管理人より
              

             令和2年12月
  

                                
 長崎監獄と池上四郎


             秋篠宮妃紀子さまの曽祖父に当たられる池上四郎は、明治20年10月31日付で京都府警部兼下京警察署長から

            長崎県監獄課長兼長崎県典獄に任ぜられました。典獄とは今でいう刑務所長です。当時、長崎県庁の監獄課と長崎

            監獄は長崎区の新大工町にありました。下の写真が長崎監獄の写真です。撮影者は坂本龍馬の写真を撮ったことも

            ある上野彦馬です。


                         


             『長崎市史年表』(昭和56年 長崎市役所発行)の明治14年(1881)9月の項に、「桜町の監獄が狭くなったため、片淵

            郷の乃武館(だいぶかん)跡に監獄を新築して未決監を収容する(翌年桜町の監獄をここに移す)」と記載されています。 

               乃武館は、上記年表によると、慶応3年(1867)8月21日に長崎奉行が市中警備のため総員359人から成る遊撃隊を

            組織して長崎奉行直属の親衛隊とし、海援隊に対抗したそうです。その屯所(詰所)が乃武館と呼ばれる建物でした。
  
             翌慶応4年閏4月19日、九州鎮撫使の沢宣嘉は遊撃隊を振遠隊と改称し、軍事と警察を兼任させました。


             上記の写真は、『写真集 明治大正昭和 長崎』(国書刊行会 昭和54年発行)に掲載されているものですが、「片淵官軍

            病院」として紹介されています。そして、「明治10年西南の役の時、長崎には官軍の本部がおかれていたので、戦傷者を

            収容する病院が現在の片淵町につくられた。」と記載されています。この写真は、国立公文書館が『長崎師団仮病院写真』

             として紹介しているものと同じであり、国立公文書館の記述を踏襲して、「片淵官軍病院」と紹介されたものと思われます。   

             しかし、『長崎市史年表』では、官軍病院は、片淵郷の畑地に建てたと記載されています。次のとおりです。  

              「1877(明治10)  

                3.29  第1分遣長崎軍団病院を大音寺に置く。(以後、市内の18寺院、83戸の民家に軍団病院病舎が置かれ
                      た。)    

                 ※ 西郷軍との戦いで、官軍にも多くの傷病者が出たが、その収容も長崎が引き受けた。激戦当時、長崎 
                    に送られてくる傷病者は日に数百人、病舎に収容しきれず、片淵郷の畑地に掛小屋を建てて仮病舎
                    に当てたほどで、患者を運ぶ担架も足りず、モッコで運ぶ騒ぎだった。 」  

  
             「掛小屋」とは臨時にこしらえた興業用などの小屋を言うそうですが、上記の写真が果たして「小屋」に見えるでしょうか。
    
           私にはしっかりと建設された建物のように見えます。屋根は瓦葺きのようにも見えなくもないですね。 
    
            高橋信一元慶應義塾大學准教授は、著書『古写真研究こぼれ話 二』の中で、写真に写る片淵の大きな施設を「軍団仮

           病院」と説明されているが、昭和15年に完成した長崎監獄の間違いであり、明治25年以前に上野彦馬が撮影した写真

           であると述べておられます。

            会津出身の池上四郎は、明治20年11月から23年2月まで長崎監獄の典獄兼長崎県監獄課長として勤務しました。

           長崎県庁の監獄課は長崎監獄のあった新大工町内にあったので、長崎監獄の敷地内の建物のうちの一つにあったと思

           われます。明治22年5月末現在の長崎県内各監獄の在監人数は合計881人(鎮西日報明治22年6月12日記事)で、池

           上四郎が勤務していた長崎監獄には、542人が入監されていました(鎮西日報明治22年10月3日記事)。

            長崎監獄は長崎県内で最大の監獄でした。明治41月4月、長崎監獄は諫早に移転し、国内五大監獄の一つとして開設

           され、大正11年10月長崎刑務所に改称されました。 明治32年に監獄の管轄が内務省から司法省へ移管したことに

           より、監獄の運営は長崎県から国へと移管しました。



              令和2年11月
  

                                
  秋篠宮妃紀子さまの祖父について


                 11月8日に、秋篠宮さまが皇位継承順位1位になられたことを広く示す立皇嗣の礼が開催されます。次の天皇は

               秋篠宮さまがなられるわけです。ここで、秋篠宮皇嗣妃殿下紀子さまの祖父、故川嶋孝彦氏に関する当時の長崎日日

               新聞記事をご紹介します。川嶋孝彦氏は昭和2年6月に茨木県警察部保安課長から長崎県の地方事務官として異動

                しました。長崎県庁で内務商工課長兼水産課長として勤務していましたが、昭和3年7月10日に異動が発表され、
   
               広島県警察部特別高等警察課長を任じられました。特別高等警察課は特高と言われ、思想取締を行う部署であり、

               当時新設されたばかりでした。7月11日付け朝刊の第1面に異動の記事、7月12日付け夕刊第1面にインタビュー

               記事が掲載されています。


               【昭和3年7月11日付け長崎日日新聞朝刊第1面】
    
                 地方事務官異動
                    長崎県4名を発表
    
                      今回新設された思想取締特高課長並びにこれに伴う地方事務官の異動は10日、左の如く発表された。
                      (関係の分)  

          
                        長崎県地方事務官   
                                       川 嶋 孝 彦

                         任地方警視(6等)命広島県警察部勤務



               【昭和3年7月12日付け長崎日日新聞夕刊第1面】

                  茨城県の保安課長から地方事務官となって本県に来たのが昨年6月。商工水産課長たることまさに1年。又も

                警視に逆戻りで広島県の警察部に転じた新設の特高課長に内定している。

                 「意外でした。警察部の移動は想像して居ったが、吾々に波及するとは全く思ひませんでした。然し命に依って

                  動かされたら何処でも行かねばなりません。本県在住僅かに1年で、殊に産業の太宗たる水産方面に携わった

                  ことは非常に経験で、仕事はこれからと思ったのに、今動くのは非常に残念です。栄転など言はれると気が引ける

                  様ですが、広島県は初めての土地です。但し郷里和歌山とは幾分近くなるので、夫れだけは気安いです。

                  もっとも角サーベルが私には縁がある訳でしょうから、昔とったきねつかで大いにやりましょう。」
    
                  と元気であったが、川島氏は去る6月末に当年2歳の坊ちゃんを亡くされ、家庭では尚その後事に多忙を極めて
    
                  居る際で、気の毒である。



                家族で長崎に赴任し、その長崎で可愛い息子を亡くしたとは、本当に気の毒なことでした。川嶋孝彦の妻は、会津藩

               出身で長崎県の監獄課長をしたことのある元大阪市長池上四郎の六女、紀子(いとこ)でした。

               明治天皇の祖母は元平戸藩主松浦清(静山)の11女 中山愛子であり、長崎県は本当に皇室とご縁がありますね。




              令和2年10月
  

                
               長崎から会津にもたらされた凧と南蛮菓子


                会津地方の名物の中には、長崎に起源をもつと考えられているものが2つあります。それが会津唐人凧と、南蛮菓子の

               かすてらあん会津葵です。この2つとも、会津藩内で生産された朝鮮人参を清国へ輸出して財を築いた長崎の会津藩御

               用商人 足立仁十郎(1801~1881)が会津に仕事でやって来た時に、足立が長崎の唐人凧とカステラを持って来たのが起

               源とも言われているようです。

                足立仁十郎は20歳の時、大阪の薬種商「田屋辺」に奉公するようになり、文政9年(1826)から天保2年(1831)にかけて

               人参指導のため会津を訪れました。この間、文政12年(1829)、田辺屋をのれん分けしてもらって、長崎で「田辺屋」を始め

               ました。ですから、会津唐人凧は1829年以降に長崎から会津を訪れた足立仁十郎が長崎土産として持って来たと考えら

               れています。


                1.会津唐人凧

                   会津唐人凧の図柄は、「ベロくん出し」、「日の出波」、「武者絵」、「風神」、「火伏せの竜」など約20種類ある

                  そうです。戊辰戦争で籠城した際には、子どもたちが鶴ヶ城から唐人凧を上げて、将兵の士気を高めたそうです。

                  それにしても、ベロを出す図柄はとてもユニークですね。会津独自の図柄ではないでしょうか。


                2.かすてらあん会津葵

                   会津葵は藩主である会津松平家の家紋であり、お菓子の押文様は藩公の文庫印「会津秘府」を写したものだそうです。

                  また、かすてらあんの原材料は、卵と小麦と牛乳だそうです。

                  かすてらあん会津葵は、あん入りカステラの創案が国から認められ、1962年に科学技術庁長官から創意工夫功労章

                  を受けています。

                   私も何年か前に、長崎市で歯科医をしている会津若松市出身の方から会津の土産として、かすてらあん会津葵をもらっ
 
                  て食べたことがあり、たいへん美味しかった記憶があります。




             令和2年9月
  

                                  
    長崎水道設置の経緯


               来年令和三年(二〇二一年)は、明治二四年(一八九一年)に長崎に上水道が設置されてから一三〇年

              となる記念の年です。今月は長崎に上水道を設置することになった発端について調べてみました。

              まず、日下義雄長崎県知事が東京帝国大学助教授の吉村長策を長崎県技師に採用して水道工事の設計を

              させたところ、事業費は三〇万円と見積もられました。そして、水道事業を運営するため会社を設立することに

              したのですが、長崎では折からの経済不振で区民が苦しんでいるのに、さらに上水道建設で区民に莫大な

              負担がかかるとして、区民から猛反対が起きてしまいました。結局、水道会社設立計画は断念され、代わりに

              長崎区立で水道事業を行うことに変更されました。
 
               ところで、この水道会社設立は商工会員の瓜生震が建議したことがきっかけで、長崎県と長崎区が賛同して
 
              設立しようと動いたのでしょうか。それとも、長崎県と長崎区が水道設置を建議するよう瓜生震に働きかけたので
    
              しょうか。長崎市役所が発行した『長崎市議会史 記述編 第一巻』では、このどちらの説も採用されています。
    
              おそらく執筆者が別々だったのであろうと推測されます。

               まず前説では、

               「明治十八年(一八八五)、コレラの流行を契機に、長崎商工会は地域経済の将来への危機感を募らせ、

                水道敷設の計画を発表した。これは、翌十九年に、長崎県(知事日下義雄)や長崎区(区長金井俊行)

                の強い支持を受け、官民一体の事業計画として進められようとした。」(一ニ五貢)


              次に後説では、

               「明治十九年(一八八六)、日下知事は金井区長に防疫上から水道設置の急務を説き、知事と区長は

                水道建設のための水道会社設立で意見の一致をみた。そこで意を受け、当時、三菱の炭礦部長であった

                瓜生震は、水道会社設立の建議書を長崎商工会に提出した。」(九三貢)


              日下義雄と瓜生震は以前から親しい仲だったのではないでしょうか。それは瓜生震が飼っていた犬を

             日下義雄にあげたことからもわかります。日下義雄が長崎県知事を免職されて、長崎を去る時に鎮西

             日報に次の記事が掲載されました。
   
             【明治二三年一月九日付鎮西日報】
   
              ●駿犬旧主に帰す
   
                 日下元知事の所飼たりし駿犬は当港第一等と呼ばれたる巨犬なるが、日下氏当地出発の時に

                同犬の旧養主たる瓜生震氏へ譲りたるよし。

    
             この記事から推測して日下義雄と瓜生震は仲が良かったと思われます。そう言えば、日下も瓜生も共に明治4年

            出発の岩倉使節団の一員でした。 欧米を一緒に旅行している間、知り合いになり、親しくなったかもしれません。

             長崎に水道を設置しようと日下義雄と瓜生震は意気投合したかもしれません。

   


             令和2年8月
  

                                
    「精霊船に関する諭告」


 
               明治26年8月22日付けの鎮西日報に、「精霊船に関する諭告」と題する記事が掲載されています。当時の精霊船の

               大きさがわかり、長崎の伝統行事に関するものなので、ここに紹介いたします。


                 
 【明治26年8月22日付け鎮西日報】

                ●精霊船に関する諭告
    
                   追々盆祭に近づきしに付き、北原市長は昨21日、一編の諭告を発したり。曰く、精霊船の帆檣間々五、六間以上に

                 達するものあり。電燈線に触れて不測の災害を生ずるの恐れなしとせず。

                   多人数群集の際は特に危険のことなれば、成るべく電線以下に短縮し、若し以上に及ぶものあらば、該線下を通過

                 する毎に必ず檣(ほばしら)を倒してその害なきを期すべしと、好注意と云うべし。


                ここで、帆檣(はんしょう)とは、帆柱(マスト)のことであり、1間は約1.8mです。したがって、帆柱の高さが五、
    
              六間というと、9m~11mとなりますので、船の長さもよほど長かったと思われます。

                現在の長崎では、帆柱を立てた精霊船を見かけることはありませんので、いつの頃からか禁じられているみたいです。

              長崎の明治時代の精霊船はどんな様子をしていたのでしょうか。帆柱がないだけで現在と変わらないのでしょうか。

              写真があれば見たいものです。ちなみに、島根県の西ノ島町では海上で「精霊船流し」が行われているようです。
 
                なお、明治時代の長崎は江戸時代と同様、お盆は旧暦の7月15日でした。明治26年の旧暦7月15日は新暦の8月26日

              でした。

                会津でも精霊流しがあるかどうか、インターネットで検索したら、あることはあるんですね。しかし、長崎の精霊流しと違い、

              「灯籠流し」のことを会津では精霊流しと言っているようです。会津の人が長崎の精霊流しを見たら、さぞビックリすることで

              しょうね。会津出身の長崎市長北原雅長も、長崎に来てビックリしたのではないでしょうか。




             令和2年7月
  

                                   会津人 只野藤五郎について(2)


                   
今月も只野藤五郎についてです。彼は長崎県会議員と長崎市会議員をしていたことがわかりました。

               1.長崎県会議員

                 第1回長崎県会議員選挙が明治12年1月に行われ、定数62名の県会議員が選出されました。長崎区は定数3人で、

                松田源五郎、森寛平、斎藤三郎吉が当選しました。この当時の長崎県には現在の佐賀県域も含まれていました。

                 明治16年6月の太政官達により、同年7月1日に佐賀県が長崎県から分離独立したことにより、定数34名の

                長崎県会議員選挙が行われました。長崎区の定数は3人で、斎藤三郎吉、只野藤五郎、森栄之が当選しました。
  
                 明治16年9月5日から10日まで臨時県会が、9月17日から10月16日まで通常県会が開かれました。

                通常県会では、只野藤五郎の席次は5番でした。そして、通常県会最終日に半数の議員が抽籤で退任することに
    
                なり、長崎区では只野藤五郎が退任となりました。
    
                 翌17年3月に県会議員定数が3名増えて37人となり、半数が退任したことによる後任選挙と、定数が3名
    
                増員となったことによる増員選挙が3月中に行われました。後任選挙の部では、長崎区から只野藤五郎が選出され

                ました。この時の只野藤五郎の族籍は、長崎区本石灰町43番地、平民として届けられています

                 只野藤五郎はいつまで長崎県会議員に就任していたかというと、明治23年2月に半数改選の選挙が行われた際、
    
                只野は半数改選の対象にはなっていませんでした。次の半数改選の選挙が行われたのは明治25年10月ですが、
     
                選挙後の通常県会の議員席次に只野藤五郎の名前は掲載されていません。したがって、只野藤五郎は明治25年
     
                10月で県会議員を退任していることになります。
     
                  『長崎県議会史 第2巻』(昭和39年発行)に明治23年半数改選時の議員職業、地租納税額、生年月等が掲載

                されており、只野藤五郎は次のとおり記載されています。

    
                      天保6年(1835)8月生まれ、地租納税額10・650円、商業、長崎市本石灰町43、平民
   
       
                 只野藤五郎は長崎県会議員に初当選した明治16年(1883)当時の年齢は48歳だったことがわかります。 



               2.長崎市会議員

                 只野藤五郎は、明治22年4月21日から23日に行われた第1回長崎市会議員選挙に当選しました。
     
                人口5万以上10万未満の市は定員が36人とされていて、長崎市では36人の市会議員が誕生しました。(任期6年)

                当時の選挙制度では、市会議員は立候補制度はとられず、選挙権を有する選挙民がその市の被選挙権のある者の

                中から選挙することになっていました。しかも、三級選挙制といって、選挙人は納税額によって3つの等級に分けられ、

                全選挙人の納める納税額の3分の1にあたる者は1級選挙人、次の3分の1に当たる者は2級選挙人、残りの者は3級と

                され、それぞれの級の選挙人は定員の3分の1にあたる12名の市会議員を選挙しました。
    
                 したがって、数が最も少ない1級選挙民も12名、最も多い3級選挙民も12名を選挙するので、1票の格差は1級と
    
                3級とでは約21倍もありました。
    
                 具体的に言うと、1級の12名は38票から30票で当選し、2級の12名は116票から104票で当選し、3級の
    
                12名は675票から638票で当選しました。只野藤五郎は3級当選者であり、得票数は646票でした。
    
                 明治22年5月9日に第1回長崎市会が招集され、議長と議長代理者(副議長)の選挙の結果、只野藤五郎はは20票
    
                を得て議長代理者に選出されました。ところが、就任1ヶ月余りたった6月13日の市会において、只野は「時事に感
    
                ありて辞す」と書かれた辞表を提出し、議論があった末、只野の議長代理者辞任が認められました。只野がどうしてわずか
    
                1ヶ月で辞任したのか興味が引かれます。只野は市の執行機関である市参事会の名誉職参事会員(6名)にも選出されま

                したが、任期は4年なのにやはり1年で辞任しています。当時只野は長崎県会議員も兼務していて、多忙が原因だったの

                かどうかわかりません。他に原因があったのかもしれません。
    
                 第1回長崎市会議員選挙では水道設置問題が最も大きな争点となりましたが、只野藤五郎は水道反対派の中心人物の

                一人でした。彼は「崎陽共益会」という会を組織し、その幹事となり、水道反対派の多い町々を組織して、「同盟会」と呼ば
     
                れるグループを作りました。そして、水道賛成派の町々からなる「連合町」と激しく対立しました。
     
                国内3番目となる水道が長崎市に明治24年3月完成しましたが、両派の対立はその後も続き、明治26年に知事と市長

                の仲裁でやっと和解するに至っています。
  
   
   
                   参考文献

                      『長崎県議会史 第1巻』  昭和38年3月31日 長崎県議会発行

                      『長崎県議会史 第2巻』  昭和39年3月31日 長崎県議会発行
    
                      『長崎市議会史 第1巻』  平成7年3月 長崎市議会編集発行
    
                      『長崎市制六十五年史 前編』 昭和31年3月31日 長崎市役所総務部調査統計課編さん発行





             令和2年6月
  

                                  会津人 只野藤五郎について


                  
只野藤五郎は、長崎で活躍した商工業者であり、会津出身者です。ただ、どんな事業を行っていたかは今のところ私には

             わかりません。

               長崎商法会議所が明治12年10月1日、現在の十八銀行所在地において創立されました。会頭に松田源五郎、副会頭に青

             木休七郎が就任しました。そして明治16年12月、長崎商法会議所の組織を変更して長崎商工会が桜町に設立されました。

               会頭には長崎商法会議所に引続き松田源五郎が就任しましたが、副会頭に就任したのが只野藤五郎です。副会頭に選

             任されるくらいだったので、只野藤五郎は長崎の財界でかなり有力な人物だったことが推測されます。
    
               明治19年10月1日に開催された長崎商工会の委員会において、会員の瓜生震は長崎区内の水道改良の計画を商工会

             に建議しました。その後、総会に掛けられて承認されたので、長崎商工会の副会頭 只野藤五郎の名で長崎県知事日下

             義雄あてに長崎水道会社設立の請願書が提出されています。

               このことが当時長崎で発行されていた鎮西日報に掲載されていますので、紹介します。


              【明治19年11月9日付け鎮西日報】

               ●水道会社設立請願書

                  長崎商工会が会員瓜生震氏の建議により長崎水道会社設立を長崎県知事に請願すべきことに議決したる次第は、

                過日の紙上に掲げしが、その節副会頭只野氏の提出にて可決せし請願書案は左の如し。


                         水道会社設立請願書
  

                 謹んで請願す。這般(しゃはん)本会会員瓜生震より本区に水道会社設立に係る建議を呈出せしにより、本会は本月

                 一日これを臨時委員会に附せしに、その事業の盛かつ大なるをもって到底総会の審議に附すべきものと査定せしをもっ

                  て、爾後総会開会の準備をなし、同月二十五日臨時総会を開きしに、本会に於てはつらつら考えるに、本区昨夏及び当

                 夏二度の悪疫流行し、その勢い頗る猖獗(しょうけつ)にして悲愁惨怛(さんだつ)の態を現出せしも、その筋において検疫

                 その当を得ると、莫大の官民費とをもってこれが防御とこれが消滅とに汲々(きゅうきゅう)せられたるをもって、目下よう

                 やく愁眉を開くの秋に達せりといえども、伏してこれは斯くこの年悪疫流行に際しそれがため当港に被る損害は、実に数

                 十百万円に達すべし。 社会の不幸これより大なるはなし。かつこの年悪疫発生の原因は種々これありといえども、飲料

                 水の不潔に因するをもって最も多しとするの説は、 当時精覈(せいかく)なる調査上の与論たるは断乎として疑うべき

                 に非ず。しかるに当区の倉田水及び井水たる試験上、上等に属するもの十中一、二に過ぎず、その他は下等あるいは

                 下等にして下等、最も多きに居る悪疫の流行する亦宜なるかな。 故に本会は、該建議をもって目下必須の事業なりと満

                 場の賛成をもって、ここに本請願書を呈出するの評決を得たり然り。(以下は省略します。)           
    

                      長崎商工会会頭代理

                             副会頭  只野藤五郎

                           月 日

                                長崎県知事  日下義雄 殿
         



              【明治19年11月12日付け鎮西日報】

               ●水道会社設立請願の副伸

                  この程商工会副会頭只野藤五郎氏より金井区長へ提出されし長崎水道会社設立請願書は、昨日副伸書とも日下

                 知事へ進達されたるよし。




                明治22年4月1日に市制が施行された際、長崎市の執行機関である長崎市参事会の会員に只野藤五郎が選任されました。

              就任したのは明治22年6月から明治23年6月までの1年間でした。当時の市政は、執行機関である市参事会と決議機関

              である市会をもってスタートしました。市参事会は、市長、助役、名誉職参事会員(6人)で構成され、名誉職参事会員は
   
              市会議員または市民の中から市会において選挙されました。任期は4年で、2年ごとに半数が改選されました。只野藤五郎

              は任期途中で辞職しています。


               只野藤五郎がいつ長崎にやって来て、いつまで長崎にいたのか、どんな事業をしていたのか、いつどこで亡くなったのかに

              ついては、今後研究していきたいと思います。只野藤五郎が会津出身ということがわかる資料として、次の鎮西日報記事を

              最後に掲載しておきます。


             【明治22年6月15日付け鎮西日報

              ●長崎に人物なきか   
 
                 長崎人士は従来他方人士のために押し倒さるの勢いありとは土着の人々が常に慨嘆する所にて、最初玉園会
   
                発起の旨趣もここにありとか聞き及べるが、今度市制実施に付き選挙されたる重立ちし役員の多く他方人士なるぞ
   
                不思議なれ。すなわち左にその原籍を掲ぐれば、
   
                 市長北原雅長(会津人)、助役和田要四郎(島原人)、参事会員毛利康之(長崎人)、同松本孝平(長崎人)、
   
               同森敬之(元島原人)、同只野藤五郎(元会津人)、同林耕作(長州人)、同若杉峰之助(長崎人)、
   
               市会議長家永芳彦(元佐賀人)、同代理者高橋保馬(島原人)
   
               之について見るときは市長、助役、市会議長、同代理者なる重役はことごとく他方人士のために占められ、
   
               唯市参事会員の半数だけが長崎人士の手に残りたる姿あり。(以下省略します。)



                 参考文献

                    『長崎市史年表』  昭和56年3月20日  長崎市役所発行 

                    長崎商工会議所ホームページ  『長崎商工会議所の変遷』





             令和2年5月

              
                            川嶋孝彦とその妻 紀子について


               秋篠宮皇嗣妃殿下紀子様の祖父は和歌山出身の官僚で元内閣統計局長の川嶋孝彦であり、祖母は会津出身である元

              大阪市長池上四郎の六女 紀子(大阪出身)ですが、この度、川嶋孝彦について書かれた論文がインターネットで見つかり

              ましたので、この欄でその論文を引用させていただきたいと思います。その論文は、一橋大学経済研究所の佐藤正広教授

              が平成29年(2017年)5月に書かれた「川島孝彦―人物像と統計―」です。総務省統計研究研修所が委嘱して書かれた

              論文です。

               川嶋孝彦は、明治30年(1897年)2月23日に和歌山県で生まれています。大正11年(1922年)11月に文官高等試験
    
              行政科に合格し、翌12年(1923年)3月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業しています。
   
               翌4月、三重県警部兼三重県属に任命されて警察畑を歩み始めます。大正14年(1925年)1月、茨木県警察部保安課長、
   
              昭和3年(1928年)7月、広島県警察部特別高等課長、昭和4年9月、兵庫県警察部外事課長に任ぜられました。
   
               この間、川嶋孝彦は茨木県警察部保安課長として在職中の大正15年(1926年)3月に29歳で、池上四郎の六女、池上

              紀子と結婚しています。

               そして、昭和2年(1927年)年6月から3年7月初めまで約1年間地方事務官として長崎県内務商工課長兼水産課長に任

              ぜられ、長崎県庁に勤務しています。池上紀子(いとこ)は明治40年(1907年)生まれですので、結婚した時は18歳か19歳でした。

              結婚した翌年に長崎に赴任していますので、妻の紀子も一緒に長崎で暮らしたものと思われます。期間は短かくはありま

              したが、新婚時代を長崎で生活し、いかがだったでしょうね。昭和2年の10月には長崎くんちを二人で見物したかもわかりま

              せん。昭和56年発行の『長崎市史年表』によると、昭和2年9月29日、蒋介石が元南京市長らを従えて長崎入港の上海丸

              で來日し、直ちに雲仙に向かい、九州ホテルに宿泊したそうです。そして10月2日に神戸に向かっています。11月9日には

              長崎丸に乗船して上海に向かっています。蒋介石が長崎県滞在中は、川嶋孝彦は長崎県庁の課長として何かと忙しかったこと

              でしょう。


               川嶋孝彦は昭和3年7月に広島県警察部へ異動を命じられた際に、長崎日々新聞のインタビューを受けて、次のように答

              えたそうです。


                「 本県在任わずかに1年で、ことに産業の太宗たる水産方面に携わったことは非常に経験で、仕事はこれからと思った

                 のに、今動くのは非常に残念です。」 
  

               長崎県は現在も国内有数の水産県ですが、昔は今とは比較にならないほど水産業が盛んだったようで、確かに「産業の

              太宗」であったと思います。そういう県の水産課長を務めたので、いい経験になったことでしょう。しかも内務商工課長も

              兼務していたので、多忙だったことでしょう。


               一方、妻の紀子は父親の池上四郎が約40年前の明治20年11月~23年2月に長崎県監獄課長と長崎監獄の典獄(後

              の刑務所長)を兼務していたことで、一種の懐かしさを感じてやって来たのではなかったでしょうか。池上四郎と妻のハマは

              末娘可愛さに、かつて自分たちが滞在した長崎に紀子を訪ねてやって来たかもわかりません。川嶋孝彦は、もっと長く長崎

              県に勤務してほしかったと、長崎の人間として思いました。

     


                 参考文献

                      『川島孝彦―人物像と統計―』  著者 佐藤正広 一橋大学経済研究所教授

                      『職員録』 昭和5年1月1日現在




              令和2年4月
  

                            池上四郎について


             池上四郎は1857年5月11日(安政4年4月18日)、会津藩士池上武輔の四男として現在の会津若松市で生まれました。

             11歳の時に会津戦争が起こり、兄の三郎と共に会津若松城に籠城しています。戦後しばらくして斗南藩が成立すると、

             家族で斗南(現在の青森県の東部)に移住しました。寒冷の地で食料が乏しく、一家は厳しい生活を送ったようです。

             1877年(明治10年)に西南戦争が起きて多数の警察官を採用することとなり、池上四郎もこの年に内務省警視局の一等

             巡査に採用されました。その後、石川県や富山県など各県で警察官僚として勤務しました。

              そして、1887年(明治20年)10月31日付けで長崎県監獄課長兼長崎県典獄に任命されました。当時、長崎で発行され

             ていた鎮西日報に次のとおり報道されています。
   
    
             【明治20年10月30日付鎮西日報】

               ●池上氏

                 京都府警部にて下京警察署長たりし会津の池上四郎氏ハ、今度長崎縣へ出向を命ぜられ、来る廿七日出発の

                筈なりと。


             【明治20年11月1日付鎮西日報】

               ●典獄更任

                 長崎縣典獄松本正直氏ハ昨三十一日任長崎縣属叙判任官二等第二部衛生課長に命せられ、京都府警部池上

                四郎氏ハ任長崎縣典獄叙判任官二等第二部課長に命せられたり。

 
              ところで、典獄とは現在の刑務所長に当ります。池上四郎は長崎区の新大工町にあった長崎監獄の典獄も兼務して

             いました。
また、長崎県監獄課は長崎監獄がある新大工町に置かれていました。

              なお、長崎監獄の建物は、西南戦争時には戦傷病者を収容する陸軍病院として使用されていたようです。

              池上四郎は1890年(明治23年)2月8日付けで警視庁勤務を命じられ、2月10日に上京して行きました。長崎には

             30歳の時に赴任して来て、32歳の時に東京へ移りましたので、長崎には2年3ヵ月余り滞在しました。

              池上四郎の異動に関する当時の新聞記事などを以下に掲載します。
  


             【明治23年2月9日付鎮西日報】

              ●池上典獄と幡本書記

                 長崎縣典獄兼監獄課長池上四郎氏は警視庁に採用に付き昨日出向を命ぜられ、同課属兼書記幡本廣治氏は

               長崎縣副典獄判任官五等に同日叙任せり。

   
              ●池上四郎氏出発

                 同氏は別項にもある如く警視庁にて採用に付本日の上り郵船より家族引連れ上京するよし。



             【明治23年2月11日付鎮西日報】

              ●池上氏の見送り

                長崎縣典獄より警視庁へ転任したる池上四郎氏ハ、昨日午後四時解纜の上り郵船西京丸にて上京せり。

               同氏の転任は監獄官吏惜み居る由にて、既に昨日同氏の乗船の際は監獄官吏及びその妻子小使等に至るまで大波

               止まで見送り離別の感情を表せり。

 
              ●送別会

                一昨九日午後三時より長崎監獄員は当市伊勢町三十七番戸に於て池上典獄の送別会をなせし由。来会者ハ

               凡そ八十名。席上池上典獄を送るの辞ありて各歓を尽し夜に入りて散会せしといふ。



              池上四郎が長崎滞在中に次女が生まれています。六女の紀子(いとこ)は1907年(明治40年)に大阪市で生まれ、

            1927年に茨木県保安課長をしていた川嶋孝彦(後に内閣統計局長)と結婚しました。この二人の次男が学習院大学

            名誉教授の川嶋辰彦氏で、辰彦氏の長女が秋篠宮皇嗣妃殿下の紀子様です。ですから紀子様は池上四郎のひ孫に

            あたられます。



               令和2年3月       
       
                                
 柴五郎将軍と旧大村藩士長岡重弘   

 
         会津藩出身の柴五郎が書いた『ある明治人の記録』という本の中に、長岡重弘という人物がたびたび

        登場します。柴五郎少年に対して何かと面倒を見てくれています。この長岡重弘と言う人は、肥前大村

        藩の藩士だった人で、明治元年に明治政府の官吏となり、明治3年1月に民部省に入り、明治4年7月

        に民部省が廃止された後、同年9月に大蔵省勤務を命ぜ
られました。そして、明治5年2月に東北地方

        11県への出張を命じられ、長岡重弘は5月末に青森県を訪れました。『ある明治人の記録』に次のと

        おり記載されています。


               「(明治5年)5月末、地租改正調査のため、東北地方巡回の大蔵省役人の一行、青森に滞在
 
         す。首席は肥前大村の人、大蔵七等出仕の長岡重弘、次席は信州松本の人、大蔵属 市川正寧、
 
         その他土肥、北村、山田等の属僚をしたがう。」
83貢)


           この本によると、柴五郎と長岡重弘との最初の出会いは、明治5年5月末、柴五郎少年が青森県庁に

      給仕として勤務していた時、地租改正調査のため東北地方を巡回していた大蔵省役人一行が青森に滞在

      した際に、東京に留学したいので帰路一行に同行させてほしいと宿所へ訪ねて行った時でした。この

      一行の首席が大蔵省七等出仕の長岡重弘で、長岡は同行することを快く承諾してくれました。 

             そして6月初旬、次の巡回先に向かうため青森を出発しました。この時の様子について柴五郎はこの本の

        中で次のように記述しています。

 
        「長岡氏は牛輿に乗り、他は徒歩なり。長岡氏は心優しき人にて、幼少の余をいたわり、同氏の

         輿に同乗させ、あるいは駅馬に乗せるなどして、実際に歩行せるは一日のうち四、五里なり。」


         青森から東京までの旅費や雑費も長岡重弘と次席の市川正寧(信州松本出身)が支払ってくれていま

        す。東京に着いてから五郎は定住先が決まるまでの間知人・縁者の家を転々とするのですが、市川正寧

        や長岡重弘の家にもしばらく寄宿させてもらっています。

 
         こうして苦労した末に、明治6年3月末、柴五郎は陸軍の幼年生徒隊(後の幼年学校)の試験に合格

        し、陸軍兵学寮に入りました。この時とても喜んだ一人が五郎を寄宿させてくれていた旧会津藩士の山

        川浩でした。市内に出かけて行って軍服を買い求め、帰って来てからはその着方を五郎にいちいち教え

        てあげています。

        その軍服を着て五郎は青森県庁以来の大恩人である細川藩出身の野田豁通(青森県庁で大参事を務めた)

        を訪ねて行って挨拶しています。
また、

             『長岡宅、市川宅など、世話になりたる家を馳せめぐりて、挙手の礼をな』しました。

        この時柴五郎はよほど嬉しかったらしく、手記には『余の生涯における最良の日というべし』と記して

        います。

   

             柴五郎は長岡重弘のご恩を終生忘れなかったようで、長岡重弘の孫の長岡弘氏が書かれた手記『大村

        勤王同盟三十七士 長岡重弘伝』(「大村史談」第21号)に、次のとおり記述されています。

        「私の母が長岡へ嫁いで間もない夏に、小柄な品のある老紳士が訪ねて見えた。祖母の下座に平伏して

          御挨拶されたと。私の母も名将柴大将とは露も思わなかったと語る。「柴でございます」と申された。
 
          座敷で祖母と親しく話されて、帰って来た父健作にも平伏してご挨拶を賜ったと。祖父重弘の墓に水

          を持って同行した近所の老人は、大将がお帰りになってから陸軍大将柴五郎氏と聞いて腰抜かしたと

          のエピソードがある。長与へはその後も再三来られて、恩がえしに私の従妹を養女に迎えてお世話した

          いとのご内意でした。」 

 

         その従妹に当られる方は、結局柴五郎の養女にはなりませんでしが、柴五郎が長岡重弘に対して、ど

        んなに感謝していたかがわかります。

             3月1日、長岡弘氏(故人)の奥様のご案内で、柴五郎を研究されている県内にお住まいの方と一緒

        に、長崎県西彼杵郡長与町嬉里郷にある長岡重弘のお墓参りをさせていただきました。かつて、この

        お墓に柴五郎が訪れたのかと思うと感慨深くなりました。 


                   




