管理人より


                    令和2年12月 

                         高麗布教の予想


                  ホアン・ガルシア・ルイズ デ メディナ氏の著書『遥かなる高麗』の中に、「高麗布教の予想」という文章が掲載されています。

                 これは、ルイス・フロイスがイエズス会総長に宛てた書簡で、1596年12月3日付けで長崎から発信されたものです。
   
                  この書簡によると、この年、長崎には1300人以上の朝鮮人がおり、その大多数が2年前(1594年)にキリスト教の洗礼を
    
                 受けたと記載されています。
 
                  文禄の役で、日本軍が朝鮮を攻撃した最初の日は1592年5月24日(天正20年4月13日)ですが、侵略した2年後にはもう

                 多くの朝鮮人が捕虜として日本へ送られ、長崎だけでも1300人以上もの朝鮮人が連れて来られています。そしてもうキリス

                ト教の洗礼を受けています。何という速さでしょうか。

                 ルイス・フロイスは、この書簡の中で、「彼らがわれらの信仰を受け入れる素質のある人々であることが経験から明らかに

                分ります」と述べています。 そして、彼ら朝鮮人に関わったすべての人々は、「福音の宣教が高麗で始められるならば、信仰

                は容易に受け容れられるだろう」と言っている、と書いています。


                  全文は次のとおりです。

                  「 本年(1596年)、ここ長崎にいる多数の高麗人が、男も女も子供も信仰について教えを受けました。それは1300人を

                   超えると言われ、その大多数は受洗してから2年になり、本年告解をしたのです。
    
                    彼らがわれらの信仰を受け容れる素質のある人々であることが経験から明らかに分ります。彼らは非常に愛情深く、喜ん

                   で洗礼を受け、キリスト教徒であることに少なからぬ慰めを抱いて、告解することを希望しています。彼らは速やかに、き

                   わめて容易に日本語を覚えますから、ほとんど誰も通訳をおいて告解をする必要がありません。
    
                    聖金曜日の日暮れどき、1パドレと数人のエルマノ(修士)が扉を閉めたまま教会内を飾り、翌土曜日に使う洗礼盤の準

                   備をして、やっと仕事を片付けようとしている時に、教会の戸口のすぐ外で大きな音が聞えました。窓を開けて、誰であるか

                   と訊ねるとそこにいた人々は跪いてきわめて謙虚に、
    

                  「パドレ方、何でもありません。私たちは高麗人です。私たちは捕虜で、昨日の聖行列に参加できなかったので、今みなで

                   揃って神に慈悲と罪のお赦しを求めに来たのです」と答えました。彼らが大量の血を流しているので、彼らの言葉を聞い

                   た者は、その贖罪の熱烈さを知り、涙を誘われました。

                    この人々は素朴でありながら、秀れた理解力を示し、如何なる点でも日本人に劣らない素質を有しています。
    
                   神はこの戦いの機会に、高麗人の霊の幸福の為に、この国でこの初穂をいま前もって受けることを希望されるのです。

                    彼らに関わったすべての人々は、福音の宣教が高麗で始められるならば、―日本経由で高麗に福音の入ることを困難
 
                   とは思われませんから ―、信仰は容易に受け容れられ、それがさらに近隣の諸国に広まるだろう、と言っています。」




                     令和2年11月 

                         韓国キリスト教の起源は長崎か?


                 李世勲長崎大学多文化社会学部客員研究員が執筆された『韓国カトリック教会の起源に関する一仮説 ―長崎と朝鮮

                人―』と題する論文が長崎市で発行されている総合文芸誌「ら・めぇる」第81号に掲載されています。

                それによると、韓国キリスト教の起源は長崎にある可能性があるとのことです。あり得る話ではないでしょうか。

                 以下に、論文の一部をご紹介いたします。


                  「 1610-20年代の九州長崎には多くの朝鮮人信者が信仰共同体を形成し、下層の貧しい生活ながらもカトリック
                   信仰生活を営んでいました。この時期はいよいよ壮絶なキリシタン迫害が激しくなる時期とも重なります。まさに
                   この時期、公式な記録だけでも九州長崎に来ていた約1,700人の朝鮮人が刷還使に同行し、朝鮮の故郷に帰った
                   のです。当然、多くのキリシタンが含まれていた可能性が非常に高い。当時はイエズス会や托鉢修道会によって
                   日本からも中国からも朝鮮へ新しい布教のため宣教師派遣が何回も試みられており、実際、九州長崎で信仰
                   生活を通じて、信者会の指導的なイルマンや同宿にまで成長していた朝鮮人信者や家族が迫害を避け、さらに
                   宣教師の指導の下、信心会、秘密組織コンフラリアの経験も生かして、朝鮮での布教も志して朝鮮に帰った可能
                   性は十分あり得る話です。
                    最初に紹介した韓国カトリック教会起源の諸説の中で、4説でも5説でも、両班南人知識層の実学者が中国からの
                   カトリック教理書を学習中、聖霊の力で自生的に信仰が芽生えただけではなく、それより100年早い1650-1750年の
                   17世紀、18世紀にかけての100年間、朝鮮では少数知識層の上からの信仰とは別に、一般民衆を軸に下からもカトリ
                   ック信仰を受け入れて広がる土台、受け皿、小規模ながらいくつかの信仰共同体を形成できる基盤がすでに17世紀
                   後半の朝鮮に点々と存在した可能性があるのではないかと推論したくなります。その担い手がまさに九州長崎から
                   帰ってきた朝鮮人信者達の存在です。すなわち、長崎や九州から帰った朝鮮人による信仰共同体の基盤が17世紀
                   後半、忠清道や全羅道に存在し、それが18世紀後半の両班知識層の実学者による教理と結びつき、その種子が韓国の
                   カトリック教会の基礎になり、広がる拠点となったのではないでしょうか。だからこそ迫害が始まると多くの知識
                   層が棄教背教する中、20-30年の短期間で多くの名も知れない民衆による殉教者を生み出しながら厳しい迫害に耐え、
                   韓国カトリック教会に礎(いしずえ)につながったのではないでしょうか。」


                 韓国カトリック教会の起源は李研究員によると7つの説があるのですが、そのうちの④説と⑤説について、次のとおり

                李研究員は記載しています。

                 ④1779年説、当時の朝鮮の中央政権権力から排除された若い両班(やんばん、注1)南人知識層の実学者達が、
                   今のソウル近郊の京畿道の山奥の天真菴・走魚寺(ちょんじんあむ、じゅおさ)という仏教のお寺に集まって読経
                   する際、中国から入ってきたカトリックの教理書(例えば、先のマテオ・リッチの『天主実義』、パントアの
                   『七克眞訓』など)の書物を勉強しながら 討論する過程で、学問から 信仰が自生的に芽生えて、信仰共同体が
                   形成されたとする説、

                 ⑤1784年説で、④の影響を受けてそのリーダーの指導に従い、蔓川李承薰(イスンフン)という人が北京天主堂
                   (北堂)でフランス人司祭グラモン神父から朝鮮人最初の洗礼を受けた後、教理書や聖書、十字架、ロザリオ、
                   聖像などを朝鮮に持ち帰って、中人訳官(長崎でいう唐通事に該当)金範禹(キムボムウ、1751-1787、)の
                   家、明礼坊(みょんればん、今のソウルの明洞聖堂)に集まって天主教教理を学習し、信仰共同体を形成された
                   とみる説


 
              令和2年10月 

                               朝鮮人漂流民の一時保護施設


               1.はじめに

                   『続長崎實録大成』(全13巻)という書物の巻9「異国漂流日本人送来之部 外国人到港之部」には、日本近海で保護

                  された朝鮮の漂流民が長崎に連れて来られた後、長崎奉行所によって対朝鮮外交を担っていた対馬藩の長崎聞役に

                  引き渡されたことが記載されています。

                   それでは、対馬藩の長崎聞役は保護した漂流朝鮮人をどこに収容したのでしょうか。江戸時代、長崎には対馬藩の蔵

                  屋敷が現在の十八親和銀行本店(長崎市銅座町1-11)の地に置かれていましたが、ここに収容したのではなく、対馬藩は

                  他の施設に朝鮮人漂流民たちを一時収容していました。その施設がどこだったかというと、長崎大学多文化社会学部の
 
                  李世勲客員研究員は龍淵寺だったと考えています。そして、その地にはかつて朝鮮人が建てた聖ロレンソ教会があったと

                  同研究員は考えています。


               2.龍淵寺について

                   龍淵寺については、『長崎市史』の「地誌編」に記載されています。略記すると次のとおりです。
 
                  寛永8年(1631年)   僧嶺光(生国不明)長崎に来り、キリシタン宗門殲滅を期して、伊勢町に雲光寺を創建。

                  享保?年        7代住職の龍淵が浄財を募り堂塔を改築し、寺号を龍淵寺と改める。
    
                  享保10年(1725年)6月 本堂を改築。
    
                  文化5年(1808年)   外国船渡来異変ある場合に西中町住民の避難所に指定される。
    
                  明治29年(1896年)2月 寺号を知福院と改称。


                   地福院は平成2年に伊勢町での活動を止め、平成7年12月に長与町高田郷に新築移転しています。
 
                  龍淵寺も地福院も浄土宗のお寺です。
 

               3.朝鮮人漂流民の保護施設

                   龍淵寺が建てられた頃、その地は新高麗町という名前でした。新高麗町から伊勢町という町名に代わったのは

                 延宝8年(1680年)です。 文禄慶長の役で日本に連れて来られた朝鮮人のうち、一部の朝鮮人が長崎にも居住しま
   
                 した。初めは現在の万屋町辺りに住んでいたのですが、周辺の発展に伴い、新高麗町へ移住しました。
    
                  いつ頃からその地が新高麗町と呼ばれるようになったのか、私にはわかりませんが、朝鮮人たちが1610年に
    
                 新高麗町に聖ロレンソ教会を建設した頃は、もう既にその地は新高麗町と呼ばれていたものと思われます。
    
                 朝鮮人たちは自分たちの居住地域内に教会を建てたことでしょう。わざわざ居住地域より遠くへ建てる必要はないと
    
                 思われます。そして、漂流朝鮮人も同胞が住んでいる地域内にある施設に収容されたのではないでしょうか。
    
                 すると、新高麗町にある龍淵寺に漂流朝鮮人が収容されていたと見るのが自然ではないでしょうか。
    
    
                   長崎の歴史家の中には、伊勢町にある伊勢宮にかつて聖ロレンソ教会があったと考える方もおられますが、李世勲
    
                 研究員は、「日本人の民間信仰として神聖な天照大御神の天皇家と深い関わる伊勢宮が朝鮮人の教会跡に建てられた

                 可能性よりは、もともと朝鮮人と所縁のある龍淵寺があった場所が聖ロレンソ教会跡である可能性が高い」と推測して
    
                 おられます。

                  「龍淵寺」と改称される前の雲光寺は、「キリシタン宗門の殲滅を期して」創建されたわけであるので、そのために

                 朝鮮人キリシタンの信仰の拠り所であった聖ロレンソ教会の跡地に建てられたと見るのが自然ではないでしょうか。

                   そして、伊勢宮は寛永5年(1628)に新高麗町民が官に請うて再興され、その隣近所に寛永8年(1631年)、龍淵寺が

                 キリシタン宗門の殲滅を期して建てられたのでした。



                   参考文献
    
                        『続長崎實録大成』
    
                        『長崎市史 地誌篇 神社教育部 上巻』
    
                        『長崎市史 地誌編 仏閣部』
    
                        『韓国カトリック教会の起源に関する一仮説
                                  ― 長崎と朝鮮人 ―』  長崎大学多文化社会学部客員研究員 李世勲客員研究員著




              令和2年9月 

                         対馬が朝鮮の属州であるという誤解を招いた一要因
                          ~朝鮮国が宗氏第10代当主 宗成職へ官職を授与~ (2-2)


               1. 中枢院とは
   
                   対馬の守護・宗成職(そう・しげもと)は、宗氏の中でただ一人、1461年に朝鮮から「判中枢院事兼対馬州都節制使」という

                  官職を授与されました。当時の判中枢院事という官職は従一品であり、右賛成や左賛成、または右議政や左議政、さらには

                  は領議政という朝鮮政府の最高クラスの官職に就いていた役人が判中枢院事に任命されていたようです。

                  (ウィキ百科『判中枢府事』)

                   中枢院という官庁は『斗山大百科事典』によると、朝鮮前期において王命の出納、兵器・軍政・宿衛などを担当した役所です。
 
                 1392年に設置され、1400年に三軍府に名称が変わり、1409年に再び中枢院に戻りました。その後、1466年に中枢院と

                 いう名称に変更され、文武の堂上官(正三品以上)でありながら役職のない者を一定の事務に就かせることなく優待する意味で

                 置かれた官庁だそうです。  

                  また、都節制使というのは、地方に置かれた軍隊の指揮官のことです。


               2.朝鮮の官職を受職する理由

                  中村栄孝著 『日鮮関係史の研究 上』 によれば、当時、対馬の島内生活は経済的に貧困しており、朝鮮からの援助に

                 よって救済されようとして、島主が朝鮮から官職を受けることを念願して、使者を朝鮮に送ったようです。朝鮮の官吏に

                 なれば俸禄が支給されるからです。

                  同書によると、従一品の俸禄は次のとおりです。

                    春・・・中米3石、玄米11石、粟1石、大豆11石、つむぎ2匹、正布4匹、楮貨(こうぞ製の紙幣)10張

                    夏・・・中米3石、玄米11石、小麦4石、つむぎ1匹、正布4匹
 
                    秋・・・中米3石、玄米10石、粟1石、小麦5石、つむぎ1匹、正布4匹

                    冬・・・中米3石、玄米11石、大豆10石、つむぎ1匹、正布3匹


                  ところが、朝鮮から対馬へ官職授与の使者の派遣が決まった後、対馬から朝鮮に来ていた豆奴鋭(つのえ=津江)と

                 いう使者が受職を放棄する工作を行いました。その後、どうなったのかは、 『世祖実録』など記録に何ら残されていないよう

                 です。対馬島主へ官職を授与するか否かについて、朝鮮政府の重臣会議で慎重に討議し、国王世祖が授職を決裁したものに

                 ついて、何も記録に残っていないということは、朝鮮政府に官職授与を願い出た対馬の使者による受職放棄という事件は

                  記録に残したくないほどのものだったと思われます。

                  中村栄孝氏は 『日鮮関係史の研究 上』 で、「受職の結果が期待するところとくいちがうために、不成立をねらった謀略

                 といったことも想像できないことはない。」と述べています。また、朝鮮側は、当初から、事と次第によっては決定変更もやむ

                 をえないという態度だったそうです。

                  中村栄孝氏は 上記研究書において、「対馬島主の立場がきわめて不明確で、時局担当者の行動は、まことに理解に苦し
 
                 むところが多い。ここにツシマの存立の困難が想察され、その特殊な地位がみとめられるともいえよう。」と結論を述べて

                 います。 

                  当時、対馬が経済的に困窮しており、そのために日本の幕府ではなく、距離的に近い朝鮮政府に頼っていたことがよく

                 わかると思われます。




              令和2年8月 

                          対馬が朝鮮の属州であるという誤解を招いた一要因
                         ~朝鮮国が宗氏第10代当主 宗成職へ官職を授与~ (2-1)


               1. はじめに
   
                   宗成職(そう・しげもと)は対馬を支配した宗氏の第10代当主です。宗氏の祖は平知盛の三男・宗知宗とされています。

                 平知盛は平清盛の四男です。宗氏の初代当主は宗知宗の子の宗重尚です。しかし、宗知宗も宗重尚も確実な歴史資料

                 に登場しないところから、その実在が疑問視されており、重尚の弟で、確実な資料にみえる初めて宗氏と称した宗助国を初

                 代当主と見る説もあります。宗助国を初代当主とすると、宗成職は第9代当主となります。宗成職とその父・貞盛、祖父の

                 貞茂の3人は、対馬島の中央部の東岸に位置する佐賀(さか)を本拠地としていました。宗成職には嫡子はおらず、いとこ

                 の宗貞国が1468年に家督を継いで厳原(対馬府中)に居を構えました。なお、宗成職の4代前の第6代当主・宗澄茂の時

                 に対馬国の守護代から守護になっています。
    
                   ところで、対馬守護・宗成職は、朝鮮国から「判中枢院事兼対馬州都節制使」という官職を授与されました。朝鮮から官職

                 を授与されたのは、宗氏の中では宗成職だけだそうです。そしてこのことが、対馬が朝鮮の属州であるという誤解を招くもと

                 になったかと思われると、中村栄孝博士は『日鮮関係史の研究 上』 で述べておられます。

                   それでは、どうした事情で官職を受けたのでしょうか。その前に、まず宗成職の略歴をみて見ましょう。
  

               2.宗成職について

                   1420年 (応永27年)  第9代宗貞盛の長男として生まれる。幼名は千代熊で、彦六と通称した。
    
                                    なお、生年を1419年(応永26年)とする説もある。
    
                   1444年 (嘉吉4年)   元服する。前年、宗貞盛は、使者津江次郎を朝鮮へ派遣。津江次郎は朝鮮国の礼曹(外交や
     
                                    儀礼などを担当する中央官庁)に対し、「長子千代熊、明年、歳首加冠、請別賜」

                                    ( 首(=頭)に冠を付ける(加冠)年齢になるので、お祝いの品を賜りたい。)と言上し、
    
                                    国王世宗はこれに対して、「綿紬四匹、麻布三匹、苧布三匹」を贈ることに同意。
    
                                    宗成職は25歳で元服。
   
                   1452年 (宝徳4年)  貞盛の死去により、第10代当主となる。この年、将軍足利義成(後の義政)より「成」

                                    の字を賜る。
 
                     〃   (享徳元年)  閏8月、貞盛死去に対する弔意と島主継職の祝賀のため朝鮮から使者が来島。成職は使者を
     
                                    私宅へ招き宴を催して慰撫する。

                                    11月、対馬への使者来島に対する謝意を表すため朝鮮へ使者を派遣。

                   1455年 (康正元年)  将軍足利義成の召しにより上洛。義政に拝謁。

                   1460年 (寛正元年)  朝鮮国から使節が来島し、このことを幕府へ報告。

                   1461年 (寛正2年)   朝鮮国から「従一品」を授けられ、「中枢院事兼対馬州都節制使」という官職を与えられる。
    
                   1464年 (寛正5年)   対外関係に携わって来た秦盛幸を特使として朝鮮へ派遣し、対馬と中国との関係改善のため

                                     朝鮮に協力を依頼。

                   1468年 (応仁2年)  7月、49歳で死去。(1467年(応仁元年)死去説あり)
  
  

                        参考文献
   
                            『宗成職島主期の日朝関係』 仲尾 宏著
   
                            『日鮮関係史の研究 上』  中村 栄孝
    
                            『宗成職』   ウィキペディア 
         
                            『宗貞盛』   ウィキペディア 
        



             令和2年7月 

                                『三国史記』に記載された対馬


                 『三国史記』は、高麗の仁宗の23年(1145年)12月、官僚で儒学者でもある金富軾という人物が王命により執筆

               したもので、現存する朝鮮最古の歴史書です。


                新羅本紀 實聖尼師今 7年(408年)春2月

                 「 王は倭人が対馬島に軍営を設けて兵器と軍需品を貯え、わが国を襲おうと企んでいることを聞き 」、

                  ( 王聞倭人於対馬島置営。貯以兵革資粮。以謀襲我。)


                『三国史記』は新羅本紀から始まっていますが、対馬に関する部分は、上記「實聖尼師今7年春2月」の条に記載されて

               います。そして、 『三国史記』には対馬に関する部分はこれだけしか記載がありません。すなわち、高句麗本紀や百済本紀

               には全く記載されておらず、「地理」の中にも記載がありません。
 
                世宗元年(1419年)7月17日、朝鮮の太宗は対馬の宗貞盛あて文書を送り、対馬島はもとは慶尚道の雞林(慶州)に属する

               朝鮮の領土だったと述べています。

                 (対馬島為島、隷於慶尚道之雞林、本是我国之地)

                太宗がどんな根拠で対馬が元は慶州に属していたと言ったのか不明です。もし、対馬がもと慶州に属する朝鮮の領土だっ

               たということが高麗王朝の王侯、貴族たちに認識されていたならは、『三国史記』にもその旨記載されていたと思います。記載

               されていないということは 高麗王朝の人々はそのように認識していなかったということになるのではないでしょうか。




                  参考文献
 
                     「日鮮関係史の研究 上」  中村栄孝著  吉川弘文館   

                     「三国史記」 六興出版

 


             令和2年6月 

                          対馬の朝鮮慶尚道の属州化について  

               1.初めに

                  『老松堂日本行録』の「二月二十八の即事」と題する文章の中に、対馬の倭寇の頭目的人物である早田左衛門太郎が

                対馬東海岸の小船越に停泊している回礼使 宋希璟のもとを訪れ、朝鮮国が対馬を朝鮮の領土にした文書が対馬に届いた

                こと、先祖伝来からの対馬の支配者 少弐殿がこれを聞いたらきっと朝鮮と戦争するであろうから、少弐殿には知らせずに

                朝鮮から届いた文書を朝鮮へ送り返したいと述べたこと、宋希璟は、あなた方が派遣した使者が我が国に、対馬を朝鮮の

                領土にしてくれるよう請願し続けるので、我が国はこれを認めたのであり、今日のあなた方の意志を知っていたら国王は

                承認しなかっただろうから、国王にこのことを伝えると述べたこと、対馬の使者は朝鮮に拘留されたり、処刑されたり

                するかもしれないと恐れて、対馬を朝鮮に属させて、朝鮮の民になりたいとその場しのぎで言ったまでであり、早田左衛門

                太郎や少弐殿が言ったことではなかった、というようなことが記載されています。

                 そこで、今回は、対馬を朝鮮の領土とするよう対馬の使者が朝鮮政府に頼んだことを早田左衛門太郎は初めから知らな

                かったのであろうか、それとも早田左衛門太郎がそのように言わせたのではないかということについて述べたいと思います。

                 まず、応永の外寇(応永26年(1419年、世宗元年)6月)以後の対馬と朝鮮との外交交渉の経緯を見てみましょう。


              2.応永の外寇以後の対馬と朝鮮との外交交渉の経緯


                 ①世宗元年7月17日、朝鮮の太宗は宗貞盛あて文書を送り、対馬島はもとは慶尚道の鶏林(慶州)に属する朝鮮の領土で
                   あり、島民を皆朝鮮に移住させて朝鮮に降るべきである(巻土来降)、もしこれに従わない場合は巻土衆を率いて日本
                    本国へ帰国させてもよい(巻土帰国)、このどちらにも従わなければ、我が国は対馬を大挙して攻囲し、ことごとく
                   滅ぼしてしまうであろう、と威嚇した。対馬島を空っぽにして、海賊の巣窟を消滅させることを目的としたものだった。
                   当時朝鮮へ降っていた京城在住の日本人藤賢ら5名が使者として対馬へ派遣された。

                 ②世宗元年9月20日、藤賢らが対馬から帰って来るとともに、宗貞盛の使者 都伊端都郎(津江初郎の当て字か?)が来て、
                   降を乞い、印信を賜って朝鮮と交易をしたい、朝鮮に拘留された対馬人を返してもらいたいと述べ、土産物を献じた。
                   巻土来降も巻土帰国も無視するものだった。  
   
                 ③世宗元年10月18日、対馬に帰る都伊端都郎に礼曹判書が文書を渡す。内容は、宗貞茂はかつて衆を率いて珍島・南海
                   島等に移住することを請うた、よってその子貞盛も父の遺志を継いで券土来降すべきである、というものだった。

                 ④世宗元年11月19日、将軍足利義持の使者 僧亮倪が九州探題の使者とともに朝鮮を訪問。12月14日京城に入京。
                   日本側の音信不通を謝し、仏典を請い求めるために来たことを朝鮮側に伝える。

                 ⑤世宗2年閏正月10日、礼曹が王の世宗に宗貞盛の使者 時応界都から口頭で聞いたこととして、宗貞盛の回答の内容を
                   報告。
                    1) 対馬から人民を朝鮮の加羅山などの島へ派遣して外護をなすから、朝鮮はその人民を入島させて開墾させ、
                      その田税の一部を対馬に分け与えて、対馬の生活難を救済してほしい。
                    2) 予(宗貞盛)は、族人に守護の位を奪われるおそれがあるので、朝鮮へ出かけることはできない。朝鮮国内の
                      例により、対馬に朝鮮式の州名を付けてほしいこと、印を賜れば予は朝鮮国王の臣下となり、命令にただ従う
                      ぱかりである。   

                 ⑥世宗2年閏正月15日、朝鮮に使者を送ったことに対して日本側に謝意を表し、かつ大蔵経を贈呈するために朝鮮が宋希
                   璟を回礼使として日本へ派遣する。

                 ⑦世宗2年閏正月23日、礼曹判書許稠が宗貞盛あてに下記内容の朝鮮国の回答書を送る。
                    1) 対馬を朝鮮の属州とすることを承認し、対馬を慶尚道の管轄とする。
                    2) 願いのあった印を賜る。
                    3) 宗貞盛の代官早田左衛門太郎が朝鮮に人を派遣して文書を寄こすことは秩序に反するので、今後は宗貞盛自らが
                      書いた文書を持参しなければ、朝鮮から接待を受けることはできない。


               3.早田左衛門太郎の狼狽
    
                   回礼使宋希璟の一行が2月21日から風待ちのため対馬の船越に停泊していた時、2月28日に早田左衛門太郎が宋希璟

                  を訪ねて、朝鮮から文書が対馬に届いたこと、それによると、朝鮮は対馬を朝鮮の領土にしたこと、先祖伝来からの対馬の

                  支配者である少弐殿がこれを聞いたらきっと朝鮮と戦争するであろうから、少弐殿には知らせずに朝鮮から届いた文書を朝

                  鮮へ送り返したいと述べました。

                   これは、上の⑦の3)の内容は早田左衛門太郎にとっては極めて不都合なことであり、朝鮮との外交は今後は対馬島主

                  本人が書いた文書(親署)を持って来なければ、対馬との交渉は受け入れないという内容は、早田左衛門太郎にとっては

                  極めて衝撃的なことだったでしょう。これまで、早田左衛門太郎は対馬島主である宗貞盛の許可を得ないで、勝手に朝鮮へ

                  文書を送っており、今後はそれができなくなってしまうからです。

                   このため、早田左衛門太郎は、この文書を宗貞盛の元へ送らず、先祖伝来からの対馬の支配者 少弐殿がこれを聞いたら

                  きっと朝鮮と戦争するであろうから、少弐殿には知らせずに朝鮮から届いた文書を朝鮮へ送り返したいと述べたのだと思わ

                  れます。

                   対馬島主の宋貞盛本人は、1419年に朝鮮が倭寇の巣窟と考えて対馬を攻撃した応永の外寇が発生した当時、主家筋

                  の少弐氏のもとにおり、応永の外寇後もそのまま少弐氏のところにおりました。そこで、中村栄孝氏は『日鮮関係史の研究 

                  上』 (吉川弘文館)の中で、「当時、島主の不在を奇貨として、在島の代官その他が然るべく措置して、文書の往復を行って

                  いた真相を暗示しているものといってさしつかえなかろう。」と述べて、朝鮮との外交は島主のいない間に、対馬にいる代官、

                   すなわち、早田左衛門太郎などが行っていたのが真相であろうと推測されています。    


              4.対馬人の苦悩

                   それでは、対馬から朝鮮への使者に、どうして早田左衛門太郎は対馬を朝鮮の属州としてほしいと朝鮮側に言わせたので

                  しょうか。それは、対馬が耕作地が少なく、対馬の人々は貧しい暮らしをしていたからではないでしょうか。早田左衛門太郎は

                  本心から朝鮮の属州になりたいと思っていたわけではなく、朝鮮から米などの食料を得るための手段として、属州になりたい

                  と言い寄ったものと思われます。対馬は「山険しく、深林多く、良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す」と

                  古代の中国の史書 『魏志倭人伝』に描かれている状況は、15世紀になってもほぼ同じだったと思われます。生きていくため

                  に倭寇になってしまうしかなかった人々もいた時代でした。

                  対馬を倭寇の巣窟と考えた朝鮮が対馬を攻撃した応永の外寇が起こるとは、対馬人は予想もしなかったのではないでしょう

                  か。応永の外寇後、朝鮮との関係が厳しくなった対馬は生き残りをかけて、朝鮮の属州になりたいと言って朝鮮側にすり寄っ

                  たものと思われ、そこに、対馬人の苦悩がにじみ出ているように思われます。
    



                     参考文献
    
                        「老松堂日本行録」   宋希璟著  村井章介校注  岩波文庫

                        「日鮮関係史の研究 上」  中村栄孝著  吉川弘文館   





             令和2年5月 

             
                     『老松堂日本行録』に記載された対馬の豪族 早田左衛門太郎(2)  


              二十一日対馬島の東面船余串(フナゴシ)に到泊し万戸に示す
   
                 世宗2年2月21日、日本回礼使一行は風待ちのため、対馬島東面の「船余串」(船越)に停泊しました。船越には大船越

                と小船越がありますが、 『老松堂日本行録』(岩波文庫)で村井章介氏は、回礼使一行が停泊した「船余串」とは小船越の

                ことであり、早田左衛門太郎(倭寇の頭目的存在)はここを本拠としていたと校注をつけておられます。この日、早田左衛門

                太郎がまた船にやって来て、酒を献呈したそうですが、宋希璟は、早田左衛門太郎について、「国家に向う語言至誠なり」と

                書いています。そして次の文章を書いて、早田左衛門太郎に見せています。


                    将軍感化す太平の春 国に向う心誠にして賜命新たなり 慕義の語言は皆理に(かな)い 

                    (かれ)もまた是れ一純臣なるを知る


                 早田左衛門太郎のことを「純臣」と書いており、 宋希璟は彼をとても誠実な人間と思ったようです。



                  二月二十八日の即事  

                 宋希璟は2月28日にあった出来事について、次のとおり書いていますが、とても興味深い部分です。対馬から朝鮮へ派遣

                された使者が勝手に対馬を朝鮮の一部にしてほしいと朝鮮政府に頼み込み、承認されたものです。

                 このことを知った早田左衛門太郎が宋希璟に訴える場面です。次のとおり現代文に訳してみました。


                  「我が国が対馬に兵を送った後、早田左衛門太郎が我が国に派遣した使者が対馬に帰った来た。太郎が書を孔達と

                   仁輔に見てくれと言うには、

                    『朝鮮は昨年この島を攻撃し、今度は対馬を慶尚道に属させました。このことを記した文書が前日届きました。

                    この島は少弐殿の先祖伝来の土地です。もし少弐殿がこれを聞いたなら、朝鮮と百回戦かって百回死ぬとしても、

                    必ず戦うでありましょう。』

                  孔達らはこれを聞いて私の所にやって来て、心配し恐れていると告げて、『これは一体どうしましょうか。』と言った。

                  すると、太郎が急に船にやって来て、私と孔達に 『この文書を少弐殿が見たら、あなた方は去ることも留まることも

                  どちらもできないでしょう。この文書を少弐殿に送るか、それともここに留め置いて、少弐殿には知らせないことにする

                 か、あなた方が決めてください。』と言った。

                  それで私は次のとおり答えた。

                    『この島は我が国が獲得したが、我が国の民が居住することはなく、また対馬の人民を得たけれ ども、彼らを我が

                     国のために使うこともしていない。ただ、あなた方が派遣した使者が、対馬を我が国の領土にしてくれと言い続ける

                     ので、国王は六曹を召して、「対馬人が彼らの島を我が国の領土にするよう願っている。もしこれを認めなければ

                     仁の道に背くことになる。したがって、慶尚道に属させるしかない。」とおっしゃいました。今日のあなた方の

                     意志を国王がお知りになったなら、きっと慶尚道に属させることはしないでしょう。私はこのことを国王に報告
    
                     したいと思います。」と。

                 太郎は喜んで、

                  『それならば、この文書は私が隠して置いて、少弐殿には知らせないことにしましょう。また、私が船を出して
    
                   この文書を朝鮮に送り返すならば、問題は起こらないでしょう。」』と言った。

                 私は、これを認めた。昨年の対馬攻撃の後に太郎らが我が国に派遣した対馬人たちは、処刑されることを大いに恐

                れ、拘留されるのではないかと大いに疑い、処刑を免れて対馬に帰りたいと願い、対馬を朝鮮に属させて、朝鮮の

                民になりたいと願ったのである。対馬からの使者はその場しのぎで言ったまでであり、少弐殿や太郎たちが言った

                ことではなかった。

                 僻地の愚かな民は使いものにならない。古来中国は愚かなえびすを嫌がって避けて来た。彼は今義を慕って自ら

                我が国に属することを求めたが、我が国の方からが強いて領土にしようとしたわけではない。 」



                 少弐氏は当時北部九州を支配していた守護であり、対馬には守護代として宗氏を置いていました。したがって、朝鮮に

                派遣された対馬からの使者が勝手に対馬を朝鮮の領土にしてくれるよう朝鮮政府に頼み込み、それが認められたため、

                それを知った早田左衛門太郎は、驚いて急いで日本回礼使の宋希璟のもとへ駆けつけて、少弐氏へは知らせないように

                取り計らったのでした。

                 ところで、本当にこの早田左衛門太郎は、自らが朝鮮に派遣した対馬の使者が対馬を朝鮮の属領にしてくれるよう朝鮮政

                府に頼んだことを始めから知らなかったのでしょうか。早田左衛門太郎自らが指示したことではなかったのでしょうか。

                このことについては、次回に述べたいと思います。



                  参考文献
    
                       「老松堂日本行録」   宋希璟著  村井章介校注  岩波文庫

                       「日鮮関係史の研究 上」  中村栄孝著  吉川弘文館   




            令和2年4月 

                     『老松堂日本行録』に記載された対馬の豪族 早田左衛門太郎(1)  


               朝鮮国の第4代国王世宗は、世宗2年(1420年)閏1月、室町幕府が朝鮮に使者を派遣したことに対する答礼として、 

             また倭寇から日本に拉致された朝鮮人を朝鮮に連れ帰すため、回礼使を日本へ派遣しましたが、こ時の正使となったのが

             宋希璟です。その宋希璟が日本往復の紀行文を書いた『老松堂日本行録』に、対馬の豪族である早田左衛門太郎について

             の記述があり、興味深いのでご紹介します。岩波文庫の『老松堂日本行録』の村井章介氏の校注から引用します。

              なお、現代文は私の拙い能力で行ったものですので、誤りがあるかもわかりませんので、あらかじめおことわりして

             おきます。
    
    
                二十日愁美要時(すみよし)に泊せし時早田(そうだ)万戸(ばんこ)三美多羅夜来りて酒を設く

              「深夜、呼び声が急にするので船中に上がってみると、酒桶や魚が並べられてあった。言葉は朝鮮と日本とでは

               異なるけれども、しばしば盃を上げて一緒に飲んだ。酒食の嗜好は国が違っても同じであるようだ。」



              ここで、「愁美要時」(すみよし)とは、現在の対馬市美津島町鴨居瀬地区にある住吉という字のことのようです。

               また、 早田三美多羅とは、早田左衛門太郎のことでり、筆者の宋希璟は「左衛門太郎」を「三美多羅」と書いていますが、

             宋希璟には早田の下の本当の名前を知らず、聞こえたままに適当に書いたのかもしれません。「三美多羅」は「さみたら」と

             発音するものと思われます。
    
              「万戸」というのは、元々、蒙古(元)の軍制において数千名の軍団の統率者を呼ぶ名前だそうです。これが高麗、李氏朝鮮

             へと受け継がれたそうで、早田左衛門太郎は朝鮮国から「万戸」という官職をもらっていたようです。こうした官職の授与は米

             の贈与や通商の許可と共に朝鮮国が倭寇を懐柔する手段の一つでした。

    
              対馬の豪族 早田氏は浅茅湾沿岸に根拠地を置いて活動しており、倭寇の頭目的存在であったそうです。特に1418年に対

             馬の守護 宗貞茂が死んだ後は、早田左衛門太郎が対朝鮮貿易で主導権を握ったそうです。  

             その早田左衛門太郎が深夜酒と魚を船まで持って来て、酒席を設けたということが書かれています。


           
               礼曹に(たてまつ)る文

             「(二月)二十日、対馬島の東側に面した愁美要時に到着し停泊した。昨年の我が国軍による対馬攻撃の後であるだけ

             に、対馬人は最初我が船を見て、危惧したようである。(無涯(むがい)亮倪(りょうがい)(日本から朝鮮への使者として派遣された僧)が

              先に小船越に入って、対馬の人々を説諭した。余は船を停泊させ、押物金元をして米を三美多羅及び都々熊丸(宋貞盛

              のこと)の母親と代官に送り、好意を示させていた。そのため、この地に停泊したのである。

               夜半になって、何度も連呼してやって来る者がいるので、誰なのか問うたところ、早田万戸(左衛門太郎)であった。

              乗船を請うので許可したが、彼は酒や魚を持って来た。それで余は飲食するのを許可した。そこで、昨年の我が国に

              よる対馬攻撃のことと今回の日本訪問についての国王のお考えを早田万戸に話して聞かせた。

              すると、早田は感に堪えずこう言った。


              「我々が朝鮮に送った使者が今に至るまで帰って来ません。このため、当時の防禦体制を今も解くことができないでいま

              す。今、あなたから話を聞き、吾輩はこれでやっと安らかに寝食することができます。また住む家も今からやっと建てる

              ことができます。先だってこの島の道理にそむく人物が貴国を侵犯し、都々熊丸(宋貞盛)を欺き、天を欺き、貴国の国

              王殿下を欺きました。天はこのことを忌み嫌っています。このような人間はどうしてよく生を長らえることができる
  
              でしょうか。こうした類の人間は今やことごとく滅んでいます。
 
               昨年の貴国による対馬攻撃は天の道理にかなうことでしたので、私は貴国兵士に対して一本も弓矢を発しませんでし

              た。また、貴国の兵士が水を汲みに通う道を対馬人が遮断しようとしたので、私はこれを止めてこう言いましたよ。
    
                『お前が水を汲みに通う道を遮断したとしても、天の兵である敵軍兵士を損なわせることなどできるものか』と。

                私はこのように貴国を大切に思うばかりであり、他に他意はありません。」と。 


               予はこれを聞いて、「君の言うことは正しい。」と申した。そして、多羅(太郎)は夜のうちに帰って行った。

              今、物事の成り行きを見てみると、対馬島の全ての物事はこの人物から指令が出ているような気配である。この人物は
   
              昨年の対馬攻撃で家や財産をことごとく失ってしまったが、今の彼の話にはこのことについての言及はなかった。

               我が国に対する彼の発言は全て真実であり、我々を接待しようとする気持ちが厚いと思われた。

              都々熊丸や宗俊(都々熊丸の弟)らは九州に居住したまま、対馬に帰って来ていない。どうしてなのか、その理由が

              わからない。 この島の倭人たちが食料に飢えていることは確実である。」



               この早田氏というのは、浅茅湾に面した対馬島の西端の尾崎と東端の船越の両方に根拠地を持っていたようで、現在も
 
              子孫が尾崎と船越(小船越)に住んでおられるようです。 




                参考文献
    
                   「老松堂日本行録」   宋希璟著  村井章介校注  岩波文庫

                   「国境の島 壱岐対馬五島 交易・交流と緊張の歴史」第7章  平成30年3月  長崎県    



            令和2年3月 

                                   宋希璟と対馬・壱岐

 
  
