管理人より
令和2年12月
高麗布教の予想
ホアン・ガルシア・ルイズ デ メディナ氏の著書『遥かなる高麗』の中に、「高麗布教の予想」という文章が掲載されています。
これは、ルイス・フロイスがイエズス会総長に宛てた書簡で、1596年12月3日付けで長崎から発信されたものです。
この書簡によると、この年、長崎には1300人以上の朝鮮人がおり、その大多数が2年前(1594年)にキリスト教の洗礼を
受けたと記載されています。
文禄の役で、日本軍が朝鮮を攻撃した最初の日は1592年5月24日(天正20年4月13日)ですが、侵略した2年後にはもう
多くの朝鮮人が捕虜として日本へ送られ、長崎だけでも1300人以上もの朝鮮人が連れて来られています。そしてもうキリス
ト教の洗礼を受けています。何という速さでしょうか。
ルイス・フロイスは、この書簡の中で、「彼らがわれらの信仰を受け入れる素質のある人々であることが経験から明らかに
分ります」と述べています。 そして、彼ら朝鮮人に関わったすべての人々は、「福音の宣教が高麗で始められるならば、信仰
は容易に受け容れられるだろう」と言っている、と書いています。
全文は次のとおりです。
「 本年(1596年)、ここ長崎にいる多数の高麗人が、男も女も子供も信仰について教えを受けました。それは1300人を
超えると言われ、その大多数は受洗してから2年になり、本年告解をしたのです。
彼らがわれらの信仰を受け容れる素質のある人々であることが経験から明らかに分ります。彼らは非常に愛情深く、喜ん
で洗礼を受け、キリスト教徒であることに少なからぬ慰めを抱いて、告解することを希望しています。彼らは速やかに、き
わめて容易に日本語を覚えますから、ほとんど誰も通訳をおいて告解をする必要がありません。
聖金曜日の日暮れどき、1パドレと数人のエルマノ(修士)が扉を閉めたまま教会内を飾り、翌土曜日に使う洗礼盤の準
備をして、やっと仕事を片付けようとしている時に、教会の戸口のすぐ外で大きな音が聞えました。窓を開けて、誰であるか
と訊ねるとそこにいた人々は跪いてきわめて謙虚に、
「パドレ方、何でもありません。私たちは高麗人です。私たちは捕虜で、昨日の聖行列に参加できなかったので、今みなで
揃って神に慈悲と罪のお赦しを求めに来たのです」と答えました。彼らが大量の血を流しているので、彼らの言葉を聞い
た者は、その贖罪の熱烈さを知り、涙を誘われました。
この人々は素朴でありながら、秀れた理解力を示し、如何なる点でも日本人に劣らない素質を有しています。
神はこの戦いの機会に、高麗人の霊の幸福の為に、この国でこの初穂をいま前もって受けることを希望されるのです。
彼らに関わったすべての人々は、福音の宣教が高麗で始められるならば、―日本経由で高麗に福音の入ることを困難
とは思われませんから ―、信仰は容易に受け容れられ、それがさらに近隣の諸国に広まるだろう、と言っています。」
令和2年11月
韓国キリスト教の起源は長崎か?
李世勲長崎大学多文化社会学部客員研究員が執筆された『韓国カトリック教会の起源に関する一仮説 ―長崎と朝鮮
人―』と題する論文が長崎市で発行されている総合文芸誌「ら・めぇる」第81号に掲載されています。
それによると、韓国キリスト教の起源は長崎にある可能性があるとのことです。あり得る話ではないでしょうか。
以下に、論文の一部をご紹介いたします。
「 1610-20年代の九州長崎には多くの朝鮮人信者が信仰共同体を形成し、下層の貧しい生活ながらもカトリック
信仰生活を営んでいました。この時期はいよいよ壮絶なキリシタン迫害が激しくなる時期とも重なります。まさに
この時期、公式な記録だけでも九州長崎に来ていた約1,700人の朝鮮人が刷還使に同行し、朝鮮の故郷に帰った
のです。当然、多くのキリシタンが含まれていた可能性が非常に高い。当時はイエズス会や托鉢修道会によって
日本からも中国からも朝鮮へ新しい布教のため宣教師派遣が何回も試みられており、実際、九州長崎で信仰
生活を通じて、信者会の指導的なイルマンや同宿にまで成長していた朝鮮人信者や家族が迫害を避け、さらに
宣教師の指導の下、信心会、秘密組織コンフラリアの経験も生かして、朝鮮での布教も志して朝鮮に帰った可能
性は十分あり得る話です。
最初に紹介した韓国カトリック教会起源の諸説の中で、4説でも5説でも、両班南人知識層の実学者が中国からの
カトリック教理書を学習中、聖霊の力で自生的に信仰が芽生えただけではなく、それより100年早い1650-1750年の
17世紀、18世紀にかけての100年間、朝鮮では少数知識層の上からの信仰とは別に、一般民衆を軸に下からもカトリ
ック信仰を受け入れて広がる土台、受け皿、小規模ながらいくつかの信仰共同体を形成できる基盤がすでに17世紀
後半の朝鮮に点々と存在した可能性があるのではないかと推論したくなります。その担い手がまさに九州長崎から
帰ってきた朝鮮人信者達の存在です。すなわち、長崎や九州から帰った朝鮮人による信仰共同体の基盤が17世紀
後半、忠清道や全羅道に存在し、それが18世紀後半の両班知識層の実学者による教理と結びつき、その種子が韓国の
カトリック教会の基礎になり、広がる拠点となったのではないでしょうか。だからこそ迫害が始まると多くの知識
層が棄教背教する中、20-30年の短期間で多くの名も知れない民衆による殉教者を生み出しながら厳しい迫害に耐え、
韓国カトリック教会に礎(いしずえ)につながったのではないでしょうか。」
韓国カトリック教会の起源は李研究員によると7つの説があるのですが、そのうちの④説と⑤説について、次のとおり
李研究員は記載しています。
④1779年説、当時の朝鮮の中央政権権力から排除された若い両班(やんばん、注1)南人知識層の実学者達が、
今のソウル近郊の京畿道の山奥の天真菴・走魚寺(ちょんじんあむ、じゅおさ)という仏教のお寺に集まって読経
する際、中国から入ってきたカトリックの教理書(例えば、先のマテオ・リッチの『天主実義』、パントアの
『七克眞訓』など)の書物を勉強しながら 討論する過程で、学問から 信仰が自生的に芽生えて、信仰共同体が
形成されたとする説、
⑤1784年説で、④の影響を受けてそのリーダーの指導に従い、蔓川李承薰(イスンフン)という人が北京天主堂
(北堂)でフランス人司祭グラモン神父から朝鮮人最初の洗礼を受けた後、教理書や聖書、十字架、ロザリオ、
聖像などを朝鮮に持ち帰って、中人訳官(長崎でいう唐通事に該当)金範禹(キムボムウ、1751-1787、)の
家、明礼坊(みょんればん、今のソウルの明洞聖堂)に集まって天主教教理を学習し、信仰共同体を形成された
とみる説
令和2年10月
朝鮮人漂流民の一時保護施設
1.はじめに
『続長崎實録大成』(全13巻)という書物の巻9「異国漂流日本人送来之部 外国人到港之部」には、日本近海で保護
された朝鮮の漂流民が長崎に連れて来られた後、長崎奉行所によって対朝鮮外交を担っていた対馬藩の長崎聞役に
引き渡されたことが記載されています。
それでは、対馬藩の長崎聞役は保護した漂流朝鮮人をどこに収容したのでしょうか。江戸時代、長崎には対馬藩の蔵
屋敷が現在の十八親和銀行本店(長崎市銅座町1-11)の地に置かれていましたが、ここに収容したのではなく、対馬藩は
他の施設に朝鮮人漂流民たちを一時収容していました。その施設がどこだったかというと、長崎大学多文化社会学部の
李世勲客員研究員は龍淵寺だったと考えています。そして、その地にはかつて朝鮮人が建てた聖ロレンソ教会があったと
同研究員は考えています。
2.龍淵寺について
龍淵寺については、『長崎市史』の「地誌編」に記載されています。略記すると次のとおりです。
寛永8年(1631年) 僧嶺光(生国不明)長崎に来り、キリシタン宗門殲滅を期して、伊勢町に雲光寺を創建。
享保?年 7代住職の龍淵が浄財を募り堂塔を改築し、寺号を龍淵寺と改める。
享保10年(1725年)6月 本堂を改築。
文化5年(1808年) 外国船渡来異変ある場合に西中町住民の避難所に指定される。
明治29年(1896年)2月 寺号を知福院と改称。
地福院は平成2年に伊勢町での活動を止め、平成7年12月に長与町高田郷に新築移転しています。
龍淵寺も地福院も浄土宗のお寺です。
3.朝鮮人漂流民の保護施設
龍淵寺が建てられた頃、その地は新高麗町という名前でした。新高麗町から伊勢町という町名に代わったのは
延宝8年(1680年)です。 文禄慶長の役で日本に連れて来られた朝鮮人のうち、一部の朝鮮人が長崎にも居住しま
した。初めは現在の万屋町辺りに住んでいたのですが、周辺の発展に伴い、新高麗町へ移住しました。
いつ頃からその地が新高麗町と呼ばれるようになったのか、私にはわかりませんが、朝鮮人たちが1610年に
新高麗町に聖ロレンソ教会を建設した頃は、もう既にその地は新高麗町と呼ばれていたものと思われます。
朝鮮人たちは自分たちの居住地域内に教会を建てたことでしょう。わざわざ居住地域より遠くへ建てる必要はないと
思われます。そして、漂流朝鮮人も同胞が住んでいる地域内にある施設に収容されたのではないでしょうか。
すると、新高麗町にある龍淵寺に漂流朝鮮人が収容されていたと見るのが自然ではないでしょうか。
長崎の歴史家の中には、伊勢町にある伊勢宮にかつて聖ロレンソ教会があったと考える方もおられますが、李世勲
研究員は、「日本人の民間信仰として神聖な天照大御神の天皇家と深い関わる伊勢宮が朝鮮人の教会跡に建てられた
可能性よりは、もともと朝鮮人と所縁のある龍淵寺があった場所が聖ロレンソ教会跡である可能性が高い」と推測して
おられます。
「龍淵寺」と改称される前の雲光寺は、「キリシタン宗門の殲滅を期して」創建されたわけであるので、そのために
朝鮮人キリシタンの信仰の拠り所であった聖ロレンソ教会の跡地に建てられたと見るのが自然ではないでしょうか。
そして、伊勢宮は寛永5年(1628)に新高麗町民が官に請うて再興され、その隣近所に寛永8年(1631年)、龍淵寺が
キリシタン宗門の殲滅を期して建てられたのでした。
参考文献
『続長崎實録大成』
『長崎市史 地誌篇 神社教育部 上巻』
『長崎市史 地誌編 仏閣部』
『韓国カトリック教会の起源に関する一仮説
― 長崎と朝鮮人 ―』 長崎大学多文化社会学部客員研究員 李世勲客員研究員著
令和2年9月
対馬が朝鮮の属州であるという誤解を招いた一要因
~朝鮮国が宗氏第10代当主 宗成職へ官職を授与~ (2-2)
1. 中枢院とは
対馬の守護・宗成職(そう・しげもと)は、宗氏の中でただ一人、1461年に朝鮮から「判中枢院事兼対馬州都節制使」という
官職を授与されました。当時の判中枢院事という官職は従一品であり、右賛成や左賛成、または右議政や左議政、さらには
は領議政という朝鮮政府の最高クラスの官職に就いていた役人が判中枢院事に任命されていたようです。
(ウィキ百科『判中枢府事』)
中枢院という官庁は『斗山大百科事典』によると、朝鮮前期において王命の出納、兵器・軍政・宿衛などを担当した役所です。
1392年に設置され、1400年に三軍府に名称が変わり、1409年に再び中枢院に戻りました。その後、1466年に中枢院と
いう名称に変更され、文武の堂上官(正三品以上)でありながら役職のない者を一定の事務に就かせることなく優待する意味で
置かれた官庁だそうです。
また、都節制使というのは、地方に置かれた軍隊の指揮官のことです。
2.朝鮮の官職を受職する理由
中村栄孝著 『日鮮関係史の研究 上』 によれば、当時、対馬の島内生活は経済的に貧困しており、朝鮮からの援助に
よって救済されようとして、島主が朝鮮から官職を受けることを念願して、使者を朝鮮に送ったようです。朝鮮の官吏に
なれば俸禄が支給されるからです。
同書によると、従一品の俸禄は次のとおりです。
春・・・中米3石、玄米11石、粟1石、大豆11石、つむぎ2匹、正布4匹、楮貨(こうぞ製の紙幣)10張
夏・・・中米3石、玄米11石、小麦4石、つむぎ1匹、正布4匹
秋・・・中米3石、玄米10石、粟1石、小麦5石、つむぎ1匹、正布4匹
冬・・・中米3石、玄米11石、大豆10石、つむぎ1匹、正布3匹
ところが、朝鮮から対馬へ官職授与の使者の派遣が決まった後、対馬から朝鮮に来ていた豆奴鋭(つのえ=津江)と
いう使者が受職を放棄する工作を行いました。その後、どうなったのかは、 『世祖実録』など記録に何ら残されていないよう
です。対馬島主へ官職を授与するか否かについて、朝鮮政府の重臣会議で慎重に討議し、国王世祖が授職を決裁したものに
ついて、何も記録に残っていないということは、朝鮮政府に官職授与を願い出た対馬の使者による受職放棄という事件は
記録に残したくないほどのものだったと思われます。
中村栄孝氏は 『日鮮関係史の研究 上』 で、「受職の結果が期待するところとくいちがうために、不成立をねらった謀略
といったことも想像できないことはない。」と述べています。また、朝鮮側は、当初から、事と次第によっては決定変更もやむ
