13. 柴五郎


 ○ 斗南藩に移住

   柴五郎(1860.6.21-1945.12.13)は会津藩士 柴佐多蔵(280石)の五男として生まれ、会津戦争が起きた時はまだ8歳だった。新政府軍が会津城下に

  押し寄せて来た時、五郎は祖母や母親から近郊の叔父の家に避難させられている。そして、『戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべから

  ずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱しめを受けざることを約し』ていた祖母、母、兄嫁、姉、妹の5人は叔父柴清助から退去するよう勧められても

  きかず、介錯を頼んで自刃している。

   戦後は負傷した兄の看護人として兄と共にわずか9歳で東京の俘虜収容所に収容された。旧会津藩が斗南藩として再興を許された時は、父親と長兄と

  3人で下北半島の斗南藩に移住した。斗南藩として3万石を与えられ、4千戸の藩士のうち2800戸が新領地に移住して行ったが、土地はやせていて、

  実際は7千石しかとれなかった。多くの藩士家族が飢餓に陥り、餓死する者もいた。

   柴五郎一家はある日死んだ犬をもらい受け、20日間も調味料のない塩で煮ただけの犬肉を食べ続けて飢えをしのいだ。五郎たち一家にとっては

  主食不足を補うものだったので、五郎も我慢して食べていたが、その後喉につかえて通らなくなり、口に含んだまま吐き気を催してしまった。この様子を

  見た父は怒り、「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地に

  きたれるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱そそぐまでは

  戦場なるぞ。」と語気荒く叱られている。

  

    五郎が住んだ借家は五郎の言葉を借りれば『乞食小屋』で、畳のない板敷にわらを敷いただけの粗末な家で、障子やふすまなどは一切なく、冬は陸奥湾

   から吹きつくる寒風の中を布団代わりにむしろをかぶって、みの虫みたいな格好で、いろりの周囲を囲んで寝るほかなかったそうである。

    このような苦労をした柴五郎は陸軍に入って順調に進級を重ねていき、最後は大正8年(1919年)8月に陸軍大将になり、同年11月に台湾軍司令官に進んだ

   後、大正10年(1921年)5月、軍事参議官になり、大正12年(1923年)3月に予備役を仰せ付けられた。



 ○ 長岡重弘との出会い

    ここで、柴五郎の恩人の一人に大村藩出身の長岡重弘という人がいるので紹介したい。柴五郎の手記を掲載した 『ある明治人の記録』という本の中に

  長岡重弘はたびたび登場し、柴五郎のためにいろいろと世話してくれている様子が描かれている。長岡重弘は大蔵省に1年1ヶ月在籍したが、この期間に

  柴五郎少年と出会っている。この本に次のように書かれている。


       「(明治5年)5月末、地租改正調査のため、東北地方巡回の大蔵省役人の一行、青森に滞在す。首席は肥前大村の人、大蔵七等出仕の長岡重弘、

        次席は信州松本の人、大蔵(さかん)市川正寧、その他土肥、北村、山田等の属僚をしたがう。」(83頁)


