~アナーキズムとは何か~


   『抗日革命家 鴎波 白貞基』の第1章を掲載します。 (翻訳:草場里見)




       第一部  アナーキズムとは何か? 


          目次

                         1.アナーキストの弁明

                         2.アナーキズムの源流

                         3.近代アナーキズムの萌芽

                         4.啓蒙的アナーキズム(ウォルリアム ゴードウィン)

                         5.集散主義アナーキズム(①ピエール プルードン)

                         6.集散主義アナーキズム(②ミハイル バクーニン)      

                         7.アナルココミュン主義(ピョトール クロポトキン)

                         8.アナルコサンディカリズム 

                         9.リベリタリアニズム(絶対自由主義) 


  1. アナーキストの弁明

     “誰であれ他人を圧迫してみよ、彼は反抗するだろう・・・権力に反抗する者、自由のため闘う者は誰でも
    自主的な人間になることを渇望する反権威主義者だ。このような意味で彼をアナーキストと呼ぶ。”

       誰でも強制的な権威を否定し、これに面と向かって闘う者をアナーキストと言う。この明快な定義は簡潔にして
    魅力はあるが、かえってアナーキズムを理解するのに混乱を招きやすい。

      この思想は悪意のある論敵たちが濡れ衣を被せる致命的な悪評までもよく受け入れ、何一つ受容できないことが
   ないくらい幅広いのが特徴である。アナーキズムを理解するのに
隘路(あいろ)になる点は、アナーキストたちが自由を
   極度に強調する余り、定型化された体系的な理論や、思想家としては想像さえできないくらいさまざまな見解を
   包容することができる可能性がいつも開かれているという点だ。要するに、アナーキズムは多様であり一定して
   おらず、絶えず変化する教義なのである。また、運動としてもそれは絶え間ない変動ので成長し、決して消
   うせないのが特徴である。そういうわけで、この一世紀半の間アナーキズムはプロメディウスのように変化無双の
   特質により、ずいぶんと強力な思想であったが、適応力が弱い多くの運動が消滅してしまったなかで、いつも新しい
   思想的生命力として引き続いてきたのである。そのような過程で不可避に生じるほかなかった否定的な見方誤解
   要素を払いのけた後、本格的な論議で入っていくのが順序ようである。まずアナーキズムを否定的な見方から
   誤解したり、一部混同を起こしやすいいくつかの事例から入ってみようと思う。

       最初に、アナーキストを無秩序または悪質な混乱の造成者と罵倒する傾向についてである。通俗的に“アナーキ”
   は“無支配”、またはもう少し積極的な意味で“支配を受けない”という意味を持つギリシャ語である。これを
   アナーキストに悪意的に突きつけ、破壊した秩序に代わるべき何物もうち立てるものがないのに、ただ無秩序だけを
   助長する者たちだとけなすのがお決まりである。結論から言って、それは不当千万なそしりだ!
アナーキズムに
   おいてアナーキはむしろ高度の秩序を表す言葉である。老子が言う「無為の為」の自然の秩序である。人を治める
   統治の秩序ではなく、自ずから治める自立自治の秩序だ。新しいものを建設するため間違った秩序、正しくない
   政治を正そうとするものであり、やみくもに破壊だけを繰り返すのはアナーキズムではない。それにもかかわらず、
   フランス革命期の渦の中でアナーキとかアナーキストとかいうこの通俗的な用語が各政治上の派閥間に横行したのは、
   主にそれらの反対者を攻撃するのに使う一種の悪口だったのである。
    1840年代に至り、幸いに逆説の名人で
   二律背反的扇動者であることを自負していたピエール・ジョセフ・
   プルードンは、反対者を誹謗するのに用いていたこのアナーキという用語を自身の称号として受け入れ、堂々と
   “私はアナーキスト”だと名乗りだしたことから、無秩序的、否定的語義を建設的・肯定的に変え、既存の強圧的
   統治機構に替わるアナーキ社会のビジョンを提示するのに成功したのである。彼は混乱を造成した責任は既存の統治
   機関にあり、強圧のない社会だけが自然な秩序と社会の調和を回復することができるだろうと考えたのである。
    話はちょっと異なるが、20世紀始め日本のある若い学徒が無支配という意味のこの語彙を無政府主義と翻訳した
   ことから、わが漢字文化圏で長く累を及ぼすこととなったのは深く吟味してみる必要がある。

   二つめに、アナーキズムは組織を否定する思想だという誤解についてである。権力を否定する思想であるだけに
   組織を否定するのは当然ではないかという見方である。確かに個人主義的アナーキストや純粋アナーキストを自任
   する人たちの間には、組織否定を公言する者がいないわけではなかった。しかし、権力を否定するからといって
   組織自体を否定すると考えるのは論理の飛躍である。一般的に組織には二種類の類型がありえる。一つは権力志向の
   組織であり、もう一つは生活志向の組織である。少数支配者が多数の大衆を支配する場合だとか、搾取のための組織
   である場合が権力志向の組織であり、普通の人間が生きていくうえで日常生活の必要により自由な協議を通じて
   お互いに助け合う構造が生活志向の組織である。アナーキズムは権力志向の人為的組織に反対するものであり、自由
   合意の生活組織に反対するものではない。自由合意、自由連合こそアナーキズムの基本的な組織原理なのである。

     三つめに、アナーキズムはニヒリズム(虚無主義)とどう違うかについてである。アナーキズムをニヒリズムと
   同一視したり、または否定的な原理、単純な破壊の哲学とみたりする傾向がある。このような誤解に対する責任が
   いくらかはアナーキストたち自身にあることを否定することはできない。なぜなら彼らは過去によく自分たちの
   主張に破壊的な面があることを強調しすぎる傾向があったからである。

       特に権威を全廃するというまさにその思想は典型的な近代社会制度の根幹を崩壊させてしまうということを強調
   するが、これに比べて彼らの再建計画は度が過ぎて単純なものなので、人々を信服させるのが難しかったことは
   事実である。しかし、ここで我々はどんなアナーキスト思想家も孤立して陰鬱な破壊の思想にだけ埋没しているの
   ではなかったということに注目する必要がある。プルードンもバクーニンも一様に破壊を認めながらも、まさに
   その死の廃墟の上に、自由の生命が新しく芽生える可能性を確信する基調から抜け出すことはなかったのである。
   「ドイツにおける反動 
Reaction  in Germany」の末尾でミハイル・バクーニンはこう祈願している。

       “ただ、それが全生命の神秘的でもあり永遠に創造的な源である理由としてのみ破壊し全滅させるその永遠な
     精神を信じさせるだろう。破壊への情熱はまた創造的情熱でもある!”

     要するに、アナーキストが現実の不条理に絶望し、世の万事を虚無と規定するニヒリストと異なるのはまさに
    彼らが絶体絶命の瞬間にも社会変革に対する楽観を信念として行動するところにある。一方、アナーキストが
    ロシアの歴史でいわゆるニヒリストと呼ばれた〈人民の意志団〉
The  People will とはっきりと区別される
    のは、後者が19世紀後半に制定され、ロシアの専制的支配者たちを暗殺し立憲政府を樹立しようとする組織的
    陰謀集団として政権掌握を目的とした彼らの運動を厳密な意味でニヒリストということはできないのであり、
    アナーキストとはますます関連がないのであった。


      最後にアナーキズムとテロリズムの関係をどうとらえるかという問題である。アナーキストがたとえニヒリスト
    ではないかもしれないが、テロリズムの一面まで否定することはできないのではないかという点である。事実、
    暴力への傾向はジャコバン派、ブランキ主義者、マルクス主義者、マジニとカルバルの追従者等言うまでもなく、
    この時期にすべての政治上の派閥が持っている共通の現象だった。

       1880年代前後に一部アナーキストが暴力的行動に偏ったのはそうするだけの訳があった。パリコミューン
    失敗後すべての国境が閉鎖されるなど、極度に行動の自由が制約された事態において彼らを刺激したのは、ロシア
    のナルルニキたちによって敢行されたアレキサンダー2世の暗殺(1881年)だった。それはアナーキスト運動
    とは直接関係があるのではなかったが、この事件を信号弾として“行動によるプロバガンダ”の時代が幕を開けた。
    大部分が極めて少数の者により極めて断続的に起こされた活動であったにもかかわらず、欧米諸国にわたる暴力的
    なアナーキストたちのこのような行動が程度以上の破裂音に聞こえたのは、標的の相手がアメリカの大統領
    (マッキンリー)、イタリア、スペインの王族など等しく世の中を驚愕させるほどの著名人士だったからであろう。

         しかし“行動によるプロバガンダ”時代のスターとしてフランスで監獄生活を送ったクロパトキンを含むどんな
    アナーキストの国際組織も、このような個人的なテロ活動に同調する者はいなかった。そうだとしても、アナーキ
    ズム理論に個々人のアナーキストがテロ活動をすることにブレーキをかける装置があるのでもない。要するに
    アナーキストたちは彼らが追求する究極的目的に関しては実質上一致しているかもしれないが、その目的に到達
    するのに必要な戦術に関しては驚くほど一致していなかった。トルストイ系の平和主義者たちは如何なる状況の
    下でも暴力を認めなかった。ゴードウィンは討論を通じ、そしてプルードンとその一派は協同組合組織の平和的
    拡大を通じた変革を追求した。バクーニンやクロパトキンは“万止むを得ない場合”という前提を掲げた。
    革命期間には暴力が生じるのは避けられず、革命は人類の進歩において避けることのできない段階と見るのが
    クロパトキンの解釈だ。参考として日本の先駆的アナーキスト幸徳秋水が“無政府主義者は暗殺者か”という題名
    で行った大逆事件の法廷陳述の一節を付け加えると、

       「・・・・・欧米の無政府主義者は大部分が菜食主義者です。小さなけものさえ到底殺すことを忌む者たちが、

    どうして殺人を好むはずがありましょうか。彼ら首脳級学者だけでなく、この主義を信奉する労働者は私が見て

    まさしく、他の一般労働者とは異なり、読書もし品行が良く、酒・たばこはやらない者が多いです。彼らは決し

    て無法者ではありません。
そうです。無政府主義者の中に暗殺者がいるのは事実です。しかし、無政府主義者
    だから暗殺者という公式が成立するのではありません。暗殺者は単に無政府主義者だけでなく、社会党、共和党
    のみならず、民権論者、愛国者、保皇派にもたくさん現れました。だから暗殺者の出現は主義如何に関係なく、
    その当時の特別な事情やその人の特殊な気質が互いに関連してその行為に及ぶのです。たとえば政府の圧制が
    ひどく、多くの同志が言論・出版・集会の権利を剥奪されるのはもちろん、生活手段までも奪われてしまったとか、
    財産家の横暴によって貧民たちが飢寒に震える惨状をとても見ることができない時に、合法的・平和的方法では
    到底どうすることもできない時、熱烈な青年なら盛り上がる激情を押さえることができず、暗殺や暴挙をするよう
    になるのです。彼らの行動こそ、正当防衛とみなければならないものです・・・・」

 

         2.アナーキズムの源流

      これまでに言及したように、広義のアナーキズムには一定の定型化された理論があるわけではない。それを厳密に
    定義し、論証する理論体系が別にあるのではないが、あえてたとえて言うなら、人間の歴史とともに脈々と流れて
    きた一つの地下水のような人類共有の精神的流れとみることができる。それがどの時であろうと、農民戦争と結び
    ついてアナバッチストなどの運動になり歴史の表面に浮上するかと思えば、再び近代にいたっては社会主義運動の
    流れに合流して近代アナーキズムとして姿を変え、浮き上がって来もした。そのような変化の流れの表面上に、
    ヨーロッパ中世時代の自由都市文化に広がっていった。何度か革命の炎が世のすべてを赤い色で染めたりもした。
     このように、より広い意味でのアナーキズムを理解するためには、歴史の表面に現れた個々の事件よりも、歴史
    の底辺に流れている地下水の
轟音(ごうおん)に耳を傾ける必要がある。  実にこの轟音には数千年にわたって人間が自由と
    変革のため闘ってきた魂が籠もっているのであり、そのような幅広い理解なくしてアナーキズムを語ることは、
    御神酒を取り残したまま祭祀を行うことと異なるところがないと言えるだろう。この魂ということばをもう少し
    具体的に述べると、まだ充分成熟したものではなくても民衆の情緒や心の中に潜在していて、ある条件下で初めて
    自己同一性を表す一種の意識化状態なのである。そうだとすると、アナーキズム思想の原理をより広い意味で探す
    最初の出発点は、まさにこの民衆の日常生活の中に潜在している意識を確認する過程で求めるのが正しいだろう。
    そのような点を念頭に置きながら、これからギリシャ、ローマ、インド、中国など西洋や東洋の古代史から発見
    されるアナーキズムの形跡を一瞥しようと思う。


                
    ギリシャのアナーキズム

      アナーキズムに似た思想が古代ギリシャで芽が吹き始めたのは、ポリス(都市国家)内の社会的不平等が深まる
    につれて伝説的な“黄金時代”の信仰が一つの思想として発展し始めた時からである。“黄金時代”の信仰とは
    一つの自然権思想として、人間が人為的な政治制度の鎖に縛られる以前に自由で幸福だった時期を意味した。
    このような思想を特に強調したソフィストたちは社会悪を批判する時はいつでも、人間に対する社会的圧迫がなか
    った過去の自然状態を話の糸口とした。

        たとえばBC4世紀頃に活躍したエリスのヒピアスは“法が暴君化して絶えず人間に不自然な行為を要求する”
    と述べた。その他、アルキメデスやリコプロンなどもすべての社会的特権の廃止を主張し、特に奴隷制度を指して、
    人間の本性に基づくものではなく、義のない不道徳な人間が作り出した法律の所産であると非難した。その後に
    現れたギニーク派(創始者アンテスティニス)も同様に、“自然的生活”という考えに基づき、国家制度に対し
    相当批判的な見解を表している。ギリシャ人の国家と国民性に対する自慢を愚弄しながら世界市民への傾向を明ら
    かにしたのもこの派の特色だった。階級や身分制度などすべての人為的な制度に反対的な彼らが見るとき、国家の
    優越性を誇るのは無意味であり、愚かな行為だった。また、シノベのディオゲネスは真昼に明かりをつけてまわり、
    ‘どこかに人がいないか’と叫んだというけれども、彼が探す人はアポリティス(国家に関心がない者、反政治的
    人間)だったという。

        このようにギリシャ人から昔からアナーキストらしい思想の痕跡をたくさん見ることができるが、その中から
    でも最も整理された表現をしたのはストア派の創始者 キディオンのジェノンの哲学でみることができる。彼は
    すべての外部からの強制に反対し、自然の中に現れた‘
内的法則’の声に従いさえすればよいと説破した。
    そのような立場から彼は国家をはじめとしたすべての人為的な政治制度に反対し、人間の形をしたすべての者に
    完全な自由と平等を与えなければならないと叫んで人種的偏見と闘ったのである。ジェノンが生きたその時代は
    ギリシャのポリス社会が完全に崩壊してアレキサンダー大王の古代帝国の建設ガ始まり、ヘレニズムが起こった
    時期で、まさにそのような訳でギリシャ人と野蛮人を区別しないコスモポリタニズムが発生した。ジェノンは
    自治的な生活に基づき、情誼が最も発達した人間の社会的本能を個人の自由と責任に結びつける思想を開発し、
    プラトンの国家主義的政治哲学と対象をなした。そのようなところから彼を‘世界最初のアナーキスト’と褒め
    上げる人がいるほどである。

            
            
キリスト教のアナーキズム源流

        近代の多くのアナーキストたちは国家と同じくキリスト教教会をすべて同じ仲間とみなして激烈に非難した。
    しかし彼らが非難するのは使徒パウロ
アフ以後、国家権力と密着して互いに利用し利用され、成長・発展して
    きた教会に対してであり、それ以前のローマ帝国などの国家権力と闘争し多くの殉教者を出した原始キリスト教に
    対してではない。いわんや原始キリスト教ではアナーキスト的な臭いがあちこちでかなり滲み出てはいないだろ
    うか。聖書(ルカによる福音書)で見ることができるように、キリスト教の神は一方で‘心が驕り高ぶっている
    者を突き放し、権勢ある者をその地位から退かせ、地位の低い者を高めてやり、空腹な者を腹一杯食べさせてやり、
    金持ちが手ぶらで出発するようにさせる’神であり、その息子イエスの使命は‘貧しい者に福音を伝え、囚人が
    教えを受け、盲人が目が見えるようにさせ、圧迫された者が解放され自由を得させる’ようにするのである。
     聖書が伝えるイエス
キリストは多くの矛盾に満ちているが、まさにその理由でその宗教が国家と結び付きえた
    のであろうが、イエスが貧しい者、迫害される者の友であり、権力者や金持ちを寄生させる制度の敵であったのは
    事実だったようである。フランスの哲学者ルーナンは彼が著述した‘イエス伝
’で、‘イエスはある点ではアナー
    キストだ’と言い、またキリスト教を徹底して批判したドイツの個人主義的アナーキスト スティルノも「たとえ
    彼(イエス)が民衆の教唆者や扇動者、革命家ではないとしても、彼やすべての古代キリスト教はそういうわけで
    ますます反逆者だった。」と述べている。

