管理人より


                

                                 長崎会津会で講演会を開催


                 今年令和4年3月21日、長崎会津会顧問の木下健東京大学名誉教授が吉武廣司同会副会長の別邸において、
 
                「技術そのものの特性 閉鎖的な保守性」と題して約1時間講演をされました。会員10名が出席しました。    
   
                木下健(たけし)先生は、東京帝国大学や九州帝国大学などで総長を務めた会津藩出身の山川健次郎のひ孫に

                当たられる方です。 
    
                 船舶工学や海洋工学がご専門で、東大教授を退官された後、長崎市にある長崎総合科学大学の学長を2期務められ、
 
                現在はNPO法人長崎海洋産業クラスター形成推進協議会の副理事長などに就任されています。長崎県の発展に

                とって、とても頼もしい人材です。

                 その木下先生が7年間に亘る長崎滞在を終えられ、近々長崎を離れられることとなり、記念の講演会をしていた 

                だいた次第です。その内容を以下に簡単にご紹介いたします。     

                 講演の項目は次の5つです。         

                    1.なぜ江戸時代初期の洋式造船術は継承されなかったのか?

                    2.日本近代科学の誕生

                   3.健次郎の実学、合理主義

                   4.明治・大正期の国際性と多様性

                   5.健次郎三原則


                 1については、徳川幕府の切支丹禁教令や鎖国政策が原因の一つであり、これは外航船が不必要になったことと、

                建造禁止令が出されたことも考えられるそうです。また、洋式造船技術を受け入れる素地、つまり関心がなかった 

                こと、そして技術を受け入れる側にその必要性とともに、重要性を客観的に認識できなかったことも原因だそうです。 

                 また、技術そのものに特性があり、自然的・科学的側面や、社会的・人間的側面があり、技術のもつ閉鎖的な保守性、 

                すなわち、容易な継承、移転、伝搬を許さないという特性があります。

                結論として、技術を継承するには、「物事の本質や優劣を普遍的に追及する近代科学が不可欠!」であると述べられ

                ました。

                 2については、日本近代科学の誕生は、オランダ通詞の貢献が大きいとし、長崎の2人の蘭学者、西川如見と志筑忠雄 

                を紹介されました。また勝海舟や榎本武揚らが学んだ長崎海軍伝習所の話もしていただきました。 

                 3の説明の中には山川健次郎の年譜や山川家の系譜があり、山川健次郎の娘照子が東龍太郎(東京都知事)に嫁ぎ、

                その子供の敦子が木下昌雄(日立造船社長)に嫁いで生まれた子が木下健氏だそうです。
   
                なお、山川健次郎は2男5女の7人兄弟姉妹の5番目に生まれており、長男の山川大蔵(浩)は陸軍少将、東京高等
   
               師範学校長となり、末っ子の5女の咲子(捨松)は大山巌(陸軍大将・元帥)と結婚しました。3女で健次郎の姉の操と

               結婚した元会津藩士の小出鉄之助という人は、明治7年の佐賀の乱で戦死しています。          

                山川健次郎は、国家にとっては学問が大切で、学問にとっては自由が大切であると説き、国家主義の人でしたが、軍部
 
               の「国家主義」とは別物だそうです。また大内兵衛というマルクス経済学者は、山川健次郎を帝国主義者と言っています

               が、尚武や防衛を説いても、侵略を奨めたことはなかったそうです。


                4においては、「私」を棄てられない人たちによる藩閥政治の弊害が現在まで続いているとし、利己的な覇権主義、暴力

               主義の脅威に日本を含む世界はさらされており、至誠、「私」を捨て「公」のために尽くす心に帰る時期に来ていると強く

               感じると述べられました。 

                5の健次郎三原則とは、1. Identity(アイデンティティ) 2. Gemeinschafts(ゲマインシャフト) 3. Diversity(ダイバー
    
                シティ)をいい、1のアイデンティティとは、自分はいったい何者なのかを認識することであり、家族愛、郷土愛、地域愛、

                国家愛につながるものであり、2のゲマインシャフトとは、共同体、同志愛を意味し、友の憂いに我は泣き、我が喜びに

                友は舞うものであるとし、3のダイバーシティとは多様性を意味し、人の話をよく聞き、謙虚になる必要があるそうです。   

                 私が、東大名誉教授の木下先生に、学問をするうえで必要なものが3つあるとしたら、それは何でしょうかとお尋ねした

                ら、それこそ山川健次郎の3原則であると述べられました。

                 最後に木下先生がおっしゃるには、日本は技術が立ち遅れており、時代のミッション(使命、任務)に遅れないようにしな

                ければならないと説かれ、そのためにはいろいろな好奇心で考えることが必要だと述べられました。

                たいへんありがたいお話しをしていただき、木下先生には厚く御礼申し上げます。今後とも長崎会津会顧問として、また

                長崎海洋産業の発展にご協力いただきますようお願いいたします。





                            







                                      西郷四郎と西郷頼母


  

                         
                                   「史伝西郷四郎」(牧野登著)より



                   西郷四郎は講道館を出奔した後、長崎にやって来ました。後に東洋日の出新聞の編集者として活躍しました。

                 「史伝西郷四郎」(牧野登著)によると、明治30年代の後半頃、長崎市の桜町に柔道場を開設し、「大東義塾」あるいは

                 「泰東義塾」と名付けたそうです。また、「明治百年 長崎県の歩み」(毎日新聞社長崎支局発行)によると、西郷四郎は
 
                 長崎公園裏の立山町に長崎講道館という柔道場を開設したそうです。
  
                   また、当時伊良林にあった長崎商業学校で弓道の講師をしたり、瓊浦游泳協会を設立して、子供たちに水泳を教えてい

                 ます。

                   西郷四郎は1866年(慶応2)、会津藩士志田貞二郎の三男として生まれ、明治17年に旧会津藩家老西郷頼母の養子と
    
                 なりました。当時西郷頼母は保科姓を名乗っていたので、四郎は保科四郎となりました。明治22年に名門西郷家が政府

                 から再興を許されたため、姓を改めて西郷四郎と名乗りました。


                   戊辰戦争後、西郷頼母のもとには長男吉十郎だけが生き残っていましたが、明治12年に22歳の若さで病死してしまいま

                 した。そのため頼母は四郎に養子縁組を依頼したわけですが、もともと四郎は頼母の実子だったのではないかという説も

                 あります。西郷頼母は、大東流合気柔術の継承者となるほど、合気道と柔術の達人だったようです。大東流合気柔術は

                 平安時代後期の部将、源義光が流祖だそうです。また、西郷頼母は身長が約140㎝ぐらいとみられ、西郷四郎は153㎝

                 ぐらいであり、身長が低い点や、武道の達人という点でも共通しており、四郎は頼母の血を引いているという気がします。

                 上の写真を見ると、 顔もどこか似ているような気がします。(左より西郷四郎、西郷栄之助、西郷頼母)