                宋希璟(そう・きけい ソン・ヒギョン 1376~1446)は朝鮮王朝時代の官僚です。1419年、李従茂を司令官とする約

               1万7千人からなる朝鮮軍が倭寇の根拠地対馬を攻撃した応永の外寇が起こりました。この事件の結果、室町幕府がどの

               ような措置をとったかは、日本の史料には記録がないそうですが、韓国側の史料としては、『世宗実録』に記録されているよう

               です。

                 それによると、世宗元年11月、日本の国王が亮倪(りょうげい)という僧を使者として朝鮮に派遣し、長らく音信が

               なかったことを詫びるとともに、大蔵経などの仏典を贈与してくれるよう望んだそうです。しかし、実際は応永の外寇に驚いた

               第4代将軍足利義持が朝鮮側の真意を探るために派遣したようです。

               朝鮮国の第4代国王世宗は、翌世宗2年(1420年)閏1月、答礼のため、また倭寇から日本に拉致された朝鮮人を朝鮮に

               帰すため、日本からの使者の帰国とあわせて回礼使を日本へ派遣しました。この時の正使となったのが、宋希璟です。

   
                 宋希璟は1402年科挙に合格して官界に入り、司諫院の正言、芸文館の修撰などの役職を歴任し、1411年に聖節使の

               書状官として明国へ派遣されました。

                 1420年閏1月15日に京城を出発し、4月21日に京都に到着、6月16日に将軍足利義持と会談して、10月25日に

               京城に帰っています。そして出発から帰京までの様子について漢詩を中心とした紀行文を書きました。これが『老松堂日本

               行録』という書物です。「老松堂」とは宋希璟の号です。朝鮮人による日本紀行文としては現存する最古のものだそうです。

               回礼使一行が対馬の北端、現在の上対馬町に到着したのは、2月16日でした。2月20日に現在の美津島町鴨居瀬の住

               吉に停泊していたら、早田万戸三美多羅という者が夜訪ねて来て、酒の席を設けたそうです。この早田万戸三美多羅という

               者は、正しくは早田左衛門太郎といい、当時の倭寇の頭目的な存在だったそうです。当時の朝鮮人にとって、倭寇の頭目は

               不倶戴天の敵のはずですが、捕えて殺さず、逆に酒席を設けるところは面白いと思います。
   
                 次回は、対馬と壱岐での様子についてどう書かれているか、紹介したいと思います。



                  参考文献

                      「老松堂日本行録」   宋希璟著  村井章介校注  岩波文庫

                      「日鮮関係史の研究 上」  中村栄孝著  吉川弘文館 





             令和2年2月 

                              朝鮮人キリシタン フランシスコ

 
  
               宣教師の宿主をしていた朝鮮人キリシタン竹屋コスメの息子フランシスコは、1622年9月11日に長崎で殉教しました。

             そして、父親の竹屋コスメや母親のイネスとともに、1867年に福者に列せられました。
    
             フランシスコの死について、ジョアン・ロドリゲス・ジランというポルトガル出身のイエズス会宣教師が1623年3月
    
             15日付けで滞在先のマカオからイエズス会総長あてに次のとおり報告しています。なお、ホアン・ガルシア・ルイズデ 
    
              メディナ氏の著書 『遥かなる高麗』から引用させていただきます。
   
  
              「 12才の少年フランシスコは、宣教師の宿主であったために3年前長崎で火刑に処せられた聖なる殉教者[竹屋]

               コスメの息子です。
   
              父親が死んだとき、平戸のある人物が彼を養子にして平戸へ連れて行きました。しかし将軍が、過去の殉教者の

               妻子も処刑するように命じたので、この少年が長崎から遠く28里離れた平戸に住んでいることも、役に立ちません

              でした。
   
               そのために彼をそこ[平戸]から連れて来るように命令されましたが、到着が遅れたため他の聖なる殉教者と共に

              同じ日に死ぬことが出来ず、翌日子供というよりは大人のような勇気と喜びを抱いて死にました。
   
              裁判所の役人は彼がこのような年少者であるから、殉教者の首や死体が積み重ねられているのを目の前に見

              たら、脅えるだろうと考えて、違った方角に向かせて首を斬ろうとしました。しかし勇敢な少年は、かかる手本を見て

              怯むどころか、却って勇気付けられ、如何にしても違った方角へ向かわせられることを承知しませんでした。無理や

              りに向き直されましたが、再び殉教者の方角へ顔を真っすぐにして、刀の一撃を待ちました。打撃が間近に迫ると見

              ると、姿勢を正し、その一撃を受けるために手を上に伸ばし、感嘆すべき堅固な心で刀を受け、そして霊魂(タマシイ)を創造主

              に捧げ、神の永遠の喜びに入りました。」 



             上記報告文をイエズス会総長に送ったポルトガル人イエズス会士ジョアン・ロドリゲス・ジラン(1558~1629)は、
    
            1586年に来日し、長崎などで布教活動を行っています。日本語が堪能だったそうで、1603年から数年日本管区長の
    
            秘書を務めたそうです。


                参考文献

                    『遥かなる高麗』  ホアン・ガルシア・ルイズメディナ著  近藤出版社 1988年

                    『1611年度日本年表』解説




            令和2年1月 

                           朝鮮人キリシタン コスメ・タケヤ

 
             1.『日本切支丹宗門史』より


               朝鮮人キリシタン コスメ・タケヤについては、『日本切支丹宗門史』中巻(岩波文庫)に記載されています(82貢)。
    
             それによると、コスメ・タケヤは11歳の時に日本に連れて来られて、イエズス会の神父から洗礼を受けています。
    
             どこかの領主に仕え、後に家老になったようです。そして、よく仕えた功により、屋敷と知行を賜ったそうです。
     
             彼は、相当な暮らしをし、ずっと修道者たちの宿主をしていたそうです。つまり、修道者たちに宿を提供していたそうです。
     
               コスメ・タケヤが捕まったことを知った彼の主人、すなわち、どこかの領主は、誠に立派なことで、自分の家来が捕まった  

             ことを褒めたそうです。

               コスメ・タケヤが長崎奉行所の役人に捕らわれた場面について、『日本切支丹宗門史』(中巻)に次のとおり記載されて
    
             います(72~73貢)。なお、「第3章 1618年」のところに記載されています。
    
    
                「 キリシタン達は、実によく用心していたが、裏切者が出て、方々の住居を告発し、また隠密が召捕を実行した。
    
                12月13日、聖ルシヤの祝日の真夜中、長崎は踏み込まれ、2隊の兵卒等によって襲われたもののようである。
    
                4人の修道者たちは、2箇所の家で捕らわれた。一方の家には、数個月前に着いて、言葉を勉強していた2人の
   
                ドミニコ会員アンゼロ・オルスッシと、ヨハネ・デ・サン・ドミニコの神父が二人いた。なお、彼等の宿主朝鮮人
    
                のコスメ・タケヤと、伝道士トマスとが投獄された。タケヤは家を取上げられ、トマスはナバレテ神父に従って
    
                大村におり、当時まだ殉教できずにいた。 」  
    
  
             2.『遥かなる高麗』より

               『遥かなる高麗』(近藤出版社 1988年)には、「福者 竹屋ソーザブロー・コスメ」というタイトルで紹介されて

             います。ジョアン・ロドリゲス・ジランという人物が記録した書簡が、1620年1月20日にイエズス会総長あて発信さ
    
             れています。ジョアン・ロドリゲス・ジランは1610年代に日本から追放されましたので、直接見て書いたものではなく、
    
             日本に潜伏している宣教師から報告を受けて記録したものと思われます。本文中に、「ソーザブロー・コスメ」と記載さ
    
             れていますので、名前は「ソーザブロー」であったことがわかります。漢字に直すと、「惣三郎」であったと思います。
    
    
               「 コスメは高麗生まれで、11才のときに日本に来て、13才でイエスス会の教会で洗礼を受けました。主人に愛と
    
                誠実の心で仕えたので、主人は住む家を与えて、この市に居住させました。霊の救いの問題に関心を持っていた
    
                ので、たびたび宣教師を自分の家に迎えました。昨年彼の家で2人のドミニコ会士が発見されたので、彼も捕らえ
        
                ら投獄され、そこで天使のような生活をしていました。彼は水・金・土曜日毎に断食と縄苦行を行いました。
    
                 絶えず祈っていて、霊的なことに関する書籍をよく読めるように、牢獄の中で読み方を学びました。話すことは
    
                常に天国のことであり、ずっと以前から悪口を言うことを避けていました。金・土曜日毎に断食を行い始めて10
    
                年以上になります。彼の使用人を注意深く導き、キリスト教の教議を教え、神の教えを守るよういつも勧めていま
    
                した。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

                 他の2名の聖なる囚われ人、吉田ジョアンとソーザブロー・コスメも同じ方法・同じ勇気で答えて、これもまた
        
                死を申し渡されました。こうして5人は自分たちの幸せな運命を喜んで、殉教の場へ向かうことになりました。

                <裁判長・権六はそのとき彼らに、日本の習慣に従って盃、すなわち酒の杯を与え、自分も盃を手に取って彼らと
        
                別れました[・・・]。そこにいた人々の中には涙を流している者もいました。>
        
                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
        
                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
       
                 この殉教は1619年11月18日・月曜日に、日本の国王、江戸の将軍の命令で、長崎においてその市の奉行・

                裁判長である長谷川権六の指揮のもとに行われました。」



                 上記書簡のうち、< >の部分は、『遥かなる高麗』の編著者が、他の資料から補足したものです。
      
                長崎奉行が処刑される者に別れの杯を与えたとは、ちょっと意外に思われます。キリシタンを厳しく弾圧した奉行で

                あっても、やはり生身の人間なんだと思いました。 
 
                 『遥かなる高麗』の編著者ホアン・ガルシア・ルイズメディナ氏は、ソーザブロー・コスメについて次のとおり書いています。

                   「 また、11月18日に長崎で、11才の子供の時に捕えられた捕虜が、炎の中で死んだ。生前、主人に対する彼の

                   忠誠は長崎の数軒の家を贈与されたことで報いられ、社会的には通常の身分を回復していた。彼は竹屋ソーザブ

                   ローという名で、宣教師の言葉や文字の教師であった。今日、彼は福者竹屋コスメの名で、聖人名簿に現れている。

                   彼の妻イネスと息子フランシスコは3年後に殉教している。1597年に殉教し、後に聖人に列せられた-日本人竹屋

                   コスメと奇しくも同名であるが、おそらくソーザブローは、受洗のときに、この聖人の姓名を採って命名したのではある

                   まいか。」 



                 もし、ホアン・ガルシア・ルイズメディナ氏の説が真実だとすると、日本人の竹屋コスメが1597年に殉教した後に

               竹屋ソーザブローが洗礼を受けたのですから、その年は最も早くて日本人の竹屋コスメが殉教した1597年だとすると、

               竹屋ソーザブローは13才で受洗したので、彼はその2年前の1595年に日本に連れて来られたことになります。

                すると、その時11才だったので、彼が亡くなった時は、35才だということになります。しかし、実際は2,3才程度年齢は

               上だったのではないでしょうか。40才まではいってなかったろうと思われます。

                そして、彼は同じ朝鮮人のイネスと結婚し、息子竹屋フランシスコが生まれましたが、フランシスコは1622年に12才で

               処刑されたので、彼が生まれた1610年の時、父親の竹屋ソーザブローの年齢は26才~28才前後だったのではないでしょ

               うか。

                なお、日本人の竹屋コスメは1597年2月5日、豊臣秀吉の命令によって長崎の西坂で処刑されました。26聖人の一人で

               す。朝鮮人の竹屋ソーザブロー・コスメは、1867年に聖人に次ぐ福者に列せられました。



                  参考文献

                      『日本切支丹宗門史』中巻  レオン・パジェス著  岩波文庫   1938年

                      『遥かなる高麗』  ホアン・ガルシア・ルイズメディナ著  近藤出版社 1988年

   



            令和元年12月 

                           応永の外寇時の朝鮮軍司令官・李従茂


              1419年に朝鮮軍が倭寇の根拠地・対馬を攻撃した応永の外寇の朝鮮軍司令官・李従茂(イ・ジョンム 이종무)について、

             韓国のウィキ百科から引用して紹介します。

              なお、引用に当っては、日本のウィキペディアを参考にしています。
    
 
            1360年  高麗の武臣 長川府院君 李乙珍の息子として生まれる。子供の頃から乗馬と弓に秀でていた。

            1381年  14歳の時に父に伴って江原道に侵入して来た倭寇を撃退した功により精勇護軍となった。
   
            1392年  李氏朝鮮が建国される。

            1397年  黄海道の甕津で万戸(外敵の侵入を防ぐために設置された官職)の職にある時、倭寇が再び侵入して来て

                    城を包囲するや、最後まで戦って敵を撃退した功績により僉節制使(節度使の下に兵馬僉節制使と水軍僉節

                   制使が設置された。)に任命された。さらに都に戻って来てから上将軍に任命された。

            1400年   第二次王子の乱で李芳遠(李氏朝鮮初代王李成桂の息子。第三代王太宗。在位1400年11月28日~1418年

                    9月9日)側に付き、兄の李芳幹の軍勢を壊滅させた。

            1406年  「翊戴佐命功臣」の号を受けて通原君に封じられ、義州などの兵馬節制使に昇進した。その後、安州都
   
                  兵馬使
安州節制使を歴任した。   

            1417年  義政府左参賛となる。

            1419年  三軍都体察使となり対馬攻撃の指揮官となる。陰暦6月19日、軍艦227隻を率いて巨済島を出発。
            (世宗元年)
                    6月20日、対馬島に到着し、敵船129隻を奪い、家屋1993戸を焼いた。朝鮮人や中国人捕虜を連れ
    
                    帰った。これらの功績により、8月25日、長川君に封じられた。しかし、奇襲を受けて戦死した
    
                    朴実らを失ったことについて、朝廷はしぶとく罪に問うたが、世宗は李従茂をかばった。しかし、11月
    
                    9日、謝罪のため従軍しようとする金訓と盧異を推薦した罪により、義禁府に投獄された。金訓と盧異は無
    
                    能であり、功を上げようとして従軍しようとし、李従茂はこのことについて世宗から許しを得た。しかし、
    
                    司諫院らは不忠な者を従軍させたとして李従茂と金訓、李チョクらを処罰するよう求めた。しかし、世宗は
    
                    拒否し、李従茂は、「年老りは死んで、戻らない方がよい」と述べて断食した。その後絶え間ない弾劾にも
    
                    かかわらず、世宗は李従茂をかばった。
 
            1420年  6月5日、獄を解かれ、都の外に居住させられた。 
   
            1423年  謝恩使として明国を訪問し、翌年2月、副使の李種善と共に帰国した。
    
            1425年  6月9日、享年66歳で死去。世宗は朝廷での会議を3日間中断させ、襄厚という諡号を与えた。

                    6月17日に出した教書で、世宗は、「万里の長城が急に崩れた」という表現で悲痛感を表した。




           令和元年11月 

                            応永の外寇600周年



             今年は1419年に朝鮮国が倭寇の根拠地であり、海賊の巣窟と考えていた対馬を攻撃した事件が起きてからちょうど600

            周年にあたります。応永26年に起きたので、日本では応永の外寇と言われます。対馬攻撃に参加した朝鮮の兵力は兵船

            227隻、軍兵1万7285人もの大軍だったそうです。朝鮮軍は65日分の食糧を準備していましたが、対馬側の反撃に遭って

            わずか約2週間で撤退したそうです。朝鮮国三軍(右軍・中軍・左軍)の司令官は李従茂という人です。

            対馬市豊玉町の仁位の近くにある糠岳(ぬかだけ)で激戦が行われたことから、糠岳戦争とも呼ばれています。

             朝鮮王朝実録( 『世宗実録』 )に記載されている応永の外寇の経緯は次のとおりです。


              世宗元年

               ・6月17日   対馬へ向けて巨済島を出発したが、逆風に阻まれて巨済島に戻って停泊。

               ・6月19日   再び巨済島を出発。

               ・6月20日   対馬に到着。浅茅湾の西側入口の尾崎に上陸。島内を捜索し、船129隻を奪い、家1939戸を焼く。
 
                         114人を斬首し、21人を捕虜とした。また、倭寇に捕らわれていた中国人131名を救出。

               ・6月?日    浅茅湾の東岸の小船越に進軍し、この地に柵を設けて、対馬人の往来を遮断。朝鮮軍が長く留まる意を

                          示す。また、家68戸と船15隻を焼き、9名の対馬人を斬り殺し、中国人15名と朝鮮人8名を救出。

               ・6月26日   司令官李従茂は小船越から浅茅湾の北側の仁位に進撃し、三軍を分けて上陸させ、対馬兵を攻撃した。

                         朴実らの左軍は糠岳で伏兵にあって敗北し、有力部将4名を含む百数十人が戦死及び崖から墜落死。

                         右軍は対馬兵と戦い、敵を撃退。中軍はついに上陸せず。

                         世宗元年7月10日付の 『世宗実録』は、対馬での戦死者は180人と記録。

               ・6月29日?  対馬島主宗貞盛、朝鮮軍の長期間の対馬滞在を恐れて書を朝鮮軍に送り、兵を退き、修好を請う。

                          また、7月になれば風変が多いので、対馬に長く留まらぬよう朝鮮側に告げる。

               ・7月 3日    李従茂、朝鮮軍を対馬から巨済島に引き上げさせる。



             65日分の食糧を準備して行きながら、対馬側の反撃にあうとわずか2週間で撤退するとは、朝鮮軍はなんと弱小なのだ

            ろうと思いますね。正規の兵士はそれほど数は多くなく、大部分は地方からの寄せ集めである雑軍だったようです。

            倭寇の根拠地を征伐できなかった朝鮮は、その後平和的な外交政策をとるようになり、それまで禁じていた対馬との交易

            を制限付きながらも許すようになりました。




               参考文献

                 中村栄孝著  『日鮮関係史の研究』上

                 韓国国史編纂委員会 『朝鮮王朝実録』(電子版)

                 『朝鮮を知る事典』 (「応永の外寇」)

                 ウィキペディア 『応永の外寇』






           令和元年10月 

                             放虎原殉教地


              大村市の協和町にある放虎原(ほうこばる)殉教地には、1968(昭和43)年、「日本二百五福者殉教顕彰碑」がカトリック

            信者たちによって建立されています。1867年にローマ教皇ピオ(ピウス)9世によって、江戸時代初期に日本で殉教した日本

            人信者や外国人宣教師など205人が福者にあげられてから100周年を記念して建てられたそうです。
   
            この福者の中には、文禄慶長の役で日本に連れて来られた朝鮮人13名も含まれており、 この13名を讃える顕彰碑もこの

            地に建てられています。この13名は日本に連れて来られた後、キリシタンになった人たちです。   

             13名のうち、私が名前を知ることができたのは次の7名です。
 
                    名前              処刑地          処刑の年
        
                  コスメ竹屋長兵衛       西坂           1919年

                  アントニオ「高麗人」      西坂           1622年 

                  イネス竹屋            西坂           1622年

                  ガヨ                長崎           1624年

                  カウン・ビセンテ         西坂           1626年

                  ガヨ次右衛門           西坂            1627年

                  ガスパル・バス          西坂            1627年


                   ※ 資料出所  ホームページ 『天上の青』 - 「私家版いじん伝」- 「205福者殉教者」


  
              ところで、1657(明暦3)年に大村藩内の潜伏キリシタン608名が検挙された郡(こおり)崩れという事件で、411人

             が大村、長崎、平戸、島原などで斬首され、そのうち、大村の放虎原では久原牢の131名が斬首されています。

             大村市教育委員会が2003(平成15)年にここ放虎原殉教地前に建立した説明板によると、処刑場の正確な場所は分から
 
             ないけれども、信者たちによって、この地に「日本二百五福者殉教顕彰碑」が建てられたそうです。

              郡崩れの「郡」とは大村藩にあった郡村のことで、検挙された隠れキリシタンのうち、郡村に住んでいた者が最も多かったこ

             とから「郡崩れ」と名付けられています。





                         
     





                         
                                   日本二百五福者殉教顕彰碑





                            
    




                        
                                    顕彰碑の裏面
                        





                           





                          
                                    朝鮮人13名の顕彰碑

                     







           令和元年9月 

                            『東槎録』に記載された朴堤上


              朴堤上(パク・チェサン)という人物は、長年倭国に人質にされていた新羅の王子を救出するよう王子の兄である新羅王

            から命令を受けて倭に渡り、倭人を騙して無事に王子を船で故国へ帰したのですが、自分は倭人に捕えられて殺された新羅の

            部将です。



             江戸時代第3次の朝鮮通信使の使行録 『東槎録』 の仁祖2年10月28日の日記に、藍島にとう留している時、対馬藩

            の対朝鮮外交僧の玄方が、3使臣の宿所を訪れて来て、使臣たちと話を交わしました。秦の始皇帝時代に不老長寿の薬を求めて

            東方に船出したとされる徐福について話が交わされた後、玄方は 朴堤上について、

 
               「藍島から向こうに見える所に、博多冷泉津がある。すなわち、新羅忠臣朴堤上の死体を埋葬したところで」

            あると語りました。

             「博多古図」(福岡市・住吉神社蔵)という近世の古図に、博多の中に冷泉津という入江の名前が記載されてあり、冷泉津は

            博多の一部だったことがわかります。しかし、玄方の時代には博多全体を指して「博多冷泉津」という名称が使われていた

            ようです。なお、福岡市博多区に冷泉町という町があり、現在も「冷泉」という地名は残っています。

   

             玄方が生きた時代には、朴堤上は博多で殺されたと考えられていたかもしれません。現代では、朴堤上は対馬の北部で

            殺されたと考えられています。日本書紀巻第九に次のとおり記載されています。

                「共到對馬、宿于鉏海水門」 (共に對馬に到りて、鉏海(さひのうみ)水門(みなと)に宿る)

                「即知欺、而捉新羅使者三人、納檻中、以火焚而殺
                  (即ち欺かれたることを知りて、新羅の使者三人を捉えて、檻中(うなや)()めて、火を以て()き殺しつ)


              高麗時代の歴史書 『三国史記』には、「堤上を倭王の居場所に送り届けると、彼を木島に流配してから、やがて薪で

            もって全身を焼いた後に斬刑に処した。」と記載されています。

             「木島」の位置ですが、「木島」と書かれてある以上、博多ではないと思われます。むしろ、木が生い茂っている対馬の方

            がまだ可能性は高いと思われます。『三国史記』に記載されている朴堤上はという名は、日本書紀には出て来ません。

             日本書紀では、新羅王が倭国に遣わした3人の使者のうち、毛麻利叱智(もまりしち)が朴堤上と思われます。それは

            朴堤上のことを三国史記では「あるいは毛未ともいう」と記載されているからです。

             玄方は、「死体を埋葬したところ」が博多冷泉津であると言っており、殺された場所が博多冷泉津とは言っていません。

            玄方ほどの知識人であれば、三国史記も日本書紀も読んでいると思われますので、殺された場所が対馬であることは

            知っていたものと思われます。遺体は対馬に埋葬されずに博多で埋葬されたということを玄方は何かの文献で見ていた

            のかもしれません。



              玄方はまた、この日、3使臣に自分が作った七言絶句の漢詩を見せています。


                  回頭西望眼猶寒    頭を回して西を望むと眼なお寒し

                  十里松林七里灘    十里の松林に七里の灘

                  堤上旧魂今若在    朴堤上の忠魂が今もあるごとく

                  夜来入夢問平安    昨夜の夢の中で安否を尋ねる


             『東槎録』の筆者で通信使の副使 姜弘重は、「思うに十里の松林と七里灘は、皆冷泉津にあるので引用したものである」

           と解説しています。

   
             朴堤上紀念館が韓国の蔚山広域市の蔚州郡に建設されています。私は平成27年に訪問したことがあります。写真を数枚
   
           掲載します。なお、朴堤上について私のこのホームページで、「1.朴堤上」と「「管理人より」アーカイブ」の平成27年

           11月のところに紹介しておりますので、見ていただければと思います。




               




                





                





                






               






               



  
                 参考文献: 『東槎録』 姜弘重著  若松實訳  日朝協会愛知県連合会発行  2000年8月1日

                 『日本書紀 上』 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校駐  岩波書店 1967年発行







          令和元年8月 

                             『東槎録』に記載された対馬(2)

    
            3.壱岐・勝本に到着
    
            仁祖2年(寛永元年 1624年)10月21日に対馬・府中(厳原)の港を朝鮮の船と対馬藩の船合わせて30隻余りが
     
           一斉に帆を上げて壱岐へ向けて出航しました。すると波浪のため各船が風涛の間に激しく浮き沈み、そのため船中の人々

          は皆魂を無くし、嘔吐する声が汚らしくて聞くに堪えなかったと、朝鮮通信使の副使・姜弘重は『東槎録』に書いています。

           やがてその日の午後、壱岐の風本浦に着き、龍宮寺に居所を定めました。風本とは勝本のことです。ここで、風本と

          勝本の地名の由来についてご紹介しますと、神功皇后が朝鮮の三韓に出兵するため、壱岐で風待ちをしていた際に神社

          に祈願すると、朝鮮へ渡るのにちょうど都合のいい風が吹いたため、神功皇后はこれを喜んで、その地を「風本」と名付け

          たそうです。また、朝鮮で三韓に勝って日本に帰る途中この地に立ち寄り、風本の名を今度は「勝本」と改めたそうです。
   
          ( 石井 敏夫著 『勝本港の「みなと文化」』)

 
   
          4.朝鮮人の消息を聞く
     
            壱岐島の島主は平戸藩第3代藩主の松浦隆信で、父親の久信が1602年に31歳の若さで急死したため、わずか10歳

           で家督を相続し、祖父の初代藩主松浦鎮信が隆信を後見しています。隆信は朝鮮通信使の一行が壱岐に来た時は江戸 

           にいたので、「副官」の松尾七右衛門という対馬藩重臣・柳川調興の家臣が通信使の接待を行いました。
   
            姜弘重は、壱岐に到着したその日に朝鮮側の訳官から次のように聞いています。

              「我が国から捕らえられてこの島におる者がはなはだ多く、使臣が来たことを聞き、(日本側は)隠して出さぬようにし、

               ある1人の男が一行の下人と話をしようとすると、対馬島の人に叱責されて、足も地に着かずに引き立てられて行っ

              たが、このような者が1人・2人ではない」


            この話が事実であると、対馬側は朝鮮人が通信使一行に近寄ることを妨害していたことになりますが、朝鮮人を本国に

           刷還するという通信使の役目を妨害したことになります。これについて、姜弘重は、 

              「思うに、対馬島の人たちが関白(将軍)にそむくようなことが先に聞こえていくと、罪を被るのではないか、

              ということを恐れてそのようなのであるが、憎むべきことである」 と書いています。   



          5.壱岐島主の妻となった朝鮮人の話を聞く

            通信使が壱岐に到着して3日目に、平戸藩主の叔父の松浦蔵人信正と、藩主のいとこの日高虎助が三使臣に謁見して

           います。松浦家家系図によると、初代平戸藩主松浦鎮信(1549-1614)には子供が4男5女おり、長男が久信(1571-1602)

           で第2代藩主となっています。久信の長男隆信(1592-1637)が跡を継いで第3代藩主となっています。鎮信の長女が日高

           玄蕃信喜の妻となって、日高虎助を生んでいます。鎮信と朝鮮から連れて来た女性・小麦様との間にできた子供が次男の

           信正で蔵人ともいいます。日高虎助にとっては信正(蔵人)は叔父にあたり、また、藩主の隆信とはいとこ同士になります。  
    
           通信使の副使・姜弘重は、日高虎助と松浦蔵人が謁見のため使臣の部屋に入って来た時、 
    
              「膝で歩いて匍匐(ほふく)し、あえて仰ぎ見ることなく、ただ拝礼して退出した」と記述しています。 
    
            匍匐とは、腹ばいになって手と足ではうことを言いますし、使臣の顔も見ないで拝礼だけして退出するとは、まるで将軍や

            国王にまみえるかのような態度であり、朝鮮国王の使臣に対する態度が対馬藩の役人たちとはずいぶん違うのではないか

           と思われます。 
    
            姜弘重は続けて次のように書いています。 
     
             「蔵人殿はすなわちわが国昌原の女子が生み、兄弟が皆処女として壬申倭乱のときに捕えられ、皆壱岐当主の 
    
              妻になり、今まで生存しており、その夫である島主は、すなわち今の島主の祖父ですでに死去したという。」 
    
             初代平戸藩主松浦鎮信が文禄慶長の役で朝鮮から連れて来て側室とした女性は、平戸で小麦様と呼ばれるように

           なり、鎮信との間に2男4女を生んでいます。長男が松浦蔵人信正で、平戸藩の家老になりました。蔵人は母の祖国の高

           官と面会した時、恐れ多くてかなり緊張したのではないかと思われます。そのため、使臣の顔も仰ぎ見ることができなか 
    
           ったのかもしれません。当時小麦様は平戸島に暮らしていたのですが、姜弘重は松浦蔵人が小麦様の息子であることや、
    
           小麦様が朝鮮の昌原出身であることを誰から聞いたのか気になります。当時は壱岐島でもその事実が広く知られていたの

           かもしれません。あるいは、通信使一行を案内する対馬藩の藩士から聞いたのかもしれません。また、姜弘重は、小麦様

           には姉か妹かがいて、一緒に平戸に連れられて来て、やはり藩主の側室にされたとも記述しています。ただ、松浦家の家

           系にはその姉妹の子孫が記載されていません。本当に姉妹だったのかわかりません。小麦様の世話をする付添の女性

           だったのかもしれません。


            小麦様は朝鮮にいた時、いったいどういう身分だったのでしょうか。これについては、寛永13年(1636)に来日した

           江戸時代第4回目の朝鮮通信使の従事官・黄漫浪が著した『東槎録』に、使臣が壱岐島に来た時、二人の朝鮮人と面会し、

           そのうちの曹一男という者と黄漫浪とのやり取りが次のとおり記録されています。
    
              「臣問、平戸太守為何如人、則一男言、太守即我国昌原居両班女人之孫子云、・・・・・」
    
            つまり、平戸藩主は朝鮮の昌原に居住する両班の娘の孫だと、壱岐に住む朝鮮人が回答しています。このことから平戸

           で小麦様と呼ばれる朝鮮人女性は両班の子供だったことがわかります。小麦様は寛永6年(1629)年に亡くなっています
    
           ので、第4回目の朝鮮通信使が来た時はもうこの世にいませんでした。

            平戸島の根獅子(ねしこ)という海辺の町に「小麦様の墓」と呼ばれる大小2基のお墓があり、小麦様と信正の妻の墓であ

           ると言い伝えられています。         
   


                                 





                            
                                         小麦様のお墓




                            




                            
                                小麦様のお墓の近くから撮影した根獅子の海




                    参考文献: 『東槎録』 姜弘重著  若松實訳  日朝協会愛知県連合会発行  2000年8月1日

                             『東槎録』 黄漫浪著  (「大系朝鮮通信使」第二巻) 1996年 

                              『勝本港の「みなと文化」』  石井 敏夫著




          令和元年7月 

                             『東槎録』に記載された対馬(1)

    
            江戸時代の12回にわたる朝鮮通信使のうち、第1次から第3次までは、対馬藩が偽造した朝鮮国王あての日本側
    
           国書に対する朝鮮側の回答という意味で「回答使」であるとともに、文禄慶長の役で日本に拉致された朝鮮人を朝鮮
    
           へ送り帰すという意味の「刷還使」の役も兼ねていたものでした。このため、第1次から第3次までの通信使は、
    
           「回答兼刷還使」という名称で呼ばれています。

             さて、江戸時代第3次の朝鮮通信使の副使を務めた人物は姜弘重(カン・ホンジュン 강홍중)といい、当時は承文院の
    
           判校という役職でした。承文院は外交文書を扱う役所で、その長官が判校でした。判校の位は正三品でした。
   
            姜弘重が書いた朝鮮通信使の記録が『東槎録』で、その日記の日付は仁祖2年(寛永元年 1624年)8月20日に
   
           始まり、仁祖3年(寛永2年 1625年)3月26日で終わっています。東槎録には「日記」の他、日本で見聞きした
     
           様々なことを記載した「見聞総録」や書簡、漢詩類も掲載されています。よくこまめに記載しており、特に人名、地名
   
           など固有名詞を多数記録しているところは感心させられます。
    
            この『東槎録』の中で、対馬に関する部分について、今回から数回に分けて紹介していきたいと思います。
    
           若松實(1912~1994)という方が現代文に翻訳されたものが出版されていますので、その本からの引用です。 
    
    
          1.鰐浦到着
    
              通信使一行が最初に対馬に到着したのは対馬島の北端、鰐浦(わにうら)で、10月2日(新暦11月12日)の

            午後10時頃でした。前日に釜山を出港して数里行くと波浪がひどくて前に進めず、釜山に戻って停泊しましたが、

            各船の役人以下水夫たちは嘔吐して倒れ、人事不省に陥ったと記載されています。翌日も風がひどく吹き、船は風に

            逆らって進めず、船中の人は大半が目まいがして倒れていたそうです。

             対馬島が見えた時は、船中の人は初めて喜色があったと姜弘重は書いています。鰐浦の岸に数10軒の家があるが、

            家の構造が朝鮮の家と異なっており、はなはだ粗末だったと姜弘重は書いています。
   
             また、翌日、船上に留まっていると橘智正という対馬藩の役人が夜明けに来て安否を尋ね、上陸して休息すること

            を請うたのですが、前途が忙しいことを理由に辞退しています。鰐浦を出航する時、対馬の老若男女たちが海岸に

            出て、垣根のように群がって見物をしていたそうです。
    
    
          2. 朝鮮の冠服を着用して礼を行う

              10月4日の夜、府中(厳原)に到着し、宿所の海晏寺までは見物する男女たちが道端をうずめたそうです。

            また、通り過ぎる民家は皆、燈火を掲げて明るくしてあげたそうです。

             翌5日、橘智正及び朝鮮国の辞令を受けている馬堂古羅たち5名が皆、朝鮮の冠服を着用して礼を行ったことが記載さ

            れています。
    
             橘智正という人物は藩主・宗義智の命を受けて何度か朝鮮へ渡り、国交回復の折衝を行っています。別名を井手弥六

           左衛門と言います。また、「馬堂古羅」とは、「またごろう」と読むそうで、『朝日日本歴史人物事典』での田代和生氏

           の解説によると、馬堂古羅の本名は武田又五郎と言い、文禄慶長の役で朝鮮側に降った「投降倭」でした。対馬の上県

           の伊奈という所の郷士であり、弟の又七と共に「降倭」となって朝鮮側に協力し、加藤清正の陣営を焼き討ちしました。

            このため、その功績などにより、戦後、朝鮮国王の光海君から冠服を賜って、受職人として朝鮮との貿易を許された

           そうです。
      
             「降倭」と言うと、沙也可(朝鮮名 金忠善)という加藤清正配下の部将が有名ですが、対馬に実名の残っている「降倭」

            がいて、通信使の3使臣に対して礼を表するほどの者がいたことがわかります。

            しかも、文禄慶長の役が終わってから25年以上経つのに、馬堂古羅は通信使の使臣から未だに名前が知られており、

            朝鮮国から官職を授かっていて、朝鮮国の使臣が来た時は朝鮮国の官吏として朝鮮の冠服を着て礼を行ったとは、とても

            興味深く思われます。

 

                  参考文献: 『東槎録』 姜弘重著  若松實訳  日朝協会愛知県連合会発行  2000年8月1日

                          『朝日日本歴史人物事典』






           令和元年6月 

                       『海游録』に記載された「対馬」と著者・申維翰(5-完)



