6.崔益鉉   최익현


                      

     『慕德祠  殉国先烈 勉菴 崔益鉉先生 遺蹟』より掲載            対馬に護送される途中の崔益鉉
                                                    
      (韓国忠清南道青陽郡 慕德祠管理事務所発行)              (『写真で知る 韓国の独立運動 』より掲載)




 (1)大院君弾劾の上奏


  崔益鉉(チェ・イッキョン 1834.1.14~1907.1.1)は朝鮮王朝末期の儒学者であり政治家である。京畿道の抱川(ポチョン)出身

 で、字は賛謙、号は勉菴、本貫は慶州である。

  1846年、13歳で李恒老(イ・ハンノ 1792~1868)の門下生となり、師 李恒老から儒学、特に朱子学を学んだ。李恒老は朝鮮が

 唯一の小中華であると考え、キリスト教(カトリック)の浸透や欧米の開国要求・軍事的圧力に対して衛正斥邪(正学である朱子学を衛(まも)

 り、その他は邪学として斥けること)論を唱え、攘夷論を強く主張した(『朝鮮を知る事典』)。この衛正斥邪論は外からの侵略に対する抵抗

 思想にはなり得たが、国内外の情勢変化に対応する変革の思想とはなり得なかった。したがって、やがて李恒老の高弟となる崔益鉉も師と

 同じ思想や行動をとるようになる。

  崔益鉉は1855年科挙試験を受けて文科に及第、官吏としての道を歩む。1868年9月、時政を論じたり官吏の監察などを行う司憲府の

 掌令(正四品の官職で、定員は2名)になった。同年10月、景福宮の再建中止や聚斂(しゅうれん-きびしく租税を取り立てること)政策の

 廃止、当百錢(1866年に景福宮の建設のため発行した貨幣)の廃止、四大門通過税の廃止を上奏して、高宗の父 大院君の対内政策を

 批判した。ところが、この上奏により、王に諫言をする役所である司諫院から弾劾を受けて、官職を剥奪されてしまった。

 その後、すぐに王室に近い親戚間の親善を図るための事務を行う敦寧府の都正(正三品の官職)に任命されるのだが、辞職して楊州(京畿

 道議政府の旧称)の直谷へ下り、学問に力を注いだ。

  1873年、王命の伝達と臣下の上奏の取次を行う機関である承政院の同副承旨に任命された。承政院には3人の承旨と3人の副承旨が

 おり、すべて正三品の堂上官である。この6名はおのおの中央官庁である六曹の事務を担当し、都承旨は吏曹、左承旨は戸曹、右承旨は

 礼曹、左副承旨は兵曹、右副承旨は刑曹、同副承旨は工曹を担当した。これらは王の秘書として、その職責は重要だった。この同副承旨

 に崔益鉉は任命されたが、すぐに辞職し、再び上奏して大院君の政治を攻撃すると、大臣を始めとした官吏たちや成均館の儒生から猛烈

 に非難された。しかし、親政を考えていた高宗は彼の上奏を受け入れ、彼を戸曹の賛判に任命した。賛判は從二品の官職で、日本の大臣

 に相当する判書に次ぐ官位だった。同年11月3日、上奏して先般の上奏内容をさらに詳しく展開し説明を行って、万東廟の撤廃を始めとし

 た大院君の失政を痛烈に批判して下野を要求した。万東廟は文禄・慶長の役時に朝鮮を支援してくれた明の神宗のために、宋時列の遺命

 で717年に建てられた祠堂で、神宗と毅宗が祀られていた。大院君はこの他、全国の書院を大整理し47箇所を残して他のすべての書院を

 撤廃したために、当時の儒学者から猛烈な反対を受けた。この崔益鉉による大院君弾劾上奏がきっかけとなり、閔妃とその一族の策動もあ

 って、この上奏のあった月、10年間執権してきた大院君が政権の座から退き、高宗が親政を行うようになった。

               そ
 (2)五不可斥和義疏

  1875年9月、日本軍艦 雲揚号と朝鮮の江華島守備隊との間で交戦が行われた雲揚号事件が起き、翌年1月に日本との間で通商条約

 締結が推進されると、同月22日、崔益鉉は斧を持って宮殿の前に平伏し、日本との和議を排斥する上奏を行った。これが「五不可斥和義

 疏」と言われるものである。その概略は次のとおりである。


  
  第一、日本との講和は日本の脅しに屈服するもので、武力を備えることができず、一時しのぎの策で講和を推進するならば、今後、敵の

 無限の貪欲から逃れることができない。

  第二、日本の物貨はすべてが淫らで贅沢で、心を蝕み、風俗を腐敗させるものであり、我が国の限られた農業生産品で敵の無限の工業

 生産品と交易するようになると、必ず経済的破綻を招くものである。

  第三、日本を倭と呼んできたが、実は洋賊と変わるところがないので、いったん講和が成立すれば、禽獣と同じ西洋人の邪教が入ってき

 てわれわれの伝統的秩序を崩壊させるであろう。

  第四、日本と講和を結んだ後、日本人が我が国内を往来しようとすれば拒絶することができず、また、家を建てて住もうとしても拒絶する

 ことができないので、いったん日本人が国内に入って我々と一緒に住むようになれば財物や婦女子を略取し、強奪することを誰が防ぐこと

 ができようか。
 
  第五、日本人どもは丙子胡乱(1636年の清国による朝鮮侵略)を起こした清人とは違い、財物や婦女子のみを狙い、人間としての体面

 が少しもないので、これは即ち禽獣である。人が禽獣と一緒に住んでも何の憂患もないと言うのは、いったいどういうことかわからない。 



  以上、五項目のうち、ごく要点のみを紹介したが、本文はもっと長いので附言しておく。全項目とも最後は、「和約は我が国を滅亡(乱亡)さ

 せることになるでしょう」という文章で終わっている。このように、崔益鉉は日本と講和を結ぶことに激しく反対した。しかし、翌月27日に日朝

 修好条規(江華島条約)が締結され、領事裁判権を認めさせられて、朝鮮側にとっては崔益鉉が心配したように不平等条約となった。

  この上奏をしたために、崔益鉉は全羅南道の黒山島に流配された。黒山島は木浦市から南西に97kmの方角にあり、面積は19.7km²で

 ある。正祖時に文臣となった天主教徒の丁若銓(1758~1816 実学者 丁若鏞の兄)は1801年に辛酉迫害でこの島山島に流配されて

 おり、崔益鉉と丁若銓の遺跡地が現在も残っているという。(ウィキペディア「黒山島」)