                   西郷四郎は1922年(大正11)12月23日に静養先の広島県尾道市で亡くなっており、今年で没後100周年となる

                  記念の年です。彼が生涯で最も長く暮らしたここ長崎で、今年西郷四郎に関するイベントが開催されれば幸いに思います。




                令和3年12月
  

                               池上四郎の日下義雄回顧談


                  『日下義雄傳 』 ( 中村孝也著 昭和3年発行)に、元大阪市長池上四郎の日下義雄回顧談が掲載されています。

                そこには日下義雄の厚い友情と面倒見の良さが記載されています。

                  日下義雄は嘉永4年12月25日(1852年1月16日)生まれ、池上四郎は安政4年4月18日(1857年5月11日)生まれで、 

                日下義雄は池上四郎より5歳年上です。池上四郎は明治11年に内務省警視局の警部補になった後、明治13年頃石川

                県警察部の警部となりました。 明治15年、内務省で登記法取調局と統計課の事務を兼務していた日下義雄は、石川県

                在職中の池上四郎の前途を深く気遣い、池上に、「将来のためを思えば、一旦職を辞して、今少し学問をしては如何か、

                学費の幾分かは僕が支出しよう」と熱心に勧めたそうです。 

                 池上四郎はいろいろ考えた末、周囲の事情が許さなかったので、「自分は国許へ送金せねばならぬ身分であって、官途を

                辞することは親に対して済まぬから、折角の御好意ですが、このまま勤続します」と日下に答えたそうです。  

                すると、日下は明治15年7月14日付の手紙を池上に送り、「親子間の事は他人が口を挟むべきでなく、いろいろ止むを

                得ない事情があると推察します」と述べています。この手紙には、宛名が「池上四郎」ではなく、「工藤四郎」となっており、
    
                池上も、「当時私は工藤姓を名乗っていました」と、日下義雄回顧談に書いています。

                何故、池上四郎が当時工藤姓を名乗っていたのか、興味深いところです。

                  その後、池上は富山警察署長となり、明治19年に日下は長崎県令となりました。すると、日下は池上を長崎県警察部長

                に推薦したそうです。しかし、これはあまりに異常の抜擢なので、内務省側に反対が出て、赴任することができなかった

                そうです。そして、それほど有為の人材ならば内務省へ採ろうということになって、池上は内務省へ転勤を命ぜられたそうで

                す。この人事は日下の好意に基づいたものであり、池上は後にこのことを聞いて、大いに感激したそうです。

                  そして、池上は、日下は「私をよほど信頼してくれたものとみえて、今度は長崎県の典獄に採用されました。典獄は知事

                限りで任用が出来るからであります。」と書いています。池上は明治20年(1887)10月31日付けで京都府警部兼下谷警

                察署長から長崎県典獄兼監獄課長に任じられていますから、京都府の下谷警察署長の前が内務省勤務だったのでしょう

                か?

                  明治22年12月26日付けで長崎県知事を非職となった日下義雄は、明治23年1月6日に横浜丸に乗船し、長崎を去り

                ましたが、池上四郎もその1ヶ月後の明治23年2月8日付けで警視庁勤務を命じられ、2月10日に西京丸で上京して行き

                ました。

                  池上は、日下のことを、「長崎の水道敷設に当たり、かの激烈なる反対運動を物ともせず、断々乎として之を遂行したの

                は、君の性格の強さを現したものであって、所信断行のためには、常に如何なる困難にも屈墝(くっとう)しない人でした。」

                と評しています。




                   引用文献

                       『日下義雄傳 』  中村孝也著 昭和3年発行  

                       ウィキペディア 『池上四郎』  


               令和3年1Ⅰ月
  

                                  日下義雄と渋沢栄一(4)


                 これまで3回にわたって日下義雄と渋沢栄一とのつながりについて見てきましたが、最後となります今回は、日下義雄の

               死去にまつわる話をご紹介します。
    
   
                1.日下義雄の遺言

                   日下義雄は大正11年の初め頃から体調が良くなかったのですが、同年9月に病院に入院しました。その時病院側

                  から手遅れになっており、手術はできないと告げられました。そして翌大正12年3月18日に73歳で亡くなりました。

                  葬儀は3月22日に行われ、会葬者はおよそ2千人ほどだったそうで、読経や焼香に2時間近くもかかったそうです。
  
                   明治43年5月、ヨーロッパへ旅行するにあたり、日下義雄は遺言書を作成しました。当時、日下はまだ60歳でした。

                  亡くなる13年も前に遺言書を作成しておりました。

                   遺言書は前文と本文からなり、本文は12項ありました。その中に、日下が人生において多大なる恩を受けた井上馨と

                  渋沢栄一に対しての遺言も含まれていました。言うまでもなく、日下義雄は明治の初め井上馨の書生となり、井上馨のお

                  陰で官界で出世していきました。日下が官を辞して実業界に入ると、渋沢栄一が頭取になっている第一銀行に入り、以後

                  渋沢栄一関連の会社の役員として活躍するなど、日下にとって渋沢栄一は実業界の恩師でした。 

                  日下義雄の遺言は、井上馨侯爵と渋沢栄一子爵の墓前にそれぞれ一対の燈籠を供えて、感恩の意を表したいという

                  ものでした。井上馨は大正4年9月1日に亡くなっており、日下は既に井上馨の燈籠建設基金の中にお金を寄附してい

                  ました。そのため渋沢栄一に対する分として、遺言書で遺言執行者に定められた第一銀行の法律顧問である高根義人

                  法学博士によって、渋沢栄一が創立した竜門社に金千円を寄附することとされました。この他、日下義雄は自宅の土地

                  約6千坪のうち、4千5百坪を東京帝国大学へ寄附しています。
  
   
                2.日下義雄の死後、渋沢栄一は日下家相談役となる

                    2時間近く続いた日下義雄の葬儀には、83歳の渋沢栄一は知友席に立って葬儀を見守っていました。そして日下の

                  遺言書の重要な事項については、遺言執行者の高根義人博士は、渋沢栄一や日下の親友である牧野伸顯伯爵、佐々木

                  勇之助第一銀行頭取の意見を聞いて、任務を忠実に尽くすよう努力しました。また、これら3人は日下家の親族会の

                  メンバーとなって、日下義雄の未亡人達子を日下家の相続人に選定しました。そして、この3人は請われて日下家の相

                  談役になりました。

                   そして、日下義雄の遺言書により、日下の遺産で組織された日下奨学財団法人の5人の理事の一人に渋沢栄一が就任

                  しました。なお、設立当時の評議員として、日下義雄と同じ会津若松出身の山川健次郎理学博士・男爵も就任していま

                  す。なお、この財団法人の資産は時価約17万円あったそうです。この財団は、日下の遺言により、東京帝国大学におい

                  て、経済学の普及と経済学者の養成を図るために設立されました。

                   日下義雄の遺言について、親友の牧野伸顯は、「遺族を扶持するに必要な分を除き、全部の財産を帝国大学その他

                  の公共機関に寄附して国家社会に有用なる人材を養成することにしたのは、まことに敬服に堪えざる次第である。」と

                  述べています。


                     引用文献

                         『日下義雄傳 』  中村孝也著 昭和3年発行  



               令和3年10月
  

                       日下義雄と渋沢栄一(3)


