● 日下長崎県知事非職の真相

    

   (1)非職の辞令

『市制百年 長崎年表』の明治22年(1889年)12.26の項に、「日下知事、長崎の上水道問題で責任をとらせられ免職となる」とあり、その下に小文字で「この年1月の臨時区会で水道布設案が可決されると、金井区長は公債募集を新聞に広告したが、大蔵省では、大蔵大臣の許可なくして公債を募集したことについて県当局を詰問した。日下は、内務大臣の許可を得た経過を具申したため、大蔵省と内務省の間に権限争いを生じ、ついに政府部内の大問題となった。日下は後に、福島県から出馬して衆議院議員に当選している。」

 この文章だけみると、大蔵省と内務省の権限争いに巻き込まれ、公債募集で責任をとらされて日下知事一人だけが免職となったと思ってしまいますが、実はそうではありません。というのは当時の新聞を見ると、知事非職の辞令は何も日下長崎県知事だけではないからです。このホームページの「日下義雄」のところで当時の新聞記事の内容を掲載していますが、鎮西日報の明治22年12月28日付の第2面に地方官更迭という見出しで、「本日地方官に左の更迭あり」として28名が更迭されています。そのうち22名が元老院議官や他県知事を任命され(22名のうち半数の11名が現職知事で、他は大蔵省参事官や内務省書記官など)、6名がどこかに異動を命じられることなく、ただ非職、即ち免職となっています。非職となった6名は全員知事で、この中に日下義雄も入っているのです。私は公債問題で日下一人だけが非職となったのだとばかり思っていました。非職を命じられたのは、長崎県知事、新潟県知事、埼玉県知事、三重県知事、和歌山県知事、徳島県知事の6名です。

 そこで、非職に至った経緯を調べてみましたので、(2)で述べたいと思います。

 

(2)山縣内務大臣の地方政治方針

  黒田内閣で内務大臣の山縣有朋が第3代内閣総理大臣に任命され、明治22年12月24日に第一次山縣内閣が成立しました。山縣首相は内務大臣も兼務しています。その山縣内務大臣は就任して二日目に各地方官に訓示をしています。この内容を東京朝日新聞が12月27日付で報じています。昔の新聞ですので言葉使いが難しく、難しい単語が出てくるので、とても読みづらいのですが、一部を紹介いたします。

 「地方の施政は各位既に分憂(ぶんゆう)の任に当り其の計画措置各々一定の針路あり。今(ここ)に最も注意を要する所の者は此の時に当り各位は宜しく屹然(きつぜん)として中流の砥柱(しちゅう)たるべきのみならず、亦宜しく人民の為に適当の標準を示し其の偏頗(へんぱ)(おさ)え、(むか)ふ所を(あやま)らざらしむることを努めざるべからず。要するに行政権は至尊の大権なり。其の執行の任に当る者は宜しく各種政党の(ほか)に立ち引援附比(いんえんふひ)の習を去り、専ら公正の方向を取り以て職任の重きに(こた)ふべきなり。(中略)一地方の公益は全国の公益と必ずしも相干渉せざるものあり、故に各地人民の幸福を進めんと欲せば宜しく政論の外に立ち各々其の区域の(うち)に画策するところあらざるべからず。一村の人民は各々其の一村の公益を進め一群の人民は各々其の一群の公益を進め一県の人民は各々其の一県の公益を進むることを遺忘(いぼう)せず、汲々(きゅうきゅう)として務むる所を知らば全国の公益は従って其の進度を失はざるは必然の結果ならざることを得ず。今若し之に反して一県一郡又は一村にして(かえ)って中央の政論に熱心し選挙又は議会等を機とし党派の争端を開くとあらば其の勢いは(ひい)ては小民に及ぼし怨讎(えんしゅう)相結び狂暴之に乗じ春風和気子を育し孫を長ずるの地は転じて喧囂(けんごう)紛争の巷となり、家を富まし国を利するの業は得て(おこ)すべからざらんとす之を各国の歴史に徴ずるに古今政体変遷の間(もっと)も恐るべく尤も(いまし)むべきの事情なりとす。()畢竟(ひっきょう)中央政事と地方施治とを混淆(こんこう)するの(あやまり)の致す所に()らずんばあらず。

(きょ)()()深奥の論理を分析して地方の政論を一転するは極めて至難の事に属すと(いへど)も、各位若し(ねんご)ろに意を加えて提携訓導し其の主知に訴え釈然たる所あらしめば(なお)其の横流を未決に救ひ、前途平正に帰することを望むべきなり。(中略)

 地方の経済は其の要勤倹にあり。奢美(しゃび)相競ふは殖産(しょくさん)(わずか)に進むの国に在りて最も富源に毒を流すものなり。親民の官は宜しく清廉を守り貸利豪華の習を痛斥せざるべからず。地方の風気一たび(やぶ)るるときは人心離散して()た収拾すべからざるに至らん。

 本官各位と相見るの期近きにありと雖も地方の事宜深く憂慮に切なり。(ここ)(つつし)みて聖旨を受け(いささ)か施治の務めを示す。各位の厚く此の意を体せられんことを望む。

 

   明治二十二年十二月二十五日

         内務大臣伯爵 山縣有朋     」

 