            4.大仏寺(方広寺)での宴会をめぐる口論

             (1)大仏殿建立

                1567年の松永久秀と三好三人衆の戦いで奈良の東大寺大仏の廬舎那仏(本尊)が焼損したために、豊臣秀吉が

               1586年にこれに代わる大仏の建立を計画し、1595年(文禄4年)に京に大仏殿を完成させて既に完成していた
    
               木造の大仏(廬舎那仏)を安置させました。
 
                ところが、この建物は1602年に火災が起きて焼失してしまいました。このため子の豊臣秀頼は1612年に大仏殿
    
               を再建しました。この建物は江戸時代初期までは単に大仏と言われていたそうです。その後、いつからかわかりません

               が方広寺と呼ばれるようになったそうです。しかし、この大仏殿は1798年に落雷による火災で焼失してしまいました。
   
   
             (2)大仏寺での宴会  
   
                『海游録』には、方広寺のことを大仏寺と記載されていることから、当時は大仏寺と呼ばれていたことがわかります。
   
                『海游録』によると、京に入る前日、大津において、対馬藩主から派遣された藩の奉行が使臣に対し、
   
   
                   「前回(1711年)の通信使の時から、必ず帰路に大仏寺に立ち寄るようになった。将軍は、我が藩臣に享礼
       
                   (通信使一行の労をねぎらう宴会)を準備させているので、臨席されよ」
   

               と述べました。
   
   
                 これに対して、使臣は、
   
   
                   「自分が国にいる時に、大仏寺は秀吉が祈願した寺(願堂)であることを聞いている。この賊はすなわち我が国の

                    百年の仇である。義は天を共にしない。どうしてその地で飲食できようか。謹んで厚意をお断りいたす。」

   
               と答えました。 そこで、雨森芳洲や奉行らは、宴会への出席を再び依頼し、さらに

   
                   秀吉の「祈願寺という話は日本人は聞いたことがない。」  
       
        
              と嘘をつきました。秀吉が発願した寺であることを雨森芳洲らが知らないはずがありません。  
        
                しかし、使臣は「多談するなかれ」と叱責してこれを退けました。  
    
              そこで、大仏寺の門の外に幕舎を張ってそこで供応を行うことにしたのですが、京都所司代がこれに反対し、

        
                  「大仏寺は豊臣家が祈願して建てた寺なので使臣らは大仏寺に行かないというのであれば、日本側の文献に
        
                   よって、その話が間違っているということを明らかにすれば、使臣らも固執しないだろう」
 
       
              と知恵をつけました。  

               それで、対馬藩主は奉行らに『日本年代記』という書物を使臣に届けさせて、次のように言わせました。 


                 「この書物は国中に秘している史書である。その中に、〇〇年に大仏寺を重建したとあるのは、徳川家光公が 
        
                 将軍となった年である。徳川の世には秀吉公の子孫はいなので、どうして寺を築きそれを崇拝することが

                 あり得るだろうか。この書物は豊臣家が祈願した寺という間違って伝えられたことを正すに十分なものである」


               三使臣はその書物を見て、確かに徳川家光が建てたということを確認します。三使臣が合議した結果、正使と副使は宴

              会に出席することにしたのですが、従事官は欠席することにしました。従事官はその書物を信用していなかったからでしょう。

               雨森芳洲はこれ聞いて、朝鮮側の首席訳官に対して「獅子のように吠え、針鼠のように奮い、牙を張り、まなじりを裂き、

             今にも剣を抜かんばかりの状」だったと申維翰は記録しています。この部分で、申維翰は、雨森芳洲を「心のねじけた人で
    
             ある。」と書いています。
    
              そして、申維翰は、「君は読書人ではないのか。どうして怒って理にもとるようなことをするのか」と雨森芳洲をたしなめ、
    
             従事官は病気になったので参加することができない、と言い訳を言っています。実際に、従事官は痔が重症だったことが
      
             『海游録』の中に随所に出て来ます。しかし、どうしても出席できないというほどではなく、大仏寺が豊臣秀吉が祈願し

             て建立した寺であることをよく知っていたために、欠席したようです。 
    
             雨森芳洲は申維翰の発言を聞いて、ついに謝って去って行ったそうです。 
    

              ここで、私が不思議に思うのは、どうして日本側は徳川家光が創建したものだという虚偽の書物を作ってまで大仏寺に立

             ち寄らせようとしたのかです。徳川政権が豊臣家を滅ぼしておきながら、その豊臣家が建てた大仏寺に通信使一行を立ち

             寄らせる目的は何だったのか、わかりません。これについては、今後多くの書物を読んで知りたいと思います。 
    
              なお、大仏殿があったところは、明治13年(1880年)に秀吉を祀る豊国神社が建てられています。

             さらに、秀吉は大仏殿の前に、文禄慶長の役で朝鮮から送られて来た朝鮮・明国の兵士や非戦闘員から削り取った耳や

             鼻を葬った耳塚を建てました。その耳や鼻の数は2万人分だったそうです。申維翰はこの耳塚について『海游録』の中で何

             も書いていませんが、なぜ触れなかったのかわかりません。姜在彦訳注『海游録』(東洋文庫)には、『太閤記』の中の「洛

             東耳塚由来」 の一節を次のとおり掲載しています。 
   
   
                「朝鮮人来朝の時、かの耳塚を見て涙を流し、此塚に耳鼻を葬りし者は、皆我国の忠臣、死を以て国恩を報ぜし人なりと 
    
                言ひて、塚の下にて香を焼き祭文を読上げて、懇ろに弔ひけるとぞ、世の人皆知れる所なり。」 
   
   
              今回で、「『海游録』に記載された「対馬」と著者・申維翰」については終わりにいたします。 
  
  

  
                  参考文献: 鄭英實著 『18世紀初頭の朝鮮通信使と日本の知識人』 

                          申維翰著 姜在彦訳注 『海游録』

                          『方広寺』 ウィキペディア

                          『耳塚』  ウィキペディア




           令和元年5月 

                         『海游録』に記載された「対馬」と著者・申維翰(4)



              3.雨森芳洲と出会う

               (2)対馬での別れ

                  徳川吉宗の将軍職襲位を賀すために派遣された朝鮮通信使の使臣が江戸城で無事に朝鮮国王の国書を将軍に届け

                 た後、再び対馬に戻って来たのは、享保4年12月21日(1720年1月30日)でした。江戸に向かって対馬を
 
                 出航したのは、同年7月19日(1919年9月3日)でしたので、対馬に戻って来るまでに5か月間かかっています。
  
                 12月28日に通信使一行が明日対馬を出航すると聞いた雨森芳洲は、港に停泊している船の船窓にやって来て申維翰

                 に別れの挨拶を述べました。すると申維翰は筆談の間に思いついた次の詩を芳洲に見せました。
    
    
                                     今夕有情来送我
    
                                     此生無計更逢君
    
    
                  芳洲はこれを見て、声を殺して泣きながら次のとおり言ったそうです。
    
    
                    「私はもう老いてしまった。再び世間の事に関わることもなく、この対馬で命が尽きる日が迫っている。
    
                     今さら望むものはもうない。ただ諸君が国に帰って朝廷で栄達されることを願うだけだ。」
    
    
                このように述べた後、芳洲の目から涙が流れ落ちました。
    
                この様子を見て、申維翰はこう言いました。

    
                   「君はどうして女、子供みたいな態をなしているのか。」
   
 
               すると、芳洲は、
    
                   「辛卯年(1711)の通信使の諸君とも、相愛の深さはこんにちの如くだった。しかし、別れの時にこのような
    
                    涙はなかった。この10年で精神が老けてしまった。昔の人が言う暮境に情弱しとは、こうした如きを言う
    
                    のだろう。」 と答えました。
    
    
                『暮境に情弱し』とは、年老いて涙もろくなった、ということでしょう。申維翰もここで筆を止めればよかったのに
   
               この筆まめな人は次のとおり余計なことを書いてしまって、自ら品性を落としています。
   
   
                  「余はその状を観るに、険狼にして平らかならず、外には文辞に托し、内には戈(ほこのこと)剣を蓄う。
    
                   もし彼をして国事に当たらしめ、権を持せしむれば、すなわち必ず隣疆(境のこと)に事を生ぜしむるであろう。
     
                   しかし、その国法の限るところとなって、名は一小島の記室(書記官のこと)にすぎぬ。いつまでもその地に
    
                   居ながらにして、老死することを愧(恥)としている。別離の席での涙は、すなわち、みずからを悼む(嘆き悲しむ 
        
                  こと)ものであろう。 」
    
    
                申維翰は雨森芳洲を心のねじけた人物である、と帰路京都にやって来た箇所で書いていますが、申維翰も負けては
        
               いないように感じられます。素直に雨森芳洲の別離の気持ちを受け止めることができません。ただ、申維翰がそう思う
        
               のも致し方ないところもあります。このことについて、次回で紹介したいと思います。



            4.その他

               享保4年(1719年)に来日した朝鮮通信使の製述官申維翰が書いた日本紀行文『海游録』の中で、私が特に印象深く思

             った箇所を3つだけ次に掲載します。
  
              ●長崎へ行けず残念がる

                「長崎は中国商船の泊する処で、その名勝は、百物繁華とともに、国中でもっとも有名である。路順からはずれてい

                 るため、そこを一見してゆくことができないのが遺憾である。」と書いています。


              ●元山を猿山と聞き違い

                下関(赤間関)に滞在中、申維翰は雨森芳洲に、「かつて、赤間関の東に猿山あり、山は猿を多産し、その猿声は

               聴くにたると聞いた。それがいずこか知らないか。」と尋ねたところ、雨森芳洲は腹を抱えて笑いながら、「世間には、

               もとより、無実の虚名を受けることがあるが、誰が見て誰が伝えた話なのだろうか。明日、海上から左辺を望めば、

               一つの小山が見え、その名を元山という。山に鳥獣はない。伝えた人が、最初に元が訛って猿となり(朝鮮音で元と

               猿は同じ)、次には山が訛って産となり(朝鮮音で山と産は同じ)、猿声の話が伝えられたのであろう。人が大笑絶

               倒するだろう。」と言っています。

                さて、元山とは小野田市の南端にある本山岬のことで、申維翰は、「いわゆる元山を過ぎる。望めば濯々として

                (つるつるして)草木なく、鳥獣もいるはずはない。はたして雨森の言の如くで、一笑した。」と書いています。

               「猿」も「元」も韓国語では「원」と書き、発音は「ウォン」です。また、「山」も「産」も「산」と書いて「サン」と

               発音します。当時の朝鮮人は「本山」(もとやま)を「元山」と間違って書き、それがいつの間にか「猿山」と認識
      
               されるようになったのでしょう。雨森芳洲が大笑いしたのもわかります。


             ●富士山を絶賛 

               富士山を見て、「海外の諸山を考うるに、富士山に並ぶものはないであろう。」と、富士山を絶賛しています。



            江戸時代、第9回目となる朝鮮通信使の来日は今年でちょうど300年になります。記念の年ですね。

            韓国政府が反日の政策を早く止めて、親日的な政策を取るよう期待したいものです。
   


                 参考文献 :『海游録』  東洋文庫252





           平成31年4月 

                             『海游録』に記載された「対馬」と著者・申維翰(3)



         3.雨森芳洲と出会う

          (1)雨森芳洲と口論する

              朝鮮通信使一行が対馬の府中(現在の厳原)に到着して3日後に、製述官である申維翰は対馬藩主から私的に城に招待

            されました。
   
             城に通信使の文人たちを招待して酒宴を開いたり、日本側に渡す文書を作成したり詩文を作るのが役目である通信使の

            製述官と対馬の文人たちとの間で筆談させ、藩主がそれを見物することは以前からのしきたりでした。そして、製述官は

            藩主の前に進んで拝礼し、藩主は座って製述官に挨拶するのがしきたりでした。
 
             申維翰はこのようなしきたりに従うべきでないと思ったのですが、せっかく藩主が好意で招待してくれたのだからと正使
    
            以下3使臣が勧めるので意を決して城へ行くことにしました。申維翰は通訳官と籠に乗り、書員と画員の2人を随行させて
    
            城へ向かいました。
  
            城に着いて大きな建物に入ると、そこには藩の役人やその子弟たち5、6人の年少者がおり、雨森芳洲もいました。
 
            申維翰は彼らと筆談しながら食事をしました。申維翰は『海游録』の中で、いずれも食うに足りるものだった、感想を述べ

            ています。
    
    
             食事が終わった頃、藩主がその大きな建物の一室に到着したことが告げられました。それで座中が立ち上がろうとすると、

             申維翰は、「諸君は安座してくれ。」と言いました。雨森芳洲はそれを聞いて、「何を言われるか。」と言います。
    
             以下、申維翰と雨森芳洲との間で言い争いが起こりました。

    
               申維翰:君は必ず、私に島主の前に進んで拝ませ、島主は座ったまま衣服の袖を挙げてこれに答えることを望むのか。
    
               雨森芳洲:昔からそのようにしてきている。
    
               申維翰:いや、そうではない。この島は朝鮮の州県の一つに過ぎない。島主は図書(朝鮮国が通交を許可する証として
    
                    与えた銅製の印鑑)を受け、我が国が与えた穀物を食べている。また、大小の命を請うのは我が国の地方長官
    
                     の道義である。我が国の国法では、政府の役人が国事で外地にあれば、身分の高低にかかわらず地方の長官
    
                     と対等である。したがって、島主が座り、私が拝礼するのを通例とするのであれば、君の主人を地方長官として
    
                    礼を失わせることになりはしないか。
    
              雨森芳洲:私も島主に仕えており、君臣の義がある。君の言うことを採用してこれまでのしきたりを改めるわけにはいか
    
                     ない。両国がよしみを結んで以来、こうした礼を行っている。いまこのしきたりをすぐに廃止するよう望む
    
                     のは、我々を侮るものではないか。
    
              申維翰:礼は相手を敬うことから生じ、侮ることによってすたれるのである。私があえて貴国を侮るのではなくて、
    
                   貴国が我々を侮っているのだ。
        
   
           以上が申維翰と雨森芳洲との言い争った内容ですが、雨森芳洲は申維翰の発言を聞いてとても怒り、わめきだしたよう
    
         です。他の対馬藩の役人たちも皆立ち上がり、目を見張ったり、申維翰を睨んだりしたことが海遊録に記載されています。
   
           このため、役人たちは申維翰を藩主に会わせるわけにはいかず、雨森芳洲ら役人たちはその宴会場を去っていきました。
    
         申維翰は宿所の西山寺に帰る途中、府中の繁華街で朝鮮人による馬上才(疾走する馬の背で逆立ちしたりする朝鮮の

         曲芸)の演技が行われているのを目撃しています。藩主も「高閣」に座って観覧していたそうです。
    
           翌朝、通訳官や書画官、馬上才に対してこれまでの例に従って藩主から賞として白金(プラチナ)を授けられましたが、
    
         申維翰は授けられなかったそうです。こうして製述官が対馬藩主に私的に会ったり、賞を受けることは申維翰から廃止
    
         されたと、申維翰は海游録に書いています。
        





                 平成31年3月 


                            『海游録』に記載された「対馬」と著者・申維翰(2)



         2.『海游録』に記載された「対馬」

          (1)提供された食事に不満

              朝鮮通信使一行が対馬で最初に上陸したのが佐須浦でした。そこで対馬側から一行に提供された食事について、製述官の申維翰は

         次のとおり述べています。


            「倭人が小朱盤に黒い木器数枚をのせ、飯、野菜、酒、果をすすめた。しかし味薄く、物また早々(粗末)としていた。」
   


              翌日も佐須浦で食べた食事について次のとおり不満を述べています。

 
             「島中物力が乏しく、供するところ、ただ葱、芹、青菜、豆腐、鮮魚のたぐいがあるだけ。島主が使臣への慰問のために
 
             贈ってきた贈り物は、杉の木でつくった層盤に数種の果物を盛ったものであるにすぎない。笑うべきだ。」


          また、豊浦に停泊した際に対馬側から提供された酒について、次のとおり述べています。当時、朝鮮では日本よりも度数の高い酒を

         飲んでいたことがわかります。


           「倭官の護行者が、諸白酒(酒の種類)、生梨、熟梅、蜜、蓮根などを送ってきた。余はもともと酒を好まぬが、倭製の酒は

            さして強烈ではなく、二、三杯を飲んだ。」

 
         通信使一行が対馬の府中(厳原)に到着し、3使臣らが案内されたところが西山寺でした。ここで食事を取った後、お茶を勧められ

        お茶を勧められました。申維翰は次のとおり述べています。日本のお茶が気に入ったようです。


           「色は青く、味は苦いが、湯を吹いて小飲すると胸中が爽快であった。」



      (2)対馬の世相と気質

         申維翰は対馬の人たちについて、次のとおり述べています。かなり辛辣に言っていますが、当たっている部分もあったかもしれません。


           「民の俗は、詐りと軽薄さがあって、欺くをよくす。すなわち、少しでも利があれば、死地に走ること鷲の如くである。

            その土地がやせていて、百物生ぜず、山には耕地なく、野には溝渠(水路)なく、居宅には菜畦(菜園)がないからであろうか。

            ただ、漁をして市販し、西(北)は草梁(釜山の近郊)に集まり、北(東)は大阪、京都に通じ、東(南)は長崎と 交易している。」

 
  v  私は、この部分を読んで、 魏志倭人伝の一節を思い出しました。次のとおり、魏志倭人伝にも似たような記述があるからです。

  
    「居る所絶島、方四百余里ばかり、土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(けい)の如し。

     千余戸有り、良田無く、海物を食して自活し船に乗りて南北に市糴(してき)す。」

  
    3世紀頃の対馬と18世紀の対馬とでは、交易によって生計を立てていた点では大差ないようです。    


    続けて、申維翰は次のとおり述べています。


     「諸軍士には扶持米があるが、そのほかに官が民に対して貸与米や救済米をあたえる法はない。だからその民で

           力が薄く商をなせない者は、傭人になるか、乞食になるか、妻子を売って生きるかするほかにない。

           魚塩の商販者にも、官は重税を課して駆り立てる。かれらが、あたかも鳥魚の如く集まり、螳螂(とうろう)(かまきり)の如く

            怒り反抗的となる所以である。官といい民といい、ほとんど一字書を識らず、上下がこもごも利を取る。まことに葛伯(かつはく)の国である。」


         葛伯とは、姜在彦氏の訳注によると、利害関係だけで人から奪ったり人を殺したりした、古代中国の一侯国のことだそうです。
   
            当時、朝鮮人は対馬のことをこのように一般的に思っていたのかもしれません。朝鮮では倭寇から略奪された時代があったので、
   
            いまだにそのようなイメージを持たれていたのかもしれません。対馬人にとっては、はなはだ不愉快な、間違った記述と思うことと思います。


         申維翰は、『日本聞見雑録』の中でも、「対馬島が狡く詐ること限りなく、館訳(倭館の通訳)から侮りを受けること多端である。」とも述べています。
    
            このように、ものの見方が冷淡なのは、この人物の特性なのではないかと私には思われます。雨森芳洲との会話でも、そのような冷淡な場面が見られます。
    
            次回は、そうした場面を紹介いたします。






              
                     申維翰が訪れた西山寺



            
                      西山寺の本堂

    



                平成31年2月 


                           『海游録』に記載された「対馬」と著者・申維翰(1)



         1.『海游録』の著者・申維翰

             『海游録』(かいゆうろく)は、1719年に来日した第9回目の朝鮮通信使の製述官・申維翰(シン・ユハン)が書いた 日本紀行文です。
    
           江戸時代の朝鮮通信使は1607年の第1回から1811年の第12回まで計12回日本に派遣されました。
    
            朝鮮通信使一行は正使・副使・従事官の3使以下300人から500人の人数でした。この中に日本人とやり取りする文章や詩文を作成する
    
           製述官という役職の者が1人おりました。申維翰(1681~1752)もその1人でした。

            『海游録』(平凡社刊 姜在彦訳注)の冒頭、申維翰は製述官について次のように述べています。


              「 近ごろ倭人の文字の癖はますます盛艶となり、学士大人と呼びながら郡をなして慕い、詩を乞い文を

               求める者は街に満ち門を塞ぐのである。だから、彼らの言語に応接し、我が国の文華を宣耀するのが、

               必ず製述官の責任とされるのである。まことに、その仕事は繁雑であり、その責任は大きい。

               かつ、使臣の幕下にありながら、万里波濤を越えて訳舌の輩とともに出入りし周旋するのは、苦海で

               あらざるはなく、人はみな畏れて、鋒矢に当たるのを避けるが如くこれを避ける。」


            このように製述官というのはたいへん労力のいる仕事だったようで、申維翰も国王から製述官に下命された後、母親が老い、家が貧しいなどの
    
          理由を挙げて固辞しています。 しかし、正使に任命された洪致中が申維翰を製述官とすることについて国王の裁可を受けたために、ついに引き
    
          受けざるを得なくなったのでした。

            ここで、申維翰の生い立ち等についてご紹介したいと思います。


            韓国の「韓国民族文化大百科事典」によると、彼は1681年、父・申泰来、母・金碩玄の娘との間に生まれました。

          後に申泰始という人物の養子になりました。字は周伯、号は靑泉といい、慶尚道の密陽で生まれ、同じく慶尚道の高霊で育ちました。
 
          1705年、24歳の時に科挙のうちの進士試という試験に合格し、進士となりました。進士になると李氏朝鮮の最高学府である成均館に入学
    
          することができ、科挙の文科(小科と大科の2種類がある)のうちの大科を受験する資格が与えられます。大科はまた成績によって、甲科・乙科・
    
          丙科という3つの等級がありました。また、進士になると下級官吏として任用される資格も与えられます。

          申維翰は成均館に入学し、文章を上手に書く者として知られるようになったようです。

           1713年、32歳の時に国に慶事があった場合に臨時に行われる増広試という科挙が行われ、申維翰はこの試験を受けて文科(丙科)に合格
    
          しました。
 
            『海游録』(平凡社刊 姜在彦訳注)に記載された姜在彦氏の解説によると、申維翰は正妻が生んだ子ではなく、いわゆる庶子(婚外子)だった
    
          そうです。朝鮮時代、同じ両班の子であっても嫡出子と庶子間の差別は厳しく、庶子出身は科挙に応試することが許されなかったそうです。
    
            一時期、庶子でも科挙を受けることが許された時期があり、1713年の科挙がまさにそれでした。しかし、科挙に合格しても官位は厳しく
    
          制限されていたそうです。

 
            申維翰は1719年、即ち38歳の時に朝鮮通信使の製述官となって日本に渡り、帰国後に就いた官職は奉尚寺の僉正(チョムジョン)でした。
    
          姜在彦氏の解説によると、奉尚寺は国家の祭祀や諡号を管掌する官庁で、そこでの官階は、正、副正、僉正、判官、主簿などあり、僉正は従四品に
    
          当たるそうです。そして申維翰は官職に恵まれることはなく、奉尚寺の僉正にとどまったそうで、おそらく庶子出身であったからだろうと姜在彦氏
    
          は述べています。そして、この『海游録』にもところどころに、彼が一身上の運命を慨嘆しているところがあるそうです。
  
            たとえば、この本の最初の章で、

    
              「けわしい路をふんで科挙試に抜擢されて以来、余は百怯羞苦を甞めるに備えたが、今また死生溟海の役に身を駆ることとなった。これすべて、
    
               五鬼が居座って去らないからであって、誰を怨もうか。」

 
          という部分も自分の身の上を慨嘆しているところではないかと思われます。
 
         申維翰は『海游録』の他にも、『靑泉集』という著書を書いています。


         『海游録』の原物は3巻から成るそうですが、平凡社刊の『海游録』は次のとおり1冊で構成されています。

            1 製述官に選ばれて
            2 ソウルから釜山へ
            3 対馬島に向かう ―佐須浦、豊浦、西泊浦、船頭港(小船越)
            4 対馬州の府中(厳原)
            5 対馬州の世相と気質
            6 「名分」と「旧例」の確執
            7 出帆を待ちながら
            8 壱岐州から藍島(相ノ島)へ
            9 赤間関(下関)に向かう
           10 瀬戸内の航路 ―上関、鎌刈(蒲刈)、韜浦(鞆浦)、牛窓、室津、兵庫
           11 浪華江をさかのぼって大阪へ
           12 浪華の繁華ぶり
           13 大阪文士との唱酬
           14 淀川をさかのぼって京都へ
           15 国名の由来と天皇
           16 琵琶湖畔を往く ―大津、守山、佐和(彦根)
           17 東海道の旅路 ―大垣、名古屋、岡崎、浜松、駿府、富士山、箱根嶺、小田原、神奈川、品川
           18 江戸への入城
           19 江戸の由来と関白吉宗
           20 大学頭林信篤
           21 国書を呈して
           22 江戸文士との唱酬
           23 宴席での芸能
           24 回書を受けて江戸を発つ
           25 ふたたび東海道の旅
           26 大仏寺(京都)をめぐるもめ事
           27 大阪文士との再会
           28 大阪の出版と朝鮮書
           29 ふたたび瀬戸内の船路
           30 風波を越えて対馬へ 
           31 対馬での別離
           32 一路故国に向けて
           付篇 日本聞見雑録


        次回はこのうち対馬に関する部分を一部紹介したいと思います。

 
                参考文献
    
                  『海游録』 申維翰著  姜在彦訳注  平凡社刊行(東洋文庫) 1974年 
    
                  『한국민족문화대백과사전 (韓国民族文化大百科事典)』(電子辞典)

                   ウィキペディア 『李氏朝鮮の科挙制度』






                平成31年1月      

                              巨関について



          インターネットで巨関(こせき)について検索したら、とても興味深いサイトが見つかりましたのでご紹介します。

        『肥前平戸藩士 今村氏系図』とタイトルが付けられたもので、巨関が述べたという言葉が記載されており、平戸に来ることになった経緯が

         記載されています。本当かどうか今となってはわからないので、肯定も否定もできないと思われます。文献としては貴重な資料と思われ

         ます。



        【世系】

          肥前平戸藩士 今村氏の始祖は、朝鮮國慶尚道熊川(朝鮮慶尚南道鎮海市)の陶師なり。平戸焼(三川内焼)を

          創始せる陶工にして、その来歴は、 肥前平戸藩主・松浦法印鎮信公、並びに御嫡 久信公 豊太閤高麗御陣の節、

          小西行長、宗義智等と共に御先鋒を相勤む。 慶長3年(1598)、鎮信公朝鮮より御帰陣之節、朝鮮熊川の陶師

          「巨関」、鎮信公の聖徳を慕ひて其の御供を乞願ふ。 巨関曰く「吾(朝鮮)王は、徒に豪奢に耽り、民を疎かにして

           貫郷は疲弊す。願わくば、吾等百民を公の御國へ御供参らせ賜え」と。公は即ち之を許す。


          或いは云ふに、巨関一族は、豊太閤高麗御陣の節、朝鮮の道先案内を相勤む。而して豊太閤御逝去の後、

          松浦の軍勢、将に朝鮮より引き揚げむとする時、巨関、韓人の逆乱を察し、之を避けむがため日本へ赴かん

          事を欲し、公にその御供を乞願ふと。 公は即ち之を許す。巨関は、喜びて百餘名の韓人を伴ひ我朝に渡来せると。

         別傳に云ふ、松浦鎮信公高麗御陣の節、彼地で夕膳を食する時、 其碗秀逸なることを知る。公は之を賞して

          陶師の名を問ふ。彼地の人、其名を知らず唯「土俗の陶人なり」と答ふるのみ。 御意に召さず、公は市にてこの

          陶人を探査せしめ「巨関」なる陶人の作なるを知る。公は之を召喚するに「巨関」は、己の賤なるを恥じ、固辞して

          應ぜず。 公は礼を盡して是を恭しく招聘す。巨関に三顧之礼を諭す人有り、よつて以て公に御召抱えらるゝと。


          或いは云ふ、巨関は公に召出され候節、言語相通ぜず如何なる御咎を受け申し候か取り違え申し候て、身を隠し

          應ぜずとも云へり。 而して公は礼を盡して是を恭しく招聘するに、巨関、公の御褒を賜りて曰く「拙、作陶を生業と

         して幾歳、 嘗て此國(朝鮮)の人に賞せられたる事無し、公の仰せ恐れ入り畏まり候」と感涙すと。


           公は仁政を以て平戸城下に町割を為し、「高麗町」と称して之に韓人を居住せしめ作陶を奨励す。 而して巨関は、

         肥前松浦郡中野村椿坂(現 長崎縣平戸市)に開窯す。 或時、巨関、望郷の念ありて作陶に身が入り申さず萬事が

          不出来に相成り申し候て、昼夜を問はず海の波濤を茫洋と眺むること屡々なり。 公は之を憂慮せられ、巨関に日本

          の三人の美女を遣わす。公は問ふに「汝の好むる女子は此中に有れりや」と。巨関答えて曰く「総て気に入り申し候」

          と。 公は喜びて 「然らば三女子を全て汝が妻とせよ。令しく汝が才を磨き子孫相傳へ一族繁茂の礎とせむがため、

          今
より汝が子を為しやがてと成せ」 と仰せを賜ふ。「今村」の名は茲に由来すと。

          巨関は、日本の三美女を娶る。




        渡辺庫輔著 『三河内窯由来記』 によると、巨関は寛永20年(1643年)に88歳で没したそうです。

       逆算すると1555年に生まれたことになりますが、当時は数え年で年齢を表していたので、1556年に生まれたことになります。

       この年は朝鮮では明宗11年になります。

       巨関はその後、今村弥次兵衛(いまむら やじべえ)と名乗り、平戸藩の窯業の発展に大いに貢献しました。

       藩命により平戸島の中野村で陶器を焼きましたが、これが中野焼と言われています。中野焼は後の三川内焼の源流となりました。


                             


                                   
                               平戸市山中町紙漉の中野窯跡

                      

                      次の写真は松浦史料博物館に展示されていた中野焼の茶碗と水指です。

             
                      




                      



                      


            
                      



                      
            


                      

                      
        

                      


   

              韓国の慶尚南道昌原市鎮海区の熊川に住む陶芸家・崔熊鐸さんによると、熊川のワソン村 (와성마을)の港から

             多数の陶工とその家族たちがまっすぐ日本の平戸島に連れて行かれたそうです。代々言い伝えられて来たそうです。
           

   

                              
                                  ワソン湾
                   



                             
                                      



  
                        

  
 

                  【巨関の略歴】

                     1556年(明宗11年) 出生

                            ?     朝鮮国慶尚道熊川で陶芸に従事する。
 
                     1598年12月?    熊川から平戸に連れて来られる。
                      (慶長3年11月?)

                            ?     平戸藩から製陶に従事するよう命じられ、中野村で窯を開く。

                     1622年(元和8年)   藩主の内命により良質の陶土を求めて領内を探査。早岐の権常寺、日宇の東ノ浦、三川内の 

                                  吉ノ田・相木場において陶土を発見。日宇の藤原山麓、三川内の葭ノ本で試験的に製陶する。

                     1632年(寛永9年)   肥前佐賀藩領内の黒髪山大智院 尊覚法印を追慕し、同山に隠遁する。

                     1643年11月20日  死去。黒髪山に葬られる。
                     (寛永20年10月9日)




                 参考文献 
    
                    『肥前平戸藩士 今村氏系図』  

                    『三川内窯業史』   久村貞男著   2014年

                    『三河内窯由来記』  渡辺庫輔著   1958年



               平成30年12月     
 

                              明治天皇と平戸藩・松浦家との関係について

 
 
          NHKの大河ドラマ『西郷どん』では11月初旬、明治天皇が鹿児島を行幸するシーンがありました。私はそのシーンを見て明治天皇に
     
         親近感を抱きました。というのも、10月末に平戸城最上階の展望所で開催されたお茶会に出席した後、3階に展示されている明治天皇
     
         関係の資料を見たばかりだったからです。
 
           2年前に妻と二人で平戸城を訪問して初めて知ったのですが、明治天皇の祖母はなんと平戸出身です。ご存知の方もいらっしゃるとは
     
         思いますが、その女性の名前は中山愛子と言いまして、平戸藩第9代藩主松浦(まつら)清の第11女だそうです。松浦清は静山と号し
     
         ましたので、「松浦静山」という名前の方が有名なようです。
     
          松浦静山(1760~1841)は平戸藩主を引退した後に死去するまでの20年間に書いた随筆集『甲子夜話』(かっしやわ)で有名です。
 
           愛子(1818~1906)はこの静山と側室森氏との間に平戸で生まれました。愛子はその後、姉季子の夫である公卿の園基茂(その・もとしげ)
     
         の養女になって公卿の中山忠能(なかやま ただやす)に嫁ぎました。そして愛子と忠能との間に慶子(よしこ 1836.1.16~1907.10.5)が生
     
         まれ、その慶子が1851年宮中にお仕えし、1852年11月3日に実家中山邸で孝明天皇の子供を出産しました。この子は祐宮(さちのみや)
     
         と孝明天皇から命名されました。
     
          祐宮誕生後、孝明天皇は 中山邸を訪問し、中川忠能に祐宮の里親を命じたため、祐宮は中川邸で4歳まで祖父母の忠能・愛子と慶子から
     
         育てられたそうです。そして孝明天皇には祐宮以外に男の子をもうけることなく亡くなったので、この祐宮が1876年年2月13日に皇位を
     
         継承し第122代天皇となりました。翌1868年10月12日(慶應4年8月27日)に京都御所で即位の礼が執り行われています。
     
          1868年10月23日(慶應4年9月8日)に改元の詔書が出され、慶應4年1月1日を明治元年1月1日(1868年1月25日)とすると
     
         定められました。
 
           こうして祐宮は死後に明治天皇と呼ばれるようになりました。存命中の諱は睦仁(むつひと)と言います。今年10月末に平戸城3階で
     
         明治天皇と平戸藩主・松浦家関係の展示資料を拝見しましたが、特に目を引いたのが、祐宮誕生後七日目の祝いに孝明天皇から贈られた産着
     
         です。これは慶子の父・中山忠能大納言が妻・愛子の兄で前平戸藩主の松浦熈(まつら ひろむ)に送ったものです。また、中山忠能が松浦熈に
     
         送った書簡も展示されていて、次のとおり説明文と書簡の一部の現代語訳が展示されています。
        
        
        
        「 大納言中山忠能書簡
        
        
           祐宮誕生前後の経過を詳さに記して、平戸松浦家に知らせた外祖父忠能の書簡。
        
        
             至って御機嫌よき皇子にあらせられ、恐れながら家族皆々有難く、恐悦奉り候。
        
             何卒子細なく御成長の御事を祈り奉り候。―略―
        
             妻(中山愛子)にも無事に御世話申し上げおり、恐れながらまぎれなく外祖母に
        
             御座候へば、有難きのほどご推察、ご同慶下さるべく候。
        
        
        
           上記の抜文は、両家の皇子誕生による格段の喜びを、感慨深く回想させる。 」
        
                                    

                                






                               
                                     明治天皇の産着




                          
                                  大納言中山忠能書簡




                          




                                 




                     参考文献

                           ウィキペディア   中山愛子

                           ウィキペディア   中山慶子

                           ウィキペディア   明治天皇

                           長崎県平戸観光協会「達人Navi平戸」 中山愛子像





               平成30年11月      

                                 独立運動家・李康勳

           
 

        11月に関係のある人物として朝鮮の独立運動に従事した李康勳(イ・ガンフン)がいます。 彼は1903年に江原道金化郡で生まれ

       ましたが、本貫(氏族集団の始祖の発祥地)は全羅北道の全州であり、全州李氏からは李氏朝鮮を建国した李成桂が出ています。

        ちなみに、全州李氏の始祖は新羅の李翰(イ・ハン)という人物だそうです。


         李康勳は、1919年3月に起きた3.1独立運動の翌年上海に渡り、上海に樹立されていた大韓民国臨時政府の国務総理室の

        秘書として勤務しました。1925年に満州に行って新民府という抗日独立運動団体に加入し、教師として後進の養成に力を注ぎました。

         1931年の満州事変を契機に日本の満州侵略が激しくなると、翌年再び上海に戻りました。そこで、1930年に柳子明、鄭華岩、

        白貞基等が在中国朝鮮アナーキスト連盟を改編して創立した南華韓人青年連盟に加入しました。1933年3月南華韓人青年連盟の

        行動部隊である黒色恐怖団を組織し、駐中日本公使の有吉明を暗殺することを計画しました。

         同年3月17日、上海の「六三亭」という日本料亭から有吉明が出て来るところを暗殺するため、近くの中国料亭店「松江春」で爆弾と

        拳銃を所持して待ち伏せしていたのですが、事前に警察に密告があっていて、近くの建物で張り込んでいた警察官からの通報により

        共同租界工部局虹口警察署と日本領事館警察によって、李康勳は白貞基、元心昌とともに逮捕されました。当時上海には長崎出身の

        者が大勢住んでおり、六三亭という料亭は長崎市銀屋町出身の白石六三郎という人が経営していました。白石六三郎は旧姓は武藤で、

        南高来郡出身の白石スエと結婚して姓を妻の姓に変えています。

 
         李康勳ら3名は上海総領事館で予審決定を受けた後、長崎地方裁判所で公判に附すため、同年7月に上海から長崎へ移送されました。

        3人は長崎到着後直ちに浦上にある長崎刑務所の浦上刑務支所に収監されました。この場所は現在平和公園になっています。

         1933年(昭和8年)11月15日に長崎地方裁判所で公判が開かれ、白貞基と元心昌は無期懲役、李康勳は懲役15年の刑を求刑され

        ました。同月24日には判決があり、求刑どおり宣告されました。適用法令は治安維持法と爆発物取締罰則でした。


         判決の日、3人の陳述があり、白貞基と元心昌は無政府主義は依然として正当なものだと確信し、今後もこの運動は継続するつもりだと

        述べたのに対し、李康勳は無政府主義が正当なものであることを確信するが、直接行動は考えが違うという意味の答えを行ったそうです。

        白貞基と元心昌は生粋のアナーキストだったのに対し、李康勳はアナーキストではなかったようです。李康勳は後に次のように語っています。


             「 わたしは本来、何々主義だと標榜することを否定する。わが祖国を強奪する敵を憎んでいるのだから民族主義だと断定したり、

              無政府主義と革命事業をともにしたからといって、私を黒とみなしたり、あるいは共産主義者と握手したことが過去にあるといって、

              赤と考える人がいるとすれば、それも笑うべき話である。

               私がこのたび上海に来て、無政府主義者と行動をともにし、無政府主義者として知られている白貞基義士と事をともに挙げた

              からといって私を無政府主義者と断定することも誤りである。」
     
                    (『失敗した上海爆弾義挙』(「東アジア・アナキズム運動クロニクル」)より引用)



        判決後、元心昌は控訴したのに対し(後に控訴を取り下げ)、李康勳と白貞基の二人は控訴せずに二人とも長崎県諫早にある長崎刑務所に

       収監されました。李康勳は第4舎房、白貞基は第2舎房に入れられました。

        翌年6月5日、白貞基は持病の肺結核が悪化して38歳の若さで獄中に亡くなりました。李康勳は後に東京の府中刑務所に移され、日本の

       敗戦、朝鮮の植民地解放をそこで迎えました。

        1946年4月、李康勳は白貞基の遺骨を韓国に搬送し、6月16日にソウルの孝昌公園で挙行された、日本で処刑または獄死した3人の

       烈士の国民葬では、開会の辞を述べています。


        また、1994年(平成6年)3月8日付けの長崎新聞には、李康勳のインタビュー記事が掲載されており、旧浦上刑務支所での拘禁中の

       様子について、浦上刑務支所から長崎地方裁判所への移送には、周囲から見えないよう編み笠をかぶせられたとか、刑務所の部屋は独房で、

       床が板でなにより寒かった、などと述べています。

     
       
   
                         