                先々月と前月に引続き、『日下義雄傳 』 (中村孝也著 昭和3年発行) から、日下義雄と渋沢栄一の関係を見て行き

               たいと思います。調べた範囲内で年表にしました。


                 明治29(1896)年9月26日  株式会社第一銀行の監査役となる。 ※ 渋沢は頭取
 
                 明治31(1898)年 1月   岩越鉄道株式会社の取締役となる。 ※ 渋沢は発起人、創立委員、取締役会長

                 明治34(1901)年 6月      京釜鉄道株式会社が設立され、その常務取締役となる。
                                      ※ 渋沢は発起人総会座長、創立委員長、取締役会長、清算人

                 明治37(1904)年 9月6日   韓国興業株式会社が設立され、その取締役となる。 ※ 渋沢は監督 
  
                 明治41(1908)年 8月4日   株式会社第一銀行の取締役となる。 ※ 渋沢は頭取
    
                 明治42(1909)年 7月17日  渋沢倉庫株式会社の取締役となる。 ※ 渋沢は発起人 

                 明治43(1910)年 7月20日  東洋生命保険株式会社の取締役となる。 ※ 渋沢は株主 

                 明治44(1911)年 12月24日  東邦火災保険株式会社の監査役となる。 ※ 渋沢は大株主会出席 

                 明治45(1912)年 6月20 日  東邦火災保険株式会社の専務取締役社長となる。   

                 大正7(1918)年 2月19日   扶桑海上火災保険株式会社の監査役となる。 ※ 渋沢は発起人会座長 
 

                 〇京釜鉄道

                   『日下義雄傳 』の著者 中村孝也は、日下義雄が実業界に入って最も力を傾けたのは、朝鮮(韓国)の京釜鉄道の

                  敷設であろうと述べています。日下は長崎県知事時代に長崎・佐世保間の鉄道敷設に熱心な援助を与えるとともに、

                  福島県知事時代には、岩越鉄道の敷設のために在任中ほとんど全力を傾倒するほどの熱心さであった、と中村孝也

                  は述べています。日下は地域が発展するうえで鉄道がいかに重要かをよく認識していたと思われます。

                   この京釜鉄道株式会社は、明治34年6月に設立されたのですが、株式の募集のため日下義雄ら会社創立の常務

                  委員らは同年1月から、全国へ手分けして遊説に出かけました。日下はその中でも大阪、京都、兵庫、愛知、三重、

                  静岡といった主要な方面を担当したそうです。

                   京城(ソウル)から釜山まで全面開通したのは、明治41(1908)年4月でした。その間、日露戦争時、日本軍人や物資の

                  輸送に大いに貢献しました。日本がロシアとの戦争に備えて京釜鉄道を敷設したようですが、ともかく当時の朝鮮には

                  この鉄道を敷設する能力はなく、日本は朝鮮の近代化に大いに役立ったと言えると思います。



                    参考文献

                         『日下義雄傳 』  中村孝也著 昭和3年発行  

                         『大河ドラマ晴天を衝け 渋沢栄一のすべて』 令和3年 宝島社発行




              令和3年9月
  

                       日下義雄と渋沢栄一(2)


                 前月に引続き、『日下義雄傳 』 (中村孝也著 昭和3年発行) から、日下義雄と渋沢栄一の関係を見て行きたいと思い

                ます。


                 〇 株式会社第一銀行の監査役に就任

                    明治28年7月16日、日下義雄は福島県知事から弁理公使に就任しました。弁理公使とは、特命全権公使に次ぎ、
 
                   代理公使の上位の階級の役職だそうです。現在ではほとんど用いられていないそうです。福島県知事時代から全権公

                   使になることを希望していたそうです。若い時、海外生活の経験がある日下義雄は、海外で活躍する機会を待っていた
    
                   ようです。しかし、弁理公使に就任したものの、日清戦争の影響などがあって、無任所の弁理公使となったまま時が過

                    ぎて行き、なかなか海外赴任の機会が巡って来ませんでした。中村孝也は「伊太利若くは米国などを夢に描きつつ、

                   空しく過して来た月日が侘しかったことであろう。」と述べています(『日下義雄傳』225ページ)。


                    ところで、民法の特別法として明治23年に商法が公布されて(明治29年まで施行が延期された後、さらに同32年
   
                   まで延期された末、廃止となって、新商法が制定される。)、会社は監査役を設置しなければならなくなりました。

                   株式会社第一国立銀行(明治6年6月11日創立)は明治29年9月25日を以て営業免許期限が満了となり、翌26日

                   から一般企業となりました。これに先立ち、渋沢栄一頭取は監査役となるべき適当な人物を探していました。そして岩越

                   鉄道の敷設運動に尽力した日下義雄弁理公使に目を付け、彼に監査役就任を勧誘しました。


                    この頃、日下義雄は既に官界生活を見限り、実業界に入ろうとしていたようです。三菱の第2代総帥の岩崎彌之助は、

                   明治26年に兄岩崎彌太郎の長男、岩崎久弥に総帥を譲り、監務(相談役)となっていましたが、日下義雄は三菱に入

                   ろうとして、岩崎彌之助と交渉していたようです。渋沢栄一から第一銀行監査役就任を勧誘された時、しばらく熟慮する

                   猶予を求め、「岩崎(彌之助)にも相談する必要がありますから」と付け加えたそうです(同書226ページ)。
    
                   そして、岩崎彌之助への相談も円満に了解されたらしく、日下義雄は明治29年9月26日、第一銀行監査役に就任し

                   ました。

                    この後、日下義雄は実業家となって行ったわけですが、中村孝也によれば、渋沢栄一の懇切なる指導の下に立った

                   わけです。中村孝也は、「官界の生活において、井上侯爵の恩遇の下にその前半生を送り、実業界の生活において、

                   渋沢子爵の恩遇の下にその後半生を過ごしたのであった。」と述べています(同書231ページ)。
  
                   日下義雄は明治41年に第一銀行監査役を退任し、取締役に就任した後、大正12年に73歳で亡くなるまで在任

                   しました。

                    日下義雄は、第一銀行以外にも渋沢栄一関連の会社の役員となりますが、これについては次回で延べたいと思います。

   


             令和3年8月
  

                                日下義雄と渋沢栄一 (1)


