特派員西郷四郎の記事


  西郷四郎は明治37年(1904)2月10日に日露戦争が開始される前年の秋、東洋日の出新聞社から特派員として朝鮮の

 義州に派遣されている。その派遣の具体的な時期について、西郷四郎研究の第一人者 牧野登氏はその著書 『史伝 西郷

 四郎』に「十月末」と記載されている。そして、11月15日に西郷が発信したその現地報告が明治36年12月3日付の東洋日の

 出新聞に掲載された記事を上記の書物に全文を紹介しておられる。西郷が朝鮮義州に派遣された時期を牧野登氏が「十月末」

 と書いておられるのは、西郷の記事の冒頭に、


       「拝啓生儀故ありて去月廿五日来龍厳浦沖の薪島に渡り居候」


 と書かれてあるからだと推測される。実は、西郷が書いた記事が前月の11月10日の東洋日の出新聞に掲載されているので
 
 あるが、牧野氏はこの記事があるのを見落とされたようである。10月30日付義州発信のこの記事には冒頭に次の文章が記載

 されている。


  「拝啓十月八日も思の外なる平穏無事に経過致候。」


 10月8日の時点で義州にいたため、11月15日に発信した記事の中に「本月十日再び義州に立還り申候」と書いているので

 あろう。

  ここで、義州という場所は中国と北朝鮮の国境となっている鴨緑江下流に面した地域で、行政上、平安北道に属している。

 西郷が11月15日に発信した記事に出てくる「龍厳浦」は鴨緑江下流に面した地域で、「薪島」は鴨緑江の河口に所在する島で

 あり、いずれも朝鮮の平安北道に属している。彼はこの中朝国境線である鴨緑江を渡って中国つまり清国側領土で鴨緑江岸の

 蚊子溝という所を視察して来ている。そして、この蚊子溝について、「船舶の繋留場としては鴨緑紅沿岸中屈指の良場にして、

 安東縣や龍岩浦等の遠く及ばざる所」と記している。西郷は蚊子溝にはロシア兵が10数名滞在して何か行っていると聞いていた

 けれども、自分たちがここに来た時には既に数日前に引き上げていなかったと書いている。

  西郷が東洋日の出新聞社から義州に派遣されたこの年の5月に、満州に続き朝鮮へも利権獲得を目指していたロシアが朝鮮

 侵略の軍事基地として鴨緑江河口の龍巌浦を占領し、ここの租借を当時の大韓帝国政府に要求する龍岩浦事件を起こしている。

 1895年の三国干渉後、ロシアは朝鮮に対して影響力を強めていたのであるが、大韓帝国から鴨緑江沿岸の森林伐採権を得た

 のを機会に、龍巌浦が不凍港であるところから、森林伐採を理由としてこの龍巌浦に電信設備や兵舎、倉庫などを設置するとと

 もに、その租借まで要求したのである。そして大韓帝国から承認されている。このロシアの動きに危機感を持った日本は翌年2月

 にロシアとの開戦に踏み切ったのである。

  西郷は義州に東洋日の出新聞社から派遣されたというより、自ら志願して行ったのではなかろうか。ロシアが朝鮮併呑の野心

 があるのを憂え、中国へ渡ろうとして明治23年に8年間在籍していた講道館を出奔した西郷である。じっとしていられなかったに

 違いない。明治36年10月30日付で義州から「鴨緑江畔の情勢」と題する記事を送り、11月10日の東洋日の出新聞に掲載さ

 れた記事には、日露関係をめぐって日本当局者に対し不満を述べ、ロシアとの交渉が成立しないなら我々としても覚悟を決めな

 くてはならない、しかしあまり血気にはやって世間から笑われるのも馬鹿馬鹿しいので、耐え難い癇癪玉を抑えて当分雲行きを

 眺めているところである、と冒頭に書いている。この時期の西郷のもどかしい思いが紙面からよく伝わって来る。

  なお、この11月10日の東洋日の出新聞記事を見ると、それ以前にも西郷の送った記事があるように思われる。初めて記事を

 送ったようには思われないからである。実際、12月3日に掲載された記事にも、「先々便に」という文言があることからおそらく10

 月中に掲載された記事があると思われる。それで、11月以前の新聞を見せてくれるよう長崎県立長崎図書館郷土課の職員に依

 頼したところ、この年の4月分から10月分までは欠落しており存在しないということだった。おそらく西郷は10月より前に義州へ

 行ったように思われる。




         

