12.酒井文吾

  徳川幕府の第8代将軍徳川吉宗の時代に、幕府は朝鮮との交易を一手に行っていた対馬藩から朝鮮人参を献上されるが、後に会津藩

は幕府から朝鮮人参を譲り受け、藩内でも栽培を行うようになった。人参役所が会津若松城下に設けられ、藩の直営で栽培が行われるよう

になった。『会津和人参海を渡る』(平成5年発行)という書物によると、人参役所は、


    人参奉行    1人    700~800石取りの藩士から任用
        ツトメ
    人参方勤    2人    300~400石取りの藩士から任用   奉行の補佐役
      マカセ
    人参任役    4人    士分から任用    経理・庶務を担当

    人参鑑定方  21人    士分から任用    栽培の監督・収納・鑑定・品評・製造等の技術指導

    見習      若干名   人参役人の子弟から任用    鑑定方の補助員
    ツケビト
    付人      若干名   軽輩から採用    倉庫係その他の立働き・雑役に当る
     アライコ
    洗子      500~600人の雇人    土根の洗滌・煮製などに当たる


という構成になっていたそうである。 (天保初期(1830年頃))  

 こうして朝鮮人参の栽培に努めた結果、藩の特産品化に成功し、藩財政の重要な財源となる。というのは、会津藩は大坂の「田辺屋」に会

津人参の販売を一任していたのであるが、奉公人の足立仁十郎がのれん分けしてもらい、長崎に「田辺屋」を開いてからは、その「田辺屋」

が会津藩の人参を取り扱うようになり、それを清国へ売り捌いて利益を上げるようになったからである。お蔭で足立仁十郎も莫大な財を成す

ようになり、長崎で豪商となった。会津藩の御用商人として会津藩に恩義を感じていたためか、足立仁十郎は会津藩に多額の献金をするよ

うになり、500石の会津藩士として取り立てられるまでになった。足立は後に200石加増されて700石取りとなっている。

 さて、会津藩が京都守護職を引き受けた際、職俸として幕府から5万両を賜り、また、老中から上洛費用として3万両の貸与を受けるので

あるが、それでも足りず、会津藩は足立仁十郎から金2万両を借りるため、長崎に人参方勤の酒井文吾を派遣した。酒井文吾はたびたび

長崎を訪れている。

 酒井は田辺屋を訪れて、足立仁十郎へ金を借りようとするのであるが、1万両増やして3万両の借用を依頼している。すると、足立は2万

両ならお貸しすると言って、3万両の貸与を断っている。酒井はなお数日間足立の家に宿泊して3万両の借用を粘り続ける。そのうち、足立

仁十郎は年賀の宴を花月楼で開き、会津藩から藩命によって長崎遊学中の藩士、神保修理(家老神保内蔵助の長男)と酒井文吾が招かれ

る。神保修理は長崎遊学中に現在の長崎県庁が建ってあるところにあった海軍伝習所の勝海舟と親交を結び、思想的に開明的で非戦論者

だったことから、鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜が大坂城を密かに脱出し江戸に戻ったことを進言したのではないかという疑いを会津藩士

たちからかけられ、結局、切腹させられる人物である。

 花月楼での宴会も賑やかに進み、主催者の足立仁十郎もだんだん酔いが回って来ると、足立は酒井文吾が下戸であることをかねてから

知っており、オランダ人からもらったものだと言って、大きな杯を8個も出してそれぞれに酒を満杯に注ぎ、これをすべて飲めば3万両お貸し

すると言う。酒井は到底飲めるものではないと答えると、足立はますます言い募って、8杯すべて飲み干したら、この杯まても進呈すると言っ

ている。

 そこで、酒井は姿勢を正して神保修理に向かって、「神保殿、保証人になっていただけますな。」と言い、神保修理も「なりますとも。」と確約

した。下戸の酒井は3万両の件を足立に念を押したうえで、大杯8杯を次々と残らず一気に飲み干した。こうして酒井文吾のお蔭で会津藩は

3万両を借りることができたのであるが、当の酒井文吾は宴会の場を退席したことまでは覚えているが、その後は覚えていなかったそうであ

る。それもそのはず、楼下で倒れ、3日間も花月楼で布団に臥して、苦しみ続けている。この話は元会津藩士 小川渉の著書『志ぐれ草紙』

に書かれてあるものである。

 『志ぐれ草紙』には次のように記載されている。



                     『志ぐれ草紙』



      四六.酒を飲んで金を借る
  

「 予が知友に酒井文吾 後に浅井誠一といふ あり、人参方勤にてしばしば長崎に往返し、用達の足立仁十郎と懇親の間なりき、文久年公には

 京都に勤務し給ひ、非常の費途にて兎角取賄ひに困ぜられければ、文吾に命じ金二萬両を借り来らしめられしに、文吾承りて長崎に赴

 き、足立が家に宿して一萬両を増して三萬両借入の事を依頼せしに、主人は二萬両にて御免下されたしとて肯はざれど、文吾は数日間

 滞在して優遇せられながらに三萬両を依頼しおりうち、主人は年賀の宴を張りければ、上座には神保修理、次には文吾他に書生までも招
         たけなわ
 がれ行き、宴酣に主人も八九分の酔に至り、文吾の下戸なるに乗じかねて蘭人より貰ひ受けし杯なりとて、大なるもの八ツ許り重なるを出

 し、これにて各杯満酌せば三萬両は差上ぐべしといひしにぞ、文吾はよきことをいふものかなと思ひながらも、到底飲み得まじなど程よく答

 へ居しかば、主人はますますいひ募りてその杯までも進呈すべしといひければ、文吾形を改め修理に向ひ、先刻より主人公の御言葉保證
                                                  
 し給ひといひしかば、 修理も諾せりとの一言、しはらばいよ三萬両は相違なき歟と念を押し、八ツ許りの杯を前に羅列し、各満酌せしめし

 にいく銚子も傾け満たさせ、その大なるものより気息もつかで残らず飲み盡して、三萬両はいよ以て御約束の如く御杯まで頂けりとて直ち

 に坐を退きしが、退坐せし覚えはあれどその後は覚えなかりしに、丸山てふ花街の花月樓といふ愛妓ある所の楼下に倒れ居しを、他人の

 したたむる所となりて介抱せられ、樓に上り三日許りは醒めやらで苦しみしが、遂に三萬両を借り受け珍杯をも受け帰りしかば大に賞せら

 れしとなり、その初め文吾思へらく、焼酎を飲みて死せしものは聞きしが、酒をのみ死せしものは聞かざる所なり、嘔吐せば醒むべしとの

 決心にて飲みしが果してかくありしと自ら語りき。」 


 
  上記の話は『会津和人参海を渡る』には文久二年(1862年)のことと記載されている。
  ほうぎょくかん
  『呆嶷館』というウェブサイトには、「明治14年旧斗南藩人名録(戸主)」の項に、「浅井誠一 下北郡田名部村 開拓使函館寄留(明治5年

 5月)」という記載があり、浅井誠一と名を改めた酒井文吾は斗南藩へ移った後、さらに北海道の函館で北方開拓の官庁である開拓使に

 勤務したことがわかる。なお、下北郡田名部村は、現在は青森県むつ市となっている。

 


                    

                   酒井文吾が宿泊した足立仁十郎の屋敷及び田辺屋があった場所
                       
                            (浜屋百貨店やその周辺)

            



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