をえないという態度だったそうです。
中村栄孝氏は 上記研究書において、「対馬島主の立場がきわめて不明確で、時局担当者の行動は、まことに理解に苦し
むところが多い。ここにツシマの存立の困難が想察され、その特殊な地位がみとめられるともいえよう。」と結論を述べて
います。
当時、対馬が経済的に困窮しており、そのために日本の幕府ではなく、距離的に近い朝鮮政府に頼っていたことがよく
わかると思われます。
令和2年8月
対馬が朝鮮の属州であるという誤解を招いた一要因
~朝鮮国が宗氏第10代当主 宗成職へ官職を授与~ (2-1)
1. はじめに
宗成職(そう・しげもと)は対馬を支配した宗氏の第10代当主です。宗氏の祖は平知盛の三男・宗知宗とされています。
平知盛は平清盛の四男です。宗氏の初代当主は宗知宗の子の宗重尚です。しかし、宗知宗も宗重尚も確実な歴史資料
に登場しないところから、その実在が疑問視されており、重尚の弟で、確実な資料にみえる初めて宗氏と称した宗助国を初
代当主と見る説もあります。宗助国を初代当主とすると、宗成職は第9代当主となります。宗成職とその父・貞盛、祖父の
貞茂の3人は、対馬島の中央部の東岸に位置する佐賀(さか)を本拠地としていました。宗成職には嫡子はおらず、いとこ
の宗貞国が1468年に家督を継いで厳原(対馬府中)に居を構えました。なお、宗成職の4代前の第6代当主・宗澄茂の時
に対馬国の守護代から守護になっています。
ところで、対馬守護・宗成職は、朝鮮国から「判中枢院事兼対馬州都節制使」という官職を授与されました。朝鮮から官職
を授与されたのは、宗氏の中では宗成職だけだそうです。そしてこのことが、対馬が朝鮮の属州であるという誤解を招くもと
になったかと思われると、中村栄孝博士は『日鮮関係史の研究 上』 で述べておられます。
それでは、どうした事情で官職を受けたのでしょうか。その前に、まず宗成職の略歴をみて見ましょう。
2.宗成職について
1420年 (応永27年) 第9代宗貞盛の長男として生まれる。幼名は千代熊で、彦六と通称した。
なお、生年を1419年(応永26年)とする説もある。
1444年 (嘉吉4年) 元服する。前年、宗貞盛は、使者津江次郎を朝鮮へ派遣。津江次郎は朝鮮国の礼曹(外交や
儀礼などを担当する中央官庁)に対し、「長子千代熊、明年、歳首加冠、請別賜」
( 首(=頭)に冠を付ける(加冠)年齢になるので、お祝いの品を賜りたい。)と言上し、
国王世宗はこれに対して、「綿紬四匹、麻布三匹、苧布三匹」を贈ることに同意。
宗成職は25歳で元服。
1452年 (宝徳4年) 貞盛の死去により、第10代当主となる。この年、将軍足利義成(後の義政)より「成」
の字を賜る。
〃 (享徳元年) 閏8月、貞盛死去に対する弔意と島主継職の祝賀のため朝鮮から使者が来島。成職は使者を
私宅へ招き宴を催して慰撫する。
11月、対馬への使者来島に対する謝意を表すため朝鮮へ使者を派遣。
1455年 (康正元年) 将軍足利義成の召しにより上洛。義政に拝謁。
1460年 (寛正元年) 朝鮮国から使節が来島し、このことを幕府へ報告。
1461年 (寛正2年) 朝鮮国から「従一品」を授けられ、「中枢院事兼対馬州都節制使」という官職を与えられる。
1464年 (寛正5年) 対外関係に携わって来た秦盛幸を特使として朝鮮へ派遣し、対馬と中国との関係改善のため
朝鮮に協力を依頼。
1468年 (応仁2年) 7月、49歳で死去。(1467年(応仁元年)死去説あり)
参考文献
『宗成職島主期の日朝関係』 仲尾 宏著
『日鮮関係史の研究 上』 中村 栄孝
『宗成職』 ウィキペディア
『宗貞盛』 ウィキペディア
令和2年7月
『三国史記』に記載された対馬
『三国史記』は、高麗の仁宗の23年(1145年)12月、官僚で儒学者でもある金富軾という人物が王命により執筆
したもので、現存する朝鮮最古の歴史書です。
新羅本紀 實聖尼師今 7年(408年)春2月
「 王は倭人が対馬島に軍営を設けて兵器と軍需品を貯え、わが国を襲おうと企んでいることを聞き 」、
( 王聞倭人於対馬島置営。貯以兵革資粮。以謀襲我。)
『三国史記』は新羅本紀から始まっていますが、対馬に関する部分は、上記「實聖尼師今7年春2月」の条に記載されて
います。そして、 『三国史記』には対馬に関する部分はこれだけしか記載がありません。すなわち、高句麗本紀や百済本紀
には全く記載されておらず、「地理」の中にも記載がありません。
世宗元年(1419年)7月17日、朝鮮の太宗は対馬の宗貞盛あて文書を送り、対馬島はもとは慶尚道の雞林(慶州)に属する
朝鮮の領土だったと述べています。
(対馬島為島、隷於慶尚道之雞林、本是我国之地)
太宗がどんな根拠で対馬が元は慶州に属していたと言ったのか不明です。もし、対馬がもと慶州に属する朝鮮の領土だっ
たということが高麗王朝の王侯、貴族たちに認識されていたならは、『三国史記』にもその旨記載されていたと思います。記載
されていないということは 高麗王朝の人々はそのように認識していなかったということになるのではないでしょうか。
参考文献
「日鮮関係史の研究 上」 中村栄孝著 吉川弘文館
「三国史記」 六興出版
令和2年6月
対馬の朝鮮慶尚道の属州化について
1.初めに
『老松堂日本行録』の「二月二十八の即事」と題する文章の中に、対馬の倭寇の頭目的人物である早田左衛門太郎が
対馬東海岸の小船越に停泊している回礼使 宋希璟のもとを訪れ、朝鮮国が対馬を朝鮮の領土にした文書が対馬に届いた
こと、先祖伝来からの対馬の支配者 少弐殿がこれを聞いたらきっと朝鮮と戦争するであろうから、少弐殿には知らせずに
朝鮮から届いた文書を朝鮮へ送り返したいと述べたこと、宋希璟は、あなた方が派遣した使者が我が国に、対馬を朝鮮の
領土にしてくれるよう請願し続けるので、我が国はこれを認めたのであり、今日のあなた方の意志を知っていたら国王は
承認しなかっただろうから、国王にこのことを伝えると述べたこと、対馬の使者は朝鮮に拘留されたり、処刑されたり
するかもしれないと恐れて、対馬を朝鮮に属させて、朝鮮の民になりたいとその場しのぎで言ったまでであり、早田左衛門
太郎や少弐殿が言ったことではなかった、というようなことが記載されています。
そこで、今回は、対馬を朝鮮の領土とするよう対馬の使者が朝鮮政府に頼んだことを早田左衛門太郎は初めから知らな
かったのであろうか、それとも早田左衛門太郎がそのように言わせたのではないかということについて述べたいと思います。
まず、応永の外寇(応永26年(1419年、世宗元年)6月)以後の対馬と朝鮮との外交交渉の経緯を見てみましょう。
2.応永の外寇以後の対馬と朝鮮との外交交渉の経緯
①世宗元年7月17日、朝鮮の太宗は宗貞盛あて文書を送り、対馬島はもとは慶尚道の鶏林(慶州)に属する朝鮮の領土で
あり、島民を皆朝鮮に移住させて朝鮮に降るべきである(巻土来降)、もしこれに従わない場合は巻土衆を率いて日本
本国へ帰国させてもよい(巻土帰国)、このどちらにも従わなければ、我が国は対馬を大挙して攻囲し、ことごとく
滅ぼしてしまうであろう、と威嚇した。対馬島を空っぽにして、海賊の巣窟を消滅させることを目的としたものだった。
当時朝鮮へ降っていた京城在住の日本人藤賢ら5名が使者として対馬へ派遣された。
②世宗元年9月20日、藤賢らが対馬から帰って来るとともに、宗貞盛の使者 都伊端都郎(津江初郎の当て字か?)が来て、
降を乞い、印信を賜って朝鮮と交易をしたい、朝鮮に拘留された対馬人を返してもらいたいと述べ、土産物を献じた。
巻土来降も巻土帰国も無視するものだった。
③世宗元年10月18日、対馬に帰る都伊端都郎に礼曹判書が文書を渡す。内容は、宗貞茂はかつて衆を率いて珍島・南海
島等に移住することを請うた、よってその子貞盛も父の遺志を継いで券土来降すべきである、というものだった。
④世宗元年11月19日、将軍足利義持の使者 僧亮倪が九州探題の使者とともに朝鮮を訪問。12月14日京城に入京。
日本側の音信不通を謝し、仏典を請い求めるために来たことを朝鮮側に伝える。
⑤世宗2年閏正月10日、礼曹が王の世宗に宗貞盛の使者 時応界都から口頭で聞いたこととして、宗貞盛の回答の内容を
報告。
1) 対馬から人民を朝鮮の加羅山などの島へ派遣して外護をなすから、朝鮮はその人民を入島させて開墾させ、
その田税の一部を対馬に分け与えて、対馬の生活難を救済してほしい。
2) 予(宗貞盛)は、族人に守護の位を奪われるおそれがあるので、朝鮮へ出かけることはできない。朝鮮国内の
例により、対馬に朝鮮式の州名を付けてほしいこと、印を賜れば予は朝鮮国王の臣下となり、命令にただ従う
ぱかりである。
⑥世宗2年閏正月15日、朝鮮に使者を送ったことに対して日本側に謝意を表し、かつ大蔵経を贈呈するために朝鮮が宋希
璟を回礼使として日本へ派遣する。
⑦世宗2年閏正月23日、礼曹判書許稠が宗貞盛あてに下記内容の朝鮮国の回答書を送る。
1) 対馬を朝鮮の属州とすることを承認し、対馬を慶尚道の管轄とする。
2) 願いのあった印を賜る。
3) 宗貞盛の代官早田左衛門太郎が朝鮮に人を派遣して文書を寄こすことは秩序に反するので、今後は宗貞盛自らが
書いた文書を持参しなければ、朝鮮から接待を受けることはできない。
3.早田左衛門太郎の狼狽
回礼使宋希璟の一行が2月21日から風待ちのため対馬の船越に停泊していた時、2月28日に早田左衛門太郎が宋希璟
を訪ねて、朝鮮から文書が対馬に届いたこと、それによると、朝鮮は対馬を朝鮮の領土にしたこと、先祖伝来からの対馬の
支配者である少弐殿がこれを聞いたらきっと朝鮮と戦争するであろうから、少弐殿には知らせずに朝鮮から届いた文書を朝
鮮へ送り返したいと述べました。
これは、上の⑦の3)の内容は早田左衛門太郎にとっては極めて不都合なことであり、朝鮮との外交は今後は対馬島主
本人が書いた文書(親署)を持って来なければ、対馬との交渉は受け入れないという内容は、早田左衛門太郎にとっては
極めて衝撃的なことだったでしょう。これまで、早田左衛門太郎は対馬島主である宗貞盛の許可を得ないで、勝手に朝鮮へ
文書を送っており、今後はそれができなくなってしまうからです。
このため、早田左衛門太郎は、この文書を宗貞盛の元へ送らず、先祖伝来からの対馬の支配者 少弐殿がこれを聞いたら
きっと朝鮮と戦争するであろうから、少弐殿には知らせずに朝鮮から届いた文書を朝鮮へ送り返したいと述べたのだと思わ
れます。
対馬島主の宋貞盛本人は、1419年に朝鮮が倭寇の巣窟と考えて対馬を攻撃した応永の外寇が発生した当時、主家筋
の少弐氏のもとにおり、応永の外寇後もそのまま少弐氏のところにおりました。そこで、中村栄孝氏は『日鮮関係史の研究
上』 (吉川弘文館)の中で、「当時、島主の不在を奇貨として、在島の代官その他が然るべく措置して、文書の往復を行って
いた真相を暗示しているものといってさしつかえなかろう。」と述べて、朝鮮との外交は島主のいない間に、対馬にいる代官、
すなわち、早田左衛門太郎などが行っていたのが真相であろうと推測されています。
4.対馬人の苦悩
それでは、対馬から朝鮮への使者に、どうして早田左衛門太郎は対馬を朝鮮の属州としてほしいと朝鮮側に言わせたので
しょうか。それは、対馬が耕作地が少なく、対馬の人々は貧しい暮らしをしていたからではないでしょうか。早田左衛門太郎は
本心から朝鮮の属州になりたいと思っていたわけではなく、朝鮮から米などの食料を得るための手段として、属州になりたい
と言い寄ったものと思われます。対馬は「山険しく、深林多く、良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す」と
古代の中国の史書 『魏志倭人伝』に描かれている状況は、15世紀になってもほぼ同じだったと思われます。生きていくため
に倭寇になってしまうしかなかった人々もいた時代でした。
対馬を倭寇の巣窟と考えた朝鮮が対馬を攻撃した応永の外寇が起こるとは、対馬人は予想もしなかったのではないでしょう
か。応永の外寇後、朝鮮との関係が厳しくなった対馬は生き残りをかけて、朝鮮の属州になりたいと言って朝鮮側にすり寄っ
たものと思われ、そこに、対馬人の苦悩がにじみ出ているように思われます。
参考文献
「老松堂日本行録」 宋希璟著 村井章介校注 岩波文庫
「日鮮関係史の研究 上」 中村栄孝著 吉川弘文館
令和2年5月
『老松堂日本行録』に記載された対馬の豪族 早田左衛門太郎(2)
二十一日対馬島の東面船余串に到泊し万戸に示す
世宗2年2月21日、日本回礼使一行は風待ちのため、対馬島東面の「船余串」(船越)に停泊しました。船越には大船越
と小船越がありますが、 『老松堂日本行録』(岩波文庫)で村井章介氏は、回礼使一行が停泊した「船余串」とは小船越の
ことであり、早田左衛門太郎(倭寇の頭目的存在)はここを本拠としていたと校注をつけておられます。この日、早田左衛門