                                       旧長崎刑務所




             参考文献
 
                 『韓国独立運動家 鴎波白貞基~あるアナーキストの生涯』

                         編著 社団法人国民文化研究所 翻訳 草場里見  発行 明石書店  2014年






                  平成30年10月      

                                       力道山と大村


           
        1..プロレスの思い出

           力道山は、昭和20年代と30年代に日本でプロレスラーとして一世を風靡した人物ですが、私はまだ幼かったので、現役で活躍した

         頃のことは覚えていません。そもそもまだテレビが自宅にはありませんでした。昭和39年(1964)にあった東京オリンピックでは開会式の

         様子をおぼろげに覚えていますので、その頃には私の実家にもテレビがあったようです。

           昭和40年代は私が小学校、中学校に通っていた時代で、その頃はテレビで毎週プロレスの中継があっていました。ジャイアント馬場や

         アントニオ猪木の試合はよく興奮して見ていたものです。ジャイアント馬場の16文キックやアントニオ猪木のコブラツイスト、卍固めは人気

         の技でした。観客が興奮して声援を送っていた様子が思い出されます。



       2.日本で力士になる

          力道山は朝鮮人で、現在の北朝鮮の咸鏡南道洪原郡で生まれました。日本相撲協会の記録によると、大正12年(1923)7月14日に

        生まれています。大正13年11月に出生したとする戸籍抄本が存在しますが、日本相撲協会へ力道山自身が生年月日を届け出たと思わ

        れるので、大正12年7月14日出生が正なのではないかと私は思います。力道山の本名は金信洛(シンラク)といい、日本が朝鮮支配に

        際して行った創氏改名政策により、戸籍上の氏名では日本式に金村光浩と改名しています。

          家庭が貧しいため、シルムという日本の相撲に似たスポーツの大会によく参加して賞品を稼いだそうです。昭和13年(1938)、5月5日の

        端午の節句を祝って行われたシルム大会で当時14歳の信洛少年は長兄と共に出場し、兄が優勝し、自分は3位になったそうです。

          この大会を見物していた長崎県の大村に住んでいる百田巳之助という興行師と、百田の義理の息子(母親が百田巳之助の内縁の妻)で

        朝鮮で警察官(当時、警部補)として勤務していた小方寅一の二人は、信洛少年の将来性に注目して信洛少年を日本の大相撲にスカウ

        トしました。

          百田巳之助は大の相撲ファンで、当時、大相撲の幕の内で活躍していた大村出身の玉の海梅吉(本名は蔭平梅吉。最高位:関脇。

        後にNHKの大相撲解説者)が所属する二所ノ関部屋の後援会の幹事をしていました。


          その後、二所ノ関部屋で親方も兼ねていた玉の海梅吉らの一行が朝鮮巡業にやって来た時、玉の海は金信洛と会い、彼の体つきを見て、

        即座に二所ノ関部屋に入門することを承認したそうです。昭和15年(1940)2月、捕鯨船の乗組員をしている玉の海の実父が金信洛を門司

        港で出迎えて、東京の二所ノ関部屋まで連れて行ったようです (牛島秀彦著 『力道山物語』 27貢)。こうして金信洛は二所ノ関部屋に入門

        しました。


          そして、親方の玉の海は「大相撲の力士が朝鮮籍じゃ何かにつけて具合が悪かろうから」と言って指示をなし、大村の百田巳之助の籍に

        入れるという工作を行ったそうです。昭和15年5月に初土俵を踏み、翌昭和16年1月場所の序の口の番付は「朝鮮 力道山昇之介」となって

        いましたが、次の5月場所の序二段の番付では、「肥前 力道山光浩」に変わったそうです。

          力道山は十両時代に二所ノ関部屋の玉の海親方が母校、大村第二小学校(旧大村第二国民学校)に土俵を寄附し、その土俵開きの際に、

        親方の付き人として大村に同行したそうです。

          力道山は昭和24年(1949)5月場所で関脇に昇進しましたが、翌昭和25年(1950)9月場所を全休して相撲界から引退しました。そして、

        昭和27年(1952)2月にプロレスラーに転向しました。


       3.本籍地を大村とする

          力道山は昭和25年11月21日付けの許可の審判により、就籍の届出を行いました。その結果、昭和26年2月19日付けで日本戸籍が

        編製されました。就籍とは、日本人でありながら戸籍のない者について新たに戸籍に記載されることをいい、この就籍をするには家庭裁判

        所の許可を得るか、または判決を得て就籍の届出をすればよいことになっています。

          この戸籍によると、本名は百田光浩、本籍は長崎県大村市296番地となっています。また、父は亡百田巳之助、母は亡たつで、二人の

        長男として大正13年11月14日に出生したと記載されています。上述したように、力道山が大相撲に入った時、玉の海親方の指示で力道山は

        大村の百田巳之助の籍に入りましたが、正式に戸籍に入ったのではなく、百田巳之助の家に息子として入った、という程度だったのではないか

        と思います。力道山自身は、「物言いを付けるようで変ですが、僕は半島出身のようになっていますが、親方(玉の海)と同じ長崎県ですから、

        よろしく」 と 『野球界』 昭和17年12月号の「幕下有望力士放談会」で語ったそうです。


          その後、日本戸籍を作って1年も経たずに、昭和27年1月9日付けで東京都中央区日本橋浜町3丁目19番地に転籍し、大村の本籍を

        同年1月16日付けで除籍しています。日本に来て10年以上も経ってから戸籍を作っていますが、その当時戸籍を作る必要があったものと

        思われます。戸籍を作ろうとした昭和25年(1950)は6月に朝鮮戦争が勃発しており、南北が同じ民族同士で戦争していた時期でした。この

        戦争と関係があったのかもしれません。



          昭和38年(1963)12月15日に力道山が40歳で亡くなった後、遺骨は大村市武部町の浄土宗寺院・長安寺 (1609年に初代大村藩主・

        大村喜前が創建)にある小方寅一氏の家の墓 (「小方百田家之墓」)に分骨されているそうです。このことは小方寅一氏本人が『力道山物

        語』を書いた牛島秀彦氏に語っています( 『力道山物語』 19貢)。今年は力道山の死後55周年になります。





            引用文献

                牛島秀彦著    『力道山物語』  徳間文庫  1983年

                岡村正史著    『力道山』     ミネルヴァ書房 2008年 

                ウィキペディア  『力道山』

                ウィキペディア  『玉ノ海梅吉』




           平成30年9月     
 

                         長崎で中国語を学んだ雨森芳洲

           
     1.木下順庵の門弟

         雨森芳洲(1668~1755)は江戸時代の儒者であり、対馬藩に仕えて朝鮮との外交で活躍しました。天和3年(1683)年頃、江戸
    
       に出て木下順庵(1621~1699)の門下に入朱子学を学びました。現在の年齢で15歳頃のことでした。この木下順庵は61歳(1682)の
 
       時に幕府の儒官となり、第5代将軍綱吉の侍講になりました。

         雨森芳洲は、元禄2年(1689)21歳の時にその木下順庵から推挙されて対馬藩に仕えるようになりました。しかし、実際に
    
       対馬に赴任したのはその4年後の元禄6年(1693)であり、その間は対馬藩の江戸藩邸に籍を置いていました。



     2.江戸で中国語を学習
   
         上垣外憲一著『雨森芳洲』(中公新書)によると、22歳の時はじめて中国語を習ったと、芳洲自ら記していて、当時中国語会話の
    
       重要性を認識していたのは木下先生だけであり、先生が自分に勧めて中国語の会話を学ばせた、と記しているそうです(60~61貢)。
 
       芳洲の中国語会話の師は恵厳という者で、延宝5年(1677)に長崎に渡って来た中国僧心越禅師の弟子だったそうです。

         この心越禅師を水戸光圀が天和元年(1681)に江戸に迎えており、天和3年に水戸に移っています。芳洲は22歳の時はじめて

       中国語会話を習ったといいますから、ちょうど対馬藩に仕えるようになった元禄2年の時です。芳洲は江戸で中国語を習っていました。


         ところで、上垣外憲一著『雨森芳洲』によると、芳洲が現代中国語に興味を持ち始めたのは13歳の時であり、江戸から長崎に住む

       中国人に出された命令書、つまり漢文で書かれた文書が、文章の書き方が違うせいか中国人には読めず、通訳たちが集まってそれを

       見直したという話を長崎から来た商人に聞いたのが、中国語を学ぼうとした最初の動機だったそうです。芳洲は中国語に興味を持ち始めた

       9年後に実際に中国語の会話を習い始めました。

 


     3.長崎で中国語を学習

         芳洲は中国語会話を習い始めて3年後の元禄5年(1692)に、当時中国語学の先進地だった長崎に初めてやって来ました。もちろん

       中国語の会話を学ぶためでした。芳洲が長崎に来た時は、密貿易の取り締まりや中国語のキリスト教関係書籍の流入を防ぐなどの理由

       から中国人たちは唐人屋敷の中に住むことを義務付けられており、市中に中国人は住んでいませんでした。せっかく長崎に来たのに

       中国人と会うことができず、このため芳洲は上野玄貞という日本人の医者から中国語を習っています。芳洲は、自分が長崎に行った時、

       長崎の外の人で長崎まで中国語を学びに来たのは学海という僧侶が一人あったきりだったと長崎の人たちが言っていた、と記している

       そうです(『雨森芳洲』 66貢)。

         そして、翌元禄6年対馬に赴任したわけですが、今度は元禄9年(1696)から11年(1698)の約2年間再び長崎を訪れて中国語を

       学んでいます。対馬の藩邸は長崎にもあったので、芳洲はこの長崎藩邸に宿泊したのではないかと思われます。当時対馬藩の長崎藩邸は

       紺屋町(現在の麹屋町と諏訪町)にありました。

         長崎に2年余り滞在し、中国語もある程度話せるようになったことと思われます。芳洲は晩年になって、『たはれ草』という随筆を書き、

       その中で、23歳の時現代中国語を習い始め、20年ほどしてようやく読むのが日本語に近くなり、会話もなんとかこなせるようになったと

       書いているそうです(『雨森芳洲』 67貢)。


         ずいぶんと努力していた様子が窺われ、感心する次第です。私事ですが、私などは中国語を勉強しては止め、また数年して中国語の

       勉強を再開し、しばらくしてまた止めるということを繰り返してばかりいて、少しも中国語が身に付いていません。現代と比べ中国語を

       勉強する手段に乏しかった時代に熱心に勉強した雨森芳洲を大いに見習いたいと思います。芳洲は朝鮮語ばかりでなく中国語も50年

       以上勉強し続けており、その努力ぶりには敬服する次第です。


 
         参考文献

             上垣外憲一著  『雨森芳洲』  中公新書  1989年







          平成30年8月      


                       対馬の仏像について

           
         平成24年(2012)10月に、対馬市の豊玉町にある観音寺の観世音菩薩坐像(高麗仏)や峰町にある海神神社の銅像如来立像(新羅仏)、
   
       厳原町にある多久頭魂神社の大蔵経1冊が盗難の被害に遭ってからもうすぐ6年になります。

         このうち、銅像如来立像は平成27年(2015)7月に対馬に返還されましたが、大蔵経は現在も行方不明のままになっているようです。

       観音寺の観世音菩薩坐像は大田高裁でまだ係争中です。


         今年6月17日付け長崎新聞によると、大田高裁は所有権を主張する浮石寺側に対して、仏像は日本に返し、複製品を作って浮石寺で

       保管したらどうかと提案したそうです。極めてまともな判断だと思います。韓国の裁判官も常識的な考えを持っている人がいるという

       ことがわかり、とても嬉しく思います。

         それにしても、第1審の大田地裁が「対馬の観音寺が観世音菩薩坐像を正当に取得したという事実が立証されるまでは、韓国政府は

       当該仏像を返還してはならないと」という仮処分を下したことは、とんでもない判決でしたね。



         報道によると、今回の大田高裁の提案に対し、浮石寺側は、「私たちの文化財を(日本に)返せという根拠は一体どこにあるのか」と

       反発し、「裁判所は国民感情や価値観に沿った判断をすべきだ」と批判したそうです。これもまた、開いた口が塞がらない感じがします。

         明治時代、長崎で発行されていた鎮西日報に、いつだったか、韓民族は未開の国民だと書いている記事を見たことがありますが、

       いまだに韓国には未開の人たちがいるという思いがしてなりません。まだ発展途上の国民だという気がします。理性より感情が先立つ

       人たちが多いように思われます。


          これに対して、日本人は本当に辛抱強いと思います。 驚くほどです。悪く言えば、無気力で、他人任せの人たちが多いというふうに

       思われます。もっと積極的に返還運動に取り組んでもらいたいと思います。自分たちの財産は自分たちで守れ、と言いたいです。

       行政に頼り過ぎなのではないでしょうか。行政は決してあてにはなりません。 韓国に出かけて行って、韓国人に大いに自分たちの正当性を

       訴えるべきではないかと思います。韓国人も応援してくれる人たちがいると思います。決して情のない国民ばかりではないですよ。

       義侠心のある韓国人もいるはずです。私には対馬の人たちの努力も足りないように思われます。



         さて、下の写真のとおり、現在、長崎県立対馬歴史民俗資料館の横の土地に対馬博物館が建設されているところです。

       博物館が竣工した暁暁には、対馬に存在する朝鮮半島渡来の仏像や大蔵経などは、この博物館で保管すべきと思われます。お寺や神社で

       保管すればいつまた、韓国人から盗まれ韓国で高値で売られるかわかりません。壱岐のお寺で盗まれた高麗版大蔵経は、韓国で個人が所有し、

       韓国の国宝に指定されているそうです。

         一度盗難被害に遭えばなかなか戻って来るのは難しいです。峰町の海神神社で盗まれた銅像如来立像(新羅仏)は返還されましたが、

       指が折れていたそうです。戻って来たにしても無事元の姿で戻って来るとは限りません。したがって、数年後に竣工される対馬博物館に預け、

       所有するお寺や神社、個人は複製品(レプリカ)を持つべきだと思います。

         現に、京都では、百済観音でしたか、ずいぶんと価値のある仏像のようですが、所有するお寺は博物館に実物を預け、自分たちは

       レプリカを作って御本尊として祀っているということを以前NHKの朝のニュースで見たことがあります。お寺や神社で保管するのは

       やはり限界があるのではないでしょうか。京都のお寺は実に賢明なことをされたと思います。対馬の人たちもぜひ京都と同じような対応を

       とられたらいかがかと思います。

  

                        
                                 建設中の対馬博物館
                                (平成30年7月24日筆者撮影)




      
           平成30年7月      


                  大村の朝鮮人キリシタンと鈴田牢


          今回は鈴田牢の囚人にウリを差し入れしたために捕まって、大村の久原と鈴田で処刑

        された二人の朝鮮人キリシタンをご紹介します。

        イタリア人宣教師のスピノラ神父(1564~1622)は、1618年に長崎で捕らえられて、

        1622年9月に処刑されるまでこの鈴田牢に投獄されていましたが、1619年6月22日

        付けでイエズス会の管区長に宛てて獄中から報告書を書いています。それには二人の

        朝鮮人キリシタンが殉教したことが記載されています。



          一人は28歳になるアリゾー・ペドロという者で、結婚して3人の子供がいました。

       1619年の時点で28歳ということは、遅くとも慶長の役が終わった1598年に日本に連れ

       て来られたとすると、その時の年齢は7歳ということになります。日本で最初のキリシタン

       大名となった大村純忠の孫で、第2代大村藩主の大村純頼(すみより)(民部大輔 1592~1619)とは
 
       同じ年齢だったようです。アリゾー・ペドロはその純頼の寵愛を受けて小姓になりました。

       朝鮮人ではありますが、よほど信頼される人格的素養があったのでしょう。ひょっとしたら、

       両班の子供だったのかもしれません。

         アリゾー・ペドロは、その後純頼の小姓頭に昇進するとともに、純頼の会計係も務めまし

       た。純頼に随行して江戸にも行っています。



         彼は純頼の下でずいぶん活躍したようですが、外国人であったので、中傷されるのを憂

       慮し、その職を辞めて引退しました。そして、農業をして生活を送ることにしました。

       自宅は大村領内の久原にありました。

         最初の収穫があると、すぐその収穫物を鈴田牢に届けました。それがウリでした。

       アリゾー・ペドロはウリ畑を持っていました。捕まる数日前に、ウリ畑を持っているので、時

       々ウリを送りますという書簡をつけて、ウリを数個鈴田牢へ送りました。

       そして、6月19日水曜日にアリゾー・ペドロは同じ朝鮮人で結婚して鈴田村に住んでいる

       農民のショーサク・トマスという者に、鈴田牢の宣教師や同宿(宣教師と共に寝起きする宣

       教師の補助者で、説教を行ったり、キリスト教の教理を教えたり、教会の様々の世話をす

       る者)にウリを渡してくれるよう依頼しました。牢番が昼食を食べに家に帰り、その度に昼
 
       寝をしていたので、その間に以前からショーサク・トマスは牢内の囚人、特にスピノラ神父

       によく食べ物を持って来ていました。


         その日も牢番が家で昼寝しているだろうと思って牢へ行ってみると、あいにく、元信者の

       牢番が近くの屋外にいて、起きているのを見つけました。ショーサク・トマスは引き返すか

       牢番の誰かを訪ねて来たふりをすることができたのに、神の愛のために命を捧げる覚悟を

       長い間して来たので、後戻りするのは臆病と考え、神に命を捧げて牢内に入り、ウリを同宿

       の者に渡しました。


         すると、牢番から直ちに捕えられ、ウリは誰のものかと訊ねられると、トマスは、自分が

       キリシタンであること、囚人たちに同情してウリを持って来たということだけを答えました。

       牢番は直ちにこの一件を鈴田村の百姓の長に知らせると、その百姓の長が牢に来て、表面
  
       だけでも棄教するようにトマスに迫ったのですが、トマスがそのようなことはしないと断固と

       して答えたので、トマスを縛り、自分の家へ連れて行きました。その後トマスは役人から

       苦しめられましたが、少しも弱い心を見せないので、21日金曜日の午後、牢獄の前にある

       山へ連れて行かれ、そこで再び棄教を迫まれました。しかし、トマスは決して棄教しないと

       答えたので、首を斬られ、その場所に埋められました。


         一方、アリゾー・ペドロは、ショーサク・トマスが捕まった後、ウリを送った者の探索が行わ

       れた末、どうした経緯からか捕まってしまいました。奉行が直ちにペドロを尋問すると、彼

       は自分は家族全員と共にキリシタンであるからウリを届けたと告白しました。いくら説得さ

       れてもペドロは心を変えることはありませんでした。そのため、21日、ペドロの妻の兄弟が

       久原にあるペドロの家へ行き、奉行から命令されて殺しに来たとペドロに告げました。

         ペドロはこれを聞いて非常に喜び、妻の兄弟に別れの盃を与え、遺書を書いた後、長い間

       祈りを捧げました。それから庭に出ると、妻の兄弟はペドロの首を斬りました。

       ペドロと同じ熱心なキリシタンである妻は、夫と一緒に死ぬことを望みましたが、役人は

       これを拒み、着物1枚だけ着た妻と長男、及び裸の2人の子供を家から追い出してしまい

       ました。



        以上、スピノラ神父が1619年6月22日付けでイエズス会管区長あて書いた報告の内容

      は、さらにジョアン・ロドリゲス・ジランという者によって、1620年1月10日付けで、イエズ

      ス会総長に報告されました。ジランはその報告書の最後に、殉教した2人の朝鮮人キリシ

      タンは大村の領主、大村民部大輔 (大村純頼)の命令で殺されたと書いています。

      大村純頼は、自分にかつて小姓として仕えた同じ年齢のアリゾー・ペドロを殺すのは気が

      引けたのでないでしょうか。その純頼も2人を処刑したその年の12月18日に玖島城内で

      急死しました。その突然の死により、キリシタン弾圧を行った父が急死したのと同じく、キリ

      シタンによって毒殺されたという説もあるそうです。親子二代続けて急死したので、ひょっと

      したら城内で働いていたキリシタンによって殺された可能性もあるのではないでしょうか。



                    
                               鈴田牢跡
  

       
            引用文献  ホアン・ガルシア・ルイズ デ メディナ著 『遥かなる高麗』 1988年






       平成30年6月      


                           大村市の鈴田牢跡



       日本で最初にキリシタン大名になった大村純忠の長男で、初代大村藩主の大村喜前(おおむら・よしあき)も

     元はキリシタンでしたが、1602年(慶長7)にキリスト教を棄教して日蓮宗に改宗しました。その後、キリシタンを

     迫害しましたが、そのためにキリシタンによって毒殺されたという説もあります。その大村の領内に鈴田という村が

     あり、宮崎という地区の海辺の近くにキリシタンを収容した牢屋がありました。これが鈴田牢であり、鈴田牢跡に

     建てられた説明板には、次のとおり記載されています。


        「 この牢には、元和3年(1617)7月から元和8年(1622)9月までの5年間、長崎奉行所に捕らえられた

         宣教師や信者35人が閉じこめられました。宣教師が残した記録によると非常に狭い間隔の柱で囲まれ

         た鳥かごのような牢屋で、奥行き5.3m、間口3.5mという非常に狭い造りで、この空間に多いときで

         33人もの人々が入っていましたので、横になることはもちろん身動きさえも自由にできなかったといわれ

         ています。牢屋の周囲には、二重に柵が設けられ、扉には二重の鍵がかけられていたということです。

         この牢に閉じこめられていた人々のうち、3名は牢屋で亡くなり、スピノラ神父ら24名は長崎の西坂で殉教し、

         元和の大殉教と呼ばれています。また、フランコ神父ら8名は大村の放虎原で殉教しました。」


      面積がわずか6坪足らずの狭い建物に多い時で33人も収容されていたので、非常に窮屈でとても苦しい思いをした

     ことと思います。

      ところで、上記の説明板には誤りがあり、鈴田牢で亡くなったのは2名で、西坂で殉教したのは25名が正です。



                      



                      
     
                          擬木で囲まれた範囲が牢屋の広さです

                      



      この牢屋に閉じ込められていた宣教師のフランシスコ・デ・モラレス神父は、1620年2月28日付けでこの牢屋

     からホアン・ルイズ・デ・イコアガという者に、朝鮮人キリシタンであるオタァ・ジュリアについて、次のとおり手紙を

     書いています。


        「 貴方様がドナ・ジュリアに初めて送って下さった400レアレスと、また二度目に送られた200レアレスが、

         彼女に確実に受領されたことが分かっております。ただし、キリシタンのおかれた状況が過酷でありますので、

         領収を知らせる手紙を彼女より受け取っていません。かわりに、補助金を言付けたことを貴方様が指示された

          [ジュリアと一緒の] 婦人から [手紙で] 受け取りました。」 

                              ( 『遥かなる高麗』 271貢)

    

      この手紙が書かれた当時、オタァ・ジュリアは長崎に住んでいたようです。

     なお、鈴田牢跡は大村市におけるキリシタン巡礼コースの一つであり、韓国からも巡礼者が多く訪れているようです。



     [追記]  

       1601年(慶長6)に日本人で最初に司祭(パードレ)となった平戸出身のセバスティアン木村という人は、

      1621年(元和7)6月、密告によって鈴田牢へ投獄されました。彼は長崎に潜伏しながら布教活動をして

      いたのですが、「役人たちが彼のあとを追いかけていたのに、ある日、一人の韓国人の信者の家でミサを

      捧げるために呼ばれて、そこで夜明け頃に祈りをしている間に捕らえられた」 そうです。

       (結城了悟著 『セバスティアン木村』 )。

       また、片岡弥吉著 「日本キリシタン殉教史」には次のとおり記載されています。

       「一人の朝鮮人の女奴隷のために売られたのである。秀吉の朝鮮出兵のとき諸大名が多数の捕虜を

       連れて来て奴隷として売った。キリシタンたちはできるだけ彼らを購って解放したが、手の及ばない奴隷は

       出来るだけ自由人として扱っていた。あるキリシタンの家にいた奴隷が、賞金ほしさに木村神父の隠れ家を

       訴え出た。木村神父と一緒にいた同宿が捕えられ、宿主も逮捕されて財産を没収された。」 (283貢)


    
      朝鮮人の女奴隷が役人に訴え出たために、セバスティアン木村神父は鈴田牢に1年以上監禁され、1622年

     9月10日に長崎の西坂で55人が処刑された元和の大殉教によって、火あぶりの刑で亡くなりました。 

      なお、元和の大殉教では、朝鮮人アントニオも火あぶりの刑に処せられました。アントニオはセバスティアン木村

     神父の宿主でした。宿主というのは宣教師をかくまい宿を提供する者をいいます。

      また、アントニオの妻で肥後出身のマリア、アントニオとマリアの子のヨハネ(12歳)とペドロ(3歳)は斬首されました 。

     (レオン・パジェス著 『日本切支丹宗門史』 中巻 232貢、234貢、266貢)。当時の3歳というのは現代では2歳ですが、

     2歳であれ3歳であれ、このような幼い子供まで斬首するとはなんともむごいことをしたものだと思います。



       参考文献

          「日本キリシタン殉教史」   片岡弥吉著  昭和54年

          「セバスティアン木村」     結城了悟著  イエズス会日本管区

          「日本切支丹宗門史」中巻  レオン・パジェス著 吉田小五郎訳 昭和13年


     
                      




       平成30年5月      


                      室町時代最初の朝鮮通信使副使 李芸 (2/2)


         韓国の文化体育観光部は1990年7月から2005年12月まで毎月、韓国学や文学、美術、音楽など様々な文化分野で

       功績のあった人物を「今月の文化人物」として選定しました。

        全部で187名が選定されましたが、李芸も2005年2月の「今月の文化人物」に選定されました。 また、外交通商部は

       2010年6月に李芸を「今年の外交人物」に選定しています。2015年3月には韓国国立外交院内に李芸の銅像が設置され

       ました。この年の3月25日に開催された李芸銅像除幕式には韓国の外相や日本の韓国大使も出席しています。



        朝鮮王朝最後の王、純宗は1910年7月に李芸に対し、忠肅(ちゅうしゅく)公という諡号(しごう)を贈っています。

       『玄界灘を越えた朝鮮外交官 李芸』(嶋村初吉編著・訳)という本によると、諡を贈った勅命には、李芸の官職が

       「資憲大夫、知中樞府事、世子左賓客」 となっており、これは正二品の官職だそうです。諡を贈る当時、慣例により品を1段ずつ

       高く追贈し、従二品の同知中樞院事から正二品の知中樞府事と高められたそうです(168貢。 「11.李芸の後孫たち」 李明勲著)。


        李明勲氏によると、李芸は朝鮮王朝実録に74回登場するそうです。相当な回数と言っていいのではないでしょうか。

       李芸は1401年~1443年に 「四十余」 回日本に派遣され、そのうち日本から帰還させた朝鮮人捕虜が計667名だったと

       王朝実録に記録されているそうです (『世宗実録』)。

        倭寇は朝鮮半島で財物を略奪しただけでなく、人間までも日本にかなりの人数を略奪して行ったことがわかります。

       奴隷として人身売買されたのかもわかりません。李芸が日本にいる朝鮮人を帰還させることに力を尽くしたのは、彼が8歳の頃

       倭寇から拉致された母を探すためでもあったようです。


        李芸が生まれた蔚山(ウルサン)は、ハングルを創設した王として知られる朝鮮王朝第4代王の世宗の頃は人口4100人の

       小さな地方都市であり、朝鮮前期に倭寇の侵略を最も頻繁に受けた地域の一つだったそうです。

       2018年3月現在、蔚山広域市の人口は約116万人となっています

       私も2015年(平成27年)10月に蔚山市の倭城を見学しに行ったことがありますが、海岸沿いに石油コンビナートが

       多数建設されていて、韓国有数の工業都市となっています。

 
        「李藝~最初の朝鮮通信使」という日韓共同製作のドキュメンタリー映画のDVDを図書館で借りて見ました。李芸が辿った

       日本各地の史跡を韓国人俳優のユン・テヨン氏が訪ねるもので、日本と朝鮮との文化交流にも寄与したことを知り、ソウルの国立

       外交院敷地内に李芸の銅像が建立されるだけのことはあると思いました。




      平成30年4月      


                       室町時代最初の朝鮮通信使副使 李芸 (1/2)



       対馬市の中部に峰町という町がありますが、この町の東海岸地域に佐賀(さか)という地区があります。

      応永15年(1408年)に宗氏第7代当主の宗貞茂がこの佐賀に居館を置き、応仁2年(1468年)に第10代当主の宗貞国が

      厳原に居館を移すまでは、60年間佐賀が対馬の政治の中心地となっていました。

       この佐賀には曹洞宗寺院である円通寺があります。円通寺は宗貞茂の菩提寺として建立されたそうです。このお寺の梵鐘は

      朝鮮で作られたもので、15世紀李朝初期の作と考えられているそうです。昭和50年(1975年)1月7日に長崎県有形文化財に

      指定されています。


       実はこの梵鐘は、応永25年(1418年)宗貞茂が亡くなった際、貞茂と親交のあった朝鮮王朝の役人、李芸(イ・イエ)が

      第3代朝鮮国王太宗に宗貞茂が亡くなったことを報告し、その弔意使節として李芸が対馬に派遣された際に貞茂の菩提寺である

      円通寺に納めたものと言われているそうです。宗貞茂は倭寇を取り締まり、辺境を侵犯することを禁じたため、朝鮮からその功績を

      認められ、特別に弔慰使が派遣されたものです。

      
       その李芸(1373年~1445年)を顕彰するため、日韓の有識者たちは平成17年(2005年)に円通寺内に、「通信使李藝功績碑」を

      建立しました。ここに碑文全文をご紹介します。


           「朝鮮王朝前期(室町時代)、国王使節として四十余回日本へ遣わされた李藝は、

            日本往復の途次に対馬に寄るだけでなく、対馬までの正使として何度も来島した。

            李藝の功績は、朝鮮人披虜の刷還や足利将軍等に贈る大蔵経の伝達、また

            両国の文化交流に寄与したことが挙げられるが、対馬からみた最大の功績は

            対馬と朝鮮国の「通交貿易」に関する条約締結に大きく尽くしたことで、これにより

            倭寇が鎮まり対馬に明るい時代がおとずれた。

            当時の対馬島主は、宗家七代貞茂、八代貞盛の時代で、この地に国府があり、

            貞茂の死に際し弔慰使として遣わされた李藝が、「円通寺に至り香典を供えて

            祭をした」と朝鮮国王に報告している。

            李藝が刷還した披虜の数は六六七人に及ぶが、幼少のころ倭寇に拉致された

            母とは遂に再会することができなかったと伝えられる。

            李藝の驚異的な行動は賊と誹られる人たちとも付き合うという怨念を超えた情誼
 
            を披瀝し、絶大の貢献をしたことを思うとき、その人柄と底知れぬ度量に感動し

            畏敬の念をもってその功績を顕彰したい。」



        「李藝~最初の朝鮮通信使」という日韓共同製作ドキュメンタリー映画(乾弘明監督)が平成25年(2013年)に公開されて

     います。私はまだ見たことがないので、DVDを購入してぜひ見てみたいと思います。 

     なお、インターネットで宗氏を検索すると、宗貞茂を宗氏8代、宗貞盛を9代としているものがあり、李藝功績碑の記述と 

     異なっています。不思議に思って対馬市役所の文化財課に確認したところ、宗重尚(そう・しげひさ)を初代とするかしないかで 

     代が1つずつずれる、宗重尚は伝説的な人物なので、公的には宗助国が宗氏の初代とされている、との回答でした。

     重尚は生没年が不明なので、実在が確認できる人物を初代としているのでしょう。



 
      平成30年3月      


                   世界記憶遺産に登録された朝鮮通信使に関する記録



       平成29年10月31日に朝鮮通信使に関する記録がユネスコの世界記憶遺産に登録されました。対馬市に事務局がある

      朝鮮通信使縁地連絡協議会と韓国の釜山文化財団が平成28年3月に共同申請していたもので、朝鮮通信使に関する記録は

      日本側が48件209点で、韓国側の記録は63件124点、合計111件の333点です。

      日本側の記録は12都府県にあり、長崎県内には6点が存在しています。ではその6点を見て行きましょう。

      内容は朝鮮通信使縁地連絡協議会のウェブサイトを引用したものです。

 
      ● 長崎県立対馬歴史民俗資料館所蔵 (4点)

        〇「朝鮮国信使絵巻上巻・下巻 国指定重要文化財

            [縦38.2㎝× 横811.9㎝、 縦38.2㎝× 横955.0㎝]

           朝鮮通信使の行列の様子を描いたもので、後半には通信使一行を護行する対馬藩士の姿も描かれています。

          現在は2巻に分巻されていますが、元は1巻であったと推測されています。対馬藩主宗家の伝来品です。


         〇「朝鮮国信使絵巻」(文化度)  国指定重要文化財

            [縦27.3㎝× 横1657.4㎝]

           1811年(文化8年)の朝鮮通信使を描いたものです。江戸時代最後の通信使となりましたが、この時は

          費用節減のため江戸へは行かず、対馬だけ訪れました。このため正使と副使は来日しましたが、従事官は来日

          しませんでした。随員も少なく総員328人でした。この絵巻には従事官は描かれておらず、随員の数も少なく

          描かれていて、1811年の朝鮮通信使の特徴がよく描かれています。


        〇「七五三盛付繰出順之絵図」  国指定重要文化財

            [縦26.9㎝× 横937.1㎝]    

            江戸時代第11回目となる朝鮮通信使が1763年~1764年に国書交換のため江戸城に登城した時、

          将軍家から振る舞われた当時最高級の料理である七五三料理を描いたものです。この料理は一つの膳にそれぞれ

          七品、五品、三品の料理が盛られるもので、提供された料理が順番に描かれています。食材や食品、飾り物などが

          細かく描かれており、朝鮮通信使に対する饗応の様子が具体的にわかる絵図です。   
      

      ●個人所有 (2点)

         〇「朝鮮通信使迎接所絵図」  壱岐市指定文化財

            [縦79.0㎝× 横168.0㎝]

           朝鮮通信使が風待ちなどで壱岐の勝本に滞在する時のために、平戸藩が建てさせた客館の平面図です。

         正使や副使、従事官の他随員の部屋割りや、台所、風呂、厠、対馬藩主の休憩所、対馬藩家老の詰所などが

         描かれています。


       〇「馬上才図巻」  対馬市指定文化財

           [縦26.9㎝× 横937.1㎝]

          馬上才とは、馬の上で立ったり逆立ちしたりして曲乗りを行う者をいい、将軍が特に来日を熱望し、江戸城内で

         曲乗りが披露されました。将軍が観覧した後、江戸の民衆も見物する機会がありました。馬上才による馬の曲乗りは

         朝鮮国の伝統的な芸能の一つでした。この図は広渡雪之進という者が描いています。



       なお、1711年に第8回目の朝鮮通信使が来日した際、対馬藩が制作した行列図が大阪市の大阪歴史博物館と京都市の

     高麗美術館に所蔵されています。 対馬藩が藩の御用絵師 俵喜左衛門ほか40名の江戸の町絵師に描かせたものです。


      〇正徳度朝鮮通信使行列絵巻 3点  1711年制作  大阪歴史博物館

      〇朝鮮信使参着帰路行列図   4点  1711年制作  高麗美術館

      〇宗対馬守護行帰路行列図   4点  1711年制作  高麗美術館




        平成30年2月      


                         対馬の修善寺について


       今回は対馬市厳原町にある修善寺(しゅぜんじ)の歴史について、ご紹介したいと思います。

      内容は対馬を旅行した韓国人が書いたいくつかのブログによります。


      1.起源


         西暦656年に百済の比丘尼(びくに)(出家して仏道に入った女性。尼僧のこと。)が対馬にやって来て修善寺を創建したそうです。

       その尼僧の名前は法妙と言い、維摩経という大乗仏教の経典を携えて来たそうです。しかし、この事実が何の文献に基づくものなのか残念

       ながら上記ブログには記載されていません。

         対馬市美津島町の小船越という地区にある梅林寺は、538年に仏像と経巻を大和朝廷に献上して日本に仏教を伝えた百済からの使節が、

       対馬の狭い入江に上陸して付近の浦に滞在した際、仮堂を設けて大和朝廷に献上する仏像と経巻を安置し、その後、仮堂のあった場所に

       一寺を建てたのが起源だそうです。(ウィキペディア)

         梅林寺の例からすると、厳原町にある修善寺も、当初は寺と呼ぶほどの規模ではなかったにせよ、百済の僧が庵みたいなものを建てたのが
 
        起源であるかもしれないと思います。


      2.扁額

         修善寺にある「修善」と書かれた扁額(へんがく)は、朝鮮末期に大臣を務めた金鶴鎮という人が書いたものだそうです。扁額とは、

       文字や絵などを彫って建物や門などの上の壁に掲げる横長の額を言います。


        金鶴鎮(1838.4.3~1917.12.13)は、憲宗と哲宗に王妃を送り外戚として権勢を振るった安東金氏の家門に生まれ、1871年に科挙に

       合格して官僚の道を歩みました。1894年 には刑曹判書(司法、刑罰を担当する大臣)と工曹判書(建設、土木等を担当する大臣)に

       就任しました。1906年に弘文館の高級官僚に任命され、1910年には日韓併合条約の締結を推進し、日本政府から男爵の爵位を

       授与されました。金鶴鎮が修善寺の扁額を書いた理由は、抗日活動を行って対馬に流され、対馬の監獄で病死した崔益鉉の遺体がこの

       修善寺に安置されたことがあったからだと思います。

         金鶴鎮は、1905年に日本の韓国侵略を批判して反日活動を行う崔益鉉を擁護する上奏文を王に提出するなど、反日の上奏文を

       提出したために日本の憲兵に逮捕、拘禁されたこともありました。こうしたことから、崔益鉉の死を悼み、自ら「修善」と書いた扁額を

       修善寺に贈ったものと思われます。この扁額にはまた金鶴鎮の落款も押されてあるそうです。



                              
                                     修善寺




                               
                                  大韓人崔益鉉先生殉国之碑




     平成30年1月      


                      小麦様の本名について



        昭和8年に出版された『長崎県郷土誌』には、初代平戸藩主 松浦鎮信の側室である小麦様の本名を「廓清姫」と申し上げると

      記載されています。しかし、何の資料に基づいたものかは記載されていません。『壱岐国土肥之書付』という書物には、法印鎮信様が

      慶長三年朝鮮から帰陣する途中、壱岐の渡郎浦に着いた時、朝鮮から連れて来た「かくせい」という女性が出産した、と記載されて

      います。( 資料:「平戸歴史文庫 大航海時代の冒険者たち」

              『第Ⅲ章 小麦様と松東夫人』 )

       そして、松浦鎮信の次男とされている松浦信正を祖とする西口松浦家の第十二代当主である松浦勝太郎は長崎県北松浦郡獅子村役場の

      杉山杢左衛からあった小麦様に関する照会に対して、昭和4年に次のとおり回答しています。

 
           (別紙) 小麦様ノ由来ニ就テ

             一、当家祖先松浦蔵人信正ハ、松浦法印鎮信公の二男ニシテ、系図ニハ

                知合地方ニテ獅子村、根獅子村、生属三箇所三千石拝領、譜代数多アリ

                云々トアリテ、獅子村トハ縁故浅カラサルモノアリ。

             一、小麦様ハ実名かくせいト申サレ、朝鮮某王姫ニテ法印鎮信公征韓ノ役、

                戦乱ヲ避ケ小麦畑ニ隠レ居ラレタルヲ捕虜トセラレタルヲ以テ、俗ニ

                小麦様ト称ス由ナリ。


                        (資料:岡村廣法著 『小麦様異聞』 談林第40号)


      私は、「かくせい」というのは姓名を表していて、「かく」は姓で、「せい」は名ではないかと思います。そして、「かく」は郭、

     「せい」は清であろうと思います。韓国語で表記すると、곽청 、発音はクァク チョンです。

     冒頭に上げた『長崎県郷土誌』では小麦様の本名を「廓清」としていますが、姓名なのか名のみなのかは判然としません。

     小麦様の法名は「清岳妙芳大姉」と言いますが、名前である「清」の字から取ったものではないでしょうか。
 
      また、「郭」という苗字は、韓国では、本貫が大きく、玄風郭氏と清州郭氏の二つに大別されますが、「かくせい」とは清州を

     本貫とする郭氏と言う意味だったかのもわかりません。清州(チョンジュ)市は忠清北道の道庁所在地です。清州郭氏の両班が

     小麦様の出身地である昌原(慶尚南道)に住んでいたのかもわかりません。これについては、今後、韓国側の文献を調べてみる必要が

     あります。




    平成29年12月      


                     長崎県立長崎西高校所有の好太王碑拓本について



      好太王(374年~412年)は高句麗の第19代王(在位:391年~412年)です。韓国の歴史書 『三国史記』 に、諱(本名のこと)は
    
     談徳といい、死後に廣開土王と号されたと記載されています。それで韓国では廣開土王と呼ばれています。
    
      三国史記の「好太王」のところでは日本のことが記述されていませんが、中国の吉林省集安市にある好太王碑には日本のことが記述
    
     されています。
    
      この好太王碑は、碑文によると好太王の子の長壽王が西暦414年に建てています。高さは約6.3メートルもある巨大なものです。
    
      この碑には諱が國岡上廣開土境平安好太王と記載されています。それで、日本では好太王、韓国では廣開土王と呼ばれています。 



                        





