.西郷四郎

 (1)生い立ち

  西郷四郎は会津藩士志田貞二郎、妻さたの三男として慶応2年(1866)2月4日、会津若松(現在の福島県会津若松市)で生まれた。家禄

は150石だった。慶応4年戊辰戦争で新政府軍が東北地方に攻めて来た当時、34歳の父貞二郎は会津藩主力部隊である朱雀隊に編入されてい

た。会津藩は慶応3年に軍制を改革し、年齢別に隊を中国の四神の名により白虎(西)、朱雀(南)、青竜(東)、玄武(北)の4隊に編成した

。すなわち、16~17歳は白虎隊、18~35歳は朱雀隊、36~49歳は青竜隊、50歳以上は玄武隊として編成されていた。

 
 貞二郎は朱雀隊士として越後(現在の新潟県)の長岡藩藩士とともに長岡城攻防戦に参戦し、その後も越後方面各地を転戦していたが、明治元

年9月22日(同月8日に慶応から明治に改元)会津藩が降伏したため越後の塩川で武装解除され、塩川そして高田で幽閉されて謹慎生活を送っ

ている。明治3年1月に謹慎が解かれ、貞二郎は家族が避難していた旧会津藩領の越後国蒲原郡角嶋村にやって来た。角嶋村は明治22年(19

89)の町村制施行により新潟県東蒲原郡・津川町となり、平成17年(2005)に町村合併により阿賀町となった。多くの会津藩士とその家

族が明治3年に旧南部藩領だった本州北端の不毛の地
藩(現在の青森県の一部)に移住してったが、明治4年志田家は斗南へ行かず、こ

こ津川の地に定住した。志田家は元々津川の字志田平の豪族で戊辰戦争時に父親の貞二郎が一家を津川に避難させたともいわれている。四郎にと

ってはここが事実上故郷となる。一家が津川に定住した矢先の明治5年に父貞二郎は38歳の若さで亡くなった。四郎が7歳の時であった。

 

(2)上京し講道館に入門

  明治15年(1882)3月、17歳の四郎は親友の佐藤与四郎とともに東京へ上った。陸軍士官学校への入学を希望していたのであるが、身

長が151cmとかなり低すぎることから入学を断念したようである。ところで、嘉納治五郎という人が同年5月、永昌寺というお寺に講道館を

設立し、今までの柔術とは違う新しい柔道というものを寺の一室で教えていた。四郎はその講道館に7人目として入門し、永昌寺に書生として住

み込んで柔道修行に励みました。嘉納はこの時23歳で、前年7月に東京帝国大学文学部哲学政治学理財学科を卒業している。明治3年11歳の

時に海軍省職員であった父親に連れられて現在の神戸市東灘区の地から上京しており、18歳の時に初めて柔術を
天神楊流の福田八之助から習

っている。さて、講道館入門第
1号は山田常次郎という者であるが、後に伊豆の廻船問屋富田家の養子となり、富田常次郎となったわけだが、そ

の子供・富田常雄(1904~1967)は昭和17年に小説「姿三四郎」を発表し、人気作家となった。後にこの姿三四郎のモデルが西郷四郎

という説が広く定着したが、当の作者本人は「姿三四郎はけっして西郷四郎ではなく、空想の人である」と津川の西郷四郎の碑文に記してこれを

否定している。ただそうはいっても、四郎は三男で四番目の子であり、主人公姿三四郎が会津の出身で上京した時も四郎と同じ17歳であり「山

嵐」を生み出したことも共通していることから、どうしても西郷四郎をイメージしてしまう。作者は前記の碑文の末尾に「作者の空想裡に浮かん

だ三四郎の生涯の一駒に西郷四郎の面影が浮かんだことは事実である」と記している。竹脇無我が主人公を演じるテレビドラマ「姿三四郎」は

昭和45年に放映されたが、当時小学校6年生だった筆者は家族みんなで毎週楽しみにして見ていたのを覚えている。

 富田常次郎は西郷四郎とともに講道館四天王に数えられている。明治19年、四郎21歳の時、四郎の名を一躍有名にした出来事があった。

それは警視庁で行われた武術大会で、当時の柔術界の名門である楊心流の師範
戸塚彦九郎の高弟で大男の照島太郎(好地(うけち)円太郎という説も

ある。)小柄四郎が得意技「山嵐」で豪快に投げ飛ばしたのである。新生の講道館柔道が古流の柔術を打ち負かしたであった。こうして

四郎の活躍もあって講道館「柔道」が大いに発展し講道館設立して8年後の明治23年には門弟が1500名に達するほどの勢力にまでな

っている。

 

