6.神保修理
神保家は家禄は1000石の上級藩士で、内蔵助の代になって200石を加増され1200石となった。文久2年(1862年)に神保内蔵助は家老になっている。
内蔵助の長男 神保修理(じんぼ しゅり)は、天保5年(1834年)に生まれ、慶応4年2月22日(1868年3月15日)に34歳で亡くなった。ウィキペディア『神保修理』によると、修理は藩校・日新館で勉学に励んでいた時代に周囲から秀才と謳われたそうで、藩主松平容保が京都守護職を拝命した後は側近くにあって容保に随行し国事に奔走している。慶応2年(1866年)、容保は修理の優れた国際感覚を買い長崎に派遣した。長崎では、勝海舟や坂本龍馬、伊藤博文、大隈重信らと知り合っている。坂本龍馬は慶応3年2月16日付けの三好慎蔵宛の書簡に「長崎ニて会津の家老神保修理に面会。会津ニハおもいがけぬ人物ニてありたり」と書いている(『近代日独交渉史研究序説』100貢)。幕府寄り側にもこういう開明的な者がいたのかと龍馬はさぞ驚いたことであろう。
薩長を主力とした西軍との鳥羽伏見の戦いでは、軍事奉行添役として出陣するのであるが、戦況が不利となり、しかも朝敵となることを恐れた神保修理は徳川慶喜に恭順・謝罪を進言し、総大将の慶喜が大阪城から江戸に秘密裏に帰った責任をとらされて切腹させられた。
神保修理の長崎でのエピソードとして次のことが「戊辰落日」という本に紹介されている。それによると、『当時長州藩は第一次長州征伐のあとで勅勘(ちょっかん)を蒙っており、同藩士が藩外に旅行することは禁止されていた。修理が長崎に着いて間もないある日、某酒楼で宴会があり、それに出席してみると、たまたま臨席している一人の青年武士が目に入った。修理はその武士が長州藩の伊藤俊輔(のちの博文)であると直感した。修理も伊藤もまだ互いに相手を識らない。修理が酒楼の仲居にたずねてみると、<林宇一>とかいう男だという。どうも伊藤は藩籍をごまかし、姓名を変えているらしい。そこで意を決した修理は、突然、傍にあった杯を伊藤にすすめ、大声に「伊藤俊輔君、書生はもっと磊々落々(らいらいらくらく)、おおらかに行こうではないか。変名して小さくなっているようなけちな真似はよしたまえ」と叫んだので、さすが剛腹の伊藤も茫然自失、二の句がつげなかった』ということである。
ところで、『東洋日の出新聞』が明治35年(1902)1月1日に長崎市に於いて創刊されたが、同年4月5日と8日に神保修理のことが記載されている。「某氏」が勝海舟から聞いたことを掲載したものである。一体某氏が誰なのか、また、なぜ「某氏」と書いたのか気になりところである。「名花地に委し人知らず」という文献も探したいところである。
東洋日の出新聞 明治35年4月5日付
「 ●神保修理の事
這は嘗て某氏が故勝海舟翁より聴ける譚を摘せつして「名花地に委し人知らず」と題し、旧会津藩の家老神保修理が、維新革命の際所説国論と相合はざりしが為め、空しく鉄窓の下一片の煙と消へし当時の有様を寫せるものなり、この修理なる人は、先年当長崎の市長たりし北原雅長氏や、又大浦戸町上長崎村邊の村長たりし神保厳之助氏等の実兄なれば、之を長崎の人々に紹介するも敢えて因縁なき業に非らざるべしと思へば余白に収めつ。
先年某氏が勝伯を訪ひ談維新前後の事蹟に及びしに種々の話の中、同伯の言ふ様、人には幸不幸のある者にて、生死は之れに與からず、衆に異なるの言を出して邪説と為して擯けられ、世に抜け出づるの行ありて姦物と罵られ、之が為めに奇禍を買ひし者古今に少なからず、左れど死後に其是非自ら彰はれて、冤を雪ぐに至らんには、大いに慰むる所あるべきも、其然らざるは不幸の極みと云ふべし。