太郎がまた船にやって来て、酒を献呈したそうですが、宋希璟は、早田左衛門太郎について、「国家に向う語言至誠なり」と
書いています。そして次の文章を書いて、早田左衛門太郎に見せています。
将軍感化す太平の春 国に向う心誠にして賜命新たなり 慕義の語言は皆理に合い
渠もまた是れ一純臣なるを知る
早田左衛門太郎のことを「純臣」と書いており、 宋希璟は彼をとても誠実な人間と思ったようです。
二月二十八日の即事
宋希璟は2月28日にあった出来事について、次のとおり書いていますが、とても興味深い部分です。対馬から朝鮮へ派遣
された使者が勝手に対馬を朝鮮の一部にしてほしいと朝鮮政府に頼み込み、承認されたものです。
このことを知った早田左衛門太郎が宋希璟に訴える場面です。次のとおり現代文に訳してみました。
「我が国が対馬に兵を送った後、早田左衛門太郎が我が国に派遣した使者が対馬に帰った来た。太郎が書を孔達と
仁輔に見てくれと言うには、
『朝鮮は昨年この島を攻撃し、今度は対馬を慶尚道に属させました。このことを記した文書が前日届きました。
この島は少弐殿の先祖伝来の土地です。もし少弐殿がこれを聞いたなら、朝鮮と百回戦かって百回死ぬとしても、
必ず戦うでありましょう。』
孔達らはこれを聞いて私の所にやって来て、心配し恐れていると告げて、『これは一体どうしましょうか。』と言った。
すると、太郎が急に船にやって来て、私と孔達に 『この文書を少弐殿が見たら、あなた方は去ることも留まることも
どちらもできないでしょう。この文書を少弐殿に送るか、それともここに留め置いて、少弐殿には知らせないことにする
か、あなた方が決めてください。』と言った。
それで私は次のとおり答えた。
『この島は我が国が獲得したが、我が国の民が居住することはなく、また対馬の人民を得たけれ ども、彼らを我が
国のために使うこともしていない。ただ、あなた方が派遣した使者が、対馬を我が国の領土にしてくれと言い続ける
ので、国王は六曹を召して、「対馬人が彼らの島を我が国の領土にするよう願っている。もしこれを認めなければ
仁の道に背くことになる。したがって、慶尚道に属させるしかない。」とおっしゃいました。今日のあなた方の
意志を国王がお知りになったなら、きっと慶尚道に属させることはしないでしょう。私はこのことを国王に報告
したいと思います。」と。
太郎は喜んで、
『それならば、この文書は私が隠して置いて、少弐殿には知らせないことにしましょう。また、私が船を出して
この文書を朝鮮に送り返すならば、問題は起こらないでしょう。」』と言った。
私は、これを認めた。昨年の対馬攻撃の後に太郎らが我が国に派遣した対馬人たちは、処刑されることを大いに恐
れ、拘留されるのではないかと大いに疑い、処刑を免れて対馬に帰りたいと願い、対馬を朝鮮に属させて、朝鮮の
民になりたいと願ったのである。対馬からの使者はその場しのぎで言ったまでであり、少弐殿や太郎たちが言った
ことではなかった。
僻地の愚かな民は使いものにならない。古来中国は愚かなえびすを嫌がって避けて来た。彼は今義を慕って自ら
我が国に属することを求めたが、我が国の方からが強いて領土にしようとしたわけではない。 」
少弐氏は当時北部九州を支配していた守護であり、対馬には守護代として宗氏を置いていました。したがって、朝鮮に
派遣された対馬からの使者が勝手に対馬を朝鮮の領土にしてくれるよう朝鮮政府に頼み込み、それが認められたため、
それを知った早田左衛門太郎は、驚いて急いで日本回礼使の宋希璟のもとへ駆けつけて、少弐氏へは知らせないように
取り計らったのでした。
ところで、本当にこの早田左衛門太郎は、自らが朝鮮に派遣した対馬の使者が対馬を朝鮮の属領にしてくれるよう朝鮮政
府に頼んだことを始めから知らなかったのでしょうか。早田左衛門太郎自らが指示したことではなかったのでしょうか。
このことについては、次回に述べたいと思います。
参考文献
「老松堂日本行録」 宋希璟著 村井章介校注 岩波文庫
「日鮮関係史の研究 上」 中村栄孝著 吉川弘文館
令和2年4月
『老松堂日本行録』に記載された対馬の豪族 早田左衛門太郎(1)
朝鮮国の第4代国王世宗は、世宗2年(1420年)閏1月、室町幕府が朝鮮に使者を派遣したことに対する答礼として、
また倭寇から日本に拉致された朝鮮人を朝鮮に連れ帰すため、回礼使を日本へ派遣しましたが、こ時の正使となったのが
宋希璟です。その宋希璟が日本往復の紀行文を書いた『老松堂日本行録』に、対馬の豪族である早田左衛門太郎について
の記述があり、興味深いのでご紹介します。岩波文庫の『老松堂日本行録』の村井章介氏の校注から引用します。
なお、現代文は私の拙い能力で行ったものですので、誤りがあるかもわかりませんので、あらかじめおことわりして
おきます。
二十日愁美要時に泊せし時早田万戸三美多羅夜来りて酒を設く
「深夜、呼び声が急にするので船中に上がってみると、酒桶や魚が並べられてあった。言葉は朝鮮と日本とでは
異なるけれども、しばしば盃を上げて一緒に飲んだ。酒食の嗜好は国が違っても同じであるようだ。」
ここで、「愁美要時」(すみよし)とは、現在の対馬市美津島町鴨居瀬地区にある住吉という字のことのようです。
また、 早田三美多羅とは、早田左衛門太郎のことでり、筆者の宋希璟は「左衛門太郎」を「三美多羅」と書いていますが、
宋希璟には早田の下の本当の名前を知らず、聞こえたままに適当に書いたのかもしれません。「三美多羅」は「さみたら」と
発音するものと思われます。
「万戸」というのは、元々、蒙古(元)の軍制において数千名の軍団の統率者を呼ぶ名前だそうです。これが高麗、李氏朝鮮
へと受け継がれたそうで、早田左衛門太郎は朝鮮国から「万戸」という官職をもらっていたようです。こうした官職の授与は米
の贈与や通商の許可と共に朝鮮国が倭寇を懐柔する手段の一つでした。
対馬の豪族 早田氏は浅茅湾沿岸に根拠地を置いて活動しており、倭寇の頭目的存在であったそうです。特に1418年に対
馬の守護 宗貞茂が死んだ後は、早田左衛門太郎が対朝鮮貿易で主導権を握ったそうです。
その早田左衛門太郎が深夜酒と魚を船まで持って来て、酒席を設けたということが書かれています。
礼曹に上る文
「(二月)二十日、対馬島の東側に面した愁美要時に到着し停泊した。昨年の我が国軍による対馬攻撃の後であるだけ
に、対馬人は最初我が船を見て、危惧したようである。(無涯)亮倪(日本から朝鮮への使者として派遣された僧)が
先に小船越に入って、対馬の人々を説諭した。余は船を停泊させ、押物金元をして米を三美多羅及び都々熊丸(宋貞盛
のこと)の母親と代官に送り、好意を示させていた。そのため、この地に停泊したのである。
夜半になって、何度も連呼してやって来る者がいるので、誰なのか問うたところ、早田万戸(左衛門太郎)であった。
乗船を請うので許可したが、彼は酒や魚を持って来た。それで余は飲食するのを許可した。そこで、昨年の我が国に
よる対馬攻撃のことと今回の日本訪問についての国王のお考えを早田万戸に話して聞かせた。
すると、早田は感に堪えずこう言った。
「我々が朝鮮に送った使者が今に至るまで帰って来ません。このため、当時の防禦体制を今も解くことができないでいま
す。今、あなたから話を聞き、吾輩はこれでやっと安らかに寝食することができます。また住む家も今からやっと建てる
ことができます。先だってこの島の道理にそむく人物が貴国を侵犯し、都々熊丸(宋貞盛)を欺き、天を欺き、貴国の国
王殿下を欺きました。天はこのことを忌み嫌っています。このような人間はどうしてよく生を長らえることができる
でしょうか。こうした類の人間は今やことごとく滅んでいます。
昨年の貴国による対馬攻撃は天の道理にかなうことでしたので、私は貴国兵士に対して一本も弓矢を発しませんでし
た。また、貴国の兵士が水を汲みに通う道を対馬人が遮断しようとしたので、私はこれを止めてこう言いましたよ。
『お前が水を汲みに通う道を遮断したとしても、天の兵である敵軍兵士を損なわせることなどできるものか』と。
私はこのように貴国を大切に思うばかりであり、他に他意はありません。」と。
予はこれを聞いて、「君の言うことは正しい。」と申した。そして、多羅(太郎)は夜のうちに帰って行った。
今、物事の成り行きを見てみると、対馬島の全ての物事はこの人物から指令が出ているような気配である。この人物は
昨年の対馬攻撃で家や財産をことごとく失ってしまったが、今の彼の話にはこのことについての言及はなかった。
我が国に対する彼の発言は全て真実であり、我々を接待しようとする気持ちが厚いと思われた。
都々熊丸や宗俊(都々熊丸の弟)らは九州に居住したまま、対馬に帰って来ていない。どうしてなのか、その理由が
わからない。 この島の倭人たちが食料に飢えていることは確実である。」
この早田氏というのは、浅茅湾に面した対馬島の西端の尾崎と東端の船越の両方に根拠地を持っていたようで、現在も
子孫が尾崎と船越(小船越)に住んでおられるようです。
参考文献
「老松堂日本行録」 宋希璟著 村井章介校注 岩波文庫
「国境の島 壱岐対馬五島 交易・交流と緊張の歴史」第7章 平成30年3月 長崎県
令和2年3月
宋希璟と対馬・壱岐
宋希璟(そう・きけい ソン・ヒギョン 1376~1446)は朝鮮王朝時代の官僚です。1419年、李従茂を司令官とする約
1万7千人からなる朝鮮軍が倭寇の根拠地対馬を攻撃した応永の外寇が起こりました。この事件の結果、室町幕府がどの
ような措置をとったかは、日本の史料には記録がないそうですが、韓国側の史料としては、『世宗実録』に記録されているよう
です。
それによると、世宗元年11月、日本の国王が亮倪(りょうげい)という僧を使者として朝鮮に派遣し、長らく音信が
なかったことを詫びるとともに、大蔵経などの仏典を贈与してくれるよう望んだそうです。しかし、実際は応永の外寇に驚いた
第4代将軍足利義持が朝鮮側の真意を探るために派遣したようです。
朝鮮国の第4代国王世宗は、翌世宗2年(1420年)閏1月、答礼のため、また倭寇から日本に拉致された朝鮮人を朝鮮に
帰すため、日本からの使者の帰国とあわせて回礼使を日本へ派遣しました。この時の正使となったのが、宋希璟です。
宋希璟は1402年科挙に合格して官界に入り、司諫院の正言、芸文館の修撰などの役職を歴任し、1411年に聖節使の
書状官として明国へ派遣されました。
1420年閏1月15日に京城を出発し、4月21日に京都に到着、6月16日に将軍足利義持と会談して、10月25日に
京城に帰っています。そして出発から帰京までの様子について漢詩を中心とした紀行文を書きました。これが『老松堂日本
行録』という書物です。「老松堂」とは宋希璟の号です。朝鮮人による日本紀行文としては現存する最古のものだそうです。
回礼使一行が対馬の北端、現在の上対馬町に到着したのは、2月16日でした。2月20日に現在の美津島町鴨居瀬の住
吉に停泊していたら、早田万戸三美多羅という者が夜訪ねて来て、酒の席を設けたそうです。この早田万戸三美多羅という
者は、正しくは早田左衛門太郎といい、当時の倭寇の頭目的な存在だったそうです。当時の朝鮮人にとって、倭寇の頭目は
不倶戴天の敵のはずですが、捕えて殺さず、逆に酒席を設けるところは面白いと思います。
次回は、対馬と壱岐での様子についてどう書かれているか、紹介したいと思います。
参考文献
「老松堂日本行録」 宋希璟著 村井章介校注 岩波文庫
「日鮮関係史の研究 上」 中村栄孝著 吉川弘文館
令和2年2月
朝鮮人キリシタン フランシスコ
宣教師の宿主をしていた朝鮮人キリシタン竹屋コスメの息子フランシスコは、1622年9月11日に長崎で殉教しました。
そして、父親の竹屋コスメや母親のイネスとともに、1867年に福者に列せられました。
フランシスコの死について、ジョアン・ロドリゲス・ジランというポルトガル出身のイエズス会宣教師が1623年3月
15日付けで滞在先のマカオからイエズス会総長あてに次のとおり報告しています。なお、ホアン・ガルシア・ルイズデ
メディナ氏の著書 『遥かなる高麗』から引用させていただきます。
「 12才の少年フランシスコは、宣教師の宿主であったために3年前長崎で火刑に処せられた聖なる殉教者[竹屋]
コスメの息子です。
父親が死んだとき、平戸のある人物が彼を養子にして平戸へ連れて行きました。しかし将軍が、過去の殉教者の
妻子も処刑するように命じたので、この少年が長崎から遠く28里離れた平戸に住んでいることも、役に立ちません
でした。
そのために彼をそこ[平戸]から連れて来るように命令されましたが、到着が遅れたため他の聖なる殉教者と共に
同じ日に死ぬことが出来ず、翌日子供というよりは大人のような勇気と喜びを抱いて死にました。
裁判所の役人は彼がこのような年少者であるから、殉教者の首や死体が積み重ねられているのを目の前に見
たら、脅えるだろうと考えて、違った方角に向かせて首を斬ろうとしました。しかし勇敢な少年は、かかる手本を見て
怯むどころか、却って勇気付けられ、如何にしても違った方角へ向かわせられることを承知しませんでした。無理や
