中何度も涙を流しました。「劇団ぴーひゃらら」 という福島県会津若松市を拠点として活動している劇団が平成20年
7月に福島県白河市文化センターで上演したもので、福島市出身で札幌市在住の石村えりこさんという方が脚本を書かれています。
劇の中で、大山巌と山川捨松の縁談が持ち上がり、縁談に断固反対する山川浩の元へ大山巌のいとこの西郷従道が何度も訪れて
説得にあたる場面や、浩の弟の健次郎がアメリカ留学体験を元に浩に時代が変わったことを告げて、結婚を承諾するよう迫ったりする
場面がありますが、とてもよくできた脚本だとたいへん感心しました。会津若松城入城を果たし、軍事総督となった山川浩が戦場から帰
って来た白虎隊士の弟、健次郎を「なんで死んで来なかったのか」と叱責したり、健次郎が浩に「アメリカで死ぬ気で頑張って勉強した」
と言うシーンは特に心に響くものがありました。ただ薩長の横暴、会津の悲運を強調しすぎる感じを受ける今までのドラマと違って、「会津
藩も古い体質を持っていたので薩長に遅れをとった」と率直に語らせているところに好感を抱きました。
劇の中に出てくる登場人物の中では西郷従道に非常に感銘を受けました。たいへん人物的に大物だという印象を受けました。役を演じ
た方は劇団の団長だそうで、さすがだととても感心した次第です。ラストシーンはどのように終わるのか途中から気になって見ていました
が、無事に心を和やかにさせてくれるシーンで終わり、良かったです。
この劇は平成19年に 「ふくしまの歴史と文化再発見演劇祭」 で舞台脚本正賞を受賞しています。なるほどと思いました。なお、この劇
は平成21年10月に会津のかつての宿敵の地である鹿児島でも公演されており、終了後は拍手が鳴り止まなかったそうです。
ぜひ、かつて会津の人々が訪れた会津ゆかりの地、長崎でもいつか公演をして欲しいものだと思います。この演劇では舞台中央の上
の方に会津唐人凧がかけられていますが、これは江戸時代に長崎から会津へ伝わったものと言われています。すると、やはりいよいよ、
長崎でも公演してもらいたいものだと思わずにはいられませんね。
平成26年2月 ー 勝海舟の会津藩批評 ー
勝海舟が慶応3年当時、会津藩をどう見ていたかについて、司馬遼太郎の『燃えよ剣』下巻に次のとおり紹介されています。勝海舟が
密かに随想として書き留めていたものだそうです。慶応3年といえば、長崎で勝海舟と親交のあった神保修理が江戸の藩邸で切腹させ
られた前年にあたります。
「 会津藩が京師に駐留して治安に任じている。しかしながらその思想は陋固で、いたずらに 生真面目である。しかしかれらは、
いかにすれば徳川家を護れるかという真の考えがない。その固陋な考えこそ幕府への忠義であるとおもっている。おそらくこの
ままでゆけば、国家を破る者はかれらであろう。とにかく見識狭小で、護国の急務がなんであるかを知らない。(中略)
このさい、国家を鎮め、高い視点からの大方針をもって国の方向を誤たぬ者が出てくれぬ ものか。それをおもえば長大息ある
のみだ。(作者ーもっともこういう勤王佐幕論よりももう一つ上から、当時の国情を見ていたのは幕臣では勝海舟 ひとりである。あるいは、将軍慶喜も
そうであったかもしれない。慶喜の“幕府投げ出し”を会津藩士が 激怒したのは、こういう意識のちがいにある。) 」 ー 作者・司馬遼太郎の意訳 ー
上の文章中、「いたずらに生真面目」というところが興味深いというか、面白く思われます。上の勝海舟の批評は結構当たっているの
ではないでしょうか。しかし、孝明天皇からの信任厚く、信義を重んじる会津藩としては、どうしてもそうならざるを得なかったのでしょう。
司馬遼太郎は、伏見で元新選組隊士から狙撃されて負傷し大坂で療養中の近藤勇を見舞った土方歳三に、次のように言わせていま
す。
「おれは伏見、淀川べり、八幡でさんざん戦ってみて、この眼で、会津人の戦いぶりをはっきりと見た。老人、少壮、弱年、あるいは
士分足軽の区別なく会津藩士は骨のずいまで武士らしく戦った。もう、みごとというか、いまここで話していてもおれは涙が出てきて
仕様がねぇ。武士はあああるべきものだ。」
このあと、『「わかっている」 近藤はおもおもしくいった。』と続くのですが、司馬遼太郎はよくぞ書いてくれたと、思わず嬉しくなってしま
