11.出羽重遠

 海上自衛隊佐世保地方総監部の前身は佐世保鎮守府といい、明治22年(1889年)7月1日に設置されている。東郷元帥は中将時代に第9代司令長官として赴任している。第14代佐世保鎮守府司令長官となった人が会津出身の出羽重遠(でわ しげとお)である。出羽重遠は安政2年12月17日(1856年1月24日)に会津城下で会津藩士出羽佐太郎重信の長男として生まれた(朝日日本歴史人物事典)。重遠は戊辰戦争では白虎隊に属していたとする資料もあるが、年齢が白虎隊の年齢に達していないので、何かの間違いではなかろうか。戊辰戦争が終わり、父佐太郎が旧藩主松平容保の御用掛りとして上京することになった際、これに同行している(ホームページ「呆嶷館」より)。東京では秋月悌次郎らから教育を受けた後、明治5年に海軍の兵学寮(後の兵学校)に入学している。会津藩という「賊軍」出身でありながら、海軍の士官を養成する学校によく入れたものだという気がするが、それだけ優秀だったのであろう。それを証明するかのように、出羽重遠は海軍に入ってからすごい出世コースを歩んでいる。
 日清戦争では連合艦隊の参謀長となっている。日露戦争では連合艦隊の第三戦隊司令官として、対馬沖での日本海海戦で大いに活躍した。即ち、危険を覚悟の上でバルチック艦隊の懐深くに第三戦隊を突っ込ませて敵の心理面に影響を与え、敵艦隊から連合艦隊に先に砲撃をさせて戦端を開かせている。(ホームページ『日露戦争』」の「出羽重遠」を参考)日露戦争後は第二艦隊司令長官や海軍教育本部長を歴任した後、明治42年(1909)2月、第14代の佐世保鎮守府司令長官に就任し、2年10ヶ月間在職している。(~明治44年(1911)11月末)
  その後、明治44年(1911年)12月に第一艦隊司令長官になり、翌年7月大将に昇進している。ウィキペディア「出羽重遠」によると、それまで有栖川宮威仁(たけひと)親王以外の13人の海軍大将は全て旧薩摩藩出身であるとともに、出羽重遠が戊辰戦争で賊軍といわれた会津藩出身であったことから当時の新聞でも大きく扱われたそうである。薩摩閥が幅を利かせていた海軍にあって異例中の異例とも言うべき出世であった。会津魂をもって優れた働きをしたためと思われる。

 出羽重遠は昭和5年(1930年)1月、74歳で亡くなっている。

          

                       明治45年7月10日付東京朝日新聞

 出羽重遠は部下の将兵とともに長崎市をたびたび訪れている。いくつか当時の新聞記事を掲載する。

 

明治39年11月2日 長崎新聞

 ●第二艦隊歓迎会

 予報の如く昨日午後六時より横山市長は目下入港中の第二艦隊を迎陽亭に招じて歓迎晩餐会を開きたるが、之れより先同亭には正張より全庭に(わた)りて旗を長くには国旗を交叉するなど装飾尽くものあり。玄関には爛漫たる花を飾りて客を迎えたるが来賓の主なるは出羽第二艦隊司令長官、幕僚中尾少将、大佐名、壹岐(いき)艦長以下十名、艦長石井大佐以下十名、浪速艦長大佐以下九名、艦長山本大佐以下五名、千代田艦長築山大佐以下十名、艦長宮地中佐以下六名将校としては荒川知事、西川控訴長、水上検事長官衙(かんが)長官高等代議士、銀行会社、新聞社長等、名誉職員余、総数名にして、さしもに(ひろ)大廣間は名誉ある貴賓をされ、電燈の間の燦爛として人を眩目(げんもく)せしめたり。やがて時刻となるや横山市長は一周して前にすすみ出羽司令長官以下歓迎の辞を()宴に出羽中将起って謝辞をられ、それより宴は(ようや)(たけなわ)となり余興として諏訪神事(おどり)胡蝶の丸山路の玉川来賓の喝采を博したり。まり非常の盛会を九時退散したり。


明治42年3月30日 長崎新聞

  ●第二艦隊入港

 帝国第二艦隊旗艦吾妻(司令官出羽中将坐乗)、秋津(しま)、八重山の三隻は昨日午後一時三十分唐津港より入港。秋津洲は太田尾沖に投錨し吾妻、八重山の二隻は港内近く投錨せるが、秋津洲艦長の談に()れば四月一日迄碇泊の予定なりと云ふ。

   
    
