10.山川健次郎

 山川健次郎はペリーが浦賀に来航した翌年の嘉永7年(1854年)に生まれ、白虎隊士として籠城戦に加わっている。
会津落城後謹慎の身となったが、秋月悌次郎により密かに長州藩士奥平謙輔の元へ預けられ、その書生となった。そして、
明治4年(1871年)に国費留学生としてアメリカに渡り、エール大学で物理学の学位を取得して明治8年に帰国した。
アメリカ東海岸のコネチカット州にあるエール大学は、ウィキペディア『イェール大学』によると、ペリーの黒船にエール
大学関係者が随行して乗船していたそうで、それ以来、東アジア研究が盛んであるとのことで、またクリントン元大統領夫妻
もこのエール大学を卒業している。
 

 山川健次郎は明治12年に東京大学で日本人として初の物理学教授となり、明治34年には東京帝国大学総長に就任して
いる。38年に同帝大総長を辞任したが、40年7月の私立明治専門学校の設立認可に尽力し、その総裁になっている。
明治44年には九州帝国大学の初代総長となり、大正2年に再び東京帝国大学総長となり、3年~4年に京都帝国大学の総長
も兼務している。そして大正9年(1920年)に東京帝国大学総長を退任した。

 山川健次郎は私立明治専門学校の設立(42年4月開校。昭和24年に開学した九州工業大学の前身)に向け尽力していた
明治40年(1907年)1月20日から25日まで5泊6日の行程で長崎県内を訪れている。
1月20日熊本駅を発ち、同日午後6時頃長崎市に到着、平戸町(現在の万才町)の伊崎屋に宿泊した。翌21日、午前中は
長崎県立長崎中学校を視察、午後は長崎高等女学校を視察するとともに、両校で講演を行っている。1月22日は午前中長崎
県師範学校を視察して講演を行うとともに、午後は長崎高等商業学校(長崎大学経済学部の前身)の校長の懇請を受け入れ、
同校を視察している。その後、長崎駅を出発して大村へ行き、長崎県立中学玖島学館(県立大村高校の前身)を視察し講演を
行った。

23日は平戸へ行き、長崎県立中学猶興館(県立猶興館高校の前身)を視察し、25日平戸を発って、佐世保経由で佐賀へ
行っている。

ここで、山川健次郎が長崎を訪問した当時の新聞記事を紹介する。


明治40年1月22日付 東洋日の出新聞

長崎中学校に於ける理学博士山川健次郎氏

学界の偉人東京帝国大学前総長理学博士山川健次郎氏は、筑前の一士安川敬一郎氏が私財を投じて戸畑に高等商工学校を創建するを援けんが為此程九州に来り。爾来単身福岡久留米熊本等各地の学事を視察しつつ、一昨日午前十一時二十四分上熊本駅発車に搭じて午後六時に近き頃本市に着し直ちに平戸町旅人宿伊崎屋に投宿せしが、昨朝八時旅館を出て県立長崎中学校をひたるに、折柄授業開始前の事とて信原校長も尚未だ登校しらず、職員としては当番舎監某氏唯一人あるのみなりき。時に山川博士はか周章の気味なりし。舎監を促して先導たらしめ寄宿舎の有様を巡覧せるうち、信原校長は報に接して倉皇登校し県庁に於ける口石視學亦車にて中学校に乗付けるなどの事あり。くて博士は同校授業の模様を詳細に参看したる後、信原校長の懇請を快諾し午前十一時より正午に至る一時間講堂に於て生徒の為に演説を為したり。

当日博士の演説は学生の本分に就いて熱誠に論道なしたるものにして第一、服従心を養はざるべからずとて、既に服従すべく教育されたるものあらずんば命令するの能力なしといふアリストートルの格言を引証し、アングロサクソンがての点に於いて進歩するは服従心あるにる。実に(この)心の有無は文明非文明のなりとて、所論第一転現下学生の服従心なきを慨して同盟罷校等の悪弊に(およ)び、而してかかる確信あるを以て博士は此程熊本に於いて某学校より演説を懇望されたるも右様の弊風が馴致(じゅんち)されたる如き学校に至るを欲せずとて之を拒絶せりと述べ(記者曰く熊本なる第五高等学校は学生と職員との間に衝突起こり目下紛紜(ふんうん)中なり。博士は此日の演説に於いて敢へて校名を示さざりしが実は同校より演説を懇請したるも之を拒絶したるなりき。尚ほ博士は同地高等工業学校より演説を(たく)されしも同校は前者の構内に在るを以て其門を(くぐ)るならんには後者にも到らざるべしとの事なりしが、校門校舎(ことごと)く差別ありたるを以て高等工業学校には赴きたりき)、文明人士たらんとせば(すべか)らく服従心を養はざるべからずと説き、