                 日下義雄と渋沢栄一の関係について、『日下義雄傳』 (中村孝也著 昭和3年発行)から見て行きたいと思います。

                
日下義雄がいつから渋沢栄一と知り合うようになったかは分かりませんが、『日下義雄傳』では、日下義雄が福島県

                 知事時代(明治25.8.20~28.7.15)に、岩越鉄道を建設するため第一国立銀行頭取の渋沢栄一に支援を要請したことが

                 紹介されています。

 
                 ○ 岩越鉄道建設

                     岩越鉄道とは、福島県の郡山駅と新潟県新潟市の新津駅を会津の若松駅を経由して結ぶ私設鉄道のことです。
    
                   その後国有化され、「磐越西線」(ばんえつさいせん)と改称され、現在JR東日本によって運営されています。

                   『日下義雄傳』には、「岩越鉄道は、福島県知事たりしとき殆んど全力を傾けて事業の基礎を定めたものであった」と

                   記載されています。岩越鉄道敷設のため、上京して政府当局に陳情したり、渋沢栄一子爵等朝野の有力者に援助を

                   請ひ、地方有志者に出資を勧誘し、寝食を忘れて尽力した、と記載されています。

                    また、日下義雄は、明治28年6月16日に有志者を集めて知事官邸において岩越鉄道に関する演説で経過報告を行い

                   ましたが、次の発言が注目されます。

                    「 余もまた該地方(会津地方)に同鉄道の必要なることは認むるを以て、出来得る限り斡旋尽力の労力を惜しまざる

                     べしと答え、上京の折を以て、親しく当時の当路者にもその状況を陳述し、併せて朝野の有力者をも訪問したり。

                     渋沢栄一氏の如きもまたその一人にして、余に向かって曰く、岩越線の軍事上、経済上必要なる線路なることはその
  
                     意を了せり。然れども地方人民にして熱心その目的を達せんと欲せば、まず地方資産家は率先して之に相当の資本

                     を投ずるの覚悟なかるベからず。」


                    なお、公益財団法人渋沢栄一記念財団のホームページには、「渋沢栄一ゆかりの地」の「福島県」の「会津に鉄道をー
  
                   岩越鉄道の創業」の「岩越鉄道株式」のところに、次のとおり記載されています


                     「1896(明治29)年8月4日(56歳)

                      是日、当会社創業総会開かれ、栄一会長に推され議事を主宰し、取締役に選ばる。尋いで九月八日会社設立免許を

                      を申請し、翌三十年五月二十六日免状下附せらる。」
    

                     「(渋沢栄一は岩越鉄道株式の)創立委員の一員となりました。また創業以来1903(明治36)年に退任するまで取締役
   
                      として同社経営に関与しました。」

  
                    日下義雄の努力のかいあって、岩越鉄道株式は第一国立銀行から民間会社となった第一銀行の頭取渋沢栄一の支援を
  
                   受けることができ、岩越鉄道は明治32年7月に郡山駅・若松駅間が開通し、大正3年に新潟市の新津駅まで全通しました。
 



              令和3年7月
  

                                     日下義雄の経歴


                  明治時代、長崎市で発行されていた「鎮西日報」に、第8代長崎県令となった日下義雄に関する人事関連記事が

                 時々掲載されています。今回は、明治17年から19年にかけての日下義雄の人事の記事をご紹介します。結構、

                 頻繁に人事が発令されています。



                 【鎮西日報 明治17年2月7日付】

                 ●任免
       
                     農商務権大書記官宮島信吉君ハ願に依りて兼統計課長を免ぜられ、同日日下義雄君ハ統計課長を

                    命ぜらる。」


                【鎮西日報 明治17年3月9日付】

                   叙任賞勲
                 ●明治17年2月22日
       
                          農商務権大書記官正六位  日下 義雄
        
                     兼任内務権大書記官 
       
                          内務権大書記官正六位   日下 義雄


                【鎮西日報 明治17年6月20日付】

                   叙任賞勲
                 ●明治17年6月11日
       
                     任一等驛遞官(えきていかん。驛遞とは明治前期、郵便と交通運輸とを合わせた呼称)

                     農商務権大書記官兼内務大書記官 参事院員外議官補 正六位  日下 義雄


                【鎮西日報 明治17年8月7日付】

                   叙任賞勲
                 ●明治17年7月24日
       
                        叙従五位
 
                                正六位  日下 義雄


                【鎮西日報 明治19年1月10日付】

                   官報
                 ●明治18年12月28日
     
                        一等驛遞官従五位

                  兼任遞信大書記官        日下 義雄
    

                        一等驛遞官兼農商務大書記官内務大書記官

                  免兼官
                               日下 義雄


                【鎮西日報 明治19年2月26日付】

                   電報
                 ●県令拝命 [昨25日午後3時20分東京特発]
   