  崔益鉉は1879年に許された後、故郷へ帰り、学問に精進した。


 (3)開化派政権に反抗
 
  1894年に全羅道を中心にして甲午農民戦争(関与者に東学党信者がいたことから東学党の乱とも呼ばれる)が起きると、崔益鉉は農民

 軍を掠奪・残虐行為を行う集団とみなして強力に非難した。同年6月、大院君がクーデターを起こして閔氏政権を追放し、金弘集政権を誕生

 させた。金弘集政権は穏健的開化派を中心とした政権で、改革運動を推進した。このため、1895年6月、崔益鉉は「請討逆復衣制疏」とい

 う上奏文を上げて、この開化派政権を敵とみなし、開化政策の全面廃止を要求した。また、朴泳孝や徐光範ら急進的開化派の処罰とこれら

 「逆賊」たちを庇護する日本に対する問罪を要求した。

  同年8月、閔妃暗殺事件が起こり、11月に断髪令が下ると抱川郡内の両班たちを集めて国母のかたきをうち、断髪令に反対することを企

 てた。内部大臣 兪吉濬が差し向けた巡検によってソウルへ押送され監禁されていたが、1896年2月、開化派政権が崩壊すると釈放さ

 れ、郷里へ帰った。続いて、高宗から各地で起きた義兵を懐柔して解散させるための宣諭大員に任命されたが、応じなかった。


 (4)12か条の上奏を行う

  1898年、議政府賛政と中枢院議官に任命されたが出勤せず、至急しなければならないこととして12条の上奏を行った。これは時務12
    
 条陳疏と呼ばれるが、大意は次のとおりである。

 
  1.王は名望ある臣下に儒教の経書を講義させて、学問に力を入れること

  2.飲食を控えて健康を保護すること

  3.個人的な頼みを遠ざけ、宮中を厳にすること
 
  4.人を使うことを詳らかにし、朝廷を正すこと

  5.百官を監督し、真実を明らかにすること

  6.法律を公正に扱い、紀綱を確立すること

  7.民党を解散させ、反乱の進展を防ぐこと

  8.喪中は官職に就かない慣例を破って喪中の身で官職に就くことを禁止し、風俗を美しくすること

  9.無駄遣いを省き、国費の貧しくせっぱつまった状態から免れること

 10.軍法を厳しくし、軍備を強化すること

 11.逆賊を討って大義を明らかにすること

 12.華夷の区別を厳格にし、大望を打ち立てること


 (5)反日活動を行う 

  崔益鉉は1900年、居住地を忠清道定山に移した後、洪川・堤川・安東・廣州などを旅行して親戚・友人たちを訪問し、講会を開くなど悠々

 自適の生活を送った。

  1904年、日露戦争が起こるとともに、日本の朝鮮侵略はますます強まっていく。この年2月に日韓議定書が締結され、日露戦争での補

 給のため日本軍の通行権などが確保された。8月には第一次日韓協約が締結されて、韓国は日本政府の推薦する者を韓国政府の財政・

 外交の顧問に任命しなければならなくなった。これは、韓国保護国化の第一歩となるものであった。この時、高宗は崔益鉉に密書を送り、上

 京して諮問に応えるよう要請し、宮内府特進官などの職位を与えた。1905年1月、高宗と面談し、国勢が今日のように危機に直面すること

 になった最大の原因は、閔妃暗殺事件以後、復讐心が欠除したためであり、この危機を克服するためには、国王が心を持ち直さなければ

 ならないと主張し、人材を選んで用いること、民の財産を苛酷に取り立てることの禁止など5か条の時務策を言上した。高宗がこれを受け容

 れないと、重ねて上奏して、日本の侵略を批判した。崔益鉉の反日活動をきっかけに、金鶴鎮・許蔿等の反日上奏が引き続き行われ、同年

 3月、日本の憲兵隊に拘束されて抱川に強制送還された。数日後、再度上京して上奏文を作成したが、再び強制送還された。

  1905年11月17日、大韓帝国の外交権が剥奪されて日本の保護国となった第二次日韓協約が締結されると、崔益鉉は11月29日、「請

 討五賊疏」を上奏し、条約の無効を国内外に宣言した。また、この条約に立ち会った外部大臣 朴斉純ら「五賊」を処断するよう主張した。

 そしてこうした上奏運動が失敗するや、全国にわたって反日運動を起こすことを決心し、「布告八道士民」を各地に送って、韓民族が堂々と