               令和2年2月       
       
          
                    長崎水道事務規程と工事の一時中断について


               長崎の水道の歴史について、これまで何度かこの欄で紹介して来ましたが、今回も当時の資料を追加して長崎の水道の

              歴史に触れてみたいと思います。


               明治22年(1889)1月22日に臨時長崎区会が開かれて区立水道布設案が可決され、1月25日に金井俊行区長が水道

              布設工事を長崎県に委託し、県は4月22日に工事を開始しました。 県は翌月に水道事務規程を設けています。鎮西日報

              に次のとおり内容が記載されています。


               【明治22年5月18日付け鎮西日報】

                 ●長崎水道事務規程

                   一昨十六日長崎県庁にて庁中一般に達したる長崎水道事務規程は左の如しと。


                  第一条 県庁内に長崎水道事務所を置き、長崎水道布設に関する一切の事務を取扱わしむ。

                  第二条 長崎水道事務所に左の役員を置く。

                          管理、工師長、事務長、工事担任、事務担任

                  第三条 管理は知事の指揮を受け、長崎水道布設に関する一切の事務を管理す。

                  第四条 工師長は知事、管理の指揮を受け、長崎水道に関する一切の工事を計画施行し、及び工事の監督に任ず。

                  第五条 事務長は管理の指揮を受け、長崎水道布設に関する事務を整理す。

                  第六条 工事担任は工師長の指揮を受け、各部の工事を分担す。

                  第七条 事務担任は事務長の指揮を受け、長崎水道布設に関する事務を分担す。
 
                  第八条 長崎水道事務所には第二条の他雇員を置き、工事及び工事に課する事務を補助せしむることあるべし。

                   第九情 長崎水道事務所に置いて取扱ふ所の文書は、知事及び県名を以て発布するものを除くの外、管理に於て

                       別段の手続きを設け、之を処理するを得べし。
   


                  このように、水道事務規程を設けて工事が始められたのですが、間もなく工事は中断されてしまいました。

                 その理由は、明治22年3月31日をもって長崎区が廃止され、4月1日に長崎市がスタートしたことにあります。

                  地方自治が区制から市制に移行したことにより、議会も区会から市議会へと変わりました。市議会議員選挙が実施

                 されて議員の入れ替わりもありました。これにより、水道工事という重大な案件は市議会で工事を続行するかどうか     

                 議論を尽くす必要があると判断されたために、水道工事は一時中断されてしまいました。また、工事を急ぐのは穏当では

                 ないとして、中止するよう政府から内々に訓示があったようです。このことが次のとおり、当時の鎮西日報に記載されて

                 います。


               【明治22年8月16日付け鎮西日報】

                 ●水道の授受

                    本日午前九時より左の議案について市会を開かる。

  
                      旧長崎区水道工事引継に係る諮問


                    旧長崎区に於て設計の水道工事に関する事件は、さきに区会に於て議決の末実地に着手、既に鉄管の義も
    
                  注文済みて着々計画の後、多数人民のなお之を非とするものありて、一時事業遅緩に属しおりしに、引続き
    
                  市政の施行に際し事務引継のときに臨めり。故に元区長に於て目下差支えなき分は工事見合わせ置きし趣を
    
                  以て、今般右関係の書類ことごとく皆市参事会に引継ぎたり。本会に於ては素より重大の事件と認めるに依り、
    
                  しばらく書類を預り置き、その授受の当否を市会の意見に付し、以てその針路に頼らんと欲す。


                ●中止の理由

                   これまで水道工事を中止しおりし理由は右の議案中に躍々たり。即ち、市制の施行に際したる故に、中止

                  したるものなり。さすれば政府に於て長崎区役所の事務引継のときに臨み、やはりドンドンと工事を急ぐは

                  穏当ならずとて中止を内訓したりというが実正なりしことと知らる。 
   


   
               当日の議会の様子が 『長崎市会傍聴略記』と題して翌日の鎮西日報に掲載され、「傍聴人は議場の内外に充満せり」

              と記載されています。市民の関心がいかに高かったかわかります。

              一時中断されていた水道工事は、明治22年11月9日の長崎市会でようやく水道工事継続議案が可決されました。
   
              これにより、明治24年3月に本河内高部ダムが完成しました。





               令和2年1月       
       
          
                  長崎に水道布設を建議した長崎商工会会員 瓜生震


                長崎市の本河内高部ダムが完成したのは明治24年(1891)3月で、鉄管やろ水施設を持つ近代的水道としては、

              横浜・箱館に次いで国内で3番目でした。そして、5月16日から市民への給水が開始されました。

              水道工事については、明治22年(1889)1月22日に臨時長崎区会が開かれて、区立水道布設案が可決されました。

              そして、1月25日に金井俊行区長が水道布設工事を長崎県に委託し、県は4月22日に工事を開始しました。

              途中、工事が一時中断されていましたが、明治22年11月9日に長崎市会が開催され、本河内高部水道工事継続議案が

              可決されて、工事が続行されました。  


                こうして水道事業は市営として運営されたのですが、最初から市が直接運営することが考えられていたわけではありませ

              ん。最初は民間会社を設立して、その会社が水道事業を行うことが建議されました。それを建議したのは、長崎商工会会

              員の瓜生震(うりゅう・ふるう 1853-1920)です。『コトバンク』によると、瓜生震は福井藩士の子として生まれ、長崎に
    
              遊学して蘭学を学び、坂本龍馬の海援隊に入って活躍しています。明治4年工部省鉄道寮に入り、この年岩倉使節団に

              加わって欧米を巡遊し、明治8年に帰国しています。そして鉄道寮に復帰したのですが、明治10年に官を辞め、三菱が経

              営する高島炭鉱会社に入りました。そして高島炭鉱長崎事務所の支配人になり、明治26年に三菱合資会社(後の三菱財

              閥)の本社副支配人、32年に営業部長となりました。

    
               瓜生震が長崎に水道を布設するよう建議したことが明治19年10月3日の鎮西日報に掲載されていますので、ご紹介

              します。


                【明治19年10月3日付け鎮西日報】

                  ●水道改良の建議

                     一昨夜西濱町清洋亭に於て長崎商工会の委員会議了の際、商工会員瓜生震氏より商工会に対し、長崎区内水

                   道改良の計画を建議せられたり。その建議案は左の如くにて、これには内外専門家の実測も概略整い居る由なるが、

                   同会にては建議に対し、一ニ討議の末事業重大にわたるをもって、不日ことさらに商工会委員の総会を開き審議すべ

                   きことに議決し、その建議案は左の如し。


                          長崎区に水道設置の議案


                   要目並びに説明


                    長崎は本邦五港の一つにして、しかもその地形、気候共に他の四港に譲らざる一勝地たり。しかるに近来、虎列拉痘

                   瘡その外悪疫本邦並びに隣国の諸港に流行し、長崎はこれの発生の原地たりとの汚名を蒙るに到れり。

                   これ甚だしき誣言にして、病源は印度その他南方の諸国なりといえども、本邦に於て発したるは長崎をもって嚆矢とす

                   るが故に、本邦人に対してはこの誣言を咎め能はざるなり。もとより本港は五港の一つにして、常に外国船の輻輳する

                   所なるをもって、これらの病毒を輸入するもまた速やかなるは当然なりといえども、横濱神戸等も等しく開港地にして外国

                   船の出入りは当港に勝るも決して劣らざる所なりしかり。而してその常に先づ長崎に発生し、他に伝播するについては必

                   ずその媒介をなす者あるが故なり。

                    この媒介者は一つにして足らず、区民の風俗習慣家屋の構造等かつて大いに力ある者なりといえども、その最も重なる

                   者は飲水なり。本区の飲料水は倉田水と井水にして、倉田水は不潔なる田野より流出する水を()しもせず、そのまま

                   木管等をもって導きたる者なるが故に飲用適当とは期しがたく、井水は当春の検査によるに十中七八は飲用不適、残る

                   ニ三も多くは下等飲用水にして、真に上等なる者は百中一ニに過ぎず、疫病の流行するも敢えてたのむに足らざるなり。


                    また、元来長崎は井水に乏しく、この熱地において盛夏に街路灌水の設けなく、各人炎暑の苦を覚ゆること実に甚だし

                   く、ために衛生上大いなる害をなし、かつ、商業にも幾分の妨害を免れ能わざるなり。また、火災に臨み消防夫等井水の

                   乏しきに苦しみ、ために防ぎうべき者も遂に延焼に帰せしむること常なりと言う。 

                   以上陳述したる如き本区の残欠を補うため、かつ、軽便なる水車をもって機械を運転し、市内の溝渠に清水を流通して

                   時々これを洗浄し、小管をもって自家の泉水浴室等に清水を導く等の公便を得るために、日見峠旧道の傍らにおいて海

                   面より凡そ直立百五十尺の所に地を選び、三ヶ月乃至六ヶ月の本区総需用高に対する水を貯蓄し得べき大水溜を造り、
    
                   これに同所近傍の山谷より流出する清水を導き集め、濾水盤を置いて更に清潔にし、鉄管をもって長崎区内に導き、
    
                   蛍茶屋以北の街道は勿論、北は筑後町大黒町、南は浪ノ平古河町、西は沿海の諸町、北は新大工町爐粕町を限り、区内

                    町々家々に等しく清水の便利を得せしむるの目的をもって、ここに諸君の賛成を乞い、県知事閣下の特別なる補助を願うて

                   一つの水道会社を起さんと欲するなり。即ち右企画の大略を記し、諸君の参考に供具す。




                この後も続くのですが、長くなりますので省略します。この後は、このホームページに掲載しますので、興味のあられる

              方はご一読ください。当時はまだ「ダム」という言葉は使われていなかったようで、この建議文では「水溜」(みずため)、
    
              または 「大水溜」と書かれています。

               瓜生震のこの建議内容は、その後の水道工事へと受け継がれて行ったようです。

              長崎の水道の生みの親と言えば、当時の長崎県知事の日下義雄と長崎区長の金井俊行があげられますが、瓜生震の

              建議がなかったならば、水道布設はもっと後になったかもしれません。あるいは、日下義雄と金井俊行が同じ仲間として

              瓜生震に建議させたのかもしれません。当時の状況を想像するだけで、なかなか面白いです。
  
               いずれにしろ、瓜生震は長崎水道の恩人だと言えるでしょう。元海援隊員ということも私は知りませんでしたので、
  
              この人物はなかなか興味深く思われます。      



                参考文献

                     『長崎市史年表』   編集 長崎市史年表編さん委員会  発行 長崎市役所  昭和56年  

                     コトバンク  『瓜生震』

                     日本の歴史ガイド~日本のお城 城跡 史跡 幕末~   『瓜生震』





               令和元年12月       
       
          
                日下義雄長崎県知事の東京出張(2)


              明治19年12月13日に日下義雄長崎県知事は船で長崎を出発し、20年2月12日長崎に帰って来るまで、上京していまし

             たが、その目的は19年8月に起きた清国水兵暴動事件についての政府への報告と、長崎に上水道を布設するための資金

             援助要請でした。前月は清国水兵暴動事件についての政府への報告について簡単に説明しましたが、今月は上水道布設

             のための資金援助要請について述べたいと思います。


            2.上水道布設のための資金援助要請
   
              日下義雄が実際に政府のどの部署に資金援助を要請したかは明確にはわかりませんが、おそらく内務省の県治局

             地方費課だったのではないかと思われます。と言うのも、明治20年1月11日付けの鎮西日報に「至急上京」と見出しの
 
             付けられた記事があるからです。

    
             【明治20年1月11日付け鎮西日報】

              ●至急上京
     
                 長崎県地方費課長畑島源次郎氏は昨十日上京を命じられ、即日出港の薩广丸にて出発されたり。何等の御

                用筋なるか未だ聞知せず。



              当時の地方費課は地方税や財政などを担当していたものと思われ、上水道布設財源について国と長崎県とで協議が

             行われたのではないかと思われます。

              明治22年1月開会の臨時長崎区会で「区立水道布設議案」が紆余曲折の末、可決されました。この議案は30万円

             の工事費用のうち5万円を政府補助金、6万円を長崎商工会独自の商工振興基金である貿易五厘金からの支出、19

             万円を公債発行で賄うというものでした。 したがって、日下知事は明治19年12月から翌年2月にかけて上京し、国へ

             補助金の交付などについて陳情活動を行っていたものと思われます。
 
              ただ、長崎での上水道の運営主体は当初から長崎区(長崎市)を考えていたわけではなく、水道会社を設立して、その

             の会社が水道事業を運営するということが考えられていました。その辺の経緯については次回に述べたいと思います。      
   
             長崎における上水道布設工事は長崎市から委託を受けて長崎県が行うことになり、明治22年4月22日、県は本河内

             水源地開発工事に着手しました。そして、明治24年3月に完成し、5月16日に市民への給水が開始されました。



        

              令和元年11月       
       
          
                日下義雄長崎県知事の東京出張(1)


             令和元年8月のこの欄で、日下義雄長崎県知事が長崎に水道を布設するために政府に資金援助要請しようとして、明

            治19年12月13日に長崎を出発し、翌年2月12日に長崎へ帰って来たことをご紹介しました。2ヵ月間も出張していた

            わけですが、今回は当時の新聞をご紹介しながら、もう少し詳しく述べようと思います。

            日下知事の東京出張の主な用務は2つあったようです。一つはこの年8月13日と15日に長崎で発生した清国水兵

            暴動事件の解決のための政府との協議、もう一つは水道布設のための資金援助要請です。
    
    
            1.清国水兵暴動事件解決のための政府との協議
    
              清国水兵暴動事件の解決を図るため、明治19年9月6日から長崎で清国側と談判が始まりましたが、日本側の

             談判委員に、外務省の鳩山和夫取調局長と長崎県の日下義雄知事が選ばれました。しかし、なかなか話し合いが

             進まず、11月15日を最後に長崎での談判、即ち両国委員会は打ち切られました。また、両国委員会そのものも12

             月7日に政府の訓令によって解散されました。このため、日下知事と鳩山局長は政府に報告するため、12月13日

             に上京しています。そして、12月21日の政府の閣議に日下知事は出席しています。

             なお、鳩山由紀夫元総理大臣や鳩山邦夫元衆議院議員は、この鳩山和夫局長のひ孫です。



             【明治19年12月14日付け鎮西日報】

              ●出発
    
                本県知事日下義雄君及(び)外務(省)取調局長鳩山和夫君ハ昨日午後四時出港の横濵丸にて上京されたり。日

               下知事の上京は矢張(やはり)支那水兵暴行事件に関してのよしなるが、本年中に帰県さるることハ六ヶ敷かるべしといへり。          
 
    
             【明治19年12月19日付け鎮西日報】
     
              ●日下知事の転宿

                日下知事着京の後ハ采女町精養軒に投宿されしことを前号に記せしが、同君ハ昨十八日より麻布市平町十二番

               地外務省官舎へ転宿せられたる旨その筋へ電報ありし由なり。


             【明治19年12月28日付け鎮西日報】

              ●東京通信(12月21日特発)

               ・長崎事件の閣議

                 本日午前十時頃より伊藤、井上、山県、大山、山田、松方、森、榎本の各大臣が内閣へ出頭して、長崎談判

                事件に付き会議を開かれたるよし。当日ハ青木外務次官、山尾法制局長官、田中書記官、日下長崎県知事に

                も出席ありて午後三時頃各退山されたり。

      
               ・鳩山取調局長の再出発

                 外務省取調局長鳩山和夫氏が再び長崎へ出発されたる御用向は、最初長崎両国委員会において三十九回

                の会議を開きしにも係はらず、僅かに十三日事件の半を取調べりたるのみにて、十五日の事件は未だ着手に

                及ばざる前既に解散したる事ゆえ、今度国際上の談判となるに及べば尚更精細詳密の取調をなさるるべからず

                とて、今度再び出発を命ぜられたるものなりといふ。



             【明治19年12月29日付け鎮西日報】

              ●水兵事件取調

                彼清国水兵暴行事件に付鳩山、デュソンの両委員ハ一昨二十七日より交親館に於て関係人の取調を始められ

               しが、同日召喚を受けしハ、楽遊亭主人中村新三郎及び長崎警察署詰警部補代理巡査宗正喜の両人なりしも、

               中村新三郎ハたまたま他出中にて出頭せず、宗正喜氏のみ審問を受け、本日ハ誰も召喚なかりしとぞ。右に依て

               考察を下すに、楽遊亭ハ八月十三日夜、清国水兵の暴行を働きし場所にして、宗巡査ハ其急報を得て現場へ出張

               せし人なりと云へば、今回の取調べも十三日夜水兵暴行の起頭(おこり)より順次に取調べらるるものと思ハる。


             【明治20年2月11日付け鎮西日報】

             電   報

              ●水兵事件結局 (昨十日正午十二時二十分東京特発)

                長崎事件ハ外務大臣と清国公使と互いに商議を遂げ、八日に双方当に審理し、懲罰す可きや否ハ共に両国

               司法官庁にて各の自国の法律に照らし、公平に審理し、互いに干与せざらん事を約して其局を結びたり。

              ●日下知事 (昨十日午後四時十五分神戸特発)

                日下知事本日午後六時当港発の横濵丸にて帰県せらる。





            令和元年10月       
       
          
                    日光東照宮



               9月21日に、日光東照宮へ行って来ました。私はここを訪れるのは2回目で、最初に訪れたのは平成元年か2年でし

              たので、実に30年ぶりの訪問です。当時とは違い、外国人観光客がずいぶん多かったです。

              最初の訪問では徳川家康の墓は見学しなかったのですが、今回は初めて見学して来ました。太平の世を築いた英雄

              のお墓を一度見学できて良かったです。

              また、せっかく来ましたので、宝物館も見学しました。徳川家康が使っていた鎧や刀などいろいろ遺品が展示されてあり、

              よく保存して来たものだと感心しました。ずっと見ていたら、なんと幕末の会津藩主松平容保が明治になって日光東照宮

              の宮司になっていた時に書いた掛軸が展示されているのに気づきました。「東照宮」と書かれた掛軸です。

             その松平容保の直系の子孫が現在、徳川宗家の養子となり、徳川宗家第18代当主として徳川宗家を継いでおられる

              そうです。その子供の次期当主徳川家廣氏は今年7月の参議院議員選挙に立候補して残念ながら落選されました。

              長崎ともご縁があり、長崎大学の国際連携戦略本部の客員教授に就任されておられるそうです。

              長崎に来られた際は、ぜひ食事をご一緒させていただきたいものだと思います。




                         





                          
                                     拝殿




                         
                                    徳川家康の墓




                         
                                   日光東照宮宝物館




                          






            令和元年9月       
       
          
                     京都守護職本陣 金戒光明寺



              7月29日に、以前から訪れてみたいと思っていた京都の金戒(こんかい)光明寺に初めて行って来ました。

             京都駅から100系統の市バスに乗り、岡崎道停留所で降りて、歩いて10分ぐらいで着きました。

             金戒光明寺は法然上人が創建した浄土宗の寺院で、幕末に会津藩が本陣を置いた所として知られています。

             今年6月9日に「会津藩殉難者墓地」内に松平容保公の石像が建立されて除幕式が行われています。
    
              建立したのは京都会津会で、除幕式には会津松平家第14代当主の松平保久(もりひさ)氏ら約100名が参席されたそうです。

              実は、この除幕式には長崎会津会の会員4名も参席しており、そのうちのお1人から今回の除幕式があったことを教えて
    
             いただいた次第です。




    
                                
                                     金戒光明寺の高麗門


               お寺のホームページによると、徳川家康は京に直轄地として二条城を作って所司代を置き、何かある時には軍隊を配置

             できるように黒谷と知恩院をそれとわからないように城構えにしたのだそうです。 

               黒谷に大軍が一度に入って来られないようにするため南側には小門しかなく、西側に城門のような立派な高麗門を建て

             たそうです。ホームページには「黒谷」と書かれていますが、もちろん金戒光明寺のことです。

               また、1千名の軍隊が駐屯できるよう宿泊施設(宿坊)がたくさん作られていました。実際、藩主以下千人の会津藩士が

             この金戒光明寺に駐屯しました。



                           
                                           山門

  
               楼上には後小松上皇直筆とされる額が掲げられていて、「浄土真宗最初門」という文字が書かれています。
 
             法然上人が開いた浄土教の教えがこの地から始まったことを示しているのだそうです。とても由緒あるお寺ですね。 

             高さが約23mもあるという立派な門です。



                             
                                         御影堂


               宗祖法然上人の75歳時の御影(坐像)が奉安されているそうです。昭和19年に再建されています。
                 


                                
                                        会津墓地への案内石




                                    
                                          会津藩殉難者墓地


                 金戒光明寺には子院(しいん)、即ち本寺の境内に付属する小寺院が18あり、そのうちの一つ、西雲院に会津藩殉難者

               墓地があります。会津藩士をはじめ、使役で仕えたと思われる苗字のない者や婦人合わせて352名が祀られているそうです。

  
   



                           
                                        松平容保公


                 6月11日付けの京都新聞(デジタル版)によると、会津藩第9代藩主松平容保公が京都守護職を務めていた頃の写真

               をもとにして作られた高さ1.2mの石造です。高さ0.75mの台座に載せられています。




                                    




          令和元年8月       
       
          
              日下義雄知事への長崎居留外国人からの「表情書」


             明治20年2月、長崎に上水道を布設しようとして政府に資金援助要請のため上京していた日下義雄が
    
           長崎に帰って来ると、待ち構えていたかのように長崎居留の外国人たちが県庁を訪れ、日下知事の県政に

           感謝の気持ちを伝える書状を日下知事に手渡しました。そのことが次のとおり鎮西日報に掲載されています。

           記事には63人が連署した書状の翻訳文と、知事の回答書の翻訳文が掲載されています。
     
            記事は63人が連署した書状を「表情書」と記載しており、まさしく情を表す書であり、言い得て妙ですね。
   
    
            【明治20年2月17日付鎮西日報】
  
              ●居留外国人の表情書
   
                日下本県知事の居留外国人中に名望あることは是れ迄も屡々事端に顕わるる所なるが、過日同知事

              帰県に際し、居留外国人相会して六十三名連署の表情書を作り、クラアリンガー等六名総代となり、
 
              去る十四日県庁に到り(まみえ)たり。之を呈したり。
    
              右は日下知事の治績に満足を表せるのみならず実に内外交誼の親密に至れるを見るに足る。同知事
    
              よりは早速回答書を送られたり。今其文を得たれば左に訳載す。
    
    
               拝啓 閣下の御帰県に際し我々長崎居留外国人が再び我 の間に御在住なさるるに付き満足の切情を
    
               表明するに恰当(こうとう)(ぴったりあうこと)の時期と相考候。

               昨年中閣下の責任重き職務に拮据(きっきょ)せられたる勤労は実に尋常ならず、

               此間に発生したる難事は少からざるが、中にも地方の福祉を妨げ人民の健康を害したるもの有りて事態

               容易ならざりしが、閣下の方略宜しきに適い兼ねて不抜の堅忍を以て事に当たられたるより、此等の 
 
               難事を排除すること得たる儀と慮外ながら彼存候。就中客夏虎列拉流行に際し、措弁の当を得たるが如き 
   
               衛生に関する全般の方案に深く意を留められたるが如き讃嘆すべき所に有之。 
     
               畢竟するに、諸般有形的の改良が到処に顕著なるは皆閣下が管内に在住する人民の為めに福利を図謀する
     
               に全力を傾竭せらるるの明証なり。又閣下は、独り職務上に於て敬服すべきのみならず交際上に於ても大いに
     
               公衆の敬愛する所にて、之が為め貴管人民と我々外国人との間に交情親密を加ふるに至れり。
       
               (ここに)に連署を以て
 
               具陳仕候也。 


                 千八百八十七年二月十四日

               日下長崎県知事殿閣下


                エフ、リンガ     エー、ドレウエル、   エー、ノルマン     エー、グロウア

                テー、グロウア    シイ、ソルタア     ジエー、ゼツセルセン  ジエー、デウソン
     
                ジエー、ジヨンス   エム、スミツス     ゼイ、コール      アル、フイリツプス
    
                シー、クラー     ビイ、メソン       シー、ジヨージ     エチ、ダンス
    
                エフ、クーダア    ゼイ、デンテイ     エー、スコツト     アル、パウア
 
                エー、チベルリン   ジイ、セーラア     デイ、クロー      アル、ハミルトン 
   
                エチ、デウアイン   ゼイ、ヒル       シイ、アルノルド    ゼイ、ストダアート
    
                ジイ、ポジール    エナ、ウアーセン   アル、ホーム      エチ、アンジール
    
                ジイ、マンスブリチ  ゼイ、エンスリ     ゼイ、コルダア     ワイ、ウエンヂ
    
                エチ、ウイルソン    エチ、ストーン     イー、レーン      ウイ、コストリツフ
      
               ウイ、コツフポド    エス、マスシイ     シイ、ボーデンハウス  ジイ、ボウスル
    
               エチ、スタウト     ジイ、サトン       エー、レツドリーン    エチ、モンドレル
    
               エチ、ハスケル    ウイ、ヒジナテル    ゼイ、ビルチ      エー、グリツフイス
    
               デー、クリステンソン  シイ、サトン     エム、サルモン     ゼイ、コスン  
    
               エス、ローレンス   ビー、ドール       ジイ、フアバー     エス、ゴルトマン
    
                ジイ、ビールド     エチ、ミルス       ダブルユ、フーパア
    

              右回答   
    
               拝啓 治県上の成績に関し長崎居留外国人全体の為めに諸君より連署を以て御示諭之趣推奨過甚拙者の
    
              敢へて当る所に無之候。唯、平素本県の繁栄と人民の福利とを増進するの点に鋭意することに就き、
    
              一般公衆の是認に偶へる一事は拙者の特に宣述するを喜ぶ所なり。
   
              然れども、此際拙者が精励拮据より生せる微功は全く衆力の補助に由りて、能く之を致したる儀にて
   
              一身の能くする次第にあらざることを記せざる可らず。此の補助は自今後も継続せんこと切望に耐えず。
   
              今般君より公然御表示を辱うしたる高情は拙者が本職を奉るに当り、画定せる方針を力行するに於て
   
              一層奮励を増し、一は以て地方の利益を保捗し、一は以て内外の交際を益々親密ならしむるに至らんとす。
   
              因りて拝答斯くの如 くに御坐候也。
   
              明治二十年二月十五日  長崎県知事日下義雄
   
   
                  エフ、リンガ君
   
                  エー、ドレウエル君
  
                   ダブルユ、フーパア君
   
                   其他各位



                                     
                                         上下  長崎居留外国人が書いた御礼状
                                            (長崎歴史文化博物館所蔵)


                                   
                                 一番最初のフレデリック・リンガーの名前は、長崎ちゃんぽんの「リンガーハット」の店名に
                                               使用されている。


      


             【追記】        

               日下義雄が上京したのは明治19年12月13日です。明治19年12月13日付けの鎮西日報に、

               「●知事上京
   
                  日下知事ハ御用の都合に因り、本日の横濵丸にて上京せらるる由なり 」 と記載されています。
  
              「御用の都合に因り」とだけ記載されており、上京のはっきりした理由は記載されていません。
   
               日下義雄の妻、可明子夫人が2日前の12月11日に亡くなり、前日の12月12日に葬儀が行われたばかりと
   
              いうのに、もう葬儀の翌日に長崎を離れるとはずいぶん異常な速さです。
   
              可明子夫人は東京の飯田町出身で、江戸幕府の御用商人山内家の第四女でした。一刻も早く東京の家族に可明子

              夫人の死を伝えたかったのかもしれません。明治19年12月18日付けの鎮西日報によると、日下は12月17日

              に東京に着いています。
   
              日下が長崎に帰って来たのは明治20年2月12日であり、2月13日の鎮西日報に次のとおり記載されています。


               「●日下知事帰縣  

                  日下本縣知事ハ随行員長崎県属原辰四郎、同岩田甲子次郎の両氏と共に昨日午前三時入港の横濵

                 丸にて帰縣、昨日より出務せられたり。」


               長崎を発って2カ月後に長崎に帰って来たわけですが、東京では長崎に上水道を布設するため、政府に資金援助の

              要請をしていたものと見られています。しかし、資金援助を要請するだけでは2カ月近くもかからないでしょうから、
    
              日下義雄自身の個人的な用事も結構あったのかもしれません。
   
              明治20年2月2日付けの鎮西日報に次の記事が掲載されています。
   
                「●日下長崎縣知事
  
                   久しく上京中なる同知事ニハ来る八日ごろ東京出発帰縣の途に就かるるとの報、ある向きへ達したるよし。
  
                  一時ハ世間に種々の風説ありて、或いは外交官に栄転せらるべしと云ひ、或いは某縣に転任せらるべしと伝

                  え、官吏社会迄が狼狽せし人ありしよしなるが、帰縣の報あるを見れば、全く前説の虚に属すると知るべし。」
    

               上記の記事は「久しく上京中」とだけ記載され、日下知事の東京での活動については触れていません。日下の上京中に

              長崎縣地方費課の職員が急遽東京に呼び出されていることから、やはり長崎に上水道布設のため、内務省を中心に関係

              方面に資金援助要請活動を行っていたものと思われます。


               日下知事が2月12日に長崎に帰って来た2日後に、フレデリック・リンガーらが県庁を訪問し、コレラ対策のため日下

             知事が尽力していることに対する感謝の文書を日下に提出しているのを見ると、日下義雄の上京目的が上水道布設の資金

             援助要請であったことが、長崎居留の外国人たちに知られていたことが推測されます。

    
 




          令和元年7月       
       
          
            北原雅長と中村治郎について



            中村治郎は明治20年2月25日から26年9月19日まで長崎県書記官として、一時、明治23年から24年に
  
           かけては長崎県参事官として勤務しました。実際に長崎に赴任して来たのは明治20年3月12日で、夫人と
   
           息子1人を連れて来ています。中村は長崎県書記官在任中は第二部長または内務部長も兼務しました。

            内務官僚であり、日下義雄、中野健明、大森鍾一の3代の知事に仕え、知事不在の時は知事代理も務めました。
 
           中村治郎は長州出身であり、明治年18年1月から翌年1月まで約1年間、ハワイ王国の日本領事館の実質的な
    
           初代領事を務めました。
    
            明治20年3月1日付鎮西日報に掲載された2月26日の東京発電報によると、中村治郎は外務省総務局往復
    
           課長から長崎県書記官に転任になっています。また、3月10日付鎮西日報には、「公使館書記官正七位中村治郎
    
           君には任長崎県書記」と掲載されています。おそらく、当時中村は2つの役職を兼務していたものと思われます。
    
    
            長州出身の中村治郎は、当時長崎市長をしていた会津出身の北原雅長にとっては仇敵にあたりますが、二人の

           関係は良好だったようです。ある時、中村に双子の子供が生まれ、北原はお祝いの和歌を1首作って中村に贈った

           ところ、中村はこれを喜んで、その和歌に出て来る名詞を子供の名前に付けたことが、当時長崎で発行されていた

           鎮西日報という新聞に掲載されていますのでご紹介します。なお、この時の知事は佐賀藩出身の中野健明でした。 
 
 
             【明治23年2月21日付鎮西日報】  
 
               ●和歌に依て命名す 
 
                   双子は忌むべきものならず、両親健全人に勝れたるより生むものなれば、尤も祝すべき慶事なり。 
 
                  中村治郎氏の令閨過ぐる頃安々と分娩し、双生の女児を産まれける由を、北原雅長氏は祝ひて和歌1首を

                  寄せられぬ。 
 
 
                         とりどりに御代の栄をながめけり 
 
                                  芳野初瀬の花に紅葉に 
 
 
                   中村氏は喜びて姉を芳野、妹を初瀬とは命名せられたり。愛でたし愛でたし。 
 
 

           しかし、仕事の上では時として二人は対立することがあったようで、長崎市が行った徴兵検査に対して中村書記官は 

         不満に思って北原市長に詰めかけたことが、鎮西日報に次のとおり掲載されています。 
 
 
             【明治26年4月16日付鎮西日報】 
 
               ●中村書記官と北原市長との腕押 
 
                   先に長崎市役所は徴兵検査の為め戸籍事務を停止せしに、県庁の中村内務部長は、こは容易ならざる

                 次第なりとて停止の理由如何と詰め掛けたり。北原市長は何を以て之に応へたるや未だ聞かざれども、

                 このところ一番腕押の見所なり。 



           中村治郎は長崎県書記官及び参事官として6年半長崎県に勤務したのですが、在任期間が長期に及んだたため、

          各方面から様々な批判を受け、明治26年になると辞職を勧告する人々が出て来ます。長崎県議会の横山寅一郎と

          いう副議長は、中村書記官を辞めさせるためわざわざ上京しています。 
 
           結局、中村書記官は他の県へ異動することなく、明治26年9月20日付けで非職を命じられました。非職とは

          現代で言えば免職に近いもののようです。

           長州出身の中村治郎が明治20年3月に長崎県書記官として赴任して来た時の知事は会津出身の日下義雄です。

          書記官は知事不在の時は知事代理を務める役職ですので、現代で言えば副知事に当ります。 長州と会津は 仇敵と

          して禁門の変や戊辰戦争で戦った間柄ですが、中村治郎が会津出身の日下知事に仕えることが決まった時、中村も
    
          日下もどんな思いを抱いたか興味深いものがあります。  
              



 
          令和元年6月       
       
          
                      高木盛之輔について



           平成25年(2013年)に放送されたNHK大河ドラマ「八重の桜」で、藩主松平容保の義理の姉照姫の祐筆

          (秘書)としてしばしば登場していたのが、貫地谷しほりさん演じる高木時尾でした。時尾は、明治7年に元新選組

          隊士の斎藤一と結婚しました。斎藤一にとっては再婚であり、明治になって数年後、藤田五郎に改名しています。
    
           この時尾の弟が高木盛之輔(1854年(安政1年)~1919年(大正8年)2月19日)で、「八重の桜」では大倉栄人さん
   
          (現在、「劇団わ」所属)が演じていました。
    
           高木盛之輔は会津戦争後は猪苗代で謹慎させられ、その後東京に移住しました。明治10年の西南戦争では旧会

          津藩家老の山川浩陸軍中佐の配下となり、別働第二旅団(旅団長 山田顕義少将)の一員として戦いました。

           その後、軍人にはならず、各県の地方裁判所の検事として勤務し、最後の数年は検事正となっています。
 
    
           私は、6,7年ぐらい前に戊辰戦争史に詳しい長崎在住の知人から、高木盛之輔が検事正として長崎に赴任した
   
         ことがある、ということを聞いたことがあります。新人物往来社かどこかが発行した本に載っていたというのです。
   
          それで、いつ長崎に来たのかずっと気になっていました。最近になって、その記載は誤りで、高木盛之輔はおそらく
   
         長崎には赴任していないだろうと思うようになりました。
   
          その根拠ですが、明治19年(1886年)から発行されている『職員録』の中の司法省の部分をずっと調べた結果、
   
         以下のとおり、高木盛之輔は長崎地方裁判所の欄には名前が記載されていませんでした。なお、『職員録』では明治
   
         33年(1900年)以降、高木盛之輔の名前が見当たりませんので、明治33年に辞職したのではないかと思われます。
   
         ただし、ウィキペディアには、明治44年(1911年)に退官したと記載されています。
  
          この時、高木盛之輔はまだ46歳頃ですので、定年で退職したわけではありません。経歴を見ると、官職にはあまり
       
         恵まれなかったと言えると思います。
    
    
            職員録 明治19年(11月30日現在)  高木盛之輔の名前なし  
                     20年(11月30日現在)  仙台始審裁判所 検事 
                     21年(12月10日現在)  福島始審裁判所白河支庁 検事 
                     22年(12月10日現在)  福島始審裁判所白河支庁 検事 
                     23年(12月10日現在)  司法省の掲載なし 
                     24年(1月31日現在)   福島地方裁判所 検事(福島地方裁判所白河区裁判所検事兼務) 
                     25年(1月1日現在)   福島地方裁判所平区裁判所 検事 
                     26年(1月1日現在)   福島地方裁判所平区裁判所検事局 検事 
                     27年(1月1日現在)   福島地方裁判所平区裁判所検事局 検事 
                     27年(12月1日現在)   福島地方裁判所検事局 検事 
                     28年(11月10日現在)  福島地方裁判所検事局 検事 
                     29年(11月1日現在)   福島地方裁判所検事局 検事 
                     30年(11月1日現在)   長野地方裁判所松本区裁判所検事局 検事 
                     31年            『職員録』なし 
                     32年(2月1日現在)   長野地方裁判所松本区裁判所検事局 検事 
                     33年(4月1日現在)   長野地方裁判所松本区裁判所検事局 検事 
                     34年(4月1日現在)   宇都宮地方裁判所栃木区裁判所検事局 検事 
                     35年(5月1日現在)   宇都宮地方裁判所栃木区裁判所検事局 検事 
                     36年(5月1日現在)   宇都宮地方裁判所栃木区裁判所検事局 検事 
                     37年(5月1日現在)   根室地方裁判所検事局 検事正 
                     38年(5月1日現在)   甲府地方裁判所検事局 検事正 
                     39年(5月1日現在)   山形地方裁判所検事局 検事正 
                     40年(5月1日現在)   山形地方裁判所検事局 検事正 
                     41年(5月1日現在)   山形地方裁判所検事局 検事正 
                     42年(5月1日現在)   山形地方裁判所検事局 検事正 
                     43年~          高木盛之輔の名前なし 
                 


             なお、高木盛之輔は明治35年当時、栃木県にある宇都宮地方裁判所栃木区裁判所(支部)検事局の検事として 
    
           勤務していましたが、この年に西南戦争で上官として仕えた山川浩(1845年12月4日(弘化2年11月6日)~1898(明治 
    
           31年)2月4日 52歳没)が詠んだ歌を歌集として編纂し、出版しています。
    
             歌集の名は『さくら山集』と言い、国立国会図書館デジタルコレクションに掲載されています。
    
           この歌集には、山川浩が高木盛之輔に送った歌もいくつか掲載されています。また、高木盛之輔の姉の時尾と
    
           藤田五郎(斎藤一)との間に生まれた子供の名付け親になるよう依頼されて勉と名付けたこと、勉が将来高い
    
           功を立てるようにという願いから「勉」と名付けたということを歌った歌も掲載されています。
    
           すなわち、
     
 
              「 藤田五郎の子をまうけたるに子をつけよといひければ、勉と書て遣しける。
      
                勉てふ名に背りにはやがてよに高く功のたたさらめやは  」  
      

          と記載されています。 
      
          また、『さくら山集』で高木盛之輔は序文を書いていますが、その序文の最後に自身が作った歌を次のとおり  
      
          載せています。  

      
              「 さくら山君か名残の言の葉の  
      
                     花やいくよにさき匂ふらむ  」
         
     
            高木盛之輔は、西南戦争後、なぜ山川浩のように軍人にならなかったのか不思議に思います。また、いつから
     
          検事になるために法律の勉強をしたのかも気になります。西南戦争後、東京で検事を目指して法律を勉強し、
     
          明治20年から仙台始審裁判所(地方裁判所の前身)で検事として働くようになったのかもしれません。
     
           少なくとも、高木盛之輔は検事正として長崎地方裁判所で働いていたわけではないことは、上記の『職員録』
     
          から明らかです。この事実がわかって、ちょっと残念に思いました。

           なお、大正8年6月に発行された『会津会会報』第14号に、「高木盛之輔氏の逝去」というタイトルの文章が

         掲載されていますので、全文を紹介します。



              「                高木盛之輔氏の逝去


                會員高木盛之輔氏は昨秋疾に罹り、次第に重体に陥りたりしも、特に医師の許可を得て、大好物の酒を

               廃せず、療養に力めたりしが、爾来体力は酒量と共に衰へ、本年2月19日福島に於て逝去せり。

               高木盛之輔君は安政元年9月若松城郭内に生る、父は小十郎母克子、幼にして父を亡ふ、15歳慶應

               戊辰の戦乱に遭遇し、護衛隊に編入せらる、乱後猪苗代に幽閉せられ、明治2年1月東京に転送、10

               年西南の役起るや征討軍に従ひ、別動第二旅団参謀中佐山川浩に属し、豊福に激戦、敵の逃るを追ふて

               宇土に至る、4月14日山川中佐2個大隊を率いて敵塁を衝き始めて熊本城に連絡を通ず、城中の将士

               蘇息す、此戦君の作戦与かりて力あり、既にして三船、木山其他に転戦、人吉城、鹿児島城を陥るの後、

               9月東京に凱旋す、此役に左の詠歌あり、


                   嗚呼足れり深き恨みもはるるよの

                                月影清し苅萱の関


                後司法官となり、根室、甲府、山形等の地方裁判所検事正に歴任し、従四位勲四等に叙せられ、明治

              44年辞職、福島市に閑居す、是より先明治21年私立会津中学校創立に際し、私財を以て会津5郡を

              巡廻し、中学校創設の必要を鼓吹し、勧説最も勉む、中学設立後県立に移る迄毎回委員に当選す、後

              若松に青年会を設立し風紀の刷新に奔走する等、最も郷里の教育に貢献せり。

                君人となり剛直にして不羈、加ふるに酷だ酒を嗜み日として酒気を帯びざるはなく、人と事を論ずる

              に当りては、直ちに胸臆を吐露して毫も回避する所なし、或は議論酣にして冷嘲熱罵口を衝いて出つと

              雖も、退いて間言なし、亦一個の奇男子と謂ふべし、大正7年の秋、宿酔疾を得、8年2月19日卒す、

              享年66、著書に櫻山集(山川浩傳)、佐川官兵衛父子之傳、沼澤道子傳、護衛隊記等あり。 」





          令和元年5月       
       
          
                     日下義雄の地方巡視


             日下義雄は長崎県知事在任中に県内各地を巡視しています。その様子が当時の新聞に掲載されていますので、
    
           ご紹介します。記事の内容から、巡視の目的の一つに、国土の防衛費用の募金もあったのではないかと思われます。

            なお、日下義雄は地方巡視に随行した職員を慰労するために晩餐会を催していますが、部下思いと太っ腹な性格
    
           の持ち主であったことが推測されます。職員からも慕われていたことでしょう。また、日下義雄の献金の呼びかけ
    
           に対してすぐに応じる人がいたことは、日下義雄の演説は人を動かす力があったことを証明していると思います。
    
            しかも、下記の3つの記事の中に千円献金した人が3人いますが、千円というのはかなりの金額だったと思います。
    
            明治18年(1885年)の給与所得者の年収が178円で、平成27年(2015年)の給与所得者の年収は420万円
    
            というデータがありますので、単純に計算すると、明治18年当時の千円という貨幣価値は現在では約2360万円

            ということになると思います。明治20年当時では明治18年と比べて若干の変動があるでしょうが、大きくは変わ
   
            らないと思われます。
   
   
   
             【明治20年4月16日付鎮西日報】
    
              ●日下知事巡視
   
                 北松浦郡平戸村よりの通信に日下知事は警部長以下諸属僚を従へ、去る九日汽船鎮西丸にて来着あり。
   
                知事は同夜市中を微行し、商民の有様を熟視し評して睡眠未だ醒めず云々と云はれたるよし。
   
                真に平門士民の有様を評し得て妙なり。また知事の牧民に心を砕かるるの深切なるを見るに足れり。
   
                十日には早朝平戸村神崎原野の旧知事松浦伯の開墾地を巡視し、夫れより生月島に渡海あって捕鯨船の
   
                運用を観し帰路は、薄香浦にて鯛網を遊覧せられたりと。十一日は郡役所学校等を巡視せられ、秀萃
   
                生徒に賞与を頒ち学業を奨励し午后より親睦会を光明寺に開かれ、官民八十三名の盛会にて知事以下
   
                演説せられたる由なれども、その大要を聞くを得ず。然れども平門士民を奮発興起せしむるの主意に
   
                外ならざるべし云々と見えたり。
   
   
              【明治20年4月19日付鎮西日報】
   
               ●献金長崎県民の先がけ
   
                  日下知事の一行は去る十三日午後四時佐々村古川駅に着し、吉富方に投宿せらる。この夜知事は該地
   
                有名の資産家を招集し、国防武備のことに付き陛下の盛旨及び総理大臣演説の要旨を懇示せられたるに、
   
                小佐々村久田繁左衛門、佐々村山崎喜平治の二氏は大に感ずる所ありて、今こそ国恩を報ずるの秋なり
   
                とて即座に各金一千円づつ献納の旨を奉答せしに、知事にも二氏の志素の篤きとその果決なるとに
   
                頗ぶる満悦せられたり。二氏は翌朝戸長役所を経て其願書を差出たりと。
   
   
              【明治20年4月28日付鎮西日報】
   
              ●海防費献金
   
                 県下北高来郡深海村荒川文治氏は海防費として金壹千円の献納を出願したりと。因みに云う。同氏は
   
               八十九歳の高齢に達するも身尚ほ壮健にして勤倹家務を理■此の公益に対し金穀を投せしことも屡々
   
               なるよし。
   
   
             【明治20年4月28日付鎮西日報】
   
              ●日下知事の饗応
   
                 日下長崎県知事は昨夜玉川亭とかにて前回南高来郡巡視の随行員及び今回北松浦、東彼杵、北高来の
  
                三郡巡視の随行員諸氏へ慰労の為め、晩餐を饗応せられしよしなり。



                    参考文献:ウェブサイト 『明治~平成 値段史』





          平成31年4月       
       
          
                          神保巌之助について


             函館市のホームページに「函館市地域資料アーカイブ」という資料が掲載されており、そのうち、「南茅部町史 上」の
    
            『第五編 行政』のところに「第一章 第三節 戸長役場」というのがあります。この中に、総代人会議の記録が掲載され

            ており、ここに神保巌之助の名前が登場しています。会議録についての説明や内容は以下のとおりです。

             なお、カタカナは読みにくいので、ひらがなに直しています。


             ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
              
    