(3)元会津藩家老の養子となる

  志田四郎は明治17年19歳の時、元会津藩家老西郷頼母近悳(さいごうたのもちかのり)の養子となりました。西郷頼母は当時保科近悳(ほしなちかのり)と名乗

っていたので、志田四郎は保科四郎となったわけである。ここで、
西郷頼母の先祖について説明しておきたい。

 徳川二代将軍秀忠の四男正之は正室江の子ではなく、秀忠の乳母に仕える侍女・静の子ですが、正室の体面・大奥の秩序維持のため庶子の出産

は江戸城内では行なわれないことが通例だった。そのため、そのお静という侍女は武田信玄の娘の
見性院(けんしょういん)(穴山梅雪正室)に預けられ

、そこで正之が生まれている。そして旧武田氏の家臣
信州高遠藩主保科正光の養子となり、その後、保科正之は会津藩23万石の初代藩主とな

る。その信州高遠藩主の一族である保科正近という人は会津藩の家老となるが、この正近の長女が徳川家の譜代大名松平康長の家臣西郷新兵衛元

次に嫁いで西郷吉十郎を生む。その後吉十郎は名を
近房(ちかふさ)に改名するが、次男であり、母方の保科正近の嫡子正長が病弱なため、正長の養子

となり、保科近房となる。養父正長が死んだため、家老職の保科家を継いだのであるが、間もなく正長の妾が正長の子
正興(まさおき)を生む。そして

正興が成長し元服すると家督を正興に譲り、自分は西郷姓に復した。ところが、この保科正興が会津藩のお家騒動に巻き込まれて現在の阿賀町日

出谷水沢の地に流罪となり、そこで死んでしまった。一方、藩主保科正之は家老保科正興の後釜として西郷近房を家老に任命した。この西郷近房

が会津西郷家の初代となったわけである。なお、会津藩藩祖保科正之は異母兄である三代将軍徳川家光から徳川家の旧姓「松平」姓を与えられる

が、正之をこれを辞退し、幼少の時、保科家の養子となったため今さら家名を改めたら保科家へ義理が立たないという理由で生涯保科姓を通した

。子の第3代藩主・
正容(まさかた)になって保科姓から松平姓に改姓している。


  ところで、西郷家の遠い先祖は九州熊本の菊池氏と言われている。菊池氏の一族が有明海を渡って来て、肥前国高来郡西郷(現在の雲仙市瑞穂

町西郷)の地に城を構え西郷氏を名乗った。さらに諫早にも進出するが、竜造寺氏に攻め滅ぼされてしまった。一族は九州一円に飛び散り、薩摩

に飛び散った西郷氏の中から後に西郷隆盛が生まれている。また、西郷氏の一族は三河にも進出しており、その子孫が会津西郷氏となっている。

 徳川家康の側室の西郷局は二代将軍秀忠を生んだが、三河に進出した西郷氏の一族だといわれている。


  戊辰戦争の敗北後、西郷家は絶家とされたため西郷頼母は明治3年に先祖の姓である保科姓に改姓し、8年には福島県内のある神社の宮司にな

った。ところが、西郷隆盛と交流があったため西南戦争に加担したと疑われ宮司を免職されてしまった。また、母や妻、妹2人、娘5人を含む一

族21人を戊辰戦争で亡くし(西郷家の屋敷内で全員自刃)、長男吉十郎
有隣(ありちか)だけが父と行を共にしていたため生き残っていたが、その

隣も12年に22歳の若さで病死してしまった。このような事情から保科頼母は志田四郎に養子縁組の依頼をしたわけである。そして17年に養

子縁組をして志田四郎は保科四郎となったが、名門西郷家が22年になって政府からその再興を許されたため、姓を改め、西郷四郎と名乗ってい

る。

 