 した自主の民族であることを明らかにするとともに、韓国の悲痛な前途を予測し、ただ、韓民族は決起闘争しなければならないこと、乙巳五

 賊を討伐すること、これらが国王を圧迫して日本の捕虜にしようとするなどの凶悪な陰謀を防止すること、結税上納を拒否し、日本の経営す

 る鉄道に乗ってはならず、軍器・銃砲以外の日本商品を買わないことなどを求めた。


 (6)淳昌武装蜂起

  1906年1月、忠清南道論山の魯城 にある闕里祠で数百名の儒者を集めて、時局が切迫していることを訴え、一致団結して国権回復に

 参加することを求めた。続いて、全羅北道泰仁の林炳瓚と義兵を起こす計画を立て、113名の志士たちと「同盟録」を作成した後、湖南の

 各郡に檄文を送って参加を求めた。6月4日、泰仁の武城書院で各地の儒生や義兵を集結させた中で、「倡義救国」を決議し、「倡義討賊

 疏」を上奏して義挙の心情を披歴し、檄文を各地へ送って呼応を求めた。日本政府に対する問罪書である「奇日本政府」では江華島条約

 以来、日本が犯した欺瞞的な背信行為を16か条にわたって列挙しながら、朝鮮と日本、さらに東洋全体の平和のため、一日でも早く撤去

 するよう求めた。続いて泰仁邑を無血占領し、そこの武器と税金を接収し、翌日、定邑に到着して武器と兵力を増強した。再び淳昌へ行

 軍、多くの住民と吏卒たちの歓迎を受けて入城し、小銃や火薬などの武器を集め、各地から支援軍が到着して、義兵の数は500名に達し

 た。この時、全州警務顧問支部所属の警察隊が出動するや、これを撃退した。

  6月8日、谷城に入り、日本の官公署を撤去し、税金と糧穀を接収した後、淳昌へ帰った。この時の義兵の数は900名に増加し、小銃な

 どの武器をそろえて戦力が増強した。6月11日、光州観察使の李道宰が高宗の宣諭詔勅を伝えて解散を説得したが、これを拒絶した。

  しかし、この日、全州監察使 韓鎮昌が率いる全羅北道地方鎮衛隊の包囲攻撃を受け、林炳瓚・高石鎮ら12名と共に捕らえられ、ソウ

 ルへ押送された。その後、日本軍司令部へ引き渡され、度重なる懐柔や審問にも屈することなく抵抗していたが、林炳瓚とともに対馬へ流

 配となり、対馬警備隊に監禁された。


 (7)閔宗植の洪州蜂起
 
  崔益鉉の武装蜂起に先だち、閔宗植(1861~1917)が洪州で武装蜂起を行ったが、鎮圧するのにかなりの日数を要している。5月半ば

 に蜂起したが、日本軍に鎮圧されたのは5月31日のことで、半月を要した。東洋日の出新聞にその様子が報じられているので、紹介する。


  明治39年6月4日付東洋日の出新聞

  「●韓国の匪徒

    韓国洪州匪徒事件は統監府設置以後における著しき出来事なりとす。匪徒が暴行を始めたるは5月14,5日の頃にしてわが憲兵

   警察官の討伐その効を奏せず遂に軍隊の派遣となり、31日わが歩兵第60連隊の2個中隊が城門を爆発して洪州城を占領するまで

   実に半ヶ月の日数を費やせり。匪徒は旧式の小銃大砲を有しその総勢600人、加ふるに城郭をめぐらせる市邑に拠りて反抗したる

   ものなれば、之が討伐に半ヶ月の日数を費やしたるは敢えて怪しむに足らざるも、もと之烏合の衆にしてその討伐をわが軍隊に委す

   るや僅かに1,2日にして効を奏したるを見れば、その以前の13,4日はすこぶる緩慢に経過したるの嫌いあり。在韓のわが当局者は

   最初之が鎮定を韓廷に迫り、その自力によりて処理せしめんとしたるも成功せざりき。之あるいは単に形式的通牒に過ぎざりしや知ら

   ずといえども、たまたま以て統監府の韓国指導監督方針が極めて消極的なる一端を暴露せるものにあらずや。ついで之が討伐を行政

   警察権によりて遂行せんとして之また成功せず遂に軍隊の力をかるに至りしは、そもそも賊を軽視したる鑑定違いか然らずんば最初
                                                                            そぞく
   の偵察を誤りたる結果たらずんばあらず。いずれにせよ、この匪徒の鎮圧方法はやや味噌をつけたる感あり。之が為鼠賊の輩が連日