             「総代人会議

 
                 戸長役場時代における村の重要案件の決定は、各部落より選出されていた総代によって議決された。
 
               竹中重蔵の記録になる明治三十五年の尾札部村総代会の記録があるので、全文を掲げる。

               戸長と総代会は、のちの町村長と村会・町村議会と同等の権限をもっていたようである。

    
                 明治三十五年尾札部村総代人会議事録


                    明治三十五年三月三十日磨光学校内に於て左の議案を議決する為め総代人会を開く。

                          総代人出席者    松永 藤次郎

                                       内藤 二太郎


                  開会午前十時

                   第一号議案

                     一、神保戸長は、第壱号議案木直古部消防組を設置する事並に尾札部以下消防組改称の件に付審議

                       あらんことを述ふ。

                        総代人松永、内藤の両名、其大体に就て賛成なるも諮問案区域人員中

                       第壱部消防手四拾五名を四十四名とし、第二部消防手四拾四名を四拾五名とし、

                       第三部消防手四拾名を四拾弐名とし、組頭は第一部に置かんことを求む。

                       差支の点なきを以て修正説に可決す。


                  第弐号議案

                    一、明治三十五年度村費収支予算書中、神保戸長は支出の部より一審議確定せんことを述ふ。

                      (以下省略します)

                      夫れより神保戸長は、収入の部各款目に就き説明の末、

                      松永総代人は字古部 第五款寄附金第二項教育費寄附は、従来各字より寄附し来るも、本年は

                      削除することとせば、古部民力の負担に耐へけるやに思わる。

                      依て今回古部簡易教育所に変更し、而して補助金を受くる見込なるも、若し補助認可を受くること

                      能はざる時は各字より客年の通り、寄附金四拾壱円九拾銭四厘を追加予算の上補助せんことを

                      求む。

                      内藤総代人の賛成あり。

                      差支なきものと認め修正説に可決す。

       
                 第三号議案

                      古部尋常小学校を古部簡易教育所に変更し、代用教員俸給の補助及建築費の内補助金を申請の

                      件原案可決。

       
                 第四号議案

                      字尾札部に於て明治三十年二月六日植樹地として、貸付許可を受けたる拾五万千九百六十一坪

                      畑地目変更出願にかかる方法の件に付、神保戸長は淳々説明の末、内藤総代人は畑地に開墾、

                      成功年限を明治三十五年六年の二年とし、地内に在る立木は其開墾費用に充て出願せんことを求む。

                      神保戸長地内に在る立木は既に伐採せしものの如し。然らば該木材を売却し、共有金(即ち貯金に預け

                      入れ)として保管するは正常の順序なるを説明せり。

                     (以下省略します)



                   総代人会

                      右議決書の通り相違なきを以て左に署名捺印す。

                         明治三十五年三月三十日

                                  尾札部(村)戸長   神保 巌之助

                                        総代人    松永 藤次郎

                                        総代人   内藤 二太郎 

                                        書 記    竹中(重 蔵)


                一、閉会    午後六時十分




               当時、総代人は四部落総代といって、古部・木直・尾札部・川汲の四部落から一名ずつ選出されていたから、

             定員四名のうち出席は二名で、発言記録も二名しかないところから、総代会開催と決議の効力に関する規定も、

             半数出席で成立したものらしい。


              ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
   


             この神保巌之助という者が、明治25年から29年まで4年間、長崎県の上長崎村村長をしていた神保巌之助で

            あるかどうかははっきりとはわかりませんが、おそらく上長崎村の村長をしていた神保巌之助その人だったのでは

            ないかと思われます。一度村長の経験があることで、どこかの村長になる可能性はあると思われるからです。

             また、当時戸長は官選であり、北海道庁長官が任命していました。もしかしたら、旧会津藩士が北海道庁に勤務

            していて、その人物が神保巌之助を戸長にするよう取り計らったのではないかと推測されます。
   
          




          平成31年3月       
      
 
          
                      元梅香崎警察署長 小野木源次郎について


          1.清国水兵暴動事件発生

              旧会津藩士 日下義雄が明治19年2月25日に第8代長崎県令に就任して半年にもならない8月15日、日本と清

             国との外交問題にまで発展した大事件が発生しました。それが清国水兵暴動事件です。概要は、このホームページ

             の『日下義雄』と『清国水兵暴動事件時の清国艦隊長崎入港日について』に記載しておりますが、簡単に述べると、

             明治19年(1886年)8月15日、長崎港に停泊していた清国軍艦 定遠・鎮遠・威遠・済遠の4艦の水兵450~460

             人が大浦の外国人居留地の波止場から上陸し、午後8時過ぎ、清国人割烹店のある広馬場町で警戒中の警察官に暴行

             を加えたのがきっかけとなって一気に暴徒化し、これを鎮圧しようとした警察隊との間に乱闘戦が繰り広げられたので

             した。長崎市民もこの清国水兵を追い返そうとして乱闘戦に加わっています。

              水兵たちは梅香崎警察署を襲撃したり、丸山町や寄合町方面でも別の水兵たちが乱暴を始めたので、管轄する長崎

             警察署の警察官たちも出動して鎮圧にあたった結果、午後11時になってようやく暴徒たちは解散しました。
    
   
              広馬場町(現在の篭町)で署員が清国水兵から襲われたことを知った梅香崎警察署長小野木源次郎は、直ちに清国

             理事府(領事館)に報告して水兵たちの暴行を止めさせるよう要求しました。清国理事府から館員2人が現場に駆けつけ

             たのですが、制止できず、一人は梅香崎町から、もう一人は広馬場町から遁走してしまいました。

             この乱闘戦では、日本側死者2人・負傷者29人、清国側死者8人・負傷者42人の死傷者を出しました。
    
              明治19年8月17日付け鎮西日報によると、日下知事はこの乱闘戦のことを夜9時頃聞いて直ちに登庁し、夜通し

             退庁せず、夜半過ぎから警察署を巡視して実際の模様を調査したそうです。
    
    
    
          2.小野木源次郎は会津出身

              清国水兵暴動事件で鎮圧に当った梅香崎警察署が管轄する地域には大浦に外国人居留地があり、そこで外国人が

             犯罪を犯しても治外法権のため、日本の裁判権は及びませんでした。このようなことから、この地域は難題が多く、県内

             各警察署の中で、梅香崎地域は「最難所」と言われていたほどでした。この梅香崎警察署の署長を小野木源次郎は6年

             以上も務めました。その間、大北電信会社で火災が発生した際には、自ら負傷を顧みず救助に尽力しています。

       
              明治25年10月16日付鎮西日報に「小野木警部の栄転」と題する記事が掲載されていますが、それによると、小野木

             源次郎は、明治18年(1885年)3月頃に長崎に赴任して来たそうです。しかし、最初から梅香崎警察署長として赴任

             して来たわけではないようです。明治18年3月28日付けの鎮西日報に「風間警部」と題して、次のとおり掲載されていま

             す。

                「長崎警察本署詰警部風間由美雄氏ハ昨日、梅香崎警察署長命ぜられたり。」


             初めは長崎警察本署の警部として勤務し、その後梅香崎警察署長に転任したようです。明治19年3月31日付けと

             4月30日付けの鎮西日報に次のとおり掲載されています。

 
                【明治19年3月31日付け鎮西日報】

                  「●縣廰彙聞(けんちょういぶん) 

                    本月26日長崎縣監獄署書記田崎省三氏ハ福江監獄支署へ出張、同29日警部佐々木新■氏ハ警察本署

                    第二部へ、同第二部警部小野木源次郎氏ハ同第三部へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・申付られたり」


                【明治19年4月30日付け鎮西日報】

                  「●縣廰彙聞(けんちょういぶん) 

                    六等属合川定生氏ハ去る27日西彼杵郡浦上淵村出張 警部小野木源次郎氏も一昨28日東彼杵 北松浦

                   の二郡巡廻・・・・・・・・・・・・・・・・されたり」


             小野木源次郎は明治25年10月16日前後の発令で福島県行方郡及び宇多郡の郡長に任命されました。福島県知事

            をしている日下義雄が長年梅香崎警察署長をしている小野木源次郎の敏腕を惜しみ、小野木源次郎のために周旋した

            のではないかと、明治25年10月16日付鎮西日報は書いています。

              実は、小野木源次郎(1854年12月17日~1925年9月11日)は日下義雄と同じ旧会津藩士です。会津若松城下で生ま

            れました。戊辰戦争では白川方面に出陣して負傷したそうです。戦後、高田藩で謹慎生活を送った後斗南に移住し、明

            治7年に会津に戻りました。

              明治25年春、長崎県警務課長に任ぜられましたが、梅香崎警察署長は兼務したままでした。同年10月に福島県行方

            郡と宇多郡の2つの郡長に任ぜられましたが、現在、行方郡(なめかたぐん)は南相馬市と相馬郡飯舘村に、宇多郡は

            相馬市と相馬郡新地町となっています。明治25年10月16日付鎮西日報は、小野木源次郎の栄転について、「吾輩は

            乃ち氏の為めに深く賀すると共に、本縣の為めに良警官を失うたるを惜しむの情に耐えざるなり。」と書いています。

             小野木源次郎はその後も出世をし、大正元年(1912年)12月25日~大正3年(1914年)6月18日の間、第5代の若松

            市長として活躍しています。


              小野木源次郎梅香崎警察署長の清国水兵暴動事件に係る報告書や福島県の郡長転任についての明治25年10月16日付

            鎮西日報記事を、このホームページの「19.小野木源次郎」の欄で紹介しておりますので、ご覧いただければと思います。


    
  
              参考文献

                  『長崎県警察史』上巻   編集 長崎県警察史編集委員会  発行 長崎県警察本部   昭和51年

                  『小野木源次郎』 ウィキペディア

                  『会津若松市』   ウィキペディア
 





         平成31年2月       

       
          
                       元上長崎村村長・神保巌之助について



           北海道函館市役所が作成している『地域資料アーカイブ』に、合併旧町村史の一つ「南茅部町史 上」という資料があります。
   
           南茅部町(みなみかやべちょう)という町は、昭和34年(1959年)の臼尻村(うすじりむら)と尾札部村(おさつべむら)の合併によって
   
          できた町だそうです。その後、平成16年(2004年)に箱館市に編入されました。

           この「南茅部町史 上」の「第五編 行政」に歴代戸長が記載されており、そこに神保巌之助が明治34年11月30日に尾札部(おさつべ)村の

          戸長になったことが記載されています。この人物が上長崎村の村長を務めた神保巌之助なのか、それとも同姓同名の別の人物なのか
   
          わかりません。 
  
           しかし、可能性はあります。神保巌之助は明治25年4月7日に上長崎村長選挙に当選し、明治29年4月途中まで4年間同村長を
   
          務めました。『史伝 西郷四郎』によると、その後は栃木県の西那須の日下農場で働いたりしたそうですが、上長崎村での行政経験を
   
          生かし、北海道に渡って尾札部村の戸長役場で働いた可能性も十分あると思われます。


           ここで、戸長とか戸長役場について述べたいと思います。

           戸長役場は、明治22年(1889年)に町村制が施行されて、行政事務を行う役所が町村役場と名称変更される前の役所の名称です。
   
          戸長役場では戸籍事務や徴税、徴兵、教育、厚生などの業務を行う他、政府や府県、郡の命令を住民に伝え、それを徹底させる業務も
   
          行っていました。

           しかし、全ての町村に戸長や戸長役場が置かれたわけではなく、複数の町村を1つの戸長役場が管轄し、したがって、1人の戸長が
   
          複数の町村を管轄する場合もあったそうです(ウィキペディア「戸長役場」)。 
  
          ただ北海道の場合は町村制の施行が遅れ、明治30年(1897年)5月になって「北海道区制」とともに、「北海道1級町村制」・
   
          「北海道2級町村制」が公布されました。これにより、明治33年7月に1級町村制が、35年4月に2級町村制がそれぞれ施行されて
   
          町村役場が置かれました。しかし、町村制を施行するまでに進展していないものに対しては依然として戸長役場が残されました。
   
          北海道で戸長役場が全廃されたのは大正12年(1923年)です。


           おそらく、明治34年11月30日に尾札部村の戸長になった神保巌之助は、会津藩出身の元上長崎村村長神保巌之助だったと思われます。

   
          当時戸長は官選であり、北海道庁長官が任命していました。北海道庁に会津藩出身者がいて、その人が神保巌之助を戸長にするよう
   
          取り計らったのではないかと推測されます。




         参考文献

           『南茅部町史 上』  北海道函館市役所  『函館市地域資料アーカイブ』  函館市
    
           『北海道市町村自治制の沿革概要』 北海道庁
    
            『近代沖縄 ・ 北海道地方 (自治)制度の 比較史的研究』  秋山  勝著
    
           『郷土史 ていね』第24号  手稲郷土史研究会会報
    
           『戸長』  ウィキペディア
    
           『戸長役場』  ウィキペディア
  



        平成31年1月       

       
             
              鎮西日報が報じた北原雅長(第5回-人物像(2))


          北原雅長はどういう性格の人物だったのでしょうか。このことが少しわかるような記事が当時の新聞 鎮西日報に掲載されていますので、

         ご紹介します。まずは全文を掲載します。


        【明治25年10月14日付鎮西日報】

          ●知事之を招き市長之を断らしむ

            例年諏訪祭礼の執行さるるや中野県知事は長崎市幼稚園の児女及び尋常師範学校女生徒、附属幼稚科

           児女をも招き、自邸前にて踊を見物せしめたるに、当年は後者のみを招きて更に前者の形を見ず。

           今その由を聞くに、昨年の祭礼後招かれたる生徒等踊の真似事を為して止まずとか言へる教師あり。

           又、折角に知事の案内を受けても他客(が)前に塞がりて児女に踊を見せしむる能はざりしなど言へる附添

           人ありしこと知事の耳に入りしかば、或いはこれらの為めなる可しと想像するものもあれど、打明けたる所

           知事の案内は、幼年生徒に踊を見せしめんとにはあらずして、実は見物せんにもその所なくして困れる師範

           学校の女生徒を憐れむの情より斯くは幼稚科の生徒を率ひしむるに托し、之と共に招きしなりとか。左れば

           正客は女子師範生徒にして同校の幼児は仮の客、当市幼稚園の児女はなおさら附けたりに過ぎざれば、

           本年も例により該女生徒は幼児を引き連れ来るべき旨早く伝へられしも、市の幼児が招かれざりしは一つに

           この故とぞ察せられたり。

            然るに、当市幼児のみ例に異なり招かれざるは学校の異なるに従って知事の恩恵、学校の信用に甲乙

           あるに似たりと思ひてか、櫛田校長はさらに知事に相談する所ありて、遂に中野氏より櫛田氏を案内し、

           又氏が率ひ来る幼児は百余名を限り許さざることとなり居たりしに、北原市長は之を聞きて赫と怒り、

           強いて知事に案内されずとも父母は幼児の為めに信切に看護の労を取りて踊を見せしむ可きを、案内され

           ざるに之を請求するが如きは当市の体面を損するものなりとて数日の後に至り、知事邸の踊見物を見合わ

           せては如何との儀を櫛田氏に照会し、■は中野知事官邸前の桟敷に本年より長崎市幼稚園児女の姿を見

           ざる仕儀となりしと聞く。

            知事が女生徒の末までも憐を懸けらるる心と、市長の案内を断らしめたる剛腹とは何時もながらの両者

           人物の裏表を徴する一端たる可べし。




           尋常師範学校は教員を養成する学校で、各府県に1校のみ設置されていました。長崎尋常師範学校は長崎県立であり、その女子部に

          附属幼稚園が設置されていました。

           中野知事が昨年までとは異なり、県立の師範学校の女生徒と幼稚園児のみ知事官舎の前で行われるおくんちの奉納踊り見物に招待し、

          長崎市立の幼稚園児を招待しなかったため、市立幼稚園の校長が中野知事に市立幼稚園児も招待してくれるよう陳情したことから、

          これを聞いた北原市長が体面を損なわれたと怒って招待を断らせたというものです。

           北原市長の行動はちょっと大人げない気がしますが、招待されなくてわざわざ知事に陳情までする行為を北原市長はプライドが傷つ

          けられて怒ったようです。普段から中野知事と北原市長とは仲があまり良くなかった様子が窺われます。

           中野健明知事は佐賀藩士の二男として生まれ、外交官、大蔵官僚を勤めた後、明治23年~26年の3年間長崎県知事を勤めました。

          会津藩出身の北原市長にとって、薩長土肥の一つである佐賀藩出身者には元々いい感情を持っていなかったのかもしれません。





         平成30年12月       
       
             
               西郷四郎杯の柔道大会開催を望む


           柔道家・西郷四郎は大正11年(1922年)12月23日、療養先の広島県尾道市でリューマチのため56歳で亡くなりました。
    
          今年は没後96周年になります。

           長崎県柔道協会は昭和44年(1969年)10月10日、長崎市諏訪体育館の敷地内に「西郷四郎先生顕彰碑」を、同じく長崎市の
    
           大光寺にある中川家(妻チカの実家)の墓地内に「西郷四郎之墓」を、それぞれ建立しました。



                             
                     長崎にある西郷四郎顕彰碑               会津若松市にある西郷四郎顕彰碑




                                  
                                        西郷四郎の墓



           長崎県柔道協会は昭和34年(1959年)11月28日に大光寺において西郷四郎の追悼慰霊祭を行うとともに、翌29日は長崎県立

          長崎東高校体育館において「故西郷四郎先生追悼県下南北対抗柔道試合」を開催しました。長崎県と長崎市が後援しています。来賓には

          当時の講道館館長・嘉納履正と西郷四郎の養嫡子・西郷孝之も出席し、祝辞や謝辞を述べています。

           西郷孝之の実の父親は初代長崎市長北原雅長の実弟である神保巌之助で元上長崎村長です。西郷孝之は明治33年(1900年)9月に

          生まれていますので、昭和34年当時の年齢は満59歳でした。また、長崎県柔道協会は昭和38年か39年にも西郷四郎杯柔道大会を

          開催しています。
 
           このように、まだ昭和30年代~40年代までは西郷四郎を慕う人々が長崎県内にいて、長崎県柔道協会も西郷四郎記念の行事を開催

          していました。ところが、その後西郷四郎を追慕する人々が少なくなり、西郷四郎を知らない人々が増えたようで、西郷四郎を記念する

          柔道大会が開催されなくなりました。誠に残念至極に思います。
 
           西郷四郎ゆかりの市を見てみますと、会津若松市では、平成24年から毎年「西郷四郎少年交流柔道大会」が開催されています。

          また、尾道市では、「西郷四郎スポーツ少年団交歓柔道大会」の第44回大会が平成28年12月に開催されています。

          尾道市教育委員会が平成26年3月(2014年)に策定した『尾道市スポーツ推進計画』には、


             「 さらに、現在の柔道を日本に普及させた福島県会津若松市出身の、西郷四郎先生が本市の浄土寺に

               おいて病没されたことから、柔道交流大会を本市と会津若松市の2市で3年ごとに交互に開催しています。」


                 (「第2章 現状と課題」→「4.尾道市を取り巻く現状と課題」→「(1)スポーツを通じた交流の促進」→
                   「現状1-1 尾道市の特性を生かした既存の交流事業)


          と記載されており、西郷四郎が生まれた地(会津若松市)と亡くなった地(尾道市)とは柔道を通じて現在も交流が行われています。

          西郷四郎が人生の大半を過ごした長崎市においても、ぜひ西郷四郎杯の柔道大会を開催してほしいものだと思います。



               参考文献

                  パンフレット 『故西郷四郎先生追悼県下南北対抗柔道試合・追悼慰霊祭』(長崎歴史文化博物館所蔵)
 


        平成30年11月       
       
                       
    鎮西日報が報じた北原雅長(第4回―人物像)


           北原雅長はどんな人物だったのでしょうか。鎮西日報が北原雅長について評した記事をいくつか紹介します。

         能吏ではないけれども、仕事をしぶとくこなした人物だったようです。


         【明治25年8月14日付鎮西日報】
 
           ●北原長崎市長

              其気に食はぬ事あれば頑然として之を排し、動かす可からざる会津ッ砲の本性を現はす事あるも、紛擾乱麻の中に立てば

            平然として見ざるが如く聞かざるが如く、更に言論に争はずして自然に之を鎮静せしむ。氏が少壮のとき乱軍中に錬ひし人

            たるに拘はらず書を能くし、和歌を善くして風流の性を具ふるもの即ち此の行ある所以ならんか。

             氏が中野知事と性行を異にし、日々軋々として相降らざるに拘はらず、長崎水道の余熱沸騰の時に就任し、平然其間に周旋

            して漸く水道熱を冷却せしめしもの、是れ氏が剛柔の性時に従って宜しきを得たるものと云うべし。 然れども氏は俗務の間に

            在りて着々之を整理するの腕利きにあらず、小心翼々職を守りて他念なき勤勉家にあらず、応待明快人を酔はしむるの上手者に

            あらず、小に長ぜずして大を好み、細を好まずして粗に長ず、而して又俗中に雅あり、硬中に軟ある自然の懸け引き家たるを失ざ

            るもの非耶。



         【明治26年7月15日付鎮西日報】
 
           ●長崎市長更迭の巷説

              道路伝ふ(「往来、即ち巷で伝わる」の意)。長崎市長を更迭せんと密かに計画せるものあり。而して其の北原氏に代へんと

            欲する人の誰なるやと問へば、前の南高来郡長松原英義氏なりと云ふ。奇異なる哉風説、然れども奇異は殆んど風説の通性

            たり。独り此風説の奇異を怪しむに足らず。

             風説己に此の如く奇怪なり。然らば全く事実無根として滅却せん乎。内部の事情に通ずるものは此風説を全然無根の事に

            非ざる可しと云う。北原雅長氏がかつて何人に依て市長に挙げられしかは今更繰り返すの要なし。

             ただ、氏が現在の面目を描き出し来れば、敏腕を欠くも淡泊にして且つ己を持するの重き人なり。故に事務抂掌の敏捷は氏に

            ついて求め難からん。然れども氏は所謂才子肌なるものに勝る幾多の特性を有するは市民の等しく認むる所なり。(以下省略)




           次に、北原雅長の長崎市長任期満了まで残り1ヵ月となった時に、鎮西日報は北原雅長について、長文の論評を載せています。

          かなりの文語体で分かりにくく読みづらいので、以下に私なりの解釈で現代文に直して紹介します。
 
 
         【明治28年5月1日付鎮西日報】

           ○ 北原雅長氏

              先の明治22年市制実施に際し、公選を受け長崎市長に裁可されて就任して以来、歳月は既に6年が経過し、本年5月

             30日を以て満期を告げその後任の選挙が間近となった。吾輩はこの選挙に臨み北原氏がなお候補者となって再選の栄を

             得るか、あるいは別の人物が当選するか吾輩の敢えて予期するところではない。ただ北原氏の長崎市長任期中に果たした

             実績と、氏の人となりについて我々が知っているところを述べて氏の功労を称賛したいと思う。北原氏のために述べようと

             するつもりは微塵もなく、公平に記すつもりである。


              北原氏が初の長崎市長となる頃は、有名な長崎水道難問題の余波を受けて、いわゆる水道賛成派と反対派の2派に分か

             れて争い軋轢が生じ、市内ではあらゆる公私の事業遂行に悪影響を及ぼして調整することができず、地方の難問題の一つ

             となって政府部内でも議論され、世論沸騰の関心事となって、新聞紙等で様々な批判がなされていた。

              こうした状況下で長崎市長となって市政を円滑に行うことが望まれたのであるが、その人材を得ることができなかった。

             長崎市において北原氏が最多数の得票を得て選出されたのも、北原氏に期待するところが大きかったからである。

              北原氏は市民一般に歓迎されて就任した。氏は就任以来身を不偏不党の地に置き、心を公平に保ち、いずれの党派にも

             組しなかった。そして氏が大道に従って市政を適切に着々と執行し、あの水道事業のように北原氏が本市既定事業を必ず

             遂行すべきものと認識して、機関に依頼して水道事業の継続を企図するにあたり、賛成か反対か自ら意見を申さず、

             北原氏が水道事業計画に関わった今日においては、いったい誰が水道の利害を論じたのかと思うほど工事が完成したのだ

             った。また水道事業の維持経営についても適切な方法で処理した。


              吾輩は北原氏に向かって大事業を推進したと評価することはできない。北原氏はごく小さな功績をあげて得意となる

             人物ではない。吾輩がいったいどうして北原氏のために過分な称賛を申すことがあるだろうか。しかしながら、氏が

             在職中に市の行政の中でも教育や土木、衛生等市の将来のために尽くすべき義務を尽くし、成果を挙げるべき事業を

             挙げ、一つも挫折することがなかったのは、北原氏が公平かつ誠意をもってよく事に当たり、市の機関である市会や

             参事会等を円滑に運営させて、軋轢や衝突が少しもなかったからである。北原氏はまさに市長の職務を尽くしたと云う

             ことができ、これを誰が褒め過ぎだと云えるであろうか。


              また、北原氏の人となりを述べると、氏は性質剛毅で、容貌は魁偉、風采は脱塵、学識は文藻に富み、自ら信じる

             ところをもって事を行い、世間の評判に心を動かされず、少しも世や人に対してへつらうことを望まなかった。また

             自分より上にある者に対してはのびのびとしてひるむことがなく、多くの人に対して持論を曲げず、いわゆる大丈夫の

             風格があった。このため、人を受け入れる度量に乏しく、物事に対する円満さを欠いて折り合いがつかない状況を

             招くことがあった。思うに、氏がやや反省するところがあるのもまた君子養徳の一端であり、氏の価値をますます

             重くさせるものであろう。このことが吾輩が公平に北原氏のことを述べ、氏を冒とくするとはいささかも思わない

             理由である。吾輩が北原氏について持っている知識で氏の人となり全般を論ずるときは、いつもそうである。

              一般に、市長の尊いところは公平さにある。公平である時は人心が集まり、全ての事業は自然の赴く間に発揮できる。

             もし、愛憎を分かち、好悪を分かち、あるいはみだりに利害に奔走し、名ばかりの名誉を得ることを望む人物に市長を

             任せるならば、人心が離散し、侮蔑が次第に生じて、一市の不幸はこれより大きいものはない。北原氏が長崎市長と

             なって6年になるが、吾輩はいつも本市のために良市長を得たと喜んでいる。


              北原氏の任期が満了しても再選してますます市の公益が図られるのを見るか見ないかは、吾輩はもちろん北原氏が

             良市長であると思うけれども、選挙民に向かって氏の再選を勧奨するものではない。人がもし氏に向かって再選できる

             よう協力しましょうと云うならば、利害得失に淡泊な北原氏はきっとこう答えるだろう。「御厚意には感謝しますが、

             僕はみだりに人の歓心を買って今日の地位に恋々とするものではありません。どうぞお気遣いなくお願いします。」と

             言って客が去った後に耳を洗うだけである。吾輩が氏を良市長と評するのを躊躇しないのは、全くこうしたところにあり、

             他にはない。




         平成30年10月       
       
                          
   会津出身の長崎獣医学校長・高嶺秀四郎



              日下義雄が長崎県知事として在職していた時、旧会津藩士・高嶺忠亮(ただすけ)を父に持つ会津若松出身の高嶺秀四郎が

            長崎県立の長崎獣医学校で教諭(獣医学士)として勤務していました。

              高嶺秀四郎は、農学に関する日本初の総合教育・研究機関である駒場農学校の獣医科を卒業しています。同級生に幕末、

            会津藩の京都守護職時代に公用方をしていた広沢安任の養子・広沢弁二(農商務官僚・政治家)がいます。

              駒場農学校は当初は内務省に所属していましたが、明治14年(1881)に農商務省が設立されると、農商務省の所属になりました。

            駒場農学校は東京大学農学部や東京農工大学農学部などの前身にあたります。


              高嶺秀四郎は、明治20年代前半から後半にかけての鎮西日報に時々名前が登場しています。特に明治26年は長崎市で狂犬病

            が横行し、人や牛馬等が狂犬に咬まれて死んだり病気になったりして多数の被害が発生しました。このため、高嶺秀四郎等が狂犬病

            に関して調査研究を行っている様子が鎮西日報に掲載されています。また、明治22年には長崎獣医学校の第二代校長になっています。

            以下に当時の鎮西日報記事をいくつか掲載します。



             ●獣医の集会 (明治22年12月11日付鎮西日報)

                 長崎獣医学校の本年夏卒業生徒十名の内二名は会社へ聘せられ、八名はその居村にありて開業し、

                縣内の牧畜に関する衛生、改良等に熱心し居るよしなるが、同校長獣医学士高嶺秀四郎氏は一己人の

                資格を以て右十名の卒業生徒及び在校の教諭諸氏と謀り、来る十五日を以て本港に来集し、同時に

                忘年懇親会を開き、その際学術経験上得たる材料を交換し、且つ牧畜改良の機関として獣医会なるものを

                設立するの計画をなし、全縣下有志の賛成を受ける心組みなるやに聞けり。


 
             ●長崎獣医学校卒業証書授与式 (明治25年7月26日付鎮西日報)

                 同校は昨日第四回卒業証書授与式を行ふ。式場は教堂に之を設け同場及び門頭に国旗を交叉し、

               午前九時職員生徒入場。ついで来賓着席。高嶺校長勅語を奉読し了りて卒業証書を授与し、祝辞を述べ、

               卒業生総代宗像市太郎氏答辞を朗読す。

                 次に知事代理中村書記官の演説ありて十時三十分閉式せり。来賓は本縣高等官及び常置委員、

               縣立公立学校長、新聞記者等にして今回の卒業人名(十二人)は左の如し。

                  大分縣   堀  今朝雄      鹿児島懸   宗像市太郎
                  対馬     財部 啓太郎        西彼杵郡   深江雄二郎  
                  北高来郡   吉賀 才三郎        佐賀縣     谷口 富吉 
                  東彼杵郡   橋口 文市        熊本縣      河原田 緝蔵
                  鹿児島縣   向井 栄次        東彼杵郡    中尾 祐作
                  南高来郡   城臺 好治        南高来郡    桑島 沖松



            ●狂犬の脳漿を兎に試植す (明治26年4月25日付鎮西日報)

                別項所掲の如く再昨廿二日長崎獣医学校に於て解剖せし狂犬は人を咬傷するに至らざりしも、高嶺

               獣医学士の診断により狂犬と認定して解剖せしに、果して相違なかりしかば高嶺氏は中濱博士等と

               共に狂犬の脳漿を取りて之を数頭の兎に試植せり。

                元来狂犬病は一個のバチルスに起因するものにて、其の豫防として脳漿を兎又は猿に試植し、其感染を

              まって痘苗の如く之を人身に接種することは、恐水病専門家たる仏国の大医 パストー氏が多年同国政府の

              保護により充分の研究を遂げて最良の結果を得たるを以て、既に英、米、伊、魯各国にも流行し、独り独逸

              のみ未だ之を実行せざるも着々効験ありたることなれば、此の際十分の経験をなさんため右の如く脳漿を

              試植したるなりと云へり。尤も右は試植後凡そ二週間を経ざれば充分の効を奏せざる由にて、夫れ迄は

              栗本医学士、高嶺獣医学士の二氏担当して之を研究する筈なりとぞ。



           ●狂犬解剖 (明治26年4月25日付鎮西日報)

               豫て狂犬病に関して取調中なりし中濱医学博士は高嶺獣医学士と共に去る廿二日市内紺屋町某方の狂犬を

             長崎医学校内にて解剖し、病理其他に関して詳密なる取調をなしたり。



           ●高嶺技師 (明治29年4月25日付鎮西日報)

               本縣技師高嶺秀四郎氏は一昨日の明石丸にて神戸に向け上京の途に上りたり。 




         次に、長崎獣医学校の沿革について記載します。

           〇長崎獣医師学校の沿革

                 ・明治 9年 6月20日    長崎病院医学場が開場

                 ・明治10年12月10日    長崎医学校に名称を変更(県立)

                 ・明治14年 7月 5日    長崎医学校に獣医学部を設置

                 ・明治21年 3月31日    長崎医学校を廃止 (第五高等中学校医学部となる)

                 ・      〃        長崎獣医学校を長崎商業学校内に設置(県立)
                                 校長に長崎医学校の深見次郎教諭を任命       

                 ・明治21年 7月31日    長崎獣医学校第1回卒業証書授与式を長崎縣尋常中学校(現在の長崎歴史文化博物館敷地内)
                                 体操場にて執行

                 ・明治27年 7月31日    長崎獣医学校を廃止



           ところで、長崎獣医学校があった場所ですが、明治21年に設置された当時は県立長崎商業学校内に設置されましたが、当時県立

         長崎商業学校は興善町にありました。翌明治22年7月に県立長崎商業学校は伊良林に新築、移転しました。(明治34年5月に長崎市に

         移管されて「長崎市立長崎商業学校」と改称)長崎商業学校は校舎が移転しても、長崎獣医学校はそのまま興善町に学校が廃止される

         まであったと思われます。


          なお、昭和3年に発行された中村孝也著 『日下義雄傳』 には、日下長崎県知事と一緒に写った高嶺秀四郎の母親の写真が掲載されて

         います。息子に会いに長崎をしばしば 訪問したそうですが、その時に撮影されたものだそうです。

           高嶺秀四郎の兄・高嶺秀夫は日下義雄の親友だったそうです。幕末には第九代会津藩主松平容保の小姓になり、明治維新後は文部省

         に入り、アメリカに留学しています。帰国後は教育者として活躍し、東京師範学校校長、東京美術学校校長、東京音楽学校校長、東京女子

         師範学校校長などを歴任しました。




             参考文献

                  『長崎市制六十五年史 (前編) 』  長崎市役所編さん・発行  昭和31年

                  『長崎医学百年史』   長崎大学医学部編集・発行   昭和36年      

                  ウィキペディア      『駒場農学校』

                  ウィキペディア      『高嶺秀夫』

                  ウィキペディア      『広沢弁二』

                  ウィキペディア      『長崎市立長崎商業高等学校』






           平成30年9月       
       
                           
    会津で生まれた兵法家・山鹿素行



       山鹿流兵学を創始した山鹿素行(やまが そこう 1622.9.21~1685.10.23)の父は山鹿六右衛門高道(貞以(さだもち)ともいう)といい、

      浪人中、蒲生家が藩主である会津藩の政庁がある会津若松にやって来て、家老の町野幸仍の屋敷に身を寄せていました。そこは上杉景勝が

       統治していた時代に、直江兼続の屋敷があった場所だそうです。山鹿素行はこの町野幸仍の屋敷で、次男として生まれました。名前は左太郎と

      付けられています。現在、その場所は町名が山鹿町となっていて、山鹿素行の誕生地を記念した碑石が大正15年に建てられています。

      鶴ヶ城のすぐ近くです。

        山鹿素行自筆の 『家譜』 によると、山鹿家の祖は田原(藤原)藤太秀郷(ひでさと)の弟の藤次(とうじ)に発し、筑前(福岡県)

      山鹿岬 (福岡県遠賀郡芦屋町) に城を築いて代々山鹿氏を称したそうです。また、肥後(熊本県)の山鹿出身という説もあるそうです。



       会津藩主・蒲生忠郷が26歳の若さで病死しましたが、子がいなかったため蒲生家は改易されました。このため、町野幸仍の子町野幸和は江戸に

      出て幕府に仕えました。この時、山鹿六右衛門高道も数え年6歳の左太郎(素行)を連れて町野に従って江戸に出て、町医者となりました。

       左太郎はこの時から漢籍を学び始め、9歳になると幕府の大学頭林羅山の門に入って官学である朱子学を学びました。15歳になると、

      北条氏長らに甲州流軍学を学びます。31歳の時、播州の赤穂藩主・浅野長直に仕えました。辞任後、45歳の時、「聖教要録」という

      書物を著して朱子学を批判したため、翌年保科正之らによって赤穂に幽閉されてしまいました。以後9年間赤穂に幽閉され続け、10年後の

      1675年に許されて江戸に戻りました。この時は山鹿素行が54歳の時で、64歳(1685年)で亡くなる10年前のことでした。

       江戸に戻った後、浅草に積徳堂を建てて兵学を教えました。また、赤穂に幽閉されていた時は大石内蔵助が門人となり、山鹿素行から

      兵学を学んでいます。


        ところで、山鹿素行と平戸藩の第4代藩主・松浦鎮信(天祥)は同じ元和8年 (1622年)生まれであり、二人はとても親しかったようで、

      鎮信は山鹿素行から兵学を学んでいます。素行の弟、山鹿平馬は22歳の若さで500石の家臣として平戸藩に召し抱えられました。

        平馬は後に家老(1000石)となっています。18世紀に平戸城が再建された時、山鹿流によって築城されたそうです。

      また、長州藩の吉田松陰は山鹿素行の影響を受け、1850年に平戸に遊学した際、山鹿流兵学を学んでいます。また、この時、萩焼の

      茶碗を山鹿家に贈っています。



        松浦史料博物館で山鹿光世元平戸市長のご子息・山鹿高清氏 (東京在住) から寄贈された素行ゆかりの品などが8月末まで数十日間展示

      されていたものを以下に写真でご紹介します。

        なお、写真をホームページで紹介することについては、松浦史料博物館の学芸員から口頭で許可をいただいています。

      解説文は当資料館に掲示されていた文章そのままです。




                                     山鹿素行肖像
                                    


                              「 山鹿素行は江戸時代の儒学者で兵学者である。

                               松浦家第29代鎮信(天祥)は、慶安4年(1651)、江戸の

                               板倉重矩邸での出会いを機に、以後500回余りにわたり

                               往来し、素行と親交を深めた。素行は江戸にて没したが、
  
                               その後、(弟の)平馬は松浦家の家臣となり、(素行の)嫡男

                               高基に鎮信は孫娘を嫁がせている。高基の子、高道も松浦

                               家家臣となり、山鹿流兵学を平戸に伝えた。」
        


                              
                                      山鹿流陣太鼓
                                  


                            「 松浦家第33代誠信の時に使用されていた山鹿流の

                               陣太鼓 」




                                         ほら貝
                                  


                              「 山鹿流兵学の 『武教全書』 講義本によると、陣太鼓は

                                広い場所で用いて、ほら貝は城中や沢など狭い場所で

                                用いるに適しているとする。」 




                                       軍配
                           

                              「 兵の指揮をとるための道具で、木製漆塗となっている。

                               また、方角などの戦いの吉凶を占う文様がほどこされる。」





                                    山鹿流備立図  寛政10年(1798)
                           

                           「 山鹿流による旗本備立の図。総勢約700名にのぼる備立の様子で、

                             中心付近には厳重に守られた総大将が描かれている。」





                                    帥鑑抄  寛永18年(1641)頃
                           

                              「 北条氏長の著書『帥鑑抄』を写した山鹿素行の自筆写本。

                              『帥鑑抄(すいかんしょう)』は北条氏長が甲州流兵学の講義を編集した内容と

                               なっている。」




                                     山鹿流兵学書 ・武教全書
                               

                                      「 ― 城取縄張武功秘伝の事 ―

                                       山鹿素行が記した城郭関係の資料 」





                                 山鹿素行の槍穂先 (銘:相州住 助廣)
                              

                                 「 山鹿素行が外出時、若党に持たせたもの。

                                   助廣の名槍と伝えられる。」





                                  山鹿家伝来の刀 (銘:兼元)
                             

                              「 平戸の山鹿流学問道場積徳堂において、明珍作の兜を裁断

                               したと伝えられる名刀。」




            
                                    吉田松陰持参茶碗
                             

                              「 嘉永3年(1850)、吉田松陰(21歳)が平戸に遊学した。

                               その目的は平戸藩の重臣で学者でもあった葉山佐内に

                               学ぶこと。それと山鹿流の学問を学ぶためであった。

                               その際、山鹿家に吉田松陰が贈ったという萩茶碗。

                               今年、山鹿家より当館に寄贈された。」





                                     山鹿素行陣羽織
                             

                            「山鹿素行の陣羽織として伝来した資料。インドよりインドネシア向けに

                             輸出されたインド更紗が使用されていて、染織に関する資料としても

                             大変興味深い。美術的価値も非常に高い。」





                                        大哉具足(たいさいぐそく)
                                         



                                       

                                 「松浦家29代鎮信(天祥)が愛用した具足である。

                                  胴に易経本義・上象伝の「大哉乾元万物資始乃
           
                                  統天」よりとった「大哉」の文字が記されており、

                                 この大哉は山鹿素行の書であると伝えられている。」





           杉百合之助の次男として生まれた松陰は、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、兵学を学んだ後に自らも山鹿流兵学の

         師範になりました。 

           筑前山鹿の人である秋山光清の次男として生まれた山鹿光世元平戸市長は、山鹿素行の直系子孫である山鹿高子と結婚し、婿養子となって

        山鹿宗家を継いだ人です。初代平戸市長として2期(1955年~1963年)勤めた後、第3代市長にも就任し3期(1971年~1983年)勤めました。

        1981年(昭和56年)に 『山鹿素行』 という本を出版しています。
  
  
          ところで、山鹿素行の長子左太郎は2歳で夭死したので、素行の男子は高基(万助)だけです。高基は江戸で亡くなりましたが、その子

        高道は延享元年(1744年)に、江戸の浅草から平戸へ移住しました。このため、山鹿宗家は平戸に移りました。これとは別に、素行の弟の

       家系である山鹿平馬家も平戸で代々家を継いで来ています。


  