                    日下義雄君長崎県令に任ぜらる

                   従五位日下義雄君(山口県)ハ前に一等驛遞官兼内務農商務大書記官を奉職せられしに

                   客年12月政府大改革の後ち一等驛遞官兼驛信大書記官に任ぜられ、内務農商務大書記官の

                   兼任を解かれし方なり。


                【鎮西日報 明治19年2月27日付】

                ●日下県令

                   今般本県令に任ぜられし日下義雄君履歴の大概を記すに、君元は旧会津藩にて、その後

                  縁由ありて山口県の本貫となり、明治4年太政官の官費生に抜撰せられ、故岩倉全権大使に

                  随い、米国へ遊学し同7年春の頃帰朝し、太政官7等出仕に任ぜられ、 

                     ~以下省略~



                 日下義雄は旧姓は石田氏ですが、上の記事が正しければ、山口県の日下氏に養子入りしたのかもしれません。

                日下義雄は長州藩出身の井上馨の書生となってから栄達していったので、石田姓から日下姓に苗字を変えたことに

                ついては、井上馨の何らかの関与があったのかもしれません。 





              令和3年6月
  

                       
 北原雅長の長崎県庁勤務


                 北原雅長は明治16年6月18日付で長崎県少書記官に任命されました。当時は書記官には大書記官と少書記官とが

                あり、現代で言えば副知事の様な官職でした。

                 北原雅長が長崎県に赴任して来た頃の鎮西日報の記事に、長崎県庁で開催された会議の会長に北原が就任して

                いるものがありますので、以下に紹介します。
    
 
                 【明治17年3月12日付鎮西日報】    

                   ●県庁会議

                      一昨日正午12時より午後3まで当県庁内にて、各課係り人の本年の通常県会に附する議案を

                     会議されしよし。会長は北原少書記官なりしという。


                    【明治17年9月2日付鎮西日報】    

                   ●勧業諮問会開会式

                      昨日交親会において長崎県第2回の勧業諮問会開会式を執行されたり。

                     今、その実況を記さむに、当日午前11時委員一統各々席の前面に直立し、

                     川崎勧業課長の先導にて県令代理として北原少書記官は会頭席の前面に 

                          
立ち、左の演説あり。

                       「 本日、県令代理として、この開場に臨み、第2回勧業諮問会の開会式を行う。

                        諮問案等は既にことごとく整頓したれば、会員諸氏において細密に議せられん
       
                        ことを希望す。」

                       次に諮問会員総代として7番会員北高来郡高橋又喜氏、左の答辞をなしたり。

                       「 伏して惟(おもいみ)るに、物産を興し、事業を進むるはもっとも今日の急務

                        なるをもって、我が県令閣下はここに第2回勧業諮問会を開かれ、意見を

                        諮問せらる。実に厚と言うべし。
        
                        然れども、不肖ら何をか言はん。古人かつて、愚者千慮一得ありと言えり、

                        敢えて所見を尽くさざらんや然り。而して、閣下はあらかじめ会前にあたり、

                        諮問案を下附せらるるをもって、その条項についてこれを考ふるに、その

                        諮問せらるるところもっとも急務にして、かつ、その順序なるを信ぜり。

                        ここに、本月本日を卜し、開会式をあげられ、その末班に列する■を得る。

                        実に又喜らの光栄と言うべし。
    
                        よって■詞を綴り、もって閣下の盛意に答ふと云爾(しか言う)。

                           明治17年9月1日
   
                              勧業諮問会員総代  高橋 又喜
 
                    右終わりて、北原少書記官は会頭の席に就かれ、会員各々席に就く。
    
                  会頭(北原君)は開会を会員へ報じ、書記をして第1号諮問案(水属肥料製造の

                  得失)を朗読せしめ、番外2番(黒崎8等属)は、右第1号諮問案につき、北海道の
   
                  海産(イワシその他の類)の例を挙げ、当県下にも今までのごとく、イワシの類を
 
                  直ちに肥料とせず、この製造所を設け、油を取り、その粕を肥料とするときは、

                  その利益を得る等の数項例証を挙げて説明され、正午に及びたれば、会頭は

                  閉会を報じ、明日開会の旨を告げて、各々退場されたり。

                   また、会員の番号、姓名は、
 
                  1番 南高来郡宮崎清人  2番 上県郡平山茂左衛門  3番 欠席

                  4番 西彼杵郡牟田源一郎  5番 石田郡長田惣兵衛  6番 欠席

                  7番 北高来郡高橋又喜   8番  東彼杵郡南江兵衛

                 10番 北高来郡貝田貞■   11番 欠席  12番 長崎区森栄之

                 13番 東彼杵郡峯卯良太   14番 長崎区小曽根正樹

                 15番 北松浦郡日高彰一   16番 下県郡西原松太郎 17・18番 欠席   

                  員外会員は、 1番 川崎勧業課長、 2番・3番は荒木5等属、江頭5等属

                 黒崎8等属が代わる代わる説明員に当たらる。

                  4番 東彼杵郡書記峯東哉 5番 北高来郡書記田中友輔

                  6番 壱岐石田郡書記許祭虎一 7番 欠席  8番 南高来郡書記富永正喬
 
                  9番 長崎区書記中島藤十郎 10番 欠席  11番 北松浦郡書記千浦守義の

                  諸氏なり。」  


                 上記諮問会の会員は、長崎県の全域から選出されていることがわかります。

                また、北原少書記官は県内を随時視察しており、明治18年7月11日付の鎮西日報には、

                   「 ●北原少書記官  

                        同君には管下南松浦郡巡回せらるるよしにて、8等属前田復二郎氏は昨日

                      その随行を命じられたり。 」

                 と掲載されています。 

                この後、北原雅長は、明治19年3月16日付で厳原支庁長を命じられて対馬に赴任して行きました。




           令和3年5月
  

                         西郷四郎の親友 井深彦三郎


                牧野登氏の著書『史伝西郷四郎』は、島津書房から1983年に発行されましたが、とても興味深い本です。
    
              長年にわたって西郷四郎を研究して来られた牧野氏の力作と言っていいでしょう。
    
              ところでこの本には、西郷四郎の親友だった井深彦三郎がたびたび登場します。井深彦三郎という人物も

              西郷四郎に負けず劣らずとても興味深い人物であります。井深彦三郎は長崎に数ヶ月滞在したことがあり、

              長崎に関する部分を主にこの本からご紹介します。


              1.生い立ち

                井深彦三郎の生年月日は慶応2年7月2日が通説のようですが、「ウィキペディア」では8月2日として紹介されています。 

               8月2日というのは、1912年に国華新聞社が発行した『第拾壱回改選 代議士銘鑑』に記載されているようです。 

              父は井深宅右衛門重義(550石 藩校日新館館長)で、彦三郎は6番目の子供として生まれました。 
    
              西郷四郎も慶応2年2月4日に生まれており、西郷四郎と井深彦三郎は同じ年です。井深彦三郎の母親は西郷頼母  
 
              近悳(ちかのり)の妹の八代子です。西郷四郎は明治17年5月14日に旧会津藩藩家老で保科に改姓していた近悳の養子

              となりましたので(明治21年1月23日に西郷家を再興)、西郷四郎と井深彦三郎とは義理の従兄弟ということになります。

              西郷四郎は西郷頼母の実子という説がありますが、二人は容貌がよく似ているので、どうも真実のように思われます。


             2.西郷四郎の親友となる

               井深彦三郎はは明治16、7年頃に会津若松から上京し、築地の学校で英語を学んだようです。西郷四郎は明治15年3

              月に上京しています。二人は東京で親しくしていたようで、明治19年1月下旬、東京の鈴木写真館で西郷四郎と井深彦三

              郎、山田重郎、一瀬熊鉄の4人で写真を撮っています。西郷四郎を除く3人はすべて西郷頼母近悳の甥だそうで、鈴木写

              真館の経営者 鈴木真一の3度目の妻は近悳の妹の美遠(みお)だそうです。


            3.荒尾精の門下に投じる

               井深彦三郎は明治18~19年頃陸軍参謀本部志那課附の将校荒尾精の日中提携による西洋列強からのアジア保全・

