.小松済治

(1)出自

 小松済治(せいじ)は1848年(嘉永元年)に江戸で生まれた。父は馬島瑞謙で、祖父は馬島瑞延である。荒木康彦著『近代日独交渉史研究序説』によると、小松済治の叔父  すなわち父の弟である馬島瑞園の小伝(「馬島瑞園伝」)に、「名は瑞園 杏雨と号す 父を瑞延という 元千葉の人 幕府の医師馬島の門に入り 師に優る技量を顕し馬島の姓を与えられる」とあって、祖父の代に眼科医になってから馬島姓を名乗るようになった。そして、小松済治の墓である「従五位勲五等小松済治君之墓」の略歴に「伯林(注.ベルリンのこと)に宿学すること四年。遥に国変を知り、急皇として帰朝すれば、即ち侯国既に亡く、乃ち和歌山藩に帰属し、復た小松氏を称す」(原文は漢文)とあり、祖父が馬島姓を名乗る前は小松姓であり、祖父本人は千葉生まれだが、先代以前は和歌山出身のようである。馬島済治は留学先のドイツから日本に帰った後に、祖父の旧姓である小松に改姓したわけである。

 『谷中・桜木・上野公園裏路地ツアー』というホームページによると、馬島瑞延は「11歳で江戸に出て、馬島某に眼科医学を学び、優秀をもって馬島姓を許される。同門生の嫉妬があり全国巡遊を理由に馬島家を出た。会津に入った時に、たまたま藩主松平容敬(まつだいら かたたか)が皮膚病にかかり、眼も患っていたのを瑞延が治したので、会津藩に仕えることとな」った。父の瑞謙は,「若くして江戸に出て諸名士と交流し、兵法を研究。蘭学を志し、外国奉行水野筑後守に随行してアメリカに行くために数か月江戸に滞在していた間に病気となり和田倉藩邸で没した」。

 ちなみに叔父の馬島瑞園は会津藩主松平容保の侍医になっているが、戊辰戦争で足を負傷した新選組の土方歳三を治療している。

 

(2)会津、そして長崎へ

     馬島済治は12歳の時、すなわち、1859年に父の瑞謙が死んで家督を継いだ。それで叔父の馬島瑞園に江戸から連れられて会津に行き、藩校日新館で杉原外之介や後に旧「東京大学」教授となる南摩綱紀に学び、また1857年(安政四年)開設された蘭学所で山本覚馬や川崎尚之介に蘭学を学んだ。

 そして、会津藩では長崎に蘭学の修行に藩士を派遣することになり、人選の結果、「素性宜敷者」ということで馬島済治が選ばれ、1865年(慶応元年)、18歳の時に長崎にやって来て、西洋式医学校である「精得館」に入校し、オランダ医学を学んだ。

 実は、会津藩は1864年8月20日(元治元年7月19日)に起きた禁門の変で鉄砲が中心となった近代戦を経験し、外科医を養成するために馬島を長崎へ派遣したのである。(『近代日独交渉史研究序説』182貢)

 在学生13人が写った写真が残っていて、その中に馬島済治も写っている(後列向かって左から4人目)。面白いことに、どういう経緯からかは今となっては知る由もないが、ドイツ商人のカール・レーマンと知り合いになり、彼からドイツ語を学ぶようになった。そして、1867年(慶応三年)5月15日、すなわち会津藩が山本覚馬と中沢帯刀名義でカール・レーマンと小銃1300挺の小銃購入を約定した11日後に馬島済治はカール・レーマンに連れられて上海を経由して渡欧の旅に出ている。5月11日にカール・レーマンが京都にいる山本覚馬に宛てた手紙の写が残っているが、その手紙の中に次のとおり馬島済治の名が出てくる。

 

「                       長崎 1867年5月11日

   山本覚馬様

     京都

  

    拝啓

    約一月程前に私は貴方にお便り致しました。そして、その時以来4300挺の撃針銃の契約はうまくいきました。中沢はそのことに対して多大の骨折りと配慮をなし、そしてすべてが十分に満足いくようなされました。ところで、私は今月の15日に馬島と共に上海に、そしてそこからさらにわが祖国に出発します。そして、これらの銃が早く良くできるように配慮致す所存です。私はパリ経由で旅行するでしょう。そして、馬島に大博覧会を見学させるつもりですが、それは彼にとって大きなものになるでしょう。馬島については、彼が主として何を学ぶべきか、または彼がさらに医学を研究すべきか、または他の何かを彼の選択科目として選ぶべきか、お便りいたします。貴方たちの主君が許された費用ではきっと十分ではないでしょうが、しかし、私は自分の弟に対するのと同じように彼にきっと配慮いたしましょう。貴方の主君は費用の不足をきっと聞き届けさせられるだろうと私は確信致します。

                                         (以後省略) 」

                             (『近代日独交渉史研究序説』104105貢より)

 

 

   上の手紙でカール・レーマンは馬島済治の旅費が足りないと述べているが、馬島は会津藩から密かに海外留学を命じられて、レーマンの故国ドイツへ留学することになったわけである。

 




     

                  精得館時代の馬島済治 ( 後列左(×印)から4人目 )
                            
