4-2.張周基    장주기

   
  (1)張周基らの殉教

     張周基(1803~1866)は京畿道の水原で生まれ、1827年、24歳の時に中国人神父から洗礼を受けた。洗礼名はヨセフである。

    その後、妻や子供たちにキリスト教の教理を教え、洗礼を受けさせた。1836年にモ-バン神父が朝鮮に入国すると、モーバン神父

    から自分が住む村の伝教会の会長に任命された。1839年に己亥迫害が起きると、妻子を連れて故郷を離れ、安城・聞慶・原州等へ

    逃れたが、1845年に忠清北道の堤川 舟論に定着した。1855年、メストレ神父が入国してくると、舟論に朝鮮で最初の神学校が建

    てられた。名は聖ヨセフ神学校という。この時、張周基は自分の家を神学校の建物として提供し、自分は学校の漢文教師を務め、細々

    した仕事も引き受けた (『斗山百科』)。

     1866年3月1日、神学校のプルティエ神父とプティニコラス神父が逮捕された時、堤川の山奥へ逃れたが、信徒たちの被害状況が

    心配になり、自首した。漢城に押送された後、棄教するよう迫られたが拒絶し、ダブルイ司教とウイエン神父、オメトル神父、信徒の黄

    錫斗とともに死刑宣告を受け、3月30日、忠清南道の保寧で晒首刑に遭い、殉教した。1968年10月6日列福され、1984年5月、

    韓国キリスト教200周年(1784年に李承薰が北京の北天主堂でフランス人司祭のグラモン神父から洗礼を受けた。)にあたり訪韓し

    たローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって、他の102名とともに聖人に列せられた。

     辛酉迫害が起きた1801年、黄嗣永(ファン・サヨン)が迫害の状況を中国・北京にいる西洋人司教へ知らせようとして帛書(はくしょ

    を書いた場所が舟論の土窟であり、現在も保存されている。舟論には韓国カトリック教最初の神学校である聖ヨセフ神学校跡が復元さ

    れており、これらは「舟論聖地」として2001年3月2日、忠清北道記念物第118号に指定された。
       
     舟論聖地の写真は韓国のインターネットで公開されている。

        ( NAVER지식백과→ 두산백과→ 배론성지

          http://terms.naver.com/entry.nhn?cid=200000000&docId=1217200&categoryId=200001108  )


    なお、ダブルイ司教とウイエン神父、オメトル神父、信徒の張周基、黄錫斗の5人が忠清南道保寧市のカルメモッという砂浜で晒首の

   刑を受けた場所は、「保寧 カルメモッ 天主教 殉教地」 として2013年2月12日、忠清南道記念物第188号に指定された。ここには、

   殉教者記念碑、記念館、司祭館、修道院などが建てられていて、朝鮮教区第5代教区長 ダブルイ司教の遺品も所蔵されている。「舟

   論聖地」とともに、この「カルメモッ聖地」は韓国カトリック教の重要な聖地となっている。ちなみに、「カルメ」は「カルメギ」が短縮されたも

   のでカモメのことであり、「モッ」とは池とか淵のことである、と考えられている。(韓国版ウィキペディア 『カルメモッ』)



  (2)大浦天主堂で張周基らの遺骨を一時保管

    カトリック長崎教区本部事務局の長野宏樹氏によると、保寧市のカルメモッで殉教したダブルイ司教たちの墓があばかれ遺骨が汚さ

   れる危険性が高くなったので、1882年3月、パリ外国宣教会のブラン副教区長は迫害が終わっていた日本で殉教者の遺骨を保管して

   もらうよう指示した。その結果、殉教者の遺骨は同年11月6日、長崎へ無事に運ばれ、プチジャン神父が受け取って、その後12年間、

   大浦天主堂で保管されたとのことである (『旅する長崎学5 キリシタン文化Ⅴ』 長崎文献社 2006年)。長野宏樹氏の記述では殉教

   者はダブルイ司教とウイエン神父、オメトル神父、信徒会長の張周基の4人となっていて、黄錫斗の名はない。これは、黄錫斗が殉教し

   た後、家族が遺骨を引き取ったからだと言われているとのことである。(Facebook 『長崎巡礼 大浦天主堂と韓国の聖人』)

    プチジャン神父(1829~1884)はパリ外国宣教会の会員で、1863年に長崎へ派遣されている。1865年2月居留地に住むフランス人

   のために大浦天主堂が建てられたが、3月17日、浦上地区の潜伏キリシタンたちがこの天主堂にやって来て、プチジャン神父にキリシ

   タンであることを打明けたことは有名である。プチジャン神父はこの「信徒発見」の仔細をヨーロッパに書き送ったので、ヨーロッパで大き

   なニュースとなった。その後プチジャン神父は1868年に司教に任命されている。


                   
 
              プチジャン神父                    創建当時の大浦天主堂
             
            『プチジャン司教書簡集』より掲載             平成25年7月28日付け長崎新聞より掲載



    上記 『旅する長崎学5 キリシタン文化Ⅴ』の「プチジャン神父、朝鮮の聖人の遺骨をあずかる」によると、1882年に殉教者の遺骨を

   日本で保管してもらうよう指示したブラン神父は、1872年に大浦天主堂でプチジャン司教から司教に叙階されている。ブラン神父が朝

   鮮へ入国して布教活動を始めたのは1876年である (韓国版ウィキペディア『ウィキ百科』)。1878年朝鮮から満州へ追放され、1880

   年に日本へ渡った朝鮮教区第6代教区長 リデル司教は大浦天主堂にも滞在している。1884年にリデル司教が死去するとその後任と

   としてブラン神父が朝鮮教区第7代教区長に任命された。

    こうしてみると、キリスト教の歴史上、長崎と韓国とは少なからぬ縁があることがわかる。古くは豊臣秀吉による文禄慶長の役で捕虜と

   なって日本へ連れて来られた朝鮮人の一部は長崎で洗礼を受けてキリスト教徒となり、1610年に長崎にサン・ロレンソ教会を建ててい

   る。


    ダブルイ司教、ウイエン神父、オメトル神父、張周基信徒の4人の遺骨は大浦天主堂で12年間保管された後、1894年5月22日朝鮮

   へ返還された。1990年にソウル市にある明洞大聖堂の地下聖堂に安置され、現在はソウル市の切頭山聖地に安置されている ( 『旅す

   る長崎学5 キリシタン文化Ⅴ』)。

    これら4人と黄錫斗は1984年4月に韓国を訪問したローマ教皇 ヨハネ・パウロ2世から聖人に列せられている。

    なお、この切頭山天主教聖地には1966年に殉教100周年を記念して切頭山殉教記念館が建てられ、2000年に切頭山殉教博物

   館に名称変更された。



               
      
         大浦天主堂 (国宝)                  大浦天主堂横の旧羅典神学校 (国指定重要文化財)

                                    プチジャン神父やドロ神父により1875年(明治8年)設立され、
                                   神学校兼宿舎として使用された。リデル司教もここに足を運んだ
                                   はずである。






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