                             



      日本との関係に関する部分のうち、韓国や中国でもその解釈が論議されている部分がありますが、次の部分です。



          百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民



      ウィキペディアによると、日本では次のとおり読むのが通説とされているそうです。

         「そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、

          倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。」



      「■■」の部分は加羅と解釈されています。これに対し、中国では、高句麗が海を渡り(倭を)破ったと解釈しているそうです。
    
      韓国では、「(高句麗は)海を渡って百済を破り、新羅を救って臣民とした。」と解釈するのが通説となっているそうです。

 
       この好太王碑は1880年 (明治13年)に農民によって発見され、翌年中国人開月山によって拓本が作成されました。
    
       1883年 (明治16年)には日本の酒匂景信という島津藩出身の陸軍将校が現地を訪れ、日本人として初めて拓本を作成

      しています。



      さて、この好太王碑のレプリカ(複製)についてですが、日本国内では1基が大阪経済法科大学(花岡キャンパス)の敷地内に建立

     されています。

     次に拓本ですが、東京国立博物館や九州国立博物館、お茶の水女子大学などにいくつか保管されています。このうち、九州国立博物館の
    
       拓本は個人が寄贈したものの他に、長崎県立長崎西高校から貸与されたものがあるそうです。

     この長崎西高校所有の拓本は今から10年ほど前に長崎西高校に保管されているのが発見され、修復のため九州国立博物館に持ち込まれた
    
     ものだそうです。

      平成20年に一般に公開された後、5年間長崎西高校から九州国立博物館に貸与され、延長されて現在に至っているようですが、最近、

     さらに10年間の貸付契約が結ばれたそうです。なお、平成22年にも特別展で公開されています。


      この拓本は長さが5メートルを越え、その大きさゆえに常設展示は困難なようですが、ともかく九州国立博物館ではなく、地元長崎県内で

    ぜひ保管してもらいたいものだと思います。長崎歴史文化博物館か将来建設される対馬博物館で保管し、数年に1回一般に公開してほしいと

    思います。


 
      この長崎西高校所有の好太王碑拓本について、九州大学の濱田耕策教授が平成22年に西日本新聞で解説されているので、

    以下に簡略にご紹介します。


     ・この拓本は井上英治という人が昭和4年(1929年)に母校の旧制長崎中学校に寄贈したものである。

     ・井上英治氏は明治40年(1907年)に旧制長崎中学校を卒業しており、寄贈時は40歳に近い。

     ・井上氏の詳細は伝わっていないが、朝鮮か旧満州かで拓本を入手したのであろうか。

     ・旧制長崎中学校は山をはさんで爆心地からやや離れていたから、拓本は消失を免れた。

     ・この拓本は寄贈の前年に表装されたと墨書きされているので、昭和3年を大きく遡らない頃の取拓であろう。

     ・拓本は4面ある。碑字を確定して高句麗や東アジアの歴史を考える時、拓本を順序立てる編年の作業が求められるが、
    
      長崎西高拓本は極めて貴重である。
  
 
 
       なお、旧制の長崎県立長崎中学校は、終戦当時は現在の鳴滝高校敷地内にありました。1948年(昭和23年)11月に
    
     長崎県立長崎西高等学校が鳴滝に開校された時に、校舎は旧制長崎中学校校舎を使用しました。1950年(昭和25年)8月に
    
     長崎市竹の久保町に校舎が移転されて現在に至っていますが、長崎中学校にあった拓本は長崎西高校が竹の久保町に校舎を
    
     移転した時にそのまま移転されたものと思われます。




      ※参考文献  2010年(平成22年)8月25日付け西日本新聞
                  『特別展 「馬 アジアを駆けた二千年」に寄せて 濱田耕策』


                           





    平成29年11月      


                       松浦法印征韓日記抄


   松浦厚(1864年(元治元年)~1934年(昭和9年))は平戸藩最後の藩主である松浦詮(まつら・あきら)の長男で、イギリスに留学し、ケンブリッジ大学で

  国際法を学んで1893年(明治26年)に帰国しました。そして、1908年(明治41年)に父の死去により家督を相続しました。 

   日清戦争が1894年(明治27年)7月に開始されると、旧平戸藩の領地だったところからも出兵していく人たちがいましたので、彼らの忠勇を励まそうとして、

  松浦厚は自分の先祖である初代平戸藩主 松浦鎮信(法印)が朝鮮出兵で活躍した時の陣中日記を要約し1冊の本にして出版しました。このことについて、

  鎮西日報が記事にしていますので、その一部をご紹介します。


    【明治27年12月5日付鎮西日報】

     「 ●松浦法印征韓日記抄

        松浦従四位厚君は今般其先祖松浦法印公(鎮信)が其子松浦肥前守久信公と共に豊太閤征韓の役に従事し、七年間滞陣の時陣中日記に就き

       其戦闘に関するもの数十條を抜抄し、松浦法印征韓日記抄と称す(全壱冊)。東京市浅草区黒船町二八番地東京並木活版所に於て印刷し、

       京橋区南佐久間町吉川半七方に於て販売せり。吾輩其著を見閲するに法印公父子豊太閤征韓の役小西行長の管軍に属し七ヶ年間滞韓し範畧衆に

       抜んで、而して其臣下絶倫の働きを為し将を斬り旗を奪ふ等の事歴々として瞭然たり。巻首に著者父君従三位松浦伯爵戦如風発勇如決河の

       八字を題す。ここに其の事項の概畧を摘記するに・・・・・・・・・・・・( 略 )・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

        厚君の此著ある所以は現今大兵外に向ふ旧封土民をして忠勇を励ましむるの意に出づると云う。 」


    明治28年1月29日から3月27日まで全30回にわたって「小説 文禄征韓 松浦法印公」と題して、初代平戸藩主 松浦鎮信(法印)の朝鮮

   出兵時の活躍が掲載されていますが、松浦厚が著したこの「松浦法印征韓日記抄」を参考にしたのではないかと思われます。
   
   私、管理人がブログで 「小説 文禄征韓 松浦法印公」の内容全部を今後ご紹介していきますので、興味のあられる方はどうか覗いてみてください。


       ブログ名:『日・中・韓の徒然草』

       タイトル:小説 文禄征韓 松浦法印公

       リンク先:https://ameblo.jp/sa2430




   
   平成29年10月      


             朝鮮国王の時計を修理した長崎の時計店


   明治時代に発行されていた新聞を読んでいたら、面白い記事を見つけました。当時の朝鮮の国王が自分の時計を長崎で修理させたという記事です。



   【明治25年6月7日付鎮西日報】

    「 ●朝鮮国王の時計

        朝鮮国王殿下には此程御所有の懐中時計を日本長崎に於て修理せしむ可き旨従臣に御下命ありたる由にて、従臣の向より同国仁川の

    福島支店に送付方を依頼されたり。依って同店にては早速当港外浦町本店へ送付し越せしを以て、昨日東濱町佐々木時計店へその修理を

       頼みたり。同品は金側にしてその表面に宝石と真珠とを装箝(そうかん)しあり。」




   「福島支店」というのは、長崎市外浦町に本店のあった福島屋の仁川支店のことです。福島屋は当時の鎮西日報に次の記事が記載されています。


     「市内外浦町福島屋はますますその回漕業を拡張し、今度新たに佐世保へ支店を開設す」 (明治25年7月1日付) 


    回漕業というのは、今で言う港湾運送事業のことで、海上における貨物の運送や取扱いを行う仕事です。外浦町は現在の江戸町と万才町の 

   一部となっており、県庁などがある一等地でした。佐々木時計店があった東濱町は現在は浜町となっています。長崎市の商業の中心地でした。

    明治25年当時は仁川と長崎間に航路がまだ開設されていましたので、国王のいる京城にとって長崎は日本の玄関口だったのでしょう。

    朝鮮国王の高宗は日本の新聞をいくつか取り寄せて読んでいたようですが、長崎の鎮西日報も読んでいたようです。当時の長崎は日本国内でも

   技術や文化が進んだ地域だったのでしょうが、長崎は京城からは身近な外国だったものと思われます。

    それにしても、国王がわざわざ外国の企業に修理を依頼するとは、当時の朝鮮国内には時計を修理するのに信頼のおける時計屋がいなかった

   ものと思われます。当時の朝鮮はまだずいぶん遅れた国だったことが推測されます。





   平成29年9月      


                   小麦様の出身地は昌原


     小麦様は文禄慶長の役の時、平戸の領主 松浦鎮信が朝鮮から平戸に連れて帰り、自分の側室にした朝鮮人女性です。松浦鎮信との間に

    2男4女を産んでいます。墓は小麦様の長男 松浦信正の領地である根獅子にありますが、大小2基が並んでいます。小麦様と信正の正室

    波津子の墓と伝えられているそうです。

     小麦様は豊臣秀吉が死んで日本軍が朝鮮から撤退した1598年に平戸に連れて来られたとされていて、1629年(寛永6年)に

    亡くなっています。


     ところで、江戸時代第3回目の朝鮮通信使が1624年(寛永元年)に来日しましたが、この時の副使だった姜弘重はその旅行記である

    『東槎録』の中で壱岐を訪問した時の様子を次のように記述しています。



  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

             十月二十三日

         壱岐島主之族日高虎助殿之其叔松浦蔵人殿請謁。

         蔵人殿。則我国昌原人之所生也。兄弟倶以処女被虜於壬辰。

         皆為一岐島主之妻。今方生存。其夫島主。即今島主之祖父而已死去。


       【現代語訳】

         壱岐島主の親族日高虎助殿およびその叔父で松浦蔵人殿が謁見を請う。

         蔵人殿はすなわちわが国昌原の女子が生み、兄弟が皆処女として壬申倭乱

         のときに捕えられ、皆壱岐島主の妻になり、今まで生存しており、その夫であ

         る島主はすなわち今の島主の祖父ですでに死去したという。




        引用文献:漢文   『平戸市史研究』第2号  平戸市史編さん委員会編集
                                     平戸市発行  1997年

             現代語訳  『東槎録』 姜弘重著  若松實訳 
                             日朝協会愛知県連合会発行  2000年

                                 
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


      ここで上記の記述の背景について説明します。壱岐島主というのは、壱岐を領地として支配していた平戸藩の藩主です。

     初代平戸藩主松浦鎮信(1549-1614)には子供が4男5女おり、長男が久信(1571-1602)で第2代藩主となっています。

     久信の長男隆信(1592-1637)が跡を継いで第3代藩主となりました。鎮信の長女が日高玄蕃信喜の妻となって、日高虎助を

     産みました。鎮信と小麦様との間にできた子供が信正で蔵人ともいいます。

      そして、松浦家の家系図によると、この信正が鎮信の次男とされています。

     したがって、日高虎助にとっては信正(蔵人)は叔父にあたります。



      朝鮮通信使の副使姜弘重は、松浦蔵人の母親が昌原(チャンウォン)の人だと書いています。昌原は現在の慶尚南道にあり、釜山に

     わりと近いです。おそらく松浦蔵人が母親から聞いてそれを姜弘重に伝えたか、松浦蔵人の母親が朝鮮から連行されて来た小麦様であり

     小麦様は昌原の出身であるということは当時広く世間に知られており、姜弘重がその事実を誰かから聞いたのであろうと推測されます。

      また、小麦様には姉か妹がいて、その姉か妹も小麦様と一緒に平戸に連れて来られ、鎮信の妻にされたと書かれています。

     この朝鮮通信使一行が来た1624年当時、まだ二人の姉妹は生きていて、その夫であった人は、今の壱岐島主の祖父だったと書いています。



    小麦様の墓地には大小2基の墓がありますが、大きい方の墓が小麦様の墓であろうと思われます。小さい方の墓が小麦様の長男信正の正室

     波津子の墓と思われます。ひょっとしたら、波津子の墓は別にあり、小さい方の墓は小麦様の姉か妹の墓だったかもわかりません。

     姉か妹というのは実は小麦様の侍従の女性だっかもしれません。でも、侍従の墓を小麦様の隣に置くのはちょっと疑問に思われます。

     かなり身分の高い女性でないと藩主の側室の墓に並べて作らないと思われます。





                  
                            小麦様の墓




                 







       平成29年8月      


                            対馬と韓国 (朝鮮) との交流史跡



         1.西山寺

   
                        
                          江戸時代、朝鮮との外交機関 「以酊庵」 が置かれていた西山寺




                        
                                 西山寺の本堂




               西山寺の「鶴翼山」という山号は金誠一の号「鶴峯」の一字をとって付けたそうです。

             金誠一は1590年に朝鮮通信使が日本を訪れた際の副使でした。この時日本の情勢を

             調べて帰国しましたが、西人派という派閥に属する正使の黄允吉が日本は必ず朝鮮を

             侵略するだろうと言ったのに対し、東人派という派閥に属する副使の金誠一は侵略の気

             配は見られないと述べたそうです。それで当時の派閥の力関係で東人派の金誠一の報告

             が正しいということになりました。

               しかし、1592年に文禄の役が起ると間違って報告した金誠一は逮捕され、慶尚右兵

             使という職を解任されますが、同じ東人派の右議政柳成龍の弁護で処罰を免ぜられて慶尚

             右道招諭使に任命され、義兵の募集を行うなどして日本との抗戦に功を立てました。

               金誠一は西山寺に住んでいた対馬藩の外交僧玄蘇と外交交渉などで交流があり、西山

             寺内に彼の詩碑が建てられています。






                                 
                             朝鮮通信使副使を務めた金誠一の詩碑




        2.光清寺




                          
                                 光清寺
                       



             明治5年10月25日に、明治政府は朝鮮語通詞の養成機関として、厳原の

           光清寺内に韓語学所を設置しました。

             明治6年8月10日付けでこの韓語学所は廃止され、同年10月22日、釜山に

           草梁館語学所を設置しました。

             対馬厳原町出身の外交官 国分象太郎も光清寺内にあった韓語学所で朝鮮語を

           学びました。




                 
                              光清寺の本堂




        3.国分寺


                 
                       国分寺の山門  (対馬市指定文化財)




            江戸時代、国分寺は朝鮮通信使一行の客館として使用されました。徳川家斉の

          第11代将軍襲職を賀すため朝鮮通信使の聘礼式が対馬で行われることになった

            ため、この国分寺内に客館が新築されました。この時、山門も一緒に建立されています。

          客館は明治になって解体されましたが、山門は当時のまま残っています。





                       





                 





                






                                
                            朝鮮通信使客館跡





                        
                       文化8(1811)年度朝鮮通信使幕府接遇の地




                     






              






        4.天澤寺




                         
                            臨済宗 天澤寺 (てんたくじ)





              






              
                         国分象太郎の墓




            明治・大正時代に通訳・外交官として活躍した国分象太郎は対馬の厳原町出身です。

          お墓は厳原町の天澤寺内にあります。伊藤博文が韓国統監になると、伊藤統監の秘書

            官となり、伊藤博文が朝鮮各地を訪問して演説する時などは、国分象太郎に通訳をさせ

          ています。

            寺内正毅韓国統監の秘書官としても活躍し、1910年に行われた日韓併合条約の締

          結に際しては、韓国の李完用首相と寺内統監との事前の会談で通訳を務めました。

          8月22日が日韓併合条約の締結日です。

     
            下の写真正面の文字は、後に侯爵になった李完用が書いたものです。

          「従三位勲一等國分象太郎之墓  侯爵李完用書」と書かれています。





                              





                       
                           従三位勲一等國分象太郎之墓

   


                        





                      




             韓国併合後、旧大韓帝国の李王家とその一族は王族・公族と呼ばれるようになり、

           1911年に王族・公族の家務を掌る李王職(りおうしき)という機関が京城に置かれま

             した。日本の宮内省の外局であり、大韓帝国宮内府の後身です。

           国分象太郎は1915年にこの李王職の事務官となり、1917年第2代目の次官に

           就任しました。1921年次官として在職中に病気で亡くなりました。
  
    



         5.対馬藩主 宗義智 




           
                       対馬藩主 宗義智の銅像



              宗義智(そう よしとし 1568~1615) は対馬の領主宗氏の第20代当主で、

           対馬藩の初代藩主です。

             1590年に朝鮮通信使が来日した時、外交僧玄蘇らと共に使節を京都の聚楽

           第へ案内し、豊臣秀吉に面会させました。

           小西行長の娘マリアを正室に娶り、1592年からの文禄の役ではその小西

           行長の一番隊に属し、日本軍の先鋒として戦いました。

             1600年の関ケ原の戦いでは小西行長と同じ西軍に属しましたが、戦後徳川

           家康から所領を安堵されました。この時、正室のマリアを離縁しています。

           文禄・慶長の役で日本と朝鮮の関係が悪化したため、宗義智は徳川家康から

           関係修復を命じられ、1609年に朝鮮との間に和平条約を成立させました。

           この功績により、宗氏は朝鮮と貿易を再び行うことを許されました。
   





                    
                   2016年3月、対馬市民により建立された宗義智の銅像






      平成29年7月      


                      平戸の「按針忌」に初参加 (2)




      5月28日、平戸市の崎方公園内にある 「三浦按針之墓」 の前で開催された「按針忌」が終わった後、オランダ人慰霊碑のある公園に移動して、

   今度はオランダ人慰霊碑献花式行われました。按針忌やオランダ人慰霊碑献花式に黒田成彦平戸市長も出席され、行政としてイギリスやオランダとの

   交流を積極的に推進している様子が窺われました。

    以下に、式次第、写真を掲載します。献花式が終了した後、鎮信(ちんしん)流の松華会からお茶と平戸銘菓のカスドースをいただきました。

   どちらもとても美味しかったです。



     【オランダ人慰霊碑献花式】


       1.トランペットによる オランダの国歌吹奏 

       2.黙祷

       3.献辞        HIRAの会会長 井上 隆

       4.碑文朗読     HIRAの会会員 レムコー・フロイラク

       5.献花        平戸市長 黒田成彦

       6.献花        参列者全員   (さんしん演奏)

       7.閉会の辞     

         呈茶        鎮信流 松華会 


                       



                            
                                      平戸和蘭商館跡の説明版



                          
                             
                                    HIRAの会 井上隆会長の献辞 


                            
                                   平戸市在住のオランダ人が献花している様子



                                
                                       オランダ人慰霊碑
                                


                        

                    

                       




                       
                                    オランダ人慰霊碑文

                                「 大航海時代の冒険者たち

                                  その礎の上に今の私たちはある

                                       眠り給え

                                  ここを小さき和蘭として 」



                     以下、16名のオランダ人の平戸で死去した年月日、氏名、職名等が記載されています。







              
               平戸の南蛮菓子 カスドース                鎮信流の松華会の方たちがたてたお茶




    「按針忌」において、ウィリアム・アダムスがジャワの同国人あてに平戸で書いた手紙の一部が朗読されましたが、それはとても望郷の念に

     満ちたものでした。手紙の一部をご紹介します。


   
   「      未知の友人及び同国人へ  To my unknown friends and countyrmen    1611年10月23日   日本国平戸にて

               
          
     名前はわからないが、多くのイギリス船がジャワ島に投錨されていることを耳にする機会があり、我々は知り合いではないのだが、思い切って

     この手紙を書くことに決めました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     

     (日本での)5年目の終わり頃に、私の良心と自然な気持ちから、哀れな妻子たちに会う必要があると思い皇帝に出国する許可を求めました。

     皇帝はこの要請を聞いたときに喜ばず、故郷へ発つことを考えないでこの国に永住するように私に言いましたが、皇帝は私を非常に好意的に

     思っていたので、私はもう少し後に別の要請をしてみました。それは、オランダ人がシャムとパッタニに来ていると聞いたことが理由で、これは

     どうも神が我々を祖国へと導き戻されているのだという望みで大喜びしたことによるものです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

       
    
     イエス・キリストの御名において、哀れな私の妻と2人の子供たちに、私がここ日本で問題なく生きていることが伝えられるように祈ります。

    妻は未亡人のように、そして子供たちは父なし子のように生きているに違いありません。これは私にとって最大の後悔であり私の良心は痛みます。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    
      
     皇帝に毎日仕え続けてきたことにより、私はイングランドの貴族にも匹敵する暮らしを与えられ、使用人や家来のような80~90人の農民が

     私に付けられました。これは、今までこの国において、外国人が成し遂げた先例がないことです。これは全ての多大なる苦難に対し神が私に

    お与えになった報奨であるかのようです。終わりなき世界で、現在とそして永遠に、すべての賛美と栄光は主へ帰すべきものであらんことを

    祈ります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     
  
     簡単に述べると、この手紙で言わなければならないことは、私の良き知人の誰かが、私の妻子の情報を私へ知らせてくれることを望んでいます。

     全能の神がこの願いに答えることを辛抱強く待っております。ゆえに、もしこの手紙が彼らの手に届くならば、私の妻子と良き友人達へ私のことを知らせて

     くれるよう心から祈っております。私がこの国で死ぬ前に、親愛なる友人達に関する知らせを聞き、再び彼らに会うことを願っております。

     これら全ては神の栄光に帰されるべきことを。アーメン。


         1611年10月23日  日本にて    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ウィリアム・アダムスより 」
    



   上記の文章は、 『三浦按針11通の手紙』 (長崎新聞社発行 2010年) から掲載させていただきました。






   平成29年6月      


                             平戸の「按針忌」に初参加 (1)


   
   先月28日に平戸の三浦按針の墓前で開催された「按針忌」に初めて参加しました。三浦按針こと、ウィリアム・アダムスはイギリス人で、

  1598年にオランダ船リーフデ号の航海士として極東を目指して他の4隻とともにロッテルダムを出航し、2年後の1600年、リーフデ号

  だけが日本に漂着し、現在の大分県臼杵市に上陸しました。

   ウィリアム・アダムスはやがて徳川家康の外交顧問として活躍し、250石取りの旗本に取り立てられ、現在の神奈川県横須賀市に領地を

  与えられました。その地が三浦半島にあったので、彼は三浦按針と名乗るようになりました。按針とは彼の職業である水先案内人のことです。

   1613年に平戸にイギリス商館が開設されましたが、これはアダムスが1611年に本国のイギリスに書簡を送って、日本と貿易を行う

  よう勧めたからです。その後日本にやって来たイギリス船長を家康や秀忠と謁見させ、貿易の許しを得ています。

   アダムスは平戸のイギリス商館やオランダ商館で仕事をしていましたが、1620年に病気のため平戸で亡くなりました。55歳でした。


   平戸市の「HIRAの会」という国際交流団体は、毎年ウィリアム・アダムスを偲ぶ「按針忌」開催しており、今年で23回目だそうです。

   イギリスやオランダとの友好親善に大いに貢献するもので、長く続けて来られていることに対し、とても感心するとともに、心から敬意を

  表したいと思います。
                                    
   以下に、第23回按針忌の式次第と写真を掲載します。



       1.英国及びオランダ国国歌吹奏

       2.黙祷

       3.主催者挨拶    HIRAの会会長

       4.献辞        平戸市長 黒田成彦

       5.献辞        オランダ国総領事 ローデリック・ウォルス    HIRAの会会員代読

       6..献辞        メドウェイ市前市長 スーザン・ヘイドック     HIRAの会会員代読

       7.献辞        大英図書館  マーガレット・メイクピース     猶興館高校生徒代読

       8.献辞        ロンドン大学アジア・アフリカ研究所教授  ダイモン・スクリーチ    猶興館高校生徒代読

       9.献茶        松浦家第41代当主 松浦 章

      10.碑文朗読     関西学院大学教授 リチャード・アービング

      11.英国人慰霊碑献花   コロボックルの会副会長
  
      12.献花        参列者全員



                         




         





         




      





                         





          
               三浦按針夫婦塚


                    

                         
                                    英国人慰霊碑 



   按針忌の最初は地元の方がイギリスとオランダの国歌をトランペットで吹奏されました。また、茶道の鎮信(ちんしん)流家元の松浦家、

  第41代当主 松浦章氏が献茶をたてている時、地元の方が尺八を演奏されました。さらに、沖縄の楽器 三線(さんしん)で「涙そうそう」

  を地元の方が演奏される間に、ウィリアム・アダムスが1611年に故国の妻や子供を思いやって書いた手紙が朗読されたり、参加者全員が

  墓前に赤いバラを献花しましたが、とても情感があって、雰囲気が良かったです。また来年も参加したくなりました。

  



   平成29年5月      


                        中野窯跡を訪問 (2.皿焼窯)


   
   1598年に平戸領主の松浦鎮信(まつら・しげのぶ)によって朝鮮半島南岸の慶尚道熊川から平戸島に連れて来られた巨関 (こせき)

  ら朝鮮人陶工たちは、松浦鎮信の命によって中野村に窯を開き、陶磁器を焼くようになりました。現在の地名で言うと、平戸市山中町の

  紙漉 (かみすき)という所です。

   この欄の前月に、この2基ある中野窯跡のうち、茶碗窯跡を紹介しましたが、今月は、そこから約200mほど離れた皿焼窯跡をご紹介

  します。


              

     
    初めて中野窯跡を訪れる人にとって、この看板が目印になります。右側の道路を通って行き、ここから2km先にあります。

        
    皿焼窯跡の場所がわからず、茶碗窯跡まで行って、「紙漉の里ふれあい施設」を管理されている方に場所を教えてもらいました。

   道路に案内板が設置されていないので、初めて訪れる人にはどこにあるのかわからないと思います。昔は水田でしたが、今はもう

   水田として使われていないようです。

                  


        
                 



       ようやく、皿焼窯跡にたどり着きましたが、看板は設置されているものの、肝心の窯跡はどこにあったのか、跡形もなくなって

     いました。

                 

               
  
                  



                     
                      
   


                  
                           皿焼窯の遺構の写真


       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    茶碗窯の内部の写真を撮影したブログを見つけ、私も真似して撮影しました。専門書によると、トンパイと呼ばれるレンガで側壁を

   構築しているそうですが、この下の写真もそうなのか、素人の私にはわかりません。レンガらしきものは見えません。

     皿焼窯の方にはレンガと思われるものが説明版の写真に写っています。


                                 



                      

   


    平戸市内にある「松浦史料博物館」に中野窯で焼かれた茶碗と水差が展示されており、職員に写真撮影とホームページへの掲載に

   ついてダメ元で恐る恐る尋ねたところ、快く承認していただきました。
       

              
                    




                    



                    


            
                    



                    
            


                   

                        説明文によると、この水差の絵はだそうです。

        

                   


    上の写真の茶碗も水差も、とても素朴な感じで、味わいのある作品だと思います。




  平成29年4月      


                         中野窯跡を訪問 (1.茶碗窯)


     佐世保市の三川内町では毎年5月1日から5日までの期間、「三川内焼窯元はまぜん祭り」が開催されます。今年も窯元めぐりをして、

    美しい皿や茶碗を買い求めたいと思います。

     この三川内焼は江戸時代に平戸藩の藩窯として、平戸藩が経営していたもので、朝廷や幕府、大名諸侯に献上されました。平戸焼の名前で

    海外にも輸出されていました。

     三川内焼は元は平戸の中野村で巨関 (こせき) を中心とする朝鮮人陶工たちが藩主松浦鎮信の命によって窯を開いたのが始まりと言われています。

      そこで、中野窯跡に3月下旬初めて行って来ました。場所は平戸市山中町の紙漉 (かみすき)という所にあります。車で初めて訪ねる私は、

    ずいぶんと奥地にある印象を受け、何度ももう通り過ぎたのでは?と不安になりました。

     なお、この中野窯跡は昭和35 (1960) 年に長崎県史跡に指定されています。中野窯跡は2基あり、1基は下の写真の茶碗窯であり、もう1基は

    ここから約200mほど離れたところにある皿焼窯です。



                        





                             
                                             中野窯茶碗窯
                


                              





                                
            



                             






                               





                      




                      




      この中野窯は1630年頃に陶器窯として巨関ら朝鮮人陶工たちによって始められています。その後間もなく、中国の技術の影響を受けた

    磁器を焼くようになります。朝鮮人陶工らは1598(慶長3)年に松浦鎮信が日本に帰陣する時、慶尚道の熊川(コモカイ)から平戸に

    連れて来られたわけですが、日本に来て30年以上も無為に過ごしていたわけではないでしょうから、中野窯以外にもどこかで窯を開いて

    陶器を焼いていたものと推測されています (久村貞男著 『三川内窯業史』 59貢)。その窯跡がまだ発見されていないだけのことです。

     いつか発見される日が来ることでしょう。期待しています。

     中野窯での磁器の生産は1650年で終わり、この年に平戸藩の領内である現在の佐世保市の三川内町に中野村の陶工たちは移住を命じられ、

    三川内で磁器を生産するようになりました。
      

                              
                                       紙漉の里案内図




                             






                       
                                左右写真:紙漉の里ふれあい施設



        この「紙漉の里ふれあい施設」は体験型観光施設であり、陶芸体験やそば打ち体験、紙漉き体験などができます。

        この施設の上の方に歩いて行くと、入り口近くに東屋がある中野窯跡(茶碗窯)が見えてきます。





  平成29年3月      


                             歴史は繰り返す


   2月13日、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の異母兄、金正男氏がマレーシアのクアラルンプール国際空港で猛毒の新経剤VXを女二人から

  顔に掛けられて毒殺された事件は世界を震撼させたことと思います。事件では実行犯の女2人以外に北朝鮮の秘密警察や外務省の職員が関与して

  いることが疑われており、北朝鮮の国家犯罪であることが確実視されています。

   この暗殺事件は、金正男氏が北朝鮮の世襲支配を批判したり、異母弟の金正恩氏は指導者としての資質が欠けると発言したことがあるそうで、

  金正恩氏が金正男氏暗殺を部下に指示したものと見られています。

   実は朝鮮半島を支配した李王朝の時代にも朝鮮政府は改革派の中心人物を上海で暗殺したことがあり、歴史は繰り返されるものだと痛感しています。

  暗殺されたのは日本に亡命していた開化党のリーダー金玉均です。

   開化党は、新しい知識を学び、新しい技術を取り入れ、政府や一般社会の古い因習を根本的に変革して朝鮮を近代的な国家とすることを目的と

  しており、また、富国強兵策を実施して国家の独立を守ろうと考えていました。 (李殷直著『朝鮮名人伝』820貢。)

   開化党は路線の違いから二つのグループに分かれ、世界大百科事典第2版の解説によると、甲申政変(1884年)を主導した金玉均,朴泳孝らを

  急進的開化派、甲午改革(1894‐95年)を主導した金弘集,金允植らを穏健的開化派というそうです。

   宗主国たる清国への臣属関係を維持し旧体制を持続しようとした守旧派と対決して,クーデターによって国政変革をめざしたのが急進的開化派で

  あり,守旧派と妥協しながら漸進的に改革していこうとしたのが穏健的開化派です。ともかく、開化党は日本の明治維新に習って政治を刷新しようと

  考え、そのために日本から援助を受けることを希望していました。

   金玉均ら急進的開化派は、1884年12月4日、クーデターを決行し、守旧派の大臣や軍司令官ら7名を殺害して政権を掌握しました。

  しかし、新政府は清国軍の攻撃を受けて樹立3日目にして崩壊してしまい、金玉均や朴泳孝らは仁川から日本の船に乗って長崎までやって来て

  日本へ亡命しました。その後金玉均は10年間日本で亡命生活を送ります。その間、朝鮮政府は刺客を送って金玉均を暗殺しようと狙って

  いました。そして、朝鮮国王高宗から金玉均や朴泳孝を殺害するよう命を受けて1892年5月4日に日本に渡った李逸稙は、洪鐘宇と言う者に

  金玉均の暗殺を依頼しました。そして、1894年3月23日金玉均は、船で神戸港を出航し中国の李鴻章と会談しに中国・上海へ向かうのですが、

  洪鐘宇も同行します。途中、25日長崎に寄港して1泊した後翌26日夜長崎港を出航、27日夕方上海に到着し、日本人が経営する東和洋行ホテルに

  宿泊します。翌28日午後3時30分頃、金玉均はこのホテルに滞在中、朝鮮人洪鐘宇が発射した3発の拳銃弾を受けて死亡しました。

   朝鮮政府は金玉均を暗殺するだけでは飽き足りず、遺体を朝鮮に引き取った後、首をさらし首にしてしまいます。



                             



   長崎の新聞社、鎮西日報は金玉均に好意的で、よく金玉均の日本での動向を報道していたのですが、明治27年4月22日付で 「惨又惨(金氏鳩首) 」と

  いう見出しを付けて、次のとおり憤慨しています。



        『 梟示の傍らに告文あり曰く、「謀反大逆不道罪人玉均当日楊花津頭不待時凌遅処斬」と。

          嗚呼、たとひ未開の韓国とは云へ死屍に迄斯る惨刑を加へて自ら怪しまず。慨歎に堪ふべけんや。』


              
   北朝鮮は現在、金正男氏の遺体を自国へ引き渡すようマレーシア政府に要求していますが、もし北朝鮮へ引き渡されれば金正男氏の遺体は

  どう扱われることでしょうか。まさか21世紀の時代にさらし首にすることはないでしょうが、冷たく扱われることはまず間違いないと思われます。

  今後の成り行きが注目されます。






  平成29年2月      


                            韓国の陶芸家が朝鮮人陶工たちを慰霊



   今年は1月28日が旧暦の1月1日で、韓国では1月27日から1月29日までが正月休み、30日が振替休日です。

  韓国の慶尚南道昌原市鎮海区の熊川で熊川窯を営む崔熊鐸(チェ・ウンテク)氏夫妻が30日に平戸を訪問されました。目的は豊臣秀吉の文禄慶長の役で熊川から

  平戸に連れて来られた朝鮮人陶工たちを祭るためです。朝鮮人陶工の子孫たちは三川内で毎年5月1日に陶祖祭りを行っていますが、 崔熊鐸氏は旧正月に韓国から

  平戸にやって来られて朝鮮人陶工たちを祭っています。通算するともう20数回にもなるそうです。

   場所は平戸市戸石川町にある高麗碑のあるところです。高麗碑は1994年に建てられています。このあたりは昔は高麗町と呼ばれていました。

  ここの公民館は高麗町公民館という名前が付けられています。


  

                      




                      



              高麗町公民館の前を通ってしばらく行くと、高麗碑が現れます。民家の敷地の隣に建てられています。


                      

    
    


                       

                          崔熊澤氏夫妻が祭祀を執り行うため準備を行っているところです。




                       



                       

            

                        


          
                        


                  祭祀にはお供え物がつきものです。なしやりんご、栗、お菓子、酒などが供えられました。

                  すべて韓国から持って来られたものです。


                        

           


                        

                                   祭祀用の服や帽子をつけているところです。
                   

                        

                                        3回礼を行いました。



                        

                        高麗碑の前は朝鮮人陶工たちのお墓が建てられています。

                        崔さんのお話によると、昔は40基あったそうですが、現在は墓が崩壊してしまっていて、大部分は墓の形態を

                        留めていない状況です。

            
                         



                         



      
                         
                                           平戸焼資料館



                       平戸焼の陶磁器が井元昭三氏が運営されている平戸焼資料館に展示されています。

                       井元昭三さんのご案内で、崔ご夫妻と一緒に見学させていただきました。
       
                       以下の写真が平戸焼です。


             
                         


                
            
                         
                                         「朝鮮仏」の形をした焼き物




                         

                                     「中野窯」として紹介されています。


            
                         



                         
                                  江戸時代の明和年間(1764~1771)に焼かれた茶碗
                


                             

                                      なかなか趣があって、いいですね。



  
 平成29年1月      

                               熊川訪問記 (2)


  

  熊川窯跡を見学した後次に向かったのは、文禄慶長の役で日本軍が築いた城(倭城)です。朝鮮内に日本軍は城を18ヵ所築いており、慶尚南道昌原市の鎮海区には熊川城、

 安骨城、明洞城、子馬城の4つが築かれました。このうち、熊川城と安骨城の2ヵ所を見学して来ました。

 

  熊川城は1592年に加藤清正が築いたとされており、小西行長軍がここに陣を置きました。熊川は当時熊浦(ウンポ)とも呼ばれており、熊川城がある場所には元々倭寇の侵入に

 備えるために朝鮮時代に熊浦城が築かれていたものを、日本軍が補修して使用したものと推測されているそうです。

   山の高さは海抜184mで、頂上には天守台が置かれていました。城壁は長さ1250m、高さは地形により3m~8mあったそうです。


              
         熊川城への登り口に設置された看板

   この看板は熊川教会の真後ろにありますが、ここを探すのにとても苦労しました。



             



             




                    




           

                ここが頂上付近。松の木が生い茂っていました。



            
                      かつて天守台が置かれていた場所




               
  
    



                  
                             天守台から撮影   


                     


   

   キリシタンである小西行長の要請により日本軍キリシタン将兵の教化や慰問のため、イエズス会の二人の宣教師がこの熊川城を訪れています。すなわち、スペイン人の

  グレゴリオ・デ・セスペデス神父と、日本人のファンカン・レオン修道士は1593年12月27日に朝鮮に上陸し、その翌日、この熊川(熊浦)城に到着しました。

  セスペデス神父は朝鮮から日本へ送った書簡の中で、熊川城の様子を次のように報告しています。



         「 この熊浦城は難攻不落を誇り、短期間に実に驚嘆すべき工事が施されています。

          巨大な城壁、塔、砦が見事に構築され、城の麓に、すべての高級の武士、アゴス

          チイノ[小西行長のこと] とその幕僚、ならびに連合軍の兵士らが陣取っています。

          彼らは皆、よく建てられた広い家屋に住んでおり、武将の家屋は石垣で囲まれて

          おります。」 (『完訳フロイス日本史5』 中公文庫 )

 

   セスペデス神父らは、この城の中でのみ宣教活動が許され、城から出ることは禁じられていたそうです。したがって、朝鮮人に対する宣教活動は行うことができなかったと

  思われます。セスペデス神父らは1年間ここに滞在し、長崎に戻っています。なお、セスペデス神父は1587年(天正15年)に細川ガラシャに洗礼を施しています。

 

   熊川城の麓に昨年、セスペデス公園が建設されています。

                   
               セスペデス公園

  

    この地を訪れたスペイン人のグレゴリオ・デ・セスペデス神父と、日本人のファンカン・レオン修道士の二人が描かれています。


              
                公園内の様子 



   
    次は安骨城です。 1593年に、日本軍の武将、脇坂安治、加藤嘉明、九鬼嘉隆によって築かれたそうです。


                         




                   



                  

                                            城壁は長さが594m、高さが4~7mあるそうです。  



                  
                  安骨城の本丸跡                      物見櫓があったと思われる場所からの眺望


      長さは東西約110m、南北約60mだそうです。


                  

                  物見櫓の跡か?
 