います。
勝海舟は、ひたすら勤王佐幕に邁進した会津藩より高い視点から国家のあり方を考えていたのであれば、明治に入ってから政界で大
いに活躍し、薩長閥の明治政府が朝鮮を侵略したりして、欧米列強のように帝国主義の道を突き進むことがないよう尽力してもらいたか
ったと思う。
平成26年1月 ー 日下義雄の妻の墓地清掃 ー
日下義雄は、会津の飯盛山で自刃した白虎隊士 石田和助の実兄で、第8代長崎県令として明治19年3月21日に長崎に着任して
います。そのわずか9ヶ月も経たずして、最初の妻、可明子夫人が同年12月11日に脳充血で亡くなりました。葬儀は長崎の皓臺寺で
行われ、当時の新聞によると会葬者が2千人以上もいたそうです。
可明子夫人の命日に近い昨年12月8日(日)、白虎隊の会長崎支部の会員7名によって皓臺寺にある可明子夫人のお墓の清掃が
行われました。水鉢には泥が溜まってあり、水できれいに落としたり、落ち葉はほうきではわいて会員が持ち帰りました。清掃の後、わず
か26歳の若さで亡くなった可明子夫人のお墓にお線香とお花が供えられました。
平成25年12月 ー 高木盛之輔 ー
NHK大河ドラマ「八重の桜」も今月で終了しますが、山本八重の隣人で親友の高木時尾の役を貫地谷しおりさんが演じていました。
照姫の右筆(書記)になったり、後に元新選組3番隊組長の斎藤一と結婚しました。その時尾の弟 高木盛之輔(1854~1919)も子役で
「八重の桜」にしばしば登場していました。山本八重からは鉄砲の打ち方を習っています。明治になり、西南戦争が起ったときは山川浩の
隊に属して薩摩士族と戦い、熊本城を守っていた政府軍を救出しています。その後は司法官となり、国内各地の地方裁判所で検事正を
務めました。管理人の知人が調べたところによると、時期は不明ですが長崎地方裁判所にも検事正として赴任したことがあったそうです。
実は検事正官舎として使用されていた建物が現存しており、ひよっとしたら高木盛之輔もこの建物に住んでいた可能性もあります。その
建物というのは、諏訪神社下の馬町に1878年(明治11年)7月に開業した西洋料理店「自由亭」です。1886年に店主が亡くなり、自由
亭はその翌年に廃業されました。その建物を長崎地方裁判所が購入し、検事正官舎として使用しました。その後、長崎市が保存のため
検察庁から譲り受け、1974年(昭和49年)にグラバー園内に移築復元しています。
自由亭
平成25年11月 ー 福地苟庵 ー
先月、この欄で福地桜痴を取り上げましたが、福地家は先祖代々から長崎に住んでいたわけではなく、祖父の代に長崎に移住して来て
います (親類は長崎に住んでいたかもしれませんが)。祖父 福地嘉昌は讃岐丸亀藩士矢野某の子で医学を学び、京に来てから福地源輔
の養子になりました。養父の死後京を去り、長崎に来て新石灰町で町医者として開業しました。長崎に来ていたシーボルトとも交際を結んで
います。桜痴の父はこの福地嘉昌の養子となり、その一人娘 松子と結婚して桜痴が生まれています。
桜痴の父 福地苟庵(こうあん)は1795年(寛政7年)に長府藩士で剣術師範家の岸田丈右衛門の子として長府で生まれました。長府は
現在下関市の行政区域となっています。苟庵は号で本名は載世といい、幼い頃は病気がちだったそうで、武芸は好まず、専ら読書にいそ
しみ、15歳頃から長府藩儒 国島竹舌の門で漢学を学びました。 その後、20歳頃に大坂に出て、儒学者で書家の篠崎小竹の門で数年学
び、塾頭をつとめています。そして篠崎塾を辞して諸国を漫遊した後、長崎に至り、福地嘉昌の家で子弟に学問を授けるかたわら、医学を
研究するようになりました。福地嘉昌には子供が娘一人だけだったので、苟庵が養子に迎えられ、家業の医業(漢方医)を継いだ次第です。
福地苟庵は、安政年間に唐人屋敷出入医師として長崎奉行所配下の役医師に任ぜられました。また、砲術家の高島秋帆とも親交があ
り、子の福地桜痴は1898年(明治31年)に 『高島秋帆』という著作を執筆しています。
福地苟庵は1862年(文久2年)、68歳で世を去りました。墓は長崎市鍛冶屋町の大音寺にあります。
(参考文献 亀田一邦著 「幕末防長儒医の研究」 2006年)