りに向き直されましたが、再び殉教者の方角へ顔を真っすぐにして、刀の一撃を待ちました。打撃が間近に迫ると見
ると、姿勢を正し、その一撃を受けるために手を上に伸ばし、感嘆すべき堅固な心で刀を受け、そして霊魂を創造主
に捧げ、神の永遠の喜びに入りました。」
上記報告文をイエズス会総長に送ったポルトガル人イエズス会士ジョアン・ロドリゲス・ジラン(1558~1629)は、
1586年に来日し、長崎などで布教活動を行っています。日本語が堪能だったそうで、1603年から数年日本管区長の
秘書を務めたそうです。
参考文献
『遥かなる高麗』 ホアン・ガルシア・ルイズメディナ著 近藤出版社 1988年
『1611年度日本年表』解説
令和2年1月
朝鮮人キリシタン コスメ・タケヤ
1.『日本切支丹宗門史』より
朝鮮人キリシタン コスメ・タケヤについては、『日本切支丹宗門史』中巻(岩波文庫)に記載されています(82貢)。
それによると、コスメ・タケヤは11歳の時に日本に連れて来られて、イエズス会の神父から洗礼を受けています。
どこかの領主に仕え、後に家老になったようです。そして、よく仕えた功により、屋敷と知行を賜ったそうです。
彼は、相当な暮らしをし、ずっと修道者たちの宿主をしていたそうです。つまり、修道者たちに宿を提供していたそうです。
コスメ・タケヤが捕まったことを知った彼の主人、すなわち、どこかの領主は、誠に立派なことで、自分の家来が捕まった
ことを褒めたそうです。
コスメ・タケヤが長崎奉行所の役人に捕らわれた場面について、『日本切支丹宗門史』(中巻)に次のとおり記載されて
います(72~73貢)。なお、「第3章 1618年」のところに記載されています。
「 キリシタン達は、実によく用心していたが、裏切者が出て、方々の住居を告発し、また隠密が召捕を実行した。
12月13日、聖ルシヤの祝日の真夜中、長崎は踏み込まれ、2隊の兵卒等によって襲われたもののようである。
4人の修道者たちは、2箇所の家で捕らわれた。一方の家には、数個月前に着いて、言葉を勉強していた2人の
ドミニコ会員アンゼロ・オルスッシと、ヨハネ・デ・サン・ドミニコの神父が二人いた。なお、彼等の宿主朝鮮人
のコスメ・タケヤと、伝道士トマスとが投獄された。タケヤは家を取上げられ、トマスはナバレテ神父に従って
大村におり、当時まだ殉教できずにいた。 」
2.『遥かなる高麗』より
『遥かなる高麗』(近藤出版社 1988年)には、「福者 竹屋ソーザブロー・コスメ」というタイトルで紹介されて
います。ジョアン・ロドリゲス・ジランという人物が記録した書簡が、1620年1月20日にイエズス会総長あて発信さ
れています。ジョアン・ロドリゲス・ジランは1610年代に日本から追放されましたので、直接見て書いたものではなく、
日本に潜伏している宣教師から報告を受けて記録したものと思われます。本文中に、「ソーザブロー・コスメ」と記載さ
れていますので、名前は「ソーザブロー」であったことがわかります。漢字に直すと、「惣三郎」であったと思います。
「 コスメは高麗生まれで、11才のときに日本に来て、13才でイエスス会の教会で洗礼を受けました。主人に愛と
誠実の心で仕えたので、主人は住む家を与えて、この市に居住させました。霊の救いの問題に関心を持っていた
ので、たびたび宣教師を自分の家に迎えました。昨年彼の家で2人のドミニコ会士が発見されたので、彼も捕らえ
ら投獄され、そこで天使のような生活をしていました。彼は水・金・土曜日毎に断食と縄苦行を行いました。
絶えず祈っていて、霊的なことに関する書籍をよく読めるように、牢獄の中で読み方を学びました。話すことは
常に天国のことであり、ずっと以前から悪口を言うことを避けていました。金・土曜日毎に断食を行い始めて10
年以上になります。彼の使用人を注意深く導き、キリスト教の教議を教え、神の教えを守るよういつも勧めていま
した。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
他の2名の聖なる囚われ人、吉田ジョアンとソーザブロー・コスメも同じ方法・同じ勇気で答えて、これもまた
死を申し渡されました。こうして5人は自分たちの幸せな運命を喜んで、殉教の場へ向かうことになりました。
<裁判長・権六はそのとき彼らに、日本の習慣に従って盃、すなわち酒の杯を与え、自分も盃を手に取って彼らと
別れました[・・・]。そこにいた人々の中には涙を流している者もいました。>
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この殉教は1619年11月18日・月曜日に、日本の国王、江戸の将軍の命令で、長崎においてその市の奉行・
裁判長である長谷川権六の指揮のもとに行われました。」
上記書簡のうち、< >の部分は、『遥かなる高麗』の編著者が、他の資料から補足したものです。
長崎奉行が処刑される者に別れの杯を与えたとは、ちょっと意外に思われます。キリシタンを厳しく弾圧した奉行で
あっても、やはり生身の人間なんだと思いました。
『遥かなる高麗』の編著者ホアン・ガルシア・ルイズメディナ氏は、ソーザブロー・コスメについて次のとおり書いています。
「 また、11月18日に長崎で、11才の子供の時に捕えられた捕虜が、炎の中で死んだ。生前、主人に対する彼の
忠誠は長崎の数軒の家を贈与されたことで報いられ、社会的には通常の身分を回復していた。彼は竹屋ソーザブ
ローという名で、宣教師の言葉や文字の教師であった。今日、彼は福者竹屋コスメの名で、聖人名簿に現れている。
彼の妻イネスと息子フランシスコは3年後に殉教している。1597年に殉教し、後に聖人に列せられた-日本人竹屋
コスメと奇しくも同名であるが、おそらくソーザブローは、受洗のときに、この聖人の姓名を採って命名したのではある
まいか。」
もし、ホアン・ガルシア・ルイズメディナ氏の説が真実だとすると、日本人の竹屋コスメが1597年に殉教した後に
竹屋ソーザブローが洗礼を受けたのですから、その年は最も早くて日本人の竹屋コスメが殉教した1597年だとすると、
竹屋ソーザブローは13才で受洗したので、彼はその2年前の1595年に日本に連れて来られたことになります。
すると、その時11才だったので、彼が亡くなった時は、35才だということになります。しかし、実際は2,3才程度年齢は
上だったのではないでしょうか。40才まではいってなかったろうと思われます。
そして、彼は同じ朝鮮人のイネスと結婚し、息子竹屋フランシスコが生まれましたが、フランシスコは1622年に12才で
処刑されたので、彼が生まれた1610年の時、父親の竹屋ソーザブローの年齢は26才~28才前後だったのではないでしょ
うか。
なお、日本人の竹屋コスメは1597年2月5日、豊臣秀吉の命令によって長崎の西坂で処刑されました。26聖人の一人で
す。朝鮮人の竹屋ソーザブロー・コスメは、1867年に聖人に次ぐ福者に列せられました。
参考文献
『日本切支丹宗門史』中巻 レオン・パジェス著 岩波文庫 1938年
『遥かなる高麗』 ホアン・ガルシア・ルイズメディナ著 近藤出版社 1988年
令和元年12月
応永の外寇時の朝鮮軍司令官・李従茂
1419年に朝鮮軍が倭寇の根拠地・対馬を攻撃した応永の外寇の朝鮮軍司令官・李従茂(イ・ジョンム 이종무)について、
韓国のウィキ百科から引用して紹介します。
なお、引用に当っては、日本のウィキペディアを参考にしています。
1360年 高麗の武臣 長川府院君 李乙珍の息子として生まれる。子供の頃から乗馬と弓に秀でていた。
1381年 14歳の時に父に伴って江原道に侵入して来た倭寇を撃退した功により精勇護軍となった。
1392年 李氏朝鮮が建国される。
1397年 黄海道の甕津で万戸(外敵の侵入を防ぐために設置された官職)の職にある時、倭寇が再び侵入して来て
城を包囲するや、最後まで戦って敵を撃退した功績により僉節制使(節度使の下に兵馬僉節制使と水軍僉節
制使が設置された。)に任命された。さらに都に戻って来てから上将軍に任命された。
1400年 第二次王子の乱で李芳遠(李氏朝鮮初代王李成桂の息子。第三代王太宗。在位1400年11月28日~1418年
9月9日)側に付き、兄の李芳幹の軍勢を壊滅させた。
1406年 「翊戴佐命功臣」の号を受けて通原君に封じられ、義州などの兵馬節制使に昇進した。その後、安州都
兵馬使、安州節制使を歴任した。
1417年 義政府左参賛となる。
1419年 三軍都体察使となり対馬攻撃の指揮官となる。陰暦6月19日、軍艦227隻を率いて巨済島を出発。
(世宗元年)
6月20日、対馬島に到着し、敵船129隻を奪い、家屋1993戸を焼いた。朝鮮人や中国人捕虜を連れ
帰った。これらの功績により、8月25日、長川君に封じられた。しかし、奇襲を受けて戦死した
朴実らを失ったことについて、朝廷はしぶとく罪に問うたが、世宗は李従茂をかばった。しかし、11月
9日、謝罪のため従軍しようとする金訓と盧異を推薦した罪により、義禁府に投獄された。金訓と盧異は無
能であり、功を上げようとして従軍しようとし、李従茂はこのことについて世宗から許しを得た。しかし、
司諫院らは不忠な者を従軍させたとして李従茂と金訓、李チョクらを処罰するよう求めた。しかし、世宗は
拒否し、李従茂は、「年老りは死んで、戻らない方がよい」と述べて断食した。その後絶え間ない弾劾にも
かかわらず、世宗は李従茂をかばった。
1420年 6月5日、獄を解かれ、都の外に居住させられた。
1423年 謝恩使として明国を訪問し、翌年2月、副使の李種善と共に帰国した。
1425年 6月9日、享年66歳で死去。世宗は朝廷での会議を3日間中断させ、襄厚という諡号を与えた。
6月17日に出した教書で、世宗は、「万里の長城が急に崩れた」という表現で悲痛感を表した。
令和元年11月
応永の外寇600周年
今年は1419年に朝鮮国が倭寇の根拠地であり、海賊の巣窟と考えていた対馬を攻撃した事件が起きてからちょうど600
周年にあたります。応永26年に起きたので、日本では応永の外寇と言われます。対馬攻撃に参加した朝鮮の兵力は兵船
227隻、軍兵1万7285人もの大軍だったそうです。朝鮮軍は65日分の食糧を準備していましたが、対馬側の反撃に遭って
わずか約2週間で撤退したそうです。朝鮮国三軍(右軍・中軍・左軍)の司令官は李従茂という人です。
対馬市豊玉町の仁位の近くにある糠岳で激戦が行われたことから、糠岳戦争とも呼ばれています。
朝鮮王朝実録( 『世宗実録』 )に記載されている応永の外寇の経緯は次のとおりです。
世宗元年
・6月17日 対馬へ向けて巨済島を出発したが、逆風に阻まれて巨済島に戻って停泊。
・6月19日 再び巨済島を出発。
・6月20日 対馬に到着。浅茅湾の西側入口の尾崎に上陸。島内を捜索し、船129隻を奪い、家1939戸を焼く。
114人を斬首し、21人を捕虜とした。また、倭寇に捕らわれていた中国人131名を救出。
・6月?日 浅茅湾の東岸の小船越に進軍し、この地に柵を設けて、対馬人の往来を遮断。朝鮮軍が長く留まる意を
示す。また、家68戸と船15隻を焼き、9名の対馬人を斬り殺し、中国人15名と朝鮮人8名を救出。
・6月26日 司令官李従茂は小船越から浅茅湾の北側の仁位に進撃し、三軍を分けて上陸させ、対馬兵を攻撃した。
朴実らの左軍は糠岳で伏兵にあって敗北し、有力部将4名を含む百数十人が戦死及び崖から墜落死。
右軍は対馬兵と戦い、敵を撃退。中軍はついに上陸せず。
世宗元年7月10日付の 『世宗実録』は、対馬での戦死者は180人と記録。
・6月29日? 対馬島主宗貞盛、朝鮮軍の長期間の対馬滞在を恐れて書を朝鮮軍に送り、兵を退き、修好を請う。
また、7月になれば風変が多いので、対馬に長く留まらぬよう朝鮮側に告げる。
・7月 3日 李従茂、朝鮮軍を対馬から巨済島に引き上げさせる。
65日分の食糧を準備して行きながら、対馬側の反撃にあうとわずか2週間で撤退するとは、朝鮮軍はなんと弱小なのだ
ろうと思いますね。正規の兵士はそれほど数は多くなく、大部分は地方からの寄せ集めである雑軍だったようです。
倭寇の根拠地を征伐できなかった朝鮮は、その後平和的な外交政策をとるようになり、それまで禁じていた対馬との交易
を制限付きながらも許すようになりました。
参考文献
中村栄孝著 『日鮮関係史の研究』上
韓国国史編纂委員会 『朝鮮王朝実録』(電子版)
『朝鮮を知る事典』 (「応永の外寇」)
ウィキペディア 『応永の外寇』
令和元年10月
放虎原殉教地
大村市の協和町にある放虎原(ほうこばる)殉教地には、1968(昭和43)年、「日本二百五福者殉教顕彰碑」がカトリック
信者たちによって建立されています。1867年にローマ教皇ピオ(ピウス)9世によって、江戸時代初期に日本で殉教した日本
人信者や外国人宣教師など205人が福者にあげられてから100周年を記念して建てられたそうです。