                       『長崎大学医学部150周年記念誌』より

 

  (3)ドイツへ留学

    馬島済治は1868年10月21日、ハイデルベルク大学で医学の受講生として学籍登録した。ドイツの大学に日本人として初めての学生になったわけである。

    冒頭に小松済治は江戸で生まれたと紹介したが、それはハイデルベルク大学で学籍登録した時に、小松済治(この時はまだ馬島済治)は出生地を江戸と記載しているからである。(『近代日独交渉史研究序説』36貢)

ハイデルベルグはドイツのどこらあたりか地図で調べたが、なかなか見つけることができず、yahooで検索したところ、ドイツの南西部と書いてあったのでもう一度よく探したら、やっと見つけることができた。フランクフルトの少し南の方にあった。人口は現在14万ということで、ちょうど諫早市の人口と同じである。ここにあるハイデルベルク大学はドイツで最も古い大学だそうで、1386年、パリ大学をモデルに創設されたそうである。

    馬島済治は当初ハイデルベルク大学医学部で医学を学んだが、「医学に忠実であり続けるを得ず、すぐに法学の研究に向かった」そうである(『近代日独交渉史研究序説』29貢)。彼は後に医者にならず,国家の官吏となり、司法省の民事局長や横浜地方裁判所長にもなったが、ハイデルベルク大学で法学を学んだ経験はその後の彼の人生に大きな影響を及ぼしたことと思われる。



    

                 明治6年 ウィーンの新聞に掲載された小松済治                     
               
                      『近代日独交渉史研究序説』より



        ところで、1867年5月11日付でカール・レーマンが山本覚馬宛に「貴方たちの主君が許された費用ではきっと十分ではないでしょう」と手紙を書いたように、馬島済治は1年も経たないうちに留学費用が足りなくなってしまった。それで、カール・レーマンから留学費用を融資してもらっている。

    カール・レーマンは1870年4月(明治3年3月)に、長崎に住む旧会津藩留守居役の足立仁十郎と旧会津藩御用達松永喜一郎に対し、3年前の1867年に会津藩に売り渡した小銃代金の支払いを求めて訴訟を起こしたが、同時に小松済治に融資した留学費用の返還も求めている。裁判は明治11年に訴えが取り下げられて終了するが、途中、留学費用については訴えが取り下げられている。小松済治や山本覚馬は旧会津藩に代わって被告となった大蔵省から証人として呼び出され、答弁をしている。カール・レーマン(原告名はレーマン=ハルトマン商社)は結局小銃代金等は回収することができなかった。

 

(4)小松済治のその後 

   馬島済治は1870年3月(明治3年2月)、日本に帰国した。この時、会津藩27万石は既に新政府から消滅させられ、同年1月に青森県北部地域に斗南藩3万石として再スタートしたばかりだった。彼は同年9月、先祖の地である和歌山に来て和歌山藩に仕えている。これは戊辰戦争後、叔父馬島瑞園が東京の紀州藩邸に幽囚されていたこととも関係あるようである。以後和歌山県人として生きていくのであるが、この時祖父以前の姓である小松に復姓した。小松済治は和歌山藩の軍制改革に貢献している。

   そして翌1871年(明治4年)兵部省に出仕し、同年二等書記官として岩倉使節に参加して欧米諸国を巡歴した。日本に帰国後は、1874年(明治7年)陸軍省に出仕するが翌1875年(明治8年)には判事になり、1879年(明治12)にいったん官を辞している。しかし、6年後の1885年(明治18年)官に復帰して司法省の書記官となり、1887年(明治20年)に民事局長、1891年(明治24年)には横浜地方裁判所長になっている。ところが、翌1892年(明治25年)に退職し、その翌年の1893年(明治26年)5月、47歳で亡くなった。

   不思議なことに祖父も父も48歳で亡くなっており、3代続いて47,8歳で亡くなっている。ところが祖父馬島瑞延の次男の馬島瑞園(1825~1920)は94歳で亡くなっているので、父や兄の分まで長生きしたと言っていいだろう。

なお、小松済治はいったん官を辞して再び官に復帰するまでの間、すなわち明治16年にドイツのルドルフ・フォン・グナイストという法学者が書いた『法治国家』という本を日本語に翻訳して、『建国説』という名で出版している。グナイストの弟子が明治憲法の父といわれるアルバート・モッセという人で、伊藤博文や伊東巳代治ら日本の憲法調査団にドイツ国法学を講義し、明治憲法に影響を及ぼしている。マックス・ウェーバーという学者の名は高校時代に倫理の教科書に載っていたので、名前だけは覚えているが、彼も小松済治が翻訳した本の著者ルドルフ・フォン・グナイストの教え子だそうである(ウィキペディア『ルドルフ・フォン・グナイスト』)。そういう偉い先生の主著が『法治国家』という本であるので、小松済治がそれを翻訳出版して日本国民に紹介したことは、ハイデルベルク大学という名門大学で学んだ立派な成果だと言っていいだろう。

なお、最後になるが、小松済治は自分と同じように医者の子である旧会津藩士で第8代の長崎県令、任期途中の官制改正で初代の長崎県知事となった日下義雄の仲人をしている。



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