平成25年10月 ー 福地源一郎 (福地桜痴) ー
幕末の長岡藩家老 河井継之助を描いた司馬遼太郎の名作『峠』に、長崎出身の幕臣・福地源一郎(1841~1906)がしばしば登場
します。福地は幕府崩壊後の慶応4年閏4月3日(1868年5月24日)に江湖新聞を創刊し、旧幕府寄りの記事を多く書いたそうです。
『峠』に次の一節が書かれてあります。
「かれは旧幕臣であり、かつ佐幕主義者であったために、東北の山野でたたかっている会津藩の抵抗に対してこの新聞はきわめ
て同情的であった。」
福地源一郎は江湖新聞で薩長の批判記事を書いたために新政府から逮捕され、江湖新聞は慶応4年5月22日(1868年7月11日)
付けをもって発行禁止となってしまいました。わが国最初の新聞筆禍事件として知られています。幕府が崩壊し、勢いを増していく一方
の新政府を堂々と批判するとは、福地源一郎はかなり気骨のある人物だったと思われます。福地は明治維新後は名を桜痴(おうち)と
号し、明治7年、毎日新聞の前身である東京日日新聞の主筆となって言論界などで活躍しました。
福地源一郎は長崎の新石灰町(現在の鍛冶屋町と油屋町の一部)で生まれましたが、医者である父 福地苟庵は長州藩の支藩の一
つ、長府藩の出身ですので、長州と縁があります。
なお、江湖新聞は早稲田大学図書館のホームページで閲覧することができます。「資料タイトル/キーワード」に江湖新聞と打ち込ん
で検索し、どれかを選んで「画像情報」をクリックして閲覧できます。
現代人には読むのがなかなか難しいと思われますが、興味のあられる方はのぞいてみて下さい。
長崎市油屋町に立つ福地桜痴の記念碑と看板
平成25年9月 ー 山本覚馬 ー
NHK大河ドラマ 「八重の桜」では、明治になってから山本覚馬が京都で大いに才能を発揮し活躍している姿が見られるようにな
りました。8月28日に放送された「歴史秘話ヒストリア」でも博覧会を開催して外国人に京都の工芸品を紹介したり、外国語のパンフ
レットを作成したりした山本覚馬が取り上げられていました。
新政府から見出され、京都の発展に大きく貢献したわけですが、対照的に人材を充分活かしきれなかった会津藩が残念に思われ
ます。長崎で勝海舟や薩長の藩士とも交流のあった神保修理や山本覚馬ら開明的な藩士をもっと重用していたら、幕末の会津藩も
違った展開になったかもわかりません。秋月悌次郎まで、一時しかも大事な時期に蝦夷に左遷されてしまいました。山川健次郎など
明治になってから日本の教育界で大いに活躍するほど会津藩では優れた教育が行われたと思いますが、幕末において、藩の政治・
外交に充分活用されなかったのではないかと思われます。
しかし、会津で行われた教育も、会津藩が守ろうとした徳川幕府の治世下ではなく、新政府治世下の明治になってから多くの人材が
花を咲かせたのは皮肉に思われるのですが、いかがでしょうか。
平成25年8月 ー 萱野権兵衛と北原雅長 ー
7月28日に放送された大河ドラマ「八重の桜」では、斬首される直前の萱野権兵衛が白装束姿で梶原平馬や山川大蔵と最後の別れを
交わしていました。実はその白装束は藩主の松平喜徳が権兵衛に下賜したものでした。明治22年に初代長崎市長となる北原雅長は、
この時、松平喜徳に呼び出されて、「その方は、権兵衛の倅 初之助に代わって、よく事を処すべし」と命じられています。家族と引き離さ
れ、東京に一人幽閉されている権兵衛の心中を察しての言葉でした。
会津戦争後、反逆首謀者として神保内蔵助、田中土佐、萱野権兵衛の3人が指定されますが、生きているのは萱野権兵衛一人だけで、
上記の藩主の言葉には父 神保内蔵助の介錯をつとめるつもりで、権兵衛の介添をせよ、という意味も込められていたのでした。
(早乙女貢著 「続会津士魂1」)
北原雅長は刑の執行後、権兵衛の亡骸を兄 神保修理が眠る興禅寺に埋葬しています。
平成25年7月 ー 『ならぬことはならぬ』 ー
福島県会津坂下町ご出身の大堀哲 長崎歴史文化博物館館長は、このほど『ならぬことはならぬ』という本を出版されました。
第1章は「会津に咲いた大輪の花・八重桜~”会津のこころ”を貫いた山本八重の生涯~」について、第9章は「会津士魂を培った