          参考文献
   
            ホームページ 『会津への夢街道』 (→ 「偉人伝」→ 「山鹿素行の略歴」 )

            コトバンク 『山鹿素行』

            ウィキペディア 『山鹿素行』

            ホームページ 『平戸城』(→ 「平戸城について」→ 「山鹿流と平戸藩」 )

            山鹿光世著 『山鹿素行』  平成11年(再刊)  錦正社   

            堀 勇雄著 『山鹿素行』  昭和34年  吉川弘文館 







          平成30年8月       
       

                  
鎮西日報が報じた北原雅長(第3回―長崎県少書記官として赴任)


        初代長崎市長を勤めた旧会津藩士、北原雅長の市長在任期間は明治22年6月8日から28年6月7日までで1期6年でした。 
 
       市長を退任したその年の12月11日に上京のため長崎港から去って行きました。

        では、北原雅長はいったいいつから長崎県の役人になったのか、これが私の長年の謎でした。それが遂にわかりました。

       鎮西日報を苦心して探していたところ、遂に見つけました。それは明治16年7月5日付の新聞に掲載されていました。 
 
        次のとおりです。



        [明治16年7月5日付け鎮西日報]

         叙 任 賞 勲

         ●六月十八日分
  
               任長崎縣少書記官         北原雅長

            
            
   
        これによると、6月18日付けで任命されたことがわかります。続いて、下記のとおり、7月8日付の鎮西日報に長崎県の告示で、 
 
       北原雅長が長崎県少書記官に任命されたこと、その旨告示することが記載されています。

  

        [明治16年7月8日付け鎮西日報]

         本 縣 録 事

         ●告第百一号

                                   北原雅長
               任長崎縣少書記官

            
            右之通客月十八日

            宣下相成候條此旨告示候事

                   明治十六年七月七日  長崎縣令石田英吉 



        それでは、長崎縣少書記官としての北原雅長の前任者は誰だったでしょうか? それは、初代長崎市長選を争った金井(かない)俊行でした。 
 
       次のとおり鎮西日報に記載されています。

      
        [明治16年6月21日付け鎮西日報]

         叙 任 賞 勲

         ●五月廿三日分

              任大蔵少書記官           岐阜縣大書記官従六位   斯波有造

         ●(どう)月九日分
    
              任佐賀縣少書記官          長崎縣少書記官正七位   金井俊行



                最後に、長崎県にやって来た北原雅長の役職がその後数回変わっていますので、ここに整理しておきます。


        ・明治16年(1883)6月18日   長崎縣少書記官に叙任

        ・明治19年(1886)3月16日   厳原支庁長仰せ付けられる

        ・明治19年7月31日        長崎県書記官に叙任 (厳原支庁長在任のまま)

        ・明治19年9月14日        対馬島司に就任 (官職名の変更による)

        ・明治22年(1889)6月8日    初代長崎市長に就任

        ・明治28年(1895)12月11日  長崎から東京へ転出  



        こうしてみると、北原雅長は長崎県内に12年以上も住んでいたことになり、長崎県滞在期間は名の知られている会津出身者としては、 
 
       西郷四郎に次いで長かったということになります。第8代長崎県令で初代長崎県知事の日下義雄は長崎にいたのが3年9ヵ月間で
 
       したので、北原雅長がいかに長かったかがわかると思います。





          平成30年7月       
       

                   
鎮西日報が報じた日下義雄



        [明治18年12月16日付け鎮西日報]

        官 報

         ●芳川内務大輔外十五名は昨八日左の通り仰渡されたり。
 
                ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                一等駅逓官    日下義雄
      
                ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                        

         [明治19年1月10日付け鎮西日報]

         官 報

          ●明治十八年十二月二十八日

                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                              一等駅逓官従五位   
 
                 兼任逓信大書記官     日下 義雄


          ●伊東海軍中将外六名は昨二十八日左の通り仰渡されたり。

                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                              一等駅逓官兼農商務大書記官内務大書記官
     
                免兼官                日下 義雄



          [明治19年2月27日付け鎮西日報]

          ●日下県令

             今般 本県令に任ぜられし日下義雄君履歴の大概(あらまし)を記せるに、

           君元は旧会津藩にてその後縁由ありて山口県の本貫(こせき)となり、明治

           四年太政官の官費生に抜選せられ、故岩倉全権大使に随がひ米国へ遊学し、

           同七年春の頃帰朝し太政官七等出仕に任ぜられ、その後大蔵省に転任し、

           同十一年の頃大蔵省六等出仕の官職を帯び英国へ派遣せられ、龍動へ滞在し、

           簿記法その他の学科を研究し、その後帰朝。駅逓局へ出仕し、一等駅逓官に

           進み、内務農商務大書記官に兼任せられ、駅逓総官不在等の節はその代理を

           為されたり。前号にも記せし如く客年十二月の改革後は一等駅逓官を以て逓信

           大書記官に兼任せられ、内務農商務大書記官の兼任をぞ解かれたり。(以上

           概記せるの外印刷局及び旧参事院等へ兼任せられたることあるの如し) 

             君人たる天資豪邁にして胆略あり。その英国遊学の後は温順謹敏の性に

           変ぜられ、且つ英書英語等に通じ、尤も外国の事情に明に一般の事務に熟練

           せし方なりと。その年齢は旧年三十七八歳なりと言へり。
 


       
ここで、駅逓(えきてい)とは郵便の古い名称です。明治10年に駅逓寮から駅逓局に名称変更され、明治18年12月に

      内閣制度の発足に伴い、駅逓局と管船局を農商務省から、電信局と灯台局を工部省からそれぞれ移管して逓信省が新設されました。

      逓信という省名は駅逓と電信から一字ずつとって新造されたといわれているそうです。

      『日下義雄傳』では、日下義雄が井上馨の書生をしていた頃、無籍者の身元調査があった時、天下の下に生涯を送るから日下と

      名乗ったというと記載されています。ところが、この鎮西日報の記事では縁あって、山口の日下家の戸籍に入ったと記載され

      ています。どちらが本当か真相を知りたいものです。





       
平成30年6月       
       

            鎮西日報が報じた池上三郎(2/2)


    長崎へ転勤

      池上三郎は明治18年(1885)9月19日付けで大審院検事から長崎控訴裁判所(後に長崎控訴院と改称)検事へ異動になりました。

    そして明治26年(1893)3月8日頃に今度は大坂控訴院へ異動を仰せ付けられました。池上三郎が長崎へやって来たのは異動

    発令からずいぶんと遅れ、明治18年11月30日でした。池上三郎の幼い子供が早死したことが大きな原因でした。当時の鎮西日報に

    そのことが記載されています。池上三郎が大阪へ赴任するため長崎を離れたのは明治26年3月27日でした。したがって長崎に滞在

    したのは、約7年4ヵ月でした。官僚としては長かったと思われます。年齢で言うと、池上三郎は1855年3月14日に生まれて

    いますので、30歳から38歳にかけて長崎に滞在しています。


      仕事ぶりはとても優秀との評判が当時の長崎の司法関係者の間で話題になっており、ある弁護士は、「控訴院に池上氏あり。

    疑いが晴れて無罪になる者の数は1年で少なくない」と語ったということが当時の鎮西日報に記載されています。また、普段から

    いつも心眼はまっすぐで、道理をはっきり見分け動くことがなく、罰を正し冤罪を解いた、ということも記載されています。

      私にとって会津藩の人は謹厳実直なイメージがあるのですが、池上三郎もやはりそのようなタイプの人だったようで、とても

    真面目で正義感の強い人物であったことがわかります。実際に検察官池上三郎が関わった裁判が鎮西日報に記載されていますので、

    この欄の一番最後にご紹介します。


      池上三郎の送別会には長崎控訴院と長崎地方裁判所の判事と検事一同が参加したことも掲載されています。7年4ヵ月も長崎で

    勤務したことで、ずいぶんと多くの司法関係者から信任が厚かったことでしょう。人々から惜しまれて長崎を去ったと思われます。



     【明治18年9月30日付け鎮西日報】

       ●判事桑田親五は去る十八日、検事羽野知顯外弐名は一昨十九日
(いず)

         も司法省に於て左の通り仰付けられたり。

                予審掛を命じ候事 (横浜始審) 判事桑田 親五
   
                                 (長崎控訴) 検事羽野 知顯

                長崎始審裁判所詰を命じ候事
  
                                 (大審院)   検事池上 三郎

                長崎控訴裁判所詰を命じ候事
          
                                 (議事局員) 検事春木 義影
 
                大審院詰を命じ候事
 
                                〔右三件本年九月二十一日官報〕 
    

       ●羽野池上両検事      本日の官報欄内にも掲ぐる如く当控訴裁判

         所詰検事羽野知顯君は当始審裁判所詰を、大審院検事池上三郎君

         は当控訴裁判所詰を命ぜられたり。又羽野検事は一昨日事務の引

         受を
(おわ)り昨日より事務取扱われたり。


     【明治18年10月7日付け鎮西日報】 

       ●池上検事     当控訴裁判所詰を命じられたる検事池上三郎君は
     
         本月中旬頃ならでは赴任あるまじといへり。 
   
      
     【明治18年11月10日付け鎮西日報】 

       ●池上検事     長崎控訴裁判所在勤を命ぜられたる検事池上三郎

         君は次の下り郵船横浜丸より来崎の筈なる由噂さす。


     【明治18年11月17日付け鎮西日報】 

       ●池上検事     長崎控訴裁判所在勤を命ぜられたる検事池上三郎
     
         君は一昨夜入港の横浜丸より赴任の筈なりしよしの処、同君の子息

         夭死に付き此度までは着任相成らざりし


     【明治18年11月28日付け鎮西日報】 

       ●池上検事     大審院詰たりし検事池上三郎君は過般長崎控訴

         裁判所在勤を命ぜられ志の処、幼児の死亡等にて着任も遷延せし

         に、本月二十日横浜出航の薩摩丸にて出発せられたる由なり。
     
         二三日の内には多分着崎せらるべし。


     【明治18年12月2日付け鎮西日報】 

       ●池上検事     長崎控訴裁判所在勤を命ぜられたる検事池上三郎

         君は一昨日入港の名古屋丸にて着崎。昨日より出勤せられたり。


     【明治26年3月9日付け鎮西日報】 

               電  報

       ○長崎控訴院検事更迭
             (昨八日午後一時東京特発)

          長崎控訴院検事池上三郎氏は大坂控訴院検事に補し、大坂地方裁判所検事

         川淵龍起氏は長崎控訴院検事に補せられたり。  

           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

              雑  報

       ●池上検事の転補

          当方面司法部内に於て俊秀識達を以てつとに世評に上りし者は長崎控訴院検事

        池上三郎君なり。吾輩はある状師のかつて君を称して「控訴院に池上氏あり。依て

        以て青天白日を得る者一年その数鮮少にあらず」と言へるを聞く。窃に之を生平に

        徴するにその心眼の正明にして動かざる、罰を正し
(えん)を解く、発して(あやま)ることあること

        無きが如し。真に群中の
脱穎(だっけい)なり。是に於て在任日永ふして声名日に高し。今や忽

        焉抜かれて大阪控訴院に転補せらる。蓋林検事長の君を忘る能はざるに由るなり。

        吾輩
(あに)愛惜の情なからんや。然れども是君の栄なり。君の名声亦益盛なるものあら

        ん。往矣懋哉。
    


     【明治26年3月18日付け鎮西日報】 

       ●池上検事送別会     長崎控訴地方判検事一同にて池上検事の送別会を昨夜

          伊良林
(がん)花亭に開きたり。


     【明治26年3月28日付け鎮西日報】 

       ●池上検事     当控訴院より大坂控訴院に転せし検事池上三郎氏は昨日午後出港
  
          の西京丸にて赴任せり。


     【明治19年1月20日付け鎮西日報】 

       ●刑事控訴公判      一昨日長崎控訴裁判所に於て判決ありたる控訴事件は、鹿児島県薩摩国鹿児島郡鷹師馬場町士族

        小野昌秀(三十六年八月)が殴打創傷の被告となり、鹿児島軽罪裁判所に於て重禁錮二年に処せられたる裁判に服せず

        長崎控訴裁判所に控訴したる事件にて、裁判長は松下判事、陪席は横地、藤井の両判事なりしが、検察官(池上三郎君)は

        原裁判所が公判に於て被害者の告訴状及び中 村八郎次外三名の始末書を朗読せず、且つその証憑に付被告人に対し

        弁解を求めずして有罪となしたるは不当の裁判なるにより、附帯の控訴として原裁判の取消を要むる旨陳述あり

        弁護人佐藤龍斎氏は創傷疾病に至らざるものなれば違警罪に該るべきものと主張し、裁判長は式に依て訴訟書類を朗読せしめ

        且つ長崎病院の診定により裁判を下されたる要旨は、被告人は鹿児島郡伊敷村平民山下三右衛門が同郡鷹師馬場中村八郎次へ

        負債ありて、厳重の督促を受くるより国料休次郎を以て示談申し入るるあとを聞知し、自ら好んでその仲裁人となりたる末、

        明治十八年十月十日午後九時金主中村八郎次の門前において仲裁の謝金に付き三右衛門に対し談判中ついに意の如くならざるを

        怒り、陰嚢右側腹部を蹴りために軽傷をなしたるも疾病休業に至らざる事実は、告訴状、証言、医師診断書、鑑定書、始末書、証明書

        供述等により証憑充分なりとなし、刑法第三百一条第三項その疾病休業に至らずと雖ども身体に創傷をなしたるものは十一日以上

        一月以下の重禁錮に処するに該る犯罪と為し、原裁判はその当を得ざるを以てこれを取り消し、更に重禁錮十五日に処せられ且つ

        検察官の附帯控訴あるを以て被告人の刑は原裁判言渡の日より起算しすでに刑期経過せるを以て直ちに放免を言渡されたり。    



      裁判手続きに誤りがあったため、池上検事は検察官として原裁判の取消しを求める附帯控訴を行っていますが、刑事訴訟手続きに詳しい

    専門家としての一面が現れている例と思います。
 




      平成30年5月       
       


            鎮西日報が報じた池上三郎(1/2)


   1.経歴

      池上三郎(1855-1914)は明治時代に検事として活躍した人物です。弟の池上四郎は元大阪市長であり、秋篠宮妃紀子様の曽祖父です。

     三郎と四郎の父・池上武輔は会津藩御使番の内田武八(190石)の二男として生まれ、池上善左衛門(250石)の婿養子となって

     文久2年(1862年)に池上家の家督を相続しています。妻は善左衛門の長女ウメです。池上武輔は後に会津藩の郡奉行になっています。

    三郎も四郎もこの武輔とウメとの間に生まれており、長兄は夭折し、次兄の友次郎は鳥羽伏見の戦いで戦死しています。



      三郎は元治元年(1864年)に会津藩校日新館に入学、慶應4年(1868年)8月23日に新政府軍が会津若松に進撃して来ると鶴ヶ城に籠り、

     城に入った13~15歳の少年有志で編成された護衛隊に加わり、中軍護衛隊(約50名)として新政府軍と開城まで戦い抜きました。

     籠城戦では北出丸へ迫った敵を撃退するなどの軍功もあげています。


      明治3年に家族で斗南藩へ移住しましたが、翌4年には上京して福地源一郎の学塾に入りました。ただ、福地源一郎は明治4年11月

    12日(新暦の12月23日)に岩倉使節団の一等書記官としてアメリカ・ヨーロッパ訪問へ出かけましたので、福地源一郎に師事した

    期間短かったと思われます。その後、福沢諭吉の慶應義塾や「横浜の父」と言われる高島嘉右衛門が横浜に開校した私塾、藍謝堂でも

    語学などを学 びました。明治6年(1873年)には現在の茨城県土浦市 にあった土浦藩の藩校郁文館の後身で洋学を教える化成館の

    英学教師となりました。


      その後、福地源一郎が明治7年(1874年)12月に主筆となった東京日日新聞(後の毎日新聞)に入って記者となり、仕事の傍ら法律も

    勉強しました。そして明治10年(1877年) に司法省に入りました。現在の山形県庄内地方で明治6年末から13年末にかけて起きた

    農民運動、いわゆるワッパ騒動で大いに手腕を発揮して、検事補となり、明治14年(1881年)に検事に昇進しました。
 
 
      この明治14年に長崎上等裁判所が長崎控訴裁判所と改称され、さらに明治19年(1886年) 5月4日裁判所官制が公布されて

   長崎控訴院と改称されました。池上三郎は長崎控訴院と改称される以前から長崎に検事として赴任しています。三郎と同じ旧会津藩出身の

   日下義雄が第8代の長崎県令として明治19年3月21日長崎へ赴任して来ましたが、4月1日に池上検事が日下県令に会いに長崎県庁を

   訪問したことが、当時の長崎で発行されていた鎮西日報に次のとおり掲載されています。


     ●訪問

         日下長崎県令は昨日午前丁抹(デンマーク)領事を訪はれ、また長崎控訴裁判所
  
       検事池上三郎君は同県令を県庁に訪はれたり。

                                     (明治19年4月2日付け鎮西日報)   


      池上三郎は長崎控訴院検事局検事から明治26年(1893年) 3月に大阪控訴院検事局検事となりました。その後、神戸地方裁判所の 

     検事局の長である検事正となった後、明治38年(1905年)11月には函館控訴院の検事局の長である検事長に就任しました。 

      大正2年(1913年)に休職し、翌3年(1914年)11月10日に東京渋谷の自宅で亡くなりました。満59歳でした。 


       池上三郎は、数冊の法律専門書を共同執筆したり監修したりするなど、法律家として相当学識が深い人物だったようです。 

     池上三郎が出版に関わった法律書として、次のものがあります。


      『刑法対照 全』    池上三郎編纂  明治13年10月出版

      『実例引証 治罪手続』  只野龍治郎著 池上三郎閲 明治15年4月出版

      『治罪法区戸長必読』   只野龍治郎著 池上三郎閲 明治15年6月出版

      『本邦法令 上』  小沢謹歩著  池上三郎閲・出版  明治16年出版

      『本邦法令 下』  小沢謹歩著  池上三郎閲・出版  明治16年出版

      『巡査憲兵上等兵 刑事執務概則』  神戸地裁検事正 池上三郎著
                            明治31年出版


     上記の図書のうち、『刑法対照』では福地源一郎が序文を書いています。国立国会図書館デジタルコレクションにリンクしましたので

   ページを進めていただくと福地源一郎の序文を見ることができます。これは、池上三郎と福地源一郎の関係を知る上で貴重な資料と言える

   のではないかと思われます。

     福地源一郎が主筆になっていた東京日日新聞で池上三郎は福地から大いに薫陶を受けたことでしょうし、ひょっとしたら政府に顔のきく

   福地のお世話で司法省に入ったかもわかりません。少なくとも推薦はあったものと思われます。それほど恩顧を受けなければ池上が自ら

   編纂した本の序文を福地に依頼しないと思われます。

     
     それにしても、法律を学んでわずか数年しか経たないのに、法律の専門書を編纂するとは、池上三郎はすごいと思います

   しかも新聞記者をしながら法律を勉強したわけですが、よほど猛勉強したことでしょう。本当に頭が下がります。見習いたいものとだ思います。



         引用文献   ウィキペディア 『池上三郎』、『池上四郎』






   
    
平成30年4月       
       


                        鎮西日報が報じた北原雅長の弟 神保巌之助



     今月は「鎮西日報が報じた北原雅長」は休みにして、北原雅長の弟である神保巌之助に関する鎮西日報の記事をご紹介します。

    その前にまず神保巌之助の経歴等についてご紹介します。牧野登氏の『史伝 西郷四郎』から大部分を引用します。


     神保巌之助はペリー来航の前年である嘉永5年(1852年)5月18日に生まれています。同じ年に生まれた者として、明治天皇、

    児玉源太郎、山本権兵衛らがいます。また、この年、ストウー婦人が「アンクルトムの小屋」を出版しています。亡くなったのは、

    大正14年(1925年)5月21日で73歳の時でした。この年3月に孫文も亡くなっています。

     巌之助の長兄は幕末に長崎を訪れた会津藩軍事奉行添役の神保修理で、平成25年のNHK大河ドラマ『八重の桜』では、

    斎藤工が演じています。神保巌之助の妻は幾ヱと言い、長崎県西彼杵郡戸町村(現長崎市)出身です。

    巌之助と幾ヱとの間に4男2女がいて、四男孝之が柔道家・西郷四郎の養子になっています。

     神保巌之助は明治3年に小倉藩の後身である豊津藩(小笠原家)の藩校育徳館に留学した旧会津藩士の子弟7人のうちの一人で、

    7人のうちでは最年長者であったそうです。翌年5月1日、7人のうちの郡長正(父親は萱野権兵衛)が切腹した際には巌之助が

    介錯をしています。巌之助はこの時満18歳でした。


     さて、神保巌之助は実兄の北原雅長が長崎市長在任中の明治25年4月7日に行われた上長崎村長選挙に当選しています。

    そのことが鎮西日報に掲載されていますので、ご紹介します。なお、当選した時の年齢は満39歳でした。

 
     [鎮西日報 明治25年4月9日付]

        ●上長崎村長   は一昨夜の同村会にて選挙せしに、神保巌之助氏十三票、中島藤十郎氏五票にて

         神保氏当選せり。神保氏は北原氏の弟なり。兄市長たり弟村長たり。亦以て一門の栄と為すべし。」



     当時の上長崎村の行政区域は現在全て長崎市に編入されていますが、当時の上長崎村は次のとおり10郷がありました。


        船津郷(現在の西坂町)、岩原郷(現在の立山1丁目-5丁目)、西山郷、木場郷、片淵郷、夫婦川郷、

        馬場郷(現在の桜馬場1丁目-2丁目)、中川郷、本河内郷、伊良林郷



     北原雅長は上長崎村の中川郷に住んでいましたが、中川郷は現在は中川1丁目~2丁目、鳴滝1丁目~3丁目となっています。

    なお、『神保修理の事』と題する明治35年4月5日付けの東洋日の出新聞には、次のとおり誤りではないかと思われるものが

    記載されています。


     「この修理なる人は、先年当長崎の市長たりし北原雅長氏や、又大浦戸町上長崎村辺の村長たりし神保巌之助氏等の実兄なれば、

      之を長崎の人々に紹介するも敢えて因縁なき業に非らざるべしと思へば余白に収めつ。」



     「大浦戸町上長崎村辺」という表現になっていますが、どうしてこんな表現になったのか理解できません。

     上長崎村は一部が明治31年(1898年)に長崎市に編入され、残る全域が長崎市に編入されたのは大正9年(1920年)です。

    なお、当時の地方自治制では市長の任期が6年であるのに対し、町長や村長は4年でした。

    また、町村長は町村会が町村公民中から選出し、知事の認可を受けて決定されていました。したがって、明治25年4月7日に

    上長崎村長に当選した神保巌之助は明治29年の4月途中まで上長崎村長をしていたと思われます。


     その後いつ長崎を離れたかは不明です。当時の鎮西日報を調べましたが、離崎のことは掲載されていませんでした。

    巌之助の四男孝之が明治33年9月17日に生まれ、その直後の11月20日に西郷四郎が「福島県若松市鳥居町無番地

    戸主神保巌之助四男」の孝之を養子として入籍したことが「史伝 西郷四郎」に掲載されており、遅くとも明治33年には

    郷里の会津若松に帰っていたのかもしれません。あるいは、単に戸籍の住所がそこになっていただけかもしれません。

     「史伝 西郷四郎」には、「巌之助一家は、後、長崎を離れて、栃木県の西那須の日下農場を経て晩年は郷里会津若松に戻り」と

    記載されています。



          参考文献   牧野登著 「史伝 西郷四郎」 昭和58年発行





    平成30年3月       
       


                 鎮西日報が報じた北原雅長 (第2回―住所)



     今月は鎮西日報に掲載された北原雅長の長崎市における住所をご紹介します。



     [明治22年7月13日付] ●北原市長

       事務引継の為め対馬島庁へ滞勤中をりし長崎市長北原雅長氏は一昨十一日午後十時入港の源丸にて着崎し、江戸町増永方へ投宿せり。



    [明治22年11月22日付] ●市長の移転

       長崎市長北原雅長氏は近々今町元田原養朴氏の跡に移転するよし。



    [明治22年12月25日付] ●御歌題を詠む

       東京府深川区富岡門前町十四番地平民当時長崎市恵美須町九番戸寄留北原雅長氏は左の詠歌を宮内省へ廻されたりと。

         寄國祝(くによせいわい)
 
            敷島のやまと心を(いしずえ)に建てたる皇国萬代(よろづよ)までも



    [明治23年1月28日付] ●市長の邸宅

       北原市長の対馬島司より長崎市長に推挙せらるるや当時彼地(かのち)に邸宅を建築せんとて

      既に大工をして材木を切込ませ居りし際にて赴任以来官務に暇なくその儘に打ち過ぎたるを、

      この度自ら上長崎村中川郷字久保なる勝景の地を()て畑地凡そ千三百坪許りを買上げ不日対馬より

      右の材木を取り寄せ該所に邸宅を建築するよしなり。その建坪は凡そ八十坪許りにて結構は清壯を主とするよし。



    [明治25年11月5日付] ●北原氏の菊宴

      半日は長崎市長の劇職にありて俗塵堆裏に身を委ねるも一たび中川の自邸に退食す。半日は閑雅なる中川郷の自邸に俗塵の煩を避け

     悠々として臨池に俗懐を洗い三十一字に意想を写し、忙中閑を得、閑中忙を処するは北原の雅長君なり。

       頃者(このごろ)金風、黄菊の好時節、君が東籬(とうり)に培うもの凡そ数百株、一昨三日天長の佳辰、光風麗にして花(まさ)に半開し、

     自ら祝意を表するもの如し。主人此日を以て市の参事会員と議員とを招き、黄紫白紅の籬辺に恭しく祝杯を傾け、昨亦その知友と

     部下の属僚を招きて、共に酌む。市塵雑踏の中に俗了されし人、心神羽化登仙の盛ありしや知る可きなり。



     上記新聞記事によると、北原雅長は最初江戸町の増永という人の家に寄宿しています。その後今町に移転する話が掲載されていますが、

    実際には移転しなかったかもわかりません。というのは約1か月後の新聞に恵美須町に寄留していることが掲載されているからです。

     対馬から長崎市にやって来た半年後の新聞には中川郷に自宅を建築する記事が掲載されており、おそらく北原雅長が明治28年12月

    11日に長崎を去るまでこの家に住んでいたと思われます。それにしても自宅の敷地が1300坪というのは広大ですね。

     北原雅長は菊を数百株も栽培しており、かなりの菊の愛好家だったようですね。自宅のあった中川郷は現在は中川1丁目~2丁目、

    鳴滝1丁目~3丁目に分かれており、北原雅長の自宅はどこにあったのか知りたいものです。




    平成30年2月       
       


              鎮西日報が報じた北原雅長 (第1回―短歌)



    今月からしばらくの期間、鎮西日報に掲載された北原雅長を見て行きたいと思います。今月は、北原雅長の短歌をご紹介します。


     [明治22年12月25日付]

      寄國祝 (宮内省へ送付)
   
        敷島のやまと心を(いしずえ)(たて)たる皇国(みくに)萬代(よろづよ)までも
     

     [明治26年5月27日付]

      (諏方の銅鳥居つくるをみて)

        氏人かつくれる銅の大鳥居
                    動かぬ御代のしつめなりけり 
 

      (五月十四日中島廣足翁の三十年祭執行したるに折から京にありておもひつゝけたる)

        同し世にあわぬうらみの外にまた
                    けふのむしろにもれにけるかな 
         

     [明治26年11月11日付]

         諏訪祭近つきぬらし大波戸の
                    かり宮造りいそかしけなる 


     [明治27年6月9日付]

         今日もまた凧ひろはんと竹の穂に
                    いはらゆひつけ飛ふはたか子そ


     [明治27年8月8日付]

      (森白州 海軍に赴くを送りて)

        しき島の大和こゝろの花櫻
                    よににほふへき時はきにけり


     [明治28年1月17日付]

      (諏方社々頭初会献詠)

          山鶯告春

       宮つこか春をまをすと登行く神垣の山に鶯なくも



     [明治28年6月30日付]
 
       ●北原雅長氏の閑散       

            前市長北原雅長氏はさきの満期退職の後は日々庭園に下立ち、自ら鍬鋤取りて例の菊作りを事とし

           傍ら得意の三十一文字に余念無き由なるが、右退職に就いて左の詠ありしといふ。


              今よりは中川郷の菊作り
                       こころの色は花や見すらん





    平成30年1月       
       


                   
鎮西日報が報じた日下義雄 (4・完)



     日下義雄は明治19年2月25日付けで第8代の長崎県令となりましたが、同年7月20日に地方官官制が公布されて全国に

    混在していた府知事と県令の名称が、知事に統一されました。このため、日下義雄は同日以後、長崎県知事となりました。と、

    言いたいところですが、『日下義雄傳』では長崎県知事になったのは明治19年7月19日と記載されています。

     また、『長崎市史年表』にも、明治19年7月19日に日下義雄が長崎県知事になったと記載されています。

     では、当時の長崎の新聞、鎮西日報にはどう記載されているでしょうか? 明治19年7月22日付けの鎮西日報には次のとおり

    記載されています。


      ●知事任命 [一昨二十日午後六時十分東京特発]

         日下長崎県令は同県知事に任じ奏任一等に叙せられ下級俸を賜る


     これを見ると、7月20日付けで任命されたのかなと思われますが、同年7月27日付けの鎮西日報には次のとおり記載されています。


      ●叙任  七月十九日
  
        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

        任長崎県知事叙奏任官一等賜下級俸   日下義雄

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

              (本年七月二十一日官報)
    
    

    上記のとおり、はっきりと7月19日に叙任されたと記載されています。

   しかし、毎日新聞の7月21日付けの紙面には、叙任のことが記載されていますが、「7月19日」という文字は記載されていません。

    7月20日付けで地方官官制が公布されたのは間違いないので、20日から県令という名称が廃止されて「知事」に統一されたはずと

   思います。したがって、19日まではまだ「県令」という名称は存続していたはずなのに、7月19日付けで知事に叙任されるのは

   あり得ないのではないかと私は思うのですが、私の知識が足りないだけかもしれません。




    平成29年12月       
       


                  
鎮西日報が報じた日下義雄 (3)



    日下義雄が福島県知事として在職した期間は、明治25年8月20日から明治28年7月15日までで2年11ヵ月です。

   長崎県知事として在職した3年7ヵ月より8ヵ月短かかったわけでした。

    日下義雄は福島県知事となり、故郷に錦を飾ったわけですが、福島県民からは受けがあまり良くなかったようです。

    日下義雄は東京滞在中赤痢に罹り、東京の病院に明治25年2月15日入院し、3月27日に退院していますが、入院中、

   知人に宛てた手紙に「板挟みになるのは一生の艱難である。男児たるもの知事になる勿れ」と書いたそうです。
   
   昭和3年に発行された『日下義雄傳』には、福島県知事就任早々から岩越鉄道の敷設に向けて大いに尽力している様子が

   記載されていますが、知事就任後1年も経たない頃の日下が精神的に苦労している様子は記載されておらず、下記の鎮西日報

   記事はとても貴重な資料といえると思います。




     [明治26年3月17日付鎮西日報]

      ●人間生れて知事となる勿れ

       前に長崎県知事たりし日下義雄氏は久しく東京築地の寓居に在り、兼て恩顧を受けし主人井上伯の再び出世するに

      及んで忽ち挙げられて福島県知事に任ぜられし間も無く県民の悪感情を惹起し、県治面白からずして過般来病を以て

      東京に来り入院中なるが、此頃当地の旧知己に寄せたる書中に、人間生れて下吏となる勿れ、百年の苦楽長官に依る、

      男児復た知事となる勿れ、一生の艱難板挟みに在り、と言える意味も見えし由にて目下同氏は非職となる乎又

      香川県知事に転任すべしと風聞あるに付き在る人の説く所を聞くに、同氏の福島県知事たる能はざるは最初より

      知れ切ッたる事にて、去年拝命の当時如何なる考えを以て之を受けたるや、余は実に之を怪しみたり。

       夫れ会津人士の脳中には維新の際に於ける会津戦争の遺恨一日も絶ゆることなく、折もあらば薩長人を押仆さんと

      するの覚悟なる上に、日下氏の兄は夫の有名なる白虎隊の一人として当時割腹し、其勇烈を想像するの風は今猶

      同地人士中に勃々たり。

       然るに、義雄氏は如何と云うに其敵視する長閥の井上伯に依りて立身の栄華を得、政府の頤使に任ずるは是れ

      会津人士の面目を辱しむる反り忠の業態なりとの非難ある。其会津は福島県の首部にして山川将軍等豪の反対者あれば

      到底円滑に行わるべき理由あるべからず。況や選挙干渉の改善策中々困難なるに於いてをや。氏の転非は必然免がる

      べからざるなり。果断剛毅の氏にして近来葦の藍に遭いたる如きは決して謂はれなきにあらずと語れり。





    平成29年11月              


                     
鎮西日報が報じた日下義雄 (2)


     第48回目の衆議院議員総選挙が先月行われましたが、第1回目の衆議院議員総選挙は明治23年(1890)7月1日に行われています。

   日下義雄はこの時の選挙に東京府の第3区(京橋区)から立候補することを考えていたことが鎮西日報に掲載されています。

   結局は立候補しなかったようです。その後、日下義雄は明治25年8月20日に福島県知事に任命されています。鎮西日報は8月23日付けで

   「知事の交迭」(「更迭」の記載ミス)という見出しで報じ、翌日の記事に「日下福島県知事」という見出しで長崎県知事時代の日下義雄の

   ことを述べています。


    注目すべきは明治24年10月1日付の記事で、日下義雄のことを長崎水道王と称賛しています。非常に立派な尊称ですね。

   当時、東京に住んでいた日下義雄の家を訪問したある人が日下義雄に長崎水道に対して長崎市民が良い感情を持っていることを話すと、

   日下義雄がとても喜び、自分の功績ではないと謙虚に答えています。日下義雄は人格も高潔な人物であったことが偲ばれます。




    [明治23年6月21日付鎮西日報]

     ●日下義雄氏

       非職長崎県知事たる同氏は目下東京に在住中なるが、京橋区より衆議院議員として打って出でんとの覚悟にて頗る熱心に

      運動なしつつあるよし該地より書信の端に見ゆ。



    [明治24年10月1日付鎮西日報]

     ●長崎水道王

       水道未だ成らざるの日に当りて、日下前知事を罪せしめしものは長崎水道なり。水道既に成るの日に於て、日下前知事を

      賞せしむるもの亦長崎水道なり。想ふて当年に至れば、日下氏の雄膽豪懐景仰に堪へざるものあり。俯して今日を察すれば、

      先見明識匹夫匹婦猶敬重す。

       水道の功益誰か日下氏を罪するの日に知らん。日下氏を罪するの日実に水道の効益を知らざりしなり。倒海の瀾打て之れを

      砕き、清粋の水布て瓊港に徧ねし、日下氏の偉績は長崎水道と万世滅せず、日下氏の芳名は長崎水道と永年清し、嗚呼当年の明府、

      功業今に至て威更に多し。吾輩は謹んで長崎水道王の尊称を呈せん。

       このごろ人あり東京に遊び、道に依て同氏の盧を訪ふ。閑優慇懃、語々長崎水道に及ばざるはなし。

      某詳に其実状及び市民の好情を叙す。氏喜色面に溢れ真摯人を襲ふ。

      曰く、是れ僕が功にあらず僕唯長崎人の幸福を知るのみと。某之れを聞き、殆んど今昔の感に堪へざるものありしと云ふ。



    [明治25年8月24日付鎮西日報]

     ●日下福島県知事

       日下非職長崎県知事井上伯と旧交浅からず故に伯出て内相の椅子にすわるや知事立身の風説直に世人の口に上る。

      而して伝えし所実を過たず遂に福島県に知事たるに至れり。夫れ福島県は氏の故郷なるも今回の任敢て氏の為に錦を飾るものと

      言ふに足らず。

       然れ共氏が手腕は以て郷党を喜ばしむるに足らん。顧ふ。氏がかつて長崎県に知事たるの間内に在っては長崎港を浚渫し、

      長崎水道を設計し将た外に向っては清国水兵暴行事件に際会し、彼我の間に斡旋し又義を辱めずして能く居留外人の信用を得たり。

      其水道事件に市民の怨嗟を受けしが如きは敢て目的を非とするものありしにはあらず其方法に就いて非難を受けしのみ。

      其平生の倜儻落々、小刀細工を好まず動かば将に大いに動かんと期したり。故に非職を受くるは常に此点に在りと雖も、

      以て氏を傷むるに足らず。蓋し氏は知事中の年少にして且つ快手腕を有するもの福島県民の氏を得たる亦尋常一様の

      碌々者を得るに優る大なり。然らば即ち吾輩は氏の非職知事より抜擢せられて福島に赴くが如きも決して井伯特殊の

      知遇なりとせず寧ろ井伯が能く人材を用ひしものなりと云はんと欲す。






     
平成29年10月              

                      鎮西日報が報じた日下義雄 (1)


      旧会津藩士 日下義雄は明治19年(1886)2月25日付けで第8代長崎県令となり、同年7月、全国に混在していた

     県令と府知事が地方官官制の制定により県令が廃止されて知事に名称が統一された結果、日下義雄は同年7月19日付けで

     初代長崎県知事となりました。明治22年12月26日付けで非職(免職)となるまで3年7ヵ月間長崎県知事として

     活躍しましたが、長崎市民にとって最大の功績となった仕事は長崎に上水道設置を推進したことでした。


      当時の長崎は清浄な水に恵まれておらず、たびたびコレラが大流行し、多数の人命が失われていました。そこで長崎市の

     前身である長崎区の区長 金井俊行と協力して長崎に上水道を布設することにしました。莫大な工事費がかかることから

     長崎区会(市会)の強い反対に遭いましたが、結局市会で予算が通過し、明治24年3月、横浜、函館に次いで全国で3番目の

     上水道が完成しました。

      上水道工事が完成した時には日下義雄は長崎県知事ではありませんでしたが、工事の完成をとても気にかけていたようで、

     非職となって長崎を離れる直前に水道工事費用にと金500円を長崎市に寄附したり、故郷の福島県から長崎市役所に、

     2回目の水道公借金が払い込まれたかどうか問い合わせの郵便を送っています。

      このように、長崎市民にとって日下義雄は水道を布設した大恩人と言えると思います。

      次に、当時の長崎の新聞 鎮西日報の記事をご紹介します。



     [明治23年1月12日付鎮西日報]

      ●日下前知事

        同氏が本市将来の公益を図り水道布設事業につき賛成尽力されたる事は今更喋々(ちょうちょう)

       を待たざる処なるが、氏は此度当地出発の数日前に金五百円を水道工事費中に寄附されたり。



     [明治23年6月4日付鎮西日報]

      ●心事忘れ難し

        日下義雄氏が本県知事在任中に於て為したる治績はもとより一にして足らず。而して氏が一幅の方寸は意の如く内外国人を

       懐けたりといえども、独り長崎市水道工事の紛紜(ふんうん)に際し世人の不平はごうごう

       として氏が名声の跡を追尾せり。却って当時に於ける氏が心事は如何今日を以て之を見るに、実に不満に堪えざるものありしならん。

       且つ氏は間もなく非職となり遂に水道の竣工を見るに及ばずして去れり。その衷情もまた想い見るべきなり。

        然れども氏がこの地を去るや水道はすでに工事に取り掛かり、公借金の準備もまたすでに整えり。これを今日より回想すれば

       或いは一時の境遇より氏をして奇妙なる感覚を引かしめたる事あるも氏が大体の心事より見れば、或いは喜びを将来におくべき

       ものあり。

        聞く、氏は昨日故郷より一片の郵書を飛ばし、長崎市役所に水道公借金第二回払い込みの済否を問い合わせ来たりしと。

       今や水道工事はすでにその半ばを終わり半年を出でずしてまさに落成せんとす。好し氏をして此の現況を見るに及ばしめざるも

       氏が方案は永く西嵎崎陽の休賜となるべし。宜なるかな、氏が心事は実に忘れ難きものあるを。

 