                     日露戦争で鴨緑江を渡る日本軍の騎兵  (ウィキペディア 「鴨緑江会戦」より)



        

                    鴨緑江に架けた仮設橋を渡る日本軍(第一軍) (ウィキペディア 「鴨緑江会戦」より)




○ 鴨緑江畔の情勢                         【明治36年11月10日付  東洋日の出新聞】

      十月卅日於義州  西郷生 

                                                                
 「 拝啓十月八日も思の外なる平穏無事に経過致候。一体我国の当路者は如何なる所在に有之候哉一圓合点の参らざる義に
        いよいよ                                                               はや
   有之候。愈々物に成らぬなら成らぬ所にて吾人等も何んとか覚悟不致候ては相叶はざる儀に候得共。餘り血気に燥急りて
                   ち                まま
   世間の物笑と相成候も。些と馬鹿馬鹿敷儀と存じ候儘。難堪癇癪玉を抑へて當分雲行を眺め居る次第に御座候。
                                                  しんとう    しょうしとう
   生儀少敷思ふ所有之。去る十日義州を旅立致し。鴨緑江の入口に横はる薪島 (一名獐子島)に渡り種々取調致候。此島は
                        さいじ                                      まいるばかり
   周囲僅かに四里有餘に過ぎざる蕞爾たる一孤島には候得共。龍巌浦と大東溝(清國)とを距る各一哩計にして。他日大東溝

   なり龍巌浦なり安東縣なり又は義州なりが解放さるゝ暁には。商業上最も樞要の場所と確信仕候。露人既に此島を龍巌浦

   経營線内に入れ置くに至ては。實に寒心の外なき次第に御座候。
                                       はつか
   薪島の視察を了へ。大東溝及び 龍巌浦附近を歴視して去廿日再び義州に立戻り候處。外國人をして聞かしむべからざる
   てい                        ここ
   底の滑稽極る狼狽事件こそ起り居候。今茲に其顛末を御報道申さんに。
                                              すこぶ うろたへ
   本年三四月頃より當義州に出張り居る参謀本部附士官日野強と称べる頗る周章者有之候。此男満州問題に關し昨今の

   形勢を如何に観察せし乎。十二三日頃より頻りに日露間の切迫を吹聴し居り候處。十四日に至り突然其筋に向て義州方面 
                                                                          
   不穏危険眼前に迫れりなど埒もなき事を打電す。又當地方の各所に散在せる本邦民に向ては。領事代理新庄等を促がして
                                                                             いやしく
   一同立退きの諭告を發せしめ候。時節柄それが無くとも平素戦々競々として風聲鶴唳にも驚かされ易き者共の事とて。苟も
                                                      
   其位地に在る者が眞先キに騒ぎ出すを見候以上は。如何でか驚かざるを得べき。況してや其諭告に接するに於てをやに候。
    ここ                      とりあへず                            すくな
   是に於て一同我れ先きにと取るものも不取敢立退き始めしも是非なき次第に候。夫れが為め尠からざる損害を被りし者も
                                                                           はふはふ
   頗る多き由に聞及候。此狼狽事件の起らざる前迄は。大阪毎日新聞社の特派員も在留致居候が。其騒ぎの起るや這々の

   体に逃げ去りしこそ笑止千萬の至に有之候。右の外目下當地に於てゴタゴタ致居候は。義盛公司の連中が韓人より材木を

   強奪せりとか露人より掠奪されたりとか。利益の分配が不公平なりとか位の事にて。其他差したる珍事も無之候。然し京城

   邊には余程日野の狂電に驚かされしと見へ。四五日前五六名の憲兵と公使代理萩原書記官等が来義致候。生は明日より

   再び薪島に渡り来月中旬迄滞在の豫定に御座候。


       龍巌浦實視の結果

    萩原公使館書記官が自ら龍巌浦を實視して其筋に報告せしもの次の如し

    一、龍巌浦に於ては大に歓待され警察署長の案内にて山上を巡視せしが砲臺建築の理由として彼等の言ふ所によれば
       さき
      曩に露に叛いて逃亡したる馬賊林七或は逆撃するも知れざるを以て之を防禦する計畫に過ぎず唯だ今や其の必要