この福者の中には、文禄慶長の役で日本に連れて来られた朝鮮人13名も含まれており、 この13名を讃える顕彰碑もこの
地に建てられています。この13名は日本に連れて来られた後、キリシタンになった人たちです。
13名のうち、私が名前を知ることができたのは次の7名です。
名前 処刑地 処刑の年
コスメ竹屋長兵衛 西坂 1919年
アントニオ「高麗人」 西坂 1622年
イネス竹屋 西坂 1622年
ガヨ 長崎 1624年
カウン・ビセンテ 西坂 1626年
ガヨ次右衛門 西坂 1627年
ガスパル・バス 西坂 1627年
※ 資料出所 ホームページ 『天上の青』 - 「私家版いじん伝」- 「205福者殉教者」
ところで、1657(明暦3)年に大村藩内の潜伏キリシタン608名が検挙された郡(こおり)崩れという事件で、411人
が大村、長崎、平戸、島原などで斬首され、そのうち、大村の放虎原では久原牢の131名が斬首されています。
大村市教育委員会が2003(平成15)年にここ放虎原殉教地前に建立した説明板によると、処刑場の正確な場所は分から
ないけれども、信者たちによって、この地に「日本二百五福者殉教顕彰碑」が建てられたそうです。
郡崩れの「郡」とは大村藩にあった郡村のことで、検挙された隠れキリシタンのうち、郡村に住んでいた者が最も多かったこ
とから「郡崩れ」と名付けられています。
日本二百五福者殉教顕彰碑
顕彰碑の裏面
朝鮮人13名の顕彰碑
令和元年9月
『東槎録』に記載された朴堤上
朴堤上(パク・チェサン)という人物は、長年倭国に人質にされていた新羅の王子を救出するよう王子の兄である新羅王
から命令を受けて倭に渡り、倭人を騙して無事に王子を船で故国へ帰したのですが、自分は倭人に捕えられて殺された新羅の
部将です。
江戸時代第3次の朝鮮通信使の使行録 『東槎録』 の仁祖2年10月28日の日記に、藍島にとう留している時、対馬藩
の対朝鮮外交僧の玄方が、3使臣の宿所を訪れて来て、使臣たちと話を交わしました。秦の始皇帝時代に不老長寿の薬を求めて
東方に船出したとされる徐福について話が交わされた後、玄方は 朴堤上について、
「藍島から向こうに見える所に、博多冷泉津がある。すなわち、新羅忠臣朴堤上の死体を埋葬したところで」
あると語りました。
「博多古図」(福岡市・住吉神社蔵)という近世の古図に、博多の中に冷泉津という入江の名前が記載されてあり、冷泉津は
博多の一部だったことがわかります。しかし、玄方の時代には博多全体を指して「博多冷泉津」という名称が使われていた
ようです。なお、福岡市博多区に冷泉町という町があり、現在も「冷泉」という地名は残っています。
玄方が生きた時代には、朴堤上は博多で殺されたと考えられていたかもしれません。現代では、朴堤上は対馬の北部で
殺されたと考えられています。日本書紀巻第九に次のとおり記載されています。
「共到對馬、宿于鉏海水門」 (共に對馬に到りて、鉏海の水門に宿る)
「即知欺、而捉新羅使者三人、納檻中、以火焚而殺」
(即ち欺かれたることを知りて、新羅の使者三人を捉えて、檻中に納めて、火を以て焚き殺しつ)
高麗時代の歴史書 『三国史記』には、「堤上を倭王の居場所に送り届けると、彼を木島に流配してから、やがて薪で
もって全身を焼いた後に斬刑に処した。」と記載されています。
「木島」の位置ですが、「木島」と書かれてある以上、博多ではないと思われます。むしろ、木が生い茂っている対馬の方
がまだ可能性は高いと思われます。『三国史記』に記載されている朴堤上はという名は、日本書紀には出て来ません。
日本書紀では、新羅王が倭国に遣わした3人の使者のうち、毛麻利叱智(もまりしち)が朴堤上と思われます。それは
朴堤上のことを三国史記では「あるいは毛未ともいう」と記載されているからです。
玄方は、「死体を埋葬したところ」が博多冷泉津であると言っており、殺された場所が博多冷泉津とは言っていません。
玄方ほどの知識人であれば、三国史記も日本書紀も読んでいると思われますので、殺された場所が対馬であることは
知っていたものと思われます。遺体は対馬に埋葬されずに博多で埋葬されたということを玄方は何かの文献で見ていた
のかもしれません。
玄方はまた、この日、3使臣に自分が作った七言絶句の漢詩を見せています。
回頭西望眼猶寒 頭を回して西を望むと眼なお寒し
十里松林七里灘 十里の松林に七里の灘
堤上旧魂今若在 朴堤上の忠魂が今もあるごとく
夜来入夢問平安 昨夜の夢の中で安否を尋ねる
『東槎録』の筆者で通信使の副使 姜弘重は、「思うに十里の松林と七里灘は、皆冷泉津にあるので引用したものである」
と解説しています。
朴堤上紀念館が韓国の蔚山広域市の蔚州郡に建設されています。私は平成27年に訪問したことがあります。写真を数枚
掲載します。なお、朴堤上について私のこのホームページで、「1.朴堤上」と「「管理人より」アーカイブ」の平成27年
11月のところに紹介しておりますので、見ていただければと思います。
参考文献: 『東槎録』 姜弘重著 若松實訳 日朝協会愛知県連合会発行 2000年8月1日
『日本書紀 上』 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校駐 岩波書店 1967年発行
令和元年8月
『東槎録』に記載された対馬(2)
3.壱岐・勝本に到着
仁祖2年(寛永元年 1624年)10月21日に対馬・府中(厳原)の港を朝鮮の船と対馬藩の船合わせて30隻余りが
一斉に帆を上げて壱岐へ向けて出航しました。すると波浪のため各船が風涛の間に激しく浮き沈み、そのため船中の人々
は皆魂を無くし、嘔吐する声が汚らしくて聞くに堪えなかったと、朝鮮通信使の副使・姜弘重は『東槎録』に書いています。
やがてその日の午後、壱岐の風本浦に着き、龍宮寺に居所を定めました。風本とは勝本のことです。ここで、風本と
勝本の地名の由来についてご紹介しますと、神功皇后が朝鮮の三韓に出兵するため、壱岐で風待ちをしていた際に神社
に祈願すると、朝鮮へ渡るのにちょうど都合のいい風が吹いたため、神功皇后はこれを喜んで、その地を「風本」と名付け
たそうです。また、朝鮮で三韓に勝って日本に帰る途中この地に立ち寄り、風本の名を今度は「勝本」と改めたそうです。
( 石井 敏夫著 『勝本港の「みなと文化」』)
4.朝鮮人の消息を聞く
壱岐島の島主は平戸藩第3代藩主の松浦隆信で、父親の久信が1602年に31歳の若さで急死したため、わずか10歳
で家督を相続し、祖父の初代藩主松浦鎮信が隆信を後見しています。隆信は朝鮮通信使の一行が壱岐に来た時は江戸
にいたので、「副官」の松尾七右衛門という対馬藩重臣・柳川調興の家臣が通信使の接待を行いました。
姜弘重は、壱岐に到着したその日に朝鮮側の訳官から次のように聞いています。
「我が国から捕らえられてこの島におる者がはなはだ多く、使臣が来たことを聞き、(日本側は)隠して出さぬようにし、
ある1人の男が一行の下人と話をしようとすると、対馬島の人に叱責されて、足も地に着かずに引き立てられて行っ
たが、このような者が1人・2人ではない」
この話が事実であると、対馬側は朝鮮人が通信使一行に近寄ることを妨害していたことになりますが、朝鮮人を本国に
刷還するという通信使の役目を妨害したことになります。これについて、姜弘重は、
「思うに、対馬島の人たちが関白(将軍)にそむくようなことが先に聞こえていくと、罪を被るのではないか、
ということを恐れてそのようなのであるが、憎むべきことである」 と書いています。
5.壱岐島主の妻となった朝鮮人の話を聞く
通信使が壱岐に到着して3日目に、平戸藩主の叔父の松浦蔵人信正と、藩主のいとこの日高虎助が三使臣に謁見して
います。松浦家家系図によると、初代平戸藩主松浦鎮信(1549-1614)には子供が4男5女おり、長男が久信(1571-1602)
で第2代藩主となっています。久信の長男隆信(1592-1637)が跡を継いで第3代藩主となっています。鎮信の長女が日高
玄蕃信喜の妻となって、日高虎助を生んでいます。鎮信と朝鮮から連れて来た女性・小麦様との間にできた子供が次男の
信正で蔵人ともいいます。日高虎助にとっては信正(蔵人)は叔父にあたり、また、藩主の隆信とはいとこ同士になります。
通信使の副使・姜弘重は、日高虎助と松浦蔵人が謁見のため使臣の部屋に入って来た時、
「膝で歩いて匍匐(ほふく)し、あえて仰ぎ見ることなく、ただ拝礼して退出した」と記述しています。
匍匐とは、腹ばいになって手と足ではうことを言いますし、使臣の顔も見ないで拝礼だけして退出するとは、まるで将軍や
国王にまみえるかのような態度であり、朝鮮国王の使臣に対する態度が対馬藩の役人たちとはずいぶん違うのではないか
と思われます。
姜弘重は続けて次のように書いています。
「蔵人殿はすなわちわが国昌原の女子が生み、兄弟が皆処女として壬申倭乱のときに捕えられ、皆壱岐当主の
妻になり、今まで生存しており、その夫である島主は、すなわち今の島主の祖父ですでに死去したという。」
初代平戸藩主松浦鎮信が文禄慶長の役で朝鮮から連れて来て側室とした女性は、平戸で小麦様と呼ばれるように
なり、鎮信との間に2男4女を生んでいます。長男が松浦蔵人信正で、平戸藩の家老になりました。蔵人は母の祖国の高
官と面会した時、恐れ多くてかなり緊張したのではないかと思われます。そのため、使臣の顔も仰ぎ見ることができなか
ったのかもしれません。当時小麦様は平戸島に暮らしていたのですが、姜弘重は松浦蔵人が小麦様の息子であることや、
小麦様が朝鮮の昌原出身であることを誰から聞いたのか気になります。当時は壱岐島でもその事実が広く知られていたの
かもしれません。あるいは、通信使一行を案内する対馬藩の藩士から聞いたのかもしれません。また、姜弘重は、小麦様
には姉か妹かがいて、一緒に平戸に連れられて来て、やはり藩主の側室にされたとも記述しています。ただ、松浦家の家
系にはその姉妹の子孫が記載されていません。本当に姉妹だったのかわかりません。小麦様の世話をする付添の女性
だったのかもしれません。
小麦様は朝鮮にいた時、いったいどういう身分だったのでしょうか。これについては、寛永13年(1636)に来日した
江戸時代第4回目の朝鮮通信使の従事官・黄漫浪が著した『東槎録』に、使臣が壱岐島に来た時、二人の朝鮮人と面会し、
そのうちの曹一男という者と黄漫浪とのやり取りが次のとおり記録されています。
「臣問、平戸太守為何如人、則一男言、太守即我国昌原居両班女人之孫子云、・・・・・」
つまり、平戸藩主は朝鮮の昌原に居住する両班の娘の孫だと、壱岐に住む朝鮮人が回答しています。このことから平戸
で小麦様と呼ばれる朝鮮人女性は両班の子供だったことがわかります。小麦様は寛永6年(1629)年に亡くなっています
ので、第4回目の朝鮮通信使が来た時はもうこの世にいませんでした。
平戸島の根獅子(ねしこ)という海辺の町に「小麦様の墓」と呼ばれる大小2基のお墓があり、小麦様と信正の妻の墓であ
ると言い伝えられています。
小麦様のお墓
小麦様のお墓の近くから撮影した根獅子の海
参考文献: 『東槎録』 姜弘重著 若松實訳 日朝協会愛知県連合会発行 2000年8月1日
『東槎録』 黄漫浪著 (「大系朝鮮通信使」第二巻) 1996年
『勝本港の「みなと文化」』 石井 敏夫著
令和元年7月
『東槎録』に記載された対馬(1)
江戸時代の12回にわたる朝鮮通信使のうち、第1次から第3次までは、対馬藩が偽造した朝鮮国王あての日本側
国書に対する朝鮮側の回答という意味で「回答使」であるとともに、文禄慶長の役で日本に拉致された朝鮮人を朝鮮
へ送り帰すという意味の「刷還使」の役も兼ねていたものでした。このため、第1次から第3次までの通信使は、
「回答兼刷還使」という名称で呼ばれています。
さて、江戸時代第3次の朝鮮通信使の副使を務めた人物は姜弘重(カン・ホンジュン 강홍중)といい、当時は承文院の
判校という役職でした。承文院は外交文書を扱う役所で、その長官が判校でした。判校の位は正三品でした。
姜弘重が書いた朝鮮通信使の記録が『東槎録』で、その日記の日付は仁祖2年(寛永元年 1624年)8月20日に
始まり、仁祖3年(寛永2年 1625年)3月26日で終わっています。東槎録には「日記」の他、日本で見聞きした
様々なことを記載した「見聞総録」や書簡、漢詩類も掲載されています。よくこまめに記載しており、特に人名、地名
など固有名詞を多数記録しているところは感心させられます。
この『東槎録』の中で、対馬に関する部分について、今回から数回に分けて紹介していきたいと思います。
若松實(1912~1994)という方が現代文に翻訳されたものが出版されていますので、その本からの引用です。
1.鰐浦到着
通信使一行が最初に対馬に到着したのは対馬島の北端、鰐浦(わにうら)で、10月2日(新暦11月12日)の
午後10時頃でした。前日に釜山を出港して数里行くと波浪がひどくて前に進めず、釜山に戻って停泊しましたが、