(4)第二の故郷・長崎へ

  四郎の柔道の師 嘉納治五郎は講道館を設立した23歳の当時、学習院の教師になっていたが、19年6月には27歳で教頭に就任している。

しかし、華族以外の子弟にも門戸を解放するという嘉納の進歩的な教育方針は21年11月に就任した長州出身の陸軍中将三浦
梧楼(ごろう)院長の

国粋主義的な教育方針と真っ向から対立したため、教頭職を免じられて海外視察のため欧州に派遣されてしまった。その留守中の23年6月、

25歳の四郎
は8年間在籍した講道館を突然辞めて出奔してしまう。「支那渡航意見書」という文書を残して去ったのであるが、ロシアが朝鮮を

併呑しようとしていることを患え、中国へ渡航しようと思っていたようである。

当時の世情として、大陸にロマンを感じる若者が多かったようで、孫文の革命を助けた熊本県荒尾市出身の宮崎滔天とは四郎は早くから交流があ

っていたようである。四郎は講道館を出奔して中国へ渡航するのに便利な長崎へやって来た。この時は旧会津藩士の北原雅長が初代の長崎市長に

なっていた。最初、長崎市内のどこに住むようになったかはわからないが、24年(1891)12月に戸籍を青森県から「長崎市東上町27番

戸」に移している。したがって長崎に来た当初からここに住んでいたのかもしれない。東上町は現在の玉園町である。幕末に瀬戸内海で海援隊が

大洲藩から借り受けた「いろは丸」が紀州藩の軍艦と衝突したため、その賠償交渉が行われた
(しょう)福寺(ふくじ)が玉園町内にある。四郎は大正3

年(1914)3月今籠町に移転するまでここ
東上町27番戸に住み続けている。56年の生涯の半分以上長崎に居住し、長崎が第二の故郷とな

った。 

  四郎が長崎に深くかかわってくるのは、明治35年(1902)1月1日に創刊された「東洋日の出新聞」に編集責任者として参加してからと

いっていいのではないかと思われる。それ以前は国内や大陸を忙しく飛び回っていたようである。故郷津川に武道場
講武館を設立したり、仙台

・ニ高の三代目柔道師範に就任したり、久留米の南筑私学校の柔道師範として九州柔道大会に出席したりしている。そして、アジアに進出したロ

シアの脅威からアジアを護るという使命感から朝鮮や中国、台湾へも渡航している。

四郎の義侠心を表わすものの一つとして、朝鮮の政治家 金玉均(キム オッキュン)日本亡命中、長崎にやって来た時、自宅などに(かくま)っている。

金玉均1872年21歳で官吏登用試験である科挙の文科に首席で合格した秀才である。日本の明治維新を朝鮮近代化のモデルとして急進的な

改革運動を行い、また、清国との従属関係を絶とうと努力するが、国王
高宗(コジョン)の姻戚である(ミン)氏勢力の反対によってなかなか改革を推進

できなかった。そこで改革を断行するために日本の軍事力を頼りとして1884年(明治17)12月に
6人の大臣を殺害するなどしてクーデタ

ー(「甲申政変」と呼ばれている)を起こして新政権を樹立した。ところが朝鮮に駐屯していた清国軍が介入し、数に劣る日本軍が撤退したため

、クーデターは3日で失敗し、竹添進一郎韓国公使とともに朝鮮の仁川から船に乗って長崎へ逃れて来たのであった。日本に亡命したわけである

。金玉均は明治15年3月から4月にかけて1ヶ月間長崎に滞在し臨時県会や学校施設などを視察したり、翌16年6月にも長崎へ立ち寄ったこ

とがあることから、長崎の人たちと交流があり、支援者が多くいた。17年12月に亡命して来た時、長崎の有志が金玉均と交流のあった東京の

福沢諭吉の屋敷に護衛をつけて送りとどけている。この後10年間日本で亡命生活を送るが、この間、日本政府から小笠原や北海道に流されたり

している。常に朝鮮政府が派遣した刺客から命を狙われていたが、27年3月中国の李鴻章と話し合うため長崎にやって来て、そこから上海へ渡

った直後、宿泊先のホテルで朝鮮国王の妃
閔妃が送った刺客によって暗殺されてしまった。朝鮮の独立と近代化のために情熱を燃やした心情に義

侠心豊かな西郷四郎も心を動かされたのであろう。明治24,5年に四郎は日本亡命中の金玉均や
朴泳を同志の鈴木天眼らと図って、長崎市内

の自宅や郊外の仮屋に一時
(かくま)ったことがあったという(「史伝 西郷四郎」185項)。

四郎はこの後、長崎を訪れた中国の革命家孫文を支援している。また、鈴木天眼らとともに東洋日の出新聞を設立して編集責任者となったり、

現在の長崎遊泳協会の前身である瓊浦遊泳協会を設立したりしている。市内に開設された武道場で柔道を指導したり、長崎の料亭「まねき」のひ

とり娘
中川チカと結婚した。

                                

 

(5)長崎で結婚

  明治23年(1890)6月、24歳の西郷四郎はロシアが朝鮮を併呑しようとする野心を持っているのを患え、中国や朝鮮で大陸浪人となっ

て西洋列強から中国や朝鮮を守るための活動を行おうとして、8年間在籍した講道館を去って、大陸渡航に便利な長崎にやって来た。そして翌

24年12月に戸籍を養父の戸籍地の青森から長崎に移した。大陸で活動を行うためなら何も戸籍をわざわざ長崎に移す必要はないのではなかろ

うか。長崎に戸籍を移した理由は何だったのか気になるが、長崎に定住しようと思ったのかもしれない。しかし、実際は定住せず、福島、仙台、

久留米に行ったり、台湾や中国の北京・天津などへも行っている。長崎に定住するようになったのは明治33年になってからのようである。


  四郎は大正3年(1914)3月に今籠町、同年7月に本古川町に住居を移している。それまでは、東上町(現在の玉園町)に約23年間住ん

でいた。この他時期は不明だが銀屋町にも住んだことがあった。

  思案橋に近い万屋町に「米春」という料亭が昔あったが、明治23年に四郎が長崎にやって来た当時はそこに「まねき」という著名な料亭があ

った。その経営者は中川キンという女性で、夫・時三郎は既に他界しており、チカというひとり娘がいた。若い四郎はこの料亭にやって来て3歳

年下のこのチカさんを好きになり、妻としている。その時期については確かな資料がないが、戸籍を青森から長崎に移した24年12月前後だっ

たのかもしれない。チカを入籍したのは約20年も後の44年3月だったが、事実上の夫婦として早くから結婚生活をしていたものと思われる。

すぐには籍に入れない理由があったのかもしれない。


 33年11月、34歳の四郎は生後3か月の神保孝之を養子とした。孝之の実父は巌之助といい、旧会津藩士で初代長崎市長北原雅長の弟であ

る。長兄は会津藩より命を受けて長崎に遊学したことのある神保修理である。神保巌之助は郷里会津を離れ、長崎に住んでいた。「大浦戸町上長

崎村辺」で村長をしていた(明治35年4月5日付け東洋日の出新聞)。戸町出身の妻幾ヱとの間に既に3男2女がおり、四郎は6番目の子供を

養子にもらい受けた。四郎と妻チカとの間に実子はなく、幸子という娘も養女にしている。ちなみに義母中川キンには実子チカの他にミネという

養女がおり、このミネと後に結婚した五島の富江出身の浜口嘉四郎との間にできた次男・時春が中川家を相続している。しかし、時春は17歳の

時長崎原爆で爆死してしまっている。そして、四郎は晩年は病気療養のため浜口嘉四郎一家が住んでいた広島県尾道市に住居を移し、そこで亡く

なっている。

 




                                    

                         西郷四郎の家がかつてあった場所




                                     