 ●第二艦隊員の参拝

 第二艦隊八重山、秋津洲、吾妻の入港は別項記載の如くなるが、同艦隊員五百余名は参拝隊を編成して本日午前中、佐古・梅ヶ崎の両招魂社へ参拝する筈なり。


明治42年3月31日 東洋日の出新聞

 ●出羽司令長官の訪問 

 第二艦隊司令長官出羽中将は別項佐古招魂社の参拝を終わるや海軍中佐吉田辰雄氏を随え本県庁に荒川知事を訪問せるが、荒川知事は同午後二時右答礼として旗艦吾妻艦に同司令長官を訪問せる由。


 ●艦隊員の招魂社参拝 

 一昨日入港せる第二艦隊の一部たる吾妻、八重山、秋津洲の三艦乗組員中司令長官出羽中将を始め、参謀長代理野村海軍中佐外各艦長、乗組将校以下下士卒五百名は予報の如く昨日午前十時佐古招魂社(梅ヶ崎招魂社は除けり)に参拝せり。出羽中将以下は海軍軍楽隊君が代吹奏中玉串を捧げ、立花宮司祝詞を朗読し参拝の式を了せるが、本県庁よりは井手事務官岡松属を随へ、市庁よりは朝倉兵事課長参拝せりといふ。


明治45年2月14日 長崎新聞

 ●第一艦隊入港

 出羽中将麾下の第一艦隊安藝(あき)、三笠、敷島の三艦は本日佐世保より入港。其将卒は明十五日佐古招魂社へ参拝する由なり。尚、同艦隊は十七日当港抜錨、沖縄方面へ向ふ予定なりと。


明治45年2月17日 東洋日の出新聞

 ●第一艦隊の三艦

 予報の如く碇泊中の安藝(あき)外二艦乗組の将卒合せて千八百余名は昨朝八時上陸。軍楽隊を先頭に佐古小島の招魂社に参拝したり。而して三艦とも昨日午前より一般の縦覧を許したれば非常の雑踏を来たせしが、日露戦争の紀念たる敵弾の(あと)は補填せしまま当時を偲ばしめ、東郷大将が立てる三笠のブリッヂの床を(うち)(つらぬ)ける痕は上面のみ(ふさ)ぎ、下方は(その)ままになしあり。三笠と敷島は本日午前十一時、安藝は午後一時抜錨琉球に向ふ筈なるが、香取も今朝来り港外に仮泊して三笠敷島と共に出動すべく、英艦モンマウス号は午後三時威海衛に向ふ筈。



 ここで、梅ヶ崎招魂社と佐古招魂社について『明治維新以後の長崎』(長崎市小学校職員会編著 復刻版 昭和48年7月発行)の記述を掲載しておく。

 

第一 梅香崎招魂社

 大楠神社に接し、大徳寺梅ヶ枝焼茶屋の前方一段高き処にあり、明治元年振遠隊に属して出征戦陣の間に斃れたる17名及び明治2年3月官軍に属し函館戦争に参加せし当地出身50名中の戦死者26名の勇士を合祀せるものにして、毎年3月官祭を行はる。

第二 佐古招魂社

 大徳寺上方狐岳丘上の稲荷山にあり、明治7年征台役忠死者の為めに此處に招魂場を建設し、明治16年10月佐古招魂場の改装式あり、主として明治7年征台役、同10年西南役に於ける忠死者の英霊を祀れるものにして、墓碑約6百。毎年3月官祭を行はる。

 

 また、『市制百年 長崎年表』(市制百年長崎年表編さん委員会編 長崎市役所発行)には次のとおり記述されている。 

「 1875(明治8)

  3.22 小島郷稲荷山に招魂場を設けて、台湾征討の戦病死者552人を祭る。

        (西日本最初の官設招魂場で、佐古招魂社と呼ばれている。)

 ※西郷従道は参謀谷干城とともに来崎。自ら祭主となって盛大な招魂祭を行う。天皇も辻式部輔を勅使として派遣された。
 この時、地元では勅使の通路として寄合町と招魂場の小島郷を結ぶ坂道をつくった。いまもその名が残る勅使坂で、丸山入口から右に折れ、大徳寺へ登る坂道である。 


 明治7年の台湾出兵では約3000人の兵士が長崎港から軍艦3隻で出航している。ウィキペディア『台湾出兵』によると、戦死したのはわずか12人だけで、劣悪な衛生状態のなか、風土病のマラリヤで561人が台湾で病死している。西郷従道は台湾蕃地事務都督として谷干城とともに台湾出兵に参加している。




                

       出羽海軍大将が参拝した佐古招魂社内の墓碑の一部            会津出身海軍少尉補の墓
            
                  西南戦争で戦死した会津出身の海軍少尉補の墓など会津出身者の墓もある。   
                 (ウエブサイト『長崎微熱』に詳しく記載されている。)
                     

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