    この本によると、柴五郎と長岡重弘との最初の出会いは、明治5年5月末、柴五郎少年が青森県庁に給仕として勤務していた時、地租改正調査のため東北

  地方を巡回していた大蔵省役人一行が青森に滞在した際に、東京留学したいので帰路一行に同行させてほしいと宿所へ訪ねて行った時だった。その一行の

  首席が大蔵省七等出仕の長岡重弘で、長岡は同行することを快く承諾している。そして6月初旬、次の巡回先に向かうため青森を出発することになったが、

  この時の様子について柴五郎はこの本の中で次のように記述している。


       「 長岡氏は牛輿に乗り、他は徒歩なり。長岡氏は心優しき人にて、幼少の余をいたわり、同氏の輿に同乗させ、あるいは駅馬に乗せなどして、

         実際に歩行せるは一日のうち、四、五里なり。 」

 
    青森から東京までの旅費や雑費も長岡重弘と次席の市川正寧(信州松本出身)が支払ってくれている。東京に着いてから五郎は定住先が決まるまでの間

  知人・縁者の家を転々とするのであるが、市川正寧や長岡重弘の家にもしばらく寄宿させてもらっている。こうして苦労した末に、明治6年3月末、柴五郎は

  陸軍の幼年生徒隊(後の幼年学校)の試験に合格し、陸軍兵学寮に入った。この時とても喜んだ一人が五郎を寄宿させてくれていた山川浩だった。

  市内に出かけて行って軍服を買い求め、帰って来てからはその着方を五郎にいちいち教えてあげている。その軍服を着て五郎は青森県庁以来の大恩人である

  細川藩出身の野田豁通 (青森県庁で大参事を務めた)を訪ねて行って挨拶をしている。また、『長岡宅、市川宅など、世話になりたる家を馳せめぐりて、挙手の

  礼をな』している。この時柴五郎はよほど嬉しかったらしく、手記には 『余の生涯における最良の日というべし』 と記しています。

    長岡重弘はその後本籍地の長崎県長与村に居を移した。晩年、嬉里郷の自宅を柴五郎将軍が訪ねて行って、長岡を見舞ったことがあり、長岡の妻のキミ氏は

  後々までそのことを自慢話にしていたそうである。



 ○佐世保要塞司令官に就任

   明治33年(1900年)3月、39歳の時に清国公使館の駐在武官となって北京に赴任するが、山東省で発生した義和団が6月に北京に攻めて来た時は、

  8月に8ヵ国連合軍が北京に入城するまで各国軍が協力して公使館区域に籠城したが、柴五郎中佐がこの籠城戦で実質的な指揮を執り、その奮闘ぶり

  は各国から称賛され、乱平定後各国政府から勲章まで授与されている。


   実はこの明治33年6月に陸軍佐世保要塞司令部が佐世保要塞砲兵連隊内に設置されている。日下義雄が長崎県令として赴任して来た直後の明治

  19年5月に海軍の鎮守府が佐世保に設置されることが決まり、明治22年7月1日に佐世保鎮守府が開庁するのであるが、佐世保軍港を防御するために

  陸軍の佐世保要塞砲兵連隊が明治30年10月に設置された。佐世保要塞司令部が設置された2ヶ月後の8月に庁舎が光月町に新しく完成したことから、

  司令部はそこに移転した。現在、体育文化館が建っている付近である。初代佐世保要塞司令官は長州出身の山根武亮少将で、5代目の司令官として

  赴任したのが柴五郎少将である。明治41年(1908年)12月21日から明治42年(1909年)年8月1日まで就任している。この要塞司令官という職は当時

  「ヨウナイ司令官」と蔭口をたたかれていた閑職だったそうで、柴五郎少将は佐世保勤務はに1年も満たずに、重砲兵第2旅団長として翌年8月下関へ転勤

  している。

   下関へ赴任する途中、長崎市を家族で訪問し、上野屋旅館 (現在の長崎家庭裁判所及びその周辺) に宿泊している。

  明治42年8月7日付けの「東洋日の出新聞」の『公私消息』という小さい欄に次のように記載されている。



       「 ▲柴五郎氏(前佐世保要塞司令官少将) 今般任地下之関二旅団長に赴任の途次一昨夜家族同伴来崎し上野屋に投宿せり 」



   また、同新聞翌8月8日の『公私消息』にも次のように記載されている。



       「 ▲柴五郎氏(下之関二旅団長) 上野屋滞在中昨日出発 」




                       

                                   佐世保要塞司令部の庁舎

                                  (『地図でみる佐世保』から掲載)



                        

                                明治43年頃の佐世保重砲兵大隊の写真
                                     (佐世保要塞砲兵連隊の後身)

                                (『佐世保市史 軍港史編』 上巻から掲載)
                   


               参考文献

                   ウィキペディア 『柴五郎』

                   ウィキペディア 『佐世保要塞』

                   『佐世保市史 通史編』下巻   佐世保市史編さん委員会編  佐世保市発行  平成15年

                   『させぼ歴史散歩』 筒井隆義著 芸文堂 平成17年

                   『地図でみる佐世保』  平岡昭利編著 芸文堂 平成14年 

                   『ある明治人の記録ー会津人柴五郎の遺書ー』 石光真人編 中公新書 昭和46年

                   『長与町郷土誌』下巻

                   『西彼町郷土誌』  西彼町教育委員会編集・発行  平成15年3月1日







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