(6)柔道や弓道を指導

 「西郷の前に山嵐なく、西郷の後に山嵐なし」と言われるほど講道館で名を成した柔道家・西郷四郎が長崎にやって来て、柔道を指導しないわ

けがない。
明治30年代の後半頃、四郎は福島熊次郎という者と共同で桜町に「大東義塾」という柔道場を開設している(「史伝 西郷四郎」

256貢)。現在のどこであろうか。長崎市諏訪体育館の前身は武徳殿といい、「長崎市制五十年史」に次のような記載がある。


 「明治40年6月、諏訪公園内市有地の無料貸与を受け、工費1万9千余円を以て武徳殿演武場の新築に着手、11月落成、従来町道場並びに

学校等に於て指導した柔剣弓道はこの武徳殿を中心として年々発展を遂げ、更に町道場の発達を促して市民の心身鍛錬の機関が普及している」

(450貢)。


 西郷四郎の柔道場もここにいう町道場の一つだったであろう。四郎はこの武徳殿で柔道を指導したと思われる。この武徳殿が建設される前はこ

の位置に四郎が町道場を立てたのかもしれない。あるいはこの近辺だったかもしれない。毎日新聞社長崎支局が執筆・発行した「明治百年
 長崎

県の歩み」によると、四郎は長崎公園裏の立山に長崎講道館という柔道場を開設したという。


当時のエピソードとして「夜陰西郷が市中の暗がりを通行する折など、突然に多数の壮者から組付かれたりする事が頻々とあった。これは西郷

の柔道を試みんとする青年輩の暗み打ちであって、西郷は此の事を面白がって、昨夜も辻強盗に逢ったよなどとよく笑って語った」という。

 また、上記「明治百年
長崎県の歩み」は次のようなエピソードを紹介している。

 「今籠町万歳亭(現・鍛冶屋町東亜閣)の小方定一がある夜、大酔した四郎をかかえるようにして、本石灰町から思案橋にさしかかると、大勢

人だかりがしている。のぞいてみると人力車夫が6,7人の外人からふくろだたきにあっている。四郎は飛込んで車夫を助け起こし、小方に預け

ると、いきなり一人のえりがみをつかんで得意の山あらし、見上げるような大男が、ランカンを越えて川の中へ吹っ飛んだ。「ウオッ」外人たち

は猛獣のようにほえて、いっせいに小男へおどりかかった。
四郎が酔っているだけに、驚いた小方は当時鍛冶屋町にあった東洋日の出新聞社に天

眼を呼びにかけこんだが、引返してみると、橋上には一人の外人の姿もなく、あっけにとられた見物人に囲まれて、四郎が一人ハカマのすそをは

らっていた。壮絶な山あらしの連発に外人は全員川の中へ投げこまれていた。」

思案橋でのこの事件は当時市中の話題をさらったそうである。


四郎は柔道ばかりでなく、弓道の腕前も相当なものだったようである。大正2年に大日本武徳会からわが国7人目の弓道範士の称号を授与され

ている。長崎市立長崎商業高等学校の前身は長崎商業学校といい、当時は伊良林にあったが、四郎はこの学校の弓道の講師をしていた。「だいぶ

年はとっておられたが厳格な指導でした。“よく見とけ”と自分で模範演技を見せてあとは無言でじっとうちらの練習を見ておられた」と大正9

年卒の生島秀利氏の回想談が長商90周年記念に発行された「長商群像」に掲載されている。 

 

(7)東洋日の出新聞を創設

明治35年(1902)1月1日、東洋日の出新聞が社員10名により創刊された。鈴木天眼(本名・力)が社長で主筆も兼務したが、西郷四

郎もこの創刊者の一人として加わり、編集人になった。鈴木天眼は二本松藩士
 鈴木習の長男として慶応3年(1867)に生まれている。明治

13年に旧会津藩士の日下義雄が英国留学から帰国すると、友人の紹介で日下の書生になり、19年に日下が長崎県令になると日下を頼って長崎

にやって来た。天眼は大河内タミという人を妻にしたが、タミは五島・富江町の出身である。二本松藩は現在の東北地方にあった31藩による奥

羽越列藩同盟の一つとして戊辰戦争では会津藩とともに新政府軍と戦った。二本松少年隊の名は会津白虎隊とともによく知られている。二本松藩

は会津藩と同じく現在の福島県にあった。現在は二本松市となっている。西郷四郎はこの鈴木天眼の終生の友となった。そして四郎とともに社長

・鈴木天眼の右腕となったのが、埼玉県出身の福島熊次郎で、四郎とともに講道館で柔道を学んだ仲であり、長崎に来て、四郎とともに市内に柔

道場を開設している。福島は長崎に来る前、台湾で「台湾日日新聞」を創刊している。東洋日の出新聞の創刊者10名には漢学者として有名な丹

羽翰山も名を連ねている。

 当時の長崎は、長崎新報、鎮西日報、九州日の出新聞があった。九州日の出新聞は31年に創刊され、鈴木天眼は3人いる社長の一人として創

刊に加わったが、内部事情で退社に追い込まれ、35年に東洋日の出新聞を創刊した次第である。



       


                             大正13年8月11日付 東洋日の出新聞 
                                  
                                      (創刊第7000号)


    
                                                                                              
               
                