       原始キリスト教は単にその主張や行動がアナーキストらしかっただけでなく、彼らの団体生活もまた、いわゆる
    任意の集散制度を実践している。キリスト教の教義に私有財産放棄を要求する句節はないけれども、彼らの信仰の
    純粋性がこのような方法を選ばせたものと見られる。彼らの組織は極めて自由なもので外敵の強制がなく、ただ
    信仰の共通性によってお互いが結び付き合っただけに、後日の教会とは比較にならないほど平等が維持されていたと
    いう。イエスを始めとした原始キリスト教徒から見ることができるこのようなアナーキズム思想はその後にも多くの
    宗派からも発見される。もちろん彼らは正統派教会から異端者として破門されて迫害を受けた人々だった。その代表
    的な例がカルボクラディスとその教徒たちである。彼らは‘平等な共同’こそ神の正義だと考え、人間が作り出した
    法律は神の正義に反し、‘平等な共同’を破壊し社会に害悪を及ぼすものだとみた。その他6世紀頃からアルメニア
    で始まった異端派の運動だとか、13世紀頃フランス、ベルギー、スイスで進展し、その後ドイツに拡散した‘自由
    精神の兄弟団’運動がある。‘自由精神の兄弟団’運動はイタリアのヨアキム・デ・プロリスなどの思想の影響を
    受けて始めたもので、彼らは内的瞑想によってのみ神と合致することができると信じ、そのインスピレーション
    だけが立法者でありえると考えた。そのようなところから教会、国家、道徳が人間に負わせるすべての束縛に反対し、
    財産、結婚制度を始めとした教会や国家の制度一切を否定したものと伝えられる。このような流れが後日、農民や
    都市の下層民を結合させてイギリス、ドイツでの農民反乱に引き継がれたのは注目に値する。

                          
          
古代インドの場合

       東洋のアナーキズムと言うと、普通、中国の老子、荘子が思い浮かばれるが、他にインドにもアナーキズムの
    流れが厳然として存在したという事実を指摘しないわけにはいかない。古代インドの哲人たちもギリシャのソフィ
    ストたちが過去を黄金時代とみたように、理想の根拠を過去に求めたのが特徴である。バラモン教の法典をみても
    そうであるが、仏教を創始した釈迦もまた決して新しい宗教をつくったのではなく、昔から存在して永遠に妥当
    した法(達磨)を悟っただけなのだと推測される。このように古代インド人にとって理想は法の中にあり、それは
    過去・現在・未来に一貫して変わることなく妥当するもので、国家も民族も法の前ではただ二次的意味のものに
    過ぎなかった。このため達磨(法)に背く者は国王であっても災いを受けるのであり、神であっても法に従わな
    ければならないと考えた。これは上述したゼノンをは始めとしたストア派の自然の中に現れる‘内的法則’を連想
    させ、後で扱う老子の‘道’概念とも相通ずるものである。老子の道がインド思想であり特に仏教から由来した
    ものであると述べる学者もいる。このように古代インド社会は法の信仰が支配した社会だった。甚だしくは法の
    管理者であるバラモンまでも彼ら全体を統制する首長を特に設けず、ただ法に基づいて行動することを名分に掲げ
    たのである。こうしたことから後世に至ってインド特有のカースト制度が確立しながら、その弊害が次第に深刻に
    なった時、真の達磨(法)に復帰することを訴える釈迦が出て、カースト打破の宗教、即ち、仏教が創始されたの
    である。

        釈迦は‘一切衆生 開諭仏性’(法華経)といって4種姓(バラモン、クシャトリア、バイシア、スードラを
    いう。筆者注)がすべて平等であること、カーストが法に違反することを主張している。これは当時としては革命
    的な主張であり、一般に考えるように釈迦が厭世的な現実逃避の聖者ではなく、カースト社会に反対する宗教的
    社会革命運動者であったことを物語っていると言えるだろう。釈迦の周囲に集まって来た、いわゆる原始仏教徒も
    やはり国家のような世俗的権威を否定し、自分たちが属している教団の権威、釈迦の教えがその上位にあると考え
    た。自分達出家した修行者達こそ国家とは垣根を作った者として、国家の権威に従属しないと考えたのである。
    僧家と呼ぶ彼らの教団では一切、個人的所有を禁止し、
木鐸(ぼくたく)と布施が彼らの生活手段の全部だった。初期に
    は本山のような中央統制機関もなく、教団内での席次は出家入団後の年数によって決定された。誰もこれを破る
    ことはできず、甚だしくは国王でも一旦入団すると末席に座らなければならなかった。このように非国家的で、
    いわゆる自然的アナーキズムといえる傾向はインドの他の宗教、たとえば、その後に発達したインド教のような
    ところから発見されるほど後々までインド文化の特色の一つをなした。現代のカンジー主義とか、それを受け継い
    だビノバ運動等もその源をたどれば他ならぬ古代インドのアナーキズム思想まで
(さかのぼ)る必要があるだろう。


                           中国と老荘思想

       中国民衆の生活感情を最も正確に代弁する老荘思想は、儒教の支配イデオロギーが人為的な制度や規律として
    民衆を束縛するのに反対するところから始め、問題を提起する。中国民衆のアナーキスチックな感情を最もはっ
    きりさらけ出して歌った歌が有名な
撃壤(げきじょう)(中国の(ぎょう)の時代に老農夫が地をたたきながら太平を
    謳歌したという歌のこと。訳者注である。

     

     ‘日が昇れば出かけて行って仕事をし、日が暮れると帰って来て休むよ。井戸を掘って水を飲み畑を耕して
    食べていくが、王様が私に何の用事があるだろうか!’


        
豊年になっただろう、何一つ心配するものがない泰平御代に帝王の徳をほめたたえて歌った歌がこんな内容で
    あろうと言われ、普段人民がどんなに暴政を虎よりもいっそう恐れたかを十分推測させる。いや中国の人民は
    この歌を通じて普段彼らが抱いている統治権力に対する懐疑的感情とともに、自分たちは自分たちが必要に応じて
    自ら仕事をし、食べ物を食べ、生きていく自立自治の存在だという意志をはっきりと明らかにしたとみなければ
    ならないのではなかろうか!  

        このような民衆の情緒を背景にした老荘思想の中心概念は‘道’である。“人は地に従い、地は天に従い、
    天は道に従い、道は自然に従う”。一言で言って、老子は道の基準になる自然の法則を悟り、それに順応しな
    ければならない、いたずらに人為的に秩序を形成し世の中を面倒にすることを止めるよう勧告する。‘無為自然’
    から出発する老子思想の特徴は平和主義、小国寡民と通称される小さな社会連合の思想、それに法律、礼楽の
    ような外的権威の否定の3種類に要約される。

       老子が主張した無為の思想は以後二つの系統に分かれる。一つは奇妙にも法家として知られている韓非子の
    法治主義であり、もう一つは荘子を頂点とする実存主義的自由の哲学である。もともと老子の思想は反政治を
    教え諭す政治思想の側面が強かったが、それを人為的に否定し客観的な法による支配を主張する法治主義に逆
    利用されたのである。しかし、老子思想の真髄は列子、揚子を経て荘子にいたる系統によって継承されて行った
    と見るべきであろう。

       特に荘子は老子と違って、政治思想的側面とは一定の距離を置いている。そうでありながら荘子の真骨頂は
    老子の道思想、揚子の自我中心思想をはっきりと見抜いて、自由人の存在のあり方を明らかにしたというとこ
    ろにある。道は‘漠然としていて形がなく、変化しない。生きるか死ぬか、天地とともに立つべきか、神とと
    もに行くべきか。茫然とどこに行くべきか、
忽然(こつぜん)とどこにいくべきか。万物すべていっしょにするが帰着
    するに値するところがない’と荘子は述べている。どういう意味だかわかるようでもありわからないようでもあ
    り、全くつかみどころがないが、明らかなことは存在の本質を究明したところがあるという点である。荘子は
    このような方法で論理を展開し、老子の道、揚子の自我を一切否定する形態をとる。サルトル式に言うと‘無化
    させること’になり、スチルノ式に言うと‘創造的虚無’に当てはまるものである。否定の形態をとるところ
    から、はじめて真の実体が姿を表す。それは価値が付与され、名前がつけられる以前の存在であり、あるがまま
    の世界である。そこには差別も対立もあるはずがなく、一切が平等で一つである。“道には始めも終わりもなく
    ・・・満ちたり欠けたりしてその形態は一定しない。年はとらえることができず、時は止めることができない。
    消息は満ちたり欠けたりして、始めも終わりもない。・・・動きながら変わらないものはなく、時に移っていか
    ないことがない。何をしようとするのか、何をしないとするのか、ただ自らなるようになるだけだ。”


        あるがままの世界、真の実在の世界をあるがまま認め、あるがままに受け入れる‘無為の実践’それを荘子は
   ‘遊’と名付けた。とんでもないことに怒り、不平を並べ立て、涙を流すなどの‘引きずられる式の受動的生’に
    打ち勝ち、生きても良いし、死んでも良い、病気になっても良いし、健康であっても良いという総体的肯定の世界
    を生きる真人の生活を勧めるのが荘子の領分である。ちょつと見るとそれはたいへん消極的で退嬰的な印象を漂
    わせ、後世に雑多な荘子の亜流を派生させる要因になったりもした。しかしどこまでも人間の根元的な自由を悟ら
    せてやろうとするのが本旨だっただけに、以後の荘子思想は中国数千年にわたる権力抗争を勝ち抜くほど中国人の
    精神生活を支える支柱になった。

 

         3. 近代アナーキズムの萌芽

       前述したようにアナーキズムは決して19世紀に入って突然新しく現れた思想ではない。それは有史以来、
   人間が絶えず自由を求めようとして闘ってきた長い闘争を背景にしており、それら闘争の貴重な体験と成果を
   近代という新しい歴史段階に結びつける時生じたのが、いわゆる近代アナーキズムである。近代アナーキズムが
   発生するのに科学的・哲学的思想の基本土壌を提供したのはほかでもない18世紀の知的運動だった。たとえ
   アナーキズムが他のすべての革命的潮流と同じく、民衆の中の闘争から発生したものであって学者の研究室から
   生じたのではないといっても、近代ヨーロッパの啓蒙主義運動の影響を受け、近代科学の潮流に接近するように
   なったのである。啓蒙主義とは一言で言って、伝統の縛りから解き離れた自由な知識を広め、民衆を迷信や無知
   から解放させる努力を意味したのである。17世紀末からスコットランドで源を発し、イギリス、フランス、
   ドイツへ広まったこの啓蒙主義学派の特徴は、一切の形而上学的概念や弁証法的方法よりは客観的で合理的な研究
   方法を天体の世界から化学的反応の世界に、そして物理的世界や化学的世界から動植物の世界に、さらに社会の
   経済的・政治的形態の発達へ、また宗教その他の進化へ発展させた。このような知的発達の成果として、この時代
   の記念碑的な産物であるエンサイクロペアガ ディデロ等により光を見ることにもなるけれども、より注目すべき
   進歩はジョン・ロック、ルソー、モンテスキューに代弁される思想家たちが一様に自然法、個人の自由、無神論、
   国家や権力を必要悪とみる視角、革命思想などを主張したという点である。これらの思想がアメリカ独立やフラン
   ス革命の導火線になっただけでなく、その後の近代アナーキズムにとっても完全な形に継承されていったものとみる
   ことができるのである。

      啓蒙主義思想の滋養分を母乳にして成長した民衆の自覚水準を本格的な社会意識にまで引き上げて爆発したのが
  ‘自由、平等、友愛’を大綱領にしたフランス革命であり、19世紀社会思想の諸潮流である。まずフランス革命の
   原動力が誰だったかという問題から考えてみよう。世の人々は必ずと言っていいほどブルジョア階層を上げるけれ
   ども、直接行動の先頭に立ったのは農民であり、都市下層民であったことをどうして否認することができるだろうか。
    7月14日バスティーユを占拠して革命の口火を切ったのがまさにパリの貧民階層だった。フランス封建体制を
   完全に打倒したのが国民議会やブルジョア権力者たちの決議や法律ではなく、まさしく農民の総蜂起によるもので
   あったわけである。これら民衆の闘争はやがて‘アナーキスト’とか、‘無頼漢’とか、激烈分子とかいう一群の
   民衆革命家を生み出し、いわゆる民衆の‘過激行動’を制止しようとしたブルジョア権力者との対立抗争に発展する。
   彼らの要求は単純な法律上の平等ではなく、‘万民に土地を、すべての富を等しく我々に’という事実上の平等を
   主張するところにあった。このような要求は既にディデロ、コンドルセなど啓蒙主義者たちの思想の中でみることが
   できるが、フランス革命期の‘アナーキスト’たちは実際の闘争過程で同じ結論を引き出したのである。その時
   までは思想家たちの頭の中に観念としてだけ描かれてきたこのような要求が一般民衆の行動綱領になり、それが
   再び実践を通して新しい思想-アナーキズムに発展したと見て間違いないだろう。この点、クロパトキンは彼の
   著書《フランス革命史》で、革命の中核的役割をしたパリをはじめとした都市及び農村のコミューンがすべてアナ
   ーキズムの原理によって支配されたとみたのである。コミューンは義挙を起こした都市の下層民や農民が自発的に
   組織した新しい体制であり、直接自治と自由連合の原則に従っていた。結果的にフランス民衆が創造したこのコミ
   ューンとコミューンの連合体制はアナーキズム実現のための具体的な道しるべになると同時に、民衆の革命的なエネ
   ルギーをアナーキズム思想と密接に結び付かせる契機にさせたのは事実である。一方、近代アナーキズムを2種類に
   分類、即ち社会主義アナーキズムと個人主義アナーキズムとに区分してみようとする見方がありえる。このような
   分類方式は大体19世紀のアナーキストたちから現れた傾向、即ち‘個人の自由’であるか‘共同体中心’であるか
   という志向的価値観の特性に重点をおいて分類する方式である。それによる運動展開の様相もまた自由連合主義(リ
   ボタリアニズムと自由労働組合主義)であるか自由共同体主義であるかといった式に顕著に異なって現れた。
   しかし、人間の‘自由’実現を中心課題にするアナーキストとしては、社会的であるより個人主義的な傾向があり、
   一方、個人主義的であるより社会的な傾向もあるのは事実である。(個人主義アナーキズムに関しては便宜上、
   後の部分のリボタリアニズムを扱うところに含めることにし、今からは社会思想としてのアナーキズム関係を集中
   して光を照らして見ることにする。)

       19世紀に入り資本主義の発達に伴う対応策として台頭した社会主義思想は、労働者階級の自然発生的な組織化
   運動と結び付きながら急速な変身を重ねるようになる。こうして社会主義は単純な思想ではなく、現実権力に正面
   対決する社会勢力を形成させた。ところで権力に対する態度により社会主義は二つの部類に分かれた。一つは現在の
   中央集権的な支配権力と闘うためには労働者階級も中央集権的権力を形成し、その権力で反革命勢力を排除しながら
   理想社会に到達するという部類である。マルクス、レーニン、スターリンへと続くインテリゲンチュア出身たちが
   この系譜の指導者に該当する。これとは対照的なもう一つの部類は、権力に対抗するのにおいて、それと同じような
   権力組織を作り出して対抗するのは矛盾であり、それは個人の自由を抑圧するもう一つの別の支配権力に替わること
   に他ならないのである。権力中心社会主義に対立し、権力否定の社会主義として19世紀の労働運動に地位を占める
   ようになったアナーキズムは労働者たちの間で容易に受け入れられるようになり、それが自然発生的な組織を芽ばえ
   させながら、人間的信頼の生地がそのまま未来社会の人間的な連帯へ続いていったのである。

 

       4. 啓蒙的アナーキズム(ウィリアム・ゴドウィン)

      近代アナーキズムの最初の理論家を述べよと言えば誰でも《政治的正義に関する考察》の著者 イギリス人 ウィ
   リアム・ゴドウィン
William  Godwin  17561838 をためらわずに上げるだろう。ゴドウィンはもともとイギリスの
   厳格な非国教派の家庭に生まれ、神学校を卒業し、父の後をついで牧師になった人であるが、後に異神論者に変身し、
  ‘いくら神とはいっても圧制者になる権利はない’という主張を繰り広げ、世間に物議をかもしたのである。ただの
   田舎の牧師がどうしてこのような思想を抱くようになったかその経過は明らかではないが、1778年頃には偶然
   知り合いになった一人の熱烈な共和主義者の勧めでフランスの百科事典派またはルソーの哲学を研究していたと伝え
   られてもいる。1783年頃からは唯物論者になり牧師職を捨ててロンドンへ出てリベラリスト文筆家になり、
   文章を書いて一生を過ごした。