第二に青年の精神修養に就いては古人若しくは今人の(いず)れを問わず自己の最も欽慕し崇拝する人を()って其人を研究し其短を捨て其長を学ぶべし。シカモ其模範とす可き人物は才幹あり人格高尚にして常識に富み、肉体上精神上勇気ある人を(えら)まざる可からずとて博士の持論を説き、我をして欽慕する人物を(えら)ましめば米国大統領ルーズベルト氏なりと断言せり(博士の此持論は去る十七、八両日の本紙第一面に詳記せり。参照さるべし)。

第三に勉学を体育とは併行せざるべからず。現時我邦(わがくに)の生産力は全世界の二三位に()り而して其死亡率僅少なるは喜ぶべき現象なりと雖も、此状態にして将来持続すべきや否やは予知し得べからず。要するに勉学に適する丈の体力を養ふを(しか)らざるとは直ちに国家の生産力に影響を及ぼすべしとて諄々(じゅんじゅん)訓戒を与へ、以て当日の有益なる演説を終わりたるが、博士の人格高きは一般学生の欽慕する(ところ)なれば満場の学生は申すに及ばず職員亦冥々(めいめい)(うち)に大いなる感化を与へられたりき。斯くて博士は同校を辞し直ちに県立高等女学校を参看し同校に於いても亦一場の演説を為したり。


 恋愛小説禁読論
    (山川理学博士講話) 

山川理学博士は別項記載の如く長崎中学校の授業視察及び演説を(おは)りたる後、県立高等女学校の授業を参看する事二時間余にして午後三時より田代同教頭の請ひにより同校生徒の為に一場の演説を試みたるが、其要旨は前号本紙第三面に掲げたる博士の持論と同様なりき。()れど博士は恋愛小説禁読に就いては最も意を()めて論述したり。(すなわ)ち其部分の梗概(こうがい)を左に掲げて更に父兄の参考に資す。博士曰く、

近頃男女学生の堕落は新聞其他に澤山(たくさん)出て()りますが(はた)して近来は左様か否かは知らぬが、兎に角堕落は(ほんとう)らしい。其原因は青年男女を悪魔が誘惑するのをあらうけれど、第一学生時代に於いて恋愛小説を読むことが之が最大近因となると思ふ。元来恋愛小説なるものは極く面白く書きめるを以て面白く読まるるが故に、知らず識らずの間に書中の経路に感染し而して遂に堕落するに至るものである。それで忠告します。恋愛小説を読まぬ様に。恋愛小説を読まずとも読むべき本は澤山出来るから、必ず恋愛小説を読まぬでも(よろ)しい。傳記(でんき)とか其他種々読んで有益なるきたなくない本を撰んで読まれるが()い。恋愛小説を読んだとて一日二日で傳染するではないが、長く読む内には遂に感染する。斯様(かよう)に云へば、お前は小説を読まぬから小説の真味が分らぬであろうと言ふ人もあろうか知れぬが、私は澤山読んで居る。明治以前の分や、外国の小説は今でも病中や暇のある時や旅行中は読む。左様に読むが、(しか)(なが)ら西洋の小説は読むが、恋愛小説は・・・・下等な小説は読まぬが第一流の作者の世に定評あるのを撰んで読んで居る。斯様(かよう)云へば変だが、私(くらい)小説を読んで居る者は左迄(さまで)多くはあるまいと思ふ程読んで居る。小説は決して(いや)ではない。(しか)し恋愛小説は読むでは不可(いか)ぬから、ドレも読まぬやうにせねばならぬ云々。 


明治40年1月23日付 東洋日の出新聞

 昨日の山川博士
      (師範学校の講話) 

一昨日県立長崎中学校及び県立高等女学校を視察し有益なる講話をなしたる山川博士は、昨朝八時県立師範学校に至り校の設備其他授業の視察等を()へ、午前十一時同校講堂に於いて一場の演説を為し、同校にて午餐を喫し、午後一時より隈本(くまもと)長の懇請に依り高等商業学校を視察したる後、玖島學館視察の為午後三時長崎駅発列車にて大村へ向へり。博士が師範学校に於いて為したる演説要領左の如し。