             興隆の考え方に共鳴して、その門下に投じています。そして、明治19年に荒尾精陸軍中尉が参謀本部から命を受けて

             中国へ渡ると、井深彦三郎も後を追って中国へ渡り、荒尾とともに情報収集などを行ったようです。

              明治22年、23歳の時、荒尾精が上海に日清貿易研究所を設立するため及び入学者募集のため日本に帰国すると、
   
             井深彦三郎も荒尾精に従って帰国しています。関東・北越・北海道・京阪の各地を遊説後福岡を経て、同年12月17日、

             長崎にやって来ました。長崎滞在中、荒尾精は市内の学校を訪問して生徒募集を行ったり、商人集会所などで日清貿易に

             関する講演を行っています。井深彦三郎は荒尾精の秘書的なことをしていたのではないかと思われます。
 
             そして、次の訪問先である熊本へ向けて12月23日、長崎港を出発しました。熊本、佐賀、鹿児島の3県を訪問した後、

             再び明治23年1月15日に長崎を訪問し、同月27日夜、鹿児島へ向けて出発するまでの13日間長崎に滞在しています。


            4.長崎滞在中、西郷四郎に書を送る

               井深彦三郎は明治23年1月頃、講道館に在籍していた西郷四郎に鈴木天眼が書いた『新々長崎土産』と題する書籍を

             長崎滞在中に送り、その書籍に井深が「あとがき」を書いて鈴木天眼という人物のことを西郷四郎に紹介しています。

             西郷四郎はこの『新々長崎土産』と井深彦三郎の「あとがき」を読んだことがきっかけ長崎に来たようです。

             実際、この明治23年6月21日に西郷は『志那渡航意見書』を書き残して講道館を出奔し、その足で志那渡航に便利な
    
             長崎に赴いたようです。


           5.長崎に半年滞在

              孫文を支援していた宮崎滔天が書いた『志那革命物語』に、中国へ渡るため長崎にやって来た宮崎滔天が偶然

             井深彦三郎と会って、酒を酌み交わしたことが記載されています。そして、井深彦三郎との会話の中で、井深は

             次のとおり発言しています。 これは明治32年7月10日の出来事です。


              『「実は僕此の長崎に座礁すること半歳ぢゃ。男の意地で座礁序に此処を根拠に一仕事目論んで居る。必ず成功する

               ぢゃ。今日は一つ僕が土着人と云う格で両君の迎送別会をやる。是れから出掛けよう。」と云うので山手の宝亭と

               云うところに案内された・・・』

 
              いったい、井深彦三郎は長崎で何をしようと目論んでいたんでしょうね。目論んでいたことが本当に実行されたのでしょう

             か。気になりますね。ちなみに、「宝亭」は小島郷にありました。明治42年1月14日に中国人の黄興と宮崎滔天はこの

             宝亭で会食しています。黄興は当時日本に亡命中で、孫文の片腕となった人物です。

              井深彦三郎は大正5年(1916年)に北京で病死しています。50歳でした。西郷四郎は大正11年(1922年)56歳で

             亡くなりました。






              令和3年4月
  

                              日にちの間違いについて


                 昭和56年に長崎市役所が発行した『長崎市史年表』には、日にちの間違いがあるようです。私は2ヵ所見つけたので、

                以下に指摘しておきたいと思います。

 
                1.「1889年(明治22)6月8日 北原雅長、天皇の裁可を得て市長に就任する」(125貢)

                  これについては、明治22年6月9日付鎮西日報に次のとおり記載されています。
    
                  〇市長就任
    
                   長崎市長はいよいよ北原雅長氏就任の裁可を経て本月4日官報に左の如く掲載せり。
    
                  長崎県長崎市長候補者中従六位北原雅長は去る一日市長就任の裁可を経たり。
   

 
                 6月1日に天皇の裁可を得て時から市長の任期6年がスタートしたわけです。6年後の鎮西日報には次のとおり

                記載されています。

                 【明治28年5月1日付鎮西日報】  

                  ○ 北原雅長氏   

                    先の明治22年市制実施に際し、公選を受け長崎市長に裁可されて就任して以来、歳月は既に6年が経過し、 
    
                   本年5月30日を以て満期を告げその後任の選挙が間近となった。 

    
                  「5月30日を以て」とありますが、「5月31日」の誤りだと思います。したがって、天皇裁可のあった明治22年
   
                 6月1日を市長就任日とするのが正しいと思います。



               2.「1886年(明治19)8月1日 清国北洋水師提督丁汝昌、北洋艦隊を率いて入港」(122貢)
  
                  実際は8月1日ではなく、8月10日に長崎港に入港しています。次の鎮西日報にそのことが記載されています。

                 【明治19年8月11日付鎮西日報】
   

                  ○ 清艦入港

                    
予定の如く定遠(旗艦) 、鎮遠・済遠・威遠の3号は孰れも昨10日午后1時40分浦潮斯徳より入港せり。


                 当時の新聞が8月10日に入港したと報道しています。今後は、8月10日と正しく記載する必要があります。





              令和3年3月
  

                             江戸時代に長崎に遊学した会津人


                 平松勘治先生は長崎県立長崎西高校や長崎東高校などで日本史の教諭として教鞭をとられた後、長崎県立長崎図書

                館長を経て、県立長崎北高校長を最後に退職されました。ご退職後は『長崎遊学者事典』の執筆に取り掛かり、各都道府

                県が所蔵する資料を取り寄せたり、自ら全国各地を回られて調査し、約10年かけて完成させました。

                 この本は、江戸時代に蘭学や医学、砲術、書、南画などを学びに長崎に遊学した1052名を出身地による都道府県別に

                まとめられています。今回は、この本に掲載されている会津出身者をご紹介させていただきます。

                なお、文章を一部省略したものもあります。


                 1.飯岡子玉 いいおか・しぎょく 生年不詳~1828 (?~ 文政11)
    
                   江戸時代後期の医者・俳人。若松城下に生まれた。江戸に出て六角越前守の祐筆となった。六角家は江戸幕府にお

                  ける儀式や典礼を司る高家の一つだった。その後、長崎に遊学して蘭方を修めた。

                  一方、早くから俳諧に関心を示し、諸国を遍歴して多くの俳友と親交をもった。

    
                 2.遠藤香村 えんどう・こうそん 1787~1864 (天明7~元治1)
    
                   江戸時代後期の画家。農家に生まれ、若い頃から画を好み、初めは若松城下の黒河内会山に学んだ。文化年間、会

                  津藩の勧めで江戸の谷文晁に師事した。その後、長崎に遊学して洋風画を学ぶ一方、外国事情を見聞した。

                  帰国後は御用絵師補に任じられ、専ら薬用本草の写生を行った。1818年(文政1)陸奥国岩瀬郷須賀川村(須賀川市)

                  に亜欧堂田善を訪ね、洋風画の遠近法・陰影法や油彩画の技法を学んだ。香村によって初めて若松城下に油絵が導

                  入されたといわれる。


                 3.加賀山蕭山 かがやま・しょうざん 1751~1828 (宝暦1~文政11)
    
                   江戸時代後期の書家。会津藩医の次男として会津城下で生まれた。幼年期は学業を好まずに馬術を習い、種々の
   
                  遊芸に耽った。このため父親はその妹に婿を配して家督を継がせた。21歳のとき友人たちに文字も読めずに禽獣と同

                  類だと罵倒され、これを機に一念発起し、ひたすら漢籍に親しみ、また書道と狩野派の習得に専心した。

                   3年間の修学の後、画家で親友の奥山磐谷と天下に良師を求めて遍歴を続け、ついに長崎にやって来た。ここに数
   
                  年間滞留し、来舶清国人から王逸少の筆法を学んだ。江戸に出て研鑽を重ね、1787年頃帰郷した後、やがて会津藩

                  主に認められて華様師範に取り立てられ、藩校日新館の教授を兼ねることとなった。 
    
                   長崎遊学中に学んだ王逸少を師とする一方、自ら新機軸を編み出して加賀山流と呼ばれるなど、会津藩書道の中興

                  と称えられた。 
 
 
                 4.佐瀬得所 させ・とくしょ 1822~1878 (文政5~明治11)

                   江戸時代後期~明治時代初期の書家。会津城下に生まれた。幼少の頃から書を好み、初めは星研堂に学んだ。 
    
                  欧陽詢・趙子昂の書を好んだ。後に長崎に遊学し、来舶清国人の銭少虎・江元曦らと筆法を論じるなどして研鑽を
    
                  積んだ。1868年(明治1)清国に渡航し、各地の諸大家を訪ねて教えを請うた。2年後帰朝して東京で書塾を開いた。

                 明治5年その書が天覧の栄に浴して名声大いに上がり、教えを受けるものは2000人に達した。 


                5.佐藤適圃 さとう・てきほ 1832~1915 (天保3~大正4)
    