       もともとが書生タイプだった彼は政治に参加するよりも、実際の政治を左右することができる基本的な真理を明
   らかにすることが自分の使命と考えた。いったんその真理が明らかになって反対する余地がない正当性が確認され、
   完全に記述されるならば人々がそれを理解し、それによって社会制度が再編されるだろうというのが彼の啓蒙主義
   者らしい信念だった。理性に対する絶対的な信頼が彼のこのような信念を支えたのである。彼にとって理性とは
   とどのつまりは全能を意味するもので、真理であることを明白に納得すれば理性的存在である人間は、いつかは
   必ずそれを受け入れて誤りを正し、完全性に近づくようになると考えた。つまり一切の暴力行為というのは人間の
   進歩にとって百害無益だというのが彼の持論だった。


       このような思想を基礎として著述されたゴドウィンの生涯の力作である「政治的正義に関する考察」と、それが
   一般の道徳及び幸福に及ぼす影響 
An enquiry concerning political justise and its  influence on general virtue and
    happiness
を執筆し始めたのは、1791年からであり、出版されたのは1793年1月だった。上・下2巻から
   なるこの本がロンドンで発刊された時、途方もなく高価なものであったにもかかわらず、四千部も売られるほど
   大きな反響を起こしたという。リベラリズム弾圧に血まなこになっていた当時のイギリス政府が、値段が高すぎて
   売れないだろうと判断して販売禁止処分をしなかったのがあてがはずれたものである。甚だしくは、貧しい労働者
   たちまでこの本を読むため組合を組織し、金を集めて回覧するというくらいであったという。
 
     前後3版(2版1796年、3版1798年)まで出版されるなかで内容に多くの増補が加えられたが、全体
   が8章からなる《政治的正義》の内容を一貫してゴドウィンが提起した命題は、一言で言って‘全体の幸福’が
   人間の行為の最高法則だという仮説だった。この仮説を検証するためゴドウィンは道徳的‘正義’の物差しを突き
   付けて、すべての専制的な政治権力と物神崇拝的な私有財産制度を否定し、無政府共産主義構図に到達するので
   ある。ゴドウィンはこの本でたった一言も‘無政府主義’という用語を直接使用したことはない。そうでありなが
   ら彼は‘無政府状態は恐怖を起こさせるほどの悪の災いだ。しかし専制政治ほど恐ろしいものがあろうか。無政府
   状態で数百名が命を失うことはありえるが、これに反し専制政治は数百、数千万の人名が殺戮される。それでも
   あらゆる不安と罪悪と不幸は終わるすべをしらない。アナーキはしばらくの間の災いであるけれども、暴政はほと
   んど不死身に近い。’

       ゴドウィンにとって正義とは決して抽象的なものではなく、人間と人間の結び付かせ方を決定する行為の法則
   だというのである。言い換えれば、自分と他人が連携関係を持ってある行為をする場合、その行為が相手に役に
   立つようにするだけでなく、自分と他人を含めた全体に利益になるように行動するのが正義というのである。
    一方、正義は常に全体を有益にさせるという功利的名分を重視する。そのため自分の人格と財産は人類全体の
   ために保管しているのだと考える。これにゴドウィンはロック以来のイギリスの伝統的な思考方式により正義を
   最も実用的に定義し、このような正義の実現へ人間を完全に導く3種類の方法として、第一に文書による正しい
   知識の普及、第二に白紙状態のような子供の心の中に早くから偏見のない原理を植え付ける教育、第三に人間が
   日常生活をするのに要求される社会制度を正すことを挙げている。

       一方、正義の物差しで当時の政治、法律、財産その他すべての社会制度を分析し検討してみると、どれひとつ
   として正義の原則に基づかないものはないというのがゴドウィンの指摘である。彼はまず正義に反する政府制度に
   対しこう述べている。“政府はひとつの害悪的存在である。人類の個人的判断や個人的良心を混乱させる一つの
   侵略者である。だから、たとえ我々が現代生活においてどうしてもその存在を認めないわけにはいかないとしても、
   それを最小限の範囲にとどめることが必要である。”彼は専制政府であろうと共和政府であろうと区別せず、一律
   に“すべての政府はある程度ギリシャ人たちが暴政と名付けたものに該当する。”と述べ、政府という制度自体に
   ついて非難を浴びせている。“社会と国家はそれ自体互いに異なるものであり、その起源も異なっている。社会は
   我々の必要によって生じたものであるが、国家は我々のゆがんだ悪によって生まれたものである。社会は常に福祉
   的であるが、国家はもっとも良い状態の場合でさえ必要悪にとどまる。”


       次に、法律についても彼は峻厳な判決を下している。
   ‘法律は最も有害な性質の制度である。第一に法律は作り始めればきりがない。一度作られた法律は改定するまで
   効力はあるけれども、人間の行為は絶えず変わる。そのため法律は絶えず改定しなければならず、種類だけ限りな
   く増え、そのため不安定で不確実になってしまう。さらに悪いことは、法律というのは例示的性質をもっており、
   人間の行動を前もって記録しておいて、その行動を裁決しようとする。そのため個人の意見の自由を妨害し、理性
   を踏みにじる。’


     以上のような理由でゴドウィンは法律を否定し、その替わりとして理性の原則を掲げた。これによって彼は、
  ‘立法者は未来に対し命令する!’と大言したジャコバン主義者をはじめとした法律万能主義者に完全に背を向けた
   のである。

      しかし、‘政治的正義’という家を建てるためにはこれだけでは不十分である。その土台となる財産制度を改革
   しなければならない。彼は私有財産制度を批判し、それは人間を卑屈な感情に駆られるようにさせ、絶え間ない
   不正義の状態に追い立てると同時に、人間らしい希望の喪失、知識の発達の阻害、犯罪増加、人口増加の妨害、
   戦争の原因提供等一様に良いことはないとして私有財産制度を否定し、財産の平等分配を主張した。平等な分配と
   言っても数量上の平等という意味ではなく、それをますます必要とする人、あるいはそれを持つことがはるかに
   全体のために利益になりうると考えられる人に必要な物を分けてやるのが正義ある財産分配法と考えた。

      ゴドウィンの著書‘政治的正義’のどこにもアナーキズムを宣言するとか、甚だしきはアナーキという言葉一つ
   さえ使用したところはない。しかし、彼が述べる正義の原則に合う社会制度という一言で、政府も法律もなく、
   私有財産も暴力の支配もない社会なのである。まさにこのような正義の社会制度こそアナーキズムの原型ではない
   だろうか。

 
    5. 集産主義アナーキズム 1(ピエール・プルードン)

       近代アナーキズムの事実上の創始者といわれるフランス人 ピエール・ジョセフ・プルードン(Prerre  Joseph 
    
Proudhon, 1809
1865) はゴドウィンより約50年後の人である。フランス革命期を前後して活動したゴドウィン
   の関心が政治的啓蒙に重点をおかれていたとすれば、産業革命に火がついていた19世紀半ばのプルードンは、
   経済的、社会的変革運動の側面に関心をもって登場するのである。当時、新しい社会秩序を樹立しようする社会
   思想の潮流は、シェン・シモン、フーリエ、ロバート・オーエンによる初期のユートピア的水準から脱却し、本格
   的な社会主義運動に入ろうとする段階にあった。この時点(
1848)で、ある貧農の息子として生まれ印刷工として
   働いていたプルードンが突然、‘財産とは何か’という本に‘財産は盗賊行為だ’という副題をつけて世に出した
   時、そしてその余勢を駆って自分の主義主張を逆説的に‘アナーキズム’と自称し出した時、誰が驚愕しなかった
   ろうか。


      この処女作でプルードンが‘財産は盗賊行為だ’とまで猛攻を加えたのは財産それ自体に対してではなかった。
   自分自身は何の努力もせずに他人の労働を搾取する人の財産を公然と非難したのだった。しかし、もし生産手段に
   おける所有が平等を破壊し、正義を侵害するものだとするならば、われわれは財産そのものに対してだけでなく、
   財産に基づく社会制度に対しても再検討する必要があるが、代案として浮かび上がるのがまさしくカペやオーエン
   が共同体を設計して考えた共産主義である。しかし人間は社会的であり、平等を求めながらも自主と独立を希求す
   る本能の存在ではなかろうか。そのような制度の下での財産はまた別の極端に走り、‘独占と増殖の権利によって
   平等を侵犯し’特権をもつ少数者が権力を獲得するのを助ける結果になるのである。要するに私的所有とか独占的
   共有ないし国有の制度を撤廃して、一時的使用権を中心とする占有(所持)から始まり、次第に共有の方向へ移行
   していかなければならないというのがプルードンが考える改革の構想だった。

      独学の哲学者であり、孤独な個人主義者として知られるプルードンは“私の良心は私のものであり、私の正義は
   私のもの、私の自由は最高の自由である。”と述べるぐらい‘個人的自由’を最高の価値と考えた人間である。
    しかしながら、社会的自由のない個人的自由というのは考えられないと信じるのが彼のまた別の一面だった。
   個人的自由と社会的自由!
一見、二律背反的なこの両者の矛盾から同時に抜け出すための処方を、彼は自由交換と
   いう契約原理から求める。契約という考えは支配という考えを排除する。契約を結ぶ当事者間には相互間に真の
   個人的な関心が必然的に伴う。人間は誰でも自分の自由と収益を同時に入手することを目標に交渉するからである。
   この原理の一般化、すなわち自由な個人間の自発的な理解に基づいた網状組織に社会を変化させていく時、この
   社会には支配に対するどのような必要もなくなるであろうし、アナーキの相互主義秩序が根付くようになるだろう
   というのが彼の主張である。

      そうとすれば、アナーキの相互主義秩序の中での自由で公正な交換の価値基準をどこから求めるのであろうか? 
   プルードンはこれに対する答えをアダム・スミスが《国富論》第1章で‘労働は価値基準の真の尺度’と述べた
   ところから求める。すなわち、人間というのは本来労働することで存在するものである。そのため労働こそ人間の
   本質だというのである。アダム・スミスがいち早く唱えはしたものの、かえりみないこの貴重な命題を理論に仕上
   げて日の目を見るようになったのは、カール・マルクスとともにプルードンによってであった。マルクスは私的
   唯物論に結び付けて階級闘争理論として駆り立てて行ったが、プルードンは彼とは根本的に観点が異なっていた。

      “労働とは無から有を作るものである。この仮定によって人間は神と対等になった。・・・・資本を創造する
   のが労働であることから労働者こそ真の資本家と言うべきである。なぜなら、働くということは無から有が生産
   されることを意味するので、生産が伴わない消費は資本を作り出すことができないために、むしろこれを破壊する
   ことになる。そうしてこれが新経済学の第一原理になり、資本がない労働者に対する希望と慰労に満ちた原則に
   なり、居候者や居候を手段にする者には恐怖に満ちた原理になる。”

      このような原理によって、プルードンは次のような結論を導き出す。即ち、人間は誰でも自分が生産した価値と
   同じ量くらいの物を互いに交換して持つことができるのである。そうするのが正義にかなう方法である。一方、
   その具体的実践方法として彼は、当時ヨーロッパ各国が使用していた金や銀本位貨幣の代わりに労働権方式を提起
   する。各種の生産連合体は生産物を原価で譲渡し、労働権で報酬を受けた労働者は交換所または連合体の売店で
   労働時間で計算された原価で物品を購入するのである。実際この方式は既に数年前、イギリスのロバート・オーエ
   ンが労働運動、協同組合運動を行いながら‘衡平労働交換所’理論とともに導入した方式でもある。

       要するにゴドウィンは、もっぱら財産の配分面に限ってだけ正義を論じ、プルードンに至っては問題を扱う方式が
   ずいぶん広いが総括的になる。資本主義がすべての人間に等しく満足を与えることに失敗し、正義にそむく理由は
   この公正で自由な価値の交換を様々な特権で除外し、そのため金持ちはますます金持ちになり、貧乏人はますます
   貧乏になる現象を生じさせ、社会にいざこざと分裂をもたらしたのである。


      1843年 プルードンは債務関係で直接経営していた印刷所の門を閉め、リヨンに進出し、昔の学友が経営
   する水上運送会社の経営事務を助けることになった。ここで仕事するようになって以来5年間、彼は片時も文筆
   活動を怠らず、たびたびパリに立ち寄る機会を利用して、今後の自分の生涯やヨーロッパの社会主義とアナーキ
   ズム運動に重要な役割を演出することになる多くの人たちと出会い、親交を結ぶようになった。その中でも
   1844年知り合いになったロシア人 アレクサンドル・ヘルチェン、ミハイル・バクーニンは、彼の人格と
   思想の影響を最も多く受けた後継者であり、終生同志になった者であった。その他、ヘーゲル左派に属する多くの
   ドイツ亡命客たちとも出会った。その中には彼の著作をドイツの読者に紹介する仕事を共に手伝ったアーノルド・
   ルケとカール・クルンがおり、当時膨張一路にあるフランス産業革命の中心地
リヨンにいる間、プルードンは彼の
   余暇を主にそこの手工業労働者の集団と交遊して過ごした。その中には1831年と1834年の蜂起に参加した
   老練な煽動者たちが導く織物労働者の秘密結社もあった。彼は彼らの活動を通して、最も貧しい階級の民衆の中で
   こそ社会改革運動が起こりえるという自分の思想を確認することができた。彼らは第一に経済変革を遂行しなければ
   ならないという彼の見解に共感し、自由契約による連合という手段によって社会を再組織するという彼の相互主義
   教義に同調した。このリヨンの相互主義地下組織との交際をはじめとして、周辺50マイルの近隣農村労働者のグル
   ープにまで彼の行動範囲が拡大されたのである。その中でまたさまざまな社会主義的分派間の調整者としての役割を
   する中で、彼はリヨン地域労働者たちの広範な連合という思想に対して非常な注目を集めることに満足したという。

     1848年の2月革命に際してプルードンはリヨンの職場を辞めてパリに出て来て、作家生活をしていた。暴動が
   真っ盛りの時、彼は群衆と一緒に宮殿侵入に参加してバリケードの構築を手伝い、徴発された印刷所で革命会議の
   ためのプラカードを作成した。その過程で彼は「人々はこうという思想も持たず、向こう見ずに革命を起こした」
   という結論に到達した。それでも勝利したのは革命が強力だったからではなく、君主政治が脆弱だったからである。
   「運動の方向を定めるのが必要だ。しかし、私はもうそれが議論になる前に波の下に沈没したのを見る。」 彼は
   この欠如した思想と運動の方向を準備することが自分の任務だと考え、そのことにとりかかった。1848年の
   革命期と1949年の反動期に彼の活動は、主に3種類の冒険に集中していた。即ち、1848年2月7日の
   《民衆の代表者》
Le  Representant  du  peuple 誌の第1号から始まる一連の定期刊行物の発行、民衆銀行と相互
   主義的交換組織制度の試験、そして1848年6月の補欠選挙で当選し、憲法制定議会で経験した幻滅的騒動が
   それである。

       “生産者とは何であろうか。無である。・・・・彼は何でなければならないだろうか。すべてである。”
    
《民衆の代表者》誌がアナーキズムの最初の定期刊行物として掲げた旗じるしはこれだった。プルードンはどの
   政党や派閥にも属さず、独自性を誇示しながら、革命の真の目的や革命家の誤りを指摘することを目標にする
   独立批評家の立場をとった。彼を支持してくれたのは大部分が彼と同じ少数の献身的な印刷労働者同志であった。
   このアナーキズム新聞が直ちに成功として現れるのは、彼の峻厳な文体により強化された独立的な姿勢のためだ
   った。1848年に書いたプルードンの記事の一環した論題の一つは〈プロレタリアは政府の援助なくプロレタ
   リア自身を解放しなければならない〉というものだった。彼はこれを普通選挙という神話に対する公然たる非難と
   結び付けた。当時すべての人々は、史上初めて実施される総選挙がまるですべての社会的疾患を治癒してくれる
   万能薬でもあるかのように陶酔していた。しかし、プルードンは経済的変化を伴わない政治的民主主義が安易に
   落ち着く所は、進歩よりむしろ後退であることを指摘したのだった。