     上の記事で、「休賜」とは恩恵という意味で、「宜なるかな」とは、もっともなことだなあ、という意味です。

    つまり日下義雄が上水道布設を推進したことは長崎にとって恩恵となるものであり、日下義雄が長崎の上水道布設を忘れ難く思っていることは

    もっともなことである、と鎮西日報は述べています。





     平成29年9月              

                     井深彦三郎の長崎訪問について


     井深彦三郎は、慶應2年(1866)7月2日、会津藩士 井深宅右衛門の三男として会津若松で生まれました。

    母親の八代子は西郷頼母近悳(ちかのり)の妹であり、このため、西郷頼母の養子 西郷四郎は義理のいとこにあたります。

    西郷四郎も彦三郎と同じ慶應2年生まれであり、二人は仲がとても良かったようです。

    井深彦三郎は、陸軍参謀本部支那課附将校 荒尾精の日中提携による西洋列強からのアジア保全・興隆の考え方に共鳴して、

     明治18~19年頃に荒尾精の門下に投じました。 

     明治19年(1886) 20歳の時、荒尾精陸軍中尉が参謀本部の命を受けて中国に渡り、漢口楽善堂の運営を前任の伊集院大尉から

    伊集院大尉から引き継いだのを機に、中国に渡りました。荒尾精や同志らと共に、漢口楽善堂を拠点として中国大陸の調査・情報収集

    活動を行っています。中国語が熟達すると、薬売り行商人となり、辮髪をし中国服を着て深く中国の奥地に入って人情風俗等を研究

    しましたが、これは諜報活動を目的に行っていたものと見られています。

    明治22年(1889)23歳の時、荒尾精が上海に日清貿易研究所を設立するため及び入学者募集のため日本に帰国すると、

    井深彦三郎も荒尾精に従って帰国しています。関東・北越・北海道・京阪の各地を遊説後福岡を経て、同年12月17日、長崎へ

    やって来ました。長崎滞在中、荒尾精は市内の学校を訪問して生徒募集を行ったり、商人集会所などで日清貿易に関する講演を

   行っています。井深彦三郎は荒尾精の秘書的なことをしていたのではないかと思われます。この時は日下義雄長崎県知事が知事を

    免職される直前であったので、同じ会津出身の日下知事とも会っています。そして、次の訪問先である熊本へ向けて同月23日

    長崎港を出港しました。熊本、佐賀、鹿児島の3県を訪問した後、再び明治23年1月15日に長崎を訪問し、同月27日夜

   鹿児島へ向けて出発するまでの13日間長崎に滞在しています。

     牧野登著 『史伝 西郷四郎』 によると、井深彦三郎は明治23年の春頃、講道館に在籍していた西郷四郎に鈴木天眼が書いた

    『新々長崎土産』と題する書籍を長崎滞在中に送り、その書籍に井深彦三郎が「あとがき」を書いて鈴木天眼という人物の

    とを西郷四郎に紹介しています。牧野登氏は西郷四郎がこの『新々長崎土産』と井深彦三郎の「あとがき」を読んだことが

    がき」を読んだことがきっかけで講道館を出奔し、一路長崎に来ることになったと書いています。

    ることになったと書いています。

     牧野登氏が推測している「明治23年の春頃」とは、明治23年1月15日から27日の期間だったと思われます。

    というのは、当時、長崎で発行されていた鎮西日報にはその後同年7月までに荒尾精と井深彦三郎が再び来崎したという記事が

    ないからです。ちなみに西郷四郎は同年6月21日に「支那渡航意見書」を残して講道館を出奔し、その足で支那渡航に便利な

   長崎に赴いたといわれているそうです(『史伝 西郷四郎』 138貢)。

     荒尾精と井深彦三郎が来崎した時の新聞記事を二つ紹介します。


   [明治22年12月21日付鎮西日報]

    ●荒尾精氏
    
       同氏は本紙前号に記せし如く一昨日長崎尋常中学校、長崎商業学校生徒へ日清

     貿易上の実際を説話し学業と実業との異同ある要点を教示せりという。昨日は日下

     知事その他の訪問を受け午後七時より福屋に赴き、滞崎中の県会議員に日清貿易

     上のことを説話したりと。夫れより本日は次項に記する如く長崎商人集会所にお

     いて貿易商等をも集め演説するよし。同氏へ随従せる人は長崎人田川善吉、東京人

     井深仲卿の二氏なるの井深氏は彼国内地に在りて実見に富み、傍ら書画の品評を

     も心得居るよしにて頭装は辮髪を垂れ居れり。  

   
   [明治23年1月28日付鎮西日報]
 
    ●荒尾精氏の出発

       日清貿易研究生勧募の件につき滞崎せし同所長荒尾精氏は随従員井深仲卿氏

      と共に昨夜朝日丸にて鹿児島へ向け出発せり。



                   





      
平成29年8月              

                  大堀哲先生が瑞宝小綬章を受章


        平成28年秋の叙勲が11月3日付けで発令され、長崎歴史博物館館長の大堀哲先生が瑞宝小綬章を受章されました。

       心よりお祝い申し上げます。

        瑞宝章は、「国及び地方公共団体の公務又は公共的な業務に長年にわたり従事して功労を積み重ね、成績を挙げた者を

       表彰する場合に授与する」とされています。今回、長崎県内から瑞宝小綬章を受章されたのは12名で、大堀哲先生は元国立

       科学博物館教育部長という肩書で受章されました。


        国立科学博物館組織規則によると、同博物館には8つの部が置かれ、教育部の所掌事務として、学生、生徒及び児童の

      自然科学及びその応用に関する知識・技術の学習に関して教育の事業や調査研究を行ったり、博物館その他これに類する

      施設の職員、教育職員及び青少年教育指導者その他の関係者に対し、自然科学及びその応用に関する知識及び技術の

      研修を行うこと、などが規定されています。

       大堀先生は社会教育関係の専門家としての経験を買われて、平成17年に長崎歴史文化博物館が開館される際、初代館長

      就任を要請され、現在まで10年以上にわたって館長に就任されています。在職中、博物館内で大堀館長自ら様々な講演を

      行って多くのファンを獲得され、大堀館長が講演されるとなると、いつも会場はたくさんの聴衆でいっぱいになっています。

      これまで長崎の歴史と文化の発展に大いに貢献されてこられました。

   

                                   



    
                     
大堀哲先生の略歴                          

               
                         昭和12年2月  福島県会津坂下町に生まれる。

                         昭和30年3月  福島県立会津高校卒業

                         昭和34年3月  東北大学教育学部卒業

                         昭和34年4月  文部省に入省。社会教育局に勤務。 

                                    国立科学博物館教育部長就任

                                     東京大学大学院教育学研究科助教授

                                    静岡大学情報学部教授
         
                        平成12年3月   国家公務員を定年退官

                        平成17年3月   私立常盤大学学長任期満了退任

                        平成17年7月~現在  長崎歴史文化博物館初代館長


          

       また、福島県会津坂下町ご出身の大堀哲 先生は、平成25年に 『ならぬことはならぬ』 という本を出版されました。

     第1章は「会津に咲いた大輪の花・八重桜~”会津のこころ”を貫いた山本八重の生涯~」について、第9章は「会津士魂を培った

     会津藩の教育」について、 第10章は「幼年教育の重視と『ならぬことはならぬ』」というタイトルで、読みやすく、興味深い内容と

     なっています。この本の印税はすべて、東日本大震災の復興のために寄付されたそうです。

  


                          
                       




         
追記
   
            大堀先生が8月4日午前0時20分、悪性リンパ腫のため亡くなられました。80歳でした。

            平成27年秋から療養されていたそうで、心よりお悔やみ申し上げます。

            先生は博物館学の権威であり、長崎歴史文化博物館の初代館長として運営に尽力され、来館者数は都道府県立の

            博物館としては全国トップクラスの地位を築くのに多大なる貢献をされました。大堀館長がわかりやすく解説される

            「大堀哲館長ミュージアムトーク」という講座は、いつも多くの市民が聴講に訪れるほどの人気講座でした。

            大堀先生が12年間長崎歴史文化博物館館長として勤務していただいたおかげで長崎学も大いに発展し、その

            ご功績に厚く御礼申し上げます。






     
 平成29年7月              

                 大村家の子孫の勝田直子氏が大村家資料を大村市に寄贈



          平成29年6月18日付けの長崎新聞に元大村市長の大村純毅(すみたけ)氏の次女、勝田直子氏(87歳)が、

         大村家に伝わる資料3000点を大村市へ寄贈されたことが掲載されました。

          勝田直子氏の母芳子氏は、会津松平家第12代当主松平保男 (旧会津藩主 松平容保公の七男) の最初の子として

         生まれており、松平容保公のお孫さんでした。昭和2年に東京で大村純毅氏と結婚しており、二人の媒酌人のうち一人は、

         会津出身の柴五郎陸軍大将でした。したがって、勝田直子氏は松平容保公のひ孫に当たられます。

          長崎新聞に掲載された内容が興味深いので、以下に要約してご紹介します。



          ○大村家

            大村家は、彼杵地方を中心に大村湾を取り囲むようにして土地を領有し、キリシタン大名大村純忠の頃に

           南蛮貿易で栄え、純忠の子の喜前が江戸幕府から2万7千石を与えられて初代藩主になった。大村家は

           廃藩置県によって東京へ移り、伯爵の地位を得た。戦後は子孫の大村純毅氏が大村市に戻って大村市長を

           務めた。

            戦国時代、島原の有馬氏の子である純忠は養子として大村家を継いだが、多くの家臣がこれに不満を持ち、

           反乱も起った。天正遣欧少年使節の一人千々石ミゲルは後に日蓮宗に改宗したが、藩主(大村喜前)に

           棄教を進言した。キリシタンだった大村純忠の存在は、日蓮宗に改宗した大村家の中でタブー視された。


         ○大村家の資料

            昭和40年代に大村純毅氏は大村家の資料約1700点を大村市へ預けた。娘の勝田直子さんは跡取りが

           いないとして、この資料と併せて計3172点を大村市に寄贈した。

            資料は古文書が中心で、他に杯やすずり、印鑑などの道具類、写真や絵画などがある。最古のものは、

           南北朝時代に足利尊氏が大村四郎という人物に宛てて、新田次郎攻撃を手伝うよう促した軍勢催促状である。

            資料は明治期以降のものが多いのが特徴で、天皇家や宮家から贈られた杯が多く残っていることから、

          大村市教育委員会は 「きちんと箱に納めて保管してあり、天皇との関係を大事にしていたのがわかる」と

           話している。

            また、新資料として、千々石ミゲルが藩主(大村喜前)に棄教を進言したという重要なことが記載されている

           「大村家秘録」 があり、この記述に関する原物資料はこれまで見つかっていなかった。藩主はその後にキリスト

           教を棄教しており、進言との関連など、今後の研究が期待される。


         ○大村家資料の数が他の大名家より少ない理由

            石高や数え方の違いがあるが、旧平戸藩主松浦家に伝わる資料は約3万点あるのに対し、大村家の資料は

           約3000点と大名家の資料としては少ない理由として、勝田直子氏は次の二つの理由を挙げている。


           1.大村純忠が有馬家から養子として大村家を継いだこと。このため大村家の家臣が不満を持ち、反乱が

            起った際に一部が消失した。

             また、キリシタンだった純忠の存在は、後に日蓮宗に改宗した大村家の中でタブー視され、そのため

            関連資料が故意に焼かれた可能性もあるという。

             寄贈された資料のうち、純忠に関するものは直筆の書状がわずか3通あるだけで、勝田直子氏は、

           「そういう先祖がいること自体を隠していたようだ」 と理由を話している。


           2.私立大村中学校の設立資金などを出資したこと。このため大村家の資産が減少したことから、後に

            家財道具などを売却したこと。

             当時、県立中学(長崎県立初等大村中学校のこと)が廃校し、子弟教育の行く末を案じた旧大村藩の

            人々が大村家に莫大な資金協力を求めたという。(ウィキペディアによれば、明治17年に旧大村藩主の

            伯爵家により私立大村中学校が創立されたそうです。後身の長崎県立大村高等学校はこの明治17年を

            創立記念日としているそうです。)



         寄贈された資料は、長崎県と大村市が大村市内に整備する新図書館に併設される「大村市歴史資料館」(仮称)に

        収蔵予定だそうです。

         上記長崎新聞によると、勝田直子氏は、「明治以後の特権階級の生活を研究するのに役立つのでは。活用してもら

        えればありがたい」と話しておられるそうです。






                     
                     
  平成29年6月18日付け長崎新聞




  
     
平成29年6月              

                    井深八重 について (2)


        今月も前月に続き、井深八重(1897 (明治30).10.23~1989 (平成元).5.15)をご紹介します。

      井深八重顕彰記念会発行の 『人間の碑―井深八重への誘い―』 から引用します。

   
  
       〇 数々の賞を受賞
    
        井深八重は下記のとおり数多くの賞を受賞したり、小説のモデルになったりしています。


        昭和5(1930)年7月   33歳   功労者として厚生大臣より表彰される。

        昭和8(1933)年8月21~23日 36歳  大阪放送局より、井深八重をモデルとした連続ラジオ・ドラマ
                                「ひとりしづか」放送。

        昭和10(1935)年2月  38歳   三井報恩会より優良社会事業従事者として感謝状を受ける。

        昭和24(1949)年6月 52歳     らい予防法施行40周年記念式典で、表彰状を授与される。

        昭和30(1955)年9月16日  58歳  第7回保健文化賞を受賞

        昭和31(1956)年       59歳  1月号「キング」誌に、八重を主人公とした「天国の門を叩く女性」
                               の記事発表される。

        昭和34(1959)年2月20日  62歳  バチカンにおいて、ヨハネ23世教皇より聖十字勲章「プロ・エクレジア・
                               エド・ボンティフィチェ」を受賞する。

              〃   10月21日       黄綬褒章を受章

        昭和36(1961)年9月26日  64歳  第18回フローレンス・ナイチンゲール記章を受章

        昭和38(1963)年1月~12月 66歳  遠藤周作、八重をモデルとした作品「わたしが・棄てた・女」を
                               発表する。(「主婦の友」誌1月号より1年間連載)

        昭和41(1966)年11月3日  69歳  宝冠章勲五等に叙せられる。

        昭和47(1972)年2月10日  75歳  社会貢献者として日本顕彰会より表彰される。

        昭和50(1975)年5月 2日  78歳  同志社大学より、松下幸之助とともに「名誉文化博士」の称号を
                               授与される。

             〃   12月29日         アメリカの週刊誌「タイム」に「マザーテレサに続く日本の天使」と
                               紹介される。

        昭和51(1976)年3月     79歳  「ハンセン氏病患者に一生を捧げる ”生きている聖人” 井深八重さん」
                                の記事発表される。(「女性セブン」誌) 

        昭和53(1978)年1月27日  81歳  昭和52年度朝日社会福祉賞を受賞する。

        昭和58(1983)年12月25日  86歳  NHK・TV番組「こころの時代―悲しみを越えて」に出演。

        平成4(1992)年11月22日   死後  「井深八重の生涯」 テレビ放映 (日本テレビ 「知ってるつもり」)。




                        
                         
同志社女学校専門学部英文科在学の頃 (20~21歳)







     
平成29年5月              

                     井深八重 について (1)


        前月この欄で井深彦三郎をご紹介しましたが、その娘である井深八重については、平成27年5月と6月にこの欄で

      ご紹介しました (「管理人より」アーカイブス」に掲載)。今回はその続きです。

    
   
      〇 (らい)病の疑いあり」と診断される

         明治22年(1889)に創立された日本初のらい病院である私立の神山復生病院に井深八重が入院したのは、大正8年(1919)

        7月10日です。らい病は現在のハンセン病のことで、ハンセン病は1873年(明治6)にらい菌を発見したノルウェーの

        アルマウェル・ハンセンという医師の名に由来します。八重をらい病の疑いありと診断したのは、「福岡の大学病院の医師」

        だったそうですが、八重がどこで診断を受けたかは明らかではありません。大正8年にあった福岡の大学病院といえば、

        九州帝国大学医学部附属病院のことと思われます。

         明治36年(1903)年4月に京都帝国大学福岡医科大学が開設されたのに伴い、福岡県立福岡病院は京都帝国大学福岡

        医科大学附属病院となりました。明治44年(1911)1月に九州帝国大学が設置され、同年4月、京都帝国大学福岡医科

        大学は九州帝国大学医科大学と改称されましたが、その附属病院も九州帝国大学医科大学附属病院となりました。

         大正8年(1919)4月に九州帝国大学医学部と改称されたのに伴い、附属病院も九州帝国大学医学部附属病院と改称

        されました。(九州大学のホームページより)

         井深八重は福岡市の九州帝国大学医学部附属病院を訪問して、そこの医師から診察を受けたのか、それとも九州帝国大学

        医学部附属病院の医師が長崎市の長崎県立長崎病院(長崎大学医学部附属病院の前身)あたりに出張して来て、そこで診察を

        受けたのかわかりません。ともかく、井深八重が静岡県にある神山復生病院に入院したのは、大正8年(1919)7月10日

        ですので、その直前にらい病の疑いありと診断されたのでしょう。



      〇 神山復生病院に入院

         井深八重顕彰記念会発行の 『人間の碑―井深八重への誘い―』 によると、当時長崎にいた八重を迎えに来たのは伯父と

        伯母の二人だったそうで、著者の牧野登氏は、井深梶之助と井深登世と推測しています。この伯父・伯母に連れられて八重は、

        神山復生病院に入院したのですが、行先は教えられていなかったそうです。また突然消えるように長崎を去ったために、

        友人や教え子たちはとても驚き、心配したようです。その辺の事情が 『人間の碑―井深八重への誘い―』 に記載されて

        いますので、次に紹介します。


         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


         『 生涯忘れることのできない日となったであろうこの日のことを、八重は、六十年後にはじめてつずった手記「道を来て」

          の中で、こう回想している。


          「― 何処へ行くとも教えられぬままに着いたところは、何となく、うす気味のわるいこれが人の住家なのだろうかと

           思われる、木立に囲まれた灰色の建物がたち並ぶ一角でした。やがて木立の間をゆくと、一軒の洋館があって、

           通されたのは院長室でした。黒のスータンに白髪温顔の外人は、初めて見るカトリックの司祭でした。

           『私が院長です』と挨拶され、付添の伯父伯母との会話の中から、ここがらいの病院であること、そして私が

           何の為にここにつれて来られたかを、初めて知った時の私の衝撃! それは、到底何をもっても、表現することは

           できません ―」


         そして、『一年位ここで静かに様子を見るように』と言い残して伯父伯母は去り、独り残された八重は、「きのうまで

        住みなれた生活環境と余りにも隔たりのある現状に、私は、悲痛な驚きと恐怖に怯える毎日でした」 と回想している。


          「―誰にも極秘の中に消えるように去った私でしたが、その居所を求めて友達や教え子からの手紙の束が回送されて

           来るたびに、私はその一つ一つをくいいるように読みふけり、人の心の温情に流せる限りの涙をながして、みずからの

               慰めともしていた幾夜かを過ごしました―」。このとき、「一生の間に流す涙を流し尽くした」という。 』


         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


       上記手記から、「らい病の疑いあり」と伯父・伯母たちには告げられても、八重自身は医師から直接告げられていなかった

      ことがわかります。どういう訳か知らないまま連れて行かれた病院で初めて自分の病名を知った時、八重がいかにショックを

      受けたか上記の手記で痛いほどわかります。

       長崎で英語教師として赴任して1年が経ち、その間友人ができ教え子たちから人気があった八重が忽然と長崎を去って行った

      ことに対して、友人や知人、教え子たちは皆どんなに驚き、心配したことか想像に余りあります。もう少し長く、長崎で英語

      教師として生活してもらいたかったと私も思います。



                       
                    
長崎県立長崎高等女学校英語科教諭時の写真(21~22歳)
               
          ( 『人間の碑―井深八重への誘い―』 より )




      
平成29年4月              

                       長崎を訪れた井深彦三郎


          『史伝西郷四郎』(牧野登著)によれば、東京の講道館に在籍していた西郷四郎は、明治23年(1890)の春頃、1通の小包郵便を長崎市に

       一時滞在していた同郷の井深彦三郎から受け取ったようです。その小堤には既に長崎市に住んでいた福島県士族の鈴木天眼が執筆した

       『新々長崎土産』という書籍と、井深彦三郎が書いた『あとがき』が同封されていたようです。牧野登氏は、西郷が『新々長崎土産』を読んで

       未知の長崎に想いを馳せらせるとともに、鈴木天眼という人物に強い関心と興味を抱き、さらに井深彦三郎の書面によって、以前から鬱屈し、

       逡巡していた大陸飛翔の手掛りと拠点を得た思いをしたのではないかと述べています。そして当時、長崎に滞在していた親友の井深彦三郎の

       存在が西郷四郎が長崎にやって来る何らかの意味で誘い水になったとも述べています。

         では、その井深彦三郎とはどういう人物だったのでしょうか。

         彦三郎は慶応2年(1866)7月2日(ウィキペディアには8月2日と記載されています)、会津若松に生まれました。父宅右衛門重義は550石で、

       幕末に会津藩の軍事奉行として京へ赴き、慶応2年に会津に戻って学校奉行となり、藩校日新館の校長になりました。

        彦三郎の母親は八代子と言い、西郷四郎の養父となった西郷頼母近悳の妹です。彦三郎の兄弟は男3人、女5人の計8人で、彦三郎は

        6番目にあたり、長兄の井深梶之助は後に明治学院総理となりました。

       娘の井深八重はハンセン病患者の救済に尽くしました。この井深八重は大正7年3月に京都の同志社女学校専門部英文科を卒業

       した後、4月に長崎県立長崎高等女学校の英語教師として赴任し、翌年6月末まで1年3ヵ月間、「教師心得」として在籍していました。

        以下、井深彦三郎について箇条書きにして経歴をご紹介します。



        経歴

         慶応2年(1866)7月2日         会津若松で井深宅右衛門の三男として生まれる。

         慶応4年/明治元年 (1868) 2歳    会津戦争が勃発し、会津若松城に籠城する。

         明治3年                斗南へ移住。

          明治?年                会津若松に戻る。

         明治?年                会津若松で小学校を卒業。

         明治16,7年頃(1883,1884)     上京し、築地の学校で英語を学ぶ。

                 17~18歳
         明治18年?~19年          陸軍参謀本部支那課附将校 荒尾精の日中提携による西洋列強からのアジア保全・興隆の考え方に共鳴し、

                             その門下に投じる。

          明治19年(1886)    20歳    荒尾精陸軍中尉が陸軍参謀本部の命を受けて中国に渡り、漢口楽善堂運営を前任の伊集院大尉から引き継いだ

                             のを機に、中国に渡る。荒尾精や同志と共に、漢口楽善堂を拠点として中国大陸の調査・情報収集活動を行う。

                             中国語が熟達すると、 薬売り行商人となり、辮髪をし中国服を着て深く中国の奥地に入って人情風俗等を研究した。

                             諜報活動を行っていたものと見られている。

         明治22年(1889)4月 23歳       荒尾精が上海に日清貿易研究所を設立するため及び入学者募集のため日本に帰国すると、井深彦三郎も荒尾精に

                             従い帰国する。

                             関東・北越・北海道・京阪の各地を遊説後、長崎に滞在。 

        明治23年(1890)   24歳      春、長崎から東京にいる義理のいとこの西郷四郎に鈴木天眼の書籍 『新々長崎土産』を送る。

             〃     6月21日      西郷四郎が「支那渡航意見書」を残して講道館を出奔する。その足で中国渡航に便利な長崎に赴いたといわれている。

                             長崎で西郷四郎と井深彦三郎が再会する。

            〃     9月前         上海に日清貿易研究所が設立されると、所長となった荒尾精や150人の学生より先に長崎から上海に戻る。

                            同研究所で日中貿易実務担当者養成等の事業に従事した。


       明治27年(1894)7月 28歳       日清戦争勃発。自ら志願して第一軍司令部の通訳官を勤めた。

       明治28年(1895)5月 29歳       台湾の初代総督となった樺山資紀の通訳官となって台湾に渡る。

       明治29年(1896)7月 30歳       荒尾精の妹テイと結婚。

             〃   10月30日      荒尾精が台湾滞在中、ペストにかかり満37歳で死去。

       明治30年(1897)10月 31歳      台湾で娘八重が生まれる。

       明治35年~36年頃            ロシアの満州進出により日露の風雲急を告げると、その筋の内命を受けてモンゴル探検隊を組織し、

                             モンゴルの砂漠地帯を横断してロシアとの国境に近いチチハルに到着。日本人旅館に滞在中、

                             ロシア軍に軍事探偵の疑いで捕縛され、ハルピンの監獄に投ぜられる。

                             同監獄に出入りする日本人洗濯婦の助けで、洗濯物の中に書面を入れて獄吏の眼を掠め、ようやく

                             急を日本総領事館に告げる

                             ことができた。その結果、北京の日本公使館とロシアとの交渉により、北京に帰還することができた。

       明治37年(1904)2月 37歳       日露戦争が起こると、陸軍の秘密計画である特別任務班に参加する。満州とモンゴルの隣接地帯

                             方面で馬賊の招集及び指揮に、任じ、一団の同志と共にロシア軍の腹背を脅かすべく決死の活動を行う。

           〃    7月 38歳       テイと協議離婚。

       明治38年?                特別任務班の活動が終了すると、満州軍総司令部附の通訳官となり、大山総司令官に従って各地に

                             転戦した。この時、通訳官として佐官の待遇を受けている。

       明治38年(1905)   39歳       9月5日に日ロ戦争が終結。その後、奉天将軍の趙爾巽(ちょう じそん)の顧問となる。日本政府や

                             陸軍当局が奉天将軍と  重要交渉をする際は、必ずその間に立って斡旋に努めた。

       明治40年(1907)3月 41歳       四川総督に就任した趙爾巽が奉天を去ると、そのまま奉天に残り、推されて奉天の日本居留民の

                             民団長となる。井深彦三郎の尽力により奉天に日本赤十字社の支部が設置される。

       明治45年(1912)5月 46歳        福島県郡部6区から第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選する。この時、福島県若松市区から

                             立候補した元長崎県知事の日下義雄も 約10年ぶり2回目の 当選をしている。

       大正5年(1916)4月4日 51歳      北京で死去。墓は東京の青山墓地にある。




                【参考文献】  牧野登著 『史伝西郷四郎』  昭和58年

                        黒龍會編 『東亜先覚志士記伝』 (下巻)  昭和41年(昭和11年発行の復刻版)    





     平成29年3月

                     西郷四郎について


       昭和43年に毎日新聞社長崎支局が出版した『明治百年 長崎県の歩み』という本に、西郷四郎について次のとおり面白い記事が記載

      されています。


       『 血の気が多く、けんかばやい四郎は長崎でも武勇伝を残したが、なかでも思案橋事件は、当時市中の話題をさらった。

        今籠町万歳亭(現・鍛冶屋町東亜閣)の小方定一がある夜、大酔した四郎をかかえるようにして、本石灰町から思案橋に

        さしかかると、大勢人だかりがしている。のぞいてみると人力車夫が6,7人の外人からふくろだたきにあっている。

        四郎は飛込んで車夫を助け起こし、小方に預けると、いきなり一人のえりがみをつかんで得意の山あらし、見上げるよう

        な大男が、ランカンを越えて川の中へ吹っ飛んだ。

        「ウオッ」外人たちは猛獣のようにほえて、いっせいに小男へおどりかかった。四郎が酔っているだけに、驚いた小方は

        当時鍛冶屋町にあった東洋日の出新聞社に天眼を呼びにかけこんだが、引返してみると、橋上には一人の外人の姿もなく、

        あっけにとられた見物人に囲まれて、四郎が一人ハカマのすそをはらっていた。壮絶な山あらしの連発に、外人は全員川の

        中へ投げこまれていた。』


      まさに、柔道家西郷四郎の面目躍如という感じがしますが、この事件はいったいいつ起きたんでしょうか? 本か何かに、当時この事件は

     新聞でも報道された、というようなことが書かれてあったような気がするのですが、何という本だったか思い出せません。

      もしそれが事実なら、いつの、何という新聞に報道されたのか、どなたかご存知ではないでしょうか。当時の新聞が長崎県立長崎図書館か

     長崎歴史文化博物館に保存されてあれば、見つけたいと思います。毎日新聞長崎支局の記者さんはどこからこの西郷四郎の武勇伝を収集され

     たのかと思います。

      牧野登氏も著書 『史伝西郷四郎』 (昭和58年)に、毎日新聞長崎支局刊の『明治百年 長崎県の歩み』から上記の内容を引用されておられます。

     新聞で報道されたとなれば、おそらく東洋日の出新聞にも掲載されたかもしれません。当時の記事を見たいと思いますが、いつの出来事なのか

     さっぱりわからないので、調べることができません。どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、教えていただけないでしょうか。

     よろしくお願いいたします。





                         
                           会津若松市の会津武家屋敷内に設置されている西郷四郎の像 (平成26年9月撮影)





     平成29年2月

                           古川春英の写真



        会津藩で医師として活躍した古川春英について説明した文献の中に古川春英が写っている写真がありました。下の写真がそれですが、

      「ボードウィンと古川春英」と記載されているだけで、どの人が古川春英なのかまでは記載されていません。おそらく、後列の日本刀を

      指している二人の日本人のうち、向かって左側の人ではないでしょうか。


                                




       写真が掲載されている文献というのは、『幕末・会津藩士銘々伝 (下) 』 (新人物往来社 2004年出版) です。

      「古川春英」(P205~211)の項 (長谷川和夫著) によると、古川春英は、北海道の箱館に会津藩の陣屋があり、陣屋詰めの医師として

      めざましい働きをしたそうで、彼の医術は神業と言われ、多くの人々から信頼されたそうです。後に古川春英の長男の源次郎が父の

      足跡をたどって北海道に行き、春英と親交のあったというラシア・ニコライという外人に聞いたところによると、彼は「あなたの

      お父さんは、肥った人でよく勉強する人、偉い人だった」 と語ったそうです。


       そこで、写真をもう一度見てみると、向かって左側から二番目の人物が体格がややふっくらしているように見えるので、私はその人が

      古川春英なのではないかと思います。

       何せ写真の写りが悪いで、顔立ちがはっきりしないのが惜しまれますね。ボードウィンは中央で腰かけている人物と思われます。

      すると、この写真は長崎で撮影されたものと思われます。上野彦馬が撮影したのかもしれませんね。


       春英はしばらくして箱館から大坂に出て、以前学んでいた緒方洪庵の適塾で再び蘭学を学んだ後、今度は長崎に行って、日本で

      最初の近代西洋医学病院である養生所(後に精得館と改称)でボードウィンから西洋医学を学びました。

      『幕末・会津藩士銘々伝 (下) 』 によると、長崎に来た春英は、たまたま下僕を探していた蘭医ボードウィンの家にもぐり込む

      ことができたそうです。ボードウィンとしても、一応基礎のできている春英は頼りになる存在だったようです。

       春英はここで水を得た魚のように生き生きと勉学に励み、彼の医術の腕は衆目の認めるところとなったそうです。


       戊辰戦争後の明治3年7月~10月、ボードウィンは明治政府の依頼を受けて東京大学医学部の前身である大学東校で講義をして

      いました。ボードウィンが東京に来ていることを知った古川春英はぜひ会いたいと東京に行く準備をしていたところ、折から若松で

      流行していたチフスの患者の治療中に自らも感染してしまい、この年11月7日に亡くなりました。43歳でした。


 
                           
                                ポンぺが描いた長崎の養生所の絵






     平成29年1月

                     吉雄耕牛の子が会津を訪問


       長崎市立の博物館であるシーボルト記念館では、「シーボルトと蘭学の家・吉雄家の人々」と題する企画展が現在開催されており、

      私も昨年末に見学して来ました。

       吉雄家は江戸時代、長崎で代々オランダ通詞を勤めた家柄で、吉雄耕牛(1724~1800)が最も有名です。

      耕牛は諱を永章といい、通称は定次郎で、後に幸左衛門、幸作とも称し、耕牛と号しました。オランダ語の通訳をするかたわら、

      出島のオランダ商館医から医学を学び、吉雄流外科を開きました。また、成秀館という塾を開き、蘭学を志す者が全国からここに

      学びにやって来ました。吉雄耕牛の生涯の門人は千人に及んだそうです。

       また1774年には、杉田玄白や前野良沢に依頼されて「解体新書」の序文を書いています。この序文が現在開催中のシーボルト

      記念館の企画展で展示されています。


       吉雄耕牛には少なくとも3人の息子がいて、長男・献作(永久)は医学を、次男・定之助は通詞と医学を、三男・権之助は通詞を

      受け継いでいます。しかし、他にも数名子供はいたようですが、名前はわかっていません。今回は次男・定之助について述べたいと

      思います。

       以下は、長崎史談会発行の『長崎談叢』第69輯に掲載されている「寛政十二年に会津に現れた吉雄幸左衛門と称する人物は誰か?」

     (沼田次郎著)から引用したものです。



       吉雄定之助は長崎会所の請払役 佐藤源七郎の養子になりましたが、後に吉雄家に帰り、オランダ通詞となって小通詞並に進みました。

      幕府の役人として長崎奉行のもとに置かれたオランダ通詞には、稽古通詞、小通詞並、小通詞、大通詞といったいくつもの職階に分かれ

      ており、定之助の父 耕牛は大通詞や通詞目付まで昇進しました。

       その父 耕牛(幸作)が通詞目付をしていた寛政2年(1790)にオランダ人が貿易の歳額を半減されたため、それについてオランダ人が

      提出した請書について誤訳があったとして、通詞目付吉雄幸作、大通詞楢林重兵衛、小通詞西吉兵衛の3人が責任を問われ、入牢を命じ

      られ、役職を免じられたうえ、5年の蟄居を申し渡されたそうです。そこで、定之助は父幸作が1日も早く牢から出られるよう、楢林

      重兵衛や西吉兵衛の子と共にオランダ通詞付けの筆者福縣藤九郎に依頼して100両の賄賂を山浦豊八という者に渡したことが発覚し、

      定之助ら3人は寛政5年(1793)3月、役職を免じられたうえ長崎払を命じられました。そこで、定之助は赦免される文化元年(1804)

      6月まで長崎を退去し他国で暮らしたものと思われます。文化13年(1816)には長崎に近い野母で遠見番をしていたそうです。



       さて、その吉雄定之助ではないかとみられる者が会津に行って、会津藩士並の待遇を受けています。会津藩が編集し発行した

      『会津家世実紀』という歴史書には、概略すると以下のことが記載されています。


        寛政12年8月11日(1800年9月29日)に、寿山と号す浪人吉雄幸左衛門が会津藩の家来同然となり、30人扶持となり、

       席次は御祐筆の上となった。吉雄寿山と申す医師は依然は幸左衛門と申し、親は吉雄幸作で当時は大通詞の上席だった。

        寿山も以前はオランダ通詞を勤めていたが、病気になったのを機に医師となり、江戸にまかり出で、清水様へ15人扶持の

       医師として召し出された。その後、願いのうえ職を辞し、会津の天寧寺温泉の話を聞いて痛所療治のため会津にやって来た

       のであるが、西洋の毛織や細工物、製薬などに通じていた。



        このため、会津藩は吉雄幸左衛門が長崎貿易への進出に役立つとして判断し、幸左衛門を長崎御用掛に任じて召し抱えました。

       しかし、吉雄幸左衛門は先年悪事を働き、このため彼の地(長崎)を出奔したという情報が江戸から会津藩へ入ったことから、

       享和元年8月11日(1801年9月8日)にわずか1年足らずで長崎御用掛を免じられ、会津藩家来同然の身分も取り消されています。

       『会津家世実紀』によると、吉雄幸左衛門は、18,19歳の頃から遊蕩の癖があり、莫大な金銀を消費して親の怒りに触れ、

       親の跡を継ぐことができなかった、これも若い折の行いで我ながら言語道断の至りと思うので、そのような風説が流れるのも

       もっともなことと思う、しかし私は公共の物はもちろん、他人の金をむさぼることは一切なく、幕府の法令に反するようなことも

       しておらず、ただ実家の金銀を際限なく消費して、盛んに遊興して回っただけである、今日に至っては妻子もおり、年齢も50歳に

       迫り遊蕩の癖も今や薄くなったので、以前の不行跡をもって誹謗を受けたからといって、辞めるつもりはございませんと弁明を

       述べています。



        この吉雄幸左衛門が会津に行った時期が吉雄定之助が長崎を退去させられていた期間と矛盾しないこと、長崎払いで浪人となった

       ため就職運動に際して高名な父や祖父の通称を一時僭称することはありえることから、会津に行った吉雄幸左衛門寿山を吉雄定之助と

       推定することは一応は可能であると、沼田次郎氏(1912~1994 熊本市出身。東京大学名誉教授) は上記『長崎談叢』第69輯

      (昭和59年発行)の論文で述べています。





                   
                        
長崎県警本部の場所にかつてあった吉雄耕牛の自宅跡


                   




                   




                   
                               
吉雄耕牛の肖像画



           平成28年12月             
                    ロシアのニコライ皇太子長崎訪問と北原雅長



         1.吉村昭の『ロシア皇太子の刺青』に描かれたニコライ皇太子

          『戦艦武蔵』・『ふぉん・しぃぼるとの娘』など長崎に関わりのある小説を書いた作家 吉村昭は、『ロシア皇太子の刺青』と

          いう文章も書いており、その原稿が長崎県立長崎図書館に保管されています。その一部が次のとおり書かれています。


           「皇太子ニコライは、明治二十四年四月二十七日、同行のギリシャ国ジョージ親王とともに、五隻の軍艦をしたがえた

          『アゾヴ゛ァ号』に乗って長崎の港に入った。シベリア鉄道のウラジオストック、ハバロフスク間の起工式に臨席する

          途中、日本に立ち寄ったのである。」


           「軍艦は入港し、接伴掛の海軍大佐有栖川宮威仁親王らが長崎に出迎えのため来ていたが、皇太子ニコライは上陸

           しなかった。ロシア王室のしきたりで、五月三日のロシア正教の復活祭まで一切の公式行事をおこなうことができな

           かったのである。

            そのため、有栖川宮が 『アゾヴ゛ァ号』におもむき、歓迎の辞を述べた。その席で、ニコライは、本国を出発して

           から天候にもめぐまれず不快な旅をして来たと言い、

           『それにくらべて、貴国に近づくと空は晴れ風も暖めで、日光がまばゆい。この長崎港に入ってくる時は、感動

           しました。四方の山々は、今まで眼にしたこともないしたたるような緑だ。全く別天地に来た思いでした。実に美しく、

           感嘆のほかありませんでした。』と述べている。」

      
           「二十二歳のニコライは、長崎の美しい風光を眼の前にして、非公式に上陸したいと願ったのである。」


      
          吉村昭は外交資料などに記載されたロシア皇太子ニコライの発言を上記のとおり紹介しています。


 
         2.長崎でのお忍び観光

           ニコライ皇太子は入港翌日の28日午後に、ギリシャのジョージ親王とともにお忍びで長崎に上陸し、江崎べっ甲店等に

          立ち寄って買い物をしてから、帰艦しています。29日も侍従1人とともにお忍びで上陸し、本籠町の陶漆器商本田藤三郎方で

          およそ200円ほどの買い物をし、西濱町の勧工場でもまた買い物をしてから帰艦しています。

           30日は午後、侍従武官1人とともに再び上陸し、上野写真屋に入った後、そこへ人力車を呼び寄せて、人力車に乗った姿を

          撮影させています。その後稲佐の悟真寺へ行きロシア人墓地を訪問しています。長崎寄港後、ニコライ皇太子は毎夜引き続き

          刺青師二人を艦内に呼んで両肘に龍の刺青を彫らせています。

           5月3日は夜9時過ぎ再びお忍びでジョージ親王らとともに稲佐に行き、丸山の芸妓を招いて宴会を催した後1泊し、4日朝

          4時頃帰艦しています。


                    