                        

             物見櫓?に設置された説明版


   

     説明板によると、この城跡から17世紀後半以後の朝鮮白磁が出土しており、日本軍が去った後は朝鮮水軍が利用した可能性を提起されているそうです。



                     

                                                          物見櫓?に続く石垣



                         

               安骨城の二の丸付近からの眺望





     熊川について最後に紹介するのは朝鮮時代に作られた熊川邑城です。1434年に朝鮮半島南海岸に出没する倭寇を統制するために築かれたそうです。

   文禄慶長の役では日本軍がこの城を占領し、熊川城の支城として利用しました。熊川邑城には東西南北に4つの門があったそうですが、現在は東門とその周辺の城壁だけが

   復元されています。この熊川邑城と熊川倭城とは2km足らずの距離にあります。


                        
                                      見龍門 (東門) 




                        



                      



                      




                      



                          


      

                          





  平成28年12月      


                               熊川訪問記 (1)


   先月19日に韓国の慶尚南道 昌原市 鎮海区にある熊川地域を訪問して来ました。 今月は熊川窯について述べたいと思います。


   豊臣秀吉の死により慶長の役が終わり、慶長3年11月下旬(1598年12月下旬)に肥前国平戸の領主 松浦鎮信(まつら・しげのぶ)は

  帰国する際、慶尚道の熊川(ウンチョン)から朝鮮人152名を平戸に連れて帰りました。その中に陶工が10名ほど含まれており、松浦鎮信は

  その陶工の一人 巨関(こせき)に命じて平戸の中野という村で陶器を焼かせました。これが中野焼の始まりですが、その後朝鮮人陶工たちは、

  現在の佐世保市の三川内地区に移住を命じられ、そこで磁器を焼きました。これが三川内(みかわち)焼として発展していきました。

   ところで、多くの陶工を連れて行かれた熊川(当時、日本ではコモガイと呼ばれていました)では、陶器を焼く者がいなくなり、長い間廃窯となって

  いました。 そこで、熊川出身の崔熊鐸(チェ・ウンテク 최웅택)氏は32年前(1984年)に故郷で熊川窯を復活させました。崔熊鐸さんのお話に

  よると、日本軍によって平戸に連れて行かれた熊川の陶工は80人にも上ったそうです。

   日本の書籍には10人程度と書かれていますが、80人の根拠は?と私が質問すると、先祖代々からの言い伝えだそうです。熊川から陶工全員と

  その家族が皆平戸に連れて行かれたため、子孫は一人も残っていないそうです。それで崔熊鐸さんは陶工の子孫ではないそうです。

   崔熊鐸さんは巨関の精神的な末裔になろうと決意し、熊川窯の技法を受け継ぐために当時の窯址をめぐって陶片を収集し、 陶片を師匠として、

  研究を積み重ねて来られました。

   崔熊鐸さんは朝鮮人陶工の慰霊のため、旧暦の正月に平戸市を、三川内焼の陶祖祭が開催される5月1日に佐世保市を毎年訪問されているそうです。



         
           熊川窯跡から収集した陶器の破片や崔熊鐸氏の作品などが展示されている建物





                
                                崔熊鐸氏



                
                                  内部の様子



            




         
                                                  500年前に焼かれた熊川の井戸茶碗



          




           
                          当時の熊川焼を復元した崔熊鐸氏の作品




                 
                        長崎県平戸に建てられた高麗碑と崔熊鐸氏




          
        作品はすべて登り釜で焼かれています                    崔熊鐸氏と一緒に記念撮影




                        
                          崔熊鐸氏のパンフレット 『熊川窯』 から複写



    次は、熊川窯の崔熊鐸 (チェ・ウンテ)さんにご案内いただき、昌原市が運営する熊川陶窯址展示館を訪問しました。

   この展示館は2011年11月23日に開館したもので、開館式には三川内焼の産地である佐世保市から朝長則男市長さんを始め関係者も

  出席されたそうです。




          
              熊川陶窯址展示館                     茶碗の形をした巨大な建造物が建てられていました




          
                                                   登り窯の模型を展示するコーナー




                
                               崔熊鐸氏の作品





                


      

       パネルの下の方に日本語で  「日本で活動している熊川出身の陶工の末裔 」と記載されています。

     さらに、小さな字は次のとおり記載されています。

            「文禄慶長の役(1592~1598)に際して、日本に連行された熊川出身の陶工の末裔が、

             現在も日本の佐世保の三川内に住み、陶芸技術を受け継いでいる。熊川陶窯址展示

             館の開館を祝し、巨関の子孫・今村家、エイ(高麗婆と呼ばれた)の子孫・中里家、

             従次□の塚本家から作品が寄贈された。」




           
                           展示館の裏にある陶磁器体験工房館



           
               窯址への登り口                          展示館後方の斜面にある熊川陶窯址


 
    熊川陶窯址は慶尚南道記念物第160号に指定されています。2002年の発掘調査で6基の窯があったことがわかりました。

   3号基と4号基を見学することができます。




                       
                                  3号基と4号基





           
             上の方の歩道から下を撮影


    
        ここの地名は頭洞という所ですが、頭洞で焼かれた茶碗が日本の国宝第26号に指定されています。

       大井戸茶碗の 「喜左衛門」 という名の茶碗がそれです。下のウェブサイトに写真が掲載されています。                    
                                        http://www.geocities.jp/mi0506jp/idosouzou.html 




          

        当時の茶碗の破片が斜面に露出していました。                 「熊川陶窯址」の説明板



               
                「熊川陶窯址」の碑                         展示館玄関の前から熊川の町を撮影



          
               ワソン湾                               



                

                

     崔熊鐸さんにここワソン村 (와성마을) に連れて来てもらいました。崔熊鐸さんによるとこの港からまっすぐ日本の平戸島に熊川の陶工と

   その家族たちが連れて行かれたそうです。




  平成28年11月      

                              遠山景普と長崎・対馬


   第84代長崎奉行の遠山景晋(とおやま・かげくに)は、文化9年(1812)年2月に長崎奉行に就任し、文化13年(1816)7月に作事奉行に就任するまで

  4年5ヵ月間、長崎奉行の職にありました。

   江戸幕府の幕臣・永井直令の四男として生まれ、16歳の時に500石の旗本・遠山家の養子に入りました。通称は金四郎といい、テレビ時代劇 「遠山の

  金さん」のモデルとなった遠山景元の父親です。なお、永井家からは長崎奉行として遠山景晋の祖父の永井直允(なおちか)(在任1702-1709)、長兄の永井直廉(なおかど)

  (在任1789-1792)が就任しています。


   享和2年(1802)3月に目付に就任した遠山景晋は、文化元年(1804)9月にロシアのレザノフ使節が長崎に来航して通商を求めると、翌年1月幕府から

  特使として長崎に派遣され、レザノフと3回にわたり交渉しています。

   なお、レザノフとの3回目の会見を終えて、ロシア船の退去を待っていた文化2年(1805)3月17日に、遠山景晋は大音寺を訪れて、兄の永井直廉のお墓に

  お参りしています。永井直廉は長崎奉行として在任中に長崎で亡くなっていました。

   岡崎寛徳著 『遠山金四郎』 (講談社現代新書)によると、この日、遠山景晋は大音寺に祀られている「亡兄の墳墓に詣て、客殿に上り焼香し、懐旧の(なみだ)

  袂(たもと)
を湿す。こたびの行役あればこそ、企(および)がたき遠国の墳墓に詣ること、天なる哉」と日記に書いています(63貢)。特使として長崎に赴いたため、

  兄の墓参りをすることができたというわけです。


   また、遠山景晋は朝鮮通信使の来日経費節減のため、通信使の将軍謁見を廃止し、国書交換を対馬で行う易地聘礼(えきちへいれい)という幕府の方針を

  朝鮮側と協議するため、文化6年(1809)4月~8月にかけて対馬を訪れています。

   この年7月15日に対馬藩主宗義功の屋敷で朝鮮国の訳官使と会談し、易地聘礼が合意されました。これを受けて、最後の朝鮮通信使が文化8年(1811)

  3月末に対馬にやって来ました。幕府目付の遠山景晋は易地聘礼の儀式を監視するため、この年の4月~7月にかけて対馬を訪れています。

   なお、長崎市の梅香崎天満宮には、遠山景晋が長崎奉行就任3年目の文化12年(1815)にここに参拝に訪れた記念碑が建てられています。



                   
                      梅香崎天満宮 

   


                      




     この記念碑には次のとおり記載されています。


         『朝鮮通信使節の応接準備に、対馬に二度の出張を敢行。この大旅行に病気することなく、部下に故障者もなく、「人間大切に」を主眼に、

          自らも八十六歳の長寿を達成する。』




    ところで、岡崎寛徳著 『遠山金四郎』 (講談社現代新書)に、遠山景晋が大音寺に祀られている亡兄 永井直廉のお墓をお詣りしたと記載されているので、

   大音寺に行って墓を探したのですが、なかなか見つけきれず、社務所に行って所在を尋ねたところ、大音寺ではなく、お隣の皓臺寺(こうたいじ)にあると

   いうことでした。早速、皓臺寺に行ってお寺の方に尋ねて無事、お墓を探すことができました。
   




                     
                          皓臺寺




                       
                                        永井直廉の墓
                     




                           
                       「直廉」の字が見える                              「永井」の字が見える



  


       参考文献: 岡崎寛徳著  『遠山金四郎』  講談社現代新書






  平成28年10月      
                      
                                    波佐見焼の祖 李祐慶について



   波佐見町と言えば、全国でも有数の焼き物の産地ですが、波佐見町役場のホームページによると、波佐見焼は日用食器で全国シェアー12%を占めている

  そうです。私も今年の春、波佐見陶器まつりに行って来ましたが、大勢の人で賑わっていました。かわいい食器や、きれいな食器が多かったです。


  ○ 李祐慶に関する言い伝え

   この波佐見焼は、文禄・慶長の役で小西行長軍に加わった大村の領主、大村喜前 (よしあき) が慶長3年(1598) 日本に帰国する際、朝鮮から連れて来た

  陶工の李祐慶 (り・ゆうけい 이 우경 イ・ウギョン ) によって始められたと言われています。

    波佐見での言い伝えによると、李祐慶は慶長4年(1599)に波佐見村村木郷畑ノ原に連房式階段状登窯を築き、波佐見焼の祖となったということです。また、

  李祐慶は慶長10年(1605)頃、三股地区で良質の陶石を発見し、ここで初めて磁器を焼いたそうです。日本人に帰化して名前を中野七郎右衛門と改称し、中尾

  山で中尾庄右衛門に陶芸技術を伝え、庄右衛門と共に中尾の開発に努めたそうです。昭和43年(1968)に波佐見焼創業370周年記念事業の一つとして、陶祖

  李祐慶の碑が波佐見町の甲辰園グラウンド近くの森に建設されています。



  ○ 朝鮮人 秀山との関係

   この李祐慶は、元和2年(1616)に初代大村藩主の大村喜前が48歳でこの世を去った時、後を追って殉死した朝鮮人の秀山であるという説があります。

  大村藩主の菩提寺である大村市の本経寺に大村喜前のお墓がありますが、その霊廟前に殉死した2人のお墓が参道をはさんで向き合って建てられてあり、

  一人は藩士の西太郎左衛門、もう一人が秀山です。

   藩主に殉死するほどですから、秀山は大村喜前によほど恩義や親しみを感じていたものと思われます。また、喜前の墓域内に墓が建てられるくらいですから、

  秀山はずいぶんと一目置かれていた存在だったのでしょう。朝鮮人でそういう人物としては陶工以外には考えられないと思います。陶工として大村藩の窯業発展に

  大いに貢献した人物であると思われ、それは波佐見焼の祖と言われている李祐慶だったろうと考えられています。



  ○ 李祐慶は実在の人物?

   しかし、陶業関係の人物に李祐慶や中野七郎右衛門という名前が見当たらないという理由で、李祐慶という人物の存在を否定したり、大村藩の家臣の系図を

  集大成した『新撰士系図』に中野七郎右衛門の名が記載されておらず、李祐慶と秀山は別人であると考えている研究者もいます。これについては、今後のさらなる

  研究や資料発見により解明が待たれるところですが、少なくとも波佐見焼の陶祖については李祐慶と断定したり完全に否定まではせずに、「李祐慶と言われている」

  くらいにとどめておくのが現時点では無難かと思われます。本名が李祐慶で、李祐慶の号が秀山だったと考えるのは単純だというそしりを免れないでしょうか。

   なお、秀山や西太郎左衛門の墓は当初から現在地に建てられたわけではなく、ともに明和2年(1765)7月に現在地に改葬されたものであり、このため、大村藩は

  本経寺に弔銀3両を賜ったことが、「九葉実録」という大村藩の公文書に記録されています。



             
                初代大村藩主 大村喜前の墓        




                                
                  上下:朝鮮人 秀山の墓



                            


    


             
                    陶祖李祐慶の碑                              碑文




                            
                                        陶祖李祐慶の碑 





                      
                         朝鮮人 李祐慶がここに移住して窯を開いたという伝説のある陶郷 中尾山




                             
                                            畑ノ原窯跡




                       




                  





                                





                     



     畑ノ原窯跡は昭和56年(1981)の発掘調査の結果、規模は窯室が約24室、全長は約55.4mであることがわかりました。

   陶器以外に少量ながら磁器も生産されていたそうで、日本国内における磁器生産の初期のものと考えられており、わが国での磁器誕生を知る上で非常に

   重要な窯だそうです。

     創業年代は考古学的調査研究の結果、1610~1630年代頃と考えられており、朝鮮人 李祐慶が慶長4年(1599)にここに窯を開いたという言い伝えは

   年代がどうやら真実ではなさそうです。

     畑ノ原窯跡は平成5年(1993)に復元されています。平成12年(2000)に国史跡に指定されました。




   参考文献 

     白石 純英著  『波佐見焼・初期の諸相』 (『大村史談』第52号所収)  平成13年 発行 大村史談会

     『波佐見町史』上巻  昭和51年  編纂者 波佐見町史編纂委員会  
                           
     『波佐見焼400年の歩み』  平成11年  編集 中野雄二  発行 波佐見焼400年祭実行委員会

     波佐見町町制施行50周年記念要覧 『波佐見焼の400年』 平成18年 波佐見町発行

     中島 浩氣著  『肥前陶磁史考』  昭和60年発行 (昭和11年発行の復刻版)




  平成28年9月      
                          韓国映画 「徳恵翁主」について


    韓国で8月3日、「徳恵翁主」という映画が封切られました。8月19日現在で観客数は444万人を記録するほど好調な興行となっているそうです。

    (中央日報日本語版社説

    この映画がインターネットで紹介されており(ナムウィキ 나무위키 徳恵翁主(映画))、動画で予告編を見ることができます。

   シノプシス(synopsis)として簡単なあらすじが次のとおり記載されています。 


        「 歴史が忘れられ、国を消された大韓帝国の最後の皇女!

         高宗皇帝の一人娘として生まれ、大韓帝国の愛を受けた徳恵翁主

         日帝は満13歳の幼い徳恵翁主を強制的に日本へ留学させる。

         毎日、故国の地を懐かしみながら生きて行く徳恵翁主の前に、幼い頃の友人である金チャンハン(김장한)が現れて、

         英親王亡命作戦に巻き込まれてしまうのであるが・・・  」


     ここで金チャンハン(1910- ?)という人は実在の人物で、韓国のウィキ百科によると、高宗皇帝の侍従の甥で、幼い頃に決められた徳恵翁主の婚約者だそうです。

   英親王という人は高宗皇帝の第7皇子で、大韓帝国最後の皇太子となった人で、1920年(大正9年)に梨本宮方子と結婚しました。正式な名前は李垠(イ・ウン)です。

     李垠(1897-1970)は1907年(明治40)年日本に留学し、学習院、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校で教育を受けた後、日本の敗戦まで日本の陸軍軍人として

   半生を送りました。最終階級は陸軍中将です。

     徳恵翁主(덕헤옹주  トッケオンジュ 1912.5.25~1989.4.21) は、韓国併合後、大韓帝国皇帝から日本の王族として徳寿宮 李太王と称された高宗と側室 梁春基との

   間に生まれ、日本留学のため1925年(大正14年)3月東京へ渡り、4月女子学習院に入学しています。この時、まだ満12歳でした。そして、1931年(昭和6年)5月、東京

   帝国大学を卒業したばかりの宗武志(そう・たけゆき)と満18歳の時に結婚しました。この年の10月30日~11月6日、二人は対馬を訪問しています。

    さて、映画 「徳恵翁主」では、徳恵翁主は日本帝国に抵抗する朝鮮留学生の集いに参加したり、李垠(英親王)を中国の上海に亡命させるのに加担しています。

   これはありもしない作り話ですが、韓国人は映画を見てどう思ったでしょうね。真実と思っていないか気になるところです。

    中央日報(日本語版)の社説によると、韓国ではこの映画の歴史歪曲について熱く論議されているそうです。中央日報自体は社説で次のとおり述べています。


        「映画が想像力のジャンルだとしても実在の人物を扱う時は何より基本事実に忠実でなければならない。スクリーンの感動を最大化するために一部を

         誇張できても該当人物の性格自体を変えるのはややもすると歪曲へと流れかねない。大衆の琴線に触れるのには成功するかも知れないが、歴史に

         対するまた別の誤解を作り出しかねないためだ。 今回の映画で再演された徳恵翁主は人物の実体とは距離が遠い。決定的なミスは徳恵翁主を独立

         闘士型のキャラクターとして描いたという点だ。」、「祖国独立運動を助けたという証拠もない。」、「 『徳恵翁主』は韓国の近現代史研究に新たな課題を

         残した。」
   

    やはりというか、残念ながらというか、私たち日本人がこの映画を見る場合、いい気持ちを持つことはできないと思います。あまりにも脚色がひどいと思われます。

   もっと真実を伝え、日本と韓国の両国民がスッとするような暖かみのある映画にしてくれたらよかったのにと思います。


    それにしても驚くべきことを言っている方がいます。高宗の5番目の皇子 義親王(李堈 イ・カン)の11男 (10男?) が李錫(イ・ソク 75歳)という方で、韓国の

   社団法人 「皇室文化財団」 の総裁だそうです。李錫総裁は中央日報記者との対談で次のとおり述べています。

   
        「徳恵翁主もみじめに対馬島主と強制結婚させられたが初夜からむちで打たれたと聞きました。傲慢だということで。だから後年は精神錯乱に認知症まで

         患って亡くなりました。」


    韓国人というのは本当に日本との関係では歴史を否定的な目で見る人が多いという感じがします。日本のウィキペディアの『徳恵翁主』によれば、宗武志は妻と

   なった徳恵翁主を深く愛し、二人の仲は睦まじかったそうです。また、徳恵翁主は結婚前に既に統合失調症を発症していて、新婚時代にもその症状が見られたそう

   です。初夜でむちうつなんてとても信じられないと思います。李錫氏はいったいどなたから聞いたのでしょうね。

   
    映画「徳恵翁主」については朝鮮日報(日本語版)にも記者がコラムで感想を述べていて、中央日報とともにとても常識的な意見を述べているという気がして、胸が

   スッとしました。ぜひこの記事も読んでもらいたいと思います。





  平成28年8月      
                           国分象太郎について (2)


  ○ 日韓併合時、韓国統監秘書官として活躍

    ・日韓併合条約(「韓国併合ニ関スル条約」)は1910(明治43)年8月22日に、ソウルで寺内正毅韓国統監と李完用大韓帝国内閣総理大臣が調印し、29日に

    公布されて発効しました。日本ではこの年6月下旬から7月上旬にかけて首相官邸で併合準備委員会を開催して併合案を作成し、5月30日に陸軍大臣を

    兼務したまま韓国統監になった寺内正毅は、7月23日にこの併合案を持って韓国に渡っています。そして寺内統監は8月になって併合について協議する

    ため、李完用首相を統監官邸に招くことを決断しました。この時、李首相の元へ使者として送られたのが韓国統監秘書官を務めていた国分章太郎でした。

     この時、国分章太郎統監秘書官は世間が注目するのを避けるために、李首相に対して夜間に統監官邸を訪問するよう勧めたそうです。ところが、李首相は

    かえって疑いを招く恐れがあるとして昼間に訪問しています。8月16日、李完用首相は統監官邸を訪問し、寺内統監と併合について協議しましたが、この時

    通訳したのが、国分章太郎統監秘書官でした。一国の運命を左右するこの重要な会談に長崎県出身の外交官が通訳を行ったわけです。たいへんすごいこと

    だと思います。

     また、22日、条約調印に先立ち李完用首相は宮中に赴いて韓国皇帝純宗に条約案を逐条説明して承認を得ていますが、この時、国分章太郎は宮中に参内

    して、この時の会話の様子を寺内統監に電話で逐一報告しています。

           ( 新城道彦著 「王公族の創設と日本の対韓政策」 (『東アジア近代史』第14号 2011年3月)より抜粋 )
   



  ○ 朝鮮同化主義思想

    ・国分象太郎fは、1919年5月、朝鮮が日本と同化することを強く希望する 『総督施政方針ニ関スル意見書』 を提出しました。

    その一部は次のとおりです。(原文のカタカナ部分はひらがなに変更しました。)


        「 総督施政の根本主義を大別して、二と為すことを得べし。即ち朝鮮を内地の延長として、
     
         恰も彼の四国・九州に於けるが如く、純然たる帝国の一部とし、渾然一体と為すか。将た

         将来永く新附領土の特別地域と為すかに在り。前者は内鮮人を渾然融合するを目的とし、

         同化主義を執りて進まざるべからず。後者は朝鮮固有の風俗・習慣を毀損せず、其の住民

         に文明を宣伝鼓吹し、以て特殊の発展を遂げしむるを要すべし。 」


      つまり、日本人と朝鮮人を渾然融合するために、朝鮮を純然たる帝国の一部として渾然一体となす必要があり、そのためには、朝鮮人に「参政権を与え帝国の
 
     政治に参与せしむる必要」があると述べています。

      また、朝鮮固有の風俗・習慣を棄損せず、朝鮮人に文明を宣伝鼓吹して特殊の発展を遂げさせるために、将来永く新しい領土として特別地域となす必要があり、

     そのためには、朝鮮「民族に完全なる自治を与えざるべからざる」ようになる、と述べています。

       結論として、「永久に朝鮮の独立を許さざること、及統治の根本主義に関する聖謨を宣示し、之を以て万世不易の大方針と為」せと述べています。「聖謨」という

     のは日韓併合時の詔勅のことです。そして、国分は朝鮮が日本と同化するための具体策として、日本人と朝鮮人の結婚を奨励し、その法制上の障害となる民事令と

     戸籍法の改正を提案するとともに、国語教育と日本人の朝鮮への移民も奨励しています。
     
                                 (今西 一著 『帝国「日本」の自画像』 ―1920年代の朝鮮「同化」論― より抜粋)





 平成28年7月      
                                 国分象太郎について (1)


   明治・大正時代に通訳・外交官として活躍した国分象太郎という人は対馬出身です。明石書店から平成17年に発行された 『36人の日本人 韓国・朝鮮へのまなざし』

  という本に記載されている 「国分象太郎」 (石川遼子著) を抜粋してご紹介いたします。まず、国分象太郎の略歴は以下のとおりです。


  略歴
   
   1861年            対馬藩士 国分建見の長男として対馬の厳原で出生。
   1872〈明治5〉年       外務省が対馬厳原の光清寺に設置した韓語学所で朝鮮語を学ぶ。
   1879〈明治12〉年8月   釜山領事館の稽古通詞を命じられる。
   1880〈明治13〉年     東京外国語学校朝鮮語学科に入学。3年間外務省給費生として学ぶ。
   1885〈明治18〉年     京城領事館御用掛兼裁判所書記心得となる。
   1897〈明治30〉年     駐韓日本公使館一等通訳官 
   1902~03〈明治35~36〉年 在米日本公使館二等書記官
   1910〈明治43〉年10月   朝鮮総督府総務部人事局長
   1915〈大正4〉年4月    旧大韓帝国李王家の家務を掌る李王(しき)の事務官となる。 
   1917〈大正6〉年1月15日 李王職次官 
   1921〈大正10〉年9月6日 李王職次官在職中、京城で死去。 
   1921〈大正10〉年9月7日 旭日大綬章を受章
.

  ○ 通訳者としての信条

    国分象太郎の通訳は意訳に徹していたそうです。通訳者としての彼の信条は、風俗・習慣・礼儀作法が異なる他民族に対しては直訳は禁物であり、宮中謁見で礼を

  失した言葉をそのまま通訳しては国家の名誉にも関わるから、交渉などを成就させるためには通訳者は本人の言わないこともつけ加え、感情を害するような言葉は柔ら

  かくして伝えるべきだということであったようです。国分の通訳はかなりの意訳だということが広く知られていても、好ましい結果をもたらしたことから、通訳者として用いら

  れ続けたのだろうと筆者の石井遼子氏は述べています。


  ○ 通訳・外交活動

    ・甲申政変というクーデターを起こして失敗し、朝鮮から日本に亡命していた開化派の指導者 金玉均が1894〈明治27〉年に上海で朝鮮政府の刺客洪鐘宇 から拳銃で

     撃たれて暗殺されましたが、金玉均の遺体と洪鐘宇の処遇をめぐり、朝鮮の外務督弁 (日本の外務大臣に相当) のもとへ国分象太郎は派遣されて、外交交渉の

     場に臨んでいます。この頃から国分の活動が際立ってくるそうです。そして、歴代の日本公使である竹添進一郎、井上馨、近藤真鋤、高平小五郎、杉村清、大鳥圭介、

     三浦梧楼、小村寿太郎、原敬、加藤増雄、林権助らに随伴して行動するようになり、公使と大韓帝国皇帝だけの会見に通訳として同席しました。


    ・朝鮮国王高宗の妃 明成皇后の葬儀や高宗の実父 興宣大院君の葬儀に出席し、渋沢栄一の謁見、京釜鉄道敷設問題、清国事変、大韓帝国皇帝への国書捧呈など

     にも関わっています。(李氏朝鮮は1897年~1910年の間、国号を大韓帝国と呼び、国家元首を皇帝と呼んでいます。)


    ・1904〈明治37〉年、伊藤博文が特派大使として来韓の際に滞在中の随行員となり、翌年11月、韓国の外交権を奪って保護国化を図った第二次日韓協約締結交渉に

     際し、伊藤博文大使の高宗皇帝謁見に同席し、諸大臣との会見においても通訳し記録をとりました。


    ・伊藤博文が韓国統監になると、統監府書記官及び統監秘書官になり、その後統監府参与官も兼任しています。統監府官舎で月に数回開催された大臣会議では、時に

     前間恭作と藤波義貫に代わる以外はほとんど国分象太郎が通訳をしています。また、伊藤博文が朝鮮各地を訪問して演説をする時には、国分象太郎を伴って通訳

     させています。


    ・1910〈明治43〉年の韓国併合後、旧大韓帝国の李王家とその一族は王族・公族と呼ばれるようになり、1911〈明治44〉年に王族・公族の家務を掌る李王職という機関が

     京城に置かれました。国分象太郎は1915〈大正4〉年4月、36人いる事務官のうちの一人となり、1917〈大正6〉年1月、第2代目の次官に就任します。そして次官として

     在職中に亡くなる1921〈大正10〉年9月までの間に様々な大きな事件を扱っています。以下に列挙すると、

         ・1917年6月に李王(純宗)が大正天皇と会見するという話が持ち上がったこと、

         ・1918年12月、李王世子(李垠)と梨本宮方子との婚儀が決定し、挙式が翌年1月25日と決定されたこと、

         ・1919年1月21日に李太王(高宗)が突然亡くなったこと、

         ・1919年3月、独立運動が朝鮮内で起こったこと、

         ・1919年3月3日、李太王の葬儀が国葬として神道式で行われたこと、

         ・1920年4月28日、李王世子の李垠と梨本宮方子との婚儀が挙行されたこと

     が大きな事件であり、国分象太郎は次官としてさぞ苦労したことと思われます。

    ・1921〈大正10〉年9月6日、国分象太郎李王職次官は、京城で行われたある宴会の席上で倒れ、死去しました。1年後、故郷の対馬厳原に葬られました。

     墓碑銘は「従三位勲一等国分象太郎之墓」と書かれましたが、韓国併合時、大韓帝国の内閣総理大臣だった李完用の手によるものだそうです。
    




 平成28年6月      
                                    旧長崎刑務所の今と昔


    6月と言えば、昭和9年(1934)6月5日、白貞基(ペク・ジョンギ)という朝鮮のアナーキストが長崎刑務所で獄死したことがすぐ頭に浮かびます。

  昭和8年(1933)3月17日、上海の日本料理店 六三亭で有吉明日本公使が宴会を終えて出てくるところを爆弾を投げて暗殺しようと中国料理店松江春で

  待機中、事前に探知していた共同租界警察によって白貞基、李康勳、元心昌の3人の朝鮮人が逮捕されました。3人は長崎市に送られ、長崎地方裁判所で

  白貞基は無期懲役の判決を受けて長崎刑務所に服役中、持病の肺結核が悪化して6月5日の深夜に38歳で生涯を閉じたのでした。

   白貞基が収監された旧長崎刑務所は明治41年(1908)に開設され、平成4年(1992)年まで使用されました。昔の写真と現在の写真を掲載します。



  1.昔の写真



        
            平成7年(1995年)7月撮影                      平成19年(2007年)5月撮影 


                                 
           
                     
                         正門から入ると正面にあった建物 (平成19年)



                 
                               往時の上空写真 

                      (解体前の見学会で掲示されていた写真を撮影したもの)




                 
                              建物内部の様子  (平成19年)



         

            正門の左右はこのようにレンガ造りの高い壁がありました。 (平成19年)




 
   2.現在の写真     平成28年(2016年)1月撮影



     



             




         




         



         
          
   



            





      
              門の裏側の様子
   


            

                          門の後方にはスーパーが建っています。




  平成28年5月      
                          三川内(みかわち)焼の祖 高麗媼(こうらいばば)



   4月30日に佐世保市の三川内に初めて行って来ました。ゴールデンウイークの時期、波佐見焼の産地 波佐見町には何度か行ったことがありますが、

  三川内にはまだ行ったことがありませんでした。それで今回は波佐見と三川内の2ヶ所に行ってきました。

   三川内では毎年5月1日~5日まで「はまぜん祭り」という三川内焼のイベントが開催されており、今年で31回目を迎えるそうです。明日からということで、

  ちょっと残念でしたが、三川内を訪れた理由は三川内焼の窯元巡りが本来の目的ではなく、豊臣秀吉による文禄慶長の役で朝鮮から連れて来られた高麗媼と

  言う人を祭る釜山(かまやま)神社とお墓を訪れるためでした。


   平戸の領主松浦鎮信(まつらしげのぶ)は慶長3年(1598)朝鮮から撤退する時に、152名の朝鮮人を平戸に連れ帰っています が、その中に慶尚道の熊川

  (ウンチョン)出身の陶工が10名ほどいたそうで、その中の一人 巨関(こせき)という人に平戸の中野で窯を開かせています。高麗媼も10人ほどいた陶工の

  一人で、後に平戸から唐津領の椎ノ峰の中里茂右衛門(もえもん)という人の所へ嫁いで行きました。名前も中里エイと名乗っています。その後、夫が亡くなり

  元和3年(1622)に息子の茂右衛門と 一緒に三川内に移住して、長葉山で陶器を焼き始めました。これが長葉山窯の始まりです。高麗媼は寛文12年(1672)

  にこの世を去りましたが、その時の年齢はなんと106歳だったそうです。いまでもかなりの長寿ですが、当時としては驚異的な年齢ですね。

   媼(ばば)と言うのは文字どおり、おばあさん、翁という意味ですので、当時の人々は高麗媼、つまり朝鮮のおばあさんと言って親しみを込めて呼んでいたこと

  でしょう。高麗媼の子孫たちは、天保3年(1832)頃に釜山神社を建てて、高麗媼を陶祖として祭っています。
  

   なお、高麗媼の出身地 熊川(ウンチョン)を当時の日本人は「コモカイ」と呼んでいました。熊川は鎮海市の熊川洞という行政区域でしたが、2010年7月1日に

  鎮海市が昌原市、馬山市と統合されて昌原市鎮海区となり、鎮海区熊川洞となっています。

   文禄慶長の役で日本軍が築いた倭城の石垣がまだ残っているので、いつかこの熊川を訪問したいと思います。

   4月30日に数軒見て回った三川内の窯元で一番気に入ったのは五光窯で、その結晶(ゆう)という器は実に美しかったです。

    

                        
                                    釜山(かまやま)神社



                      

                            釜山神社は高麗媼(こうらいばば)を陶祖として祀っています。




                      
                                       釜山神社の説明板



                              
                                         高麗媼のお墓
     


                          

                            高麗媼の新しい墓石がご子孫たちによって建設されています。




                           
                                         五光窯 結晶釉のコップ


     
                  参考文献

                      久村 貞男著 『三川内窯業史』  芸文堂 平成26年発行





  平成28年4月      
                                 藩主の死後殉死した二人の朝鮮人



   今回は、既にご存知の方もいらっしゃると思いますが、文禄慶長の役で日本に連れて来られ、藩主が死ぬと、あとを追って殉死した二人の

  朝鮮人、洪浩然と金宦を紹介します。二人に関して記述した文献からそのまま掲載いたします。

   なお、下記の文章に出て来る古賀精里は佐賀藩の儒学者で、後に徳川幕府の学問所昌平黌の教授になった人物です。

 
  ○ 『善隣と友好の記録 体系 朝鮮通信使』 第8巻中  辛基秀著 「多彩な文化度の記録絵画」より


     「  幕府の儒学者となり昌平黌の教授となった古賀精里は、通信使一行に格別の親近感をもっていた。古賀精里は朝鮮通信使の

      書記金善臣(号清山)に会い、私の妹は、貴国の出身者に嫁いでいるので、貴方たちと会えたのは千載一偶の機会であると挨拶した。

       古賀精里の持参した『洪浩然伝』は壬辰倭乱の折、朝鮮慶尚道晋州で鍋島直茂の軍勢に捕らえられた12歳の洪浩然の伝記で

      あった。洪浩然が父母とはぐれ、大きな筆をもってくさむらに潜んでいるのを見つかり、日本へ送られた。直茂は怜利な12歳の少年を

      同年配の自分の子勝茂の学友として育てる意図で日本へ送ったのであった。

        洪浩然は佐賀に来て京都五山に遊学後、佐賀藩の知行81石の侍講となった。浩然は多久の領主 多久安順の家臣江副某の

      女と結婚、1619(元和5)年、妻に先立たれ、多久の家臣堤氏の娘を後妻とし、安実が生まれた。6代目の安常は古賀精里の妹を妻と

      したが、男子がいないので精里の次男安胤を養子とした。精里の長男毅堂は1791(寛政3)年、父にしたがって江戸に遊学、帰国後、

      藩校弘道館の教諭となる。安胤の号は、浩然の故郷の晋州からとった晋城である。

        1657(明暦3)年3月、江戸で藩主死亡の報を受けた。4月8日、浩然は息子の安実を呼び、紙に「忍」と大書きし、その下に

       「忍即心之宝、不忍身之狭」と書き与えて、阿弥陀寺に行き殉死した。齢76歳。 」


        洪浩然の子孫は代々姓を変えず、彼が書いた「忍」の一文字の掛軸は今も子孫の家に大切に保存されているそうです。


  ○ 『日鮮史話』 第1編 松田 甲著 「日本教化に大功ある朝鮮出身者 本妙寺日遙上人」 より


     「      本妙寺は日遙上人の努力を以て現在の地に建てられて、朝鮮と縁故深きは最早贅言を要せぬが、

            同寺に詣づる人は更に其の境内に、朝鮮人を祖先としたる熊本の碩儒高木紫溟と、加藤清正に

            殉死したる朝鮮人金宦の墓あることを知らねばならぬ。紫溟に就ては稿を別にするが、金宦の事蹟

            を茲に略述する。

        金宦、文禄の役、つとに加藤清正の轅門(えんもん) (軍門のこと) に降り、爾来其の嚮導となって、地勢風俗等の諮問に応じ、

      大に其の軍に貢献した。元来彼れの人と為り気概ありし為、彼土の国政紊乱、人心腐敗せるとは反対に、日本の志操堅固にして

      義烈の風に富めるを慕い、殊に清正の恩遇厚きに感激し、其の凱旋の時随従して熊本に至り、俸禄二百石を受けて仕へ居た。

      然るに慶長16年6月24日、清正の薨去するや、最早一日片時も此世に居るべからずとて、遂に割腹するに至ったのである。

      『続撰清正記』に云う

             金宦と云う朝鮮人は、同24日に切腹せんと致すを、両人の子ども是れを見、脇指をとり、色々教訓し
 
             てとどめ、脇指をかくして丸腰にして置けるに、十四五日も過ぐる故、思ひとどまりたるものと子供も

             思ひ、油断したる時分、たがかけをよび入、古桶共の輪を懸させて見届たるが、人のなき時、たがかけ

             の(なた)を取て、腹十文字にかき切って死したりけり。是を以て見れば、高麗人も鈍柔鈍弱兵と計り

             は又申しがたき事也。


        実に死を以て恩に報ゆ、士気を興すの模範である。 

              (    ~ 略~     )