   忠清南道に跋扈し、また安東を襲いわが邦人とその産業を脅かさんとし、一方には京城の宮廷と気脈を通じて如何にも政治的運動の

   旗上げをなしたる如く言い触らし、たとえ短時日とはいえ一部韓民をしてわが統監府の威厳を疑わしめたる間接の損害は決して小とい

   ふべからず。幸いにして軍隊の力は一挙洪州を抜き敵を倒すこと60、捕虜100余名、賊巣を掃蕩して、ここに忠清南道の鎮定を告げ

   たるも、今後此の種の騒擾はなお諸所に起こるべく、現に慶尚北道にも忠清の匪徒と類を同じうせる鼠賊ありて、わが邦人の経営せる

   砂金産業地を脅かすあり。洪州の賊魁閔宗植もわが討伐隊の目を掠めて逃走したりと云へばまた何れかの方面に現れ来るべし。要す

   るに此れら匪徒の人民に与ふる感化及び本邦人の□□□□及ぼす影響は軽々に看過すべからざるものあれば、緩慢なる討伐をなす

   はわれの韓国に処する政策として決して賢明の方法といふべからず。



 (8)東洋日の出新聞による武装蜂起事件真相報道


    明治39年6月17日付東洋日の出新聞

  「●韓国匪徒の真相

     近着の漢城新報は昨今韓国各地に動せる暴徒と宮廷との関係に就き左の如く其真相を報道せり。

    昨秋日韓新条約の成立せし時宮廷における恐慌は非常のものにて、如何にもしてこの条約を打壊し旧状に復したしとの希望切なるも

   のあり。かの李容翊の如き畢竟この希望に依り遠く欧州に派遣せらるるに至りたるも、大勢は何人も移動すること能わず。世界列国一

   も之に傾聴するものあらざれば陰謀団はようやく大勢に従ふて成り行きを観測し、その□を□て之に応ずるを得策とし、在外公使館及び

   領事館の撤廃も本年1月2月の間に一切の授受を結了せしも、李容翊は深く王命をふくんで各地の同志に示諭する所あり。在外公使た

   るもの多くはそのまま各国に滞在し、殊に露国にありし李範普、仏国にありし閔泳讃両人の如きは数次露独仏諸国の君主及び政治家と

   会見し何等かの運動に従事し、殊に李容翊の如きは露国政治家との間に深契を締し、一時露国が日本に向かって露韓条約破棄のこと

   に付き質問する所ありしが如き、全く李容翊との間に行はれたる約束の片影とも見らるる所ありしも、日本政府の公明なる弁明によりて

   露国の緘黙となり、今やその総領事ブランソン氏も韓国赴任につき明らかに日本政府の承認を得んとするの態度を占したれば、李容翊

   の運動は今急にその功を挙ぐべしとも思はれず、仏独諸国における陰謀団員もまた等しく無効の行動を為すに過ぎず、要するに列国を

   操縦して日本を制せんとの陰謀は今日まで何等の効果あらずして終わりたりき。ここにおいて宮廷に潜める陰謀者はさらに一段活躍を

   試みるの必要を悟り恐れり。けだし、列国が日本を制することをなさざるは畢竟、日本の韓国に対する態度を是認し、これによりて韓国

   皇室及び人民の幸福安寧を増進すべしと期待すればなり。故に韓国の上下が日本を喜ばず、皆起って日本の勢力を排斥せんとする意

   思を事実の上に示さば列国必ずこれに注意し、漸次日本の態度を疑うに至るならん。これをなす先づ宜しく義兵を煽動すべしとは宮廷

   の陰謀団が評議一決せし所なるが如し。(未完)



    明治39年6月18日付東洋日の出新聞

  「●韓国匪徒の真相 (続)