戦後経営に関する事業は種々あるも就中(なかんづく)必要なるは教育なり。三十七八年に強大国の露に小なる日本が満足に()ち得たるは何の力によりて(しか)るかと問はば、識者の認めたる如く国民教育の進歩が(たしか)に其原因たることは(ひと)り吾日本のみならず諸外国も之を認むる(ところ)なり。而して戦後に於いて益々教育の発展を図るべきは亦何人も認むる所なり。其所以(ゆえん)は今や平穏にして無事なるも不幸幾数年の後に至りてまた(いづ)れの国と戦端を(ひら)かじとも限られず。其時に(あた)り戦争の局に当らざるべからざるものは当今の児童なり。即ち児童教育の忽諸(こつしょ)に附すべからざる所以(ゆえん)なり。如斯(かくのごとく)大切なる職務を負ぶる諸子の責任や重大なり。諸子が如何にして此大任務を果すかは各教師より既に充分聴取し居られんも予が心附(こころづ)きたる点即ち教師の話洩れにても補はんが為めに一二を述べん・・・・・とて日露戦役中の事例を引用し・・・・・我兵士が忠君愛国の念に駆られ水火の中に飛込みたる事ありき。即ち之に等しき国民を作らざるべからず。若し此精神を失ふ時は吾大日本帝国は維持すること能はず。如何となれば吾日本は何によりて世界の競争場()に戦ふことを得るか。他の強国と吾日本とを比較すれば日本は他に(いづ)れが勝り居るや。体力に於いても外国に劣り、金力の如きまた日本の如き貧国は世界に少なき位なり。而して知識の点は如何と云ふに今は(しき)りに欧米の知識を輸入して文化の発展を図り居るも、未だ他の強国に及ばず。(かく)の如く如何なる点に於いても他強国に及ばざるも日本は唯一つ世界各国に勝り居るものあり。それは精神なり。自己も利害も顧みず国家の為に(つく)す精神は他外国には無し。唯我日本帝国あるのみなり。他外国にては所謂個人主義等の名を附して利己を図るもののみにて愛国の念は日に薄らぎ行くの有様なり。而して吾日本に就いて云へば忠君愛国の精神少し(ずつ)退歩し行く様に見へ居たりしが三十七八年の日露戦の結果によりて(その)(しか)らざること判明せり(つづく)。

 

明治40年1月24日付 東洋日の出新聞

山川博士の講演(続)
      (於長崎師範學校)     

(しか)し物は大事を取らざる()からざるを以て一層日本唯一の武器たる此精神を鼓舞(こぶ)せざる可からざるは(もうす)迄もなきことなり。之を鼓舞することを考へ工夫して国家の為めには水火(すいか)の中にも平然として飛入るを辞せぬといふ国民を作らざる可からず。之を為すには先づ自身より始めざる可からず。即ち自身の忠君愛国の観念修養より始めざる可からず。