        金宦の義烈は今尚ほ熊本人士の伝ふる所であって、常に墓前に香を焚き花を供する人の絶え間なしとの事であるが、

       死後已に三百十有余年を経るも、彼れの忠魂毅魄(きはく)が世を感動しつつあるを知るに足りる。 

                                                          (大正十四年十一月稿)    」





  平成28年3月      
                          日遥上人と島原の護国寺



   島原市にある日蓮宗・長久山 護国寺の開山(初代住職)は、豊臣秀吉の朝鮮出兵時、加藤清正が日本に連れて来た日遥

  (にちよう)上人です。日遥上人の朝鮮名は余大男(ヨ・デナム)といい、慶尚南道の河東(ハドン)郡出身です。数え年13歳の

  時に普賢庵というお寺で加藤軍に捕らわれて、数ヵ月後に肥後の隈本へ送られています。そして出家して京や甲州、下総など

  で仏教の修行をし、1609年に加藤清正の父の菩提寺である熊本の本妙寺の第3代住職となりました。そして1651年に島原

  の地に法華宗(今の日蓮宗)の寺院 護国寺が創建された時、開山 (または開基とも言います。) として迎えられました。その

  8年後の1659年に79歳で亡くなっています。


  1620年、日遥上人が40歳の時に死んだと思っていた故郷の父親から思いもよらぬ手紙が上人のもとに届きました。1607年

  に第1回の朝鮮通信使が訪日した時、一行の中に河東の官員がいて、京で日遥上人と出会います。その時日遙上人が自分の

  名と父親の名を官員に告げたことから、故郷の両親が息子の無事を知ったのでした。それから13年も経ってようやく父親から

  日遙上人あての手紙が届いたのでした。その間の経緯については、父親の手紙に書かれているので、このウェブサイトの日遙

  上人のところをご覧いただけたらと思います。それにしても、この父親と息子の手紙を読むと胸にジーンと来るものがあります。

   この日遙上人は一度も朝鮮に帰ることなく、日本で亡くなり、熊本の本妙寺に葬られました。


   島原の護国寺の現在のご住職が父の跡を継いで住職になられたのは昭和49年で、20代後半の時だったそうです。初めて

  初代住職の日遙上人の故郷河東を訪問されたのは昭和55、6年頃だったそうです。以来、現在までに20回以上も河東を訪れ

  て、日遙上人の両親のお墓詣りをしたり、日遙上人の異母弟の子孫の方たちと交流を続けて来られています。
                       
   平成14年(2002年)の護国寺開山350年記念法要の際には、韓国から日遙上人の異母弟の子孫の方たちを島原に招待し、

  一緒に日遙上人の法要を行ったりして交流を行っておられます。ご住職のお話によると、河東を訪れて日遙上人の両親のお墓

  の前でお経をあげていると、立ち会っていた子孫が途中自宅に戻り、背広に着替えて来たそうです。わざわざ日本から来てく

  れ、お経まであげてくれたことに感謝したそうです。その後、何度も河東を訪問するので、初めて日遙上人が日本でどんなに

  立派な人間であったのかわかるようになった、それまでは朝鮮に一度も帰らず、忘恩の人と思っていたということを話したそう

  です。日遙上人は加藤清正親子から帰国することを許されませんでしたが、細川氏が熊本の領主となってからは帰国しようと

  と思えば帰国できたようです。それでも帰国しなかったのは立場上、帰国できない事情があったのかもしれません。


   岩永住職様は日遥上人のことを広く世間に知ってもらおうとして、日遥上人の生涯を描いた『海峡遙かに』というタイトルの漫画

  本を平成17年(2005年)に3千部印刷されました。1年で在庫がなくなり、翌年1500部を印刷するとともに、ハングル版も

  1500部印刷して韓国各地へ送られたそうです。日遥上人が亡くなって350回忌にあたる平成20年(2008年)には三版として

  3千部印刷されています。日韓の架け橋となられている岩永住職様のご熱意とご努力には本当に敬服し、頭が下がります。

   これからも日韓友好のためにご活躍されますよう期待したいと思います。




                             








 平成28年2月      

              朝鮮通信使関連資料を世界記憶遺産登録へ ~日韓民間団体が共同で推進~


   江戸時代に12回にわたり朝鮮から日本へ派遣された外交使節である「朝鮮通信使」の関連資料をユネスコの世界記憶遺産に登録しようと、

  日本の「朝鮮通信使縁地連絡協議会」と釜山市の外郭団体 「釜山文化財団」が先月29日、対馬市のホテルで共同申請書に調印しました。

  申請書の名称は 『朝鮮通信使に関する記録 17世紀~19世紀の日韓間の平和構築と文化交流の歴史』 というもので、今年の3月に申請を行い、

  来年の登録を目指すそうです。

   申請される朝鮮通信使関連資料は、外交文書や文化交流の記録など日本側の資料209点、韓国側の資料124点の合計333点です。

  どんな内容なのか知りたいので、できれば早くその333点の資料について解説した本が出版されればいいなと思います。    

   ところで、最後の朝鮮通信使が1811年(文化8年)に派遣されましたが、経費節減を理由にこの時は対馬までしか来ていません。しかし、総人数は

  減ったものの、336名も派遣されており、受け入れた対馬藩や幕府の役人たちもたいへんだったと思います。この時の日本側使者の上使に小倉藩主の

  小笠原忠固(ただかた)がなっており、金石城内のその宿館跡に記念碑が建てられています。


   
                    
                                        金石城の櫓門

          

                                
                                  「文化八(1811)年度 朝鮮通信使幕府接遇の地」



                          





                          
                                         朝鮮通信使が訪れた西山寺





                          


   
     対馬での世界記憶遺産日韓共同申請調印については、河北新報のデジタル紙面にも掲載されています。






   平成28年1月      

                  日韓善隣友好のシンボル 李王家・宗伯爵家御結婚奉祝記念碑


  対馬市厳原町の旧金石(かねいし)城内に昭和6年に建立された李王家・宗伯爵家御結婚奉祝記念碑があります。

 この記念碑の横にこの記念碑を建てた経緯を書いた石碑が建てられています。それによると、韓国語文の冒頭に、


  『朝鮮國第二十六代高宗の王女徳恵翁主は1931年5月宗武志公と結婚し、同年11月には対馬を訪問した。昔の

  対馬島主 宗家の当主が朝鮮の王女を夫人に迎え来島したので、熱烈な歓迎を受けた。この碑はお二人の成婚を

  祝賀して、対馬居住韓国人たちが建立した。』


 と記載されています。

  徳恵翁主(덕헤옹주  トッケオンジュ 1912.5.25~1989.4.21)の翁主とは王の側室が生んだ王女を言います。

 王妃が生んだ王女は公主と言います。徳恵翁主の母は梁春基と言い、1905年3月10日に徳寿宮に宮人として入り、

 1912年4月9日に福寧堂という称号を受けて貴人に冊封されています。 朝鮮王朝時代、後宮にも身分上の品階が

 あり、正一品である嬪(ひん)から従四品の淑媛まで8品階ありました。貴人は最上位から二番目の従一品です。

 貴人になって翌月の5月25日に徳恵翁主が生まれています。徳恵翁主は日本留学のため1925年3月日本の東京

 へ渡り、翌月女子学習院に入学しています。この時、まだ満12歳でした。

  一方、宗武志(そう・たけゆき 1908-1985)の父は黒田和志といい、対馬藩最後の藩主、宗義達(そう・よしあきら。

 明治維新後に宗重正と改名)の実弟です。黒田武志は1918年に対馬に渡って厳原尋常高等小学校に転校し、

 1920年には対馬中学校に入学しました。1923年3月に宗重正の子が早世したため、同年10月に15歳で宗家の

 家督を継ぎ、第37代の宗家当主となりました。1925年3月に対馬中学校を卒業すると、東京に戻り、学習院高等科、

 東京帝国大学文学部英文科に入学しています。

  1931年3月、宗武志が東京帝国大学、李徳恵が女子学習院を卒業すると、同年5月8日に東京で二人の結婚式が

 挙行されました。この時、宗武志は満23歳、李徳恵は満18歳でした。この年の10月30日~11月6日、新婚間もない

 二人は対馬を訪問しました。対馬の女学校で李徳恵は記念樹を植えています。旧藩主の後裔と朝鮮王女の来島は多く

 の対馬島民を感激させたことでしょう。 同年中に対馬在住の朝鮮人たちが厳原八幡宮の向かいの西日本銀行があった

 所に、李王家・宗伯爵家御結婚奉祝記念碑を建立しました。題字は当時の県の対馬支庁長 赤木真臣が書いています。

  1955年6月、二人が離婚すると、この石碑は撤去されてしまい、万松院の宗家文庫横に長い間横たえられていまし

 た。その後対馬と韓国で日韓善隣友好の機運が高まり、2001年(平成13年)に対馬と韓国の双方に「記念碑復元

 実行委員会」が発足し、旧金石城内の旧庭園近くに「李王家・宗伯爵家御結婚奉祝記念碑」が復元されました。

  日韓友好のシンボルとして末永く保存していただくととともに、多くの日本人、韓国人にぜひ訪問してほしいと思いま

 す。
                  


                   



               



          



   参考文献:本馬恭子著 『徳恵姫』

          ウィキペディア 『宗武志』
  
          『旅する長崎学』 「第12回城下町”厳原”を巡る」→「金石城跡」

          大紀元時報

          나무위키 덕헤옹주   (ナムウィキ 徳恵翁主)

          위키백과 덕헤옹주  (ウィキ百科 徳恵翁主)




  平成27年12月      

                        対馬藩の外交僧 規伯玄方について


  私は今年の10月、約10年ぶりに韓国を旅行しました。その際、知り合いの韓国人から南部鉄器を買って来てくれと頼まれ、南部鉄瓶鉄玉子

 2個ずつ買って行きました。南部鉄瓶一つは長崎で購入できたんですが、その他はインターネットで購入しました。

  実は今、日本を旅行する韓国人や中国人の間で南部鉄瓶がたいへんな人気で、需要に生産が追いついていない状況になっいるようです。それほど

 人気のある南部鉄瓶ですが、この南部 (盛岡) 地方で創り出されたきっかけは、規伯玄方 (きはく げんぽう) という 江戸時代前期に対馬の対朝鮮外交僧

 だった人が盛岡に配流されたことと関係があります。そこで、今回は、規伯玄方について少し調べてみました。

  規伯玄方は天正16 年(1588)筑前国宗像郡で生まれました。宗像郡は現在、福岡県の宗像市と福津市になっています。玄方が宗像郡のどこで生まれ

 たのか文献を探しても見つけることができませんでした。玄方は宗像郡西郷出身の景轍玄蘇 (けいてつ げんそ) という禅宗 (臨済宗) の僧が対馬藩で

 対朝鮮外交を担当して、めざましい活躍をしているのを知り、この玄蘇を頼って対馬に渡り、玄蘇を師として彼に仕えるようになったようです。近世日朝関係

 史がご専門の田代和生元慶応大学教授はその著書の中で、「おそらくこの師僧がいなければ、玄方は対馬に渡ることもなく、またその後の波瀾の生涯も

 送らずにすんだであろう」 と述べておられます。 ( 『書き換えられた国書』 10項 )

  玄蘇は博多の聖福寺の住職を務めていましたが、天正8年(1880)に元対馬島主の宗義調 (そう よししげ) の要請を受けて対馬に渡り、西山寺に住んで

 朝鮮との外交を担当しました。文禄慶長の役では小西行長に同行して朝鮮に渡り、和議を結ぶためたひたび朝鮮側と交渉しています。慶長16年(1611)に

 玄蘇は亡くなるのですが、その年に以酩庵 (いていあん) という寺院を府中の天道茂に作っています。玄蘇の没後、玄方が玄蘇の後を継いで以酩庵で

 対朝鮮外交を担当するようになります。1621年、23年、29年に「日本国王使」が朝鮮に派遣されるのですが、3回とも玄方が正使になっています。

  寛永10年(1633)、対馬藩家老の柳川調興が対馬藩がこれまで対朝鮮外交において国書を改ざんしてきた事実を幕府に訴え出ました。これが柳川事件と

 呼ばれるものです。結果は、 寛永12年(1635)に判決が下され、原告である柳川調興が国書改ざんの主謀者とされて津軽 (現在の弘前市) に流罪となり、

 藩主の宗義成は無罪となりました。但し、藩主側の玄方は外交文書の起草にあずかり、国書改ざんの事実を知っていながら幕府に何ら報告しなかったという

 理由で、盛岡へ流罪となり、南部家のお預かりとなりました。玄方の流罪判決を知った藩主 宗義成は、「御裁決は宗家の完全な勝利ではなく、四分六分の

 勝ちだ」 と側近に語ったそうです。( 『書き換えられた国書』 154項 ) 現代なら人口3万2千の対馬市から人口30万の盛岡市へ行くとなればご栄転になるので

 しょうが、当時としては流配の地として盛岡が選ばれています。

  玄方は1635年から1658年まで24年間盛岡に滞在しますが、藩主 南部重政に茶の湯や漢文を教えたり、寺院などに庭園を作ったり、それまで濁酒しか

 なかった盛岡に初めて清酒の醸造法を伝えた言われています。また京や西国、大陸の文化も紹介しました。地場工芸の南部鉄器や岩手県の銘菓である

 黄精飴(おうせいあめ) の創作にも影響を与えたとされています。

  玄方は万治元年(1658)に赦免された後、京の南禅寺に移りました。そして寛文元年(1661)、大阪の九昌院という南禅寺の末寺にて74歳で亡くなりました。

 盛岡で人々に良いことを教えた玄方は盛岡では方長老と言って尊敬されており、対馬より盛岡の方が知名度が高いと思われます。
   
                  
 【補足】

   盛岡商工会議所が平成21年12月6日に開催した平成21年度第1回 『盛岡もの識り検定試験』1級の問題に規伯玄方に関連した問題が次のとおり

  出されています。 

    
       設問18 国書改ざんの罪で南部藩に配流され、様々な先進文化を盛岡にもたらした高僧・規伯玄方の功績を判りやすく伝えるため、

            「方長老さま」という子供向けの本を作った人の名前を 漢字で書きなさい。




  平成27年11月      

                          忠烈公 朴堤上紀念館を訪問


   10月13日に韓国の蔚山 (ウルサン) 広域市の蔚州郡にある 忠烈公 朴堤上紀念館を初めて訪問しました。

  朴堤上 (パク・チェサン) は新羅の王子が日本に長い間人質になっていましたが、新羅王の命を受けて新羅に返すことに成功し、

  自分は捕らえられて対馬で焼き殺された新羅の忠臣とされている人物です。このウェブサイトのトップに紹介していますので、ご覧

 いただければと思います。 朴堤上紀念館発行のパンフレットによると、朴堤上は新羅の始祖 朴赫居世 (パク・ヒョッコセ) の後裔と

 されています。朴堤上紀念館の横には、朴堤上とその夫人を祭る祠堂が建てられており、朴堤上遺蹟地として蔚山広域市の記念物

 第1号に指定されています。

   観雪堂 (朴堤上の号が観雪) という建物には日本へ向けて出航した時の場所に建立された記念碑の写真が掲示されていました。

 朴堤上紀念館は、朴堤上展示館と蔚州文化館の2つの展示室に分かれていました。朴堤上展示館には4~5世紀の歴史年表、

 朴堤上と夫人の像、船で日本へ向かう朴堤上の蝋人形の他、日本の王から自分の臣下になれと言われても、拒絶する場面が音声で

 流れて来ます。滑稽だったのは日本の王の人形の頭がちょんまげになっていることでした。まだ、5世紀の頃にはちょんまげはなかった

 はずですので、違和感を覚えました。それにたいへん残念だったのは、朴堤上が焼き殺された場所の紹介がどこにも記載されていなか

 ったことでした。朴堤上を紹介する紀念館なのに、どこで死んだのか全く紹介されていないのはとても不思議でした。

  それで、入場券販売所の職員に不満を述べたら、対馬で死んだことはガイドが口頭で説明している、対馬で死んだことを展示室で紹介

 することについては、上層部にその旨建議しますということでした。 対馬観光物産協会のホームページにも朴堤上について全く紹介されて

 いないことも残念に思います。今後、対馬と蔚州郡との交流を期待したいと思います。



          
               朴堤上と夫人を祭る祠堂



         
                 観雪堂                            対馬にある朴堤上記念碑の写真


        
              忠烈公 朴堤上紀念館


        
            418年に朴堤上が新羅の王子を救出                   日本の王から臣下になれと言われる場面


        
                                    日本へ航海中の朴堤上


             
                    朴堤上と夫人の像                         



 平成27年10月      

                          金玉均暗殺の現場 東和洋行


  金玉均 (1851-1894) は朝鮮王朝末期、日本の明治維新を見習って朝鮮を近代国家にしようとして開化党を組織し、 清国を宗主国として清国の保護の

 もとに旧体制を維持しようとした守旧派(事大党)と鋭く対立した。そして1884年12月、クーデターを起こして守旧派政権の要人を殺害し、新政府を樹立した。

 ところがこのクーデーターは文字どおり3日天下で終わってしまった。清国軍から攻撃を受けて政権が崩壊してしまったのである。金玉均は仁川港から日本の

 千歳丸に乗って一週間かかって命からがら日本の長崎へ亡命して来たのである。以後、東京や横浜、小笠原諸島、北海道など日本で10年間の亡命生活を

 送っている。その間、日本国内の新聞には金玉均の動向がたびたび報道されている。

  そして1894年3月、清国の李鴻章と会談するため、西京丸で神戸港を出航し、途中長崎に寄港して大村町の福島屋支店で1泊した後、上海に上陸した。

 宿泊先は日本人が経営するホテルの東和洋行である。そして、翌日の午後、金玉均は自分の部屋で日本から同行していた朝鮮政府の刺客 洪鐘宇から

 3発の拳銃弾を浴びて暗殺されている。

  次の写真はかつての東和洋行である。またその下の写真は大正12年 (1923) に発行された『長崎と上海』という地図に掲載された東和洋行の広告写真で

 ある。広告文に金玉均のことが次のとおり記載されている。


  「當館は明治二十年の創業にして朝鮮の人傑金玉均事件を以て有名なり。・・・・・」

 
  金玉均が宿泊したこの東和洋行は、当時の上海で代表的なホテルだったそうである。 


                                    
                                           東和洋行



                    

                            引用写真 : 陳祖恩著 「上海の日本文化地図」




  平成27年9月      

                  対馬に多い朝鮮半島の仏像・経典について

 
  今年7月に対馬に行った時、約30年ぶりに厳原町の大西書店を訪れた。そこで購入した『盗まれた仏像―対馬と渡来仏の歴史的背景―』

 (永留久恵著)という本を読んでみると、とても興味深いことが記述されてあった。ここにその一部を紹介させていただく。


 1.対馬島主や豪族たちは貿易で朝鮮(高麗)から仏像・経典を入手した

  朝鮮王朝の文宗元年(1451年)に完成した 『高麗史』 という史書によると、宣宗4年秋10月に、 「日本国対馬島元平ら40人、来りて真珠、

 水銀、宝刀、牛馬を献ず」とあり、対馬からの貿易品が記載されている。真珠が筆頭に記載されているが、対馬では現在でも真珠が特産品の

 一つになっている。永留氏は対馬島内各地の寺院や仏堂に新羅仏や高麗仏、あるいは大蔵経があるのは、その代価としてこれら真珠、水銀、

 牛馬などを提供したものと考えている。また、『朝鮮王朝実録』 によると、世宗7年(1425年)夏4月に、

 
    「日本国王及諸島主、求仏経板者頗多。」(日本国王(足利将軍のこと)や、諸島主(対馬島主など)のなかには仏経板を求める者が

     すこぶる多い)


 ということが記載されているそうである。日本の将軍や地方の豪族が朝鮮から求めるものは仏像・仏具・経典などだった。対馬から朝鮮側に仏像や

 般若経を求請した例が 『朝鮮王朝実録』 に数十回見えるそうである。 

 
 2. 倭寇の中には朝鮮半島の人間もいた

   『朝鮮王朝実録』 の世宗27年(1445年)夏4月の条に次のとおり記載されている。


    「臣聞。前朝之季、倭寇興行、民不聊生。然其間、倭人不過一二、而本国之民、仮著倭服、成党作乱、是亦鑑也。」


  意訳すると、前朝(李王朝から見ると高麗)の末期、倭寇が激高し、民はいささかも安心しておれなかった、しかし、その賊の中に、実の倭人は

 一人か二人に過ぎず、その多くは自国(高麗)の民が、仮に倭人の服装をして、乱行を働いていたもので、これもまた鑑(戒め)となる話である、

 ということだそうである。

  朝鮮半島の人々が日本人のふりをして悪事を働くのはこれに限ったことではないだろう。最近では韓国で10人のブローカーが66人もの売春

 婦を募集した後、マカオに連れて行き、一流ホテルなどで売春させたそうであるが、一部の売春婦は日本女性を好む中国人を相手にするため、

 着物を着て日本語を話すなど、日本人を演じていたそうである。韓国のネットユーザーからはさまざまなコメントが寄せられ、中には、


    「日本が従軍慰安婦を認めない訳がわかる。」

    「この売春婦たちは、30年後には日本が強制的に着物を着せて、売春させられたと抗議しまくるのだろうな」


 というものもある。(「Record China」 8月24日付) 

 
 3.豊玉町の観音寺の観世音菩薩坐像

  現在まだ韓国から返還されていない観音寺の観世音菩薩坐像は、「倭寇に盗られたもの」と韓国の人たちは言って返還を拒んでいるけれども、

 寺や宮から仏像や経典を盗み出すためには、盗賊集団の組織の質が一番問題になり、仏像などの場合、寺院から盗み出す行為は寺院の境内

 から院内の事情を知っている自国民が最適である。運び出した物を日本人(商人)が買い取り、故国に持ち帰って売買した可能性は高い、と永留

 氏は述べている。また、高麗が滅んだ後、朝鮮王朝は荒廃した高麗に替って国を立て直す際に、堕落した仏教を嫌って仏教排斥の政策を執った

 ので、これに廃仏毀釈が連動して仏教関連の貴重品が商品として日本に運ばれたと考えられる。対馬に新羅仏や高麗仏が多いのは購入されて

 きたからであり、その最も盛んな時期は廃仏毀釈の時だと永留氏は述べている。そして「倭寇に盗られたものだから、これを盗り返す」といった論理

 がいかに未熟な思い込みであるかを歴史的背景から知ってほしいと述べて文章を終えている。

  たいへん傾聴に値する文章であると思う。永留氏は今年4月に94歳で惜しくも亡くなったが、これまでの対馬と韓国との友好親善に取り組まれた

 功績に深く敬意を表したい。




 平成27年8月      
                                 対馬市役所への要望事項

 
  最近、久しぶりで対馬に行く機会があったが、名所旧跡の場所に市が設置した説明板が少ないのが気になった。観光客が対馬の歴史を理解

 するためには説明板は必要不可欠なはずだが、なぜ設置しないのか不思議に思う。私がぜひ設置してほしいと思うのは次の4ヶ所で、全て韓国

 関係の史跡である。

  一つ目は、1668年7月、朝鮮に15年近く抑留されていたオランダ人7人を長崎の出島オランダ商館へ引き渡すため、いったん対馬藩によって

 対馬へ連れて行かれた時の彼らの宿泊場所となった「松水軒」についてである。ここは「松水寺」という寺の看板が設置されているが、中に入った

 ところ、草ぼうぼうで廃寺になっているように見受けられた。オランダ人7人はここに40日余り滞在しており、オランダに関係ある場所としては対馬

 ではここだけではなかろうか。韓国ではヘンドリック・ハメルらの一行が朝鮮に抑留されていたことはよく知られているようであるが、そのうちの7名

 が朝鮮から連れて来られて滞在した場所として、ここを韓国人が訪れる人はあまりいないだろう。看板もなければ、対馬の観光地を紹介する市の

 ウェブサイトにも掲載されていないからである。

  二つ目は松水軒の手前にある修善寺である。ここは言うまでもなく、1906年6月に抗日武装蜂起するも捕らえられて対馬に流され、翌年1月1日

 未明に亡くなった儒学者の崔益鉉(チェ イッキョン) の遺体が4日夜に釜山へ向けて出港するまでの間、遺体を安置していた寺である。ここは韓国

 人観光客や日本人観光客がよく訪れる場所であるが、寺の入口付近に崔益鉉についての説明板が設置されていないのは残念であり、私としては

 せっかく対馬を訪れる韓国人に対して失礼ではないかという気さえしている。

  三つ目はその崔益鉉が対馬に流されて監禁された最初の場所が厳原町の今屋敷にあった士族授産所である。ここは厳原八幡宮のすぐ左側に

 位置してあり、現在はとりごえ歯科医院の敷地となっている。1906年8月28日崔益鉉が対馬に到着して、この士族授産所に収容され、同年12月

 1日に対馬警備隊内に新築された収容施設に移されるまで、この士族授産所で監禁生活を送っている。この士族授産所と厳原八幡宮の間に小道

 があり、有明山への登山道へつながっている。実はこの有明山は韓国人観光客の対馬観光のコースになっていて、韓国人は崔益鉉がかつて収容

 された施設のすぐ目の前を通りながら、それを知らずに通り過ぎているのである。このとりごえ歯科医院の敷地の前に説明板があれば、ここも新しい

 観光スポットになるはずである。

  四つ目は厳原町国分の西山寺である。ここは朝鮮通信使の一行が宿泊した場所であり、また1732年から1868年(明治元年)まで対朝鮮外交

 文書を作成したり、朝鮮からの文書を検閲する機関でもある以酊庵 (いていあん) が置かれていたところでもある。以酊庵は当初外交僧玄蘇が天道

 茂の地に建てた寺院であるが、その後日吉に移転し、さらに1732年に火事で本堂が消失したため、西山寺に移転したものである。そして西山寺は

 中村の瑞泉院に移り、明治元年に新政府が対馬藩から対朝鮮外交権を剥奪したことにより不用になった以酊庵が廃寺になったため、維新後に西山

 寺が元の地に復帰している。柳川事件で対馬藩による国書改ざんの事実が露見したため、幕府が京都五山の僧を外交僧として輪番制で以酊庵に

 赴任させていた。西山寺に以酊庵が移転した後、朝鮮通信使は1748年、1764年、1811年の3回日本を訪れており、最後の通信使となった1811

 年は江戸へは行かず、対馬だけを訪れている。日朝友好の象徴である朝鮮通信使の応接の場所となったこともあり、西山寺の門前にもぜひ説明板

 を設置すべきであろう。

  ところで話は変わるが、私は韓国人も宿泊する厳原のホテルに宿泊した時、ホテル内に韓国人が盗んで行った観音寺の高麗仏や海神神社の新羅

 仏についての掲示物が何もないのに後から気が付いた。対馬の人間がどんなに腹を立てているか、早く対馬に戻って来ることを切に望んでいるといっ

 た内容のポスターやチラシを韓国語で作成して、韓国人に訴えるべきではないかと思う。そうでないと韓国人にはわからない。自国民がどんなに恥ず

 かしいことをしているか、韓国人の同情を買うことによって、返還への世論を醸成していくことが必要ではなかろうか。幸い、海神神社の新羅仏は無事

 に返還されたが、観音寺の高麗仏は韓国側が所有権を主張しているので(ほんとに愚かな人たちである。)、ちょっとやそっとでは返還されそうにもな

 い。地元がおおいに怒っていることを示さないと、韓国人から対馬の人たちは黙っているから所有権が韓国側にあることを認めたと思うのではなかろ

 うか。これは行政がもっと動かねばならないのではなかろうか? 対馬市役所の奮起を期待したい。もちろん、観音寺や檀家の人たちももっと動かない

 といけないだろう。行政に頼りすぎてはいないだろうか。『天は自ら助くる者を助く』 ということわざがあるように、積極的に活動しないと物事は進展しな

 いと思う。それに、立ち上がれ、対馬の有志諸君! (元気を出して何とかして欲しい・・・。昔、島おこし運動をしていたように・・・)



         
       崔益鉉がかつて監禁されていた士族授産所のあった場所 (現 とりごえ歯科医院附近)

              

               厳原八幡宮に接する小道 (青い看板がとりごえ歯科医院)





  平成27年7月      
                      ヘンドリック・ハメルの朝鮮脱出再現

 
  1666年9月、朝鮮に13年間抑留されていたヘンドリック・ハメルらオランダ人8名が船を漕いで朝鮮を脱出し、上五島と長崎に到着してから

 来年はちょうど350周年になります。おそらく来年は姉妹提携を結んでいる韓国・全羅南道の康津郡とオランダのホムケム市とで何か記念行事が

 行われるものと思われます。私は日本の新上五島町や長崎市も参加して、韓国、オランダの自治体と協力して何かイベントを実施したらとても

 面白いと考えています。

  一番実施したいのは、350年前の出来事の再現です。長崎県をはじめ九州各県に在住するオランダ人に呼びかけ、韓国・全羅南道の麗水

 (ヨス)港を出発し、2~3日間船を漕いで新上五島町青方郷奈摩湾へ到着するということをやってもらいたいと思っています。船は当然、韓国で

 作られた船です。航海には危険を伴いますので、日本から船を同伴させて何かあればすぐ救助できるようにさせておく必要があります。医師・看護

 師も乗り込んでもらう必要があります。ただ船を漕いで東シナ海を横断するだけでなく、テレビ局に依頼して、ドキュメンタリー番組を制作してもらい、

 その模様を放送してもらわなければなりません。NHKや民放会社のプロデューサーに働きかけて、面白い番組に仕立て上げてもらえば、どんなに

 素晴らしいことでしょう。例えば、来年、NHKの歴史番組である 『ヒストリア』ででも取り上げてもらえればいいなと思います。               

  韓国・全羅南道康津郡のホームページに 『ハメル情報館』 というものが掲載されていますが、それによると、2003年はハメル一行が済州島に

 漂着して350周年であるのを記念して、韓国のオランダ大使館は2003年を「ハメルの年」と定め、オランダに関連する各種の展示会や文化行事・

 公演を始めとして、南済州郡のハメル展示館の建立、康津のオランダ村建立計画、そして 『ハメル漂流記』 の映画制作などを計画したそうですが、

  『ハメル漂流記』 の映画が実際に制作されたかどうかわかりません。制作されていたらぜひ見たいものです。日本ででも映画とまではいきませんが、

 NHKの『ヒストリア』ででも再現されたら本当に面白いと思います。ぜひ、長崎県の観光振興と韓国・オランダとの友好親善のため、県、長崎市、

 新上五島町の担当部局で記念行事を推進してもらいたいと思います。


 

  平成27年6月      
      
                         ヘンドリック・ハメルと『朝鮮幽囚記』 (3)

 
  1666年9月14日、朝鮮に13年間抑留されていたヘンドリック・ハメルらオランダ人8名が朝鮮を脱出し上五島を経由して長崎に到着してから、

 1667年10月25日、東インド会社のあるバタビアへ向って長崎を出航するまで1年以上も出島に滞在させられたことと、ハメルを除く7名は同年

 12月28日にオランダへ向けてバタビアを出航したのに、ハメルだけはそのままバタビアに残ったことには理由がある。今回はこのことについて触

 れてみたい。

  江戸幕府は禁教令やバテレン追放令、宗門改、キリシタンの処刑といった徹底した禁教政策を行ったが、その一環として、日本と交易のある朝鮮

 にもキリスト教を「耶蘇邪教」として、その取り締まりについて協力を要請していた。オランダ人8名を尋問した長崎奉行からの報告を聞いた幕府は、

 商人と自称する彼らの陳述に偽りがないか、もしかしたらキリスト教徒が紛れ込んでいるのではないかと疑惑を抱き、彼らが久しく滞在していたので

 朝鮮側はそうした事情を知っているだろうから、対馬藩に命じて朝鮮側に照会をさせた。そこで対馬藩は井手弥六左衛門に朝鮮にキリスト教徒が

 潜伏していないかどうかを調査するために近々使者を派遣すると伝えさせたのである。井手からオランダ人が朝鮮から逃亡したことを聞いた朝鮮の

 朝廷はその事実をそれまで全く知らされていなかったので大いに驚き、報告しなかった地方官吏を解任した。

  翌1667年1月頃、対馬藩から正式な使者、すわわち正官田島左近右衛門、都船主という役職の岩井治郎右衛門を釜山に派遣して、朝鮮にキリ

 スト教徒がいるかどうかを調査させた。朝鮮側は同年4月、蛮船が漂着したけれどもどこの国の人間かわからず、船は既に破砕して帰ることもでき

 ないため、朝廷はこれを憐れんで留め置かせていたものであり、彼らはキリスト教徒とは関係ない旨回答した。対馬藩はこの回答を幕府に伝えると、

 幕府はハメルら8名がキリスト教徒ではないことがわかったので、やっと帰国するのを認めたのである。それとともに、朝鮮に残っている8名のオラン

 ダ人をも日本へ引き渡すよう朝鮮と交渉することを対馬藩に命じた。これは出島のオランダ商館長が江戸へ行って幕府に朝鮮残留者の救出を要望

 したことも大きな要因である。

  こうして1668年4月対馬藩の使者久和太郎左衛門が釜山に渡って交渉した結果、7月になってオランダ人7人が対馬側へ引き渡されて対馬へ

 連れて行かれた。府中(現在の厳原町の中心部)に到着するとすぐに、対馬藩の切支丹奉行によって「改め」が行われた。朝鮮残留者8名のうちの

 1人が途中で死亡したということについて事実かどうか尋問を行ったわけである。この時、7人は口をそろえて1人は死んだと申し立てている。

 ところがこれは嘘であり、死亡したというそのオランダ人は実は朝鮮の女と結婚しているため朝鮮に残ることを望んだのであった。7人は対馬では

 「松水軒(しょうすいけん)」 というところに宿泊させられた。彼らは手厚く遇され、桟原の館にも招待され歓待を受けている。

  7人は対馬に40日余り滞在した後、同年9月、使者深見四郎兵衛に伴われて長崎へ連れて行かれ、長崎奉行に引渡された。その後、オランダ

 商館に引渡されて、ただちに帰国の許可を与えられた。こうして長崎を出発してバタヴィアへ到着した7名はハメルと同じ船でオランダへ帰国したの

 である。ハメルは朝鮮に残留していた仲間と一緒にオランダへ帰国するために、ずっと彼らの到着を待っていたものと思われる。彼は東インド会社

 の書記として勤務しており、一般の船員と違って責任も重かったと思われる。『出島オランダ商館日誌』の1666年9月14日の記事には朝鮮から

 脱出して来た8名についての記述中、ハメル以外の7人の月給が5ギルダーから14ギルダーであるのに対し、ハメルは倍以上の30ギルダーと記載

 されていることでわかる。生存者が全員帰国できるまで、バタヴィアで待っていたものと思われる。


 参考文献
  
    『朝鮮幽囚記』 1969年 平凡社(東洋文庫)

    『対馬の近世』 長郷嘉壽著  2012年

    『ハメル情報館』  康津郡庁
   

                   


                   
                    オランダ人7名が宿泊した松水軒のあった場所




  平成27年5月    

                     ヘンドリック・ハメルと『朝鮮幽囚記』 (2)

 
  ヘンドリック・ハメルら8人が13年間抑留されていた朝鮮から小船を漕いで脱出し、現在の長崎県南松浦郡新上五島町青方郷の奈摩湾に

 到着したのは1666年9月8日である。この日の12時半頃、奈摩湾に投錨し炊事をして簡単な食事をしたが、どこの島かはまったくわからな

 かったそうである。彼らは長崎へ向っていたが、嵐のためやむを得ずこの湾に寄港したのだった。その日の夕方、福江藩の武士6人が船に

 乗ってやって来たので、錨をあげて沖合に逃走しようとしたが、すぐに追跡されて捕えられている。そして福江藩の武士たちは2人を上陸させ

 て尋問したのだが、お互いに理解することはできなかった。

  夜に入って、奈摩湾に大きな船がやって来て、上陸した2人を除くハメルたち6人はこの船に乗せられた。ハメルによると、この時、この船に

 福江藩で3番目に地位が高い人物が乗っており、その人物はハメルたちを見てオランダ人であると他の日本人に言明している。おそらく長崎

 で何度かオランダ人を見たことがあったのだろう。この福江藩で3番目に地位が高い人物が誰なのか五島の歴史に詳しい方はご存知だと思う

 が、残念ながら私にはわからない。この人物はハメルたちを長崎まで連れて行ってくれている。ちなみに、当時の福江藩の藩主は第4代藩主

 の五島盛勝 (1645-1678)であった。五島盛勝は長崎奉行に書状を送って8人のヨーロッパ人を長崎に送り届けるという報告を寄こしており、

 そのことは出島のオランダ商館側にも噂として流れていた。

  ハメルたちは、9月9日~11日の3日間奈摩湾に碇泊している間、住民や福江藩から副食物や飲料水、薪など必要品を支給されたり、雨が

 激しく降ったのでハメルたちの乗っている船の中が濡れないように、藁むしろで屋根を張ってくれている。ハメルは次のように報告記に書いて

 いる。

 
    「五島の住民や大官からはあらゆる好意が示されましたが、彼等はそれに対して私たちに何も要求しませんでした。私たちは何も

    持ち合わせがありませんでしたので、若干の米を贈ろうとしましたが、彼等は受け取ることを辞退しました。」


  そうして長崎へ出発する準備が整ったので9月12日正午に錨をあげ、夕方五島列島の他の島に移動してそこで碇泊した後、13日にはいよ

 いよ4隻の船団を組んで長崎へ出発した。真夜中に長崎に到着して碇泊し、翌14日になって8人全員が無事長崎に上陸している。ハメルによ

 ると、福江藩で3番目の地位の人物は将軍のいる江戸へ送る数通の書状と品物を携えていたそうである。

  ハメルらは長崎奉行所で長崎奉行から実に多数の質問を受けている。『朝鮮幽囚記』では53項目の質問と回答が記録されている。そのうち

 の1つを紹介する。

 
    「― 五島の人々は諸君をどのように取り扱い、また待遇したか。また彼等はその代償として何かを要求したり、手に入れたりしたことは

     なかったか ―

        彼等は私たちの仲間の2人を陸上に連行しましたが、私たちにはよいことばかりをし、その代償として何も要求しませんでした。

        手に入れたこともありません。」


  ハメルたちは見知らぬ地にやって来て、住民たちから親切にされてとても感謝したことだろう。また、長崎奉行から諸君はどのようにして航路

 を知ったのかという質問に対して、長崎に来たことのあるコレー人(高麗人のこと)から教えられたと答えている。朝鮮にいる時、朝鮮人に脱出

 を打ち明けて訊いたのか、それとも脱出を気づかれないよう何気なく訊いたのかわからない。長崎に来たことのあるコレー人とはいかなる職種

 にあった人物だったのだろうか。興味がひかれるところである。

  なお、ハメルたちが抑留された全羅兵営城のある韓国全羅南道の康津郡とハメルの出身地であるオランダのホムケム市は、1998年10月

 3日、様々な分野での交流協力を目的として姉妹縁組を締結している。

 
   参考文献 

     『朝鮮幽囚記』 1969年 平凡社(東洋文庫)

     『ハメル情報館』  康津郡庁



 

  平成27年4月        

                     ヘンドリック・ハメルと『朝鮮幽囚記』 (1)