       革命的楽観主義が最高潮だった1848年4月、既に今後1年以内に起こる情勢を見通したという点で、彼は
   ほとんど唯一人だった。共和国が自己防衛のため作り出したまさにその普通選挙という手段によって、皇帝ナポレ
   オンの甥
ルイ・ナポレオンを大統領に選出したことにより民主主義を葬ってしまったわけである。そのような
   洞察力をもったプルードンが二律背反的に選挙に二度も出馬した末に憲法制定議会に進出するとは謎でないはずが
   ない。彼は1回目の4月選挙では少数票差で破れたが、6月の補欠選挙で7万7千票で当選した。プルードンが
   議会に進出した目的は、民衆銀行設立に必要な政府の支持を受けようとする希望からだったのである。しかし、
   社会主義者の閣僚
ルイ・ブランの協力を受けることに失敗し、彼の前に残ったのはただ幻滅だけであった。

    “私は議会というシナイ砂漠に足を踏み入れるやいなや、大衆と接触が断ち切れた。そして私の立法上の任務に
   没頭した余り、私は全く諸事件の動向を見間違えた。”

   と彼は1年後に《ある革命家の告白》
La  compessions  dum  revolutionaire で回想した。その間にプルードンは
   ルイ・ブランが推進した国営作業場など社会主義的改革案がことごとく失敗に帰するのを見ても、ついに彼の本格
   的な社会改革案であるフランス銀行を無償信用機関である交換銀行に改組する法案を議会に提出した。彼は自分の
   目的を‘収入の廃止により財産を占有権に変更する’と定義したが、財産権所有者から見る時それはびっくり仰天
   する革命的提案だった。“それは社会の戦争だ”と怒った保守主義者たちは怒号した。結局この法案が2対691票
   の絶対多数で否決されると、プルードンは独自に民衆銀行を組織し国立銀行に挑戦する決意を固めた。

       1849年1月に発表した民衆銀行宣言文には次のような文句がある。即ち“民衆銀行は単に財政上の公式で
   あるとともに、近代民主主義の原理、人民の権威、共和国のモットーである自由、平等、友愛に対する経済的領域
   の実現に過ぎない。”
一方、この計画は労働権に基づく労働者間の生産物交換を作りだし、経営費用に充てるため
   のわずかな利子率で信用を供与する制度になるものだった。このような手段により独立した手工業者、農民、労働
   者連合の網状組織が生まれるようになっていた。

      その一つの例として民衆銀行の約款には生産、消費組合など協同組合運動についてまで詳細に規定している。
   こうして民衆銀行設立のニュースは全フランスにセンセーショナルを引き起こし、2月に銀行が開店するやいなや
   加入者が一度にどっと押し寄せて、瞬く間に2万7千の会員で引受株式金額が3万6千フランになったという。
   流通券の印刷など銀行創立の手続きが終わり、本格的な業務に着手しようとする頃、主役のプルードンがきわめて
   偶然な筆禍事件で議会から議員職を剥奪され政府によって逮捕されるや、銀行はこれ以上続けていくことが難しく
   なり、開店2ヶ月で解散せざるをえなくなった。偶然な筆禍事件とは、その間《民衆の代表者》の廃刊(それもまた
   筆禍事件で)に次いで11月から新たに創刊した《民衆》
Le  People 誌にプルードンが新たに選出されたルイ・ナポ
   レオン大統領を‘反動の手先であり、権化であり、民衆を隷属させることを画策している’と非難したことを指して
   いる。
民衆銀行運動がこのようにしてとんでもない結末になってしまったことを惜しんで、プルードンは後日次の
   ように回顧している。

       「無限信用の原理が実地に応用され発展することができなかったが、少なくとも民衆銀行として意志が集まり、
     具体化されて一般民衆の意識上にくるくる舞っていた1849年の1月、2月、3月の3ヶ月は私の生涯の
     中で最も平和な時期だった。私は常にこの時期に対して、それがどんな運命を私に付与しようと、私の最も
     栄誉とする公的活動時期だったと自負するものである。民衆銀行を活動の中心点として、抑圧された人民が
     政治的陰謀や煽動の圏外に立ち、平和な事業に直結して組織を成す。これこそ新天地だった。約束された新
     社会だった。」

      プルードンは新聞紙法違反で禁固刑3年の言い渡しを受け、彼の唯一の武器である〈民衆〉誌などアナーキスト
   新聞も続けて閉鎖措置をとられ、これ以上活動することができなくなった。このような状況で、1850年在獄中、
   ある商人の娘と獄中結婚し娘まで生まれると、それ以後これ以上社会活動を断念し、もっぱら執筆生活にのみ専念
   した。彼が獄中で書いたアナーキズム関連の重要著書として《ある革命家の告白》、《19世紀における革命の
   一般的理念》
The General  Idea  of  the  Revolution  in  the  19th  Centry  1851、《革命の正義と教会の正義》De
   
la  Justice  dans  la  Revolution  et  dan  LEglise  1858 がある。《告白》は2月革命以後の諸事件をアナーキ
   ズムの観点から整理したものであり、《理念》は1789年のフランス革命はわずか半分しか成就できなかった
   ので、革命は19世紀の必然的な課題だと論じたものである。《革命の正義》は超越的・内在的正義と革命的・
   実践的正義を対比分析する形式をとった本であり、発行して以来1週間で6千部が売り切れる成果をあげたが、
   この本により彼は再び告発され罰金4千フラン、3年禁固の宣告を受け、ベルギーに亡命したのである。
   1860年特赦で帰国し、1865年に亡くなるまで5年間、彼が最後に残した記念碑的著書として《連合主義
   原理》
Du  Principe  fe  de  ratif  1863 と《労働者階級の政治的能力》De  la  capacite politique  des  classes  duvrie 
    
res  1864
 がある。

      《連合主義原理》は1860年を前後して急速に進行していたイタリア、ポーランドなどのヨーロッパ民族主義
   運動の害毒を予見し、その対案として連合主義の道を提示した指針書的な著書である。この著書によってプルード
   ンが基本的に意図したのは、アナーキズムに対する彼の考えを経済的・産業的関係の分野から世界という全人類
   社会へ突き進めるところにあった。彼は連合制をアナーキという究極の志向するところに向かって行く一つの段階
   と見たのである。そこまで到達しようとすれば数世紀がかかるであろうし、連合制とアナーキとの双方の根本を
   下支えするものは‘自由と良心に直接基づく公的秩序’であると考えた。彼によれば、連合の原理は社会の最も
   単純なところから作用しなければならない。地域から始まる生活組織は可能な限り、民衆の直接自治に近くなけれ
   ばならない。個々人はコミューンや組合に連合することによりこの過程に入る。このような基本的な基盤のうえに、
   連合組織は行政機関であるより地域間の調整機関でなければならない。こうして国家は地域内の地理的連合として
   代置され、それらが集まって大地域連合(ヨーロッパ連合のように)を成す。すべての連合にとっては最小の地方
   の利害も最大の地方の利害も等しく反映し、すべての問題は相互の同意と契約と仲裁によって決定されるのである。

       一方、《政治的能力》は1863年、ボナパルド政権の選挙実施に際し一部労働者たちが〈60人宣言〉を発表
   したことに対し、相互主義的、連合主義的労働運動の方向を明らかにした著書である。この著書で彼は労働者階級
   が“政治的能力を持つということは自分自身を集合体の一員として見る自覚を持つことであり、この自覚から出て
   来る理念を拡充することであり、またその理念の実現を追求することである”と宣言し、フランスのプロレタリアが
   この3種類の条件を充足させ始めているということを賞賛した。続いて彼は階級意識に目覚めた労働者階級が今後
   志向しなければならない理念は相互主義、即ち平等主義の基盤の下に社会を組織することを目的とする進歩的性格
   の方向でなければならないと釘をさした。その実現は連合主義を通して達成される。連合主義は民衆の真の主権を
   保証するはずである。なぜなら権力が下から発生し、一般の意志を実行するための調整役割をする各種団体に統一
   される‘自然の基礎集団’に基づくためである。


      この組織の敏感性はどんな代表でもすぐに解任することができるところから確保されるものである。このような
  ‘自然な基礎集団’は村、職場のような単位組織を基礎にして政治的国家は消滅し、社会的、経済的管理の網状組織が
   代置される。こうして法律の代わりに契約が、警察の代わりに利害の完全一致が、また政治権力の中央集中の代わ
   りに経済的中央集散化の社会を持つようになるのである。彼のどんな著作よりも《政治的能力》は、フランスでの
   労働運動ばかりでなく、センディカルリズムを通じてヨーロッパ及び南北アメリカのアナーキズム発展に影響を及ぼ
   したプルードン最後の力作である。



 

        6. 集産主義アナーキズム2(ミハイル・バクーニン)

       プルードンの後に続き1860年代のアナーキズムを集産主義の方向へ形を備えていくのに先頭に立ったのは、
   ‘総破壊’の急先鋒であると同時に革命の化身としてより多く知られるミハイル・バクーニン(
Michael  Bakunin 
      
1814
1876)だった。ロシアの土地の貴族の家に生まれたバクーニンは、かつて砲兵士官としてポーランドで
    勤務していたが、その後軍隊を辞め哲学、特に当時流行していたヘーゲル哲学を勉強するためベルリンに出かけ
    た。この頃からバクーニンはドイツの急進分子たちと親しくしながら次第に革命に関心を向けていった。彼は再び
    
1843年から1848年までヘーゲル左派の青年たちとともにパリへ移った。パリは当時あらゆる革命思想の展示場を
    連想させるほど、社会主義やアナーキズムの将来において重要な役割を演出することになる人々がみんなここに
    集まってきており、実際彼の生涯の運命がここに滞在している間に決定されたと見ても過言ではない。レレベール、
    ジョルジュ・サンド、ピエール・ルル、カペ、ラムネなど多士済々と出会い、彼がプルードンやマルクスと知り
    合いになったのもこの頃である。特にプルードンとは
1844年の初対面から意気投合し、何日も夜を明かして討論
    したことが漠然とではあるが彼の革命主義思想の形成に重要な作用を及ぼしたとみられている。

        一方、マルクスとの関係は最初から悪縁だったようである。パリ滞在中、ロシア大使館が郊外でバクーニンを
    自分のところのスパイ引揚げデマを流して彼を苦しい立場に追い込んだことがあるが、マルクスがこれを悪用し、
    バクーニンに傷を負わせようとしたのである。幸い、フランスの女流作家
ジョルル・サンドの証言でマルクスの
    企図は失敗に終わったが、バクーニンとマルクスの二人の個人間の対立は既にこの時から始まっていたのである。

        バクーニンはどこに行ってもじっとしておくことができず、常に一幕の騒動を繰り広げては満足するという
    行動をとった男だった。さらに前後のみさかいない行動が多く、‘奇怪なロシア人’というあだ名までつけられ
    たほどだった。彼がまず最初にかかわり始めたのは社会主義とはやや距離がある東ヨーロッパのナショナリズム
    運動であった。彼は当時のウィーン体制の支配から抜け出そうと独立運動が活発に繰り広げられていたポーランド、
    チェコなどを東奔西走しながら、汎スラブ連合運動を発展させようとした。1848年前後、彼の周辺状況から
    見て、おそらく社会革命の次元でスラブ各国の連合を試みたものであると十分解釈できる。ともかくバクーニンが
    スラブ民族の解放問題に全霊を傾けている頃、1849年3月ドレステン(ドイツの小共和国)で民主的連邦ドイ
    ツのためのフランクフルト憲法制定を拒否するサックスニ(ドイツの一小共和国)王に対抗して蜂起が起こった。
    何ら直接関連のないこの革命運動に、バクーニンがいきなり割り込んできて陣頭指揮を背負ったのであるが、サッ
    クスニ王を助ける優勢なプロシア軍に破れ逮捕されたのである。その後再びオーストリアやロシアへ身柄を引き渡
    され、続けて3回も死刑宣告を受けたが8年間生き抜き、全身
()せこけるほど酷烈な獄中での苦労を味わった後、
    シベリアへ配流された。

    1849年に逮捕される当時のバクーニンは社会主義運動圏内で自分が遂行しなければならないことを探す
    のが難しく、そのため汎スラブ主義のような当面する民族主義運動に没頭しもしたが、その渦中でも彼はイタ
    リアのマチーニのような国民国家樹立を志向する民族主義者ではなかった。前にも述べたように、彼は民族主義
    を連合主義と結び付けてスラブ連合主義というか、一種の連邦組織を構想していた。これは彼が既にアナーキズ
    ムに傾倒していたことを物語るものであるが、そうかといってプルードン主義を受け入れたとみるのは困難で
    ある。連合主義のようなものは明らかにプルードンの影響とみることができるが、バクーニン自身はプルードンが
    ‘体系的な手続き’を踏んで平和的に社会問題を解決しようとする方式に満足することができなかった。彼は
    はじめからこの問題の解決は激烈な力と力の対決、即ち現在の秩序を根本的に破壊する道しかないと考えていた
    のである。
     このような思想に傾くようになったのは、何よりもすぐ目の前の問題に目をつぶって見過ごしていくことが
    できない彼の性格によるのが大きい。さらに彼は各地を放浪しながら民衆と支配階級間の激烈な闘争を目撃し、
    またこのような闘争にはそっぽを向きながら不作法な行動で時を送っている国民議会の行う様を観察した結果、
    自ずから会得したものである。1948年、チ・ヘルベクに送った手紙に次のような句節がある。即ち、
    「・・・・私はアナーキを恐れず、これを心から希望する。・・・・われわれがいつまでもぶらぶらして、
     これといったこともせずに一生を過ごさなければならないこの地位を力で脱出するようにしてくれるのは
     ただアナーキ以外にないためである。」 実に彼の総破壊思想が明確に形態を現わした部分である。
  

        バクーニンはシベリア流配生活中、そこの総督だった従兄のムラビエフの助けで脱出に成功、日本を経てアメ
    リカを経由し実に12年ぶりにもとの活動場所であるヨーロッパに再び現れた。そうして革命活動を再開し、
    〈国際同胞団〉〈国際社会民主同盟〉などの秘密結社を組織する。その構成員がどのくらいにのぼったかについ
    ては明らかではないが、バクーニン自身は全ヨーロッパの革命を指導するためとしては自分を含めて‘強固で
    徹底して団結した革命家100名’さえいれば足りると述べたところをみると、それほど多くの数ではなかった
    ようである。そうとするとバクーニンが言う目覚めた少数者の革命的行動とはどのようなものだったであろうか?
    他でもない現存する秩序の‘完全な破壊’であり、暴動がまさにそれであった。このため革命家は‘毎日毎日
    死ぬことを覚悟していなければならない’とし、‘拷問に堪え忍べるよう慣れておかなければならない’とバク
    ーニンは彼の〈革命家の教理問答〉を通じ、強調しているのである。実に3度も死刑を宣告され、8年余りの
    荒涼とした獄中の労苦で鍛えられたバクーニンの面目が
(うかが)知れる文言である。

         しかし、バクーニンは革命においての少数前衛組織が‘完全な破壊’以後までを心配する必要はないとし、
    心配してもいけないと断固として一線を画している。新しい社会の建設はどこまでも民衆の務めであるので、
    民衆の自主的運動に一切委ねなければならないというのである。まさしくこの点がマルクス主義の前衛党概念と
    区別される点である。そしてバクーニンの革命思想の特徴は革命家の前衛組織による破壊活動と、その破壊以後
    を担当する民衆の建設活動をはっきりと区別して、二重構造の性格を帯びるようにしたところにある。それなら
    ばバクーニンはどの方向からどんな方法で破壊以後、即ち建設的革命が進められなければならないのだろうか? 
     まず、彼の著書《神と国家》
Dieu  et  LEtat  で彼が革命思想の出発点と言う自由についてどう定義している
    かから探ってみることにしよう。
  

       「人間の自由はただ彼が自然の法則に服従するということで成立する。それは彼自身がこの自然の法則がそうで
     なければならないということを認めるためである。そしてそれは神であろうと、人間であろうと、集団であろ
     うと、個人であろうとにかかわらず、なんらかの外部の意志によって強制されたものではないからである。」

      ここで注目しなければならないのは、自然の法則に対するアナーキズムの伝統的観念と、自分が認めたもので
    なければたとえ自然の法則に服従するといっても自由でありえないという強い個体的自主意志を強調した点で
    ある。ここでバクーニンは一歩進めて唯物論的に自由と生産を結び付けて定義する。

       「人間は社会においてのみ、または社会全体の共同活動によってのみ人間を形作るものであり、または人間性を
     自覚して実現することができるのである。人間は共同的、即ち社会的な労働によって始めて外的な自然の束縛
     から自己を解放することができる。社会的労働だけが地球の表面を人間性の発展に適合する場所として改革する
     ことができる。この物的解放なくしては知的、道徳的解放はすべて不可能なのである。」