各船の役人以下水夫たちは嘔吐して倒れ、人事不省に陥ったと記載されています。翌日も風がひどく吹き、船は風に
逆らって進めず、船中の人は大半が目まいがして倒れていたそうです。
対馬島が見えた時は、船中の人は初めて喜色があったと姜弘重は書いています。鰐浦の岸に数10軒の家があるが、
家の構造が朝鮮の家と異なっており、はなはだ粗末だったと姜弘重は書いています。
また、翌日、船上に留まっていると橘智正という対馬藩の役人が夜明けに来て安否を尋ね、上陸して休息すること
を請うたのですが、前途が忙しいことを理由に辞退しています。鰐浦を出航する時、対馬の老若男女たちが海岸に
出て、垣根のように群がって見物をしていたそうです。
2. 朝鮮の冠服を着用して礼を行う
10月4日の夜、府中(厳原)に到着し、宿所の海晏寺までは見物する男女たちが道端をうずめたそうです。
また、通り過ぎる民家は皆、燈火を掲げて明るくしてあげたそうです。
翌5日、橘智正及び朝鮮国の辞令を受けている馬堂古羅たち5名が皆、朝鮮の冠服を着用して礼を行ったことが記載さ
れています。
橘智正という人物は藩主・宗義智の命を受けて何度か朝鮮へ渡り、国交回復の折衝を行っています。別名を井手弥六
左衛門と言います。また、「馬堂古羅」とは、「またごろう」と読むそうで、『朝日日本歴史人物事典』での田代和生氏
の解説によると、馬堂古羅の本名は武田又五郎と言い、文禄慶長の役で朝鮮側に降った「投降倭」でした。対馬の上県
の伊奈という所の郷士であり、弟の又七と共に「降倭」となって朝鮮側に協力し、加藤清正の陣営を焼き討ちしました。
このため、その功績などにより、戦後、朝鮮国王の光海君から冠服を賜って、受職人として朝鮮との貿易を許された
そうです。
「降倭」と言うと、沙也可(朝鮮名 金忠善)という加藤清正配下の部将が有名ですが、対馬に実名の残っている「降倭」
がいて、通信使の3使臣に対して礼を表するほどの者がいたことがわかります。
しかも、文禄慶長の役が終わってから25年以上経つのに、馬堂古羅は通信使の使臣から未だに名前が知られており、
朝鮮国から官職を授かっていて、朝鮮国の使臣が来た時は朝鮮国の官吏として朝鮮の冠服を着て礼を行ったとは、とても
興味深く思われます。
参考文献: 『東槎録』 姜弘重著 若松實訳 日朝協会愛知県連合会発行 2000年8月1日
『朝日日本歴史人物事典』
令和元年6月
『海游録』に記載された「対馬」と著者・申維翰(5-完)
4.大仏寺(方広寺)での宴会をめぐる口論
(1)大仏殿建立
1567年の松永久秀と三好三人衆の戦いで奈良の東大寺大仏の廬舎那仏(本尊)が焼損したために、豊臣秀吉が
1586年にこれに代わる大仏の建立を計画し、1595年(文禄4年)に京に大仏殿を完成させて既に完成していた
木造の大仏(廬舎那仏)を安置させました。
ところが、この建物は1602年に火災が起きて焼失してしまいました。このため子の豊臣秀頼は1612年に大仏殿
を再建しました。この建物は江戸時代初期までは単に大仏と言われていたそうです。その後、いつからかわかりません
が方広寺と呼ばれるようになったそうです。しかし、この大仏殿は1798年に落雷による火災で焼失してしまいました。
(2)大仏寺での宴会
『海游録』には、方広寺のことを大仏寺と記載されていることから、当時は大仏寺と呼ばれていたことがわかります。
『海游録』によると、京に入る前日、大津において、対馬藩主から派遣された藩の奉行が使臣に対し、
「前回(1711年)の通信使の時から、必ず帰路に大仏寺に立ち寄るようになった。将軍は、我が藩臣に享礼
(通信使一行の労をねぎらう宴会)を準備させているので、臨席されよ」
と述べました。
これに対して、使臣は、
「自分が国にいる時に、大仏寺は秀吉が祈願した寺(願堂)であることを聞いている。この賊はすなわち我が国の
百年の仇である。義は天を共にしない。どうしてその地で飲食できようか。謹んで厚意をお断りいたす。」
と答えました。 そこで、雨森芳洲や奉行らは、宴会への出席を再び依頼し、さらに
秀吉の「祈願寺という話は日本人は聞いたことがない。」
と嘘をつきました。秀吉が発願した寺であることを雨森芳洲らが知らないはずがありません。
しかし、使臣は「多談するなかれ」と叱責してこれを退けました。
そこで、大仏寺の門の外に幕舎を張ってそこで供応を行うことにしたのですが、京都所司代がこれに反対し、
「大仏寺は豊臣家が祈願して建てた寺なので使臣らは大仏寺に行かないというのであれば、日本側の文献に
よって、その話が間違っているということを明らかにすれば、使臣らも固執しないだろう」
と知恵をつけました。
それで、対馬藩主は奉行らに『日本年代記』という書物を使臣に届けさせて、次のように言わせました。
「この書物は国中に秘している史書である。その中に、〇〇年に大仏寺を重建したとあるのは、徳川家光公が
将軍となった年である。徳川の世には秀吉公の子孫はいなので、どうして寺を築きそれを崇拝することが
あり得るだろうか。この書物は豊臣家が祈願した寺という間違って伝えられたことを正すに十分なものである」
三使臣はその書物を見て、確かに徳川家光が建てたということを確認します。三使臣が合議した結果、正使と副使は宴
会に出席することにしたのですが、従事官は欠席することにしました。従事官はその書物を信用していなかったからでしょう。
雨森芳洲はこれ聞いて、朝鮮側の首席訳官に対して「獅子のように吠え、針鼠のように奮い、牙を張り、まなじりを裂き、
今にも剣を抜かんばかりの状」だったと申維翰は記録しています。この部分で、申維翰は、雨森芳洲を「心のねじけた人で
ある。」と書いています。
そして、申維翰は、「君は読書人ではないのか。どうして怒って理にもとるようなことをするのか」と雨森芳洲をたしなめ、
従事官は病気になったので参加することができない、と言い訳を言っています。実際に、従事官は痔が重症だったことが
『海游録』の中に随所に出て来ます。しかし、どうしても出席できないというほどではなく、大仏寺が豊臣秀吉が祈願し
て建立した寺であることをよく知っていたために、欠席したようです。
雨森芳洲は申維翰の発言を聞いて、ついに謝って去って行ったそうです。
ここで、私が不思議に思うのは、どうして日本側は徳川家光が創建したものだという虚偽の書物を作ってまで大仏寺に立
ち寄らせようとしたのかです。徳川政権が豊臣家を滅ぼしておきながら、その豊臣家が建てた大仏寺に通信使一行を立ち
寄らせる目的は何だったのか、わかりません。これについては、今後多くの書物を読んで知りたいと思います。
なお、大仏殿があったところは、明治13年(1880年)に秀吉を祀る豊国神社が建てられています。
さらに、秀吉は大仏殿の前に、文禄慶長の役で朝鮮から送られて来た朝鮮・明国の兵士や非戦闘員から削り取った耳や
鼻を葬った耳塚を建てました。その耳や鼻の数は2万人分だったそうです。申維翰はこの耳塚について『海游録』の中で何
も書いていませんが、なぜ触れなかったのかわかりません。姜在彦訳注『海游録』(東洋文庫)には、『太閤記』の中の「洛
東耳塚由来」 の一節を次のとおり掲載しています。
「朝鮮人来朝の時、かの耳塚を見て涙を流し、此塚に耳鼻を葬りし者は、皆我国の忠臣、死を以て国恩を報ぜし人なりと
言ひて、塚の下にて香を焼き祭文を読上げて、懇ろに弔ひけるとぞ、世の人皆知れる所なり。」
今回で、「『海游録』に記載された「対馬」と著者・申維翰」については終わりにいたします。
参考文献: 鄭英實著 『18世紀初頭の朝鮮通信使と日本の知識人』
申維翰著 姜在彦訳注 『海游録』
『方広寺』 ウィキペディア
『耳塚』 ウィキペディア
令和元年5月
『海游録』に記載された「対馬」と著者・申維翰(4)
3.雨森芳洲と出会う
(2)対馬での別れ
徳川吉宗の将軍職襲位を賀すために派遣された朝鮮通信使の使臣が江戸城で無事に朝鮮国王の国書を将軍に届け
た後、再び対馬に戻って来たのは、享保4年12月21日(1720年1月30日)でした。江戸に向かって対馬を
出航したのは、同年7月19日(1919年9月3日)でしたので、対馬に戻って来るまでに5か月間かかっています。
12月28日に通信使一行が明日対馬を出航すると聞いた雨森芳洲は、港に停泊している船の船窓にやって来て申維翰
に別れの挨拶を述べました。すると申維翰は筆談の間に思いついた次の詩を芳洲に見せました。
今夕有情来送我
此生無計更逢君
芳洲はこれを見て、声を殺して泣きながら次のとおり言ったそうです。
「私はもう老いてしまった。再び世間の事に関わることもなく、この対馬で命が尽きる日が迫っている。
今さら望むものはもうない。ただ諸君が国に帰って朝廷で栄達されることを願うだけだ。」
このように述べた後、芳洲の目から涙が流れ落ちました。
この様子を見て、申維翰はこう言いました。
「君はどうして女、子供みたいな態をなしているのか。」
すると、芳洲は、
「辛卯年(1711)の通信使の諸君とも、相愛の深さはこんにちの如くだった。しかし、別れの時にこのような
涙はなかった。この10年で精神が老けてしまった。昔の人が言う暮境に情弱しとは、こうした如きを言う
のだろう。」 と答えました。
『暮境に情弱し』とは、年老いて涙もろくなった、ということでしょう。申維翰もここで筆を止めればよかったのに
この筆まめな人は次のとおり余計なことを書いてしまって、自ら品性を落としています。
「余はその状を観るに、険狼にして平らかならず、外には文辞に托し、内には戈(ほこのこと)剣を蓄う。
もし彼をして国事に当たらしめ、権を持せしむれば、すなわち必ず隣疆(境のこと)に事を生ぜしむるであろう。
しかし、その国法の限るところとなって、名は一小島の記室(書記官のこと)にすぎぬ。いつまでもその地に
居ながらにして、老死することを愧(恥)としている。別離の席での涙は、すなわち、みずからを悼む(嘆き悲しむ
こと)ものであろう。 」
申維翰は雨森芳洲を心のねじけた人物である、と帰路京都にやって来た箇所で書いていますが、申維翰も負けては
いないように感じられます。素直に雨森芳洲の別離の気持ちを受け止めることができません。ただ、申維翰がそう思う
のも致し方ないところもあります。このことについて、次回で紹介したいと思います。
4.その他
享保4年(1719年)に来日した朝鮮通信使の製述官申維翰が書いた日本紀行文『海游録』の中で、私が特に印象深く思
った箇所を3つだけ次に掲載します。
●長崎へ行けず残念がる
「長崎は中国商船の泊する処で、その名勝は、百物繁華とともに、国中でもっとも有名である。路順からはずれてい
るため、そこを一見してゆくことができないのが遺憾である。」と書いています。
●元山を猿山と聞き違い
下関(赤間関)に滞在中、申維翰は雨森芳洲に、「かつて、赤間関の東に猿山あり、山は猿を多産し、その猿声は
聴くにたると聞いた。それがいずこか知らないか。」と尋ねたところ、雨森芳洲は腹を抱えて笑いながら、「世間には、
もとより、無実の虚名を受けることがあるが、誰が見て誰が伝えた話なのだろうか。明日、海上から左辺を望めば、
一つの小山が見え、その名を元山という。山に鳥獣はない。伝えた人が、最初に元が訛って猿となり(朝鮮音で元と
猿は同じ)、次には山が訛って産となり(朝鮮音で山と産は同じ)、猿声の話が伝えられたのであろう。人が大笑絶
倒するだろう。」と言っています。
さて、元山とは小野田市の南端にある本山岬のことで、申維翰は、「いわゆる元山を過ぎる。望めば濯々として
(つるつるして)草木なく、鳥獣もいるはずはない。はたして雨森の言の如くで、一笑した。」と書いています。
「猿」も「元」も韓国語では「원」と書き、発音は「ウォン」です。また、「山」も「産」も「산」と書いて「サン」と
発音します。当時の朝鮮人は「本山」(もとやま)を「元山」と間違って書き、それがいつの間にか「猿山」と認識
されるようになったのでしょう。雨森芳洲が大笑いしたのもわかります。
●富士山を絶賛
富士山を見て、「海外の諸山を考うるに、富士山に並ぶものはないであろう。」と、富士山を絶賛しています。
江戸時代、第9回目となる朝鮮通信使の来日は今年でちょうど300年になります。記念の年ですね。
韓国政府が反日の政策を早く止めて、親日的な政策を取るよう期待したいものです。
参考文献 :『海游録』 東洋文庫252
平成31年4月
『海游録』に記載された「対馬」と著者・申維翰(3)
3.雨森芳洲と出会う
(1)雨森芳洲と口論する
朝鮮通信使一行が対馬の府中(現在の厳原)に到着して3日後に、製述官である申維翰は対馬藩主から私的に城に招待
されました。
城に通信使の文人たちを招待して酒宴を開いたり、日本側に渡す文書を作成したり詩文を作るのが役目である通信使の
製述官と対馬の文人たちとの間で筆談させ、藩主がそれを見物することは以前からのしきたりでした。そして、製述官は
藩主の前に進んで拝礼し、藩主は座って製述官に挨拶するのがしきたりでした。