(しか)して此修養を為すの方法は幾多あらんも予は(ここ)に其一方法として諸子(しょし)に推薦すべき一書あり。其れを読んで実行して貰ひたき書籍あり。一見甚だ古臭き様思はれんが其本は即ち請献(せいけん)遺言(いげん)なり。之を充分に読んで貰ひたし。読んで之を実行して貰ひ()此本は昔自分()の先輩達は年少者の精神修養に於ける金科玉条として読みしものにて最も有益なり・・・・・と述べ・・・・・次に常識に富める国民を作らざる可からず・・・・と説いて曰く、常識は英語之をコンモンセンスと云ふ。佛国にては其適当語なし。(よっ)て英語のまま之を使用す。サレば英国は其本家本元たり。予は其常識の修養法を考()るが世には常識は修養にては出来ぬが如く言ふものあれど、予は修養して出来るものと考へる。さて其方法は常識の少なき人は(いづ)れに起因して(しか)かと云へば、一の問題に対して単に一方面より見るを以てなり。(れい)せば算術の問題に於いては課題は一なり。代数等になれば二個以上あり。高等数学にありては一問題に(つき)幾つも幾つもあり。又物理学に至れば尚々(なおなお)多し。然るに(よっ)て問題は必ず一つの課題にのみ止まらず、(いは)んや人間社会に於ける問題は非常に複雑なるものなれば一問題に(つい)て種々雑多の課題あるは勿論の義なり。然るを常識なき人は之を一面より観察するを以て一の課題より外なきものの如く思ひ、他を不正なりと思ふ故に深く洞察する能はずして飛んで事を云ふ。之れ即ち常識を欠く所となる。幾方面より見るも支那の廬山(ろざん)は同じ廬山なり。自分の云ふ常識修養の方法は一問題を各方面より観察して(しか)して其問題を解決するに(つと)むるにあり・・・・・と述べ、次に服従の義務を説いて曰く、近来師弟の序乱れて稍もすれば学校騒動とて誠に聞くも(いま)はしきことあり。殊に中學程度の校には(しば)々之あることを聞く。(かく)の如きはの間柄に於いて以ての(ほか)の事なり。若し中學(あたり)にて教員に不満の点あらば生徒自身が退校すれば済む事なり。學校には夫々(それぞれ)監督者あり。即ち第一に県、次に文部省の監督ありて之を處置(しょち)す。(しか)るを生徒の分際として長上の攻撃等をなすは大きなるお世話なり。斯様(かよう)なる無礼の行動をなすは決して(ゆる)すべからず。されど自分は此長崎にては無きことを信ず。他處(たしょ)にては斯様なる事あり。而して是等(これら)は小學になくして中學にありと聞く。之を(ふせ)ぐには學生が()ほ未だ小學に在るの間に訓育し以上の學校に進みても人道に(はず)れざる様に訓育せられんことを希望す・・・・・と云ひ、諸子(しょし)が終身守って結構なる孔子の語 之を造次(ぞうじ)顛沛(てんぱい)も忘れずして守るべき語を紹介す・・・・・とて孔子の内省不疚、夫何憂何懼 の語を(とら)え来りて之を解釈し去り・・・・・正義人道を踏まば悪観念は(おこ)らぬ、内省不疚を()んには正義人道を踏まざる可からず・・・・・とて更に質素倹約に及ぼして 志道而恥悪衣悪食不足取 の語を引用し、悪衣悪食を(はづ)るは古今共にあり。殊に婦人は一層之れを恥づるあり。そは間違いなり。心得(ちがい)なり。悪衣悪食は恥んよりは(むし)自慢して()なり。之れ質素倹約を標榜するものなればなり。(いま)(わが)日本は三十七八年の戦争によりて弐拾幾億円の借金を作れり。一度作りたる此借金は一度は必ず返却せざるべからず。之を返すには如何にすべき()。申す迄もなく勤勉と節倹以てする外あるべからず。されど悪衣悪食を(はづ)る人には節倹ある筈なし。昔佛独の戦ひに佛(やぶ)澤山(たくさん)の借金とアルサスローレンスの地を取られ、独は之にて佛国の久しく立つ(あた)はざることを安心し世界各国も()かく考へ()たりしに、(あに)図らん佛は(わづ)かの間に国の経済力を戦前と(かは)らざる迄に増大せしめたり。之は全く勤倹の力にて戦後数年間に佛国の経済は優に独と戦って差支えなき迄に(ゆた)かになれり。之を以て独のみかは世界各国共に其経済力の増進に驚けり。(しか)るに巴里(ぱり)と云へば何人も華奢(かしゃ)を連想するが、其巴里は決して華奢にはあらずして諸般の設備の充実したるなり。如斯(かくのごとく)華奢に見ゆる迄に設備を完全せしめるは何の為めなるかと云へば、世界の人を誘引する為めなり。世界の人の足を引き其富を()んが為めなり。決して佛人は奢侈(しゃし)に非ず。華麗に見ゆるは其真相にあらず。独佛戦年間に非常に富の力を増進し恢復(かいふく)したるを以て見れば佛人の奢侈ならざることを知るを得ん。如斯(かくのごとく)佛は勤勉節倹の力を以て国を富まし、今は世界の各国に金を貸すに至り()れり。露の如きにも澤山の金をし居れり。斯様に勤勉節倹の力は大なるものり。悪衣悪食を()づるは節倹の徳を欠くと云ふ孔子の金言を()く守り、之を実行し(あは)せて国民教育に之を(ほどこ)(ますま)す国家の為に努められんことを希望す・・・・・と述べ、其演説を()へたり。



 

明治40年1月22日付 長崎新聞

 山川博士の演説

「九州各地漫遊中なる前東京帝国大学総長理学博士山川健次郎氏は昨日長崎中学校及び高等女学校を視察せられ両校の請に応じ左の演説ありたり(文責記者にあり)。今中学校に於ける分を記せば

第一 生徒には服従心の重要なる事を述べて曰く、生徒諸子は是非に服従を重んぜざる可らず。所謂る命令規則等に服従せざれば自ら希望する所の目的を遂ぐる能はずとて其理由を述べ、熊本における学校騒動の事に説き及びし実は余に演説をして貰いたしとて勧められたれ共、斯かる汚らはしき事に(くちばし)()れる事を欲せざりし故断然断りたりと云い、服従なるものの大切なる事を反復述べられたり。

第二に 人格修養上の事に説き移りて曰く、人格の修養は吾人に必要欠く可らざる者にして世に或は人格を修養するは不可能の事なりと云ふ説あれ共、余は確かに其実行は出来得可き者と信ずる故に其修養方法としては、古今東西の歴史又は現在に於ける人物の中最も自己の心服する所の人を選んで其人の言行を全く研究すれば自然に其人の人格に近まり、且自ら努めて()れに接近せんとすれば漸々(ぜんぜん)人格を高める事を()べし。