                   江戸時代末期~明治時代の画家。会津藩士の子として若松城下に生まれた。幼少の頃から画を好んだ。初め長谷

                 川嵐渓に画を学ぶ一方、高津淄川について漢学を修めた。安政年間(1854~1859)長崎に遊学し、画僧日高鉄翁や三

                 浦梧門・小曽根乾堂らと親交を結んで南画の技法を磨いた。
    
                   維新後は東京・上野で画塾を開き、南画の研究に当たる傍ら、門人の育成に努めた。当世の画風の退廃を嘆き、
    
                 山水こそ南画の真髄と唱えて山水以外は描かなかった。


               6.佐藤墨渓 さとう・ぼくけい 1774~1846 (安永3~弘化3)
    
                   江戸時代後期の書家。若松城下に生まれた。幼少の頃から書道を好み、長じて江戸に出て諸大家のもとで研鑽を
    
                 重ねた。文化年間(1804~1817)の初め頃、長崎に遊学して3年間滞留し、来舶清国人らと親交を結んで書道の真髄

                 を究めた。


               7.塩田牛渚 しおだ・ぎゅうしょ 1829~1866 (文政12~慶応2)

                  江戸時代末期の画家。会津藩士の三男として会津城下に生まれた。若くして小姓に選ばれたが、生来、画才に恵ま

                 れ、暇を盗んでは画筆を弄んだ。後に絵師を志して致任が許されると、越後国に赴いて行田雲濤に師事した。その後、
 
                 京都で浦上春琴に花鳥画を学んだが、沈石田や沈南蘋の画風を慕って長崎に遊学した。

                  長崎で画僧日高鉄翁・木下逸雲や来舶清国人らと交遊する傍ら、元・明・清の名画に接して画法を磨いた。

                1862年(文久2)会津藩主松平容保が京都守護職の大任を帯びて上洛したとき、牛渚も京都・三条木屋町に居を

                構えて画業に専心した。その作が天覧に供されて賞詞を賜ったため、いよいよ名声が高まった。
    

               8.古川春龍 ふるかわ・しゅんりゅう 1828~1870 (文政11~明治3)

                  江戸時代末期の医者。幼名は留吉、別に春英。陸奥国河沼郡駒板村(福島県河沼郡河東町→2005年に会津若松

                市に編入)の農家に生まれた。12歳のとき若松城下に赴き、藩医山内春隴から漢方を学んだが飽き足らず、大坂に

                 出て緒方洪庵の適々斎塾で蘭学と蘭方を修めた。1857年(安政4)藩校日新館内に蘭学所が設置されることを知ると、

                急ぎ帰国の途につき、やがて蘭学所の教授に迎えられた。

                 1860年(万延1)重ねて医学研鑽の必要を痛感して大阪に赴き、再び師洪庵のもとで蘭方の習得に努めた。さらに

                1864年(元治1)37歳のとき長崎に遊学し、オランダ人医師ボードインから本格的に西洋医学を学んだ。戊辰戦争が

                勃発すると、急ぎ帰藩し、野戦病院となった藩校日新館で幕医の松本順を助けて傷病兵の治療に当たった。

                 戦後は陸奥国河沼郡島村(福島県河沼郡河東町→現会津若松市)の治療所長として傷病兵の治療と後進の指導に

                専心した。1870年(明治3)師ボードインに再会するため、長崎への出立を思い立ったが、出立直前に腸チフスで没し

                た。


               9.山内香雪 やまのうち・こうせつ 1799~1860 (寛政11~万延1)
   
                  江戸時代後期の書家。若松城下に生まれた。幼児から書を好んで書法を学んだ。1820年(文政3)江戸に出て
    
                儒者・書家の亀田鵬斎・大窪詩仏らに教えを受け、次いで市河米庵の門をたたいて研鑽を重ねた。文政6年25歳のとき
    
                京都・大坂の諸名家を歴訪した。さらに長崎に赴いて清国人の江芸閣から書法を学び、大いに得るところがあった。
    
                 帰郷後、会津藩の藩校日新館で書道を教授したところ、その名声は近隣諸国に伝わり、教えを請うものが跡を絶たな
    
                かった。梅花を愛し、梅を詠じた古今東西の詩千数百首を集めて『梅花集』を著した。
    
    
    
                    引用文献   『長崎遊学者事典』  著者 平松勘治  発行 (株)渓水社  平成11年






              令和3年2月
  

                 
               会津出身の長崎滞在者一覧


                 長崎を訪れた会津の人々はある程度の数いたでしょうが、長期間滞在した人はそれほど多くはないと思われます。

                そこで、今月はこれまでこのホームページで取り上げた会津人のうち、長崎に長期間滞在した人の滞在期間を年代順に

                まとめてみました。


                  ・古川春英 (医師) 1864年(元治1)~1868年(慶応4)2月?  

                  ・北原雅長 (長崎県書記官、長崎市長) 1883年(明治16)6月下旬頃~1895年(明治28)12月11日  

                  ・小野木源次郎 (梅香崎警察署長)  1885年(明治18)3月頃~1892年(明治25)10月中旬頃

                  ・池上三郎 (長崎控訴院検事) 1885年(明治18)11月30日~1893年(明治26)3月27日

                  ・小川渉  (長崎県尋常中学校教諭) 1886年(明治19)~1889年(明治22)

                  ・日下義雄 (長崎県知事)  1886年(明治19)3月21日~1890年(明治23)1月6日 

                  ・池上四郎 (長崎県典獄兼監獄課長) 1887年(明治20)年10月31日頃~1890年(明治23)2月10日 

                  ・高嶺秀四郎 (長崎獣医学校教諭、校長) 1888年(明治21)年頃~1896年(明治29)頃?

                  ・神保巌之助 (上長崎村長)  1889年(明治22)、1890年(明治23)頃~1896年(明治29)5月以降 

                  ・西郷四郎 (東洋日の出新聞発行人)  1891年(明治24)12月頃~1920年(大正9)初頭

                  ・柴五郎  (佐世保要塞司令官)  1908年(明治41)12月下旬~1909年(明治42)8月7日


                  このように、私が調べた限り、明治10年代後半から明治20年代末にかけて9人の会津出身者が長崎の各界で大活躍し

                 ていました。長崎人にとってはまさしく恩人と言える人たちでした。

                  しかし、会津出身者に限らず福島県出身者となると、他に長崎で大活躍した人として二本松出身の鈴木天眼がいます。

                 鈴木天眼は東洋日の出新聞を創刊し、長らく社長を務めました。



            令和3年1月
  

                              大村藩の会津戦争


                 大村藩が幕府から与えられた公式の石高はわずか27,793石ですが、実際の石高はもっと多く、1697年に行われた

                検地では、50,037石ありました。幕末期の検地では、59,060石ありました。その大村藩は戊辰戦争では新政府軍の

                一員として戦い、大村藩主は明治2年に維新に功労があった大名などに贈られた賞典禄では、3万石をもらっています。

                3万石をもらったのは他に、鳥取・大垣・松代・佐土原の4藩がありました。長州藩と薩摩藩は10万石、土佐藩は4万石、
    
                アームストロング砲で戦った佐賀藩は2万石でした。明治維新での大村藩の活躍が新政府からずいぶん高い評価を受け

                たことが分かります。

                 大村藩が戊辰戦争でどのように戦ったかについて、『新編 大村市史』第四巻(近代編)に詳しく記載されており、その中

                に、大村藩が会津攻撃に参加した様子も記載されていますので、以下にその概要を紹介します。


                 ・慶応4年(1868)6月7日、大村藩が東征大総督府から「奥羽追討の軍を発す、宜く諸藩の兵と共に十一日を以て江戸を
                  発し、品川を解纜して海路常陸の平潟に向ふべし」との命令を受けた。