      なきを以て之を散歩場とする工事中なりといへり現在其の砲臺に非す散歩場なると其の言の如し

    一、龍巌浦在住露人五六十名内十名は婦女又日本人は女八人、男二人にして女の六人は醜業婦なり

    一、諸般建築物全部完成せり露人の幾分は結氷前に帰國するものの如し露人貯蔵の材木は五十萬本以上なり
  

    然して萩原書記官が鴨緑江方面に關する根本的結果の認定として某氏に語れる所如左

    一、鴨緑江に於ける本邦人の伐木事件は韓廷より本邦人に添附したる特許状を偽造なりとするの反證を擧げざる限り

       又その當該官吏を處罰せざる限りは義盛公司に伐木権ありと認む但し日露両國人共一木たりとも自ら伐木せしもの

       あるを認めず

    一、義州は開港場同様のものと認む故に余は今迄平服にて職務に服し居たる本邦巡査に制服を着けて韓國官衙及び

       龍巌浦を往復せしめ且これを露韓両國官人に照會したり憲兵も同様公然たり

    一、龍巌浦の露國人は露兵にあらずして豫備の軍籍に在る傭露人に過ぎずと認む尤も制服を着せる士官を認めたるも

       右は旅行滞在中の者なりと称し居れり

    一、龍巌浦は軍事的経營にあらず商事政治的経營なりと認む但し建築の宏大なる點より見れば安東縣附近に在る露兵
                              おそれ
       が服を變じて来り冬籠の用に供するの虞なきにあらず
 

    要するに該地に於ける露國の行動は日露協商に違反せざるものの如く認めらる云々
                            ほしいまま
    其後隠蔽若くは取崩せしにせよ一度は恣に他國領内に砲臺を建設せるとは露人の右の自白によりて明也尚ほ確かなる

    筋に於ては右砲臺跡をば無線電信用か寫眞的交通機關の設備に宛て對岸の安東縣鐵砧丘上のものと相應せしむる

    計畫なりと観察せらる 」


  
    

                                 長崎県立長崎図書館所蔵





 鴨緑江岸の消息                          【明治36年12月3日付  東洋日の出新聞】

        (特派員西郷四郎十一月十五日朝鮮義州発信)

      せいぎ
 「 拝啓生儀故ありて去月廿五日来龍厳浦沖の薪島に渡り居候處、井上中西両氏の来迎に接し同氏等と共に本月十日再び
                               ばかり    くらい  ぶんしこう
  義州に立還り申候、其途次安東縣の下流一里許りの所に位する蚊子溝と申所を視察致し参り候、兼々同所にて露兵十数
                                       せいら
  名滞在致居り何事か経営致し居るやに聞及び居候得共、生等上陸致候節は既に数日前一同引上げし由に候、一体此

  蚊子溝と申所は、船舶の繋留場としては鴨緑江沿岸中屈指の良場にして、安東縣や龍岩浦等の遠く及ばざる所に有之候。
                             こうはん     こま
  往古は朝鮮領に属せし事もありしと見へ、江畔に臨み高麗城址(註に曰く任那、新羅、百済、高麗等一概に朝鮮人の名を以
              コーライ                         ばんきょ
  て汎称さるれども、高麗人は今の満州長白山頭より鴨緑江岸に蹯踞せる人種にして韓の北邊を掠めて一時覇を称せし者な

  り)なりとて今猶塁壁等の遺跡歴然存在致居候、安東縣開港論者の率先者たりし英国士官コル子ル氏の如きも、先日此蚊
                にわか
  子溝を視察致候以来、俄に安東縣開港論を蚊子溝開港論に變更せしとの事に候蚊子溝の名永く御記臆願候尚ほ着義前

  後見聞する處の概略を御報道申せば左の通りに御座候


  ▲露の清廷に對する強請
                むか
  過日来露國が清廷に對って脅迫的請求試みつつありしと云ふ條件を聞くに左の三ヶ條に候
     えんどうだい   
   一、袁道臺を免官する事

   一、満州全体の團練を解散すると同時に其武器を没収する事

   一、満州三省に於ける清國の常備兵数を一萬五千人に減退する事

  露國が最初此三ヶ條を清廷に提出するの前奉天府城内に新に軍兵三千を増進し、若し五日間内に諾否の確答なき時は、
                    ばかり               おおい
  覚悟の次第もあるぞと云はぬ許の脅迫的態度を示して、大に清廷を威嚇せしとの事に候