                        上野写真屋で撮影されたニコライ皇太子


        3.長崎での公式行事に出席

          5月4日が公式行事で、ニコライ皇太子は沿道でたくさんの市民の歓迎を受けながら大波止海岸から人力車に乗って県知事官舎に

         入り、有栖川宮威仁親王や中野健明長崎県知事らと歓談しています。午後は諏訪公園内の交親館で美術工芸品を観覧した後、同公園内

         にある丸馬場で長崎市主催の歓迎会が開催されています。

          そこで北原雅長市長以下市民有力者に対してニコライ皇太子は市民の歓迎に対する謝辞を述べ、松田源五郎市議会議長が市民を

         代表して挨拶を述べています。

          そしてニコライ皇太子は感謝の意を表するため貧困者教育費として磨屋町夜学校に金1000円を寄付しています。

         5月5日、ニコライ皇太子はロシア領事館に接伴委員長の有栖川宮や接伴掛長の川上操六陸軍中将らを招いて昼食を共にし、午後5時に

         長崎を出港して鹿児島に向っています。


       4.大津事件と北原市長の御見舞い

         ニコライ皇太子は鹿児島、神戸、京都を観光した後、5月11日に琵琶湖遊覧をした後、京都の宿泊ホテルに戻る途中、滋賀県大津で

        津田三蔵巡査から突然斬りつけられて重傷を負う大津事件が発生しました。斬りつけられた所は頭部の右こめかみに2ヶ所で、一ヶ所は

        長さ9センチ、もう一ヶ所は長さ7センチで深さは骨または骨膜に達するほどでした。明治天皇は13日にニコライ皇太子が宿泊して

        いる京都の常盤ホテルを訪問してニコライ皇太子を見舞っています。

         同日、ニコライ皇太子は明治天皇に伴われて神戸に戻り、アゾヴ゛ァ号に帰艦しました。一方、北原雅長長崎市長は事件発生を知ると

        12日直ちに御見舞いの電報を発した後、すぐに神戸に赴き、14日長崎市民を代表してニコライ皇太子を見舞っています。そして

        皇太子の侍従長に次の書面を差し出しています。



         「長崎市民代表長崎市長北原雅長謹で露国皇太子殿下の侍従長閣下に白す 過日殿下の長崎に御滞艦あらせらるるや

         優渥なる寵邁を賜り加之御発艦に際し県知事中野に命じて特殊の恩言を残されしは我長崎市民挙て感肝し奉る所なり

         爾来御途中の安全を祈り各地の傳信を得る毎に殿下の御健康を遥祝し奉りしに 一夕御負傷の凶報に接し悲嘆恐縮

         手足を措くに處なし 因て直に電信を発しナシモフ中将閣下に就き御機嫌伺奉りしも 市民の衷情止む能はず更に雅長を

         派して謹で慰問し奉り殿下の速に全癒あらん事を祈る 閣下頼に傳奏あらんことを誠恐誠恐謹言」

                                     ( 『長崎市制五十年史』 408~409貢)



         ニコライ皇太子は東京訪問予定を取りやめ、5月19日にウラジオストックへ向かって神戸を出港しています。

        ロシア皇太子の長崎訪問とその後の大津事件は北原雅長にとって生涯忘れられない出来事だったことでしょう。大津事件後すぐに

        御見舞いに駆け付けているところは、ニコライ皇太子の長崎滞在が9日間と長かったことも関係しているのではないかと思われます。

         なお、北原雅長は大正2年(1913)7月24日に亡くなりましたが、ロシア皇帝ニコライ二世(在位1894~1917)はその5年後の

        大正7年(1918)7月17日にロシアの赤軍によって家族ともども銃殺されてしまいました。皇太子時代に日本を訪問(1891年)

        してから27年後のことでした。

         大津事件後、5月16日付けの東京朝日新聞に『露国皇太子の御答辞』と題してニコライ皇太子の談話が次のとおり記載されて

        いますので、ご紹介します。



          「余貴国に着してより長崎、鹿児島其外神戸、大阪、京都等至るところ意外に鄭重なる歓待を受け、実に貴国人の厚誼に

           感じて心中愉快に堪へざりし折(から)、図らずも一昨日一狂人の為に軽傷を受けたれども、余が 陛下を始め貴国人民

           一般の厚誼を感ずるの情は難に(かか)る前と(ごう)も異なるところなし。幸に 陛下に於かせられても御安心下されたし

           又 陛下には遠路のところわざわざ御見舞下され、御厚情謝するに餘りあり。余が東京に赴くや否は目下本国へ伺ひ中

           なれば今より決定しがたけれども、(いよい)よ出京することあらば諸事御心添を(こう)ぶるべし。」 



         上の文章を読むとニコライ皇太子の寛大な心優しい気持ちが伝わって来ます。しかし、帰国後は日本人に嫌悪感を持つようになり、

        日本人を蔑視し、事あるごとに日本人を「猿」と呼ぶようになったそうです。とても残念ですね。




          参考文献

           吉村昭著 『ロシア皇太子の刺青』

           『長崎市制五十年史』 長崎市役所 昭和14年発行

           『長崎市制六十五年史 後編』 長崎市役所総務部調査統計課編さん  昭和34年発行

           『長崎談叢』第53輯 松浦直治著 「ニコラス二世の長崎訪問記」 昭和47年

           明治24年5月16日付け東京朝日新聞

          『大津事件(日本外交史外伝)』

          ウィキペディア 『ニコライ2世』


     平成28年11月              

                           古川春英が西洋医学を学んだ小島養生所



         江戸時代末期の医者で、会津藩の蘭学所教官を務めた古川春英は、1864(元治元)年37歳の時長崎に遊学して西洋医学を学びました。

        その学んだ場所が日本で最初の近代西洋医学教育病院である小島養生所です。正式名称は単なる「養生所」なのですが、小島郷の丘に建て

        られたことから長崎では一般に小島養生所と呼んでいます。また、江戸の小石川養生所にちなみ長崎養生所とも呼ばれています。

        この小島養生所は1861年9月20日(文久元年8月16日)に開院され、2階建の病棟が2棟あり、合わせて124ベッドありました。

         その他開院時には、大村町の医学伝習所がこの小島養生所の隣に移転し、医学所と改称されました。1865(慶応元)年4月に、この小島

        養生所と医学所は統合されて精得館と改称されています。

         小島養生所が設置された当時、初代頭取は松本良順で、養生所設置を幕府に要請したオランダ人医師ポンぺは教頭でした。1862(文久2)

        年にポンぺが帰国すると、彼に代わって教頭に就任したのが、オランダの軍医ボードウィンでした。古川 春英は1867年1月27日(慶応4年

        1月3日)に戊辰戦争が勃発して会津に帰国することになるまで、この小島養生所(精得館)でボードウィンから西洋医学を学びました。

        ここには寄宿舎が併設されていたことから、古川 春英もここで起居・生活を送ったことと思われます。

         なお、その後この地には佐古小学校が存在していましたが、2016(平成28)年3月末をもって閉校になり、現在解体工事が進められて

        います。

         4月1日に仁田小学校と統合されて仁田佐古小学校となった学校の新校舎がここに建てられることになっています。


                

                  旧佐古小学校近くに立つ小島養生所の看板                  中央の建物が小島養生所




                   

                   解体工事中の旧佐古小学校                     旧佐古小学校近くから市街地を望む







                 

                   旧佐古小学校運動場へ上る階段                  旧佐古小学校運動場と旧校舎




                        

                                 階段の斜面に立つ養生所跡の碑




                        

                             長崎大学病院の源流となった小島養生所の絵が描かれている。




                          


  




       
平成28年10月  

                              大村純鎮の正室留姫について(2)


         第9代大村藩主 大村純鎮 (すみやす 1759~1814)が、第5代会津藩主 松平容頌(かたのぶ)の養女 留姫(1760~1826)と結婚及び

        離縁したことについては、大村藩の藩政日記を集約した 『九葉実録』 という古文書に記載されています。この 『九葉実録』 は大村藩

        第4代藩主 純長(すみなが)治世の慶安3年(1650)から幕末の第12代藩主 純熙(すみひろ)の時代まで約230年間に渡る藩政日記

        を集約・編纂したものです。集約された理由は、藩政日記の量が多量になったことと、長年の保存で破損、雨漏れ、鼠害などにより内容が

        後世に伝え難くなったため、幕末になって藩の祐筆役が中心になって全64巻に編纂されたものです。

         この古文書64巻は平成6年、大村史談会の約8年に及ぶ解読の末に翻刻出版され、お陰で古文書が読めなくても、内容を理解するのに

        便利になりました。

         さて、大村純鎮松平留との結婚及び離縁についてですが、詳しくは記載されていません。離縁についてはわずか1行で終わっています。

        以下に、全文を掲載します。

  
        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

         安永五年

          (九月)十三日 公會津侯松平肥後守容頌 ノ女留子実ハ容頌ノ伯父靭負佐ノ女 ヲ娶ントシ、

           幕士長谷川太郎兵衛ヲ介シ請表ヲ呈ス

           十一月六日公江戸ニ至ル 十五日上営献物例ノ如シ 二十六日閣老等公召シ、教ヲ傳フ

           松平肥後守養女其方母方江引取置追而其方江婚姻相整度由願之通被仰付候

          (松平肥後守養女 その方母方へ引き取り置き、追ってその方へ婚姻あい整いたきよし、願いのとおり仰せつけられ候)

           十二月七日結納式ヲ行ヒ、夫人入輿ス 是歳様(※原文には木へんがありません)教寺請テ曰ク  自今貴邸ニ上ラハ

           客禮ヲ以テ待遇セラレヨト 之ヲ充ス

           六年丁酉正月九日公婚姻式ヲ行フ  十五日上営シ、紗綾二巻ヲ将軍ニ、銀二枚ヲ世子ニ献シ以テ謝ス

           此月新夫人ノ傳 両角数右衛門二五口俸ヲ賜ヒ番頭次班ト為シ、新夫人ノ用達西村幸助二三口俸ヲ賜ヒ中小姓ト為ス

          (三月)九日公江戸ヲ發ス


         寛政九年  

           十一月廿九日夫人松平氏大帰ス  以テ上告ス 


           ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


           ここで、大村純鎮と留姫に関していくつか箇条書きに整理してみます。

            ・宝暦9年 8月20日 [1759年10月10日]  大村純鎮が生まれる。

            ・宝暦9年12月11日 [1760年 1月28日]  留姫が生まれる。

            ・安永5年 9月13日 [1776年10月24日]  留姫を娶るため幕府に請表を提出

            ・安永5年12月 7日 [1777年 1月16日]  結納式が行われる。

            ・安永6年 正月 9日 [1777年 2月16日]   婚姻式が行われる。

            ・寛政9年11月29日 [1798年 1月15日]  大村純鎮と留姫が離縁
 

         結婚式を挙げたのは大村純鎮も留姫も共に満17歳の時であり、離縁したのは純鎮が満38歳の時、留姫が満37歳の時でした。

        したがって二人の婚姻生活は約20年~21年続いたことになります。「大帰ス」というのは、離縁して実家に帰ることをいうのだそうです。

        大村藩主の菩提寺本教寺にある大村純鎮の墓の事蹟にも夫人が大帰(ス)と書かれています。

       


                                   



    
    留姫の父 松平容章が1786年、母嘉代が1804年に亡くなっていますが、2人の墓が会津松平家の菩提寺の一つである江戸の実相寺にあること、

        また、留姫の墓も実相寺にあることから、留姫は会津までは帰らず江戸に留まったと考えるのが自然かもしれませんね。 


         なお、興味深い人物が挙げられています。「幕士長谷川太郎兵衛」という人は、池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」のモデルである長谷川平蔵宣以(のぶため)

        にとって本家にあたる人で、長谷川正直ともいい、旗本であり石高は1450石だったそうです。

        長谷川正直も長谷川平蔵宣以も江戸の火付盗賊改方の頭として活躍しました。長谷川正直が大村純鎮と留姫の結婚の仲介をした時は67歳で、この時、

        持筒頭という将軍を護衛する鉄砲隊の隊長を務めていたようです。火付盗賊改方頭を辞めてから10年経っていました。17歳の大村純鎮が67歳の長谷川

        正直と以前から知り合いだったとは考えにくいのでが、どういう縁で純鎮が留姫を娶るために長谷川正直が幕府に「請表」を提出することになったのか、興味が

        引かれるところです。

 
         両角(もろずみ)数右衛門という人が 「新夫人ノ傳」という役職に就任していますが、「新夫人ノ傳」(しんふじんのもり)というのは実家から付けられた

        養育掛又は警固役をいうそうです。ですから両角数右衛門は会津藩士ということになります。おそらく、用達の西村幸助という人も会津藩士だったでしょう。

        『会津イン東京』というウェブサイトの「幕末会津藩殉難者名」にも西村姓の者が12名記載されています。また、留姫には会津藩から派遣されたお側付きの女性も

        数人いたのではないでしょうか。


         大村に帰るため安永六年三月九日に江戸を出発していますので、結婚式は江戸で行われています。おそらく大村藩の藩邸で行われたことでしょう。将軍に献上

        した紗綾(さあや)というのは絹織物の一種で、光沢があるそうです。この時の将軍は第10代の徳川家治です。将軍への献上品が紗綾2巻で、世子へは銀2枚という

        のは少し質素な気がしますが、いかがでしょうか? 大村藩の財政力の程度を窺い知ることができるのではないでしょうか。


         最後に、留姫を離縁した理由について述べたいと思います。

        留姫を離縁したのは、寛政9年11月29日ですが、この年の『九葉実録』 の2月5日付には、大村純鎮から老中安藤信成あてに次のとおり

       上申書が出されたことが記載されています。


      
             (寛政九年) 二月五日閣老安藤對馬守二上申ス

             先達御届申上候私妾腹之男子春之進當拾五歳罷成候 

             弥丈夫相成候付嫡子仕候 此段御聞置可被下候
                
              以上

                    二月五日  大村信濃守
     

          つまり、自分の妾が産んだ春之進という男子が既に15歳になり、いよいよ丈夫になったので嫡子にしたいと言っています。

         その後、『九葉実録』に次のとおり記載されています。

    
              三月朔公江戸ヲ発ス  五日公子春之進君ノ嫡位ヲ正シ、且ツ諱純昌ト名ツクルヲ衆庶ニ告ケ、

              因テ自今世子ト唱ヘ、且ツ昌ノ字ヲ避ケシメ、又側室八重女ヲ殿ト唱ヘシム

  

          八重(鈎氏)という側室が産んだ子が世継ぎになるとともに、八重も「殿」と呼ばれるほど地位が上がったことで、娘二人が夭折して子の

         いない正室留姫は居心地が悪くなったのではないでしょうか。留姫が疎んじられるようになったのかもしれません。

         それで留姫の方から離縁の申し出があったのかもしれません。もしそうであれば留姫がなんとなく気の毒な感じがしますね。

         留姫は文政9年(1826)に66歳で亡くなりました。江戸にお墓があることから江戸で亡くなったものと思われます。

          なお、江戸時代、大名の正室や嫡子は人質として江戸に常住することと定められていて、各藩の江戸藩邸、それも上屋敷に正室と嫡子は

         居住していました。調べてみると、大村藩の上屋敷は現在の千代田区永田町の国立国会図書館の敷地にありました。したがって、留姫は

         大村純鎮と結婚して以来、一度も大村へは来たことがなかったと思われます。留姫のお墓が大村家の菩提寺のある大村市の本経寺になく、

         会津松平家の一つである東京・三田の実相寺にあるのは、大村純鎮と離縁したからでした。 
  
  
   
              参考文献: 「九葉実録」 1巻・2巻  平成6年  大村史談会発行
                 
                      「大村史話」  中巻     昭和49年 大村史談会発行  




     
  平成28年9月              

                         大村純鎮(すみやす)の正室留姫について(1)


         平成28年7月の『管理人より』でも少し紹介しましたが、第9代大村藩主 大村純鎮 (おおむら すみやす 1759~1814)の正室になった人は、
 
        初代会津藩主保科正之の六男 正容(まさかた 第3代藩主)の九男 容章(かたあき)の娘です。容章と側室 嘉代の次女として生まれ、名前は

        留です。留姫は宝暦9年(1759)12月11日に生まれ、その後、第5代会津藩主 松平容頌 (かたのぶ)の養女となって、安永5年(1776)12月7日

        に17歳で大村純鎮に嫁いでいます。

         文政9年(1826)に67歳で亡くなっており、お墓は東京都港区三田の実相寺にあります。


         私はどうして留姫のお墓が大村家の菩提寺のある大村市の本経寺ではなく、東京の実相寺にあるのか不思議に思っていました。インターネットで

        留姫について調べてみたところ、大村純鎮と離縁しているようです。『呆嶷館』 というウェブサイトの中の「資料、参考書籍」の「会津松平系譜」に

        第3代正容の系譜があり、「容章」のところに留姫が記載されており、離婚と記載されています。

        また、『花筐館』というウェブサイトの中の「葵の間」の「江戸大名系譜」に会津松平氏系譜があり、

        第3代正容の系譜の九男容章をクリックすると、側室嘉代との間にできた留姫についての記載があり、括弧内に離縁と記載されています。


         私は、今年7月初旬に本経寺内にある大村藩主大村家墓所を訪れ、第9代大村純鎮公のお墓を見学しました。墓所は石霊屋(いしたまや)という

        形式のお墓になっています。

  

                  

       
                               大村藩第9代藩主 大村純鎮の墓所



         左写真に見える建物が石霊屋と言われる形式のお墓ですが、この石霊屋の壁面に純鎮公の事蹟が刻まれています。  

        その中に留姫のことが次のとおり記載されています。


                「 公初娶會津侯容頌女為夫人生二女夭夫人後有故大歸 


         これによると、2人の女の子を産んだけれども早く亡くなったこと(夭折)、後に故あって帰ったことがわかります。会津には帰らず、 
 
        江戸に帰って生活し、そのまま江戸で亡くなって、会津松平家の菩提寺の一つである三田の実相寺に葬られたのでしょう。

         留姫の父親の容章(かたあき)公や母親の嘉代のお墓もこの実相寺にあります。また会津藩の藩祖保科正之の継室於萬や幕末の会津藩主松平容保の次女

         泡玉院のお墓もあります。父容章は1786年、母嘉代は1804年に亡くなっています。

          下の写真は純鎮公の石霊屋に刻まれている留姫に関する部分です。



                                    


  
  
         それにしても、わずか2万7973石の小藩ながら、大村藩主大村家の墓所は立派なお墓が多く、巨大なものもいくつかあります。

          小藩でありながら、このような規模の大きい墓所は全国的に異例と言えるのではないでしょうか。








          
平成28年8月              

                         
  長崎港水上飛行計画について


             
 夏ですので今回は水泳に関する話題を取り上げたいと思います。私の3番目の子供は小学校の頃、長崎游泳協会主催

            の夏季水泳教室に通っていました。8月になると長崎市民総合プールで行われる大名行列にもふんどし姿で参加したことが

            あります。また一度は、長与港から時津の砂浜まで5,6時間もかけて泳ぐ大村湾遠泳大会に参加したこともありました。

             1月3日には旧ねずみ島で行われる泳ぎ始め式にも参加し、終わった後はお母さんたちが作った豚汁を寒さで震えながら

            食べていました。

             長崎游泳協会の前身 瓊浦游泳協会は東洋日の出新聞社が母体となって明治35年(1902)8月に創立されました。

            「瓊浦」〈けいほ〉という名は長崎の古くからの別称で、「玉のように美しい」と言う意味で、「たまのうら」とも発音され

            ます。

             この瓊浦游泳協会の実質的な創立者は、当時、東洋日の出新聞社の社員であった西郷四郎と言われています。協会は大正元年

            (1912)に創立10周年記念事業として、長崎港の海上を飛行機で滑走させ上空へ飛び上がらせて一般大衆の観覧に供することを

            計画しました。まず海上飛行機の設計を当時の日本飛行界の権威である、福岡の陸軍連隊の日野少佐に依頼し、日野少佐が考案した

            エンジンを三菱造船所に発注しました。飛行機の機体はヒノキ材で組み立てられた木製のもので、操縦は日野少佐自らが行うことに

            なっていました。ところが、この事業は残念ながら大失敗に終わり、4千円の赤字を出したそうです。


             当時、民間人が長崎港で飛行機を滑走させるには長崎要塞司令官の許可が必要だったようで、西郷四郎は大正元年10月2日付で

            次のとおり 『飛行機滑走許可願』を要塞司令官宛に提出しています。




            「           飛行機滑走許可願


               今般当協会ハ創立十周年ノ記念トシテ飛行機ヲ作製致候ニ付、来ル十月五日ヨリ十五日迄ノ主ニ

              十日間港内浦上淵郷字鼠島ニ於テ一般公衆ノ観覧ヲ許シ、此ノ海上滑走ヲ相試シ度候間、御許可

              相成度此段願上候也  

                       瓊浦游泳協会代表者 西郷四郎


                         大正元年十月二日    長崎要塞司令官  横山彦六殿    





                           




            計画は見事に失敗したということが 『史伝 西郷四郎』〈牧野登著〉 に掲載されていますので、水上飛行機が海上を滑走して

           上空へ飛び立つことはなかったようです。この計画はおそらく西郷四郎が中心になって進められたものと思われますが、なかなか

           壮大なことを考えるものだと思います。



   
                  参考文献:牧野登著 『史伝 西郷四郎』  島津書房 昭和58年





       
  平成28年7月              

                               大村家と会津松平家の関わりについて



             初代会津藩主保科正之の六男 正容(まさかた 第三代藩主)の九男は容章(かたあき)という人ですが、20歳の時に分家が許されて

           1万石の当主になっています。宝暦9 (1759) 年12月11日、その容章と側室 嘉代との間に次女 留姫 (蓮受院)が生まれましたが、留姫

           第5代会津藩主 松平容頌 (かたのぶ)の養女となって、第9代大村藩主 大村純鎮 (おおむら すみやす 1759~1814)の正室になっています。

           文政9(1826) 年に亡くなっています。お墓は東京三田の実相寺にあります。

 
              時代が下って、旧会津藩主 松平容保公の七男 子爵 松平保男(まつだいら もりお 会津松平家第12代当主)の3男6女の第1子として

           生まれた長女 芳子は、大村純毅(おおむら すみたけ)と昭和2年12月19日結婚し、東京会館で披露宴を行っています。この時の媒酌人は

           大村出身の福田雅太郎陸軍大将と会津出身の柴五郎陸軍大将でした。大村純毅はこの年12月5日に陸軍砲兵中尉に昇進したばかりでした。

            昭和3(1928)年8月に長女 正子が生まれ、翌昭和4(1929)年11月には次女 直子が生まれました。正子と直子は松平容保公のひ孫になら

           れます。

             お二人の父親 大村純毅は昭和8(1933)年5月に大村家の家督を相続し、大村家第33代当主となりました。また、同年6月に父親の持つ

           伯爵の身分を継いでいます。

           昭和27年12月10日、49歳で大村市長選挙に当選し、第5代大村市長になりました。江戸時代、大村藩の藩主だった大村家の当主が大村市長に

           なったわけです。多くの市民が喜んだことと思います。昭和43年12月9日に65歳で市長を退任するまで4期16年大村市長を勤めました。

           現在の大村市庁舎は大村純毅市長が在任中の昭和39年10月に完成したものです。

             市長退任後の昭和45年には大村湾カントリークラブの初代社長に就任しています。昭和49年3月11日に大村市の名誉市民第1号の称号を

           贈られ、同年4月17日に71歳で亡くなりました。


             ところで、大村純毅は昭和46年5月会津を訪れましたが、芳子夫人の弟 松平保興の書いた手記によると、戊辰戦争の西軍戦死者151名が

           眠る融通寺を大村純毅は訪問し、大村藩士の墓を一つ一つ丁寧に参拝したそうです。市長在任中に会津から依頼を受けて贈った「大村桜」は

           大村藩士の墓の集まっている場所に植えられたそうです。春になれば、義兄が贈った大村桜が美しい花をいっぱいつけ、大村藩士の霊をいつまでも

           慰めてゆくことであろうと、松平保興は手記の最後に書いています。  (『大村純毅傳』)440~441貢)

             大村純毅・芳子夫妻のお墓は大村藩主大村家の菩提寺である本経寺にあります。


             昭和51年に発行された 『大村純毅傳』 には、昭和2年12月19日に撮影された大村純毅・芳子夫妻の結婚写真が掲載されています。

           芳子夫人はとても美人で気品が感じられます。また、昭和12年8月に大村純毅が日華事変出征を前に家族4人で撮った写真も掲載されており、

           白のセーラー服を着た正子・直子のあどけない姿がまたかわいらしいですね。記念に、この二つの写真を大村市立図書館でコピーしてもらいました

           が、著作権の関係でここにご紹介できないのが残念です。





             

               
     本経寺



      
                    




                    
                  
          第9代大村藩主 大村純鎮の墓所



 

            平成28年6月              
                                     大村藩の婚姻外交


                江戸時代、藩を維持するために養子の藩主を迎えたり、他藩の藩主の娘を藩主の正室に迎えることが数多く行われたようです。

              大村藩でもそうでした。以下、ウィキペディアに掲載されているものを紹介します。


             1.会津藩主の養女が大村藩主の正室になる

                会津藩では初代藩主保科正之の六男 正容(まさかた)が第三代藩主となり、姓を保科から松平に改姓しています。この正容

              九男が容章という人で、容章の長男は容詮(かたさだ)という人で、容詮の長男 容住(かたおき)が六代藩主となり、容住の次男

              容衆(かたひろ)が7代藩主になっています。

              容章の孫とひ孫が6代と7代の藩主になったわけですが、容章の娘が第9代大村藩主 大村 純鎮 (おおむら すみやす 1759~1814)

              の正室になっています。この正室になった人は第5代会津藩主 松平容頌 (かたのぶ) の養女でした。純鎮の長男の第10代大村藩主

              純昌(すみよし)の母はウィキペディアによると「均氏」と記載されていることから、純鎮の正室となった会津藩主の養女は残念ながら

              世継ぎを産んでいないということになります。正室に子供ができず、側室の子が跡継ぎになる場合が多いですね。


             2.大村藩主の子供が白河藩主となる

               第10代大村藩主 大村純昌の五男は白河藩の第4代藩主となった阿部正備 (あべ まさかた 1823~1874)です。

              第3代白河藩主の阿部正瞭 (あべ まさあきら)が亡くなったため、養子となって跡を継いだわけです。この第3代藩主も養子でした。

               そして、この第4代藩主 阿部正備の娘が第8代藩主阿部正静 (あべまさきよ 1850~1878)の二番目の正室となっています。

               阿部正静は慶応2年(1866)6月19日に第8代の白河藩主となりましたが、同日付で棚倉藩へ転封を命じられました。戊辰戦争では

              奥羽越列藩同盟に参加し、新政府軍と白河口で戦いましたが、敗れて降伏しています。戦後は東京へ強制隠居処分に処せられました。 

              この時、阿部正静はまだ18歳という若さでした。
   

             3.大村藩主の娘が真田藩主の正室となる

               大村藩最後の藩主 第12代の大村純熈 (おおむら すみひろ)の次女 隆子は松代藩最後の藩主 第10代の真田幸民の正室になって

              います。                             


             4.余談

               最近出版された『新編大村市史 第四巻近代編』 にとても興味深いことが記載されていますので、ご紹介します。


               会津戦争に加わった大村藩兵は、明治元年10月7日福島に着陣しましたが、大村藩士で新政府軍参謀の渡辺清は米沢から福島にやって

             来て大村藩隊と合流し、10月10日、大村藩兵とともに白石に北上した時、盛岡藩平定の報を聞いたため、福島に戻っています。10月14日に

             福島を出発して帰途に就きましたが、この時棚倉藩主の阿部正静と元白河藩主の阿部正備を警衛しています。阿部正備は第10代大村藩主

              大村純昌の五男であり、現大村藩主の純熈(大村純昌の十男)の実兄です。棚倉藩はこの関係を利用し、棚倉藩士が新政府軍の軍役夫と

             なることを条件に棚倉藩への救援を新政府軍参謀の渡辺清に依頼しました。

              渡辺清は元白河藩主の阿部正備が大村藩主純熈の実兄という由縁から正備への忠義は大村家の忠義と同じと見なし、棚倉藩の依頼を

             了解したそうです。
 
               なお、おそらくこの後でしょうが、棚倉藩主を強制隠居された阿部正静は阿部正備の実の娘を二番目の正室に迎えています。阿部正備は

              明治7年に52歳で亡くなりましたが、阿部正静は明治11年に28歳の若さで亡くなりました。

               阿部正静の正室となった阿部正備の娘はその後、京極高典の正室となり、最後は大久保忠礼の正室となりました。阿部正静はなんとなく

             悲劇のヒーローのような気がしますが、皆さまはいかがでしょうか。




 

         平成28年5月              

                                  柴五郎と佐世保要塞司令部


              会津出身の陸軍軍人 柴五郎(1860~1945)は、大正8年(1919年)8月に陸軍大将になり、同年11月に台湾軍司令官に進んだ後、

            大正10年(1921年)5月軍事参議官になり、大正12年(1923年)3月に予備役を仰せ付けられています。

              明治33年(1900年)3月、39歳の時に清国公使館の駐在武官となって北京に赴任しますが、山東省で発生した義和団が6月に北京に

            攻めて来た時は、8月に8ヵ国連合軍が北京に入城するまで各国軍が協力して公使館区域に籠城していますが、柴五郎中佐がこの籠城

            戦で実質的な指揮を執り、その奮闘ぶりは各国から称賛され、乱平定後各国政府から勲章まで授与されています。


              実はこの明治33年6月に陸軍佐世保要塞司令部が佐世保要塞砲兵連隊内に設置されています。日下義雄が長崎県令として赴任して

            来た直後の明治19年5月に海軍の鎮守府が佐世保に設置されることが決まり、明治22年7月1日に佐世保鎮守府が開庁するのですが、

            佐世保軍港を防御するために陸軍の佐世保要塞砲兵連隊が明治30年10月に設置されました。佐世保要塞司令部が設置された2ヶ月後の

            8月に庁舎が光月町に新しく完成したことから、司令部はそこに移転しています。現在、体育文化館が建っている付近です。初代佐世保要塞

            司令官は長州出身の山根武亮少将です。5代目の司令官として赴任したのが柴五郎少将で、明治41年(1908年)12月21日から明治42年

            (1909年)年8月1日まで就任しています。この要塞司令官という職は当時「ヨウナイ司令官」と蔭口をたたかれていた閑職だったそうで、柴五郎

            少将は佐世保勤務はに1年も満たずに、重砲兵第2旅団長として翌年8月下関へ転勤しています。下関へ赴任する途中、長崎市を家族で

            訪問しています。



                     
                        
     佐世保要塞司令部の庁舎
                               (『地図でみる佐世保』から掲載)




                     
                       
   明治43年頃の佐世保重砲兵大隊の写真
                               (佐世保要塞砲兵連隊の後身)
                             (『佐世保市史 軍港史編』 上巻から掲載)
                   


               参考文献

                   ウィキペディア 『柴五郎』

                   ウィキペディア 『佐世保要塞』

                   『佐世保市史 通史編』下巻   佐世保市史編さん委員会編  佐世保市発行  平成15年

                   『させぼ歴史散歩』 筒井隆義著 芸文堂 平成17年

                   『地図でみる佐世保』  平岡昭利編著 芸文堂 平成14年    
                     




 平成28年4月              
                           高津平蔵 ~対馬を訪れた会津藩士~

                            

   高津平蔵は佐藤覚左衛門信庸の第4子として天明5(1785)年に生まれています。名は泰、字は平甫といい、通称は平蔵です。

  後に、淄川と号しました。「淄」という字は「溜」の字の異体字です。
実父の信庸が樋口家から佐藤家の養子となったように、平蔵も

  高津伝吾成良の養子となって、高津家を継いでいます。一時期、実父の旧性樋口を名乗ったこともありました。母親は長崎に遊学して

  王義之の筆法を清国人から学んだ会津藩の書家の加賀山蕭山の妹です。 
                                                                        

   文化5(1808)年、25歳の時に北方警備のため、家老北原采女に従って樺太に9ヵ月間派遣されていますが、その時の記録として、

  『終北録』を著しています。これは会津藩の樺太出兵に関する唯一の記録になっています。


     文化8(1811)年、28歳の時に高津平蔵は、藩命により幕府の学問所である昌平坂学問所(昌平黌)に入学して、林大学頭述斎や

  古賀精里に師事し、朱子学を学んでいます。古賀精里は佐賀藩出身の儒学者で、佐賀藩多久出身の儒学者 草場佩川も同じ時期に、この

  昌平坂学問所で古賀精里から学んでいます。 


   この文化8(1811)年3月29日、江戸時代最後となる朝鮮通信使の一行が対馬にやって来ました。応接のため日本側の使者が対馬に

  派遣されましたが、林述斎や古賀精里に随行して高津平蔵と草場佩川も対馬に赴いています。草場佩川はこの時の記録として
絵入りの

  『津島日記』を著していますが、高津平蔵と共に行動した様子も記述しており、平蔵のことを「樋口」と記述しているところがあるところ

  から、平蔵はこの頃はまだ高津家の養子にはなっておらず、樋口姓を名乗っていたものと思われます。

    実は、高津平蔵と草場佩川はこの時、朝鮮の使者との筆談による通訳を務めていました。古賀精里や朝鮮通信使の製述官 李顕相(号は太華)

  らが著し、草場佩川が編纂した『対礼餘藻』
の中で李顕相は、

       「 両位少年高士孰是淄川誰為珮川 」

           (両位の少年高士、孰れが是れ淄川、誰をか珮川と為す)

   と二人のことを記述しています。また対馬で林述斎の通信使応接の代行を務めた松崎慊堂が著した『接鮮瘖語』という書物の中で、製述官

  李顕相の言として、古賀精里と高津平蔵、草場佩川のことを次のように称賛しています。


        「昨、病枕に於いて、精里公の詩文を見るを獲たり。其の学術文章、俱に極めて超詣、従者の諸詞伯も亦た皆な翩翩と

      して凡庸の才格に非ず。何ぞ其れ盛んなるや。」
  



   「超詣」(ちょうけい)とは造詣抜群なことをいい、「翩翩」(へんぺん)とは筆勢が軽妙な様子をいいます。 (高橋博巳著 『草場佩川』 31)

   6月25日、朝鮮通信使一行が対馬府中を出港するのを見送った後、7月2日には高津平蔵と草場佩川は有明山を越えて佐須郷に

  ある廃寺で朝鮮仏像を見学し、小茂田へ行って、蒙古軍と戦って戦死した宗助国公の碑を見学しています。

  対馬を出航したのは7月4日でした。対馬に2ヶ月間滞在した高津平蔵は後に『対遊日記』を著しています。

     高津平蔵は学識が豊かで、詩文にも優れ、佐賀藩の草場佩川と並び東西の「儒者二川」と称されました。また、藩校 日新館の

  教授として多くの子弟を育成するとともに、松平容衆、容敬、容保の3代の藩主の侍講も務めました。 
 

     嘉永6(1853)年に吉田松陰が会津を訪れた時、海防などに詳しい高津平蔵は松陰に教えを授けています。慶応元年10月20日に

  病のため81歳で亡くなりました。

     なお、高津平蔵の次男 高津仲三郎は戊辰戦争後、会津にできた新政府の役所である民政局の役人となって会津の人々を苦しめた旧越後

  藩士の久保村文四郎を束松峠で伴百悦、井深元治らと共に斬殺しています。
 


        参考文献

       高橋博巳著 『草場佩川』 2013年 佐賀県立佐賀城本丸歴史館

        
辛基秀・仲尾宏編 『善隣と友好の記録 体系朝鮮通信使 第8巻』
1993年 明石書店

       佐賀大学電子図書館・『津島日記』、『対礼餘藻』

        ブログ 『福島の歴史物語』

        ウェブサイト 『会津の著名人』



 平成28年3月    

                                 北原雅長と歌集について
               


  初代長崎市長の北原雅長が序文を書いた歌集が長崎歴史文化博物館に保管されています。印刷されたのは明治24年(1891年)で、この時は

 北原雅長にとって長崎市長就任3年目の年にあたり、満49歳の時でした。この時期、北原は既に立派な歌人になっていたようです。薄い冊子のこの

 歌集の名称は「花かつら」というもので、当時の長崎で第一の歌人と言われた中島広行が80歳になったのを祝って印刷されたもので、中島広行の

 大勢の弟子たちが詠んだ短歌などが掲載されています。長崎県内の歌人の作品以外にも北海道や東京、京都、熊本など全国から作品が寄せられ

 ています。

  では、中島広行とはいったいどういう人物だったのでしょうか? 「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に紹介されていますので、紹介します。

  
   中島広行 なかじま-ひろゆき

    1817-1900 幕末-明治時代の歌人、神職。

    文化14年生まれ。肥後(熊本県)で長瀬真幸に、長崎で中島広足(ひろたり)に国学をまなび広足の養子となる。慶応4年長崎府国学

    教授方取締助教、ついで広運館本学局教授となる。明治28年長崎諏訪(すわ)神社宮司(ぐうじ)。明治33年2月8日死去。84歳。肥前

    島原(長崎県)出身。本姓は植木。初名は隼太。
 

  上のデジタル版日本人名大辞典には紹介されていませんが、中島広行は国見町多比良の出身です。明治24年で80歳になっているので、明治33年

 (1900年)に亡くなった時の年齢は89歳のはずですが、どちらが本当なのかわかりません。ひょっとしたら84歳で亡くなったのであれば明治29年

 (1896年)に歌集が出版されたのかもしれません。この歌集の最後に中島広行が後書きを書いているのですが、それによると、明治24年80の祝いとして

 歌集が出されたと述べています。

  それでは、北原雅長の数少ない資料でありますので、北原が書いた序文を全文見てみましょう。句読点はおろか濁点もなく、とても読みにくいので、

 文と文の間にスペースをおいて記載します。


     「 今の世にあたりて學識のいみしき徳行のめてたき齢のたかき天の下廣しといへと中嶋の翁はかり嬉しきはあらし こたひ

      翁の八十の賀せんとて教子達の催されたるに遠き國々よりおくりこしたる祝の詩歌書画よみ見れは八百八十八のおほきに

      いたりぬ こはやかて翁の經へき齢のかすにやあらむ 翁もよろこひにたへすや

             いろいろに匂ふことはの花かつら萬代かけて翁さひせん 

       どうたはれたるも狩衣の袂露けく見ゐたるなかなかにけふの催主の面目とやいはむ さはかり廣きおましにあまる人々

       物の音しろへ舞ひかなてたる たれも千代經へきここちそせらるる其詩歌巻に作り花かつらと名付たりと聞てうれしさの

       あまり書そへぬ

                        北原雅長      」


   この歌集には北原雅長の作品も掲載されています。私にとって意外だったのは、北原雅長の歌のすぐ隣に金井俊行の作品が掲載されていることです。

 金井俊行は明治22年(1889年)の初代長崎市長選挙では北原と争った人物で、その時は長崎県知事の日下義雄とともに長崎に上水道を敷設しようと

 した長崎区(長崎市の前身)の区長でした。選挙では争っても同じ歌人仲間だったようです。

  北原雅長と金井俊行の短歌を掲載しておきます。


          すかの根のなかき春日の長かれとねかふは君か齢也けり     北原雅長
 
          玉園の宮居とともにいやなかなか君か齢をいはひつるかな     金井俊行



  プライベートな話になりますが、私も新年の目標として短歌を始めようと思い、まずは百人一首から覚えようと思って本を購入して覚え始めたのですが、

 まだ最初の4つしか覚えていません。 これでは100覚えるには時間が相当かかりそうです。


 平成28年2月    

                                山川健次郎の長崎訪問
               

    1月27日付の西日本新聞に 『九大初代総長の日記発見 近代教育の礎築いた山川健次郎 九州各地の視察裏付け』 という見出しの記事が

  掲載されました。昨年2月に研究者が山川健次郎の子孫の家で約200ページの健次郎直筆の手帳を1冊見つけたもので、その中には、明治40年

  1月~2月と42年2月に九州を訪れた時の日記も含まれているそうです。

   当時、山川健次郎は九州工業大学前身の私立明治専門学校の設立準備を行っていましたが、文部省の教員評価などにも携わっていたそうで、

  明治40年1月~2月に大分と宮崎を除く九州各県の学校を視察して回っています。

   1月27日付けの西日本新聞には、長崎での様子も紹介されており、長崎高等商業学校 (後の長崎大学経済学部)を訪問した際、隈本(くまもと)

  校長から予算が増えれば生徒も増やせるという趣旨の提案に対して、現在専門教育機関が不足しているので、ぜひ決行したいと賛同したそうです。  

   当時の新聞記事によると、山川健次郎は明治40年1月20日から25日まで5泊6日の行程で長崎県を訪れています。

  行程は次のとおりです。

   
    1月20日  午後6時頃熊本から長崎市に到着。平戸町(現在の万才町)の伊崎屋に宿泊。

    1月21日  午前 長崎県立長崎中学校を視察、講演を行う。 

            午後 長崎高等女学校を視察、講演を行う。 

    1月22日  午前 長崎県師範学校を視察、講演を行う。 

            午後 長崎高等商業学校の校長から懇請され、同校を視察。その後、大村の長崎県立中学玖島学館

                (県立大村高校の前身)を視察、講演を行う。

    1月23日  平戸の長崎県立中学猶興館(県立猶興館高校の前身)を視察。

    1月24日  平戸滞在

    1月25日  平戸を発って、佐世保経由で佐賀県を訪問。
               

               
   なお、県立長崎中学校、長崎高等女学校 長崎県師範学校での講演は、東洋日の出新聞や長崎新聞に連日掲載されていますが、私のこのホーム

  ページの「山川健次郎」の項に紹介していますので、ぜひご覧いただければと思います。

   明治40年1月26日付けの長崎新聞には、山川健次郎の発言として、「近頃、わが国の中学校では教員も生徒も中等教育の目的を偏解しているから

  困る。中学校の教員は中学校の目的を全く高等学校入学の準備所と心得ている。中学校は完全なる国民を養成する所であって、その傍ら高等学校入学

  の準備所であることを了知してもらいたい。」と述べたそうです。

   山川健次郎の講演内容のうち、女学校で述べた恋愛論や女子教育についての考え方は非常に興味深いものがあります。




             

