● 清国水兵暴動事件時の清国艦隊長崎入港日について
明治の中期、長崎で発生した国家的大事件が清国水兵暴動事件である。この事件については、
『長崎県警察史 上巻』に詳しく掲載されており、事件の端緒の部分を紹介する。
「四.清国水兵暴動事件
(一)事件の概要
明治19年(1886)8月1日、清国北洋水師提督丁汝昌は装甲戦艦定遠、鎮遠並に
巡洋艦威遠、済遠の4艦を率いて長崎に入港した。それはわが国に対する一種のデモ行為で
あったが、山のような甲鉄艦が港内を圧して投錨した姿は、市民に恐怖の念を抱かせた。
4艦乗組将兵は上陸しては酒場を廻り、遊郭に繰込んで艦上生活の憂を晴らしていたが、
8月13日午後6時ごろ、水兵5名が寄合町遊郭遊楽亭に登楼し、夫々配妓をきめ午後8時頃
再び登楼することを約束し、玉代を支払って夕食のため外出した。その後、他の5名の水兵が
登楼したが、前約のない娼妓は2名しか残っていないため、娼妓の配分のことから楼主側と
口論となり、言語不通で要領を得ず押問答中、先の5水兵が帰楼して約束の娼妓とそれぞれ
部屋に入った。事情を知らぬ後の水兵は先客の自分達を疎外し、後から来た客を優遇するものと
誤解し、幾ら弁解しても聴かず、手当たり次第に家具器物を投げ乱暴をはじめた。」
(『長崎県警察史 上巻』 長崎県警察本部発行 昭和51年)
のところで紹介したので、ここでは省略する。問題は清国艦隊が入港した日である。
清国艦隊が入港してから暴動が起きるまで2週間近くもかかっているが、あまりにも長いという
気がしないだろうか。実は、最初の事件が起きた8月13日の3日前に清国艦隊4艦は入港している
のである。
明治19年8月12付毎日新聞の第1面には次のように記載されている。
「○清国軍艦
鎮遠、定遠、済遠、威遠の四艘は露領浦塩斯徳港より一昨十日長崎へ着したるよし。」
それでは、地元の新聞、鎮西日報はどう報道しているかというと、
【明治十九年八月十一日付け鎮西日報】
「●清艦入港 予定の如く定遠(旗艦)、鎮遠・済遠・威遠の3号は孰れも 昨10日
午后1時40分浦潮斯徳より入港せり。定遠と鎮遠とは船底頗る損し居れば近く立神船渠に
入れ外部修繕をなすならんといへり。」
鎮西日報の記事では「予定の如く」と報道されているので、清国艦隊が突然やって来たのではなく、
事前に長崎の方へ連絡が来ていることがわかる。
実は、明治十九年八月八日付けの鎮西日報に清国艦隊の長崎港入港について、次のとおり記載されている。
【明治十九年八月八日付け鎮西日報】
「●清艦
目下浦潮斯徳に滞港せる鎮遠・済遠・致遠・揚威・超勇・威遠六艘の清国艦隊は、
来る十一二日ごろ当港に来り、その内数艘は当港の船渠に入り、修繕を加ふるよし。」
このように、明治十九年八月十日、清国海軍の丁汝昌提督率いる四隻の北洋艦隊軍艦が長崎港に
入港した。ロシアのウラジオストクに寄港していたのであるが、清国に帰る途中、艦艇修理の名目で長崎に
入港して来たのであった。しかも、当初は六隻が入港する予定であった。
では、他の文献ではどのように記載されているか見てみよう。
まず、『市制百年 長崎年表』(長崎市役所発行 平成1年)では、
「1886(明治19)
8.1 清国水兵暴動事件 清国北洋水師提督丁汝昌の率いる北洋艦隊主力艦4隻が入港」と
記述されている。
次に、『長崎市史年表』(長崎市役所発行、昭和56年)では、
「1886(明治19)
8.1 清国北洋水師提督丁汝昌、北洋艦隊を率いて入港 」 となっている。
さらに、『新 長崎年表(下)』(長崎文献社発行 昭和51年)では
「1886 明治19
8月1日 清国北洋艦隊(提督丁如昌) 鎮遠・定遠・済遠・威遠が長崎入港、
13日に上陸した水兵が日本警官と衝突、大騒乱をおこす 」 と記述されている。
『明治百年 長崎県の歩み』(毎日新聞社発行 昭和43年)では「清国艦隊入港」の項で、
「19年の8月1日、清国水師提督、丁汝昌の率いる北洋艦隊の主力艦定遠、鎮遠、成遠、済遠の
4艦が、威風堂々と長崎の港にはいった。」
と記述されている。
ではいったい、いつ頃から誤って8月1日に清国艦隊入港と記述され出されたのだろうか。
『日下義雄傳』は昭和3年に発行されているが、この本には、
「 清国水兵暴行事件は日下知事在任中の重大事件であり、当時におけるわが国際的地位が如何に
低かりしかを教える事実であり、また日下知事の負けじ魂が盛んに発揚し来って、国権維持の
ために如何に努力したかを示すものであった。
(中略)
明治19年8月1日の事であった。清国北洋水師提督丁汝昌は、麾下の軍艦定遠・鎮遠・威遠・
済遠の4艦を率い威風堂々として我が長崎港に来泊した。」
と既に8月1日と記述されている。
『日下義雄傳』の執筆には数年を要したと思われるので、大正年間には既に他の文献には8月1日として
取り扱われていたと思われる。これより古い文献は見つけることができなかったので、どの時点から
間違って8月1日と記述され出されたかははっきりとはわからない。ともかく、かなり、古くから
8月1日と誤って認識されていたと思われる。
今後は正しく8月10日と記述される必要がある。
鎮西日報 明治19年8月11日記事
毎日新聞 明治19年8月12日記事
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