  ▲袁道臺の上京
 
  目下清廷官人中外交家として名聲赫々たる袁道臺も、数日前北京政府より上京を命ぜられたれば、不日上京の途に就く
                                                  いへ
  ならんと存候、他に轉任か將た全然たる免官か未だ其邊を確知するに由なしと雖ども、兎に角上京とは即ち道臺の現職を
                             
  解かれたる者に相違無之との事に候、皆是れ露国が試みし運動の効力が實体として現はれ来りし一現象に外ならず候、
                   よびもの
  元来此袁なる男は、世間の呼物と成り居る丈ありて中々の敏腕家にして平生容易に露人の術中に陥らざるのみならず却て
                                                
  反對に彼等を翻弄する位の器量者なれば、露人は常々袁を眼上の瘤と視て、機會あらば如何がなして之を満州以外に放逐
                               むかっ
  せんと苦心致し、最初は敬遠策を取り、清廷に對てそれとなく袁道臺の人物を称誉して他に榮轉を勧誘せしも、更に其効験
       あぐ         たちま                                                   しゃかいたん  
  なきに倦疲みければ、忽ち心機一轉して彼等の最も得意とする脅迫手段に変轉せる次第なりと申事に候、這回単に袁道臺

  の排斥策を成効せしのみならず、他の二條件も清廷の容るる處となり着々実行しつつある形跡相見へ候、露國が此の運動
                        えん
  の為め消費せし金額殆んど二十萬圓許なりとの事に候


  ▲鳳凰城附近の模様
                 とん                           はか
  先月下旬薪島沖に二千噸位の汽船(諾威國船か)二隻碇泊致候、豈に圖らんや是れ皆露国軍隊用の糧食弾薬を満載せ
                             かっ
  る者、而して其後毎日二百輌づつの馬車を駆て、安東縣より遼陽及び鳳凰城方面に運搬せる日數十四日間繼續せるを見
                             ぼくち
  ても、尚ほ如何に其數量の多量なりしかを卜知するに足り候、従来鳳凰城に駐屯せる露國の兵數は六百名に過ぎざりしが、
            とみ                       にわ
  數日前来其數頓に増加して殆ど千名近くに及び其為め俄かに兵舎の狭隘を告くるに至りたれば、昨今城内に在る官衙、
                                  はじ
  學校、寺院其他総て官設に係る建築物の修繕を着手め候、其建物の面積は此上猶ほ三千の兵員を収容するに足り申候、

  又九連城の如きも城内の民家を調査して、入兵の準備最中に候


  ▲黑島に於ける馬賊
                              なづ
  當義州の市街を距る僅か半里許の所に黑島と名くる鴨緑江の洲島あり、去る七八月の大洪水の為め此洲島に漂着せる
                                                                      ぎせい
  流木の數約數萬本あり、此流木は最早日本の有なりと称して日本國旗の下に保管されつつありしが、過般来義盛公司員と
                          きょう         たくまし      はし
  称する流木分捕團体中に其頭領日野強なる者の我利を逞ふせる為め端なく内訌の起るや、素早く且つ横着なる露人等は
                                                               あたか
  奇貨措くべしとなし、日本國旗に代ふるに自國の國旗を以てせり然るに我利々々亡者の腰抜共は、恰も鳩の豆鐵砲的有様

  にて誰一人之を憤慨し、身命を賭しても猶ほ此恥辱を雪がずに置くべきやと蹶起するものもなく、全然露人の有に歸せる姿と
      おは
  はなり了りぬ、露人は其木材を看守すると称して二百有餘の馬賊を指揮して同島の各所に駐在するに至りたる次第なり、而

  して此馬賊等は無邪気なる島民に對し、乱暴狼藉殆んど至らざるなく、婦女子等の輪姦強姦の恥辱を受くるもの殆んど毎日
                                                              くわんせずねん
  と云うも敢て不可なき有様なり、今之を軽薄なる眼孔を以て見る時は、他國民同志の事なれば、不關焉と冷然澄まし居るも、
                                                                             こと
  忍べば忍ばるる樣なものの一朝同等の人類と云ふ感念を以て之を目撃する時は、人として誰か憤慨せざる者あらんや、特に
                   がうはら
  昨今の如き時節柄と来ては強腹が煮て堪り不申候