                              明治40年1月22日付 東洋日の出新聞





 平成28年1月    

                                   長崎會津会発足
               

    昨年6月20日、幕末・明治期に長崎で活躍した会津出身者の功績を広く長崎県内外に紹介するとともに、長崎と会津のかけはしとなることを目的と

  して長崎に長崎會津会という団体が誕生しました。白虎隊の会長崎支部(工藤新一支部長)を母体にして発足したもので、会長に大堀哲長崎歴史文化

  博物館館長、顧問に木下健長崎総合科学大学学長が就任されています。

   大堀会長は福島県の会津坂下町のご出身で、平成17年11月3日に開館した長崎歴史文化博物館の館長に当初から就任されています。

  木下健顧問は山川健次郎のひ孫にあたられ、昨年3月東京大学教授を定年退官された後、翌4月から長崎総合科学大学の学長に就任されています。

    昨年6月20日、長崎會津会の発足と木下健氏の長崎総合科学大学学長就任を記念して 『長崎と会津をつなぐ絆』 と題する講演会が開催されました。

  まず、工藤新一白虎隊の会長崎支部長が『長崎の中の会津』と題して日下義雄初代長崎県知事や北原雅長初代長崎市長、柔道家西郷四郎など会津

  人が長崎でいかに活躍したかについて紹介がありました。

  その後、白虎隊の会本部の副会長で長崎會津会の顧問である木下健氏が『私が聞いている山川家の人々』と題して、大河ドラマ「八重の桜」で活躍した

  山川大蔵や弟の健次郎など山川家の人々についてご紹介いただきました。講演の中で山川健次郎は東京帝国大学や京都帝国大学の総長の他、九州

  帝国大学の初代総長や九州工業大学の前身である明治専門学校の初代総裁にも就任しており、九州とも縁が深い人物であったことが紹介されました。

   そして、長崎會津会は12月5日に、『長崎と会津をつなぐ絆』2回目の講演会を開催しています。近代統計学の祖 杉享二と南洋の砂糖王 松江春次の

  ご子孫である松宮伊佐子氏が 『長崎と会津をつなぐ私の家族たち』 と題し、また松宮克昌氏 (松宮伊佐子氏の御主人) が 『近代統計学の祖 杉享二伝』

  と題して講演されました。杉享二(すぎ こうじ 1828~1917)は長崎の出身で、胸像が長崎市の長崎公園内に建てられています。松江春次(1876~1954)は

  旧会津藩士 松江久平の次男として会津若松で生まれています。松江春次は南洋興発株式会社を設立し、サイパン島やテニアン島に製糖工場を作るなど

  して南洋群島最大の企業として発展させ、その経営手腕から「砂糖王」と言われるようになりました。松宮伊佐子氏は、杉享二と松江春次のご子孫にあたられ、

  長崎人と会津人の血を引いておられます。なお、松江春次の兄 松江豊寿は第一次世界大戦中、ドイツ人捕虜を収容した板東俘虜収容所(徳島県鳴門市)の

  所長だった人で、映画『バルトの楽園』で一躍有名になりました。 

    長崎会津会は同じ12月5日に、長崎で活躍した会津人に関係のある史跡巡りを行った後、日下義雄の最初の妻 可明子夫人のお墓の清掃を行っています。



               

                             杉享二の胸像



                
             
                            西郷四郎のお墓を訪問



               

                          日下可明子夫人のお墓を清掃



平成27年12月    

                       米内光政と佐世保
               

  米内光政(明治13年(1880)-昭和23年(1948)は海軍軍人で、連合艦隊司令長官、海軍大臣、内閣総理大臣になった人ですが、出身は岩手県の

 盛岡です。盛岡と言えば慶応4年(1868)5月に成立した奥羽越列藩同盟に盛岡藩も参加しています。

  そして同年8月、盛岡藩は奥羽越列藩同盟を離脱して新政府軍に寝返った久保田藩(秋田県)へ攻め込むのですが、9月25日に新政府軍に降伏

 しています。米内光政の父親は盛岡藩の貧乏士族出身です。
 
  米内光政は昭和12年(1937)2月から昭和14年(1939)8月までの海軍大臣在任中、山本五十六次官とともに、陸軍が進める日独伊三国軍事同盟

 締結に反対し続けます。この同盟を締結すると米英を敵に回すことになり、米英と戦争しても日本に勝ち目はないことを十分知っていたからでした。

 陸軍に味方する右翼によって暗殺される危険があったのですが、大臣在任中はずっと同盟締結に反対し続けました。そして米内は昭和19年(1944)

 7月から昭和20年(1945)11月まで2回目の海軍大臣を経験するのですが、この在任中に戦争終結に尽力します。ポツダム宣言後、原爆が投下されたり

 ソ連が参戦しても陸軍などは本土決戦を主張するのですが、米内は最高戦争指導会議で本土決戦に反対し続け、最終的に天皇が戦争終結の決断を

 して終戦を迎えました。

  実は米内光政は佐世保と縁があり、三度も佐世保に勤務しています。最初は中尉時代の明治37年に佐世保鎮守府附となり、日露戦争の最中、

 佐世保の丸善醤油の古賀家に宿泊していました。おかげで醤油の作り方を覚えたそうです。二度目は中佐の時で佐世保鎮守府の参謀でした。

 三度目は中将時代の昭和8年(1933)に佐世保鎮守府司令長官に就任しています。佐世保や長崎の芸者たちに人気があり、よくもてたそうです 。

 (阿川弘之著 『米内光政』)  また、米内は大正13年(1924)、大佐時代に戦艦「陸奥」の艦長になりますが、当時「陸奥」の母港は佐世保になって

 いました。陸奥といえば、微量の放射線漏れを起こして問題扱いされた原子力船「むつ」が思い起こされますが、佐世保で修理されたのも、かつて

 「陸奥」が佐世保を母港としていたことと関係があるのかもしれませんね。

  昭和14年、米内が海軍大臣時代に、佐世保銀行と佐世保商業銀行が合併することになった時、佐世保に縁の深い米内大臣に 名づけ親になって

 ほしいとの依頼があり、米内は「親和銀行」という名前をつけてやったそうです。現在も親和銀行本店内に米内直筆の「親和 光政書」と書かれた額が

 飾られているそうです。

  米内光政は佐世保鎮守府司令長官として赴任する途中に持った記者会見で、記者たちに次のように語ったそうです。

  
   「僕は実際、佐世保を郷里のように思っている。今度も、佐世保へ来たというより佐世保へ帰ったという気持だ」


 確かに、佐世保は人情の篤い所という気がします。佐世保の商店で買い物をする時にたびたびそう感じたことがありました。

 米内光政は昭和天皇の戦争反対のご意思をよく理解していたため、昭和天皇から深い信頼を寄せられていたそうです。

 盛岡市にある盛岡市先人記念館には米内光政記念室が設けられており、昭和天皇から下賜された硯箱なとが展示されています。


 参考文献: 阿川弘之著 『米内光政』



平成27年11月    

                     東洋日の出新聞社で活躍した西郷四郎
               

  東洋日の出新聞は明治35年 (1902)1月1日長崎市において創刊されていますが、『史伝 西郷四郎』 (牧野登著) によると、 

 発行人鈴木力 (天眼)、編輯人西郷四郎、印刷人丹羽末広だったそうです。長崎県立長崎図書館で創刊当初の新聞を見たいと思って

 同図書館郷土課を訪れたところ、明治35年の1月と2月の同新聞は当館にはないということでした。そこで3月の東洋日の出新聞を見たところ、

 第1面にはまだ発行人、編輯人、印刷人は記載されていませんでした。4月も同様ですが、4月5日の記事に 「神保修理の事」、

 4月8日の記事に 「神保修理」 と題して第1面に旧会津藩士のことが紹介されていますが、創刊間もないこの時期に旧会津藩士のことを

 紹介しているのは同じ会津出身の西郷四郎の意思が働いていたのではないでしょうか。このウェブサイトの 「神保修理」 の項にこの2つの記事を

 掲載していますが、これを見ると第1面にはまだ発行人、編輯人、印刷人が記載されていないことがわかります。

  翌年の明治36年3月1日の新聞第1面を見ると、発行人鈴木力、編輯人尾池義雄、印刷人丹羽末広と記載されています。この尾池義雄という

 人物は創立社員10人のメンバーに含まれていません。

 このウェブサイトの 『西郷四郎の記事』 の項に明治36年11月10日の新聞を掲載していますが、これを見ると発行人鈴木力、編輯人福島熊次郎、

 印刷人丹羽末広となっていて、編輯人だけが代わっています。この時期は西郷四郎は朝鮮と清国との国境の都市義州に特派員として派遣されて

 います。

  いつからかは調べていないのでわかりませんが、明治38年に東京帝国大学総長を辞任した旧会津藩士の山川健次郎が明治40年1月に

 長崎を訪問した時、東洋日の出新聞は連日山川健次郎の講演内容を紹介していますが、この時の第1面には発行人兼印刷人西郷四郎、

 編輯人福島熊次郎と記載されています。

  西郷四郎は新聞の発行や編輯・印刷に関わるばかりでなく、新聞記者として日露戦争直前の朝鮮や辛亥革命勃発時の中国から記事を送って

 いますが、長崎にいる時にもしばしば記事を書いています。明治36年3月4日の夜、長崎駅で巡査1名と車夫1名が刃物で殺害されるという県下を

 騒がす事件が起こりましたが、東洋日の出新聞は連日この事件を報道しています。多良岳に逃げ込んだ犯人を追って警官100名が捜索に

 繰り出されましたが、西郷四郎も特派員として諫早に派遣されています。

  3月9日の新聞に 『兇賊追跡の特派』 と題する記事が掲載されていますので紹介します。

 
  「長崎県下をさわがしたる今回の兇賊は深く多良岳の奥に遁れたりとて、警部長署長を始め百名の警吏該方面に繰出し、

   草を分けても探し出さんといきまくその苦労や誠に多とすべく、実に近来の大珍事たり。これについて本社は昨朝あたりは

   兇賊就縛の報に接すべしと期待せし所、待てどもその報に接せざるより、ここに社中の一名を選抜し兇賊の追跡に任じて

   各警吏苦心の実情を視察し、場合によりては危地をも踏む事に決しすなわち昨午後の汽車にて右選抜されたる特派員

   西郷四郎氏は諫早方面へ急行したり。

   しかる所午後4時5分諫早発にて西郷特派員は左の電報を送り来る。


          嬉野彼杵方面へ逃れたる形跡有り今より行く


   これによれば賊は山中より脱し里に出でたるものと見ゆ。果たしてこれがため彼の天網にかかる事を早むべきか否か

   いずれ後報を待つ外なし。」

  
  そして3月14日と15日の2回に分けて、『怪賊追跡行』と題する記事が西郷四郎の名前で掲載されています。なお、犯人は4月2日に熊本で

 逮捕されましたが、東洋日の出新聞は4月3日に号外を出して、詳細を伝えています。やはり西郷四郎が特派員に選ばれたのは彼が柔道家

 だからでしょう。実際3月7日の記事によると、北高来郡湯江村で犯人を逮捕しようとした巡査が犯人から重傷を負わされています。

 いつか3月14日と15日の『怪賊追跡行』と題する記事をこのウェブサイトに掲載したいと思います。
 


平成27年10月    

                日下義雄長崎県知事への欧米人からの感謝状
               

  先月5日、長崎歴史文化博物館で開催された大堀館長の今年度第3回館長ミュージアムトークに行って来ました。今回のテーマは、『長崎居留地を

 舞台に活躍した人たち ~ フレデリック・リンガーと日下義雄 (初代長崎県知事)を中心に~』 というものでした。日下義雄のことが説明されると知り、

 興味を持って聴講しました。内容は期待したとおり素晴らしいご講演でたいへん感動した次第です。内容はレジメに書かれてあるものから簡単にご紹介

 しますと、


  1.長崎居留地の整備と明治日本の近代化

    (1)長崎居留地の誕生 (2)長崎港を埋めた3回の造成工事 (3)居留地造成の難工事を請け負った天草の人

  2.明治期の長崎居留地~古写真から~

    (1)第3次造成工事が完了した明治7年頃の長崎居留地 (2)明治20年代以降の長崎居留地

    (3)居留地全盛の明治20、30年代の長崎居留地

  3.居留地を舞台に活躍した人々

    (1)トーマス・グラバー (2)倉場富三郎 (3)ウィリアム・オルトの活躍、(4)イギリス出身のウォーカー兄弟の活躍 (5)フレデリック・リンガー

    (6)居留地における長崎の環境と基盤の近代化に尽力した日本人①瓜生 震 ②日下義雄


  という構成でした。

   大堀館長のご講演の中で最も印象に残ったのは、長崎の上下水道整備に尽力する日下義雄に対して長崎居留地に住む欧米人が感謝状を贈ったと

  いう部分です。私はこの事実を初めて知り、とても感動しました。当時、長崎ではたびたびコレラが流行してたくさんの人々が亡くなっています。コレラが

  流行する原因はなんといっても上下水道が整備されていなかったことにありました。当時の長崎はまだ水道というものはなく、井戸水やわき水などに

  頼っていたため、長崎を訪れる外国人が排泄する大便からコレラ菌が地下水に入り込んで、コレラが流行したようです。

   日下義雄はかつてアメリカやイギリスに留学していたので英語を流暢に話すことができたそうで、長崎居留地に住む欧米人とも親しく交流したようです。

  特に貿易商フレデリック・リンガーとは友情を築いて長崎での水道設置や長崎港の生活環境改善などさまざまな活動で、フレデリック・リンガーから支援

  してもらっています (ブライアン・バークガフニ著 『リンガー家秘録 1868-1940 』 P79)。

  ちなみに、長崎ちゃんぽんの「リンガーハット」はこのフレデリック・リンガーの名前からとったものだそうです。

   日下義雄知事は長崎に水道を作るため東京に出かけて政府に資金援助を要請しましたが、長崎に帰って来ると、居留地の人々から英雄として迎え

  られたそうです。それだけ居留地の人々は水道設置を切実に望んでいたわけですね。ブライアン・バークガフニ長崎総合科学大学教授の上記の書物に

  よると、長崎在住の欧米人たち63人がフレデリック・リンガーを筆頭にして署名し、感謝のメッセージを次のとおり書いているそうです。

 
    「我々からみて、貴殿の責任感を持ったこの1年間の行動は非凡なものであり、さまざまな困難が 取り 除かれたことは、貴殿の機転と根気強い

    ご尽力があってのことだと感じております。 その関係で、我々が特に感心しておりますのは、貴殿が去年夏に起きたコレラの大流行の際に 取ら

    れた評価すべき対策、そして公衆衛生の包括的なシステムに対する貴殿の絶え間ない努力と 配慮であります。」 

                        (明治20(1887)年2月12日付の感謝状) 


    明治20年当時、長崎の居留地にどのくらいの外国人が住んでいたかわかりませんが、63人という多くの外国人が日下義雄に感謝状を贈ることに

  賛同したという事実に、日下義雄の誠実さ、勤勉さが感じられるのは私だけではないと思います。
  
 
  参考文献   ブライアン・バークガフニ著 『リンガー家秘録 1868-1940 』  2014年 長崎文献社



      

                        写真: 長崎歴史文化博物館提供


平成27年9月    

                        山本五十六について (2)
               

  先日、阿川弘之著 『山本五十六』(新潮文庫)をやっと読み終わりましたが、またもう一つ長崎県とご縁のある事実を知ることができました。

 というのは、山本五十六連合艦隊司令長官は前線視察のためニューブリテン島のラバウルからバラレ島の海軍基地へ向かう途中、ブーゲン

 ビル島の上空で待ち伏せしていたアメリカ軍戦闘機に銃撃されて即死するのですが、山本の乗っていた飛行機はそのまま撃墜されて、同島

 のジャングルに墜落しました。

  当時、ブーゲンビル島南端のブインには海軍の佐世保鎮守府で編成された第六特別陸戦隊が駐屯していました。この陸戦隊の中から捜索

 隊を出して墜落した山本長官機を捜索させたのですが、なにせ現場は深い密林で、樹木で覆われているので、捜索するのはなかなか容易な

 ことではなかったようです。午前中捜索に出かけたのですが、その日は探すことができず、翌日も夕方近くまで探し出すことができずに疲労で

 ぐったりして休んでいたところ、先に山本機を発見して駐屯地に帰る途中の同島駐留の陸軍部隊と遭遇し、山本機を発見したことを聞きます。

 翌日早朝、その陸軍部隊に案内してもらって佐世保第六特別陸戦隊は山本長官以下11人全員の遺体を用意していた担架に載せて、ブインの

 海軍基地(第一根拠地隊)へ運んだのでした。遺骸はその翌日そこから車で15分ほど離れたところにある佐世保第六特別陸戦隊の農場でダビ

 に附されたそうです。

  以上の事実を知って、私は早速休日を利用して佐世保にある旧海軍墓地(東公園)を訪れました。インターネットで検索して佐世保第六特別陸

 戦隊の慰霊碑が旧海軍墓地にあることを知ったからでした。慰霊碑の前で黙祷し、慰霊碑をカメラに収めました。公園内にある休憩所に入って

 みると入口に社団法人佐世保東山海軍墓地保存会発行の「佐世保東山海軍墓地 墓碑誌」という本がありました。それによると、佐世保鎮守府第六

 特別陸戦隊が佐世保を出発した昭和17年9月2日に1558名いた隊員が、米軍による空襲や飢餓、マラリアなどで多数の犠牲者が出て、昭和

 20年8月27日に最後の閲兵式を実施した時、参列した隊員は500名にも満たなかったそうです。

  私はこの旧海軍墓地を訪問した後、海軍史料館も見学に行きましたが、そこには山本大将の書いた書が展示されていました。明治16月2月に

 連合艦隊が佐世保に寄港していますので、その時に書かれたものかもしれません。さすが長岡の出身らしく、その書には長岡藩の藩是である

 「常在戦場 」という文字が書かれてありました。写真撮影が禁じられているのが残念でした。


                                                   
  参考文献

    阿川弘之著 『山本五十六』 新潮文庫

    志岐叡彦著 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』

    ウェブ 『ぶらり重兵衛の歴史探訪』 →「旧陸海軍部隊と遺跡」→「佐世保鎮守府第6特別陸戦隊」
             http://www.geocities.jp/bane2161/satin6rikusentai.htm  


        



                 

   


平成27年8月    

                        山本五十六について (1)
               

  連合艦隊司令長官と言えば東郷平八郎と山本五十六の二人がすぐ頭に浮かぶほど、この二人はあまりにも有名ですね。

 今回は山本五十六について述べたいと思います。大部分、阿川弘之著 『山本五十六』(新潮文庫) からの引用であることを前置きしておきます。

  山本五十六は明治17年に旧長岡藩士高野貞吉の六男として、新潟県の長岡で生まれています。父貞吉が56歳の時に生まれたので、五十六と

 名付けられています。彼は戊辰戦争の時、長岡藩の総督として新政府軍と戦った家老の河井継之助を尊敬していたそうで、「河井先生の小千

 行きの時、西軍に一人の西郷がいたら、長岡藩を賊軍の汚名から免れさせ、長岡を兵火から救うことが出来たろうに」と、しばしば人に語っていた

 そうです。

  山本五十六が海軍(兵学校)に入ったのは明治34年で、高野五十六だった彼が養嫡子として山本家の相続人となったのは大正4年5月で、この

 時大尉でした (同年12月少佐に進級)。山本家は長岡藩で代々家老の家柄で、戊辰戦争時は山本帯刀義路(やまもと たてわき よしみち)が会津

 の飯寺村で遊撃隊長として奮戦していましたが、新政府軍の宇都宮藩兵から捕縛されて、斬られています。明治維新後山本家はお家断絶とされて

 いたところ、明治16年に家名再興が許されて帯刀の長女の鈖治(たまじ)が当主となりましたが、跡継ぎがいなかったので、それから31年後に五十

 六が望まれて山本家の相続人となった次第です。改姓の届出がなされたのは翌年の大正5年9月20日です。

  そんな五十六がまだ高野五十六であった28歳の時、すなわち大正元年12月1日付けで佐世保鎮守府予備艦隊参謀として佐世保に赴任して来て

 います。赴任して来てすぐ佐世保の料亭 「宝家」で宴会があった時に小太郎と言う名でおしゃくに出ていた鶴島正子と知り合いになりました。正子は

 諫早の生まれで本名をツルと言い、この時まだ弱冠12歳でした。おませな美人だったそうで、海軍士官たちから可愛がられていたそうです。五十六

 はこの正子を佐世保の大きな料亭の一つ、「いろは」によく呼んで踊らせ、自分は寝転んでそれを眺めて遊んでいたそうです。また、正子は山本に

 おんぶされて、よく菓子や果物を買いに連れて行ってもらったりしています。この鶴島正子は大正の初めの頃、「文芸倶楽部」という雑誌の表紙に

 「九州一の名花」という説明入りの写真が掲載されたことがあったそうです。

  山本は佐世保鎮守府予備艦隊参謀として勤務後、軍艦「新高」砲術長 横須賀鎮守府副官兼参謀、第二艦隊参謀、海軍教育本部部員などを歴任

 しますが、大正7年8月に旧会津藩士 三橋康守の三女、礼子と結婚する少し前に佐世保で偶然再会し、それから急に関係が近くなり、よく手紙を交換

 するようになりました。山本からもらった手紙がスーツケースに一杯になるほどでしたが、空襲で全部焼けてしまったそうです。昭和15年の春、正子が

 40歳の時、佐世保市内に 「東郷」 という小店を持って、その家の女将になっていましたが、連合艦隊旗艦の「長門」が別府に入った時、佐世保から

 わざわざ別府まで出かけて行って山本と逢っています。また、翌昭和16月2月に、連合艦隊が佐世保に入った時、入港中の四、五日間、「東郷」で

 司令長官山本の身辺のお世話をしたそうです。山本五十六の愛人と言ってもいいこの鶴島正子は、昭和43年11月11日に亡くなるまで生涯を独身

 で通しましたが、山本の周囲のほんの一握りの人たちから、「山本五十六の初恋の人」として知られていたそうです。 (敬称略)

 
                                                  
  参考文献

    阿川弘之著 『山本五十六』 新潮文庫

    ウィキペディア 「山本五十六」




平成27年7月    

              清国水兵暴動事件時の清国艦隊長崎入港日について
               

  明治19年(1886)と言えば、旧会津藩士の日下義雄が第8代の長崎県令として長崎に赴任して来た年です。前職は明治18年10月22日に

 任命された農商務省駅逓局(えきていきょく)の総監監房長で、駅逓局と工部省電信局などが合併して同年12月22日に逓信省が設置されますが、

 日下義雄は12月28日に逓信省の大書記官も兼任しています。 なお、この明治18年12月22日に太政官制が廃止されて内閣制度が始まり、

 初代内閣総理大臣に伊藤博文、外務大臣に井上薫が就任し、逓信大臣には榎本武揚が就任しています。日下義雄の長崎県令発令は明治19年

 2月25日ですが、実際に長崎にやって来たのは3月21日です。7月12日に県令廃官となり、7月19日に官制改正により長崎県知事に任命されて

 います。長崎県知事という職名としては日下義雄は初代ということになります。

  前置きが長くなりましたが、日下義雄が長崎にやって来てまだ4ヶ月余りしかたっていないのに、国を震撼させるような大事件が8月に長崎で起こり

 ました。清国の北洋艦隊の4隻がウラジオストクから清国へ帰る途中、長崎に寄港したのですが、長崎に上陸した清国水兵が8月13日と15日に

 市民に乱暴を行い、ついには、警官隊と衝突しすさまじい乱闘戦が繰り広げられました。この事件で日本側死者2名・負傷者29名、清国側死者8名・

 負傷者42名を出して日本と清国との間で外交問題になり、伊藤博文は外務省内にこの事件を処理するために1局を設けさせています。9月に入って

 長崎で両国の委員3名ずつからなる調査委員会で談判が始まりましたが、日下知事も日本側委員の一人になって談判に参加しています。しかし、

 いっこうに解決することができず、長崎での談判は11月に打ち切られ、翌20年2月8日になって井上薫外務大臣と徐承祖(じょ しょうそ)欽差大臣との

 間で条約が締結されて事件が解決されました。

  さてここから本論ですが、清国艦隊が長崎に入港したのは既に出版されている書物では8月1日と記載されていますが、これは間違いで本当は8月

 10日なのです。最近出版された長崎史談会・長崎市観光政策課発行の 『まちなかガイドブックⅡ』 という書物にも8月1日と記載されています。

 この本は 『長崎県警察史 上』 (長崎県警察本部 昭和51年発行)という本から引用しているようですが、この本自体がまちがっているので同じ間違い

 をしているものです。そもそも8月1日に入港したのなら事件はもっと早く発生したはずではないでしょうか? 当時の新聞を見てみると、明治19年8月

 11日付けの鎮西日報に「清艦入港」という見出しで次のとおり記載されています。

 
    「予定の如く定遠(旗艦)、鎮遠・済遠・威遠の3号は孰(いず)れも昨10日午后1時40日分浦潮斯徳より入港せり。定遠と鎮遠とは船底

    頗(すこぶ)る損し居れば近く立神船渠に入れ外部修繕をなすならんといへり。」

  この記事によると 「予定の如く」 と報道されているので、事前に長崎側へは連絡されていたことがわかります。詳細については、このホームページの

  『清国水兵暴動事件時の清国艦隊長崎入港日について』 と、『日下義雄』 に記載していますので、ご覧いただけたら幸いに思います。

  それにしても残念ながらこのホームページを訪れる人が少ないので、この誤った入港日のことについては長崎史談会の会報に投稿するなどして

 周知していきたいと思います。平成25年に長崎市役所の市史編さん室に出向いてこのことを教えてあげたんですが、市史編さん室が発刊を担当した

  『新長崎市史 第三巻近代編』 に生かせられなかったのは残念です。長崎市役所が過去に発行した 『市制百年 長崎年表』 ( 平成1年)や 『長崎

 市史年表』 (昭和56年)では 北洋艦隊の入港日を8月1日と記載しているので、この 『新長崎市史 第三巻近代編』 を発行する際に8月10日である

 と修正しておけばいいものを、ただ8月としか記載しなかったのは非常に残念でなりません。来年でこの清国水兵暴動事件も発生から130周年になり

 ますので、それまでには周知されるよう微力ながら努めたいと思います。


   参考文献  「日下義雄傅」



平成27年6月    

               長崎と会津にゆかりのある人々-井深八重- (2)
               

  井深八重は大正8年(1919)7月10日、ハンセン病の疑いで静岡県の神山復生病院に入院するのですが、その後のことについて触れる前に、

 彼女が1年3ヶ月間在籍した長崎県立長崎高等女学校時代についてもう少し述べたいと思います。

  井深八重は大正7年3月に京都の同志社女学校専門部英文科を卒業した後、4月に長崎県立長崎高等女学校の英語教師として赴任しました。

  昭和5年に鉄筋コンクリート造4階建ての新校舎が建設されていますが、この時新築落成記念として出版された 『長崎縣立長崎高等女學校一覧』

 という本によると、4学年合わせた生徒総数は大正7年3月末現在で574名と記載されています。ちなみに1年後の大正8年3月末現在では597名で、

 その後も毎年生徒数は増えていっています。また、大正7年度の生徒の入学志願者は440名で、実際に入学したのは196名となっています。

  また、この 『長崎縣立長崎高等女學校一覧』 には現職員の名簿の他に旧職員の名簿も掲載されており、井深八重の名前も記載されていて、

 「本校就職年月」は大正7年4月、「勤続年月数」は1年3ヶ月、「職名」は 『教諭心得』 と記載されています。平成14(2002)年12月に発行された

  『人間の碑―井深八重への誘い―』(発行:井深八重顕彰記念会)という本に、牧野登氏が執筆された井深八重小伝が掲載されています。それに

 よると、国立国会図書館に大正7年6月に作成された 『長崎縣立長崎高等女學校一覧表』 という記録がマイクロ・フィルムにされて保管されている

 そうで、井深八重の名前は「教諭心得」として教員25名の一番最後に記載されており、受持学科は英語、族籍として「福島士族」と記載されている

 そうです。八重が担当した英語は各学年を通じて週に3時間あったそうで、1学年と2学年は必修科目で、3学年と4学年は「随意科」となっていました。

 随意科というのは今で言う選択科目のことと思われます。英語担当の教諭としては、八重の他に在籍10年の男性教諭と、イギリス人の嘱託教諭が

 別にいたそうです。昭和5年11月発行の上記 『長崎縣立長崎高等女學校一覧』 に掲載されている「旧職員」名簿に「嘱託」として記載されている

 「エリザベス・メリー・キーン」という名の外国人がこのイギリスの嘱託教諭と思われます。彼女は大正5年4月から5年間勤務しています。 

  また、長崎高等女学校には明治35年当初から寄宿舎が設けられていますが、牧野氏執筆の小伝によると100名くらいの生徒が利用していたようで、

 井深八重も生徒とともに寄宿舎で生活していたらしいということです。まだ20歳にすぎない若い女性が遠い長崎にやって来たことを考えれば、やはり

 寄宿舎に入ったと考えるのが自然と思われます。

  牧野氏によると、長崎時代、八重は教鞭をとるかたわら、明治初期にアメリカ人宣教師エリザベス・ラッセル女史によって創立された活水女学校に

 通って、英語に磨きをかけていたそうです。長崎での教員生活がわずか1年余りで終わってしまったのはとても残念な気がします。

  井深八重顕彰記念会発行の 『人間の碑―井深八重への誘い―』 には井深八重の写真が6枚掲載されていますが、この中に 「長崎県立長崎高等

 女学校英語科教諭時代(21~22歳)」という説明書きのある写真があります。おそらく、牧野氏も書いていますが長崎市内の写真館で撮影されたもの

 と思われます。知性的で上品な面立ちをしたなかなかの美人で、この本の中で牧野氏が、『当時の八重が「生徒の憧れの君」であったと当時を追懐した

 旧教え子の手紙が残されている。」と書いているように、女学校ではありますが生徒たちにたいへん人気があったことがうかがわれます。



平成27年5月    

  今月から長崎に滞在したことのある会津ゆかりの人々を不定期に紹介していきたいと思います。

              長崎と会津にゆかりのある人々-井深八重- (1)
               

  井深八重(1897(明治30).10.23-1989(平成元).5.15)はハンセン病患者のために一生を捧げた看護師です。
  
 井深八重の祖父は幕末、会津藩で軍事奉行や藩校日新館の校長を勤めた井深宅右衛門(重義)です。ちなみに宅右衛門の妻は西郷頼母の

 妹八代子です。井深宅右衛門の長男は明治学院創設者の一人である井深梶之助で、三男が井深彦三郎で八重の父親です。彦三郎はいわゆ

 る大陸浪人として活躍し、西郷頼母の養子・西郷四郎を鈴木天眼(長崎で西郷四郎らと東洋日の出新聞社を設立)に紹介した人物です。
 
  井深八重はこの井深彦三郎とその妻テイとの間に明治30年(1897)に台湾で生まれました。その後、日本に戻って東京で生活していましたが、

 八重が7歳の時に両親が離婚してしまい、政治活動等で多忙な父親の元を離れ、伯父の井深梶之助の家に預けられました。井深梶之助はこの

 時、明治学院の総理(明治24年(1891)11月~大正10年(1921)まで第2代目総理)の職にありました。明治37年(1904)3月、東京市芝区白金

 今里町の白金尋常高等小学校(現白金小学校)に入学し、明治43年(1910)3月に卒業しました。そして、翌4月京都の同志社女学校に入学しま

 した。家族の元を離れて、ここで8年間の寄宿舎生活を送りながら普通学部、そして専門学部英文科へ通いました。京都在住時代、新島八重とも

 おそらく会っているのではないでしょうか。この間、大正5年(1916)4月に父・井深彦三郎が51歳で北京で亡くなっています。

  大正7年(1918)3月、同志社女学校専門学部英文科を卒業、翌4月、長崎県立長崎高等女学校に英語教師として赴任しました。長崎県立長崎

 高等女学校は明治34年(1901)11月29日に長崎市西山郷(現下西山町)の地に開校し、翌35年5月1日に授業が開始されています。敷地内に

 は校舎の他に寄宿舎(橘寮)や附属施設がありました。昭和23年(1948)4月1日、学制改革により長崎県立長崎高等女学校は廃止されて、代わ

 りに長崎県立長崎女子高等学校が発足しました。しかし、この学校は長くは続かず同年11月30日に長崎県立長崎高等学校、長崎県立瓊浦高等

 学校、長崎市立女子高等学校と統合・分離されて、長崎県立長崎東高等学校と長崎県立長崎西高等学校になり、長崎県立長崎高等女学校の校舎

 は長崎県立長崎東高等学校校舎になりました。昭和51年(1976)8月に長崎東高校の新校舎が立山に完成して、全日制課程が移転、定時制課程

 はそのまま使用していましたが、昭和55年(1980)3月、定時制課程の廃止により、ついに廃校となりました。翌年校舎は解体され、跡地の一部は

 長崎県立東高跡地公園として整備された他、道路や住宅地になりました。この長崎県立東高跡地公園には長崎県立長崎高等女学校跡の碑と長崎

 県立長崎東高跡の碑が建てられています。この公園は長崎市立上長崎小学校の裏手にあります。

  井深八重は同志社女学校を卒業した後すぐに、この長崎県立長崎高等女学校の英語教師として赴任して来たのでした。この時満20歳でした。

 どういう理由で長崎の学校に来ることになったのかわかりません。この時期長崎には、井深八重の親類として西郷四郎(1866~1922)がいます。

 おそらく西郷四郎とも会ったことでしょう。井深八重が長崎で教員生活を始めて1年が過ぎ、ようやく長崎での生活にも慣れて来た頃、体のあちこち

 に赤い斑点がいくつもできました。なかなか消えないので福岡の大学病院で診てもらったところ、ライ病の疑いが濃厚という診断を受けました。ライ病

 とは現在で言うハンセン病のことです。皮膚がただれたり、顔などが崩れたりして、昔は不治の病として非常に恐れられ、人に伝染するとして患者は

 隔離されていました。

  伯父の井深梶之助や伯母に病名が告げられると、大正8年(1919)7月10日、井深八重は病名が告げられないまま、伯父・伯母に付き添われて

 静岡県の神山復生病院というハンセン病院に隔離入院させられてしまいました。八重は恐怖と絶望のあまり、「一生分の涙を流しました」と後に語って

 いる。 (続く)
   



平成27年4月    

                旧大村藩士 長岡重弘 ー会津人柴五郎の恩人ー (2)
  
             
  長岡重弘について前回に引き続き、経歴を紹介します。

  長岡重弘は樋口忠左衛門の次男として、現在の西海市西彼町風早郷で生まれましたが、この風早は樋口家の知行地(大名が家臣に与えた
 
 土地を いう)でした。樋口家は元々彼杵の樋口郷の出身で、代々大村藩士として彼杵樋口郷や松原、城下の久原に住んでいました。長岡重弘

 は満14歳の時に大村藩士長岡源五右衛門の養子となりましたが、大村出身の著名な物理学者 長岡半太郎(1865.8.19-1950.12.11)にとって

 本家にあたる家の養子になったのでした。長岡家の本籍地は長与村で、長与村は江戸時代は大村藩の領地でした。

  ところで、長岡重弘はいわゆる大村藩勤王三十七士の一人です。幕末、大村藩においても佐幕派と勤王派の争いがあり、慶応3年(1867年)

 1月、勤王派の俊才、松林飯山は佐幕派から暗殺されています。また、同じ日に勤王派の一人、家老の針尾九左衛門も佐幕派に切られて重傷を

 負っています。大村藩を尊皇倒幕へ導く原動力となったのがこの勤王三十七士でした。

  文久3年(1863年)12月、久原の長岡治三郎(長岡半太郎の父)の家で長岡治三郎、長岡重弘(新次郎)、渡辺清、渡辺昇、根岸陳平、中村

 公知の6名が尊皇攘夷運動の盟約を結んだのを契機に同志を募っていき、慶応年間に至って最終的に37名が盟約に加わりました。この37名が

 藩の幹部となって、藩論を尊皇に統一し、倒幕へと突き進む原動力となったのでした。

  戊辰戦争では渡辺清率いる大村藩一番隊は東海道征討軍の先鋒を務め、江戸で彰義隊を攻撃し、会津若松では小田山で若松城を砲撃してい

 ます。長岡重弘も戊辰戦争に加わっていますが、若松城攻めに加わったかどうかはわかりません。

  時は遡りますが、安政2年(1855)に幕府が長崎に海軍伝習所を開いた時、大村藩は医師の尾本公同を長とする和蘭塾を長崎に開設しました

 が、渡辺清や中村公知らとともに長岡重弘もこの塾に参加しています。表向きは医学の質問ということで出島に出入りし、オランダ人に接近して兵

 学を学ぼうというものでした。結果は失敗に終わったそうですが、大村藩のこうした向学心は賞賛すべきものと評価されています。


   参考文献
   
    「西彼町郷土誌」  西彼町教育委員会発行 平成15年
 
    「長与町郷土誌」下巻  長与町発行  平成8年

    「大村史談」第8号 

    「大村市史」上巻  大村市役所発行 昭和37年

    「大村史話」下巻  大村史談会発行 昭和49年  

    「大村史―琴湖の日月―」  久田松和則著 平成元年



平成27年3月    

                旧大村藩士 長岡重弘 ー会津人柴五郎の恩人ー (3)
  
             
  長岡重弘については、長与町が平成8年3月1日付けで発行した『長与町郷土誌』下巻に紹介されており、その内容を次のとおり年代順に箇条書き

 で整理してみました。
 

1834年(天保5年)1月12日 樋口忠左衛門の次男として西彼町風早郷で生まれる。幼名は源吾、通称は新次郎。

1849年(嘉永2年)11月 大村藩士 長岡源吾右衛門の養子となる。(数え年15歳)
 
       〃    12月  藩主の旗本五十騎御組入り

1854年(嘉永7年) 9月  蘭学修業のため長崎に出向

1863年(文久3年)     一朝有事に際しての脇備長柄奉行を仰せ付けられる

1864年(元治元年)    藩校五教館の観察となる(30歳) 

1868年(慶応4年) 6月 藩から京都聞番の要職を拝命。同月政府出入りとなる。

1868年(明治元年)    新政府の官吏に登用される
 
1870年(明治3年) 正月 民部省の庶務係を拝命する。この頃、政府から豊後日田へ郡県御事係理のため、3ヶ月の出張を命じられる

      〃   11月16日 民部省の権大属に任ぜられ、東京詰めとなる  

1871年(明治4年) 正月  庶務権正に昇進。
   
      〃      9月  民部省から大蔵省に移籍

1872年(明治5年)10月  大蔵省から司法省へ移籍
    
1873年(明治6年) 6月  正七位に叙せられる

1875年(明治8年) 5月  七等判事に任じられ、長崎上等裁判所判事となる。

1881年(明治14年)11月  福岡始審裁判所所長となる。

1882年(明治15年) 6月  従六位に叙せられる

      ?年         退官する。

1889年(明治22年)     これまでの経歴を生かして公証人として働くようになる。

1890年(明治23年)     長崎市議会の参事会員に当選。

1893年(明治26年)     長崎市の学務委員となる

1902年(明治35年)     長与村の村会議員に当選。(~1913年(大正2年)4月まで就任)

1915年(大正4年)1月28日  本籍地の長与村で死去。(満81歳)      


 大蔵省に在籍したのはわずか1年1ヶ月の間ですが、この期間に長岡重弘は柴五郎少年と出会っています。

 柴五郎の手記 『ある明治人の記録』に次のように書かれています。


 「(明治5年)5月末、地租改正調査のため、東北地方巡回の大蔵省役人の一行、青森に滞在す。首席は
                                             さかん
  肥前大村の人、大蔵七等出仕の長岡重弘、次席は信州松本の人、大蔵属市川正寧、その他土肥、北村、

  山田等の属僚をしたがう。」(83頁)

 
 長崎上等裁判所は後の長崎控訴院で昭和20年まで存続し、同年福岡へ移転し、これが昭和22年に福岡高等裁判所になりました。

 福岡始審裁判所は後の福岡地方裁判所です。長岡重弘はここの所長になっており、退官しなければもっと出世していたと思われ、もったいない気が

します。長与村の村会議員も勤めていますが、出世欲の強い人だったら、県会議員や国会議員を目指していたかもしれませんが、長岡は実にあっさり

した方だったと思われます。

 柴五郎少年から東京留学の志を聞き、東京へ同行させてくれたり、その途中、幼少の柴少年を自分の牛輿に同乗させてくれたり、東京の自宅に

柴少年をしばらく寄宿させてあげたのも長岡重弘の人柄がとても円満で、義理人情に篤かったからだと思われます。

 柴五郎将軍は後に長岡重弘の自宅を訪問して長岡を見舞ったことがあり、長岡の妻のキミ氏は後々までそのことを自慢話にしていたそうです。

 (『長与町郷土誌』下巻 579頁)
                                