     斯くの如くにして義兵を起こすの義一決したるも、従来の草賊にひとしき人物を以てしては到底列国の視聴を惹くに足らず、すべから

    く当国有数の人物をして事を挙げしむべしとて第一に韓国儒者の統領たる崔益鉉を説きたるも、この老人さすがに軽挙せず、大体の

    勢いは事を挙ぐるの不可なるを示すより宮廷の重命にても、用意にこの老人を動かすこと能はず、事意の如くならざるより先づ、從二

    品閔宗植を以て犠牲たらしめたるが、閔の兵を挙ぐる洪州一帯の地意外にたやすく占領に帰し、手兵を率いて洪州城に拠るを得たれ

    ば、崔益鉉も稍々事の容易なるを悦び、且つ宮廷の陰謀団よりはしきりに人を派してこの老人を説かしめたれば、ついに意を決して

    いよいよ蹶起するに至りたるが、この時洪州既に陥いりて閔の主従ことごとく離散せしことは崔益鉉の耳に達せざれば、老人はただ事

    を容易なりとして全州附近の城郭に拠らんとしつつあるもの誠に憐れむべきに堪えたり(記者曰く、崔はその後淳昌に拠りしも、11日

    鎮衛隊に攻撃され、その股肱林治中等10数名と共に捕縛され、京城に護送されたること東京電話の報ずる処の如し)。
     
     ここに又崔益鉉とその名を等ふして韓国の儒宗と称せらるる金舛文といふものあり。陰謀団の有力者たる姜錫鎬は必ずこの者を得

    て内外に奔走せしめんと欲し、大命と称して之を招き夜半しばしば往来して陰謀に関する協議を遂げ、一夜召しに応じて闕に入りたる

    時奏じて曰く、『昨秋以来日本の為す所一も列国の同情を得ること能わず、之が為に日本政府は困窮し、ついに伊藤統監を東京に迎

    へて百方彌縫の策を講じつつあるも、統監また韓国の事情に通暁せず、事毎に困窮を重ぬるを免れず、時勢かくの如くなる以上内外

    相応じて日本の声価を毀傷し、日本をして手を拱して列国の制を受けしむるを努め、然して内はますます忠義の士を鼓吹し身を殺して

    以て仁をなさしめば大事の定まる1年を出でず。これ実に陛下万歳大韓万歳の時なり』とここに於いてか馬牌諭尺直ちに金舛文の手

    に落ち、即ち飛んで江原咸鏡の地に向ふ。馬牌諭尺は義兵を徴するの大命を表はすものなり (記者曰く、馬牌諭尺は我国の錦旗節

    刀の類なり)。

     陰謀団の計画によれば南韓の義兵は崔益鉉を総帥とし、北韓の義兵は金舛文を総帥となさんとするに在り。而して深く宮廷に潜め

    る策士らは現内閣の上にも更改を施し、深く天下の同情を惹かんとし東宮嘉礼に藉口して大臣輔国大夫閔泳奎を推して議政府議政

    大臣となし、これを以て朴賛政以下を壓服せんと試み、閔氏百方辞退するに拘らず優詔通りに下りて、ついに之を起たしめたるなり。

    (記者曰く、金舛文また一進会のために捕はれ、而して閔は統監府の抗議によりてついにその職を罷むに至れり。しかも慶尚南北道

    義兵の大将田愚は真宝にあり、江原道義兵の大将柳麟湯は江陵に在り、相呼応して騒擾を起こさんとす。東京電話の所謂我が駐屯

    軍が高手の方法を執らんと報じ来れるもの蓋しこれを以てなり) (完)


   
     「韓国匪徒の真相」を報じた漢城新報は、熊本出身の安達謙蔵(1864~1948)が1894年(明治27年)に井上馨公使の協力を

    得て創刊した新聞で、1906年9月に伊藤博文によって大同新報と合併されて京城日報となり、韓国統監府の機関紙となっている。

     漢城新報は崔益鉉が韓国政府の有力者から武装蜂起を起こすことを何度も説得されたことを伝えており、これが事実ならば崔益鉉

    は最初から自らの意思で蜂起したわけではないことになる。韓国政府と崔益鉉との結びつきを報じた他の記事もある。東洋日の出新

    聞は次のように報じている。


     「●韓宮と賊徒

       京城発電報に曰く、賊魁閔宗植及び崔益鉉の輩は宮中と通じ居たるの風説はつとに高かりしが、過日捕虜となりし崔益鉉は義

      兵を鼓舞奨励するの韓国皇帝の密勅を帯び居たりとの風説あり。」 (明治39年6月19日付東洋日の出新聞)



    崔益鉉の蜂起が鎮圧された後、京城へ押送されることが決まったが、当時の新聞に次のように報道されている。

     「●宗州暴徒の処分

       昨日各大臣協議の結果、11日宗州淳昌に於いて鎮衛隊の為捕へられたる賊魁崔益鉉、林平孫等12名は京城に押送せしめ、

      平理院に於いて処分することに決せり。」 (明治39年6月16日付東洋日の出新聞)



    崔益鉉は京城へ押送されて日本軍から審問を受けたが、その様子を報じた記事が東洋日の出新聞に掲載されているので、以下に

   紹介する。

  
     「●首魁大に叫ぶ

        京城発電報、暴徒の巨魁崔益鉉の審問は本日午後終了せり。彼は審兵隊長に対し

                                                                           かえ
           汝は伊藤博文なるや韓国の皮と肉とを割き、骨のみになしたるは汝なり。速やかに首を元の如くにして還せ。

       
        など暴言を放ち何等隠蔽するが如き有様なかりしと。」  (明治39年6月27日付東洋日の出新聞)



 (9)対馬流配

    崔益鉉は軍法会議で3ヶ年の監禁を言い渡された。東洋日の出新聞明治39年8月16日付けには次のとおり報道されている。



    「●暴徒巨魁の監禁
 
        暴徒の巨魁崔益鉉は軍法会議にて監禁3ヶ年、林丙参も監禁2ヶ年に処せられたり。」



    崔益鉉が対馬に到着したのは明治39年8月28日早朝である。明治39年8月30日付けの長崎新聞に次のとおり報じられた。この

   記事によると、29日に到着したようにも見えるが、29日に書いた記事が30日の新聞に掲載されたものである。


    「●崔益玄以下護送

       崔益玄以下の一団は昨日京釜鉄道に依り憲兵司令部の手にて対馬に護送せり。」

 