 
   ヘンドリック・ハメル(1630-1692)は江戸時代前期、長崎の出島で朝鮮に抑留された記録を書いたオランダ生まれの船員である。

  1653年6月、ヘンドリック・ハメルら64名はデ・スペルウェール号に乗ってオランダ東インド会社(略称 VOC ) のあるバタビア(現在の

  インドネシアの首都ジャカルタ)を出航し、台湾へ東インド会社の新しい台湾長官や積荷を運んだ。そして今度はさらに日本へ向かうよう

  命令を受け、台湾で鹿皮、山羊皮、鮫皮、砂糖、木香(モッコウ。漢方薬として使用)、ミョウバンを積み込んだ後、7月末、オランダ商館の

  ある長崎の出島へと向かった。ところが、8月11日から15日まで5日間激しい暴風に遭って済州島に流されて船が座礁し、難破してしま

  った。島に上陸して助かったのは36人だった。彼らは朝鮮の兵士たちにより済州島の総督のいる役所に連れて行かれ、総督から訊問を

  受けた後、別の建物に収容された。その建物は朝鮮の第15代王、光海君が都を追放されて済州島に流されて死ぬまで一生を過ごした

  建物だった。翌年6月下旬、都の漢城〈現在のソウル〉へ連れて行かれ、第17代国王の孝宗から訊問を受けた時、「私たちを日本に送り、

  同胞に再会して故国に帰ることができるようにしてほしい」と懇願したが、王は「外国人を国土から送り出すことはこの国の習慣にはない

  ことで、外国人はここで一生を送らねばならない」と言って拒絶している。

   ハメルらは軍隊に入れられ兵士として勤務させられた。そして1656年3月ソウルから全羅道の康津の兵営に移された。その後1663年

  3月に同じく全羅道の麗水に移されている。1666年7月朝鮮国を脱出するために船を購入し、脱出の準備を整えていたが、9月4日ついに

  日が暮れてから脱出を敢行した。この時、済州島に漂着した36名のうち、生存者は16名しかいなかったが、そのうち8名が朝鮮脱出を試み

  たのである。脱出は成功し、9月8日に現在の長崎県南松浦郡新上五島町の奈摩湾に到着した。この時、福江藩の役人からどこに行こうと

  しているのかと訊かれた時、準備していたオランダの国旗を振って「オランダ・長崎」と叫んでいる。彼らは済州島に漂着して以来実に13年

  間も朝鮮に抑留されていたのであった。

   9月13日彼らは福江藩によって長崎へ連れて行かれ、翌14日長崎に上陸した。長崎奉行所で長崎奉行か訊問された後、出島のオランダ

  商館へ連れて行かれ、久しぶりに故国の人たちと嬉しい再会を果たしたのだった。ハメルら8人は長崎奉行から出島に1年間滞在させられた

  後、翌1667年10月25日、長崎湾を出発し、11月20日、バタビアに着いた。ハメルは 「私たちは神に対し、恩寵によって異教徒の手から

  逃れ、14年もの間を悲しみと苦しみの中に過ごした後で、今や多数の同胞の許に帰って来たことに対して心から感謝を捧げました。」 と書き

  記している。

   ハメルらはバタビアの総督にこれまでに自分たちに起こったことを報告し、日誌を提出した。そして、ハメルを除く7人は12月28日にバタビ

  アを出航し、翌1668年7月20日、オランダのアムステルダムに到着し、久しぶりに故国の土を踏んだ。ハメル1人は残務処理のためバタビ

  アにそのまま残っていたようである。ハメルがいつオランダに帰国したかは不明だが、ハメルが1670年8月29日にオランダの東インド会社

  へ朝鮮滞在中の給与の支払いを要求して認められていることから、それまでには帰ったことはわかっている。

   長崎の出島に滞在中、バタビアの東インド会社の総督と評議員あて報告書を作成して送っている。これが本国オランダに送られて出版され

  るとともに、フランスやドイツ、イギリスでも翻訳・出版され、ヨーロッパ各国に伝えられた。このハメルの報告書は当時ほとんど知られていなか

  った朝鮮の諸事情を伝えるものとして、たいへん貴重な資料だった。この報告書には、朝鮮で抑留された経緯だけではなく、朝鮮国の地理や

  国王の権威、軍隊の様子、官吏、町村の収入、刑罰、宗教、国民の家屋、結婚、家庭生活、国民性、外国貿易・国内商業、動物、言語・文字

  など幅広い分野にわたって記述されており、とても興味深い。日本では、生田滋氏が翻訳し、『朝鮮幽囚記』として1969年(昭和44年)に平凡

  社から出版されている。

   なお、ハメルが朝鮮から脱出した時、まだ朝鮮に残っていた8人について、江戸幕府が対馬藩に命じて朝鮮と日本への送還を交渉させた結果、

  途中で病死した1人を除く7人全員が1668年6月に対馬藩に引き渡され、8月には出島のオランダ商館に引き渡されている。彼らは11月30日

  にバタビアに到着しており、翌1669年には本国へ帰国したようである。現在、韓国の全羅南道康津郡兵営面にハメル記念館が開設されている。

   また、康津郡庁はホームページに 『ハメル情報館』 を掲載しているが、日本語でも書かれてあるので、非常にわかりやすい。ぜひ一読をお勧め

  したい。 (http://www.hamel.go.kr/jp/hamel03_01.html


   参考文献 

      『朝鮮幽囚記』 1969年 平凡社(東洋文庫)

      『ハメル情報館』  康津郡庁

      ウィキペディア 『ヘンドリック・ハメル』



  平成27年3月             

                      長崎刑務所で病死した白貞基

 
  3月というとすぐ思い浮かべるのが、韓国で1919年に起こった3.1独立運動と1933年3月17日に上海で起きた有吉明公使暗殺未遂事件だ。

 当時、上海の六三亭という日本料亭で有吉公使が出席した宴会があったのだが、有吉公使の日頃の活動に不快感を感じていた韓国人アナーキ

 ストが、宴会が終わって六三亭から出て来るところを爆弾を投げつけて暗殺しようと図った事件だ。六三亭という料亭は長崎市銀屋町出身の白石

 六三郎が経営していたもので、当時の建物はまだ現在も住居として使用されているようである。
                                 ペク・ジョンギ
  この有吉明公使暗殺未遂事件の犯人の一人が白貞基だ。白貞基は1921年、日本へ来て山梨県や東京で労働に従事するかたわら、社会主義

 研究に没頭、特に「世界大思想全集」を読みふけったという。日本語をどこまで理解していたかわからないが、かなりの勉強家だったと思われる。

 東京でアナーキストらと付き合い、自分もアナーキストになっていき、中国で東方無政府主義者連盟や南華韓人青年連盟、黒色恐怖団等の結成に

 参加した。

  有吉公使暗殺未遂事件後、日本で裁判を受けるため、管轄裁判所のある長崎市へ他の犯人二人とともに送られて、その年11月、長崎地方裁判

 所で無期懲役の判決を受け、翌1934年6月4日、長崎県諫早市にある長崎刑務所で持病の肺結核が悪化して38歳で亡くなった。遺骨は1946年

 に韓国へ運ばれて、他の独立運動家二人とともに国民葬が行われた後、ソウルの孝昌公園内に三義士墓が作られて葬られた。私もそこへ一度
 
 行ったことがあり、伊藤博文を暗殺した安重根の墓も将来遺骨が発見された時のために作られている。

  ところで、白貞基の本貫すなわち始祖の発祥地は水原で、朴槿恵大統領の父親の朴正熙元大統領の母親、白南義も水原白氏の出身であること

 から、白貞基と朴槿恵大統領は遠縁関係にある。孝昌公園内に三義士の一人として葬られた白貞基であるが、現在韓国でその名を知っている者は

 あまりいないようである。昨年、長崎へ来た韓国人観光客の夫婦二人に名前を知っているか聞いたが知らないという返事だった。おそらく李奉昌や

 尹奉吉は学校の歴史教科書に出てくるが、事件が未遂に終わったことから白貞基の名前は教科書には独立運動を行った人物として掲載されては

 いないのだろう。それでも1963年に韓国政府から大韓民国建国功労勲章独立章が追叙されていることから、アナーキストとして活動した白貞基も

 国からその功績が認められている。

  長崎にゆかりのある韓国人として長崎でもっと白貞基の名が知られていいものだと思う。諫早市や長崎市に来ている韓国人留学生を中心に3月

 17日には、一部が残されている旧長崎刑務所の門の前で祖国の独立のために闘った白貞基の慰霊祭または記念式典みたいなものがあっていい

 ものだと思うが、今まで行われたことはないようである。白貞基の名前を知っている留学生がほとんどいないのだろうと推察される。日本に歴史を

 正しく認識するよう口酸っぱく言う韓国が、三義士の一人として国民葬が行われた自国の人物を国民の多くが知らないような状態になっていることに

 対して、私には韓国政府が「ペテン師」のように思われてならない。昨年1月末に私は10年もかかって翻訳出版した『韓国独立運動家 鴎波白貞基』

 を出版社を通じて福岡の韓国総領事館に送ったのであるが、今まで何の音沙汰もない。

  韓国人が対馬に観光で大勢来ているが、自然だけでなく、韓国関係の史跡も観光資源としていくつかあることも対馬の魅力になっていると思われる。

 諫早市としても韓国関係の史跡として、旧長崎刑務所門の前に白貞基の説明版を設置したらいいと思う。



  平成27年2月 

                   対馬の仏像盗難に関する韓国マスコミの報道

 
 ”朝鮮タッコム”(조선탓컴・1995年に韓国で最初にインターネットニュースサービスを始めた会社)の2014年12月1日記事に対馬の仏像盗難に

 ついての日韓政府の会談模様を伝えているものがあるので掲載する。


「        長官会談で「対馬盗難仏像」をまた返還要求した日本

 ”2012年、対馬で盗難に遭った文化財を返還してくれ”(下村博文日本文部科学相)

 ”わが国から日本へ不法搬出した文化財6万7000点余についても一緒に論議しよう”(金鍾德文化体育観光部長官)

 日本が2年連続文化長官会談を通じて”盗難仏像返還”を要求した。去る29日日本の横浜で開催された日・中・韓文化長官会議のうち日韓両者

 会談の席においてだった。日本が返してくれという仏像は2012年10月韓国窃盗犯たちが盗んで国内に密搬入した日本対馬島観音寺の金銅観音

 菩薩坐像と海神神社の銅造如来立像だ。この二つの仏像はそれぞれ高麗と統一新羅時代に日本へ渡ったものだ。

 下村長官は昨年9月光州広域市で開催された長官会議でも仏像返還を要請した。柳鎭龍当時文化部長官は”盗難・略奪文化財返還の国際規約を

 遵守しなければならない”と答え、これが日本マスコミに”返還約束”と報道されてひどい目に遭った。

 これを意識したかのように、わが方の今回の答弁はかなり変化した。金鍾德文体部長官は日本側に”両国間で不法流出した文化財はユネスコ

 協約の精神に則って処理することが必要だ”と述べた後、”このため両国共同の文化財返還に対する協力機構を組織しよう”と提案した。また、

 ”小倉コレクションと朝鮮総督府発掘遺物などわが国から日本へ持って行った韓国文化財についても一緒に論議しなければならない”と述べた。
 
 ”2点を返してやるからその代わり6万7000点を差し出せ”という意味にも読める話だ。この提案に対し、日本側は特にこれといった反応は見せなか

 った。

 日本が長官会談でこの問題をしきりに持ち出すのは、▲”韓国は盗難文化財を返還しない国”と宣伝するとともに、▲過去の日本の不法文化財

 搬出を色あせさせるためのものと分析される。ある専門家は”対馬仏像問題を確実に解決しなければ、今後も日本の反攻は続くだろう”と述べた。」


                             


  民間に関することは民間同士で解決するのが一番だと思うが、それができないから行政の出番になるのだろうが、行政任せでは解決に今後も

 相当時間がかかると思われる。何年かかるかわからない。対馬の関係者もさらなる自助努力が必要ではないかと思うがいかがだろうか。また、

 行政としても返還に向けてもっと熱心かつ真剣に取り組んでもらいたいものだと思う。しかし金がかかるのもまた事実である。行政はどこも財政が

 苦しいのでできることはあまり多くはない。なかなか難しい問題であり、官民一緒になって取り組んでいく必要がある。




  平成27年1月      

                     韓国の昨年の人気No.1作家は日本人


  今年に入ってある日新聞を読んでいると、ふと興味深い記事に目が止まった。韓国で昨年最も人気のあった小説家は日本人だというのである。

 反日意識の強い韓国人が何故日本人の書いた本をそんなに好んで読むのだろうか?  作家の名前は東野圭吾という方である。まだ読んだこと

 はないが私にはこの作家の名前にはかすかに記憶があった。ある日、息子の部屋で机の上に置いてあった本を見て、いったいどんな本を読んでい

 るのだろうかと思って見たら、今まで見たことも聞いたこともないまるで知らない作家だった。今思えば自分の無知に笑うしかないが、その時はもっと

 世界的に有名な小説を読んでくれればいいのに思ったものだった。

  韓国人が昨年最も好きな作家だと言うので、いつか韓国人と会った時、まだ読んだことがないのかと白い目で見られるかもしれないと思い、早速、

 職場の近くの書店に行って購入した。東野圭吾の本で最近一番売れていると書かれてあったので購入したのが、『ナミヤ雑貨店の奇蹟』という本で

 ある。読んでみたところ確かに面白い。実に面白い。まだ、第2章までしか読んでいないが、この第2章はとても素晴らしい作品である。最後の部分は

 とても感動的で、つい涙が出てしまった。『夜更けにハーモニカを』という作品で、児童養護施設に慰問活動に行って、そこに泊まった時火事に遭い、

 自分の命を犠牲にして少年の命を救ってやったミュージシャンの物語である。

  私はこの小説を読んで日本人がこんな哀しくも美しい物語を書いたことを知って、日本人として嬉しくなり誇りに思った。「どうだい、韓国人よ、日本人

 を見直しただろう!」と韓国人に言ってやりたくなった。しかし、私が言ってやるまでもなく、韓国人も東野圭吾の本が大好きなのである。国や民族が

 違ってもいい本に出会えば同じ人間として感動するものだと今さらながら実感した次第である。それとともに、日本人の書いた本に感動してくれる韓国

 人に対して、「韓国人もなかなかやるなあ。」と私の方が韓国人を見直した次第である。

  韓国にもいい本がたくさんあるだろうから、日本でも翻訳されて少しでも多くの日本人に読まれればいいのにと思う。



  平成26年12月   

                      対馬を訪れる韓国人


  先日仕事で対馬に行った時、タクシーの運転手から韓国人観光客のマナーが悪いという話を聞いた。

 キャンプしている韓国人が帰った後はゴミの山だそうである。「旅の恥はかき捨て」ということわざがあるが、韓国人というのは自分の国でもそうする

のだろうか? 数年前、新聞か何かで読んだことがあるが、厳原町の飲食店内でのマナーの悪さに呆れた店の経営者はその後、「韓国人お断り」と

いう紙札を店の入口に貼ったそうである。おそらく対馬に来る韓国人は外国に来たという感覚が薄く、自分の国にいるような気分の者が多いのかも

しれない。

  『Record China』という日本最大の中国情報サイトに面白い記事が掲載されている。韓国に多数の中国人が旅行でやって来るが、中国人観光客も

韓国で評判が悪いようである。韓国のネットユーザがこんな書き込みをしていると言う。


 「中国人は礼儀がなっていないから、日本人に来てほしい」

 「以前は日本人観光客を嫌っていたが、中国人観光客が好き勝手に行動する姿を見て、日本人の良さがわかった。今となっては日本人が恋しい…」


  それにしても、先月下旬仏像と経典の窃盗事件で5人の韓国人が逮捕された対馬では、韓国人に対するイメージはさらに悪くなったことと思う。

経典の一部は厳原港付近に捨てたというから、これは凶悪犯罪に匹敵すると言っても過言とは思われない。窃盗犯の中には「自称住職」がいるという

から呆れてしまう。2年前に対馬から韓国に盗まれていった2体の仏像は今だに返還の目途さえたっていない。ひと握りの悪い韓国人のせいで嫌韓

感情が鎮まるどころかますます悪くなっていくようでたいへん残念に思う。



  平成26年11月  

                 ー 元心昌記念事業会 10月10日 創立ー 続報
                 

  元心昌の出身地である韓国の京畿道平沢市で先月10日、元心昌義士記念事業会創立式が開催されたが、その内容について、

『平沢市民新聞』が10月16日付けで報じているのでその一部を紹介する。


「            アナーキスト独立運動家 元心昌義士記念事業会創立
                    

 彭城邑出身のアナーキスト独立運動家 元心昌義士の精神を顕彰するための記念事業会が創立式を開催した。

元心昌義士記念事業会(共同代表 元ユチョル、崔昌燮、黄ウガ)は10日午後6時、平沢大学ピオソン第2ビル6階の宴会場で開催された

創立式で崔昌燮西江大名誉教授を記念事業会会長に推戴した。

 元心昌義士記念事業会は2012年7月4日、平沢で初めて開かれた41周忌の追慕式で志を集め、8月の本紙の日本東京 元心昌義士活動

企画取材、2013年、上海現地で初めて開いた六三亭義挙80周年記念式、42周忌追慕式と記念事業発起人の会合、国家報勲処指定 

2013年12月の独立運動家の功労顕彰行事、2014年7月4日 43周忌追慕式兼記念事業会発起人大会開催など3年間の準備を経て創立

した。事業会側は10月10日を創立日に決めた理由を元心昌義士が駐中日本公使を暗殺を企画した上海の六三亭義挙で13年間の獄苦を経て、

解放後である1945年に出所したことを記念するためだと明らかにした。

 崔昌燮会長はこの度の元心昌義士記念事業会の発足でアナーキスト独立運動と、統一運動家としての元義士に対する評価が改められるとともに、

高い気骨が記憶されるよう望むと述べた。

 この日の行事は第1部 創立総会は定款制定及び会長・幹事選出を終え、第2部 創立記念式が引き続き行われた。記念式には孔在光平沢

市長や平沢地域社会の各界人士、李文昌韓国アナーキスト独立運動家記念事業会長、崔昌燮西江大学言論大学院名誉教授を始めとする国内

人士、呉公太在日本大韓民国民団団長、姜昌萬統一日報会長、鄭海龍前民団団長など、元心昌義士と縁のある在日本民団・言論関係主要人士が

共に出席した。」



  平成26年10月 

                 ー 元心昌記念事業会 10月10日 創立ー
                 

 元心昌の出身地である韓国の京畿道平沢市で今月10日、元心昌義士記念事業会の創立式が開催された。

 その内容について、『平沢時事新聞』が10月1日付けで事前に伝えているので紹介する(最終編集 10月10日)。


「                   平沢大 ピオソンビル6階宴会場で 
                    3年準備、在日民団・言論界、主要人士出席


  彭城邑出身のアナーキスト独立運動家 元心昌義士の精神を顕彰するための記念事業会が3年間の準備期間を経て、来る10月10日、

ついに創立式が開催される。行事が進められる10月10日は元心昌義士が1933年3月17日、上海の六三亭義挙直後逮捕され、13年間

日本の鹿児島刑務所で苦難の末に解放とともに釈放された意味ある日でもある。

 元心昌義士記念事業会主管で開かれるこの日の行事は午後6時、平沢大学ピオソン第2ビル6階の宴会場で定款制定と、会長・幹事選出

などの第1部創立総会に続き、創立記念式の順序で進められる予定だ。

 また平沢地域社会の各界人士、李鍾賛 右堂記念館長、李文昌韓国アナーキスト独立運動家記念事業会長、崔昌燮西江大言論大学院

名誉教授を始めとする国内人士、呉公太在日本大韓民国民団団長・姜昌萬統一日報会長、鄭海龍前民団団長など、元心昌義士と縁のある

主要人士が出席する予定だ。

 一方、元心昌義士記念事業は、2012年7月4日、平沢で初めて開かれた41周忌の追慕式で推進することが決まり、▲この年8月、日本

東京での元心昌義士の活動取材、▲2013年、上海現地で初めて開いた六三亭義挙80周年記念式、▲42周忌追慕式と記念事業発起人の

会合、▲国家報勲処指定 2013年12月の独立運動家の功労顕彰行事、▲2014年7月4日 43周忌追慕式兼記念事業会発起人大会開催

など3年間の準備期間を経ていた。」
 


 

  平成26年9月 

                   ー 元心昌義士43回忌追慕式典開催ー
                 

 元心昌が1971年に亡くなって今年43回忌を迎えたが、出身地である韓国の京畿道平沢市では、元心昌を偲ぶ追慕式が開催された。

『平沢時事新聞』がその様子を伝えているので紹介する。


「              元心昌義士43回忌追慕、宣揚事業開催される
             -来る10月10日 ”元心昌義士記念事業会”創立推進-


  彭城邑出身の独立運動家 ”元心昌義士43回忌追慕式”が7月4日、彭城保健福祉センターで開催された。今回の追慕式は3年間準備して

きた元心昌義士記念事業会創立発起人大会も兼ねて行われた。

 元心昌義士の略伝・語録奉読、弔歌朗読、創立発起趣旨文朗読、焼香の順に進行されたこの日の行事は、元心昌義士の子孫 元亨載氏、

李文昌韓国アナーキスト独立運動家記念事業会長、金ヨンフィ光復会京畿道支会長など約200名が出席した。

 元ユチョル準備委員会常任代表は追慕辞で、「国家と民族、独立と統一のため平生、身を捧げてきた元心昌義士なのに、祠堂も記念碑すらもない

のが現実だ。今後、記念事業会を創立して義士の意志をさらに発展させよう」と述べた。 

 コン・ジェグワン平沢市長は、「今日の我々があるまで、元心昌と共に公益のため献身した方たちの御労苦があることを忘れてはならない。今後、

官民意思疎通を密にして義士の精神を地域社会に広く顕彰するのに最善を尽くす」と述べた。

 一方、元心昌義士記念事業準備委員会は元心昌義士が13年間の獄苦を経て、日本の刑務所から解放された今年の10月10日、平沢で各界の

人士が参加する記念事業会を正式に創立する予定だ。 」



  平成26年8月 

               ー 朝鮮通信使世界記録遺産登録へ向け日韓が協力ー
                  

 朝鮮通信使の世界記録遺産登録に関して7月26日付けで釜山日報が社説に書いているので、下記のとおり全文を紹介する。


「日本の長崎県知事と対馬市長一行20名余がおととい、釜山文化財団を訪問し、「日・韓 朝鮮通信使ユネスコ世界記録遺産共同登録」推進に

積極的に協力することを明らかにした。日本の地方自治団体長が朝鮮通信使世界記録遺産共同登録推進に関連して、釜山文化財団を訪問する

のは今回が初めてだ。共同登録推進は日韓両国で民間機構が中心となって推進中であり、韓国では釜山文化財団、日本では長崎県が後援する

「日本朝鮮通信使縁故地連絡協議会」がその役割を担当している。

 日本地方自治団体長の今回の訪問は、最近のそれでなくても日韓関係が行き詰まっている中で行われ、やはり釜山が両国関係の尖兵の役割を

果たしていることを示している。朝鮮通信使は朝鮮国王が1601~1811年日本に派遣した大々的な外交使節として、日韓の平和的交流を象徴する

文化遺産だ。その遺産の継承を韓国では釜山が最も先頭に立って進めているのである。朝鮮通信使記録遺産共同登録事業は去る2012年から

推進されだした。今年に入って去る5月日本で、6月には釜山で両国の推進委員会がそれぞれ発足し、「2016年申請-2017年登録」という目標

で加速度を増している。

 朝鮮通信使世界記録遺産共同登録事業は日韓両国が友好関係を築いて来ており、また、継続して築いている事実を世界に広く知らしめることが

できる絶好の機会だ。民間機構が中心となって推進中のこの事業に、釜山市も長崎県以上に関心と支援を惜しんではならない。政府も手をこまね

いて傍観してはならないのは二言を要さない。加えて来年は日韓修好50周年ではないか。

 昨年日韓共同企画で日本で開催された朝鮮通信使関連企画展におよそ1万5千名が観覧に訪れている。今週、釜山の「朝鮮通信使の歩んだ道

を訪ねて」訪問団が日本の名古屋~東京を踏査中で、来る8月末、下関では朝鮮通信使行列再現行事が開かれる。日韓両国の交流は止まっては

ならない。」



      平成26年7月  

                      ー 韓国にゆかりの長崎人ー
                  

       歴史上、韓国や韓国人と関係の深い長崎人といえば、どういう人物が挙げられるだろうか?

     まず、誰でも思いつくのは雨森芳洲(1668~1755)だろう。雨森芳洲は現在の滋賀県長浜市高月町で生まれたが、対馬藩に身を置いて長く

     対朝鮮外交を担当してきた人物なので、長崎人と言ってもよいのではなかろうか。芳洲は釜山にあった対馬藩の倭館に派遣されて朝鮮語を学び、

     自ら朝鮮語辞典「交隣須知」を編纂している。また、1711年(正徳元年)には朝鮮通信使に随行して江戸まで往復した。

     韓国(朝鮮)との交流において雨森芳洲クラスの長崎人はおそらくいないと思われるが、ある程度深い関わりを持った人物ならいないわけはない

     だろう。ただ、歴史に名を残すほどの重要な意義のある交流・関わりを持った人物は数えるくらいしかいないと思われる。今後、そのような人々の

     足跡を探求していきたいものだと思う。

       長崎人ではないが、長崎にゆかりのある人物の中で、韓国人と大きな関わりを持った人物としては、東京出身の宗武志 (そう・たけゆき 1908-1985)

     がいる。宗武志の父は黒田和志といい、対馬藩最後の藩主、宗義達(そう・よしあきら。明治維新後に宗重正と改名)の実弟である。

       武志は1918年に対馬に渡って厳原尋常高等小学校に転校し、1920年には対馬中学校に入学した。1923年10月に15歳で宗家の家督を

     継ぎ、第37代の宗家当主となった。1925年3月に対馬中学校を卒業すると、東京に戻り、学習院高等科、東京帝国大学文学部に入学した。

     1931年に朝鮮王朝第26代王・高宗の娘である李徳恵と結婚した。結婚した年に対馬厳原町を夫婦で訪れている。徳恵との間に一女をもうけたが、

     徳恵の先天性の精神・知能疾患が悪化したため、実家の方から要請があり、1955年に二人は離婚している。なお、徳恵は1989年にソウルの昌徳宮

     で亡くなっている。



         参考文献  ウィキペディア 『宗武志』



     平成26年6月  

                    ー 「鴎波・白貞基義士殉国80周年追慕記念式」 開催ー
                  

        白貞基に関する記事が韓国のインターネット新聞 「news1」 に6月5日掲載されましたので、全文を紹介します。


         「全羅北道 井邑出身抗日愛国闘士 鴎波 白貞基義士殉国80周年追慕記念式が5日、白貞基義士紀念館

          で開催された。

          6月5日は白義士が日本の長崎刑務所で殉国した日で、今年は80周忌になる年である。(社)鴎波白貞基

          義士紀念事業会が主管したこの日の追慕記念式には、金シェンギ市長、柳ソンヨプ国会議員、金スンボム
 
          一般人250名余と井邑地域の小・中・高校生250名余、合せて500名余が出席した。

            この日の記念式は、白義士の独立運動略史朗読と文化講演をはじめ、第2回全国追慕作文大会公募展

          授賞式、スケッチ大会も一緒に開催された。

            金シェンギ市長は、「国のため命を捧げた白貞基義士の崇高な精神を受け継ぎ、’市民が幸福で誇らしい

          井邑’を建設するのに力を集め、この方の犠牲が無駄にならないよう最善の努力を尽くそう」と強調した。」



                         

                         (http://news1.kr/articles/1710392より掲載) 
 


     平成26年5月   

                  ー勉強 崔益鉉先生 抗日義挙第108周年記念追慕祭開催ー


         1906年旧暦4月13日、崔益鉉は日本が朝鮮から撤退することを求めて、全羅北道の泰仁で義兵蜂起しました。この日を記念して

       韓国では、毎年4月13日に、義兵長として奮闘した崔益鉉の独立精神と忠誠心を再認識するため、「抗日義挙追慕祭」が開催されて

       います。

         義兵を起こして蜂起してから108周年に当たる今年も、忠清南道青陽郡にある慕徳祠で開催されました。慕徳祠は崔益鉉の位牌と

       肖像画を祀っている祠堂で、維持管理は地方公共団体である青陽郡が行っています。また、追慕祭も青陽郡が主管して開催されています。

         今年の追慕祭には、忠清南道副知事、青陽郡副郡守、青陽郡議会議長、慕徳会会長、遺族をはじめ、関係機関・団体長、地域住民

       など約420名が出席しました。式典は、青陽郡守 権限代行者である副郡守が進行役を務め、慕徳会の代表による崔益鉉の行状朗読、

       青陽郡議会議長の追慕辞と「勉庵讃歌」、来賓等による献花と焼香の順で進められました。

         韓国を侵略した日本の大多数の国民はこのような行事が行われていることを知る由もないでしょうが、侵略を受けた韓国ではいつまでも

       忘れまいとして、このような行事が行われていることを、われわれ日本人としても知っておきたいものだと思います。     

  
          参考文献
     
               『news1』      2014.4.13  http://news1.kr/articles/1630112  

               『大田日報』    2014.4.15   http://www.daejonilbo.com/news/newsitem.asp?pk_no=1113357  



      平成26年4月      
        
                        五島列島の朝鮮人キリシタン


          レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』には朝鮮人キリシタンのことがたびたび記述されており、とても興味深いものがあります。特に

        興味を引くのは、朝鮮出兵した日本軍が多数の朝鮮人を日本に捕虜として連れ帰っていますが、そのうちの一部が五島列島にまでやって

        来ていることです。岩波文庫発行の同著に次の記述があります(「第8章 1606年」)。


             『第2回の伝道は、五島の島々に行われた。同地のキリシタンは良く残り、領主も之に好意を持っていた。

              一人の神父が毎年同地に出かけていた。この年、1,800人の罪の告白があり、又小児100人、成年

              60人の洗礼があった。之等の諸島には、戦争中、捕虜になった若干の朝鮮人のキリシタンがいた。その

              中の一人で、バウロという者と、その妻のアンナとは、同国人の間、否日本人の間にさえ、多数の改宗者を

              作った。もう一人朝鮮の婦人でウルスラという者は、今はの際に宣教師の訪問を受け、自分はキリシタンに

              なってから長年罪を犯した覚えがないと語った。誠に、神父も彼女に赦罪の材料となるものを見出すこと

              が出来なかった。かくて彼女は、前から厚く信じていた通り、洗礼の清浄の中に、魂を創造主に返した。』



       上記のウルスラという者は、1606年の時点で既に「キリシタンになってから長年」経っていることを明かしているので、日本に連行されて

       まもなくキリスト教信者になったものと思われます。どういう経緯で五島の島々に来ることになったのでしょうか。五島の領主 五島純玄(ごとう

       すみはる)は文禄の役時に一番隊小西行長軍に属しているし、肥前国福江藩の初代藩主となった五島玄雅(ごとう はるまさ)は慶長の役で

       やはり小西行長軍に属していることから、捕虜となった朝鮮人の中には五島勢によって五島に連行されて来た者もいたのではないでしょうか。



     平成26年3月

                      上海の六三亭を経営した長崎人 


         先月のこの欄に、1933年3月、有吉明中国駐在日本公使が上海の六三亭から出て来るところを爆弾を投げつけて暗殺しようとして警察に

       逮捕された朝鮮人アナーキスト・白貞基のことを紹介しました。この六三亭という日本料亭は日本人が開いたもので、経営者の名前の一部を

       とって付けられています。実はこの経営者は長崎の出身で、名前を白石六三郎といい、慶応4年 (1968年)3月11日に長崎の銀屋町で生まれ、

       昭和9年(1934年)4月26日、66歳で亡くなっています。武藤六三郎として生まれ、後に白石家の養子となりました。妻の白石スエは旧南高来

       郡の出身だそうです。

         白石六三郎は子供の頃は家が貧しいため、ミカン売りなどをして苦労をなめたそうです。年齢21、2歳の頃といいますので、明治22、3年頃に

       上海・香港航路の外国船に皿洗いとして働き、やがて上海に住みついて、日本人専門の旅館「六三亭」を開業しました。日清戦争の終結後に

       日本人が急激に増加したことから、「新六三亭」を別途開業しています。そして、六三亭には旅館の他に料亭や娯楽施設も設け、かなりの繁盛を

       見せるまでになりました。

         その後、上海北方に6千坪の土地を購入して純日本式庭園をもつ「六三花園」という上海を代表する日本料亭を開業させています。

         なお、白石六三郎は一人娘に長崎の料亭富貴楼から婿養子を迎えており、富貴楼経営者の内田家と姻戚関係を持つに至っています。



            参考文献

                松村茂樹著 「呉昌碩と白石六三郎ー近代日中文化交流の一側面ー」
                        大妻女子大学紀要 文系 第29号 1997年

                ウェブサイト 『長崎くんち「銀屋町鯱太鼓」』 ~銀屋町ゆかりの人々~



      平成26年2月

                  
『韓国独立運動家 鴎波 白貞基』を出版


         私、管理人はこの度、『抗日革命家 鴎波 白貞基義士』と題する韓国の本を日本語に翻訳し、 『韓国独立運動家 鴎波 白貞基』と

       改題して明石書店より出版しました。原著は韓国の社団法人 国民文化研究所が執筆・編纂したもので、白貞基の没後70周年にあたる

       2004年6月に出版されたものです。   

        白貞基(ペク・ジョンギ)は1924年、中国北京で「在中国朝鮮無政府主義者連盟」を結成し、アナーキストの一人として、北京や上海などを

       舞台に祖国独立のため活動していたところ、1933年 (昭和8年)3月、有吉明駐中日本公使が日本政府から密命を帯び、4000万円の

       資金を使って中国国民党要人を買収して、中国政府の反満州国・抗日姿勢を懐柔させ、抗日軍の抵抗を中止させるとともに、中国内での

       朝鮮独立運動を弾圧させようと画策しているという情報を聞きつけて、上海市内の日本料理店 六三亭で有吉公使が中国政府要人との

       会合を終えて出て来たところを爆弾を投げ込んで有吉公使を暗殺しようと待機中、事前に探知していた現地の警察によって他の同志二人と

       ともに逮捕されました。
 
         同年7月、上海日本総領事館の司法領事による予審の結果、長崎地方裁判所で公判に付されることになって、7月11日、長崎丸にて

       上海から長崎市に送られ、現在の平和公園にあった浦上刑務支所の独房に収容されました。同年11月下旬に長崎地方裁判所によって

       無期懲役の判決を受け、直ちに諫早市にある長崎刑務所に同志、李康勲とともに収容されました。翌年6月、同刑務所で服役中、持病の

       肺結核が悪化して38歳で世を去りました。
 
        1946年4月、日本で死刑となった他の二人とともに遺骨が韓国に戻され、同年7月、3人の国民葬がソウル市内で挙行され、三義士墓に

       埋葬されました。1963年に、白貞基は大韓民国建国功労勲章(独立章)を追叙されています。     




     平成26年1月

                  
      崔 益鉉の死について

       
         1月は日本の朝鮮(当時の国号は大韓帝国)侵略に抵抗して捕らえられ、対馬に流配となった儒学者 崔益鉉 (チェ・イッキョン)が対馬・厳原にある

        監獄内で亡くなった月です。 韓国の政府機関の一つである国家報勲処は、国家に功労のあった者やその遺族に対して補償金を支給したり、

        就業、医療などの面で支援を行ったり、国民の愛国精神を継承・発展させる業務を行っています。その国家報勲処のウェブサイトには次のように

        崔益鉉死亡について記載されています。(『今月の独立運動家』1993年1月分より)



            「先生は1907年1月1日、断食の末、恨み多い敵地で息を引き取った。」 


          また、同じく国家報勲処のブログにも次のように断食のことが記載されています。

         
            「日帝は崔益鉉を懐柔しようとしますが、すべて拒否し断食に突入します。(中略)
     
            日本人たちは強制的に彼の口に食べ物を入れますが、すべて吐いたり、口を開けずに
     
            抵抗し、1907年1月1日、対馬の監獄で殉国しました。」 (「훈터」 2012.12.5)


 
          崔益鉉は対馬に到着した8月28日の夕食から30日昼までの6回分を断食しただけであり、断食する原因となった誤解が解けて、その後は

        日本の食事をとっています。いくら、国民の愛国精神を継承・発展するのが任務だとしても、事実を曲げてまで国民の愛国精神を高める必要が

        あるでしょうか。

         韓国内の他のウェブサイトでは次のようにきちんと記述されているものもあります。
 
      
            「断髪措置が撤回されるや断食を中止したが、その年11月に病を得、12月30日(1月1日の誤り) 殉国した。」 (Daum 百科事典)

 

         韓国政府はよく日本を歴史を歪曲するとか、ねつ造するとか言って批判しますが、韓国政府こそ(「も」と書くべきか? ) 事実を直視し、誤った国民

       教育をしないでもらいたいと思います。         
  


      
      平成25年12月

                       
                             朴堤上


         朴堤上の生没年は未詳ですが、韓国では西暦363年~418年または419年と紹介しているウェブサイトもあります。日本書記で

       「毛麻利叱智(もまりしち)と記述されている朴堤上は韓国の『ウィキ百科』などでは「新羅の忠臣」と記載されています。
 
         現在の日本政府首脳の考え方でいくと、倭国が人質にとっていた新羅の王子を新羅へ逃がした「犯罪者」ということになるでしょうか。
  
         その朴堤上の出身地 慶尚南道梁山市では生家跡とみられる場所に祠堂が建てられ、朴堤上父子が祭られています。

        また、「忠臣 朴堤上」という演劇も製作され市の文化祭で上演されています。
 
         朴堤上が倭国へ向かった港がある蔚山広域市では、朴堤上とその妻を称えるため位牌を祭っていた祠堂跡に朝鮮時代になって、

        私立学校の一つである鵄山(ちさん)書院が建てられたのですが、その鵄山書院跡が三国時代の史跡として1997年に蔚山広域市

        記念物第1号に指定されています。また2008年には、この場所に「忠烈公 朴堤上記念館」が建設されています。春にはこの敷地
 
        内で、「朴堤上 春享大祭」という祭礼も執り行われています。このように、韓国では朴堤上の勇気とか忠義の精神を称え、その功績を

        子々孫々まで伝えていこうという姿勢がみられるのですが、朴堤上が焼き殺された場所が日本書記で「対馬」と記載されているその対馬

        市では、残念ながら朴堤上を観光に活かす取り組みがなされていないようです。
 
         韓国と対馬の学者たちによって1988年に建立された「新羅国使殉国之碑」も対馬観光物産協会のウェブサイトでは紹介されていません。

        せっかくの観光資源なのに行政や民間で活用されていないのはもったいない気がするのですが、いかがでしょうか。朴堤上を縁に梁山

        市民や蔚山広域市民との文化交流が行われてもよいのではないかと思われます。


 

      平成25年11月
                      
          『長崎県にゆかりの韓国・朝鮮人』と題して、この度ウェブサイトを立ち上げました。ここに取り上げた人数はわずか6人ですが、

        今後少しずつ増やしていきたいと考えています。 しかし、長崎県にゆかりのある韓国・朝鮮人といっても歴史的に名の知られた韓国・

        朝鮮人はそんなにたくさんいるわけではなく、ごく限られた人数になるのはやむを得ないと考えています。

         原稿を書くにあたっては先人たちの文献を大いに参考にさせていただきました。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
  
         このウェブサイトが韓国・北朝鮮理解に少しでも役立つよう願っています。




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