憶ひ出せば戊辰の歳、日本国内の兄弟が、剣光銃火の間に相見んとするの危機に迫り名分の義封建の習、各自の胸中に戦ひて、其方向の決し難かりし時、会津の重臣神保修理と云へる人あり、伏見の一戦起ると聞くや否や、単騎大阪城に入りて、其藩主保科容保君に謁し、此擧の非計にして、君を誤り家を誤るの理由を懇切したる其要旨は、将軍既に政権を返上したる以上は、朝廷の新たに命ずる所ある迄は、大政に関するの権なく、又之れと同時に其得失に携はるの責もなし、然るに君側の姦を除くとの名義によりて、大兵を進めんとするは、更に謂れなきことなり、若し薩長等諸藩の人々が政権を執るを以て不可なりとなさば、初めより政権を返さずして争を彼際に発すること、尚ほ今日の進兵に比するに名義あるべし、既に之を返して又除姦の名義に藉らむとするは、始終拠る所なくして、獨り御家を危ふするのみにあらず、将軍家を不幸に陥るるの擧動なり迚、辞気極めて凱切なりき(未完)。」
東洋日の出新聞 明治35年4月8日付
「 ●神保修理 (承前)
時に城内の議論鼎の沸くが如く、激徒開戦を主張して修理の聲は遂に彼等の耳に入らず、修理此に於て最早是迄なりと思ひしが尚ほ一度志の程を申さんと前将軍(慶喜君)に謁して、詳かに其利害を説き、速やかに先供の罪を謝して、政権返上の素論を全くし、勤王の義を成すに如かずと切論せしも、大衆の狂奔一人の能く之を挽回すべきに非ず、却って修理は邪説を唱えて兵機を沮害するの姦物なりと誣られ、江戸に帰るの後会藩の主戦党は、修理を西丸下なる同藩邸の中に囚へたり、予(勝伯自ら言ふ)時に前将軍の委任を受けて、専ら徳川家の為めに計画する所あり、神保修理が進軍の不可を大阪城中に唱へて、之が為めに衆怨を招き、藩邸に錮せらるると聞き、其奇禍に罹りしを憐み、前将軍に白して、公命を以て之を召したるも、会藩の士之を出さず、一二日の後病死せりと届出たり、後に其事実を聞くに、反対の人々神保を殺して病死せりと以聞せしなりと云ふ、其死するに際し神保一詩を紙上に書して、窃に友人に托し予に贈れる由にて、死後数日予の手に入りたり、其詩は左の如し、
一死元甘、雖然向後、奸邪得時、忠良失志、則我國再興難期、君等努力報國家、
眞僕所願也、生死報君何足愁、人臣節義斃而休、遺言後世弔吾者、請看岳飛有罪不
囚中絶命 長輝
先哲曰、無罪而得愆者、非常人也、屈身於一時、而名伸於後世、有罪而冤愆者、
奸侫人也、得志於一時、而受辱於後世矣、嗚呼如神保氏、可謂即所謂身屈於一時、
而名伸於後世、非常人也(後進某識) 」
前半の詩について、ウェブサイト『戊辰戦争百話』の「第二話・神保修理の死」にその書き下し文が記載されているので、下に紹介させていただく。
一死もとより甘んず。しかれども向後奸邪を得て忠良志しを失わん。
すなわち我国の再興は期し難し。君等力を国家に報ゆることに努めよ。
真に吾れの願うところなり。生死君に報ず、何ぞ愁うるにたらん。
人臣の節義は斃(たお)れてのち休む。遺言す、後世吾れを弔う者、
請う岳飛の罪あらざらんことをみよ。
明治35年4月5日付 東洋日の出新聞
明治35年4月8日付 東洋日の出新聞
ところで、初代長崎市長を務めた、神保修理の弟の北原雅長は『七年史』の中で、兄 修理の切腹の様子を次のように書いている。
「 藩士等大阪より帰り、修理が先づ帰り居るを見て、彌沸騰し、藩主及び藩相に迫りて云、伏見戦争の兵機を沮害し、今日に至らしめた
るは、皆修理が罪なり、 彼の奸賊を誅せざる可らずと。激徒等或は相共に修理を刺さんとするに及びければ、藩主は其害に遭はん事
を慮りて、帰国を止め、假りに和田倉邸に幽囚せ られけり。安房守は此事を聞て、其禍に罹らん事を察し、前将軍に白し、公命を以て
召れけれども、藩庁は将士の沸騰を憚かり、言を左右に托して出さざりけり 。将士等此事を聞て、更に紛擾し、其処決を促し、迫りて止
ざりけり。修理は一室に錮せられながら、屢々書を呈して、審問を請求せしも、省せられず、衆口金 を鑠して、此日三田邸に護送され、
遂に死を賜ふも、一の罪状なし。修理左右を顧みて曰く、余素より罪なし、然れども君命を奉承するは、臣の職分なりと。剣に伏して
斃れけり。其死するの前日、一詩を紙上に書して、密かに人に托して安房守に贈りけり。
一死元甘、雖然向後、奸邪得時、忠良失志、則我國再興難期、君等努力報國家、
眞僕所願也、生死報君何足愁、人臣節義斃而休、遺言後世弔吾者、請見岳飛有罪不、
囚中絶筆 長輝 」