  ▲營内殴打事件と萩原代理公使

  先々便に國際問題として充分の價値ある事件なりと御報道申上置きし、例の牧、吉井両名に對する當地鎭衛隊營内に於け

  る殴打事件も、過般京城より萩原代理公使出張の上、一の下手人も出さず、又鎭衛隊長の責任をも問ふなく、被害者両名
   むかっ
  に對て大枚百五十金宛の膏薬代を恵送する丈の事にて、殊の外立派至極の落着を告げしとは情有て無し

  一体堂々たる一貫の人間を半死半生の憂目に遇はせて、僅か百五十圓位の目腐金にて事が済むものなら、随分吾々も
                                                                        
  時節柄二三人位は何時でもなどと嬉し紛れか悔し紛れかは自分自身も知らざれども一盃を傾くる毎に酔狂を演らかして一行

  の連中を困らせ居申候
                        さふらはん
  此萩原と申御方は、既に御承知にも候半か京城御出發の際、公使館より公使代理の證明書をも御持参なされながら、いざ
                                                                      はふはふ
  龍岩浦上陸と云ふ晴れの場合に臨み、棧橋に張番せる一番兵の上陸罷りならぬとの一言に腰を抜かされ、這々の体に引下
                             あっぱれ           こたび    おさばき 
  り給ひて、天下に思はぬ美名を博されたる天晴剛の御方なれば、這回の如き御捌あるも固より御尤も至極と感服仕候、


  ▲袁道臺の露國評

  先日我一行中の中西老兄が同道臺と會見せられし折、彼は露國を評して曰く、今露國が我満州に於て如何なる傍若無人の
                                       いかん                               と る こ
  振舞を働くとも、我清國の為め左迄憂慮すべき事に非ず、如何となれば露國は自今二十年を出でずして必らず土耳其と同一

  の運命に陥るの形跡歴然として存在すればなり、其の形跡と称するは如何なるものぞと問へば、即ち官吏共の官金着服の甚
               つい
  しければなり、此點に就ては我清國官吏の如きも、他國に比しては餘り後れを取らぬ方なれども露國官吏の着服の甚しきに
                             ここ
  至ては我官吏共の到底及ばざる所なり、今玆に満州に在勤せる露國文武官人共に就て其一例を挙ぐれば、四圓の糧秣を買

  ひ入るれば、其買主は我清國地方官に迫りて十圓四五十錢の領収證を出さしめ、以て官金を胡魔化すが常なり、此一事を見
                                                        なるほど
  ても尚ほ露國の自滅を免がれざるは、明白なる天の命數に非ずやと答えたる由に候、成程袁のが適評かは知らざれども、吾
                                         
  等の如き短氣者は到底此先二十年など云ふ長き月日を、茫然待居る譯には参り不申候


  ▲コル子ル氏の皮肉
                                                                          つら
  英國陸軍少佐コル子ル氏、先般吾々一行の浪宅に来遊し日露交渉事件に關して皮肉至極の評語を吐き去りしこそ面憎くも

  あり、又小恥敷もありぬ、其語に曰く、

   一、日露は、互に恐ろしがりて居るから到底戦争などにはなりませんよ、

   一、談判中止の始めは、即ち談判の終りならんと
                            ざんじ
  これは、先般露公使ローゼンの不在に付暫時中止せりとの報に接したる時に候


  ▲咄々義盛公司
                                                                       ここ
  當地に於ける義盛公司なる者に就き詳細の御報道申上度候得共次便に譲りて今便には別段不申上候然し玆に一行中井上
                                                          なしくだされたくそうろう
  雪堂君の戯れに唸られし狂歌と狂句が有之候に付これにて義盛公司なる者大体を御推察被成下度候

   ㊐ の刻印を以て鴨緑江の流木を横領せんと企て大失敗の末歸朝を命ぜられたる陸軍大尉日野強
  
                其 一
                  もてあそ
    日の本の日の刻印を弄び自と受し天の罰哉

                其 二

    きもこがしまた身も焦し日の強さ  

      日清義盛公司の長と称する阿部準輔 (目下在義)

              すぎ
    甚助やきが多ふ過てやりそこね        




                                     
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