会津藩の教育」について、第10章は「幼年教育の重視と『ならぬことはならぬ』」というタイトルで、読みやすく、興味深い内容となって
います。
この本の印税はすべて、東日本大震災の復興のために寄付されることになっていますので、よろしくお願いいたます。
注文先 長崎文献社 TEL 095-823-5247 FAX 095-823-5252
平成25年6月 ー 神保修理 ー
明治35年4月の東洋日の出新聞に神保修理に関する記事があり、修理が勝海舟に贈った辞世の詩が掲載されていましたが、
「君等努力報國家、眞僕所願也」(君等力を國家に報ゆることに努めよ、真に僕の願うところなり)という部分の「僕」の印刷文字が
潰れていて、判読が難しかったのですが、「僕」らしく見えたので、とりあえず「僕」ということにしてこのホームページに紹介していました。
後で修理の弟、北原雅長の著書『七年史』で確認したところ、やはり「僕」となっていましたので「僕」であることが判明しました。
私は当初、この時代に「僕」という言葉が使われることに半信半疑でした。『七年史』にも掲載されていたので、間違いないことがわかり
ました。ただ、この時代に「僕」という一人称が使われていたことはとても意外でした。ところが、先週水曜日(5月29日)に「NHK」で放送
された吉田松陰と高杉晋作に関する番組で吉田松陰が「僕」という言葉を日常使っていたことが紹介されていました。早速、購入以来、
長らく本棚で眠っていた「吉田松陰撰集」((財)松風会)で松陰の書簡を確認したところ、「余」とか「吾」という言葉もあるのですが、「僕」と
いう言葉を使っている手紙もありました。例えば、江戸の獄にいた松陰が同じく江戸にいた高杉晋作に宛てた手紙の中にこういうのがあり
ます。
「僕此の度の災厄、老兄在江戸なりしのみにて大いに仕合せ申し候。御厚情幾久敷く感銘仕り候」(安政6年10月7日)
解説文によると、晋作が藩命により帰国することになったことを知って書いた手紙だそうです。
神保修理が書いた書状は他に残っているのでしょうか。 僕という言葉は書状でだけでなく、吉田松陰と同じく日常生活でも使っていたの
かもしれませんね。
平成25年5月 ー カール・レーマン ー
大河ドラマ「八重の桜」で長崎が舞台になったので、この前日曜日も見ましたが、今日(5月4日)も再放送を見ました。ドラマでは山本覚馬
と神保修理の二人が鉄砲の買い付けのため、長崎を訪れていましたが、実際は山本覚馬に同行したのは、山本と同じ「大砲隊」に所属した
中沢帯刀(後に武田信愛と改名)でしたね。そしてドイツ人商人カール・レーマンと1300挺の小銃購入契約を締結したのが、今日5月4日
(1867年)でした。カール・レーマンの娘のルイーズ・シャルロット・オトキさんは1864年2月25日生まれなので、ドラマでは少女でしたが、
実際はこの時はまだ3歳になったばかりでした。母親はKija Eakiという長崎の女性ですが、早く亡くなったそうです。オトキさんはこの年父親
に連れられてドイツに渡っていますが、途中、パリの教会で洗礼を受けています。カール・レーマンは1874年、故郷オルデンブルクで肺結
核のため42歳で亡くなっています。生前、健康が悪化していた1868年に私生児認知のための請願書をオルデンブルク国政府に提出して
いますが、かわいい娘の将来を思って遺産相続ができるようにしたものであり、親としての情が偲ばれますね。
平成25年4月 ー 西郷四郎 ー
長崎を訪れた会津出身の著名人の中で最も長く長崎に滞在したのは西郷四郎です。彼は後半生の大部分を長崎で過ごし、長崎が第二
の故郷となりました。その間、長崎の女性と結婚して家庭を築き、柔道や弓道を青少年に教え、東洋日の出新聞社の副社長格として言論
界で活躍しました。また、長崎遊泳協会を設立して、青少年に水泳の指導を行いました。
西郷は嘉納治五郎から柔道を習って講道館四天王の一人となり、小説『姿三四郎』のモデルになるのですが、長崎を主たる舞台にした
西郷四郎の小説が生まれるといいなあと思っています。長崎でもっと西郷四郎が知られてもらいたいものだと思います。
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