而して余が今日最も心服して修養の標榜とすべき者一人あれば諸子に推薦せんが、其人は現在生存して且つ才幹ある人にして現に政治界に活動し、夫れに勇気心に富み自ら信じたる事は自己の利害得失に関せず、自ら真理とすべき事は忌憚なく決行する人にして加ふるに常識の発達したる人なり。世に往々天才を有する人あれ共、其自然の才の為めに或いは一種の変人物と化する事あり。然るに余の心服するところの人は斯かる狂人的の人にあらず、完全なる常識を具備する人なるが、諸子は其何人(なにびと)なるかを知るやと問いたるに、一生徒は立ちて夫れはルーズベルトに在らずやと答へたるに()く其的中せしを称じ且つ曰く、今日米国に於ける鉄道組合の勢力は偉大なるものにして如何なる事と雖も其成さんとする事成らざる無く、自組合に対し不利益なる法律の制定等起こらんとする際は代議士を買収して是れを否決せしめ、甚だしきに至っては或る刑罪を犯しても判事又は検事を買収して其罪を免れんとする等実に恐る可き勢力を有するなり。然るにルーズベルト氏は自己の一身上よりしても党派上よりしても不利益なる事は明なるに拘ず、正義の為めには敢て決行を辞せず假籍なく之等に非常の攻撃を加ふるなり。

余はルー氏の秘書官より同氏の写真を送り来れる故に是に賛を(もと)めんとすれ共、夫れ以上の人物を得ざる故に種々考究の末聖人孔子の言を以て是れに(あて)んとし、「自反縮千萬人雖我往」の文を以てし筆者に替ゆるに顔真卿の石摺(いしずり)手本中の字を抜いて是れに充てたる位にして、余は実に同氏に心服()く能はざるなり。故に諸子の仰がんとする人物には同氏を()さんとする者なれ共、諸子にして夫れ以外に自己の心服する好人物あらば其言行を学ぶも可なり。要するに人格の修養は返す返すも重要なるものなりと説き、

第三に 健康の事に及びて古今時代の変遷の甚だしきを前提とし、余等の学問修養時代と現今諸子の修学時代とは其方法に於いて又性質に於いて全々趣を異にするなり。凡そ(かく)の如き激烈なる変化の人類の身心に及ぼす弊害は実に甚だしきものにて、例せば満州に於いて凍死せんとしつつある人を救はん為め直に湯或ひは火熱を以て之れを医せんとせば、之れを救ふ事難きも始めに氷摩擦等より進んで漸々(ぜんぜん)療養を加ふれば必ず治するを得べし。斯の療法の如く今日の学問にして諸子の親の代より順々に変化せしなりせば可ならんも、現代の変化の如く甚だしきに至っては諸子の衛生上、学問研究の結果誠に憂へざるを得ざるなり。最も現在には是れが影響を見出す能わず。現に我日本の死亡率及び出産率を世界の列強国と対比するにアングロサクソン人種即ち英米人に比し殆んど差違なかるべし。然れ共今日の諸子の学問的不摂生(せっせい)の結果後来死亡率を増し出産率を減ずるの恐れなきや。若し余の説にして杞人の憂に過ぎざれば幸ひなれ共、兎角衛生は大切なるものなれば学校以外に於いても充分の運動等をなして摂生すべしと。

高等女学校に於いての講和概畧(がいりゃく)左の如し

第一 学問の事より説き起して曰く、古来我国の婦人は修学をなしたる者殆んど絶無の姿なりし故挙動如何にも粗野なりし如く見ゆ。然るに諸女は今日完全なる学校にて学問を研究したる結果、高尚なる品性を修め得て良妻賢母たるに恥ぢざるならんも、若し女の美徳を失ふ様の事あり、世人が婦女の勉学は弊害ありと(とな)ふるに至らば独り諸女の不利益なる而己(のみ)ならず、一般の女子教育に一大頓挫を来し、為めに日本国民教育に大影響を及ぼすに至る故に深く此点に留意し卒業後と雖も男子風の挙動ある可からず。

第二は学校卒業後の上京遊学を(いまし)めて、勿論相当の保護者たる確実なる知己親戚を有すれば兎角なれ共、(みだ)りに上京遊学は誠に慎まねばならぬ。(こと)に諸女は(かか)る完備せる学校を卒業したる以上は(それ)にて女の目的は完全に達せらるる者なり。抑も女子教育の目的は前述の如く良妻賢母を養成せんが為めなる故に()れとしては是れ(だけ)にて誠に完全なるものなり。東京は諸女の如き妙齢の婦女を誘惑して堕落の淵に(おちい)らしめんとする悪魔の充満せる所にして、(かか)る悪魔其者が不完全なる学校を立て婦女を邪道に導かんとし、(つい)には救ふ可からざる不幸に沈み延いて父母の悲しみを(かも)すに至る可ければ此点には深く意を用ゆべし。