  朝鮮人が対馬に流配となったのは、崔益鉉と林炳瓚の二人が初めてではない。 明治39年5月14,5日頃洪州で武装蜂起して同月31

 日に日本軍によって鎮圧され、逮捕されて京城に押送された後、審判を受けた者たちが先に対馬に流配されて来ていたのである。明治39

 年8月9日付東洋日の出新聞に次のように報道されている。


    「●対州に韓国囚人を繋ぐ

       韓国洪州暴徒の際捕虜となり無期監禁に処したる韓国暴徒17名は昨7日憲兵隊の手にて対馬警備隊に護送されたり。韓人の

      囚徒にして日本に護送されしは之を以て嚆矢とす。」


  ここで、国立公文書館 アジア歴史資料センターに保存されている陸軍省の『陸満普大日記『から「対馬に監置する韓国暴徒に係る給与

 及経費支弁方に付御達の件」と題する記録を参考までに紹介しておきたい。流配地での生活の一端を伝える数少ない資料であるので、

 ここに掲載しておく。作成者は陸軍省の主計課で、明治39年8月に作成されたものである。原文のカタカナは読みやすくするため全てひら

 がなに改めた。


    「対馬に監置する韓国暴徒に係る給与及経費支弁方は左の各項に依るべし
    
      一 糧食は日額三十銭を目途とし実費支弁すべし

      二 被服は本人着装の揚を使用せしめ、其使用に堪へざるものは適宜現品を貸与すべし。本人着装以外の被服にして必要のも

         のは適宜現品を貸与すべし。

         以上、被服の初度新調費は営内居住歩兵下士の初度額其の保続費は同被服年額を目途とし実費支弁すべし

      三 居住に要する器具は成るべく各部隊の不用品を応用せしめ、尚必要止むを得ざるものは適宜調弁すべし

      四 日常に要する消耗品は月額一元を目途とし灯火及薪炭 」



 (10)崔益鉉の断食について

  崔益鉉が断食をして獄死したというのは、かつての韓国での定説であった。ところが、いつ頃か筆者はわからないが、韓国での崔益鉉に
 
 関する資料をウェブサイトやブログなどから見ると、病死と書いてあるものがたいへん多くなっている。時代が変わってきているという感じを

 受け、喜ばしく思う。崔益鉉の断食の経緯については、『対馬風土記』第20号(対馬郷土研究会発行 昭和59年)の「崔益鉉の対馬流謫」

 に詳しく記載されている。執筆者は故長郷嘉寿氏で元長崎県職員であり、県を定年退職された後、長崎県立対馬歴史民俗資料館の研究員

 (嘱託)として勤務されている時に、執筆されたものである。崔益鉉の断食の様子を伝える資料として第一級の資料であり、大変貴重な力作

 である。以下に、長くなるが、「崔益鉉の対馬流謫」の一部を紹介する。


  「(4)崔益鉉の絶食事件

    崔林両名の対馬上陸は既述したように8月28日(陰暦7月9日)で、即時対馬警備隊側に引き渡されて厳原町今屋敷所在の士族授

  産所内に収容された。ここで両名は先来の同囚9人と合流したことについても先述したが、昼食を終えたその日の午後、大隊長中隊長

  両名が兵隊数名を従えて点検に訪れた。不幸な出来ごとはその冒頭に起った。

   11人を並ばせて通辨は「隊長に敬礼のため脱冠」を命じたが、崔益鉉は怒って冠を脱ごうとしなかった。通辨は隊長の言葉として「一

  同は、日本の食事を食している以上は日本之命令に従うべきで、脱冠を命ぜられれば冠を脱ぎ、削髪を命ぜられれば髪を削るべきであ

  る。何でこれにさからうのか」と伝えた。兵隊が崔老人の冠巾を脱がせようとしたところが、老人が大喝したので、兵隊が銃を挙げて老人

  に迫ろうとした。老人は胸をひらいて進み出て「ここをつけ」と大喝した。隊長が還ろうとしたとき又命令が発せられたが、崔老人は座した