                           東洋日の出新聞創立当時の記念写真




 西郷四郎は44年10月に中国で辛亥革命が勃発した当時は「発行人兼印刷人」と東洋日の出新聞の1面に記載されている。10月10日に辛

亥革命が起こると四郎は19日春日丸に搭乗して長崎港を出発し中国へ向かった。中国で特派員として記事を16回にわたって送っている。最初

は25日に「上海より」と題して書いた記事が10月30日付け新聞の一面に記載されている。後半部分を紹介すると、


『今回の変乱に就き一番打撃を受けし者は、銀行業者なるものの如し。一度騒乱の報あるや、上海市民は
(あたか)も洪水の氾濫せし如き勢を以て

各銀行各銀荘(両替屋)の門前に押寄せ来り、紙幣と銀貨の引換を迫りたる様は殆んど名状すべからざる混雑を極め、各銀行の如きは殆ど其制止

に困し、印度巡捕を雇入るゝに至りたり。

今正金銀行に於て去る十二日より十九日に至る一週間内に支払せし銀高を聞くに二十五万弗の多額に達し而して一人引換銀平均七『ドル』なりと
 
 云ふ。これを以ても猶ほ如何に多数の市民が一時に寄せ来るやを想像するに余り餘りありと可謂矣。予は只今漢口に向け出発せんとする際にて時

 間切迫玆に擱筆、餘は著漢の上早々。』



 戦乱が起こって、上海市民の困惑しその慌てぶりが目に見えるような描写である。

辛亥革命が成功し、1912年(明治45)1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が成立した。しかし、力関係から孫文は4月1日には臨

時大総統を辞任し、時の権力者・袁世凱が臨時大総統に就任します。翌大正2年2月、孫文は日本を訪問し、3月21日に長崎にやって来た。旅館

福島屋に宿泊し、翌22日は袋町の青年会館で「世界の平和と基督教」と題して講演した後、福建会館で中国人午餐会に臨み、その後、古川町にあ

った東洋日の出新聞社長・鈴木天眼の自宅を訪問している。この時、天眼の自宅前で撮った記念写真があるが、シルクハットをかぶった孫文の左右

が天眼夫妻で、天眼の隣が西郷四郎である。四郎はこの時47歳であった。

当時、東洋日の出新聞社の隣には寶屋という料亭があり、そこの玄関脇の離れの土蔵では中国革命用の爆弾作りが行われていた。鈴木天眼の弟の

鈴木聞一は兄・天眼から二本松から長崎に呼び寄せられて東洋日の出新聞社員となったのですが、昭和16年5月20日付け長崎日日新聞に興味深

い思い出話を次のように寄せている。


 『明治41年(?)夏孫総理が宮崎滔天を伴れられて突然長崎に来て天眼宅を
()た、その時人目を避けて匿くして置いたのがあの爆弾製造

 工場であった油屋町の寶家の土蔵屋敷(現
橋本辰二郎貴族院議員邸)であった。孫逸先生は余りの退屈さに匿れ穴を抜け出して天眼(あによめ)

 作ってもろうた
帷子(かたびら)の単物を着て、夜ひそかに本古川町の天眼宅に遊びに来たものだが、その時、孫さんは中国人の癖として()素扱 
 をタテ結びにして来て何べんも嫂から注意されたものだ、日本語が余り上手でないので、その弁解の言葉が非常に面白かった。一大の英雄もあの 
 穴蔵に住んで居ったのだから、中国人は一度は見て置くべきである。』 


 その蔵は2階建てと思われる木造の建物で、その写真が同時に掲載さおり、「写真は孫総理の隠れ家当時の寶家の土蔵」と紹介されてい

る。



                 

                             孫文長崎訪問時の写真    
 

(8)瓊浦游泳協会を設立

明治36年7月、東洋日の出新聞社が設立母体となって瓊浦游泳協会が設立された。西郷四郎が中心となって設立されたもので、顧問に長崎県知

事、会長に長崎市長、理事に倉場富三郎らとともに四郎も就任している。庶務に東洋日の出社員4名が就任している。設立趣意書には冒頭次のよう

に記載されている。

  『海国ノ人士ハ水ヲ本トスルノ覚悟ヲ要ス今ノ世ハ大洋ヲ凌ギテ世界ヲ闊歩スルノ時也国防殖産、通交皆(いつ)ニ由サル

   然シテ怒涛ヲ恐レズ
(きょう)(らん)ニ溺レザル気宇ヲ養ヒ得ル所以ハ身ニ
游泳ノ真術ヲ体スルニ因ルモノニシテ能ク斯術ニ得達スル

   ニハ幼少ノ時代ヨリ之ヲ訓練セザルヲ得ズ』

この設立趣意書は署名はないが、四郎が書いたものと考えられている。

瓊浦游泳協会が游泳場として選んだのは長崎港の南の小島・ねずみ島であった。ねずみ島は古くから長崎市民の海水浴場として親しまれていた。

泳法は小堀流で、毎年夏に会員を対象に水泳訓練が行われ、協会設立2年後の38年からはねずみ島と深堀間の遊泳競技が行われている。大正2年

に協会の名称は「長崎游泳協会」に改称された。3年8月に第1回有明海横断遊泳が行われましたが、四郎はこの時監督として参加している。島原

の猛島海岸を出発し熊本の長洲を目的としたが、目的地直前になって激しい逆流に押し流され、9時間半の力泳の末、失敗に終わっている。5年に

第2回有明海横断遊泳が行われ、この時は参加全選手14名のうち、10名が完泳している。ちなみに一着のタイムは6時間5分だった(「史伝
西

郷四郎」268貢)。この快挙は長崎游泳協会の名を一躍全国にとどろかせた。

長崎游泳協会は、年明け早々の1月3日に旧ねずみ島で泳ぎ初めを行ったり、松山町の市民総合プールで水泳教室を開催している。大名行列は長

崎の夏の風物詩となっている。また、長与港から時津の田ノ浦海水浴場までの大村湾遠泳大会も開催している。これは約7kmもの海上を4,5時

間かかって泳ぐもので、相当きついそうである。

                         