第三には一般の議□□□□するや否と云ふ言を前提として曰く、近来男女学生の堕落に付ては各地の新聞紙上に散見する所なるが、余は(ただち)に是れを信ぜんとするものにはあらず。(しこうし)て其原因を考究するに第一は無垢の女子を誘惑する悪男子あると、第二は近来流行の恋愛小説が大なる動力ならんと信ず。()()小説は青年男女をして識らず識らずの間に感化を与ふる恐る可読物なるが故に此種の小説は断じて読む可からざる事を(すす)むるなり。(こと)に又近来は恋愛小説以外に種々の趣味豊富なる読物ある故に別に不自由を感ぜざるべし。(以下次號)

()ほ本日も当師範学校にて演説ある由。詳細は次號に記載すべし。

 

 

明治40年1月24日付 長崎新聞

 山川博士の演説

 女学校に於ける分を略記すれば恋愛小説の必ず読む可からざる事を反復(いまし)め恋愛小説意外の小説の趣味津々(しんしん)たるを述べ、次に健康談に移り中学校に於ける談と殆ど大差なく、大要は
(かか)る激変なる教育は後来国民の繁殖に大なる影響を及ぼす憂いありと述べ、佛蘭西巴里及びボストン等に於ける人口減退の実例を挙げて、健康を保つ第一の方法として海水浴ボートテニス其他あらゆる運動を試みるべしと説き、健康を保つは一己の利益なる而己(のみ)ならず国家の前途に於いて重要欠く可からざる者なれば一日も(ゆるが)せにすべからずと。

一昨午前長崎師範学校に於ける同氏演説の大要左の如し

 劈頭(へきとう)先づ教育の必要なる事を論じて曰く、我国戦後経営の多種なる中最も必要なるは教育事業なり。()の大強国の露国をして干戈(かんか)を收むるに至らしめたるは畢竟(ひっきょう)国民教育の進歩が(たし)かなる原因なりし事は既に内外識者の定評ある所にして、戦後教育の必要は何人も認むる所なり。(しか)るに()し不幸にして数年の後再び他国と(ほこ)を交ゆるの時至らば其戦陣に立つの士は云ふまでもなく現在の小学児童なり。されば児童教育は決してゆるがせにす(べか)らざるなり。(かく)の如き国民の教育に従事する諸子の責任は誠に重にして且つ大なるを知るべし。然らば諸子が(かか)る大任務を果たすには如何にすべきかといふ問題に就きては諸子の既に熟知する所ならんも、参考として一二を挙げん。

 日露戦役に於いて実見したる如く我国(ぜん)(しょう)の最大原因は実に水火も辞せずといふ勇敢な精神にあるなり。若し我国民にして此の精神を失墜せんか国家の前途亦憂ふ可きなり。

今翻って世界列強と我国との実力を比較するに、金力智力其他大部の点に於いて確かに我れの劣る所にして現今(しき)りに欧米の文化輸入中なれば彼等列強に及ばざるは争はれざる事実なり。然るに今吾人が(おご)りとせんとするわが国民の精神即ち自己も利害も顧みず身を君国に奉ずるの一事に至っては、他国民の容易に夢想だも能はざる所なり。

近来我国にても個人主義の風潮頻りに至り、忠君愛国の念()々其度を減じたるが如き観ありしも、日露戦役の結果其然らざるを知れり。然れ共注意は周到なるを要す。我国家経営の方法種々あれ共、()の忠君愛国の観念こそ国家存立上の武器なり。世界列強の我れに(すぐ)れたるは前述の如くなれ共、最も重要なる忠君愛国の念を欠くなり。故に諸子は水火も辞せぬといふ忠君愛国の精神を児童の念頭に注入せざる(べか)らず。之れを成さんには先づ教育の任に当たる諸子の精神修養こそ重要なるものと云ふべし。()くして後漸々(ぜんぜん)言行の上に於いて児童に感化を及ぼすは策の得たるものと信ず。今諸君の精神修養上必読すべき書を()さんに「請献遺言(せいけんいげん)」といふ本を以てす。該書は余等の青年時代には金華玉条として愛読したるなり。

次に希望するは常識所謂(いわゆる)コンモンセンスに富める人を養成すべし。世に或いは常識の存否は天性なる故に修養し得(べか)らずと(とな)える者あれ共、余は固く其(あた)()きを信ず。元来常識に乏しき人は或る問題に対し其観察点甚だ偏狭なりとて算術答案の単純なる所より代数幾何等漸々(ぜんぜん)高等数学に進むに連れて其答えの多様なる如く、社会問題は実に多数の答えを要するものなる故常識修養は是非に必要事なりと。