 上記の訓示を見ると、山縣有朋はこの訓示を全国の地方官に発せなければならないほど、地方行政に不信感を持っていたことは明らかですね。このことが翌日の地方官の人事に影響しているわけです。東京朝日新聞はこの人事を「地方長官の大更任を断行」と表現しています(明治22年12月28日付け)。山縣有朋は非職とした長崎県知事の日下の仕事振りを評価していなかったんでしょうか。長崎市が上水道建設のため公債を募集した時、内務大臣の許可を得ていると日下知事は大蔵省に答えていますが、その時の内務大臣は山縣有朋です。山縣は日下の首を切らざるを得ないほどの理由が存在したと見るしかありません。このことに関して『長崎市制六十五年史 前編』に次のように記述されています。


 「また市会議員中にもいまだに(水道設置の)賛否両論がたえまなくたたかわされた。そしてついに問題
  は内務省にまで飛火
して物議をかもし一時は大蔵・内務両省間に権力争いをひき起すまで進展した。そして内務省に
   おいて日下知事の水道設置に対する処置について非難するものもあり、これに基因するかどうかこんにち不明であるが
  、日下知事は同年12月工事の完成をのこして知事職を離れ東京へ去った。」


内務省に日下知事を非難する者がいたということですが、これについて、『日下義雄傅』に次のように記載されています。


「日下知事は、徐ろに区内の民情を省察し、水道布設は私立会社に経営せしめるよりも、之を区立として工事を起す方がよいと認め、さきに提出されてある会社設立の願書を却下し、翌二十二年一月九日、区立水道布設議案を決定し、区会でこれを審議することを金井区長に訓令した。依って区長は臨時区会を召集して、区立水道の件を審議せしめたところ、反対説は依然として烈しかったけれど、大勢の赴くところ、知事と区長との熱誠に動かされて、遂に之を可決するに至った。時に明治二十二年一月二十二日であった。ついで一月二十五日に至り、区は早くも水道布設の工事を県庁に依頼申請して来たから、知事は之を容れて、同年四月二十二日、県庁の手を以て工事を起した。然るにも拘らず、反対運動は尚ほ絶えず、政府に向って工事中止の建議書を提出したから、再び前日の紛争が繰返され、内務省でも知事の処置について穏当を欠くといふものもあり、兎に角日下知事は同年十二月、水道工事の竣成を見ずして辞任したのである。」(P135~136) 
                                                                 

 この本の著者は「辞任」と書いていますが、当時の新聞には「更迭」とか「非職」という言葉が書かれてありますので、著者はこの時の新聞記事は見ていなかったのかもしれませんね。  
 ともかく、工事中止の建議書が国に提出され、内務省内で日下知事の処置が穏当でないという声が上がり、このまま見捨ておけなくなって、山縣有朋内務大臣による日下知事非職へとつながったのかもしれません。 

ちなみに、東京朝日新聞は今回の28名の更迭人事にたいへん好意的で、12月28日の社説に次のように書いています。

特に、私が朱色を付けた部分に注目してほしいと思います。

 

「地方官の淘汰   地方官の能否(ほど)民人の利害に適切なるものはなく()た政府の信用如何に関するものはあらず。(ただ)是れ区々たる刺史(しし)代官の(るい)に過ぎざるが如しと雖も其責任や実に大なり。然るに地方官に係る諸種の不徳義的醜聞・不能力的椿事(ちんじ)の全国各地に聞ゆるもの頻々(ひんひん)たるは甚だ以て不都合の次第なりとす。今回愈々(いよいよ)内務大臣の訓示と共に地方官数十県に亘るの交迭(こうてつ)を断行したるもの吾人の甚だ賛成する所なり。(この)気勢を(はず)さず着々として地方政務改良の(はかりごと)を為さんこと是亦吾人の切望する所なり。」

 

(3)朝日新聞は山縣内務大臣の処置にたいへん好意的ですが、地方の新聞は必ずしもそうではないと思われます。このホームページの「日下義雄」のところでも紹介しましたが、鎮西日報は明治22年12月28日付けに次のように書いています。

 

「地方官に更迭あるべしとはかねて噂に聞いて待ち設けし事なり。今や果して電報欄内に掲ぐる所の任命更迭を見る以て政府の地方政治を釐革(りんかく)するの鋭意を想見すべきなり。独り意外千万なるは日下長崎県知事の非職なり。近頃昇級の栄を(にな)い未だ幾日ならざるに非職の命あり。その余りの意想外のことなるを以て人或いは他の栄地に転ぜらるるの下地ならんと言ふものあるに至る。吾輩門外漢は只だ意外といふの外非職の理由を(うかが)ふことを得ざれども長崎県治の為にもこの(めい)あるを惜嘆せざるを得ず。」

 

また、日下義雄が長崎を去る時、千人以上もの県民が大波止周辺にやって来て、見送ってくれたことをみると、日下義雄は県民から信望の厚かったと想像されます。その理由はやはり県民のためにいい行政をしてくれたからだと思います。

山縣内閣では非職(罷免)となった日下義雄ですが、次の次の内閣である第2次伊藤内閣が成立すると、内務大臣が井上馨ということで、福島県知事に任命されます。故郷に錦を飾ったわけですね。

 ところで、山縣有朋と日下義雄についての面白い逸話があります。『日下義雄傳』に次のように紹介されています。

「長崎においても氏は相変らず無愛嬌であった。この時代らしいとの事であるが、山縣有朋公から 『君は少し笑ふ稽古をしなくてはいかん』 と戒められたさうである。」(172貢)



                       
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