         続いて彼は人間と人間の関係における自由に対しても、「周辺にいるすべての人(男女を問わず)の人格の
    尊厳性と自由を認める限り、私もまた自由でありえる。他人の自由こそ私の自由を制限したり否定するどころか、
    むしろ私の自由の必要条件になり、それを確認してやることになる。」と述べて自由の本質に迫っている。
     まさにこのようなことから「われわれは社会主義のない自由は特権であると同時に不正義であり、自由のない
    社会主義は奴隷制であると同時に野蛮だと確信する。」という有名なバクーニンのテーゼまで登場するようにな
    ったのである。要するに自由と社会主義が互いに結び付くところから始めて双方が共に完全になるのである。
    したがってこれこそバクーニンが志向する彼の思想の本質と言うべきであろう。彼が好んで使用する‘下から
    上へ、周辺から中心へ’という組織方式とか、集産主義の名前で呼ばれる生産手段の社会化という考えも、さらに
    彼の思想の特徴としてマルクスと激烈な論争を呼び起こした国家廃止の綱領もすべてこの方向に結び付かせて打ち
    立てられた原理の具体的表現だったのである。彼は権力欲が昔から人間を蝕む恐ろしい疾病であることをよく
    知っているため、「我々はもちろん真摯な社会主義者であり、革命家である。しかし、たとえ数ヶ月のごく短い
    期間ではあっても、我々が権力を握れば我々はもはや今日の我々ではないだろう。」と警戒している。それで
    ‘下から上へ、周辺から中心へ’という自由連合主義の組織方式に従い、権力の集中化を未然に防止しなければ
    ならないのである。

       そうだとすれば下から自発的に沸き上がる民衆によって、今後どんな組織が生まれるのか? これについて
    バクーニンは労働者、農民の職場組織とその連合体、そして市・邑・面を中心とする地方自治体とその連合等
    両方向の組織を考えた。この二重組織はすでにプルードンにも見ることができたものである。プルードンの場合
    はこの両者がうまくかみ合わない欠点があったけれども、バクーニンの場合は二つの組織を貫徹する根本原則を
    持ち、両者が一つに結ばれたのだった。
その根本原則が他でもない生産手段の社会化(彼は集産化と呼んだ)と
    いうものである。バクーニンは早くから経済問題が政治、宗教、文化などすべての人間生活の根底をなすと見た。

     「富は今も昔も常に権威、権力、知性、知識、自由のようなすべての人間問題を実現するのにとって欠くこと
    のできない条件である。」 こうしたことからバクーニンは特に富の所有と政治権力の関係を追い求め、「政治
    権力と富は不可分の関係にある。権力をつかんだ者は富を獲得するための手段を持っており、それを勝ち取るため
    全力を傾ける。なぜなら富なくしては権力を維持することができないからである。富を持っている者は強くなら
    なければならない。権力なくしては富を奪われるおそれがあるためである。」という。


        この権力と富の輪を断ち切るためにはどうしなければならないか? そのためには富、特に生産手段の私的
    所有を廃し、それを実際の生産担当者である労働者や農民の自主的団体の連合に帰属させなければならない。
    これがバクーニンのいわゆる集産主義である。今日では集産主義であろうと共産主義であろうとすべてが国家に
    よる経済の権力統制を意味するものとなってしまったが、バクーニンの時代には共産主義だけが国家による経済
    統制を志向する思想と解釈されたために、それを避けてバクーニンは集産主義と呼んだのである。

        「私は共産主義者ではない。・・・私は集産主義者だ。・・・私は共産主義が自由を否定するものであるため、
    それを嫌う。・・・私は共産主義者ではない。なぜなら共産主義は社会のすべての力を国家に集中させて吸収する。
    こうして国家の手中に財産を集中させることは避けられない。しかし私は国家の廃止を願う。」

         集産化した生産手段を国家の手中に委任するのか、そうでなければ労働者・農民の団体連合に渡すのかという
    のが共産主義と集産主義、マルクス派とバクーニン派のもう一つの争点だった。バクーニンから見るとき、国家は
    財産の私的所有と切っても切れない関係なので、私的所有を廃止すれば自ずと国家も廃止されるものであり、国家
    権力が打倒されてしまえば私的所有制もやはり支柱を失い倒れてしまうものであった。そのため国家という集権的
    な権力機関の手に生産手段を委ねるのは方便としてでもこれを許容してはならないことであった。なぜなら、前述
    したようにバクーニンは権力が人間に及ぼす破壊的影響をよく知っていたので、生産手段を一時的にせよ国家権力
    の元に委任することになれば、やがてそれが権力者の私的所有に転化され、支配と搾取の制度が再び復活するのを
    洞察したのである。

      これと関連して、バクーニンは最初から議会主義に反対し、政治革命(政権獲得のための運動)が社会革命に
    先行しなければならないとするマルクス派を非難し、「私としてはそれこそ運命的なほどの重大な過誤だと思っ
    ている。なぜなら社会革命に先行してそれとは別個に発生するすべての政治革命は、必然的にブルジョア革命に
    なるからである。」と咎めている。

        彼は1869年初めて第1インターナショナル(国際労働者協会 International Association of Working man )に
    ジェネバ支部の名前で参加し、プルードン派の後退で替わってアナーキズムを代表する勢力としてマルクスの
    権威主義的社会主義と激突した。ここでの主要な争点は既に述べたように国家問題、議会問題、権力問題、農民
    問題等であったが、バクーニン主義を支持したのは主にフランス、イタリア、スペイン、スイス、ロシアなどの
    代表たちであった。インターナショナルでのこの激突は1871年のパリ・コミューン事態で一時中断された。
     バクーニンはこの時フランス全体に革命を誘導するためリヨンに潜入し蜂起を画策したが、思うようにいかず
    大いに失望してスイスへ逃れた。パリ・コミューン敗北の翌年である1872年、インターナショナル大会が
    ハーグで再び開かれた時、マルクスはバクーニンをはじめとしたバクーニン派の人士が出席できないのに乗じて
    彼らを皆除名させてしまった。しかしバクーニンはこの決定に屈せず、自由連合の原則に基づいた新しいインタ
    ーナショナルの結成大会をスイスのサン・ディミエで開催した。バクーニンももちろんこの大会に参加したが、
    その後気力が急速に衰退していき、事実上運動の一線から後退し、1876年死亡した。

 

       7. アナルココミューン主義(ピョートル・クロポトキン)

      1870年代後半以来アナーキズムの本拠地 ジュラ連盟にバクーニンとほとんど交替するかのように登場し、
   バクーニンの革命思想を現代科学の基礎の上に積極的、建設的に継承発展せた人物がピョートル・クロポトキン
   (
Pyotr Alekseyevich Kropotkin  18421921)である。即ち彼は、バクーニンの集産主義的基本ビジョンを逸脱
   しないものの、その訓練された学問的素養と心魂傾けた労作に基づき、アナコミューン主義理論を現代アナーキ
   ズムの中心思想に体型化させたのである。


       同じロシア出身でありながらも、烈火のような行動的気質のバクーニンとは対照的に、クロポトキンは極めて
   穏和であり、楽観的な天稟に加え独創的な思想の持ち主だった。彼のこのような聖者のような風貌からして彼は
   バクーニンと同様、生涯の全盛期数十年を亡命生活で送りながら、西欧の人々の一般的なアナーキズムに対する
   嫌悪的・否定的イメージを着実な理想主義的社会変革理論に改善するのに大きく寄与したのは事実である。


      ロシア貴族の子弟に生まれ、19才で近衛学校を卒業し士官になったが、コザック騎兵連隊に配属されることを
   志願してシベリアに駐留しながら、アムール川沿岸の自然環境踏査に没入し、26才で軍を辞めた後は地理学研究
   のためペテルブルグ大学の数理科に進学する一方、この時から新進地理学者としての名前を出し始める。
    この頃彼がシベリアから北満州、フィンランドからスウェーデンなどを踏査して目撃した自然と民衆の生活状態
   に対する体験が、後日彼を社会主義者にさせるのに大きく寄与したという。

       クロポトキンが革命運動に足を踏み入れたのは1872年、彼が31才になった頃である。この時彼は西ヨーロ
   ッパを旅行しながら、スイスに滞在中ジュラ連盟のジャム・キーオムなどを知るようになり(バクーニンには会え
   なかった)、意気投合して国際労働者協会会員として加入した。帰国後、ナロードニキの団体の中で最も有名な
   チャイコフスキー団の一員として積極的に宣伝を始めた。1874年、この運動が政府の弾圧で挫折しクロポトキ
   ンも逮捕されて、ピョートル・パベール監獄に投獄され2年の獄中生活を送った後、脱獄に成功、イギリスへ亡命
   した。
    イギリスから再びスイスへ移住したクロポトキンは、1881年スイス政府によって国外追放されるまで5年間、
   ジャム・キーオム、プル・ブルースなどと共にジュラ連盟の《会報》
Bulletin, 《前衛》L Avant-garde ,《反逆者》Le 
    Revolte
などの行動的アナーキズムの指導的機関誌の編集、刊行業務の面倒を見た。このようにクロポトキンは、
   当時のアナーキズム運動の本拠地だったジュラ連盟の直系要人になりながら、良かれ悪しかれ山里人の閉鎖的な
   雰囲気に囲まれたところから来る影響を多く受けたようである。良かった点といえば、最も純粋なアナーキズムの
   精神が身体にしみ込み、バクーニンなどによって培われた行動的アナーキズムの伝統を正しく受け継ぐことができた
   ということであろう。良くなかった点といえば、以前は寛大だった彼の心性が大いに狭隘になり、民族的偏見とか
   思想的ドグマのようなものが彼の生涯に知ってか知らずか常に作用したという点であろう。

       1881年、スイスから追放されたクロポトキンはしばらくパリにいてその後イギリスへ渡ったけれども、度が
   過ぎて無気力なロンドンの雰囲気に嫌気がさして再びフランスに戻ってきた。折しもリヨン近くで発生したストラ
   イキ、特にモーンソレミン鉱山の暴動事件にかかわって逮捕され、フランス監獄に監禁された。


      この事件で彼は何の関係もなかったが、次第に活発になっているアナーキズム運動を事前に制圧しようとする
   フランス政府が、鉱山労働者の暴動を口実として66人のアナーキストを検挙したのであるが、〈反逆者〉誌との
   関係や革命的理論家としての国際的名声などからして彼を拘留したのである。3年の獄中生活の末に特赦で釈放
  (刑期5年)された彼は夫人と共にイギリスへ渡り、以後ロシア革命で帰国するまで約30年間続けてそこに滞在した。

      1886年からイギリスに滞留した30年間余り、クロポトキンはひたすらアナーキズム理論の完成に没頭し、
   アナーキズム思想史にこれ以上ない貴重な著作物を数多く発行した。主な著書として《パンの征服》
The Conquest
    of Bread 1892,
《田園・工場・仕事場》Fields, Factory and Workshops 1898, 《ある革命家の思い出(クロポトキン
   の自叙伝)》
Memoirs of a Revolutionist 1899, 《近代科学とアナーキズム》Modern Sience and Anarchism 1901,
   
《相互扶助論》Mutual Aid 1902, 《ロシア文学における理想と現実》1905, 《フランス大革命》the Great French
    Revolution
 1909 などがある。その他に、《反逆者の提言》1885(《反逆者》誌に掲載した論文集)と《倫理学》
   
Ethics 1925(ロシア革命中に執筆した未完成作)などがあるが、イギリス亡命期間が彼の著述活動においてどんなに
   重要な時期であったかを推測することができる。


                              革命理論

      クロポトキンの革命理論にはフランス革命に対する回想が必ず伴う。彼が《フランス大革命》を書いたのも問い
   つめてみれば、大革命での民衆運動に対する愛惜の念を後世に教訓として伝えようとする心情だったのであろう。
   彼は1881年《反逆者》誌に発表した〈革命の研究〉という論文でこう述べている。

        「人々はもう革命が進化の主要な方法のうちの一つだということを推測するようになった。自然界で発生する
      どのような進化も変革なしに行われることはない。極めて緩慢な変化の次には急激な変化の時期が来る。
      緩慢な変化と急激な変化は共に進化に必要なものである。」

      革命は人為的に起こるのではなく、暴風や地震のような自然現象と同じく人間の歴史に避け得ぬべく突然現れる
   もので、革命期に個人の意志と行動は風浪の中の小舟に過ぎなくなる。それにもかかわらず、革命に直接火をつける
   のは民衆だということをクロポトキンは否定しない。これ以上がまんできないという叫び、生活に対する悲鳴、
   パンに対する絶叫が爆発する時、フランス民衆は革命の烽火を高く揚げた。彼らは否定しなければならないもの、
   打倒しなければならないもの、破壊しなければならないものをよく知っており、それを実践に移した。彼らは
   とても大胆で勇敢だった。しかし、クロポトキンは〈反逆の精神〉でこう述べている。

      「革命二日目の朝、大衆がそのように望んでも手に入れたものが空しい言葉だけならば、明らかに状況が自分たち
     に有利に変革されたということを認識することができないならば、変革が人物と信条の変化だけで終わるならば、
     結局は達成されたものは何もないのである。」

 

      クロポトキンは革命で次の二つのことが必ず達成されなければならないと考えた。第一に、革命政府を打ち立て
   ようとするどんな企ても粉砕すること。即ち、すべての悪の根元である国家を革命の名前で再び樹立する誤ちを犯し
   てはならないということである。第二は、実質的な社会的平等に向かって行くこと。これについてクロポトキンは
   パリコミューンの例を挙げて説明する。

      1871年3月の選挙ほど自由な選挙はなかった。それはコミューンの敵たちも認めるところである。圧倒的
   多数の選挙人が最上の人材、未来の人物、真の革命家を権力の地位に座らせようとした。すべての著名な革命家
   たちが圧倒的多数で選出された。ジャコバン派、フランキー派、インターナショナル派、この3派がコミューン
   議会を代表した。どんな選挙もこれ以上良い政府を構成することはできなかった。


      しかし彼らがしたことは、結局古い前轍を踏襲し旧権力がしたことをまねることにほかならなかった。クロパト
   キンはさらに悪いこととして‘革命的独裁論’を指摘した。

      

       「政府を打倒した党が政府に替わるのは当然である。党は権力を掌握してすべてのことを革命的方法で処理
      すべきである。古い制度を廃止し、国家防衛のための非常時局に突入する。革命の前進のために要求される
      命令に服従しない者は誰彼を問わず処罰される。」

 

     このあたりになると、民衆は前門で虎を追い払い、後門では狼を引き込んだ形になっている。革命を起こした
   目的がせいぜいこれだったというわけであろうか! クロポトキンは失敗の原因が人間にあるというより制度に
   あることを叱咤した。革命をするという人間が民衆の自由を抑圧すること以外には何の取り柄もない古い権力装置
   に、どうして続けて安住しようとするのか、というのである。

      「それならば革命とは何なのか? 革命は単純に支配者を交替することではない。人民によるすべての社会
     財産の受容である。人間性の発展を長い間阻害したあらゆる暴力の廃止である。この巨大な経済革命が単に
     政府が出す法令によって実現され得るだろうか?・・・革命は法令によって成し遂げられるものではない。
     社会財産の受容が実現されようとするならば、人民が自由でなければならない。長い間慣らされてきた奴隷
     根性から解放され、思い通りに行動し、誰からも命令を受けずに前進することができなければならないので
     ある。」

      要するに民衆は政治家や指導者に頼ったり、議会や官庁のような権力施設を占領することより、はるかに大胆に
   ならなければならないということである。ただ各自の自主的力量と隣近所との連帯を通した力で土地、工場、商店、
   学校、交通機関、住宅等の社会化を宣言しなければならず、自らの力ですべての機関を運営していかなければなら
   ないとする革命プログラムが確実に各自の心の中に植え付けられなければならないというのである。これが革命
   運動の当面する課題であり、この課題が着実に遂行されているかどうかが革命の成否を分ける分岐点になるという
   のである。そのため革命主体が少数だからといって問題にはならない。いつ、どんな世の中であろうと正義の前に
   勇敢に先頭で進む少数者はいるものである。この無名の少数者が正しく考え、なんの私心もなく高遠な理想に鼓舞
   されており、発議または提案が大衆の希望、大衆の要求に合致するならば民衆は彼らに従わざるを得ないだろう。
    クロポトキンのこうした考えには青年時代に参加したナロードニキの観念が窺われ、蜂起主義やテロリズムに対す
   る批判も含まれている。同時に当時次第に有力になってきた社会民主主義の議会主義的政治革命論に対する反発も
   加味されている。バクーニン式の蜂起主義には革命を強引に起こそうとする-もちろん革命的情勢を考慮したので
   あろうが-クーデター意識が残っていると同時に、革命に乗じて民衆の建設能力に信頼を置き過ぎた感じがしない
   でもない。テロリズムは蜂起主義をさらに圧縮したものに過ぎず、極めて特殊な場合を除いては戦術としての効果は
   なかった。