申維翰はこのようなしきたりに従うべきでないと思ったのですが、せっかく藩主が好意で招待してくれたのだからと正使
以下3使臣が勧めるので意を決して城へ行くことにしました。申維翰は通訳官と籠に乗り、書員と画員の2人を随行させて
城へ向かいました。
城に着いて大きな建物に入ると、そこには藩の役人やその子弟たち5、6人の年少者がおり、雨森芳洲もいました。
申維翰は彼らと筆談しながら食事をしました。申維翰は『海游録』の中で、いずれも食うに足りるものだった、感想を述べ
ています。
食事が終わった頃、藩主がその大きな建物の一室に到着したことが告げられました。それで座中が立ち上がろうとすると、
申維翰は、「諸君は安座してくれ。」と言いました。雨森芳洲はそれを聞いて、「何を言われるか。」と言います。
以下、申維翰と雨森芳洲との間で言い争いが起こりました。
申維翰:君は必ず、私に島主の前に進んで拝ませ、島主は座ったまま衣服の袖を挙げてこれに答えることを望むのか。
雨森芳洲:昔からそのようにしてきている。
申維翰:いや、そうではない。この島は朝鮮の州県の一つに過ぎない。島主は図書(朝鮮国が通交を許可する証として
与えた銅製の印鑑)を受け、我が国が与えた穀物を食べている。また、大小の命を請うのは我が国の地方長官
の道義である。我が国の国法では、政府の役人が国事で外地にあれば、身分の高低にかかわらず地方の長官
と対等である。したがって、島主が座り、私が拝礼するのを通例とするのであれば、君の主人を地方長官として
礼を失わせることになりはしないか。
雨森芳洲:私も島主に仕えており、君臣の義がある。君の言うことを採用してこれまでのしきたりを改めるわけにはいか
ない。両国がよしみを結んで以来、こうした礼を行っている。いまこのしきたりをすぐに廃止するよう望む
のは、我々を侮るものではないか。
申維翰:礼は相手を敬うことから生じ、侮ることによってすたれるのである。私があえて貴国を侮るのではなくて、
貴国が我々を侮っているのだ。
以上が申維翰と雨森芳洲との言い争った内容ですが、雨森芳洲は申維翰の発言を聞いてとても怒り、わめきだしたよう
です。他の対馬藩の役人たちも皆立ち上がり、目を見張ったり、申維翰を睨んだりしたことが海遊録に記載されています。
このため、役人たちは申維翰を藩主に会わせるわけにはいかず、雨森芳洲ら役人たちはその宴会場を去っていきました。
申維翰は宿所の西山寺に帰る途中、府中の繁華街で朝鮮人による馬上才(疾走する馬の背で逆立ちしたりする朝鮮の
曲芸)の演技が行われているのを目撃しています。藩主も「高閣」に座って観覧していたそうです。
翌朝、通訳官や書画官、馬上才に対してこれまでの例に従って藩主から賞として白金(プラチナ)を授けられましたが、
申維翰は授けられなかったそうです。こうして製述官が対馬藩主に私的に会ったり、賞を受けることは申維翰から廃止
されたと、申維翰は海游録に書いています。
平成31年3月
『海游録』に記載された「対馬」と著者・申維翰(2)
2.『海游録』に記載された「対馬」
(1)提供された食事に不満
朝鮮通信使一行が対馬で最初に上陸したのが佐須浦でした。そこで対馬側から一行に提供された食事について、製述官の申維翰は
次のとおり述べています。
「倭人が小朱盤に黒い木器数枚をのせ、飯、野菜、酒、果をすすめた。しかし味薄く、物また早々(粗末)としていた。」
翌日も佐須浦で食べた食事について次のとおり不満を述べています。
「島中物力が乏しく、供するところ、ただ葱、芹、青菜、豆腐、鮮魚のたぐいがあるだけ。島主が使臣への慰問のために
贈ってきた贈り物は、杉の木でつくった層盤に数種の果物を盛ったものであるにすぎない。笑うべきだ。」
また、豊浦に停泊した際に対馬側から提供された酒について、次のとおり述べています。当時、朝鮮では日本よりも度数の高い酒を
飲んでいたことがわかります。
「倭官の護行者が、諸白酒(酒の種類)、生梨、熟梅、蜜、蓮根などを送ってきた。余はもともと酒を好まぬが、倭製の酒は
さして強烈ではなく、二、三杯を飲んだ。」
通信使一行が対馬の府中(厳原)に到着し、3使臣らが案内されたところが西山寺でした。ここで食事を取った後、お茶を勧められ
お茶を勧められました。申維翰は次のとおり述べています。日本のお茶が気に入ったようです。
「色は青く、味は苦いが、湯を吹いて小飲すると胸中が爽快であった。」
(2)対馬の世相と気質
申維翰は対馬の人たちについて、次のとおり述べています。かなり辛辣に言っていますが、当たっている部分もあったかもしれません。
「民の俗は、詐りと軽薄さがあって、欺くをよくす。すなわち、少しでも利があれば、死地に走ること鷲の如くである。
その土地がやせていて、百物生ぜず、山には耕地なく、野には溝渠(水路)なく、居宅には菜畦(菜園)がないからであろうか。
ただ、漁をして市販し、西(北)は草梁(釜山の近郊)に集まり、北(東)は大阪、京都に通じ、東(南)は長崎と
交易している。」
v 私は、この部分を読んで、 魏志倭人伝の一節を思い出しました。次のとおり、魏志倭人伝にも似たような記述があるからです。
「居る所絶島、方四百余里ばかり、土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(けい)の如し。
千余戸有り、良田無く、海物を食して自活し船に乗りて南北に市糴(してき)す。」
3世紀頃の対馬と18世紀の対馬とでは、交易によって生計を立てていた点では大差ないようです。
続けて、申維翰は次のとおり述べています。
「諸軍士には扶持米があるが、そのほかに官が民に対して貸与米や救済米をあたえる法はない。だからその民で
力が薄く商をなせない者は、傭人になるか、乞食になるか、妻子を売って生きるかするほかにない。
魚塩の商販者にも、官は重税を課して駆り立てる。かれらが、あたかも鳥魚の如く集まり、螳螂(かまきり)の如く
怒り反抗的となる所以である。官といい民といい、ほとんど一字書を識らず、上下がこもごも利を取る。まことに葛伯の国である。」
葛伯とは、姜在彦氏の訳注によると、利害関係だけで人から奪ったり人を殺したりした、古代中国の一侯国のことだそうです。
当時、朝鮮人は対馬のことをこのように一般的に思っていたのかもしれません。朝鮮では倭寇から略奪された時代があったので、
いまだにそのようなイメージを持たれていたのかもしれません。対馬人にとっては、はなはだ不愉快な、間違った記述と思うことと思います。
申維翰は、『日本聞見雑録』の中でも、「対馬島が狡く詐ること限りなく、館訳(倭館の通訳)から侮りを受けること多端である。」とも述べています。
このように、ものの見方が冷淡なのは、この人物の特性なのではないかと私には思われます。雨森芳洲との会話でも、そのような冷淡な場面が見られます。
次回は、そうした場面を紹介いたします。
申維翰が訪れた西山寺
西山寺の本堂
平成31年2月
『海游録』に記載された「対馬」と著者・申維翰(1)
1.『海游録』の著者・申維翰
『海游録』(かいゆうろく)は、1719年に来日した第9回目の朝鮮通信使の製述官・申維翰(シン・ユハン)が書いた 日本紀行文です。
江戸時代の朝鮮通信使は1607年の第1回から1811年の第12回まで計12回日本に派遣されました。
朝鮮通信使一行は正使・副使・従事官の3使以下300人から500人の人数でした。この中に日本人とやり取りする文章や詩文を作成する
製述官という役職の者が1人おりました。申維翰(1681~1752)もその1人でした。
『海游録』(平凡社刊 姜在彦訳注)の冒頭、申維翰は製述官について次のように述べています。
「 近ごろ倭人の文字の癖はますます盛艶となり、学士大人と呼びながら郡をなして慕い、詩を乞い文を
求める者は街に満ち門を塞ぐのである。だから、彼らの言語に応接し、我が国の文華を宣耀するのが、
必ず製述官の責任とされるのである。まことに、その仕事は繁雑であり、その責任は大きい。
かつ、使臣の幕下にありながら、万里波濤を越えて訳舌の輩とともに出入りし周旋するのは、苦海で
あらざるはなく、人はみな畏れて、鋒矢に当たるのを避けるが如くこれを避ける。」
このように製述官というのはたいへん労力のいる仕事だったようで、申維翰も国王から製述官に下命された後、母親が老い、家が貧しいなどの
理由を挙げて固辞しています。 しかし、正使に任命された洪致中が申維翰を製述官とすることについて国王の裁可を受けたために、ついに引き
受けざるを得なくなったのでした。
ここで、申維翰の生い立ち等についてご紹介したいと思います。
韓国の「韓国民族文化大百科事典」によると、彼は1681年、父・申泰来、母・金碩玄の娘との間に生まれました。
後に申泰始という人物の養子になりました。字は周伯、号は靑泉といい、慶尚道の密陽で生まれ、同じく慶尚道の高霊で育ちました。
1705年、24歳の時に科挙のうちの進士試という試験に合格し、進士となりました。進士になると李氏朝鮮の最高学府である成均館に入学
することができ、科挙の文科(小科と大科の2種類がある)のうちの大科を受験する資格が与えられます。大科はまた成績によって、甲科・乙科・
丙科という3つの等級がありました。また、進士になると下級官吏として任用される資格も与えられます。
申維翰は成均館に入学し、文章を上手に書く者として知られるようになったようです。
1713年、32歳の時に国に慶事があった場合に臨時に行われる増広試という科挙が行われ、申維翰はこの試験を受けて文科(丙科)に合格
しました。
『海游録』(平凡社刊 姜在彦訳注)に記載された姜在彦氏の解説によると、申維翰は正妻が生んだ子ではなく、いわゆる庶子(婚外子)だった
そうです。朝鮮時代、同じ両班の子であっても嫡出子と庶子間の差別は厳しく、庶子出身は科挙に応試することが許されなかったそうです。
一時期、庶子でも科挙を受けることが許された時期があり、1713年の科挙がまさにそれでした。しかし、科挙に合格しても官位は厳しく
制限されていたそうです。
申維翰は1719年、即ち38歳の時に朝鮮通信使の製述官となって日本に渡り、帰国後に就いた官職は奉尚寺の僉正(チョムジョン)でした。
姜在彦氏の解説によると、奉尚寺は国家の祭祀や諡号を管掌する官庁で、そこでの官階は、正、副正、僉正、判官、主簿などあり、僉正は従四品に
当たるそうです。そして申維翰は官職に恵まれることはなく、奉尚寺の僉正にとどまったそうで、おそらく庶子出身であったからだろうと姜在彦氏
は述べています。そして、この『海游録』にもところどころに、彼が一身上の運命を慨嘆しているところがあるそうです。
たとえば、この本の最初の章で、
「けわしい路をふんで科挙試に抜擢されて以来、余は百怯羞苦を甞めるに備えたが、今また死生溟海の役に身を駆ることとなった。これすべて、
五鬼が居座って去らないからであって、誰を怨もうか。」
という部分も自分の身の上を慨嘆しているところではないかと思われます。
申維翰は『海游録』の他にも、『靑泉集』という著書を書いています。
『海游録』の原物は3巻から成るそうですが、平凡社刊の『海游録』は次のとおり1冊で構成されています。
1 製述官に選ばれて
2 ソウルから釜山へ
3 対馬島に向かう ―佐須浦、豊浦、西泊浦、船頭港(小船越)
4 対馬州の府中(厳原)
5 対馬州の世相と気質
6 「名分」と「旧例」の確執
7 出帆を待ちながら
8 壱岐州から藍島(相ノ島)へ
9 赤間関(下関)に向かう
10 瀬戸内の航路 ―上関、鎌刈(蒲刈)、韜浦(鞆浦)、牛窓、室津、兵庫
11 浪華江をさかのぼって大阪へ
12 浪華の繁華ぶり
13 大阪文士との唱酬
14 淀川をさかのぼって京都へ
15 国名の由来と天皇
16 琵琶湖畔を往く ―大津、守山、佐和(彦根)
17 東海道の旅路 ―大垣、名古屋、岡崎、浜松、駿府、富士山、箱根嶺、小田原、神奈川、品川
18 江戸への入城
19 江戸の由来と関白吉宗
20 大学頭林信篤
21 国書を呈して
22 江戸文士との唱酬
23 宴席での芸能
24 回書を受けて江戸を発つ
25 ふたたび東海道の旅
26 大仏寺(京都)をめぐるもめ事
27 大阪文士との再会
28 大阪の出版と朝鮮書
29 ふたたび瀬戸内の船路
30 風波を越えて対馬へ
31 対馬での別離
32 一路故国に向けて
付篇 日本聞見雑録
次回はこのうち対馬に関する部分を一部紹介したいと思います。
参考文献
『海游録』 申維翰著 姜在彦訳注 平凡社刊行(東洋文庫) 1974年
『한국민족문화대백과사전 (韓国民族文化大百科事典)』(電子辞典)
ウィキペディア 『李氏朝鮮の科挙制度』
平成31年1月
巨関について
インターネットで巨関(こせき)について検索したら、とても興味深いサイトが見つかりましたのでご紹介します。
『肥前平戸藩士 今村氏系図』とタイトルが付けられたもので、巨関が述べたという言葉が記載されており、平戸に来ることになった経緯が
記載されています。本当かどうか今となってはわからないので、肯定も否定もできないと思われます。文献としては貴重な資料と思われ