西郷は大正11年12月23日、尾道でリュウマチのため56歳で亡くなった。葬儀は長崎市寺町の晧台寺で東洋日の出新聞社葬として執り行わ

れた。

遺骨は大光寺の妻の実家・中川家の墓地に埋葬された。長崎柔道協会は昭和44年10月に長崎市諏訪体育館の敷地内に西郷四郎顕彰碑を建立す

るとともに、中川家の墓地内に「西郷四郎之墓」を建立している。


               

           西郷四郎顕彰碑                        西郷四郎の墓

 

参考文献

 『史伝 西郷四郎』 牧野 登著 昭和58年 ()島津書房

  『評伝 西郷四郎・Ⅴ 長崎・尾道・その死』 牧野 登著 昭和57年

『明治百年 長崎県の歩み』 毎日新聞社長崎支局編 昭和43年

 『長崎市制五十年史』 長崎市役所編 長崎市役所 昭和14年

 『東洋日の出新聞』 明治35年4月5日

『東洋日の出新聞』 明治44年10月30日

『東洋日の出新聞』 大正2年3月23日

 『長崎日日新聞』 昭和16年5月20日

   ホームページ『ながさき歴史散策』

  ホームページ『マイタウン福島 新年企画 姿三四郎を追って 7』

 『開港四百年・長崎図録』 長崎開港400年記念実行委員会 昭和45年

  牧野登著 「史伝 西郷四郎」 島津書房 1983年

  歴史群像シリーズ39 「会津戦争」 学習研究社 1994年

  フリー百科事典ウィキペディア 「保科正之」

  フリー百科事典ウィキペディア 「西郷近房」

  フリー百科事典ウィキペディア 「西郷頼母」

  中村彰彦著 「名君 保科正之」 文春文庫 1996年

 西郷派大東流合気武術ホームページ中「西郷頼母と西郷四郎」 

 「朝鮮を知る辞典」 平凡社 1986年

  横山宏章著 「草莽のヒーロー」 長崎新聞社 2002年








東洋日の出新聞 明治40年12月7日付

武徳会支部発会式次第

 会員総数三萬二千九百七十二人を有する武徳会長崎支部は地を諏訪公園丸馬場の傍らに卜し、経費壱萬九千円を投じ武徳殿の新築中なりしが、去月末既に竣工し結構頗る壮麗を極む。依って明八日午前八時より武徳祭を同十時より支部発会式を挙行し、九日十日の両日撃剣、柔道、薙刀、弓術等の演武大会を開くに決し本部よりは会長前逓信大臣大浦兼武氏、商議員渡邊昇氏、同奥山氏、守津幹事、剣道教士門奈正氏、柔道教士磯貝一氏、薙刀助教美田村千代子等参会列席する筈なるが、各地より出席すべき重なる演武者は福岡 浅野一摩(剣教士)、山口 三宅久()、佐賀 辻新平()、熊本 星野九門(柔道範士)大村 柴井運八郎(剣範士)諸氏等何れも斯道老功の諸先輩にして尚青年血気の猛者雲霞の如く来集する由なれば剣戟火花を(ちら)すが如き剣道の仕合、龍闘虎搏(りゅうとうこはく)の活劇を演ずる柔道の勝負が如何に士気振作(しんさ)に益するかは期して待つ可し。当地柔道演武者中には自称審判者に慊焉(けんえん)たらざるものありしやに(きけ)ど彼等一二の(はい)の手に()するが如き事は断じて無く、本部の磯貝氏、熊本の星野氏、当地の西郷氏嘉納氏等在りて最も公平なる審判をなす由なれば奮って出席さるべし。(ちなみ)に武徳祭当日正会員以上の出席者には悉く紀念の扇子を交付すと云ふ。然るに特に本会に御臺臨の筈にて東京を御出発相成たる総裁伏見宮殿下には途中京都にて御不例に渡らせられ為めに御臺臨御見合せと相成りたるは遺憾の極みなり。
 尚ほ這回(こんかい)の武徳祭及び発会式に支部長より案内を受けし特別会員及び参円以上の寄附者にして本朝迄に出席有無の通知を為さざる向は全然出席せざる者と認定さるる由。



 東洋日の出新聞  明治40年12月8日付

 武徳会彙報(いほう)

  本日挙行さる可き武徳祭及び長崎支部発会式の順序は左の如し。

 武徳祭順序
   午前八時開始(第一号報煙火打揚三発)祓主祓祠を奏す。大麻(おおぬさ)行事、塩湯(えんとう)事、斎主降神を奏す
   (此間奏楽)。各員軽拆、神饌長以下神饌を供す(此間奏楽)。斎主祓祠を奏す。各員軽拆、
   支部長玉串を献りて礼拝、副長、来賓総代、幹事総代、委員総代、会員総代、斎主以下順次玉串を
   献りて礼拝、神饌長以下神饌を撤す。斎主昇神を奉仕す。

(おは)りて一同退席。次いで武徳会長崎支部発会となる。各会員は第二号報煙火(はなび)打揚三発を合図に一同着席すべし。

 発会式順序
    午前十一時式開始。君が代吹奏(一回)。一同最敬礼、支部長明治三十四年支部旗御親授の令旨
  奏読、総裁殿下令旨代読、支部長奏答、支部副長支部の沿革及
び状況報告、会長祝詞代読、
  有効章授与(一等一名
二等八名 三等十二名)