      このような点からクロポトキンの革命思想は、その時までの行動的アナーキズム理論に修正を加えたものとみら
   れる。結局、革命は意識的に起こすことができるものではなく、そのような革命は政治革命、即ち権力者の交替で
   終わってしまう。そのため民衆の心の中に根ざした権力革命に対する観念をなくし、革命プログラムを理解させる
   作業が必要だというのである。しかし、クロポトキンのこうした思想が革命を完全に自然に任せ、革命運動の課題
   を民衆の意識改革ということに単純化させた結果をもたらしたのではないかとも思われる。

            


        
     アナルコ・コミューン主義(思想体系)

       クロポトキンの革命理論はアナルコ・コミューン主義と要約される。ジュラ連合の労働者たちの間で形成され
   始めたアナルコ・コミューン主義は、行動的アナーキズムの基本原理として認められるようになった。集産主義
   から共同体主義に発展したこの理論は生産手段だけでなく消費財まで社会化するもので、バクーニンの考えをさら
   に深化させたものである。しかしこの理論は、実際はそう単純ではない。労働者・農民の自主的な社会化という
   バクーニンの構想はマルクスの労働価値説を足掛かりにしているが、クロポトキンの社会化は生産手段を含む社会
   財産一切を社会化しようというもので、かえって労働価値説を否定することになる。この経済学的立場の違いを
   十分認識できなければ、集産主義とコミューン主義の違い、また革命方法論でバクーニン方式とクロポトキン方式
   の違いを理解することができないだけでなく、クロポトキンの思想の根本も把握することができない。
    クロポトキンは新しい経済学、即ち‘最小限のエネルギー消費を通して人間の多様な欲求を最大限満足させること’
   を提唱している。‘社会生理学’というこの理論を通して、クロポトキンはアダム・スミスからマルクスに至る
   今までの経済学が富の生産を目標にするものだと批判し、新しい経済学は人間の欲望を最小限の労働で充足させる
   方法を探求する科学にならなければならないと述べている。その主張は以前までの経済学の弱点を突いたもので、
   現在見てもかなり先進的である。


      クロポトキンはコミューン主義と自由が不可分の関係にあるととらえた。 彼は《パンの征服》でこう強調して
   いる。
    「アナーキはコミューン主義に通じ、コミューン主義はアナーキに通じている。両者はどちらも同じく現代社会
     の支配的傾向である平等の追求に対する表現である。」
    相互補完された時、コミューン主義と自由がそれぞれ完成されるというのである。プルードンやバクーニンは
   かえってコミューン主義を自由の敵と考えたのに対し、クロポトキンは今まで人類が経験し実験してきた共産制の
   歴史を検討したところ、失敗に終わった原因が権力側が無理やり割り当てた平等のためだったので権力支配を除去
   することにより、共同体主義が成功することができるというのである。クロポトキンはまた当時の社会主義者たち
   の間で論議された労働生産物の分配基準について、全く新しい結論を導き出す。彼は労働時間や労働の質、あるい
   は労働の生産性が分配の基準になることができないと考えた。労働価値の算定は結局相対的なものであるので、
   それ自体不平等を生みやすい。反面、人間の必要欲求は絶対的なもので、それを基準に分配するのが最も合理的だと
   いうのである。それは‘能力に応じて働き、必要に応じて分配を受ける’というスローガンで表現された。それは
   賃金制度の廃止を意味するものでもあった。

       このようなクロポトキンの主張に対し一方では、欲求は個人にとっては絶対的なものであるが、主観的なもので
   もあり、無限に膨張することもある、そのため欲求を分配の基準とみなせば社会秩序がめちゃくちゃになるだろうと
   いう反論もあった。これに対してクロポトキンはこう答える。

       「人間は本来必要なこと以上は要求はせず、個人の必要な絶対量はだいたい決められている。人間が必要なこと
      以上を望むのは物が不足したり、不足する恐れがある時である。物が豊かになれば自ずとコミューン主義が
      成し遂げられないはずがない。」
      
                                                                                  

       ここには二つの問題がある。一つは現在の生産力が人間の欲求を充足させるくらい発展しているかどうかであり、
   もう一つは人間の欲求を充足させるほどの生産力に到達できない場合どうするのかという点である。これについて
   クロポトキンは《田園・工場・仕事場》で答えている。彼は生産力というものがすべての人間の欲求を満たす程度に
   発展しなかったということを多くの統計で論証しながら、その原因を当時の社会体制の欠陥から見出している。
   人間の必要のためからではなく、利潤の追求という原則によって生産した結果、必ず必要な物であっても金儲けに
   ならなければ生産が制限され、不必要な物であっても金儲けにさえなれば生産される。このような歪曲が生産技術の
   発展にも影響を与え、最も重要な食料生産の技術は進歩しないのに反して、重工業技術はめざましい進歩を遂げる。
   農業と工業の格差は徐々に広がり、能率本位の分業制度のため精神労働と肉体労働の分裂がさらに深刻化する。
   クロポトキンは資本主義を崩壊させなければすべての人間の欲求を充足させるほどの物資の生産を期待するのは困難
   だと述べる。

        「生産力が人間の欲求を充足させる段階にまで達することができないでいる。生産力を高めるためには資本主義
      体制を崩壊させ、人間の欲求に基づいて生産を再編しなければならない。そのためには革命が必要である。」

      クロポトキンは生産体制の再編成の原則で自給自足の手工業制度を提案している。それは賃金制度の廃止とともに、
   コミューン主義的目標を達成するためのものだった。そうとすれば革命後、生産力が発展し完全なコミューン主義を
   実現することができる段階に到達するまで相当な歳月がかかるだろうと予想せざるをえない。この過度期の分配問題
   をいかにすべきか?
これについてクロポトキンが答えたものはほとんどない。バクーニンには‘見えざる独裁’と
   いう考えがあったけれども、クロポトキンは過度期の運営方式については口を閉じている。アナルコ・コミューン
   主義の脆弱点と関係する問題だと言える。クロポトキンは後期に入って次第にアナルコ・コミューン主義の行動的
   側面の脆弱性を痛感していたようである。大衆組織による革命的サンディカリスム運動に期待をかけていた痕跡を
   至る所で見つけることができる。ロシア革命の期間中、マフノ農民運動を激励したこととか、ドミトロフの協同組合
   会員たちと親しく交わりながら革命プログラムに対する教育を試みたことがそうである。究極的に、国家のない自由
   コミューン主義を目指していたアナーキズムは、何に基づいて起こったのであり、どんな原則と研究方法をもって
   そのような体系に到達するというのであろうか?
近代科学の知的運動とはどのような関係にあるのだろうか?
   クロポトキンがこのような質問に答えるため著述したのが《近代科学とアナーキズム》であり、この著書を通じて
   クロポトキンはアナーキズムが19世紀自然科学の知的運動の避けられない結論だったと述べている。彼は形而上
   学的概念や弁証法のように類推する方法ではなく、帰納と演繹の方法によるしか自然科学的事実と原則を人類社会
   に適用することができないと述べた。彼はそのような研究方法で科学的結論を検証し、人間社会を含む全自然の
   力学的解明を試み、それを通じてアナーキズムの宇宙観を提示しようとした。クロポトキンはこの著書で近代の
   すべての自然科学の傾向及び社会科学の趨勢について詳細に論じ、事実に対する帰納的研究方法に基づいてアナー
   キズム、特にアナルコ・コミューン主義が近代社会革命の必然的な結論であることを立証することに力を注いだ。

      クロポトキンは自然科学的帰納法によって得られた結論を人類のすべての生活にまで適用し、自由・平等・博愛
   の途上にある‘人類の将来の行進’を性善説の立場から立証しようとした。


                          相互扶助論

       終わりに、クロポトキンの思想をもう少し早く理解するためとしては、アナーキズム入門の理論的基礎として
   通っている《相互扶助論》について、しばらく言及せざるを得ない。クロポトキンがおよそ13年間も心血を傾け
   て練ったというこの《相互扶助論》は、聖書や仏教教典のように単純にアナーキズムのある信条を述べた本では
   けっしてない。反対にこの著述は動物や、その一員である人間の社会史の極めて重要でありながらも今日まで不当
   に過小評価されてきた側面を、科学のメスで解剖してみせた生物学的、倫理学的労作だというところにその真価が
   ある。クロポトキンはこの本によって生物界が進化する一要因として、生存競争とともに相互扶助の原則があると
   いうことを実証してみせたのである。

       彼がなぜこのような着想をするようになったかを知るためには、まず19世紀後半のヨーロッパの知的流れを
   探ってみる必要がある。当時の生物学会に新しい紀元を画した《種の起源》を通してチャールス・ダーウィンが
   みせた一貫した思想は、動物たちは餌や安全を求めて繁殖するため競争し闘争するというものであった。いわゆる
   生存競争説であり、進化論であった。もっとも後日、ダーウィンは《人類の起源》でこの論旨を若干修正して、
  ‘社会的本能が自己保存の本能よりはるかに強力’だという方向へ傾きはしたけれども、この時から進化論者たちは
   動物界が血に飢えた阿修羅場であり、個体の利益のため絶えず残忍な闘争を繰り広げるものだと論じるようになった。
   甚だしくは、このような狭義の生存競争を人類社会にまで適用させた‘総合哲学’の完成者
ハーバード・スペンサ
   ーは原始人を‘歯や足指の爪を使用して隣人が持っている最後の一片のなすびを奪取することをもって生存を維持
   する野獣のような存在’と見た。このような誤謬に陥ったのはスペンサーだけではなかった。ホッブズの見解に
   忠実であった19世紀の哲学は、原始人を餌と女性を間にして闘う禽獣の群と見、慈悲深い権力が現れた後に初めて、
   彼らの間に平和が到来するという式の社会進化論を当然なことのように受け入れていた。


       しかし、クロポトキンは早々とシベリア探検時代からダーウィニズムに疑惑を抱き、一方では相互扶助の思想が
   胸の中に芽生えていた。1883年
フランスの監獄にいる時、彼はサンクトペテルブルグ大学総長のケスレーが
   ロシア博物学者大会で行った‘相互扶助の法則について’という講演の抄録を遅れて読んで大きな感銘を受けた。
   ケスレーの意見は、自然界には相互闘争の法則以外に相互扶助の法則があるが、後者が生存競争の成功のためや種の
   進歩的進化のためはるかに重要だというものだった。

      クロポトキンは1888年《19世紀》誌2月号にダーウィニズムの最も有力な擁護者として知られるトーマス・
   ハクスリーが、‘生存競争が人類に及ぼす影響’というタイトルで原始人類に関して次のような文章を載せたのを
   見つけて衝撃を受けた。即ち、「最も弱い者、最も愚かな者は滅亡し、最も凶暴な者、最も毒々しく残忍な者、即ち
   環境に対抗するのに最も適合した者が生き残る。人生は絶え間ない自由闘争の戦場である。」 クロポトキンは
   この理論に対して根本的に反駁することに決心した。

      周囲からの督励も大きな力になった。1890年から5回にわたって《19世紀》誌に連載した《相互扶助論》は、
    1.動物間の相互扶助 2.原始人の相互扶助 3.古代人の相互扶助 4.中世都市の相互扶助 
    5.近代社会の相互扶助 の5編からなっている。そしてこれが一巻の本としてまとめられるまでさらに6年
    必要とした。


       クロポトキンは昆虫から最高のほ乳類に至るまで動物界で“小グループが各々独立して離れて生活する種は比較
   的少なく、その数も限られている。”と言う。それは退化中であったり、人間が自然の均衡を破壊したりしたためで
   ある。繁栄する種の一般的な法則である相互扶助は進化にとって最も重要な要素であると論証した。相互扶助を
   通して弱い動物は恐ろしい猛禽や猛獣から身を守る。また、相互扶助を通してエネルギーの消費を少なくしながら
   種を維持する。このような考察は人間にもそのまま当てはまる。クロポトキンは原始人が生存のため無差別に闘争
   したというハクスリーの見解に反対する。原始社会は法律の替わりに協同と相互扶助のための慣習とタブーの中で
   生活したということを見せてくれる。そして新しい要求が新しい飛躍を人類に要求し、地域(村落共同体)と職種
  (ギルド)が二重の網を形成して都市を出現させたと主張する。その上、ギルドは共同作業をすることにより中世都市
   の富裕なコミューン生活を導いたというのである。最後の章で、彼はローマ帝国を手本とした個人主義的国家の発達
   が相互に協同していた中世の都市制度をことごとく破壊したことを惜しみながらも、そのような様相が決して長く
   続かないだろうと予見した。要するに何によっても人間連帯の感情を破壊することはできないというのが彼の結論
   である。

      1917年 ロシアの2月革命後、彼は40年間余りの亡命生活に終止符を打ち、余生を故国で終えるため帰国
   した。ケレンスキーの臨時政府は彼を大歓迎し閣僚の席を勧めたが、クロポトキンはこれを一蹴した。そして10月
   革命後、ボルシェビキ権力がアナーキストを含むすべての社会主義勢力を容赦なく処断するのを見て、彼はレーニン
   に会い、権力の掌握でない革命の大道を歩むよう求め、1920年1月には公開書簡でボルシェビキの人質政策を
   峻烈に糾弾した。
    この最後の時期で最も重大な文書はロシアを訪問したイギリス労働運動の女流指導者
マーガレット・ボンピルドに
   手渡した〈世界の労働者に差し出す手紙〉(
1919.4.28)だった。この文章で彼は外部の力を引き入れてボルシェビキ
   を打倒しようと考える人たちと自分を明らかに区別し、結果的に独裁を強化して真の社会再建のために働くロシア人
   を次第に難局に
(おとしい)れる外国の武力干渉を止めさせよと訴え、次のように文を結んでいる。

       「社会革命に求められる巨大な建設作業は・・・・中央政府の力で達成されるものではない。・・・・この
     協同を無視して一切を党派独裁者の天才に任せるのは労働組合や地方の協同組合的分配組織のような民衆
     生活の直接的核心体を破壊し、それを現在のような党派の官僚機関に変質させるのである。これは革命を
     完成させる道ではなく、その実現を不可能にするものである。・・・・革命を達成するには万国の労働者
     階級が直接結び付いて、世界の全労働者の一大インターナショナル設立しなければならない。しかし、それ
     は第2、第3のインターナショナルの時のように、ある一つの政党によって指導されたそのような団結の
     形態としてのものであってはならない。・・・・しかしあらゆるものを結合した世界の労働者連合の総体的
     団結、即ち世界の生産を現在の資本主義の束縛から解放するために連合したそのような団結でなければなら
     ない。」
 

      それは西ヨーロッパの同志たちに残したクロポトキンの最後の遺嘱に等しかった。ドミトロフ協同組合創立5周
   年記念行事(
1920.11.14)で講演を行ったという理由で、そこの指導者たちがことごとく検挙され、また、わずか
   10日の後にアナーキストたちの最終拠点であったマフノ運動がトロツキーの悪計にかかり壊滅されたという悲報
   に接した時、彼の病勢は既に深まっていた。1921年2月8日死去。享年79才。

 

   8.アナルコサンディカリズム

      クロポトキンの手紙が西方の言論に公開された後、フランスの「リベルテル」誌は192117日付けでロシアの
   アナルコサンディカリスト(アナルコは無政府主義、サンディカは労働組合のことで、アナルコ
サンディカリス
   トは無政府組合主義者と訳されている。
訳者注) たちの全世界のプロレタリアに対する悲痛な訴えを掲載している。

        「同志たちよ、我々がこちらで行ったように、皆さんたちの国でブルジョアジーの支配を終わらせてくだ
      さい。しかし我々の過ちを繰り返さないでください。皆さんの国で国家共産主義が建設されるのを見過ご
      してはいけません!」


       ロシア革命内部から聞こえてくるこのような一連の尋常でない訴えとともに、モスクワインターナショナル
  (プロフィンテルン,
19217月設立)を直接目撃して帰ってきたヨーロッパのアナーキズム系サンディカリスト
   代表たちは
192212月ベルリンに集まり、今後の進路対策について議論を重ねた。彼らは右側のファシズムと
   左側のボルシェビズムという両面の強敵に同時に対さなくてはならない絶対絶命の現実を直視しながら、その間の
   労働運動に対する深刻な反省から始めた。彼らは新しい国際組織を出帆させることに決め、由緒深い国際労働者
   協会(
AIT)の名の元にアルゼンチン、チリ、テンマーク、ドイツ、オランダ、イタリア、メキシコ、ノルウェイ、
   ポルトガル、スウェーデン、フランス、スペイン、ロシアの13ヶ国の団体(組織員数100万呼称)代表が集
   まり創立総会を開いた。この会議で彼らは革命的サンディカリスム綱領(萩原普太郎,
1979《変革の軌跡》pp.8
   