又近来師弟の間に種々紛擾(ふんじょう)起こり(やや)もすれば学校騒動等起こるは誠に(いま)はしき事なり。又其騒動の小学時代に起こらずして中学以上の学校に起こるは殊に小学教育の任に当たる諸子の注意す可き所なり。又学校なるものは必ず確かなる監督機関を有する故に生徒()の分在にて改革を(くわだ)つる等は誠に(いまし)む可き事なり。

次に諸子の終身服膺(ふくよう)す可き孔子の格言を紹介せんに、或時芝牛なるもの孔子に尋ねて曰く、君子とは如何なる人なるかと。孔子答えて曰く、「君子不憂不懼」と。芝牛之れを解せず反問したるに孔子再び答えて曰く、「内省不疚何憂何懼」と。即ち自己の良心に於いて()ましき所なければ決して(うれ)(おそ)るに足らずと云ふにあり。

 次は「志道而耻悪衣悪食者不足共語」と云ふ格言を示して現代青年学生の華奢(かしゃ)に赴きたるを警め(いまし)婦人に於いて最も然るを説き、婦人は質素倹約の美徳を守るべしと述べ、殊に外国債の整理は勤勉節倹の二()にあり。()佛国(ふつこく)独乙(どいつ)と戦ひ一敗地に(まみ)れたるも勤勉節倹の結果、戦後数年を経ずして経済界は決して戦前に異なる事なきに至れり。佛蘭西と云へば(ただち)ちに華美を連想するの感あれ共、()の華美は決して自己の欲望を満たす為にあらず外客の遊覧を(はか)るにあるなり。要するに悪衣悪食は決して()づるの要なければ諸子も常に孔子の格言を守りて勤倹を重んじ、同時に児童の精神を如斯感化されたし。(完)

 

 

明治40年1月26日付 長崎新聞

 ●山川博士の談片

 去る21日高等女学校の校長室にて山川博士を訪ふた記者は常に同博士の意気活達にして学界に一偉彩を放ちたるを知ると共に、其素朴にして穏健なる風姿に接して欽慕の念愈々(いよいよ)禁ずる事をなかった。

 左に博士が談笑の間に漏らしたる教育談の一節を記さん(文責記者に在り)。

 

「 何御奉公に隠居役として(まは)ってるんですから別に大した事はありません。ソーデスなー、先づ熊本の中学は(たし)かに完備してる様でした。長崎の中学は生徒の割に誠に運動場が狭いが、今では海上に拡張してボートハウスやボートが整頓して居るソーだから、之れでも我慢が出来ぬ事はない。近来我国の中学校では教員も生徒も中等教育の目的を偏解して居るから困ります。最も世人側でも多数の高等学校入学者を出すが完備した学校の様に心得て居るから()れが第一の原因でもあろうが、現に中等教育の如何(いか)なるものかを解して居る教員が中学を(もく)して全々高等学校入学の準備所の様に心得て居る。従って生徒も(かく)考えて居るから高等教育の設備が完全でない今日では往々(おうおう)失望者を出す事がある。要するに中学校は完全なる国民を(つく)る所にして(かたわ)ら高等学校入学の準備所である事を了知して貰ひたいのである云々。 」


 明治40年1月21日付 東洋日の出新聞

女学生の為に 

   九州各地漫遊中なる前東京帝国大学総長理学博士山川健次郎氏は去る十八日、熊本尚綗(しょうけい)女学校に
  於て一(じょう)の演説を為したり。(その)梗概(こうがい)
左の如し