  ままで立とうとしなかった。兵隊数人が左右から引き立てようとしてこれに近づいたので、同囚者がこれを授けた。老人は「気息奄奄 不

 勝痛哭」という有様であった。先にみた引用文の物語はこのことを述べたものである。

  崔老人は「自分は日本の食事を数匙食べたに過ぎない。それなのに削髪を命令するとはどういうことか。自分は朝勅に対してさえ疏諍し

 てきたのに、どうして日本人の命令に従うことができようか。しかし、考えてみると日本の食物を食いながら、命令には従わないというので

 は道理に反することになる。そこで、今からは絶対に日本の食事は食わないことにする」とこう述べた。同囚数人も、むしろ死ぬようなこと

 になっても「薙髪変服之挙」には従うべきでなく、隊長を難詰すべきだとこれに同調した。そうして既に夕食が配られていたが、崔林を含め

 6人の者は食事に全く手を付けなかったし、他の5人も数匙で止めた。

  上陸第二日目にあたる翌8月29日(7月10日)の明け方、崔益鉉は大要次のように語って、同囚一同に再び絶食の決意を述べた。

 「自分は昨冬の変以来、義の為に盡してきたが、徒らに死することは益なき事と思って、今日まで声を大にして天下に大義を呼びかけて

 きた。昨春日本軍に拿れた時既に死を決意した。此の夏憲兵隊に囚禁され今日対馬島に監禁されているが、名も無い小卒を自分を害す

 る目的で逼らせながら、口では列強の計を口にするこのような外粧内険のやり方は彼等の手である。自分は30余年日本を嫌い彼の国

 に同調しなかった。彼等が自分に害を加えようとするのは固より怪しむに足らない。自分は今日の国の危急の場合に未だ死所を得ない

 でいるが、罪はまさに死に当るものがある。今食を絶って自裁するのも運命である。自分の死後君(林炳瓉)は私の骨を拾ってくれ。そうし

 て、自分の託する上奏文を密かに故国に持ち還ってくれ」
         
  こう言って疏を認めて林に手渡した。(この時の「疏」はさきに引用した青柳南冥の「韓末孤忠の臣崔益鉉」にかかげる日本文の書下しのとおりである)
 
  こうして、崔益鉉は入島第一日目にして絶食を決意し、絶命を予期して遺疏を認め、林炳瓚に託したのはまぎれもない事実である。

 林炳瓚は、12月21日(11月6日)崔益鉉の死に先立って、病床に駆けつけた若干の門人に、この初日の不幸なトラブルの仔細を説明

 し、この時の悲壮な決意を綴った疏を示したが、それは崔益鉉が死を前にして書き遺したものではなく、右に述べたように上陸の初日の

 トラブルの際書かれたものである。

  こうして、8月28日の夕食から30日の昼までの食事を拒否するが、警備隊側の説明を了解してこの日の夕食から食事をとる訳で、欠

 食6回の後からは、監禁下にありながらも概ねおだやかな収容所生活が続けられるのであるから、この6回の食を拒否した事件と崔益

 鉉の死とは直接に結びつくものではなく、まして「絶食をつづけて餓死した」という断定は、著しく事実に反すると指摘せざるを得ないので

 ある。

  つまり、崔益鉉の発病は、この事件から3月程後の12月4日(10月19日)と日記にも明記されているのであるから、彼が官憲に対し

 死の抗議を行って遂に自らの生命を絶ったとする説には同意できない。もちろん、この不幸な事件が、74歳という老齢の彼にとって、

 精神的肉体的に相当大きな痛手となったであろうことは否定できないし、その結果として彼の死を早める要素の一つになったのかも知れ

 ないけれども。」



  この文章の後に、対馬警備隊側の事情の説明や説得によってやがて了解に達し、全員が食を取る生活に戻った経緯や、崔益鉉が絶

 食を決意し、疏を認めて林炳瓚に託した経緯について記述した当日の日記(漢文)が紹介されているが、ここでは省く。

  
 