10参照)10ヶ条を新たに制定し、20世紀アナルコ サンディカリスム(無政府組合主義― 訳者注)運動の
   行動原則を明らかにした。

       ここで我々はしばらく19世紀後半に戻り、パリコミューン以来のアナーキズム運動の一般的趨勢と、その中で
   のサンディカリスム運動の生成過程からまず
(さぐ)って見ることにしよう。


                         サンディカリスム運動の生成過程

       パリコミューンが失敗に終わり、第1インターナショナルがマルクス派の専断で止むを得ず決別することに
   なった後、アナーキストたちは
1872年サン デミエで反権威主義的社会主義インターナショナル(俗称を黒色イン
   ターナショナルと言い、
1889年社会民主党系による第2インターナショナルが設立された時期まで持続)大会を
   開催して以来、ジェネバ(
1873)、ブリュッセル(1874)、ベルン(1876)、ベルビス(1877)等で会議を重ね
   たが、社会主義運動陣営内部の紛争と国境閉鎖など反動的抑圧の雰囲気により、不振を免れえなかった。大体、
   この約20年間のアナーキスト運動は‘行動によるプロパガンダ(宣伝)’、‘直接行動’等のスローガンの下、
   3つの類型で現れた。その一つが前衛、反逆者など刊行物によるルクリュ、クロパトキン中心のアナルコ
コミュ
   ーン主義宣伝活動であり、他の一つはテロリズム、もう一つは民衆を主体とする直接行動だった。


       1890年代以後のサンディカリスム運動の端緒となった民衆の直接行動というのは、フランスのアナーキスト
   ルイス・ミシェルなどが開拓した方式である。ルイスは、パリコミューンの時逮捕されて無期刑を宣告され、遠く
   南太平洋の孤島まで流配される船上で、権力の廃止こそ民衆解放の第一歩であることを自ら悟りアナーキストにな
   ったという。普段、労働者たちからは聖女と仰がれたというが、民衆の日常生活を解決するためとしてはストライ
   キ、デモ、暴動までも厭わず、直接陣頭指揮する猛烈女性だったようである。パン屋荒らしをして労働者に分配し
   た事件で再び6年刑を宣告された彼女は、法廷で‘腹の空いた人間は盗んででもパンを食べる権利がある’と陳述
   したという逸話でも有名である。

       サンディカリスム運動の源流は1864年、フランスとイギリスの労働者の提携を契機に誕生した国際労働者協会
  (第1インターナショナル)に
(さかのぼ)。その時、臨時規約前文に掲げた‘労働者の解放は労働者自身の任務で
   なければならない’というモットーがそのままサンディカリスム運動に継承されたというわけである。当初、
   臨時規約草案を担当したマルクス本人はこの句節に対しあまり気に入らなかったようであるが、労働者たちの要請
   でそのまま文章に反映させたようである。当時、国際労働者協会にはこの機構を国際的労働者政党として率い
   こうとするマルクス派、全ヨーロッパの労働者を含む協同組合、信用銀行組織に改編しようとするプルードン派
   以外に、イギリスの改良主義的労働組合主義(トレユニオズム)、労働者団結の手を借りて民主主義
   革命を遂行しようとする急進的ブルジョアたち、イタリアの国家主義的民族主義者
マティーニなど各人各様の
   主義主張が入り乱れて思想討論に熱を上げていたが、そうした議論の中からサンディカリスムの原型になるような
   観念を探し出すことは難しいことではない。ジェネバで開催された第1回大会(
1866年)で規約の審議をする時、
   フランス代表が会員資格を肉体労働者に限定し資産階級や政治家の加入を制限しようと提案したのはその端的な例
   である。当時この提案は否決されはしたが、労働者階級固有の反インテリ、反政治の思想がそのまま反映されており、
   たいへん興味深い。第3回ブリュッセル大会(
1868年)時は、1866年の恐慌以来ヨーロッパで盛んに流行して
   いた‘ストライキ’
general strike が議題になった。皆、積極的な支持を表明しながらストライキ粉砕防止と募金
   キャンペーンに議論が集中した。ここでベルギー代表 ドゥ・バブがいきなり立ち上がり、戦争行為に対し労働者は
   ストライキで応じようと演説し、ストライキが日常闘争の手段としてだけでなく、戦争防止や社会革命にも有効な
   手段だということを例示した。 

       第4回バーゼル会議(1869年)では、フランス代表 ルイ・バンディ(ユージン・バランと共にプルードン派
   だったがバクーニン派になり、パリコミューンでは委員として活躍し、議事堂に放火するなど勇敢に闘争して
   スイスへ脱出、
72年サンディミエ大会時にフランス代表として参加)が労働組合の役割について次のように述べ
   た。


      
「都市の各種職業団体が未来のコミューンを形成するだろう。その時政府はサンディカルの連合評議会と労働
     関係を規制する権威ある大会委員によって交代されるだろう。これが政治の役割を替わって執り行うだろう。」

    この提案に対し、ドイツ代表として出席していたリプクネヒトなどが政府を労働連合体に代置するのは困難だろう
   と反論したにもかかわらず、満場一致で可決された。この大会でフランス代表として出席したバクーニンは、バン
   ディに先立ち既に「現存するすべての政治的、強権的国家は次第にその機能を国内の簡単な公務を委任管理する方向
   に制限することによって、自由な農業または工業組合の普遍的連合の中に消滅しなければならないだろう」という
   思想を公開したところであり、バクーニンの周囲にはユージン・バラン(パリの製本工出身で
62年以来労働運動の
   中心に立ち、組織活動に力を注いでプルードン主義からバクーニンの集産主義に接近。パリコミューンに委員として
   参加したが敗北し銃殺される。)やバンディのようなインターナショナル
フランス側の活動家たちが群がっていた
   と見られ、バンディの報告もまたバクーニンの影響を受けたものと見られる。

       パリコミューンの失敗はフランスの労働運動、社会運動だけでなくヨーロッパ革命運動に決定的な打撃を負わ
   せた。当時ヨーロッパ革命運動の主力だったフランスはコミューンの敗北後、処刑や追放で多くの革命家を失った。
   フランスを中心として発展してきた第1インターナショナル内の集産主義的・サンディカリスム的社会主義は、
   20年近く足踏み状態のままであり、反面、ドイツの権威的社会主義(ラッシャル派、マルクス派)が台頭してきた。

     フランスで労働運動、革命運動が本格的に復活したのは1880年以後、ルイス・ミシェルなどパリコミューンの
   闘士たちが特別赦免を受けて帰国した後だった。しかし、10年間の空白とドイツ社会民主主義の発展はフランス
   にも強く影響を及ぼし、1880年代の労働運動はこれを政党運動化しようとするマルクス主義派(労働者党
   
Parti  Ouvrier)に率いて行かれた時代だと言っても過言ではない。

      1884年、労働組合法が制定されたのを契機に初めて労働団体が合法的にデモを行うことができるようになった
   ことから、パリを始めとした重要都市に労働中継所ができた。労働中継所というのは労働組合が管理する一種の職業
   紹介所で、地域ごとに自治体の補助を受けて運営された。1886年、リヨンでフランス最初の労働組合全国連合
  (俗称
ゲドゥ Jules  Guesde派)が労働者党の支援のもとに出帆した。熱烈な総ストライキ論者 フェルナンド・ペル
   ティエ(
Fernand  Pelloutier, 18681901)などがこれに対抗し、1892年、各地の中継所連合体を網羅して労働
   中継所連合
(Federation  des  Brourses  de  Travail, 俗称 ブルース連合)を設立、労働者自身の組合としてサンディカリ
   スムの色彩を現わし始めた。

       翌年、パリ労働中継所が官憲から圧迫されて閉鎖した時、労働中継所連合(ブルース連合)がこれに抵抗して総ス
   トライキを企画しつつ、二つの連合体間の統合大会(
1894年)を開催したが、労働組合全国連合(ゲドゥ派)が不服
   で脱退したことから統合できなかった。しかし、ゲドゥ派と決別した労働組合全国連合の多数派 サンディカリスト
   たちが、1895年、別途の労働総同盟(略称
CGT)を結成したことによってサンディカリスム運動はますます活気
   を帯びるようになった。この時、ブルース連合の書記になったペルティエは‘アナーキズムと労働運動’という文章
   を通じて、アナーキストたちが革命的サンディカリスム運動に積極的に身を投ずるよう次のように訴えた。

       「労働組合はアナーキズムを実践する学校にならなければならない。選挙のための闘争を離れてアナーキズム
     的に運営される経済闘争の実験室である労働組合こそ、社会民主主義を主張する職業政治家たちの悪い影響に
     対抗することができる革命的な自由主義者の組織なのである。」「現社会のすべての統治権力を排除する自由
     主義的組織、生産手段の主人である労働者の自由な合意により自主権を持ってすべてのことを処理するそのよ
     うな組織が、労働組合から見出されるだろう。」

       CGTとブルース連合の二つの全国組織は1902年、モンベリエ大会で労働総連盟(Confederation Generale de
    travail,
略称 CGT)の名称の下に統合することにより、初めてサンディカリスム運動の組織的基盤を完成するに至る。
   即ち、ブルース連盟を通じて労働市場をある程度掌握したという強みが
CGTの経済的直接行動という第1インター
   ナショナル以来のサンディカリスム的要求を具体化することができるようになったのであり、総ストライキという
   主張もこうした組織を背景として現実性を帯びるようになったのである。こうした組織の基礎の上に、1906年

     CGT
アミエン大会では革命的サンディカリスムの原則を規定したいわゆるアミエン憲章を採択するに至る。
   
CGT規約の第2項「CGTは政治的信条を問わず賃金方式と使用者階級の消滅のため、自覚的な闘争を続ける全労働
   者の団結を求める」ということを前提に掲げたアミエン憲章の骨子は大略次のとおりである。

       「1.すべての政党と政派を離れ、階級を消滅させるため闘争する労働者の団結を求める。

        2.組合以外にも、各個人が思想または政治上の自分の意見に合う他の団体に加入することができる
       自由を認める。但し、外部で発表した自分の意見を組合内部に持ち込むことは禁止する。


        3.日常的な闘争事案である労働時間の短縮、賃金引き上げなどを成功させ、福利増進に資するため
       労働者の協力を要求する。」

     「しかし、これはサンディカリスム運動のごく一部分に過ぎない。サンディカリスム運動は資本家階級を
    受容(解体)することによって初めて完結する完全な解放を準備するものである。
    サンディカリスム運動はこの目的のための行動手段としてゼネラル・ストライキを承認する。この運動は
    現在、闘争のための組織である労働組合が未来には生産と分配の組織に変わり、また社会再編成の基礎に
    なることを承認する。」

      こうしてCGTは1914年の第一次世界大戦勃発時まで活発な運動を展開しながら、サンディカリスム全盛期を
   迎えた。その余勢を駆ってサンディカリスム運動がスペイン、イタリアを始めアメリカ、ドイツ、スウェーデン、
   ロシア、日本その他南米諸国にまで拡散し、一時、世界プロレタリア運動の中心軸を成すようになった。しかし、
   こうした現象は純粋アナーキストとの間に距離が生じ、組織を二分する結果をもたらした。


       1907年、アムステルダムで開催されたアナーキズム国際大会でフランスのサンディカリスト ピエール・
   モナトは、「労働運動を革命的路線に導き、行動の思想に武装させるのにアナーキストはこれといった貢献をなす
   ことができないでいる。」と不満を爆発させた。これに対し当時のアナーキストの最高理論家 マラテスタは、
   「労働組合運動は目前の利益に目がくらみ、窮極の目標からそれている。」と応酬しながら、労働運動によってのみ
   社会問題を解決することができるという主張に対して異議を提起した。残念ながら、こうしたいざこざによるエネル
   ギー消耗は、1914年に勃発した第一次世界大戦と1917年のロシア革命に効果的に対処できず、挫折する教訓
   を残した。


       特にロシア革命は、20世紀に入って最初にアナーキズム思想が地球の一隅に搾取も支配もない自由共同体社会を
   実験する絶好の機会だった。それにもかかわらず、革命のスタートラインで事態を把握したり、これといった対策を
   少しも打ち立てることができず、結果として権威的・官僚的国家資本主義の手に民衆を放置しておいたのは実に千秋
   に残る悔恨だった。

       1917年2月革命当時、ロシアにおいてアナーキストは少数に過ぎなかったが、彼らが掲げた‘農民に土地を!’
   ‘労働者に工場を!’‘すべての権力はソビエトに!’というスローガンが、少なからず民衆の心の琴線に触れた。
   それが労働者、農民、兵士たちの要求をそのまま反映したものだったからである。1918年8月、全ロシアのアナ
   ルコサンディカリストプロパガンダ連盟の名前で初めてアナーキストの当面の行動綱領が発表された。その内容は、
   ロシア革命でのアナーキストが追求する目標は最終的に資本主義と国家の廃止であり、その戦略として労働者、農民、
   兵士の下からの真の要求を代表するソビエトの連合、労働者、農民の武装、労働者、農民自身の手による経済の掌握
   を標榜した。それを妨害する勢力として反革命、帝国主義勢力の他にボルシェビキ党及びその支配体制を指摘してい
   る。要するに大部分のアナーキストはボルシェビキが主張する過度期独裁論に反対し、実はそれがプロレタリアを
   表面上の名目とするボルシェビキ党官僚のプロレタリア大衆に対する独裁であることを看破し、真っ向から対立した。
    革命初期にロシアには二つの権力組織があった。一方は労働者、農民、兵士の意志を代表する工場及び農村と軍の
   ソビエトであり、他の一方は少数の職業革命家、党員をその支配下におこうとする共産党だった。アナーキストの
   大部分は言うまでもなくソビエト側だったが、民衆自身の代表機関であるソビエトをボルシェビキ政府の下請機関化
   させようとするボルシェビキに対抗して闘争した。その中で最も激烈だった例が1918年から21年までのネストル
   ・マフノ
18891935のウクライナ農民パルチザン闘争であり、1921年のクロンシュタット水兵反乱である。

      マフノは1905年革命(ロシアのサンクトペテルブルグで起きた血の日曜日事件を指す。- 訳者注)の時、
   15才の若さでアナーキストになった者である。彼の農民革命運動には二つの側面がある。一つは武装農民軍の
   反革命軍に対する戦闘であり、もう一つはウクライナでの自由ソビエト及び自由コミューンの建設である。
   軍事的にも天才だったマフノは自己の郷土を守ろうと乗り出した農民軍を指導し、デニキン、ブランケルの白軍
   及びボルシェビキの赤軍を相手に4年間も戦ったのである。また一方で、マフノの故郷
クライポレを中心に自由
   ソビエトと自由コミューンになったすばらしい新社会を建設していた。「1918年12月から1919年6月
   までの約6ヶ月間、クライポレの農民はどんな政治権力もない生活を送った」とマフノを補佐したアナルコサン
   ディカリスト ボリン
Voline 18821945は書いている。

       ボルシェビキ独裁に反抗して決起したクロンシュタット水兵反乱については1921年3月1日の‘バルチック
   艦隊第1、第2戦隊総会決議’の骨子に替えて紹介する。

       即ち、「現在のソビエトは労働者、農民の意志を反映できずにいる。」「言論、行動の完全な自由の下に実施さ
   れる労働者、農民間の選挙戦、秘密投票によるソビエトの再選挙を即時実施しろ」「すべての労働者、農民、アナ
   ーキスト、左翼社会主義諸政党の言論、出版の自由を確立しろ」「労働者、農民の組織に集会の自由を与えよ」等
   の要求を掲げ、自由ソビエトを叫び船上反乱を起こしたのである。


       結局、「ロシア革命の花」とまで注目を受けたクロンシュタット水兵たちは、トロツキーが純真なマフノ農民
   たちに加えたような手法によって魚肉になる運命に処せられてしまった。以後、民衆はボルシェビキ独裁の前に
   完全に圧倒されてしまった。


                            革命的サンディカリスト大会

        このような事態に対する深い反省の下で心機一転、全世界の革命的サンディカリスト代表たちがAITの名前で
    再び集まったのが1922年12月のベルリン大会である。この大会で各国代表が決して楽観できない将来を
    予見しながら採択したのが、10ヶ条からなる「革命的サンディカリスム憲章」である。その内容は次のとおり
    である。

         1.革命的サンディカリスムは階級闘争に基づき、賃金奴隷のくびきと国家の抑圧からの解放のため闘う
       経済組織として、すべての肉体及び知能労働者を結合させることを目的とする。・・・


         2.革命的サンディカリスムはあらゆる経済的、社会的独占者の徹底した敵であり、政府や政党の支配から
       完全に解放された自由評議会制度に基づく経済的自治体と、農業または工業労働者の執行機関に基づく
       あらゆる独占の廃止を目指す。・・・