女子が学問をするは(よろ)しいが、学問をなしたる為め(かえっ)て活と云ふ意義を間違へ、(やや)もすれば(その)動作の妥当を欠きおテンバとなり、(つい)には女徳(じょとく)を損すると云(そし)りあるは甚だ遺憾の次第にして、(かく)の如き有様ならば女学校には決して(いだ)す可からずと云(よう)になりては、益々発達せねばならぬ女子教育上に迷惑(すく)なからず、(よろ)しく諸嬢(しょじょう)は大いに注意せねばならぬ。▲妙齢の女子にして東京に遊学するもの日を()ふて増加し(きた)る傾向あるが、()づ東京に遊学せんと欲する者は(あらかじ)め入学せんと思ふ学校の性質及び(その)状況を知悉(ちしつ)して後、父兄と一緒に上京して同居をなすか、(あるい)は信頼せる証人ありて充分の監督保護をなすものあらば()(かく)、単独に遊学せんと欲するのは(いまし)むべきことにして、東京の女学校は大底教育的にあらず教育屋の方にして、東京は女学生に取りては実に魔窟(まくつ)であるから無暗(むやみ)に東京々々と云って()でたらば大きな間違いを生ずべく、それも学問をなす学校がなき時代は()て置き、現時は各地方に結構なる学校が設置され、()ず女子にして高等女学校を卒業すれば所謂(いわゆる)良妻賢母たる資格は充分に養成さるることを()べく、不足を自覚せば補習科に()りて補習をなせばそれで充分なり。▲女子は志操(しそう)甚だ薄く感情に制せられ奢侈(しゃし)に流れ安く勤倹(きんけん)力行(りきこう)と云ふ方には甚だ乏し。将来は勤倹力行と云ふことを心懸けて貰いたい。と云ふのは佛国が独逸(どいつ)に戦敗して其後国民は(ふる)って勤倹を実行せし結果十年を()でずして其償金(しょうきん)皆済(かいさい)し経済を恢復(かいふく)したり。現に弐拾壹(にじゅういち)億余の外債を有する我国民(こと)に一家の経済を(つかさ)どる()き女子は奢侈に流れず充分勤倹を守るべし。現時と(いへど)()巴里(パリー)の市民は外見上大いに奢侈を(よそお)ふ如きも、其実(そのじつ)大いに勤倹を厳守し、宏大(こうだい)なる音楽館及び劇場などは、全く外国人の吸収を目的とせるのみ、我国民も大いに反省すべきことなり。▲当時学生堕落の声(こと)(かまびす)しき折柄(おりがら)なるが、東京などは男女学生の堕落せるもの数多(すうた)なるも、(これ)以前と比し其割合に増したるや否やは疑わしく、(あるい)は学生の数増加したるを以て単に堕落者の数を増したるにはあらずや。()く堕落せる原因は種々あるべきも、第一学生時代には恋愛小説を読むことは大いに警戒を要す可きなり。▲一体人間に限らず、(すべ)ての動物は、激変に付いて後患(こうかん)(おもんぱ)からざる可からず。(れい)せば野獣を捕え(きた)りて之を家屋(かおく)内に飼養すると、全く其繁殖力を減じ、又数日断食の後(ただち)に平常の食物を与ふれば胃痛を感ずることあり。(よっ)漸次(ぜんじ)湯粥(ゆかゆ)等を与へ(おもむ)ろに平食に復せしむるが如きは其激変の(うれい)を恐れてのことにて、これと同じく往昔(おうせき)女子にして学問をなすものは稀なりしも、現時の女学生などは学ぶべき学科複雑にして、数学理科の如き殊に脳力を要する学科もあり、即ち漸進(ぜんしん)にあらずして全く激変せる境界に遭遇するを以て(あるい)は身体上多少の影響を蒙ることなきや大いに当()者の(うれ)ふる(ところ)なり。(しか)し一方にては日進の今日なれば、是等(これら)の困難を排し益々女子教育をして(さかん)ならしむべきを以て、殊に女子は此邊(このへん)留意し、激変に(おぎな)はん為、常に衛生に注意し操は兎に角、適当の遊戯を怠らず、進んで運動をなし各自に身体の健康を図るべし云々。


 
 山川健次郎がアメリカに留学して1年後に、日下義雄もアメリカへ留学し、山川健次郎が住む同じ州(コネチカット州)内で暮らしている。同郷の嘉(よしみ)で二人はたびたび会っているようである。日下義雄が大正12年に亡くなって5年後の昭和3年に『日下義雄傅』という本が出版されたが、山川健次郎は序文を載せている。この序文の内容は、本来日下義雄のところで紹介すべきものと思うが、序文を書いた本人のところで紹介する。




   「                      序

            

亡友日下義雄君の傅成り、佐々木勇之助君序に序を徴す。予左の逸事を録して序に代ふ。

君が老親龍玄君に孝なりしは本書七十七貢に記述するが如く、有害無益と信ずる漢薬をも、親の調剤たるにより服せしが如き其の一端を見る可し。又戊辰戦乱後、龍玄君は医術を開業せしにより、裕と云ふにはあらざりしも、衣食に窮するに至れるにはあらざりしが、君は留学中不足がちなる學資の少なからざる部分を割きて龍玄君に呈せらるるを例とし、而して之を人に知らしめず、予故ありて之を知り、深く其の孝なるに感ぜり。今は勿論当時にありても之を知れるは予のみなりき。君が孝道に厚きは之を知る人稀なりき。蓋し君が親の膝下に在りしは少年の時代を除き幾何も無かりしを以て、人其の孝心深きを知るに由なかりしなり。今録して以て君が隠れたる美徳を世に紹介す。


         昭和二年十一月   

                       男爵 山川健次郎   」

 





 『日下義雄傅』より



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