右にて式を(おわ)奏楽の間に一同退場。来賓及び特別会員若しくは有効章佩用者は馬場に設けたる食卓にて立食のあり。午後一時より演武を開始す。

  ▲来会者の注意
  会員は必ず会員章を佩用し来賓は案内状を失念せざるやう注意すべし。然らざれば入場を謝絶さる
 べし。尚会場入口なる
()(かす)町公園入口に案内状引替に食券、式順序書、徽章及び紀念扇子交付所の設けあり。
 又武徳殿入場の際下足は靴下駄草履を問はず傘ステッキ等と共に下足番に預け左右の入口より入場す可し。
 正面玄関は出入を許さず。

  ▲徽章紛失と新入会者

     会員にして徽章を紛失したるものは会員章を示し実費を出して徽章の再交付を受くべし。        
   尚新たに入会又は寄附せんとする者の為めに其設備を施しあれば即時其手続きを了するを得べし。

  ▲寄贈

     今回の発会式に対し賞品及び備品として左の寄贈ありたり。尚本下町江口喜蔵氏は総裁宮御召用に
   とて約千円を投じて寝具を新調したりしに御臺臨御見合せとなり、其用を為さざりしは気の毒の至り
   なりし。

   矢二組 京都柴田勘十郎  一 萬歳町杉野清次、 絃五掛 松ノ森市川虎四郎、       
     鷲ノ尾一組  岩原郷松隈三吾、  刀剣一口 神戸新井薫子、

     小手脛当二組・稽古薙刀二本 木村安太郎、 巻薬 巻薬臺 本下町江口
壽一、 
       金百円   同江口喜蔵

  ▲主なる臨場者

     既報の外瓜生佐世保鎮守府司令長官、今村二十四旅団長、香川県知事、御牧(みまき)伏見宮家令等臨場する由

   ▲演武者と審判委員

    演武者は撃剣二百余組、柔道百余組、其他薙刀、鎖鎌(くさりがま)弓術等にして各部の判委員左の諸氏なりと。

     ○撃剣部  井上藤十郎、幾岡一太郎、石河光英、二宮久、岡見仲、川野直次、吉田重信、高尾盈益、辻眞平、
              梅崎彌一郎、納富教雄、野田長三郎、
手島美質、浅野一摩、宮脇団次、重岡栄之丞、城崎方亮、
              門奈正、柴江運八郎

       ○柔道部  星野九門、磯貝一、西郷四郎、嘉納徳三郎、轟祥三、副島清一郎、濱崎市五郎、福島熊次郎、
  
              深堀辰三、井上鬼喰

     ○弓術部  市川虎四郎、松隈三吾、杉野清次、江口喜蔵、門註所康光 


東洋日の出新聞 明治40年12月9日付

武徳祭及支部発会式

 大日本武徳会長崎支部は予定の如く昨日午前八時より玉園山麓に新築せる武徳殿に於いて最も厳粛なる武徳祭を執行したり。引続き同十一時より支部発会式を挙げ参列者は開会三十分前煙火三発を合図に式場に着席。(やが)て定刻を報ずるや後庭の音楽隊は「君が代」を吹奏し、(その)(おは)ると同時に荒川支部長は式壇に登りて(おごそ)かに去る三十四年総裁宮殿下支部旗御親授の令旨を奉読せり。令旨左の如し。


     支部旗は支部の標識にして支部の盛衰に関す宜しく之を敬重し之を愛護し之をして倍々光輝を発せしめよ

       明治三十四年五月四日

 
次に子爵渡邊昇は恭しく総裁伏見宮殿下より賜はりたる左の令旨を捧読せり。

    

     武徳を養成するは兵を強くする所以兵を強くするは国を富ます所以なり。故に国家武徳を外にして富強を望むべからず。是れ大日本武徳会の設ある所以なり。長崎県有志諸氏は此の趣旨に賛同し会員の数(および)資金の額も亦逐年増殖し玆に本日を卜して長崎支部発会式を挙るに至れり。是れ固より本県士民忠勇奉公の熱誠と支部長以下役員の斡旋尽力と相待つの結果にして余深く之を(よみ)す。望むらくは会員一同益協心残力以て事業の拡張と基礎の(きょう)()とを期せよ。

    明治四十年十二月八日    

          大日本武徳会総裁  貞 愛 親 王 

 

 次に荒川支部長は式壇の前面に進みて左の奉答文を朗読せり。

 
   大日本武徳会長崎支部発会式を挙ぐると共に武徳祭を執行するに方り、総裁伏見宮殿下深厚なる令旨を賜ふ。会員たる
  もの孰れか感激報効を思はざらんや。
愈益奮励して令旨に負かざらんことを誓ふべし。謹んで(ここ)に奉答す。 

    明治四十年十二月八日

          大日本武徳会長崎支部長     従四位勳二等   荒 川 義 太 郎

  

右終りて秦支部副長は同支部の沿革及び現況報告を為し、次に奥山商議員は同会長大浦兼武氏の祝辞を代読せり。即ち左の如し。

   
    長崎支部は(ここ)に本日を卜し発会式を挙ぐるに当たり、総裁殿下優邁なる令旨を賜ふ。支部の光栄大なりと謂うべし。兼武此の盛典を
   祝すると共に支部長及び役員諸君に対し深く其労を謝す。然りと
(いえど)も本会の目的は前途尚遼遠なり。
    希くは熱誠なる支部諸君と協力し益々事業の発達を図り、以て殿下の
懿旨(いし)に副ひ奉らんことを期す。聯一言を述べて祝辞とす。