         3.革命的サンディカリスムは次の2種類の任務を遂行する。一方で現在の社会機構における労働者階級の
       経済的知的改善を目指す革命的日常闘争を行う。他の一方でその最後の目標は大衆が立ち上がって社会
       生活の全分野を彼ら自らの手で奪還し、同時に生産と分配を自主的に管理させるのである。・・・


         4.革命的サンディカリスムはあらゆる中央集権的傾向とその組織に反対する。それは国家や教会からの
       借り物に過ぎず、組織的な一切の自主精神と独立的思考を抹殺させる。・・・


         5.革命的サンディカリスムはあらゆる議会活動とすべての立法部との協力に反対する。普通選挙はそれが
       いくら幅広い基盤の下に実施されたものであっても、現社会の根底に敷かれている極端な矛盾をなくす
       ことはできない。・・・


         6.革命的サンディカリスムはすべての任意で確定した政治的・国家的警戒に反対する。それはナショナリ
      ズムが近代国家の宗教であること以外の何物でもないという考えからであり、その背後には所有者階級の
      物質的利益が隠されているとみなされるからである。・・・


        7.革命的サンディカリスムがあらゆる形態の軍国主義に反対し、反軍国主義のプロパガンダを現存制度に
      対する最も重要な任務の一つとみるのも同じ理由からである。・・・


        8.革命的サンディカリスムは直接行動をとり、その目的、即ち経済的独占や国家支配の廃止と矛盾しない
       すべての闘争を支持する。闘争方法はストライキ、ボイコット、サボタージュなどである。直接行動は
       その最も明らかな表現をゼネラルストライキから求める。・・・


        9.革命的サンディカリスムは政府が掌握しているすべての形態の暴力組織の敵であるけれども、しかし、
      今日の資本主義と明日の自由コミューン主義間の決定的な闘争が、重大な衝突なしには起こり得ないと
      いうことを決して忘れない。・・・


        10.自由コミューン主義に基づく社会の再編成に必要な創意的エネルギーと同様に、その解放を遂行する力を
       発見させるのは労働者階級の革命的経済組織の中からだけである。

 

                         スペイン革命とアナーキズム

         以上のようなAITの革命的サンディカリスムの原則に最も忠実に従ったのは、スペインの労働総連合(CNT)
    だった。当時150万の同盟員として勢力を誇示した
CNTは、どんな団体よりも純粋なアナルコサンディカリズ
    ムの体質を帯びていたため、モスクワインターナショナルを巧みに抜け出して、
AIT創設の先頭に立つことができ
    たのである。
     1936年7月スペイン革命は、フランコを中心とするファシスト一党が人民戦線政府に対し反乱を起こした
    ことが導火線となった。
CNTFAIがすぐに労働者の革命を目標とするゼネストと武装化でこれに応酬し、マドリ
    ード、バルセロナなど主要都市を含むイベリア半島の3分の2を彼らの手で守った。


         一方、社会党と左派共和党を中心とする人民戦線政府は何の手段も使えない名目だけの存在に過ぎなかった。
    労働者の革命的なゼネストと武装化、そしてその後に実施された主要生産手段の接収と労働者の自主管理は、
    前述の1922年の革命的サンディカリスムの綱領そのままの複写版だった。
CNTFAIがファシズムの反乱鎮圧
    に乗り出すと同時に、直ちにその余勢を駆って社会革命へ進めることができたのは、まさにこの綱領によって
    行動したからである。‘武装したプロレタリア、アナーキスト革命家’として通っているブエナベンツラ・ドゥル
    ティ(
Buenaventura  Durruti,  1896.7.141936.11.20)の‘アナルコサンディカリスト部隊’は軍律や階級がある
    正規軍とは全く異なり、自発的に武装した工場労働者たちのグループから出発し、陣地を転々としながら農民、
    農場労働者、甚だしくは少年、孤児まで合わせて出来上がった一種のプロレタリア義勇集団だった。その部隊が
    前進しながら農民を解放し、土地を社会化し、村落に駐屯中は部隊と村の農民たちが共同体を形成して活動し、
    文盲根絶、読書教育にも力を注いだ。農村での集産体(
collective)運動は地主たちが逃亡して行った地域で急速に
    拡散し、アラゴン、レバント、カスティリアなど地方の約300万農民が1千個余りの集産体を自発的に組織し、
    土地の公有、共同作業、必要に応じた分配が自律的に進められた。

    集産主義的な分配方式が適用された所があるかと思うと、コミューン主義の原則により家族数で報酬を決定す
    る所もあった。もちろん、その地域の実情によりこの両者を合わせた分配方式を使う所もあった。1936年
    10月、60万労働者を代表する労働組合大会が企業の社会化をめざして開催された。社会化された工場はだい
    たい労働者が100名以上の工場や、所有者が公衆裁判で反逆者と判決されたり経営を自ら放棄した工場、また
    は国内経済で占めるその重要性から見て社会化するのが適切と認められた工場であった。いったん社会化した
    工場は自主管理方式により労働者総会で選出した管理委員会によって運営された。スペイン革命はどの面から
    見ても、1917年のロシア革命に比べて一歩前進した革命だったのである。スペイン革命でアナーキストが
    主導的役割を遂行することができたのは、何よりもアナルコサンディカリスム
(CNT)とアナルココミューン主義
      (FAI)
が長い分裂を克服して一体になり、革命のイニシャティブを握ったところにその原因を見出すことができる。
    そうとすれば、この世界史に輝く革命を最後まで防衛できなかった責任の一端もまたアナーキストが自ら背負い
    こんだのは当然なことである。何がその責任だったのであろうか?

        人々はよくCNTFAIが1936年に犯した二つの画期的な過ちとして、2月選挙での伝統的な選挙拒否政策
    の放棄と、11月の内閣入閣を指摘する。社会革命期という最も重大な時期に、彼らはなぜこのように決定的な
    過ちを犯さなければならなかったのか?
これについて彼らは、選挙参加方針は3万3千名の政治犯釈放のため、
    政府入閣は戦争勝利に必要な反フランコ諸政党間の統一戦線を構築するためだったと釈明する。しかし、こうし
    た政策の結果、社会革命の進行にブレーキがかかり、革命スペインの内部崩壊が促進したのを考えると、理由が
    どうであれ適切な弁明と見るのは困難である。これとは反対に、原理原則に固執しなければならなかったという
    論もあり得るけれども、スペイン民衆の運命がかかったこの重大な政治情勢の前ではそれもまた無責任な主張で
    しかない。問題は当時アナーキストたちがさしあたっての敵 ファシズムを撃退しなければならないという考えに
    凝り固まった余り、ファシズムと民主主義が共通に持つ国家主義的本質を度を越して軽視したのではなかろうか?

     さらに重大な問題は、プルードン以来の経済的直接行動によって国家を次第に消滅させるという反政治主義的
    発想が、より大きな枠組みの政治経済的ビジョン自体までを放棄してしまったという点である。

 

   9.リベリタリアニズム(絶対自由主義)

        スペイン革命の挫折と第二次世界大戦は20世紀のアナーキストの夢をすっかり踏みにじってしまった。
    全世界を核爆弾で掌握した資本帝国主義と国家共産主義の総管理システムは、個々の人間を社会から隔離させ、
    フライドチキンの身の上にさせた。このような危機状況で、アナーキストの意識は必然的に‘人間の完全な自由’
    問題に集約され、課題である労働問題自体もその一環の中でのみ解決することができるものと考えられた。彼ら
    の関心は自然とアナーキズム伝統の中の‘自由意志’を蘇らせることと、その延長線上での共同体の自主管理
    問題に集中した。


        要するに当時、アナーキストたちが考えていたリベリタリアニズムがその実、アナルコサンディカリスムを
    内的に支える思想であったことを確認させるものである。言い換えれば、リベリタリアニズムの政治経済的
    理論がアナルコサンディカリズムであるわけであり、これにより、彼らはスペイン革命の精神とエネルギーを
    20世紀後半につなげる橋渡しをしたと言えるだろう。リベリタリアニズム(絶対自由主義)は権威主義
    (
authoritarianism)に対立して反権威主義の思潮を広範に代表する用語で、急進的、本質的な自由の哲学を目指す。
    結論から言うと、リベリタリアニズムは当代有数の知識人たちの思索を通じていくつかの真理を論じてはいたが、
    それがまだ体系化する段階までには至っていなかったのは事実である。リベリタリアンとして名前のよく知られ
    た知識人としては、だいたいイギリスのハーバード・リード、ジョージ・オーエル、フランスのアルベルト・
    カミュ、シモンニュ・ベイユ、ダニエル・ケラン、アメリカのサンタヤナ、チャップリン、ドイツのマルティン・
    ブーヴォ、スペインのウナムノ、ビオ・バロハなどを挙げることができる。その中でもスペイン革命と深い関連の
    ある人物がイギリスの詩人であると同時に美術評論家でもあるハーバード・リードとジョージ・オーエル、フラ
    ンス文学者
アルベルト・カミュ、それに特異な女流思想家 シモンニュ・ベイユである。この人物たちの共通点は
    カミュが指摘したように、‘すべてのマルクス主義的革命以外の伝統に対する沈黙あるいは軽蔑’に対する抗議で
    あり、それに対立していたアナーキズム的革命の伝統とその現代的表現ということができるアナルコサンディカリ
    ズムに対する関心だった。


        リベリタリアニズムのもう一つの特徴は自由を曖昧で消極的な概念のフリーダム(freedom)ではなく、自主的・
    積極的な意味のリバティ(
liberty)に変換して使用したという点である。これについて、ハーバード・リードは
    彼の著書「詩とアナーキズム」で次のように説明している。

          「その殻をくちばしで突き壊す雛は自然の必然的な知識など持っておらず、ただひとりでに自由を保障する
       そうした動作で行動をする自発的な本能があるだけである。」「ここで彼(マルティン・ブーボ)は明ら
       かに自由をリバティの意味で使用している。そしてその意味で私は彼に同意する。ブーボが精神的な自由、
      「結晶する霊魂の自由」を信じているのは明らかであり、そのため自由が彼の哲学の核心になっているので
       ある。」

     

      このようなリベリタリアニズム思想が行動面で線を見せる代表的実例が1968年のフランス学生・労働者たち
    の5月革命であり、アメリカ青年たちの反戦・反核ヒッピー運動と、エコアナーキズム運動、そしてイスラエルの
    キブツ運動である。ダニエル・ゲランは彼の著書「アナーキズム」の序文で5月革命当時の経過をこう説明している。

         「それは世界各国、特にドイツで起きた学生反乱の影響を受けている。それは直接行動を、断固とした違法
       行為を、職場の占拠を武器としてとらえていた。それは抑圧勢力の暴力に対し革命的な暴力で対抗すること
       を躊躇しなかった。それはすべてのことを、すべての既成観念を、すべての既成制度を告発した。・・・
       それは自由の大きな杯を思いっきり飲み干した。あらゆる種類の無数の会合と討論の広場で、各個人は自分
       自身が十分に自分の考えを表明する権利を持っていることを確認した。・・・1968年の輝かしい数週間、
       各工場や各大学で一つの魔法のような用語が響き渡った。・・・それは「自主管理」という言葉だった。
        特に1936年のスペインにおける公有化の先例が広く活用された。労働者たちは社会問題のこの新しい
       解決策を知るため夕方になるとソルボンヌへ行った。彼らが仕事場に帰って行った時、稼働を終えた機械を
       囲んで再び自主管理についての討論を始めた。」

         ゲランは1968年5月の革命が自主管理を実行にまで移すことができず、敷居を(また)ごうとする刹那(せつな)
    止めてしまったことをいつまでも惜しんだ。しかし彼はこのように労働者たちの意識の中に占めている自主管理
    思想がいつかは再び全世界的に首をもたげだろうと確信した。


        ところで、大体、リベリタリアンたちが共通して重視した自由、労働、美に対する思想を整理してみると、
    次のようなものである。

        即ち、自由はいかなる理由でも制限したり押しつけたりすることはできないものであり、また、個人の自由と
    全体の福祉は互いに相反するものではなく、両側の車輪のようにどの一方の車輪も不安定になっては成り立たない
    ものであり、かつ自由とはそれ自体が完全なものであり、政治的自由とか経済的自由とかいうふうに互いを引き
    離すことができるものではないということ。


        労働もやはり肉体労働と精神労働両者の分離ではなく、完全化によってのみ自由が可能だということ、そして、
    美は抽象的な遊戯的なものではなく、具体的な機能的なものであるとリベリタリアン哲学の中核をなすこの自由と
    労働と美の問題を、人間個々の生活の中で、また共同体の生活の中で実践的に解き明かすのが今後のアナーキズム
    の積極的課題になるだろうということについて異論はない。

        終わりに、スペイン革命で国際アナーキスト義勇軍として直接参加したベイユのような女流思想家は言うまでも
    ないが、その他の有数のリベリタリアンたちが大部分、その後マルクス的革命に背を向け、アナルコサンディカリ
    ズムを彼らが理想とする社会へ進む指針として採択した理由がどこにあるとみなければならないか?
その答えを
    我々は権威主義的社会主義者たちの自由の問題や労働の問題に臨む態度が生ぬるくて、あやふやなところに見出す
    のである。


        最初に、自由の問題について述べると、おそらく現代の最高の知識人を自負する彼らであるだけに、この問題を
    深く正しく思索した思想家であることは間違いないだろう。リベリタリアニズムはその名称自体が語るように自由
    を出発点であると同時に到着点と考えるほど何よりも重要視する。ところが、20世紀の権威的社会主義がこれを
    度外視したことから、人間解放の事業に失敗したことが明白になったところで、何を彼らとさらに論争する材料が
    あっただろうか。社会主義における自由の復権を要求する彼らであっただけに、その道をアナルコサンディカリズ
    ムから見出すのはごく自然な論理である。


        二つめに、労働問題もやはり自由と分離することができない問題である。この問題について最も厳しい発言を
    したのはシモンヌ・ベイユだった。彼は8時間余りの非人間的な労働をした後レジャーを楽しむのが今日の労働者
    の一般的な状況であることを指摘する。人類はこれまで(政治的、経済的な)‘二種類の重要な抑圧形態だけを
    知って’いたが、今日、‘新しい形態の抑圧、即ち機制(職能)の名の下に行使されている抑圧’に出くわして
    いる。この第3の抑圧にどうやって対処しなければならないか、権威的社会主義は何の解決策も提示できずにいる
    と批判したのである。


        ベイユは、マルクスは「若い時、プルードンの精神と根本的には極めて近い考えで労働の哲学を完成させよう
    として出発した。」
しかし彼はその“輪郭の輪郭さえも作れず”、プルードンもやはり“多くの煙の中にいくつ
    かの閃光を投げかけた”だけだと述べながら、これから‘労働の哲学’問題が“今世紀に残された最も重要な創造
    的課題”になるだろうと披瀝した。一方、リードはこの問題を産業主義やビューロクラシー(官僚主義)の問題と
    してとらえ、“アナーキズムはただスターリンのような個人的暴政に反対するだけでなく、また資本主義による
    人間の搾取に反対するだけでなく、産業主義やビューロクラシーに最も徹底して反対する者”と述べ、その対策と
    してリベリタリアニズムに立脚したアナルコサンディカリスムの行動的側面と労働哲学の側面からの労働=遊戯の
    関係を追求した。ここで特に彼がこっそりとアナルコサンディカリスムの独創的行動手段であるゼネラルストライ
    キ問題を提起したのは、現代アナーキズムの行動方向を設定するうえで重要な示唆と言えるだろう。

        「労働者階級の最も大きな力であるストライキはまだ知性と勇気をもって行使されたことがない。
       ストライキは階級闘争、報酬に対する労働組合の闘争という狭い意味にとらえられていた。
       1926年のゼネラルストライキはストライキ労働者自身が受け入れなければならない一つの論理を
       示した。即ち第3の部隊・・・共同体が含まれなければならないのである。・・・未来のゼネラルスト
       ライキは共同体のストライキとして国家を狙って組織されなければならない・・・。」

     
       要するに、ロシア革命のご破算とスペイン革命に現れた新しい革命のエネルギーに刺激されたリベリタリア
    ニズムは、
手垢(てあか)に汚れた絶対自由の精神を今日に再喚起させるとともに、その基盤の上で産業社会におけ
    る人間の完全な解放を自由と労働の哲学を通て展開しようと試みたものであるというところに意味を見出さ
    なければならないだろう。したがって現代アナーキズムが直面している課題は自由の原理に基づく組織の問題
    に帰着すると解釈することができるだろう。革命闘争においての組織、過渡期においての組織、高度の生産力を
    持った現代産業においての組織、そのすべてがひとつの輪結ばれているのである。

 

                               トップに戻る