   参考文献: 『西彼町郷土誌』  西彼町教育委員会編集・発行  平成15年3月1日
 

平成27年2月    

                『ある明治人の記録』ー会津人柴五郎の遺書ー  (2)
               

  柴五郎の恩人の一人に大村藩出身の長岡重弘という人がいます。この『ある明治人の記録』という本の中に長岡重弘はたびたび登場して

 柴五郎のためにいろいろと世話してくれています。

  この本によると、柴五郎と長岡重弘との最初の出会いは、明治5年5月末、柴五郎少年が青森県庁に給仕として勤務していた時、地租改正

 調査のため東北地方を巡回していた大蔵省役人一行が青森に滞在した際に、東京留学したいので帰路一行に同行させてほしいと宿所へ

 訪ねて行った時でした。その一行の首席が大蔵省七等出仕の長岡重弘で、長岡は同行することを快く承諾してやりました。そして6月初旬、

 次の巡回先に向かうため青森を出発することになりました。この時の様子について柴五郎はこの本の中で次のように記述しています。

  「 長岡氏は牛輿に乗り、他は徒歩なり。長岡氏は心優しき人にて、幼少の余をいたわり、同氏の輿に同乗させ、あるいは駅馬に乗せなどして、

   実際に歩行せるは一日のうち、四、五里なり。 」

 
  青森から東京までの旅費や雑費も長岡重弘と次席の市川正寧(信州松本出身)が支払ってくれています。東京に着いてから五郎は定住先が

 決まるまでの間知人・縁者の家を転々とするのですが、市川正寧や長岡重弘の家にもしばらく寄宿させてもらっています。

  こうして苦労した末に、明治6年3月末、柴五郎は陸軍の幼年生徒隊(後の幼年学校)の試験に合格し、陸軍兵学寮に入りました。この時とても

 喜んだ一人が五郎を寄宿させてくれていた山川浩でした。市内に出かけて行って軍服を買い求め、帰って来てからはその着方を五郎にいちいち

 教えてあげています。その軍服を着て五郎は青森県庁以来の大恩人である細川藩出身の野田豁通(青森県庁で大参事を務めた)を訪ねて行って

 挨拶しています。また、『長岡宅、市川宅など、世話になりたる家を馳せめぐりて、挙手の礼をな』しています。この時柴五郎はよほど嬉しかったらしく、

 手記には『余の生涯における最良の日というべし』と記しています。

  長岡重弘はその後本籍地の長崎県長与村に居を移しています。晩年、嬉里郷の自宅を柴五郎将軍が訪ねて行って、長岡を見舞ったことがある

 そうです。長岡重弘のことについては、次回でもう少し詳しく述べたいと思います。
                                



平成27年1月    

                『ある明治人の記録』ー会津人柴五郎の遺書ー  (1)
               

  最近遅ればせながら、「『ある明治人の記録』ー会津人柴五郎の遺書ー」(中公新書)という本を読みました。柴五郎(1860.6.21-1945.12.13)は

会津藩士 柴佐多蔵(280石)の五男として生まれ、会津戦争が起きた時はまだ8歳でした。新政府軍が会津城下に押し寄せて来た時、五郎は

祖母や母親から近郊の叔父の家に避難させられます。そして、『戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入

とともに自害して辱しめを受けざることを約し』ていた祖母、母、兄嫁、姉、妹の5人は叔父柴清助から退去するよう勧められてもきかず、介錯を頼ん

で自刃しています。

  戦後は負傷した兄の看護人として兄と共にわずか9歳で東京の俘虜収容所に収容されています。旧会津藩が斗南藩として再興を許された時は、

父親と長兄と3人で下北半島の斗南藩に移住しました。斗南藩として3万石を与えられ、4千戸の藩士のうち2800戸が新領地に移住して行きまし

たが、土地はやせていて、実際は7千石しかとれませんでした。多くの藩士家族が飢餓に陥り、餓死する者もいたそうです。

 柴五郎一家はある日死んだ犬をもらい受け、20日間も調味料のない塩で煮ただけの犬肉を食べ続けて飢えをしのぎました。五郎たち一家にとって

は主食不足を補うものでしたので、五郎も我慢して食べていましたが、その後喉につかえて通らなくなり、口に含んだまま吐き気を催してしまいました。

この様子を見た父は怒り、

 「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれる

なり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱そそぐまでは

戦場なるぞ。」と語気荒く叱られています。
  
 五郎が住んだ借家は五郎の言葉を借りれば『乞食小屋』で、畳のない板敷にわらを敷いただけの粗末な家で、障子やふすまなどは一切なく、冬は

陸奥湾から吹きつくる寒風の中を布団代わりにむしろをかぶって、みの虫みたいな格好で、いろりの周囲を囲んで寝るほかなかったそうです。

  このような苦労をした柴五郎は陸軍に入って順調に進級を重ねていき、最後は陸軍大将にまでなりました。
 
  五郎は長崎県とも縁があり、明治41年(1908年)12月から42年7月まで佐世保要塞司令官を勤めています。42年8月に重砲兵第2旅団長と

して下関へ赴任する途中、家族同伴で長崎市を訪れ、上野屋旅館(現在の長崎家庭裁判所及びその周辺)に宿泊しています。

  明治42年8月7日付けの「東洋日の出新聞」の『公私消息』という小さい欄に次のように記載されています。


 「 ▲柴五郎氏(前佐世保要塞司令官少将) 今般任地下之関二旅団長に赴任の途次一昨夜家族同伴来崎し上野屋に投宿せり 」


  また、同新聞翌8月8日の『公私消息』にも次のように記載されています。


 「 ▲柴五郎氏(下之関二旅団長) 上野屋滞在中昨日出発 」




 平成26年12月    

                日下義雄の妻 可明子夫人のお墓を清掃
               

  第8代長崎県令で官制変更により初代長崎県知事となった旧会津藩士、日下義雄の最初の妻 可明子夫人が亡くなったのは1886年

(明治19年)12月11日。今年は没後128年になります。

 1886年(明治19年)に長崎県令となった日下義雄とともに長崎にやって来た可明子夫人は、その年12月7日、脳充血を患って倒れ11日に

亡くなりました。翌日の鎮西日報は可明子夫人を、「資性俊敏にして温良の美徳を兼備へ夙に本邦婦人の旧習を脱し家政を処理すると同時に

交際の道を開き自他相利するを以て志とせられしかは東京上遊の交際間には日下夫人の名声せきせきたり。」と評しています。

  晧臺寺での葬儀には2千人を越す会葬者がいたそうで、鎮西日報は、「沿道には見物人雲集し殆んど雑沓を極むる有様なれり。該寺の門前

には巡査数名出張して制する程なりし」と報道しています。

  白虎隊の会長崎支部では命日の4日前に当たる12月7日(日)、会員5名で晧臺寺にある可明子夫人のお墓参りを行いました。あわせて、

お墓の回りの落ち葉をはわいた後、近くの仏具店からお花立てやお線香立てを買って来て、花を供え、お線香を上げて、黙祷をささげました。



        



平成26年11月    

                    「あずさ弓の如く」
               

 先日、やっと 「あずさ弓の如く」下巻を読み終えました。この本は今年9月13日に福島県白河市を旅行した際に、訪問先の一つである

「白河戊辰見聞館」(NPO法人 しらかわ歴史のまちづくりフォーラムが運営)で購入したものです。 
 
 上巻は既に昨年読んでいましたが、下巻は昨年6月に第一刷が発行されて以来まだ購入せずにおりました。 本のタイトルは、白虎隊士
                                                               もののふ  
飯沼貞吉が出陣する時に母親が詠んでくれた 「あづさ弓 むかふ矢先は しげくとも ひきなかえしそ 武士の道」 という和歌から付けら
                 そのばりょ 
れています。この本の著者 苑場凌氏は上巻の中で貞吉に次のように歌の意味を解説させています。

 「武士ならば命を惜しむことなく敵陣に真直ぐに突き進み、見事に討ち果ててこい 放たれたあづさ弓の如く・・・」(下巻ではまた反対の意味

を楢崎頼三に言わせています。)

 下巻では長州藩士 楢崎頼三の知行地である現在の山口県美祢市東厚保の小杉という小さな集落にある高見家に、100年以上にもわた

って語り継がれてきた高見フサの口伝から始まっています。

 高見フサは小杉の楢崎頼三屋敷に奉公に出ていて、そこで飯沼貞吉の世話をしています。   

 私は白虎隊の会長崎支部の会員ですが、平成24年10月に長崎支部で下関支部との交流のため下関を訪問した時に、吉井克也下関

支部長らから高見フサの実家を案内していただいたことがあります。

 その際、飯沼貞吉が養育された楢崎頼三屋敷跡も案内してもらいました。今思えば、すごいことだったなと改めて下関の人たちに感謝申し

上げる次第です。なお、吉井克也氏は高見フサの子孫でいらっしゃいます。(お母様が高見家のご出身)

 この本を書かれた漫画家の苑場凌氏は美祢市のご出身だそうで、高見フサの子孫の一人は苑場凌氏の高校の恩師だったそうです。

私はこの「あずさ弓の如く」下巻を読んでとても感動した次第です。

 長州にも楢崎頼三のような慈愛のある尊敬すべき人物がいたことを知り、長州人を見直しました。来年の大河ドラマが楽しみになってきました。

 楢崎頼三以外にも、飯沼貞吉のいとこの山川健次郎を書生にした奥平謙輔や萩の乱で処刑された前原一誠には明治新政府に敵対したので

好感を持っております。




平成26年10月    

                    初めての会津・白河旅行
               

 9月13日から15日まで2泊3日の行程で福島県の会津と白河を旅行して来ました。

初めて訪れる地でしたので、どこに行っても感動の連続でした。その中でも、鶴ヶ城、飯盛山、会津藩主松平家墓所、会津武家屋敷、

南湖公園は特に印象に残りました。さすがに代表的な観光地だけのことはありました。

他に、日新館や土津神社も良かったですね。土津神社の保科正之の事蹟を刻んだ巨大な碑石には驚きを禁じ得ませんでした。

松平家墓所の各藩主の碑石も大きくてびっくりしましたが、さらにそれらを上回る巨大さにさすが会津藩藩祖の碑石だと思いました。

猪苗代町発行のパンフレットによれば、約12kmの距離を人夫1日2千人から3千人が7ヶ月かかって運んだといわれているそうです。

 白河と会津ではそれぞれ郷土史家から各史跡を案内していただくとともに、詳しい解説もしていただき、とてもありがたかったです。

また、白河のあるお寺では郷土料理をごちそうになるとともに、戊辰戦争の様子について地元の語り部さんからお話を聞くことができて、

とても勉強になりました。地元の人たちの心の暖かさに触れることができた旅行となり、とても感謝しています。




平成26年9月    


              ”名は体を表わす” -日下義雄の義人としての行い-(5)


 藩校「日新館」を創設した会津藩家老 田中玄宰(はるなか 1748-1808)は会津九家の一つ田中家の第6代目当主として12歳で家を継いでいます。

田中家の初代正玄(まさはる)は会津藩藩祖の保科正之がまだ保科正光の養子幸松と名乗っていた頃から正之に仕え、後に家老となって正之を補佐

しました。幕末時に家老として活躍した田中土佐は玄宰の子孫です。玄宰の幼名は小三郎で、通称は加兵衛、三郎兵衛です。

 1781年(元明元年)に家老となった時は会津藩には50万両を超す借金があり、藩の財政はとても窮乏していました。そのため藩政改革を断行し、

農業や工業、商業の振興に力を注ぎました。農業では朝鮮人参の栽培、紅花栽培、養蚕、松茸の振興に特に力を入れ、工業では漆器や陶磁器の

改良、酒造技術の改良、絵ろうそくの改良などを行って地場産業の振興に大いに貢献しました。また、江戸に会津物産会所を設けて漆器や酒類などを

販売しました。これらの施策により、藩財政も次第に回復していきました。8代将軍徳川吉宗の孫の松平定信(白河藩主)は寛政の改革を行って幕政

再建に大いに貢献しましたが、その定信は常日頃、藩士たちを戒めて「会津の三兵に笑われるな」と言っていたそうで、田中玄宰の手腕を高く評価して

いました。玄宰は会津藩兵を連れて樺太で北方警備に当たっている時に病を得て60歳て世を去りましたが、骨は鶴ヶ城と日新館の見える所へ埋めよ

という遺言により、小田山の山頂に墓が作られました。

 時は流れ、明治も過ぎて、大正4年11月になって田中玄宰は政府から従五位に叙せられました。これを機に玄宰の墓を改修しようと思い立ったのが

第一銀行取締役の日下義雄でした。当時玄宰の墓周辺は雑草で荒れ放題となっており、参道も草や雑木で覆われていました。『日下義雄傅』には

「草は一面に生い茂って、腰を没するばかりであった」と記述されています。日下義雄は広く寄附金を募って玄宰の墓や参道の改修工事を行うことを

決意し、大正8年8月に発起人総代として工事費5千円の募金を呼びかけました。こうして集まった募金は8,500円に達し、工事も順調に進んで、

大正10年5月15日、即ち日下義雄が大正12年3月18日に亡くなる約2年前に小田山山上の田中玄宰の墓前で盛大な竣工式が挙行されました。
 
 この日は東京から会津出身者も多数出席し、地元からは3千人もの老若男女が訪れたそうです。『日下義雄傅』では、次の文章で「田中玄宰翁の

ために」と題する章が終わっていますので、それを最後に紹介して「”名は体を表わす”-日下義雄の義人としての行い」という連載を終わりたいと

思います。

  
 「今は立派な公園になり、田中玄宰翁の祭日には若松市内外の中等諸学校生徒・小学校生徒は固より軍隊の参拝もあり、翁が会津産業界の恩人

 たることをあまねく世人に知られるようになったが、これ実に日下翁の力によるところが多いのであった。」


   

平成26年8月    


              ”名は体を表わす” -日下義雄の義人としての行い-(4)


 京都高台寺内の小院、月真院に品川弥二郎の墓があります。高台寺は周知のごとく、北政所ねねが豊臣秀吉の冥福を祈るために建立

した寺で、月真院は伊藤甲子太郎ら新選組から別れた御陵衛士の最後の屯所があったところです。長州萩出身の品川弥二郎は明治33年

(1900)に亡くなりましたが、その17年後の大正6年に会津出身の日下義雄は品川弥二郎の墓前に石燈籠を建立しています。当時のお金

で約500円かかったそうですが、現在の貨幣価値に換算しても相当の費用と思われます。

 日下義雄は井上馨や伊藤博文など明治維新に功のあった長州出身者と親しく交わっていますが、会津出身者や会津在住の人々はこうした

日下義雄をどう評価していたでしょうか。 品川弥二郎の墓前の石燈籠建立式で日下義雄は吉田松陰の作った詩を朗吟し、松陰の意気、精神

を受け伝えた人がこの品川弥二郎であり、私はそれを偲ぶのであると述べたそうです。品川は「国を富まし、民を豊かにするには、ただ殖産興業

あるのみ」という意見を持ち、農工商の各方面にわたっていろいろと計画し、いったん人を信じればどこまでもその人に任せて、十分手腕を発揮

させるやり方をとったといいいます。

 日下義雄は品川弥二郎からも知遇を受けて親しかったようですが、こうした品川の物の考え方に深く共鳴するところがあったと思われます。


 参考文献   「日下義雄傅」
                                     


平成26年7月    

              ”名は体を表わす” -日下義雄の義人としての行い-(3)


 明治元年9月22日会津藩が降伏した後、旧会津藩領各地には新政府によって民政局が置かれましたが、会津若松にも10月1日に

民政局が置かれました。翌年6月15日に若松をはじめとした各地の民政局が統合されて若松県庁が設置されるまで、若松ではこの

民政局によって統治されるわけですが、会津戦争で死亡した人の遺体は埋葬することが禁じられ、長い間遺棄されたままでした。このため、

監察方兼断獄頭取という役にあった越前福井藩出身の久保村文四郎は旧会津藩士たちから憎まれ、明治2年7月、任務を終えて越前

に帰る途中、会津の束松峠で伴百悦ら旧会津藩士4名によって暗殺されました。この暗殺者の一人、井深元治は明治5年に東京で捕らえ

られて翌年2月小伝馬町の獄舎で亡くなりますが、遺体は小塚原回向院に投げられたそうです。

 日下義雄は明治27年10月、東京・谷中墓地に井深元治の墓を建立しました。日下はこの時、福島県知事という明治政府の官職に就いて

いながら、明治政府に反逆した人の墓を作ってやるとはよほど豪胆だという気がします。日下義雄の義侠心を表わす典型的な例と言ってよい

と思います。


  ※ 参考文献   早乙女貢著 『続 会津士魂 三』  2002年 集英社文庫

              ウェブサイト 『谷中・桜木・上野公園 路地裏徹底ツァー』の「井深元治」    




平成26年6月    

                ”名は体を表わす” -日下義雄の義人としての行い-(2)


 日下義雄は明治29年9月15日付けをもって弁理公使を辞職し、同月26日付けで第一銀行監査役に就任しました。明治6年6月11日を

もって創立されたわが国最初の銀行である第一国立銀行が明治29年9月26日から民営化されるのに伴い、監査役という役職が初めて

設けられ、日下義雄は須藤一郎という者と一緒に監査役に就任したのでした。以後、明治41年8月3日まで監査役の地位にあり、その後は

大正12年3月18日に亡くなるまで同銀行の取締役を務めました。

 45歳で第一銀行監査役に就任したわけですが、これは頭取の渋沢栄一の勧誘によるものでした。実業界に身を置いた日下は以後、渋沢

栄一の指導を受けて実業界で活躍しています。前半生は官界で井上馨から、後半生は実業界で渋沢栄一から大いなる恩を受けています。

 日下義雄は亡くなった時に12項目からなる遺言書を遺しておりますが、そのうちの1項目に次のように記載されています。


「 一.井上侯爵及び渋沢子爵万歳の後、その墓前に各一対の灯籠を供え、感恩の意を表せられたき事。 」 


 日下義雄は亡くなるまで、井上馨と渋沢栄一の恩を忘れず、その恩に報いようとしたのは、日下義雄の義理堅さを表わすものと言えるでしょう。


   参考文献   中村孝也著 『日下義雄傳』



平成26年5月    

                ”名は体を表わす” -日下義雄の義人としての行い-(1)


  ”名は体を表わす”とはよく言ったもので、日下義雄は義理深く、至誠あふれる行動を何度もとっています。今回から数回に分けて、

 その行いを紹介したいと思います。第1回目は井上馨が内閣総理大臣として組閣を命じられた時の話です。 

  明治34年、第4次伊藤内閣(明33.10.19~34.6.2)が崩壊した後、伊藤博文と山縣有朋などの働きによって井上馨に大命降下がありま

 した。井上馨は、大蔵大臣在任当時の右腕だった渋沢栄一が大蔵大臣に就任することを承諾したら奮ってその任に当ると述べました。

  このため芦川顕正 (内務次官・文部大臣等を歴任) や楠本正隆 (旧大村藩士。東京府知事、衆議院議長等を歴任) などは当時第一

 銀行頭取にあった渋沢栄一に入閣するよう熱心に勧誘します。井上馨に対する情誼により固辞することができなくなった渋沢は、第一銀

 行の重役に諮って銀行業務に支障なしと判断されたら大蔵大臣就任を承諾すると返答したのですが、いざ重役たちに諮ってみると、一斉

 に反対されてしまいました。中でも強く反対したのが、日下義雄でした。日下は明治29年9月から第一銀行監査役を務めていました。

  日下は第一銀行創立当時の事情や将来の利害得失を詳しく語り、大蔵大臣就任の不可なることを断言しました。この時の日下の顔に

 至誠の表情が現れているのを見て、渋沢栄一は就任を辞退することを決意しました。こうして、渋沢は日下やその他の重役たちと共に

 伊藤や山縣を訪ねて了解を求め、正式に辞退することとなったのでした。

  渋沢栄一の大蔵大臣就任辞退を聞いた井上馨は、政権運営に頗る不安を感じ、内閣を組閣することを断念しました。賊軍とされた会津

 藩の出身でありながら日下義雄は井上馨の知遇を得て、出世していったので、井上には大きな恩があり、恩返しのためにも渋沢に大蔵大臣

 就任を強く勧めるべきとも思われますが、後日、井上は当時を回想して、大命を受けなかったことは却って幸いだったと述べています。

 ここに、目先の利益や栄光を考えない日下の深い思慮を見ることができます。なぜ却って幸いだったのか私にはよくわかりませんが、日下の

 このような思慮深い面が井上馨から信任を受けた理由の一つだったのではないかと思われます。

  今回の話は、『日下義雄傳』に寄せた渋沢栄一の序文に記載されています。  



平成26年4月     ー もう一人の ”サダキチ” ー


  ”サダキチ”と聞くと、私たち会津に興味のある者には白虎隊士の飯沼貞吉がすぐ頭に思い浮かびますが、ここで紹介するのは、

 カール・サダキチ・ハルトマン(1867.11.8-1944.11.22)です。サダキチの父親は会津藩にとって大いに関係のある人物で、山本覚馬が

 長崎で小銃1300挺の購入を交渉した相手 レーマン・ハルトマン商会のカール・オスカー・ハルトマン(1840-1929)です。

  オスカー・ハルトマンはドイツのハンブルグ出身で1863年(文久3年)に長崎に来て、貿易業務に従事し、ドイツのオルデンブルク出身

 のカール・レーマン(1831-1874)と共に、長崎で1866年(慶応2年)10月にレーマン・ハルトマン商会を設立しています。

  オスカー・ハルトマンは長崎で日本人女性 ”さだ” との間に2人の男の子をもうけており、次男がサダキチです。

  サダキチは幼くして母親を亡くしたため、兄と共にドイツの親戚の家に預けられて教育を受け、後にドイツ帝国海軍の兵学校に入れられ

 ます。しかし、文学好きのサダキチには肌が合わず、パリに脱走します。これが父親の怒りを買い、勘当されて1882年6月に無一文で

 アメリカのフィラルディアの親類の家に預けられました。そして、独学で文学や芸術を学んでいます。

  サダキチは写真を芸術として扱った先駆者であり、文芸・演劇・映画などの評論家として活躍するとともに、脚本家、俳優としても活動して

 います。死亡したときは、「タイム誌」が彼を3度結婚し、15人の子をもうけたと報じているそうです。サダキチの人生はまさに社会の習慣に

 縛られず、自由気ままな生活を送った、ボヘミアンとしての人生だったようです。
 
 
 参考文献
 
  『山本覚馬覚え書』 竹内力男著  同志社談叢第21号

  『出島―長崎―日本―世界 憧憬の旅  ーサダキチ・ハルトマン(1867―1944)と倉場富三郎(1871―1945)ー』 ケネス・リチャード著
  
  ウィキペディア 『サダキチ・ハートマン』



 平成26年3月   ー 明治の兄弟 ー山川家の人 ー


  最近、白虎隊の会長崎支部の会員から 『 明治の兄弟 ー山川家の人々ー というタイトルのDVDを1枚もらい受け、早速見てみました

 がとても感動し、途中何度も涙を流しました。「劇団ぴーひゃらら」 という福島県会津若松市を拠点として活動している劇団が平成20年

 7月に福島県白河市文化センターで上演したもので、福島市出身で札幌市在住の石村えりこさんという方が脚本を書かれています。

  劇の中で、大山巌と山川捨松の縁談が持ち上がり、縁談に断固反対する山川浩の元へ大山巌のいとこの西郷従道が何度も訪れて

 説得にあたる場面や、浩の弟の健次郎がアメリカ留学体験を元に浩に時代が変わったことを告げて、結婚を承諾するよう迫ったりする

 場面がありますが、とてもよくできた脚本だとたいへん感心しました。会津若松城入城を果たし、軍事総督となった山川浩が戦場から帰

 って来た白虎隊士の弟、健次郎を「なんで死んで来なかったのか」と叱責したり、健次郎が浩に「アメリカで死ぬ気で頑張って勉強した」

 と言うシーンは特に心に響くものがありました。ただ薩長の横暴、会津の悲運を強調しすぎる感じを受ける今までのドラマと違って、「会津

 藩も古い体質を持っていたので薩長に遅れをとった」と率直に語らせているところに好感を抱きました。

  劇の中に出てくる登場人物の中では西郷従道に非常に感銘を受けました。たいへん人物的に大物だという印象を受けました。役を演じ

 た方は劇団の団長だそうで、さすがだととても感心した次第です。ラストシーンはどのように終わるのか途中から気になって見ていました

 が、無事に心を和やかにさせてくれるシーンで終わり、良かったです。

  この劇は平成19年に 「ふくしまの歴史と文化再発見演劇祭」 で舞台脚本正賞を受賞しています。なるほどと思いました。なお、この劇

 は平成21年10月に会津のかつての宿敵の地である鹿児島でも公演されており、終了後は拍手が鳴り止まなかったそうです。

  ぜひ、かつて会津の人々が訪れた会津ゆかりの地、長崎でもいつか公演をして欲しいものだと思います。この演劇では舞台中央の上

 の方に会津唐人凧がかけられていますが、これは江戸時代に長崎から会津へ伝わったものと言われています。すると、やはりいよいよ、

 長崎でも公演してもらいたいものだと思わずにはいられませんね。                                                                



平成26年2月      ー 勝海舟の会津藩批評 ー

  勝海舟が慶応3年当時、会津藩をどう見ていたかについて、司馬遼太郎の『燃えよ剣』下巻に次のとおり紹介されています。勝海舟が

 密かに随想として書き留めていたものだそうです。慶応3年といえば、長崎で勝海舟と親交のあった神保修理が江戸の藩邸で切腹させ

 られた前年にあたります。

   「 会津藩が京師に駐留して治安に任じている。しかしながらその思想は陋固で、いたずらに 生真面目である。しかしかれらは、

    いかにすれば徳川家を護れるかという真の考えがない。その固陋な考えこそ幕府への忠義であるとおもっている。おそらくこの

    ままでゆけば、国家を破る者はかれらであろう。とにかく見識狭小で、護国の急務がなんであるかを知らない。(中略)
   
     このさい、国家を鎮め、高い視点からの大方針をもって国の方向を誤たぬ者が出てくれぬ ものか。それをおもえば長大息ある

    のみだ。(作者ーもっともこういう勤王佐幕論よりももう一つ上から、当時の国情を見ていたのは幕臣では勝海舟 ひとりである。あるいは、将軍慶喜も

     そうであったかもしれない。慶喜の“幕府投げ出し”を会津藩士が 激怒したのは、こういう意識のちがいにある。
) 」 ー 作者・司馬遼太郎の意訳 ー 
   
  
  上の文章中、「いたずらに生真面目」というところが興味深いというか、面白く思われます。上の勝海舟の批評は結構当たっているの

 ではないでしょうか。しかし、孝明天皇からの信任厚く、信義を重んじる会津藩としては、どうしてもそうならざるを得なかったのでしょう。

  司馬遼太郎は、伏見で元新選組隊士から狙撃されて負傷し大坂で療養中の近藤勇を見舞った土方歳三に、次のように言わせていま

 す。

  
    「おれは伏見、淀川べり、八幡でさんざん戦ってみて、この眼で、会津人の戦いぶりをはっきりと見た。老人、少壮、弱年、あるいは

    士分足軽の区別なく会津藩士は骨のずいまで武士らしく戦った。もう、みごとというか、いまここで話していてもおれは涙が出てきて

    仕様がねぇ。武士はあああるべきものだ。」
 
  このあと、『「わかっている」 近藤はおもおもしくいった。』と続くのですが、司馬遼太郎はよくぞ書いてくれたと、思わず嬉しくなってしま

 います。

  勝海舟は、ひたすら勤王佐幕に邁進した会津藩より高い視点から国家のあり方を考えていたのであれば、明治に入ってから政界で大

 いに活躍し、薩長閥の明治政府が朝鮮を侵略したりして、欧米列強のように帝国主義の道を突き進むことがないよう尽力してもらいたか

 ったと思う。 



 平成26年1月     ー 日下義雄の妻の墓地清掃 ー

  日下義雄は、会津の飯盛山で自刃した白虎隊士 石田和助の実兄で、第8代長崎県令として明治19年3月21日に長崎に着任して

 います。そのわずか9ヶ月も経たずして、最初の妻、可明子夫人が同年12月11日に脳充血で亡くなりました。葬儀は長崎の皓臺寺で

 行われ、当時の新聞によると会葬者が2千人以上もいたそうです。

  可明子夫人の命日に近い昨年12月8日(日)、白虎隊の会長崎支部の会員7名によって皓臺寺にある可明子夫人のお墓の清掃が

 行われました。水鉢には泥が溜まってあり、水できれいに落としたり、落ち葉はほうきではわいて会員が持ち帰りました。清掃の後、わず

 か26歳の若さで亡くなった可明子夫人のお墓にお線香とお花が供えられました。




       




平成25年12月      ー 高木盛之輔 ー
                       
  NHK大河ドラマ「八重の桜」も今月で終了しますが、山本八重の隣人で親友の高木時尾の役を貫地谷しおりさんが演じていました。

 照姫の右筆(書記)になったり、後に元新選組3番隊組長の斎藤一と結婚しました。その時尾の弟 高木盛之輔(1854~1919)も子役で

 「八重の桜」にしばしば登場していました。山本八重からは鉄砲の打ち方を習っています。明治になり、西南戦争が起ったときは山川浩の

 隊に属して薩摩士族と戦い、熊本城を守っていた政府軍を救出しています。その後は司法官となり、国内各地の地方裁判所で検事正を

 務めました。管理人の知人が調べたところによると、時期は不明ですが長崎地方裁判所にも検事正として赴任したことがあったそうです。
 
  実は検事正官舎として使用されていた建物が現存しており、ひよっとしたら高木盛之輔もこの建物に住んでいた可能性もあります。その

 建物というのは、諏訪神社下の馬町に1878年(明治11年)7月に開業した西洋料理店「自由亭」です。1886年に店主が亡くなり、自由

 亭はその翌年に廃業されました。その建物を長崎地方裁判所が購入し、検事正官舎として使用しました。その後、長崎市が保存のため

 検察庁から譲り受け、1974年(昭和49年)にグラバー園内に移築復元しています。 



                

                           自由亭



平成25年11月      ー 福地苟庵 ー

   先月、この欄で福地桜痴を取り上げましたが、福地家は先祖代々から長崎に住んでいたわけではなく、祖父の代に長崎に移住して来て
 
 います (親類は長崎に住んでいたかもしれませんが)。祖父 福地嘉昌は讃岐丸亀藩士矢野某の子で医学を学び、京に来てから福地源輔

 の養子になりました。養父の死後京を去り、長崎に来て新石灰町で町医者として開業しました。長崎に来ていたシーボルトとも交際を結んで

 います。桜痴の父はこの福地嘉昌の養子となり、その一人娘 松子と結婚して桜痴が生まれています。 

  桜痴の父 福地苟庵(こうあん)は1795年(寛政7年)に長府藩士で剣術師範家の岸田丈右衛門の子として長府で生まれました。長府は

 現在下関市の行政区域となっています。苟庵は号で本名は載世といい、幼い頃は病気がちだったそうで、武芸は好まず、専ら読書にいそ

 しみ、15歳頃から長府藩儒 国島竹舌の門で漢学を学びました。 その後、20歳頃に大坂に出て、儒学者で書家の篠崎小竹の門で数年学

 び、塾頭をつとめています。そして篠崎塾を辞して諸国を漫遊した後、長崎に至り、福地嘉昌の家で子弟に学問を授けるかたわら、医学を

 研究するようになりました。福地嘉昌には子供が娘一人だけだったので、苟庵が養子に迎えられ、家業の医業(漢方医)を継いだ次第です。

  福地苟庵は、安政年間に唐人屋敷出入医師として長崎奉行所配下の役医師に任ぜられました。また、砲術家の高島秋帆とも親交があ

 り、子の福地桜痴は1898年(明治31年)に 『高島秋帆』という著作を執筆しています。
        
  福地苟庵は1862年(文久2年)、68歳で世を去りました。墓は長崎市鍛冶屋町の大音寺にあります。

                                              (参考文献 亀田一邦著 「幕末防長儒医の研究」 2006年) 



平成25年10月     ー 福地源一郎 (福地桜痴) ー

  幕末の長岡藩家老 河井継之助を描いた司馬遼太郎の名作『峠』に、長崎出身の幕臣・福地源一郎(1841~1906)がしばしば登場

 します。福地は幕府崩壊後の慶応4年閏4月3日(1868年5月24日)に江湖新聞を創刊し、旧幕府寄りの記事を多く書いたそうです。

 『峠』に次の一節が書かれてあります。

   「かれは旧幕臣であり、かつ佐幕主義者であったために、東北の山野でたたかっている会津藩の抵抗に対してこの新聞はきわめ

    て同情的であった。」 

   福地源一郎は江湖新聞で薩長の批判記事を書いたために新政府から逮捕され、江湖新聞は慶応4年5月22日(1868年7月11日)

 付けをもって発行禁止となってしまいました。わが国最初の新聞筆禍事件として知られています。幕府が崩壊し、勢いを増していく一方

 の新政府を堂々と批判するとは、福地源一郎はかなり気骨のある人物だったと思われます。福地は明治維新後は名を桜痴(おうち)と

 号し、明治7年、毎日新聞の前身である東京日日新聞の主筆となって言論界などで活躍しました。

  福地源一郎は長崎の新石灰町(現在の鍛冶屋町と油屋町の一部)で生まれましたが、医者である父 福地苟庵は長州藩の支藩の一

 つ、長府藩の出身ですので、長州と縁があります。

  なお、江湖新聞は早稲田大学図書館のホームページで閲覧することができます。「資料タイトル/キーワード」に江湖新聞と打ち込ん

 で検索し、どれかを選んで「画像情報」をクリックして閲覧できます。

  現代人には読むのがなかなか難しいと思われますが、興味のあられる方はのぞいてみて下さい。 

        


            

                           長崎市油屋町に立つ福地桜痴の記念碑と看板




平成25年9月      ー 山本覚馬 ー

  NHK大河ドラマ 「八重の桜」では、明治になってから山本覚馬が京都で大いに才能を発揮し活躍している姿が見られるようにな

 りました。8月28日に放送された「歴史秘話ヒストリア」でも博覧会を開催して外国人に京都の工芸品を紹介したり、外国語のパンフ

 レットを作成したりした山本覚馬が取り上げられていました。

  新政府から見出され、京都の発展に大きく貢献したわけですが、対照的に人材を充分活かしきれなかった会津藩が残念に思われ

 ます。長崎で勝海舟や薩長の藩士とも交流のあった神保修理や山本覚馬ら開明的な藩士をもっと重用していたら、幕末の会津藩も

 違った展開になったかもわかりません。秋月悌次郎まで、一時しかも大事な時期に蝦夷に左遷されてしまいました。山川健次郎など

 明治になってから日本の教育界で大いに活躍するほど会津藩では優れた教育が行われたと思いますが、幕末において、藩の政治・

 外交に充分活用されなかったのではないかと思われます。

  しかし、会津で行われた教育も、会津藩が守ろうとした徳川幕府の治世下ではなく、新政府治世下の明治になってから多くの人材が

 花を咲かせたのは皮肉に思われるのですが、いかがでしょうか。



 平成25年8月      ー 萱野権兵衛と北原雅長 ー

  7月28日に放送された大河ドラマ「八重の桜」では、斬首される直前の萱野権兵衛が白装束姿で梶原平馬や山川大蔵と最後の別れを

 交わしていました。実はその白装束は藩主の松平喜徳が権兵衛に下賜したものでした。明治22年に初代長崎市長となる北原雅長は、

 この時、松平喜徳に呼び出されて、「その方は、権兵衛の倅 初之助に代わって、よく事を処すべし」と命じられています。家族と引き離さ

 れ、東京に一人幽閉されている権兵衛の心中を察しての言葉でした。

  会津戦争後、反逆首謀者として神保内蔵助、田中土佐、萱野権兵衛の3人が指定されますが、生きているのは萱野権兵衛一人だけで、

 上記の藩主の言葉には父 神保内蔵助の介錯をつとめるつもりで、権兵衛の介添をせよ、という意味も込められていたのでした。

                                                           (早乙女貢著 「続会津士魂1」)

  北原雅長は刑の執行後、権兵衛の亡骸を兄 神保修理が眠る興禅寺に埋葬しています。



 平成25年7月      ー 『ならぬことはならぬ』 ー

  福島県会津坂下町ご出身の大堀哲 長崎歴史文化博物館館長は、このほど『ならぬことはならぬ』という本を出版されました。

  第1章は「会津に咲いた大輪の花・八重桜~”会津のこころ”を貫いた山本八重の生涯~」について、第9章は「会津士魂を培った

 会津藩の教育」について、第10章は「幼年教育の重視と『ならぬことはならぬ』」というタイトルで、読みやすく、興味深い内容となって

 います。

  この本の印税はすべて、東日本大震災の復興のために寄付されることになっていますので、よろしくお願いいたます。

  
    注文先   長崎文献社  TEL 095-823-5247  FAX 095-823-5252  


                          
                               



 平成25年6月      ー 神保修理 ー

  明治35年4月の東洋日の出新聞に神保修理に関する記事があり、修理が勝海舟に贈った辞世の詩が掲載されていましたが、
 
 「君等努力報國家、眞僕所願也」(君等力を國家に報ゆることに努めよ、真に僕の願うところなり)という部分の「僕」の印刷文字が

 潰れていて、判読が難しかったのですが、「僕」らしく見えたので、とりあえず「僕」ということにしてこのホームページに紹介していました。

  後で修理の弟、北原雅長の著書『七年史』で確認したところ、やはり「僕」となっていましたので「僕」であることが判明しました。

  私は当初、この時代に「僕」という言葉が使われることに半信半疑でした。『七年史』にも掲載されていたので、間違いないことがわかり

 ました。ただ、この時代に「僕」という一人称が使われていたことはとても意外でした。ところが、先週水曜日(5月29日)に「NHK」で放送

 された吉田松陰と高杉晋作に関する番組で吉田松陰が「僕」という言葉を日常使っていたことが紹介されていました。早速、購入以来、

 長らく本棚で眠っていた「吉田松陰撰集」((財)松風会)で松陰の書簡を確認したところ、「余」とか「吾」という言葉もあるのですが、「僕」と

 いう言葉を使っている手紙もありました。例えば、江戸の獄にいた松陰が同じく江戸にいた高杉晋作に宛てた手紙の中にこういうのがあり

 ます。

 
 「僕此の度の災厄、老兄在江戸なりしのみにて大いに仕合せ申し候。御厚情幾久敷く感銘仕り候」(安政6年10月7日)

 
  解説文によると、晋作が藩命により帰国することになったことを知って書いた手紙だそうです。

  神保修理が書いた書状は他に残っているのでしょうか。 僕という言葉は書状でだけでなく、吉田松陰と同じく日常生活でも使っていたの

 かもしれませんね。



 平成25年5月      ー カール・レーマン ー

  大河ドラマ「八重の桜」で長崎が舞台になったので、この前日曜日も見ましたが、今日(5月4日)も再放送を見ました。ドラマでは山本覚馬

 と神保修理の二人が鉄砲の買い付けのため、長崎を訪れていましたが、実際は山本覚馬に同行したのは、山本と同じ「大砲隊」に所属した

 中沢帯刀(後に武田信愛と改名)でしたね。そしてドイツ人商人カール・レーマンと1300挺の小銃購入契約を締結したのが、今日5月4日

 (1867年)でした。カール・レーマンの娘のルイーズ・シャルロット・オトキさんは1864年2月25日生まれなので、ドラマでは少女でしたが、

 実際はこの時はまだ3歳になったばかりでした。母親はKija Eakiという長崎の女性ですが、早く亡くなったそうです。オトキさんはこの年父親

 に連れられてドイツに渡っていますが、途中、パリの教会で洗礼を受けています。カール・レーマンは1874年、故郷オルデンブルクで肺結

 核のため42歳で亡くなっています。生前、健康が悪化していた1868年に私生児認知のための請願書をオルデンブルク国政府に提出して

 いますが、かわいい娘の将来を思って遺産相続ができるようにしたものであり、親としての情が偲ばれますね。  



 平成25年4月      ー 西郷四郎 ー 

  長崎を訪れた会津出身の著名人の中で最も長く長崎に滞在したのは西郷四郎です。彼は後半生の大部分を長崎で過ごし、長崎が第二

 の故郷となりました。その間、長崎の女性と結婚して家庭を築き、柔道や弓道を青少年に教え、東洋日の出新聞社の副社長格として言論

 界で活躍しました。また、長崎遊泳協会を設立して、青少年に水泳の指導を行いました。

  西郷は嘉納治五郎から柔道を習って講道館四天王の一人となり、小説『姿三四郎』のモデルになるのですが、長崎を主たる舞台にした

 西郷四郎の小説が生まれるといいなあと思っています。長崎でもっと西郷四郎が知られてもらいたいものだと思います。




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