9.秋月悌次郎

 秋月悌次郎といえば、京で会津藩公用方として活躍していた文久3年(1863年)、薩摩藩士高崎正風が秋月のもとを訪れ、京から長州藩を追い落とすため秋月らと密謀し、その結果、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放した八月十八日の政変がすぐ思い浮かぶ。

秋月悌次郎は文政7年(1824年)、会津藩士丸山四郎右衛門(150石)の次男として生まれ、明治33年(1900年)、東京で75歳で病没している。悌次郎は次男だったので分家する時、藩の許可を得て秋月姓を名乗っている。

藩校日新館を飛び級して通常より2年早く卒業した秀才で、19歳の時、江戸に上って勉強し、23歳の時、幕府直轄の教育機関である昌平黌(しょうへいこう)に入学。成績優秀で30歳の時にそこの「書生寮」の舎長になり、33歳で卒業している。

安政6年(1859年)、全国に学友を持つ秋月に藩から西国調査を命じられ、中国、四国、九州の諸藩を廻り状況視察を行っている。

秋月悌次郎は同年9月か10月に長崎に来たが、ちょうど同じ時期に西国遊学をしていた長岡藩士河井継之助と10月に会っている。河井継之助は「塵壷」と題する旅日記をこまめに書いており、「ながおかネット・ミュージアム」に「塵壷」が掲載されている。それによると、10月5日に「矢上の宿を通り抜けし処にて、会藩土屋鉄之助に逢う、秋月の長崎に在るを聞く」、「・・・則ち長崎にて、七つ半頃着、銀屋丁万屋に宿を取る」、10月11日は「夕方より西濱ノ町山下屋に移る」、10月17日は「山下屋へ移る後は秋月悌次郎同宿す、同間にあらず、秋月、薩藩その他諸藩事を記すること委(おお)し」と記載されている。

また、同じ10月17日の日記に、「唐館・蘭館を見る事、通詞と懇意になる事は皆秋月の取り持ちなり。他日江戸に会はば一杯を進むべし。観光丸へ行く事もまた然り。かれこれ世話に成しなり。」とあり、長崎を案内してくれた秋月に大いに感謝している。
 河井継之助は聖福寺と福済寺の二つの唐寺を訪れ、聯額の書が綺麗だと褒めている。福済寺の裏山にある唐人の墓地も訪れるが、印象深く思ったのか、ある墓石に刻まれた死者の戒名を次のとおり日記に記している。


 
     皇清考授司馬載南呉公墓
    

 この墓がどこにあるのか興味を持たれた白虎隊の会 工藤新一長崎支部長が探したところ、唐人墓地の中央部にあるのを見つけ出した。

150年以上も前に河井継之助が下記のとおり日記「塵壺」に記した墓碑名が現在も読める状態を保っている。





    


             
               唐人ノ墓ノアル寺ハ、福済禅寺ノ額アリ、是又竒麗ナリ、浦ノ山ニ墓所アリ、

               皇清考授司馬載南呉公墓  享保己亥九月吉日
    
               トアル、如此墓ハ是ギリ、跡ハ如此物ナリ


                (「ながおかネット・ミュージアム」(長岡市立中央図書館)から引用 )



  
                                         

              唐人墓地                   



      
  
     河井継之助が日記に記した墓碑            唐人墓地から見た稲佐山方面の景色


 写真と河井継之助が日記に記した墓碑の図を見比べると、墓石の上に三角形のようなものが当時はあったのに、現在はなくなっている。

そして、10月18日に二人は別れるのであるが、日記には「五つ半頃、宿を立つ、秋月送りに出る、達て辞しけれ共、町迦れ、山の余程上まで送る、弱壱里もあらん、玉子弐と酒一合にて別る、おかしな男なれ共、深処あり、忝事也」と記載されている。河井継之助は午前9時頃山下屋を出立するが、秋月の見送りを何度も断わるのに秋月が敢えて4km弱の所にある山の高いところまで見送って、別れの盃を交わしたということであるが、いかにも秋月悌次郎の義理堅さが伝わってくる場面である。「深処」とは「奥深いところ」を意味するが(『日本国語大辞典』)、要するに「懐(ふところ)が深い」ということであろうか。秋月の写真を見るとそんな雰囲気が十分感じられる。

 河井継之助は長崎を発ち、日見峠を越えて網場まで行き、そこから船で島原半島の南串山まで行って大江経由で熊本に渡るが、別れの盃を交わした4km弱の所にある山というのはなんという山だろうか。蛍茶屋から本河内の間ぐらいが4km弱と思われるので、その周辺の山だと思われる。地図から見ると英彦山(彦山)あたりではなかったろうか。英彦山は長崎市の七高山の一つに数えられており、頂上からの眺めは絶景である。

秋月は西国巡遊の後、文久3年(1863年)家老横山主税によって京都守護職公用方に登用され、京で重要な役割を演じる。ところが、元治元年(1864年)横山主税が病死すると、こともあろうに、翌年の慶応元年(1865年)、蝦夷にある会津藩領代官所の代官として左遷されてしまう。恐らく、孝明天皇や会津藩主松平容保から信任が篤かったと思われるが、いったい誰が左遷したのであろうか。

慶応3年(1867年)3月、京に再び呼び戻された時には既に薩長同盟が締結されて1年以上も経っており、秋月といえども薩摩藩との関係を修復することはもはやできなかった。

秋月悌次郎は明治の世になってからは教育者として生き、文部省御用掛、東京大学予備門教諭、第一高等中学教諭、そして最後は熊本大学の前身である第五高等学校の教授となって国家に有用な人物を育成した。

第五高等学校教諭となったのは明治23年(1890年)67歳の時で、翌24年には講道館を創設し会津出身の西郷四郎に柔道を教えた嘉納治五郎が第3代校長として赴任して来るとともに、島根の松江中学校から英語教師として小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が転勤して来ている。悌次郎は明治28年に第五高等学校を去ったが、昭和10年に『秋月胤永先生記念録』という本が五高同窓会によって発行されている。その本の中で壇野礼助という人が「秋月先生とヘルン先生」と題して当時の思い出を語っている。ヘルン先生とはラフカディオ・ハーンLafcadio Hearn)のことである。以下にその一部を掲載する。


    「  『秋月先生は暖爐(だんろ)の如し』とはラフカヂオ・ヘルン先生が、秋月先生の徳を頌(しょう)して、
     竜南会雑誌に書かれた
名言であった。40年後の今日この語が脳底に残っているのは、先生の感化がこの
     一言によって尽されてあるからだと思う。
倫理の講義に国家棟梁の材となって国事に尽瘁(じんすい)せ
     よと必ず結ばれた。
     先生は古武士の童顔で常に制服を着て居られた
のと、西洋人でありながら、儀式の時には大抵羽織袴で出て
     来られたヘルン先生とは、好個のコントラストであった。

       ヘルン先生は秋月先生が一番好きで、時折り学校の廊下で遇(あ)っても、必ず立ち停(どま)って楽しく
     交歓して居られた。

       (中略) ヘルン先生はまた秋月先生を『神の如き人』とも尊称しておられた程の立派な人だった。 」
             
                        ( 『歴史と旅』平成9年6月号  秋月一江著「秋月悌次郎」より引用 )



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