                 ・8月19日、大村藩兵は二本松に陣し、翌20日、新政府軍は会津進撃を開始した。大村藩は彦根・岡山・柳川の3藩と
                  ともに二本松の守備を命じられたが、これを大村藩は不服とし、会津若松攻撃に加えられるよう諸参謀に働きかけ、
                  佐土原藩との交替により大村藩の参戦が決定し、先鋒隊を命じられた。

                 ・8月22日夕暮れ、大村藩本隊・別隊ともに猪苗代に宿陣した。

                 ・8月23日、大村藩兵を先鋒として、土佐・大垣・薩摩・長州藩兵は出陣し、会津若松城下の町口の要、十六橋に向かう。
                  十六橋が破壊されていたため、薩摩藩兵幹部の川村純義は一隊を率いて仮設橋を架けて、瀧沢峠の会津藩兵を撃破
                   し、一気に若松城下へ入った。

                 ・新政府軍は待機していた会津藩兵から側面攻撃を受け、退却しようとし、若松城の北西まで前進していた大村藩兵は
                  転進を命じられ、新政府軍を西側から援護した。薩摩・長州・土佐藩兵は砲撃を開始し、大村藩は早くも若松城大手門
                  まで迫ったが、ここで城からの銃撃を浴びて、戦闘は熾烈を極めた。そこに参謀から、敵兵が米沢街道から襲来するの
                  で同地へ赴くよう命令を受けた。大村藩兵は米沢街道に進んで敵兵を銃撃した。そして、米沢口・白河口の警備に当っ 
                  た。この日の戦闘で、大村藩兵は負傷して後日死亡した3人を含めて死者7人、負傷者5人を数えた。後日死亡した者
                  の中には砲隊長も含まれていた。

                 ・8月24日、若松城内の会津藩本陣から勢至堂口に出陣中の藩兵に対し城帰還の命が出されたことを新政府軍が察知
                  し、大村藩兵は瀧沢峠を越え迎撃しようとしたが、会津藩兵は現れず金堀村に宿陣した。その後、大村藩兵は薩摩・佐
                  賀藩兵と天寧寺山の会津藩兵を破って弾薬庫数ヵ所を占領し、城地を10町(1町は109m)余の近くに見下ろして砲撃
                  した。

                 ・8月27日、大村藩一番隊司令の土屋と二番隊司令の大村弥門が大村へ戦況報告書を送った。

                 ・8月28日、大村藩兵は昼夜の別なく若松城へ砲撃を加えた。
                  しかし、城内では城兵が凧揚げを行ったりして余裕の一面をも見せた。
    
                 ・9月8日、元号が明治と改元された。三道からの新政府軍が悉く会津へ集結したことを機に、参謀の伊地知正治、山県
                  有朋、板垣退助等が会見し、若松城総攻撃を決定した。

                 ・9月14日午前8時、大村藩砲隊は薩摩・佐賀・松代藩砲隊とともに砲列を小田山山頂に敷き、荒神山の砲台と通じて若
                  松城に一斉砲撃を行った。しかし、新政府軍の砲撃はなかなか若松城に命中せず、一方、会津藩による城内からの砲 
                  撃は空砲であった。

                 ・9月15日、米沢藩が会津救援のため襲来するとの報せがあり、大村藩兵は迎撃のため猪苗代に転陣した。敵兵の敗
                  走を見て猪苗代の守備は尾張藩兵に任せ、大村藩兵は若松城下へ引き返そうとした。

                 ・9月17日、大村藩兵が猪苗代滞陣中に、若松城は完全に新政府軍に包囲され、陥落寸前となった。
                  米沢藩が新政府に帰順した報に接した会津藩重臣は遂に藩を支えることは困難と悟る。
   
                 ・9月19日、会津藩士手代木勝任、秋月胤永、桃沢彦次郎が新政府軍に降伏を求めた。新政府軍参謀は降伏条件を使
                  者へ示して帰した。

                 ・9月21日、会津藩兵が降伏した。これに応じて新政府軍は若松城への砲撃を停止した。

                 ・9月22日、会津藩主父子と重臣等が素服を着用し城を出て、保有の兵器類を新政府軍へ献上した。後に藩主父子と家
                  族は瀧沢の妙圀寺に幽閉された。
                  大村藩兵は当時、猪苗代から若松城下へ引き返す途上にあり、この日、会津藩降伏の報せを新政府軍の使番から受
                  けた。
                  投降した会津藩城兵4900余人を猪苗代に移すので、それを大村・尾張・薩摩・彦根藩兵が監視するよう命じられた。

                 ・9月24日、会津処分が完了した。

                 ・10月7日、大村藩兵は福島に着陣し、1週間滞陣した後、凱旋の途に就いた。

                 ・10月9日、大村藩兵は福島で新政府から次のとおり、褒詞と目録を下賜された。


                                           褒詞

                      此度会津追討に付、薩州、長州、土州、大垣共数十日乃間、不容易尽力賊徒降伏に立至候始末感悦之至候、
  
                      依て褒詞如件
    
                                    白川口総督 正親町中将  花押
    
                         明治元戌辰年十月
    
                                               大村藩隊長
    
                           一 酒  五斗    代金七両
    
                           一 (するめ)  二百枚   代金参両

                          以上


                 ところで、会津戦争を含む戊辰戦争に参加した大村藩兵の数はどのくらいだったのでしょうか。戊辰戦争では大村藩
    
               兵のうち、関東・会津方面に出陣した藩兵を「東征軍」と呼び、長崎から海路秋田へ出陣した藩兵を「北伐軍」と大村

               藩領では呼んでいたそうです。
    
                 戊辰戦争参加者数について、大村市が平成28年に発行した『新編 大村市史』第四巻(近代編)』に次のとおり記載

               されています。


                 「 3万石に満たない小藩の大村藩が小銃隊4大隊、大砲隊1大隊編成で、584人という大規模な出兵を行い、新政府
 
                  軍の精鋭となって各地で善戦したことは注目すべきである。大村藩兵の受けた損害は、戦死者18人、戦傷者57人で

                  あった。」



                会津戦争に参加した大村藩でしたが、時代が下って、昭和2年に大村家の嫡嗣 大村純毅(おおむら すみたけ)と

              旧会津藩主松平容保公の七男 松平保男(まつだいら もりお 会津松平家第12代当主)の3男6女の第1子、松平

              芳子とが結婚しました。大村家と会津松平家が姻戚関係で結ばれたわけです。
 
               その後、昭和8年に大村純毅は大村家の家督を継いで、大村家第33代当主となり、昭和27年12月から昭和43年

              12月まで4期16年大村市長を勤めました。