 (11)監禁生活の様子

  韓国で義兵を起こした囚人たちの対馬での収容所生活は概ねおだやかであったと長郷嘉寿氏は『崔益鉉の対馬流謫』の中で述べてお

 られるが、その例としていくつか紹介されている。

  まず、監禁の身でありながらも、故国への通信は許され、必要に応じて市中での買い物等も認められていた。同囚の申鉉斗という青年

 が町の商店へ買物に行った際、島民と筆談をしており、島民から「公等韓国忠義之士」と称えられている。また、「已見新聞、得詳公熱誠

 愛国矣」とあり、彼等が対馬に上陸する前に新聞を見て韓国での愛国的な義兵闘争を知っていたと島民から言われている。

  また、崔益鉉や林炳瓚が儒学者ということを通訳や警備隊兵士たちは知っており、彼等が二人に詩や書を請うたので、しばしばこれを

 与えている。兵士の中には「公等不久放還、勿慮勿慮」と言って、囚人たちを慰め励ます者もおり、公務上は軍律や上官からの命令上

 厳しく接したことがあっかもしれないが、私的な立場では囚人たちに同情を寄せる者も少なくなかったと思われる。

  ある兵士は、家族に病人がいるので是非手持ちの朝鮮人参を売ってほしいと林炳瓚に頼んだところ、林炳瓚は、自分は商売人ではな

 いので、どうしてこれを有償で売ることができようか (「我非商賈、豈有賣買之理乎」)と述べて、どうしても代価を受け取ろうとしなかった

 そうで、是非にと言うのであれば、紙を少々持参すればそれで十分だと言って、病人のために快く貴重な朝鮮人参を分け与えている。

 長郷嘉寿氏は「概して言うならば、彼等とじかに接した人達の間には、温い人間的な交流があったことがしのばれる。」と記述している。

  一般の対馬島民が流刑囚に面会に訪れることはほとんどなかったようであるが、例外的に内野対琴(本名 運之助)という者が内野運

 と名乗って面会にやって来ている。内野は手土産として巻煙草6箱を林炳瓚に差し出し、二人の間に1時間に亘って筆談が行われた。

 この筆談は、内野対琴が著した「反故廼裏見」(ほごのうらみ)という下書きの書物に「韓人ト対琴筆談」という標題を付して収録されてい

 る。この面談の目的は冒頭の文章によると、「我国家今日ノ韓国経営ガ野心ナキ公明正大ノ挙ナルヲ知ラシメンニ力メントノ志ナリシ」

 とのことで、おそらく当時としては多くの国民がそのように考えていたことと思われる。
 
  流刑者には時々韓国から面会者が訪れ、それぞれの家庭の消息や故国の情報などが伝えられている。10月21日(9月4日)には

 崔益鉉の長男の崔永祚他2名が収容所を訪れ、崔益鉉もずいぶんと喜んでいる。崔永祚他1名は帰る際に対馬警備隊長に「自分

 達が代って監禁を受けるので、老親を放免してほしい」という嘆願書を提出したが、対馬に監禁されてからまだ日が浅いので、後日を

 待つようにと拒絶されている。すると、林炳瓚は「私の2年の刑期に老師の刑期3年を加算されて差し支えないので老病の師を放還し

 てほしい」と申し入れをしたが、隊長から「然政府厳命也、法律也」と断られている。子や弟子の老父や老師を思いやる心情には107

 年の時が過ぎた今でも我々の胸を打つものがある。



 (12)獄死

  崔益鉉は12月4日に病を得て1907年1月1日未明獄死した。1月5日、遺骸は釜山に運ばれ、8日故郷の洪川へ列車で送られた。

  明治40年(1907年)1月15日付け長崎新聞に『崔益鉉の遺骸』という見出しで、崔益鉉の死亡の様子が報じられている。以下にその全

 文を掲載する。



 「●崔益鉉の遺骸

    昨年夏洪州城に據(よ)りて螳斧(とうふ)を振ひたる韓国の元老株崔益鉉も時非にして一敗復(ま)た起つの勇なく、終(つひ)に生捕りとな

   り、京城に押送審理の結果、我軍律に依りて流鏑の処分を受け、同囚6名と共に我対馬に拘送されて空しく孤島の月に悶を遣(や)るの

   身とはなり居たるが、風土気候の美も給養の豊足も寄る年波は救ふべくもあらず、加ふるに老頽(ろうたい)の病魔客冬よりして医薬と

   親み居たるが、天年茲(ここ)に盡(つ)き本月3日を以て、終(つひ)に対馬の鬼となりたるが、其後想ふに親族故旧の請願に依りたるべ

   く、遺骸は韓国に送り還さるる事となれり。彼れの遺骸を収めたるの櫃(ひつ)は哀れ去る5日の午前9時汽船若津丸にて釜山港頭に到

   着したり。斯くて7日まで同地に止められ翌8日を以て彼が郷里洪州に向け鉄路送られたりと云ふ。」


             とうろう
  ここで、螳斧とは「螳螂の斧」の略で、螳螂とはカマキリのことであり、蟷螂とも書く。カマキリが前あしを上げて、大きな車の進行を止めよ

 うとする中国の故事(斉の荘公が出猟した時の話)から、弱小のものが、自分の力量もわきまえず、強敵に向かうことのたとえをいう。


  上記記事では崔益鉉が死亡した日が3日となっているがこれは誤報で、実際は1月1日である。国立公文書館アジア歴史資料センター

 に保管されている『国事犯ニテ対馬ニ監禁中ノ韓国人崔益弦病死ノ件』(明治40年1月4日付 作成者 陸軍大臣 寺内正毅)という文書

 に次のように記載されている。

  
  「国事犯ニテ対馬ニ監禁中ノ韓国人崔益弦ハ豫テ病気ノ処本月壱日午前三時死亡セレ旨報告之有り候。就テハ遺族ハ同ら該地ニ

  アル同人実子ノ請求ニ依リ引渡シ埋葬料等ハ実費支給方命ジ置候間及ビ報告候也。

         明治40年1月4日 陸軍大臣 寺内正毅   内閣総理大臣 侯爵 西園寺公望 殿  」



 最後になるが、崔益鉉の文集として「勉菴集」がある。1962年建国勲章大韓民国章が追叙された。




              

            対馬市厳原町の修善寺                    「大韓人崔益鉉先生殉国之碑」



             
                         
                              昭和61年(1986年)8月5日付け長崎新聞


  参考文献

      Yahoo Korea 崔益鉉

     「慕徳祠  殉国先烈 勉菴 崔益鉉先生遺蹟」   韓国忠清南道青陽郡慕徳祠管理事務所編  

     「韓国史新論」改訂新版  李基白著 武田幸男他訳  昭和54年 学生社 

     『対馬風土記』第20号 「崔益鉉の対馬流謫」






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