       明治四十年十二月八日

              大日本武徳会長         従三位勳一等    大 浦 兼 武


 次に荒川支部長は左の諸氏に対して有功章を授与せり。

     一等有功章  相良常市

     二等有功章  秦豊勝、小島源三郎、関根嘉重、山上經也、高比良友三、山口文義、 吉田重信、茂泉敬孝

     三等有功章  江口喜造、山下保八郎、白倉徳兵衛、喜多璋太郎、杉野清次、猿渡竹之助、堀田淳一郎、
               
                志田欽太郎、井上泉三、尾上金之進、内村鐵虎、
江口小太郎、祁答院重義、湊運平

 

 次に秦支部副長は左の祝電を朗読せり。

    貴部の発会を祝し併て将来の隆盛を祈る      熊本支部長 

    発会を祝し演武の盛なるを祈る            東京 三崎 道安 

    盛会を祝す                        青森大湊布設隊   今井 鐵六

    貴部の発会式を祝す                   韓国 茂泉 敬孝           

  

 

右にて全く式を了し荒川支部長は参列者一同に対し遠来の労を謝して閉会を告げたり。当日の参列者の重なる者は渡邊子爵、瓜生佐世保鎮守府司令長官、今村二十四旅団長、御牧伏見宮家令、鐍木海軍少将、大城佐世保鎮守府参謀長、市内各官衙勅任官、高等官、貴衆両院議員、県会議員、市会議員、新聞記者、会社員等にして、会員を合せば無慮三千余名と註せられたり。各来賓は式後公園丸馬場に設けられたる食卓に着いて瓶酒、折詰の饗を受けたり。午後一時より各種の演武を開始せしが擊剣部は柴江運八郎翁を始めとし、髪鑠たる白髪の老翁等が元気満々として各流の形及び居合を演ずるあり。妙齢の処女が勢い凄まじく薙刀の形或いは仕合を為すあり。少年少女の仕合等頗る花を咲かしめ、柔道部にては星野九門翁審判の下に各流の形を演じ、本部より出張せし磯貝教士の模範稽古、大分県 轟祥三、福岡県 濱崎市五郎両氏の特別勝負等最も参列者の注意を惹()き、数十組の勝負あり。弓術部も斯道老功の士出席多く頗る盛んなりし。
 尚本日は午前八時より各種の演武を開始する由なれば昨日よりも一層の盛況を呈するならん。因(ちな)みに武徳会の演武を興行同様に心得不都合なる声を発したるもの二三ありしを認めたり。而かも彼等は市の名誉職にある紳士なりしには呆れ果てたり。


 

東洋日の出新聞 明治40年12月10日付

武徳会第二日

  武徳会長崎支部に於いては昨日午前九時より各部とも演武を開始したるが、正午頃より参観者続々入場し頗る盛んなり。弓術部は一先づ終了を告げ午後四時萬歳を三唱して散会し、剣柔両部は午後五時に至るまで最も目覚ましき仕合を続行して中止したり。撃剣部は本日も午前より開始し、柔道部は午後一時より西郷、磯貝両氏講道館古式の形、磯貝、濱崎両氏講道館投げの形を演じ、次で残部の勝負を最後に選抜勝負を行ひ、優勝者には会長より寄贈の短刀其他の賞品を授与する由。

東洋日の出新聞 明治40年12月11日付

武徳会第三日目

  武徳会長崎支部大演武会第三日は予報の如く昨日執行され、柔道部は残部十組の勝負を(おは)り講道館古式の形、武徳会乱取の形及び近藤克己・大河内萬蔵両氏の堤寶山流の形ありて愈々(いよいよ)選抜勝負となり激戦七回、日没に至りて(ようや)く勝敗を決したり。名誉の勝者は第一等 濱崎市五郎(福岡)、第二等 田中順吉(久留米)、第三等 木村(熊本)の三氏にして孰れも短刀一口宛を授与されたり。撃剣部は演武者多数にて本紙締切りまでは優勝者を聞くを得ざりし。弓術部も多数の有志出席し居れり。

昨日は最終日なるを以て終了後演武者一同に神酒を放ち、荒川支部長は各地より出席されたる師範家を福屋に招き饗応せり。

 

長崎新聞   明治40年12月9日付

武徳会当支部沿革

  大日本武徳会長崎支部は二十八年委員部を創置せしより五年を経て即ち三十三年六月支部の設置を承諾せられ
 翌三十四年五月支部旗を拝戴し、爾来年と共に会員の増加を見るに至り。

  今春武徳殿建設の議を決し地を長崎諏訪公園内に着し六月工を起こし十一月成を告ぐ。其工費実に壹萬九千余円に
 上りたりと云ふ。而して会員は特別会員千六百三十四人、正会員弐萬九千八百七拾参人、賛助員千四百六拾八人にして
 義金累計参萬七千百四拾円、寄附金四千百拾九円に上り、今日の盛況を見るにいたるものなりと。





                   

                       上・下写真     大日本武徳会長崎支部発会式 明治40年12月8日
                                 
                                   建物は長崎武徳殿  (長崎歴史文化博物館所蔵)

                     







                                    
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