ます。
【世系】
肥前平戸藩士 今村氏の始祖は、朝鮮國慶尚道熊川(朝鮮慶尚南道鎮海市)の陶師なり。平戸焼(三川内焼)を
創始せる陶工にして、その来歴は、 肥前平戸藩主・松浦法印鎮信公、並びに御嫡 久信公 豊太閤高麗御陣の節、
小西行長、宗義智等と共に御先鋒を相勤む。 慶長3年(1598)、鎮信公朝鮮より御帰陣之節、朝鮮熊川の陶師
「巨関」、鎮信公の聖徳を慕ひて其の御供を乞願ふ。 巨関曰く「吾(朝鮮)王は、徒に豪奢に耽り、民を疎かにして
貫郷は疲弊す。願わくば、吾等百民を公の御國へ御供参らせ賜え」と。公は即ち之を許す。
或いは云ふに、巨関一族は、豊太閤高麗御陣の節、朝鮮の道先案内を相勤む。而して豊太閤御逝去の後、
松浦の軍勢、将に朝鮮より引き揚げむとする時、巨関、韓人の逆乱を察し、之を避けむがため日本へ赴かん
事を欲し、公にその御供を乞願ふと。 公は即ち之を許す。巨関は、喜びて百餘名の韓人を伴ひ我朝に渡来せると。
別傳に云ふ、松浦鎮信公高麗御陣の節、彼地で夕膳を食する時、 其碗秀逸なることを知る。公は之を賞して
陶師の名を問ふ。彼地の人、其名を知らず唯「土俗の陶人なり」と答ふるのみ。 御意に召さず、公は市にてこの
陶人を探査せしめ「巨関」なる陶人の作なるを知る。公は之を召喚するに「巨関」は、己の賤なるを恥じ、固辞して
應ぜず。 公は礼を盡して是を恭しく招聘す。巨関に三顧之礼を諭す人有り、よつて以て公に御召抱えらるゝと。
或いは云ふ、巨関は公に召出され候節、言語相通ぜず如何なる御咎を受け申し候か取り違え申し候て、身を隠し
應ぜずとも云へり。 而して公は礼を盡して是を恭しく招聘するに、巨関、公の御褒を賜りて曰く「拙、作陶を生業と
して幾歳、 嘗て此國(朝鮮)の人に賞せられたる事無し、公の仰せ恐れ入り畏まり候」と感涙すと。
公は仁政を以て平戸城下に町割を為し、「高麗町」と称して之に韓人を居住せしめ作陶を奨励す。 而して巨関は、
肥前松浦郡中野村椿坂(現 長崎縣平戸市)に開窯す。 或時、巨関、望郷の念ありて作陶に身が入り申さず萬事が
不出来に相成り申し候て、昼夜を問はず海の波濤を茫洋と眺むること屡々なり。 公は之を憂慮せられ、巨関に日本
の三人の美女を遣わす。公は問ふに「汝の好むる女子は此中に有れりや」と。巨関答えて曰く「総て気に入り申し候」
と。 公は喜びて 「然らば三女子を全て汝が妻とせよ。令しく汝が才を磨き子孫相傳へ一族繁茂の礎とせむがため、
今より汝が子を為しやがて村と成せ」 と仰せを賜ふ。「今村」の名は茲に由来すと。
巨関は、日本の三美女を娶る。
渡辺庫輔著 『三河内窯由来記』 によると、巨関は寛永20年(1643年)に88歳で没したそうです。
逆算すると1555年に生まれたことになりますが、当時は数え年で年齢を表していたので、1556年に生まれたことになります。
この年は朝鮮では明宗11年になります。
巨関はその後、今村弥次兵衛(いまむら やじべえ)と名乗り、平戸藩の窯業の発展に大いに貢献しました。
藩命により平戸島の中野村で陶器を焼きましたが、これが中野焼と言われています。中野焼は後の三川内焼の源流となりました。
平戸市山中町紙漉の中野窯跡
次の写真は松浦史料博物館に展示されていた中野焼の茶碗と水指です。
韓国の慶尚南道昌原市鎮海区の熊川に住む陶芸家・崔熊鐸さんによると、熊川のワソン村 (와성마을)の港から
多数の陶工とその家族たちがまっすぐ日本の平戸島に連れて行かれたそうです。代々言い伝えられて来たそうです。
ワソン湾
平戸和蘭商館跡の説明版
HIRAの会 井上隆会長の献辞
平戸市在住のオランダ人が献花している様子
オランダ人慰霊碑
三浦按針夫婦塚
英国人慰霊碑
按針忌の最初は地元の方がイギリスとオランダの国歌をトランペットで吹奏されました。また、茶道の鎮信(ちんしん)流家元の松浦家、
第41代当主 松浦章氏が献茶をたてている時、地元の方が尺八を演奏されました。さらに、沖縄の楽器 三線(さんしん)で「涙そうそう」
を地元の方が演奏される間に、ウィリアム・アダムスが1611年に故国の妻や子供を思いやって書いた手紙が朗読されたり、参加者全員が
墓前に赤いバラを献花しましたが、とても情感があって、雰囲気が良かったです。また来年も参加したくなりました。
平成29年5月
中野窯跡を訪問 (2.皿焼窯)
1598年に平戸領主の松浦鎮信(まつら・しげのぶ)によって朝鮮半島南岸の慶尚道熊川から平戸島に連れて来られた巨関 (こせき)
ら朝鮮人陶工たちは、松浦鎮信の命によって中野村に窯を開き、陶磁器を焼くようになりました。現在の地名で言うと、平戸市山中町の
紙漉 (かみすき)という所です。
この欄の前月に、この2基ある中野窯跡のうち、茶碗窯跡を紹介しましたが、今月は、そこから約200mほど離れた皿焼窯跡をご紹介
します。
初めて中野窯跡を訪れる人にとって、この看板が目印になります。右側の道路を通って行き、ここから2km先にあります。
皿焼窯跡の場所がわからず、茶碗窯跡まで行って、「紙漉の里ふれあい施設」を管理されている方に場所を教えてもらいました。
道路に案内板が設置されていないので、初めて訪れる人にはどこにあるのかわからないと思います。昔は水田でしたが、今はもう
水田として使われていないようです。
ようやく、皿焼窯跡にたどり着きましたが、看板は設置されているものの、肝心の窯跡はどこにあったのか、跡形もなくなって
いました。
皿焼窯の遺構の写真
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
茶碗窯の内部の写真を撮影したブログを見つけ、私も真似して撮影しました。専門書によると、トンパイと呼ばれるレンガで側壁を
構築しているそうですが、この下の写真もそうなのか、素人の私にはわかりません。レンガらしきものは見えません。
皿焼窯の方にはレンガと思われるものが説明版の写真に写っています。
平戸市内にある「松浦史料博物館」に中野窯で焼かれた茶碗と水差が展示されており、職員に写真撮影とホームページへの掲載に
ついてダメ元で恐る恐る尋ねたところ、快く承認していただきました。
説明文によると、この水差の絵は葦だそうです。
上の写真の茶碗も水差も、とても素朴な感じで、味わいのある作品だと思います。
平成29年4月
中野窯跡を訪問 (1.茶碗窯)
佐世保市の三川内町では毎年5月1日から5日までの期間、「三川内焼窯元はまぜん祭り」が開催されます。今年も窯元めぐりをして、
美しい皿や茶碗を買い求めたいと思います。
この三川内焼は江戸時代に平戸藩の藩窯として、平戸藩が経営していたもので、朝廷や幕府、大名諸侯に献上されました。平戸焼の名前で
海外にも輸出されていました。
三川内焼は元は平戸の中野村で巨関 (こせき) を中心とする朝鮮人陶工たちが藩主松浦鎮信の命によって窯を開いたのが始まりと言われています。
そこで、中野窯跡に3月下旬初めて行って来ました。場所は平戸市山中町の紙漉 (かみすき)という所にあります。車で初めて訪ねる私は、
ずいぶんと奥地にある印象を受け、何度ももう通り過ぎたのでは?と不安になりました。
なお、この中野窯跡は昭和35 (1960) 年に長崎県史跡に指定されています。中野窯跡は2基あり、1基は下の写真の茶碗窯であり、もう1基は
ここから約200mほど離れたところにある皿焼窯です。
中野窯茶碗窯
この中野窯は1630年頃に陶器窯として巨関ら朝鮮人陶工たちによって始められています。その後間もなく、中国の技術の影響を受けた
磁器を焼くようになります。朝鮮人陶工らは1598(慶長3)年に松浦鎮信が日本に帰陣する時、慶尚道の熊川(コモカイ)から平戸に
連れて来られたわけですが、日本に来て30年以上も無為に過ごしていたわけではないでしょうから、中野窯以外にもどこかで窯を開いて
陶器を焼いていたものと推測されています (久村貞男著 『三川内窯業史』 59貢)。その窯跡がまだ発見されていないだけのことです。
いつか発見される日が来ることでしょう。期待しています。
中野窯での磁器の生産は1650年で終わり、この年に平戸藩の領内である現在の佐世保市の三川内町に中野村の陶工たちは移住を命じられ、
三川内で磁器を生産するようになりました。
紙漉の里案内図
左右写真:紙漉の里ふれあい施設
この「紙漉の里ふれあい施設」は体験型観光施設であり、陶芸体験やそば打ち体験、紙漉き体験などができます。
この施設の上の方に歩いて行くと、入り口近くに東屋がある中野窯跡(茶碗窯)が見えてきます。
平成29年3月
歴史は繰り返す
2月13日、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の異母兄、金正男氏がマレーシアのクアラルンプール国際空港で猛毒の新経剤VXを女二人から
顔に掛けられて毒殺された事件は世界を震撼させたことと思います。事件では実行犯の女2人以外に北朝鮮の秘密警察や外務省の職員が関与して
いることが疑われており、北朝鮮の国家犯罪であることが確実視されています。
この暗殺事件は、金正男氏が北朝鮮の世襲支配を批判したり、異母弟の金正恩氏は指導者としての資質が欠けると発言したことがあるそうで、
金正恩氏が金正男氏暗殺を部下に指示したものと見られています。
実は朝鮮半島を支配した李王朝の時代にも朝鮮政府は改革派の中心人物を上海で暗殺したことがあり、歴史は繰り返されるものだと痛感しています。
暗殺されたのは日本に亡命していた開化党のリーダー金玉均です。
開化党は、新しい知識を学び、新しい技術を取り入れ、政府や一般社会の古い因習を根本的に変革して朝鮮を近代的な国家とすることを目的と
しており、また、富国強兵策を実施して国家の独立を守ろうと考えていました。 (李殷直著『朝鮮名人伝』820貢。)
開化党は路線の違いから二つのグループに分かれ、世界大百科事典第2版の解説によると、甲申政変(1884年)を主導した金玉均,朴泳孝らを
急進的開化派、甲午改革(1894‐95年)を主導した金弘集,金允植らを穏健的開化派というそうです。
宗主国たる清国への臣属関係を維持し旧体制を持続しようとした守旧派と対決して,クーデターによって国政変革をめざしたのが急進的開化派で
あり,守旧派と妥協しながら漸進的に改革していこうとしたのが穏健的開化派です。ともかく、開化党は日本の明治維新に習って政治を刷新しようと
考え、そのために日本から援助を受けることを希望していました。
金玉均ら急進的開化派は、1884年12月4日、クーデターを決行し、守旧派の大臣や軍司令官ら7名を殺害して政権を掌握しました。
しかし、新政府は清国軍の攻撃を受けて樹立3日目にして崩壊してしまい、金玉均や朴泳孝らは仁川から日本の船に乗って長崎までやって来て
日本へ亡命しました。その後金玉均は10年間日本で亡命生活を送ります。その間、朝鮮政府は刺客を送って金玉均を暗殺しようと狙って
いました。そして、朝鮮国王高宗から金玉均や朴泳孝を殺害するよう命を受けて1892年5月4日に日本に渡った李逸稙は、洪鐘宇と言う者に
金玉均の暗殺を依頼しました。そして、1894年3月23日金玉均は、船で神戸港を出航し中国の李鴻章と会談しに中国・上海へ向かうのですが、
洪鐘宇も同行します。途中、25日長崎に寄港して1泊した後翌26日夜長崎港を出航、27日夕方上海に到着し、日本人が経営する東和洋行ホテルに
宿泊します。翌28日午後3時30分頃、金玉均はこのホテルに滞在中、朝鮮人洪鐘宇が発射した3発の拳銃弾を受けて死亡しました。
朝鮮政府は金玉均を暗殺するだけでは飽き足りず、遺体を朝鮮に引き取った後、首をさらし首にしてしまいます。
長崎の新聞社、鎮西日報は金玉均に好意的で、よく金玉均の日本での動向を報道していたのですが、明治27年4月22日付で 「惨又惨(金氏鳩首) 」と
いう見出しを付けて、次のとおり憤慨しています。
『 梟示の傍らに告文あり曰く、「謀反大逆不道罪人玉均当日楊花津頭不待時凌遅処斬」と。
嗚呼、たとひ未開の韓国とは云へ死屍に迄斯る惨刑を加へて自ら怪しまず。慨歎に堪ふべけんや。』
北朝鮮は現在、金正男氏の遺体を自国へ引き渡すようマレーシア政府に要求していますが、もし北朝鮮へ引き渡されれば金正男氏の遺体は
どう扱われることでしょうか。まさか21世紀の時代にさらし首にすることはないでしょうが、冷たく扱われることはまず間違いないと思われます。
今後の成り行きが注目されます。
平成29年2月
韓国の陶芸家が朝鮮人陶工たちを慰霊
今年は1月28日が旧暦の1月1日で、韓国では1月27日から1月29日までが正月休み、30日が振替休日です。
韓国の慶尚南道昌原市鎮海区の熊川で熊川窯を営む崔熊鐸(チェ・ウンテク)氏夫妻が30日に平戸を訪問されました。目的は豊臣秀吉の文禄慶長の役で熊川から
平戸に連れて来られた朝鮮人陶工たちを祭るためです。朝鮮人陶工の子孫たちは三川内で毎年5月1日に陶祖祭りを行っていますが、 崔熊鐸氏は旧正月に韓国から
平戸にやって来られて朝鮮人陶工たちを祭っています。通算するともう20数回にもなるそうです。
場所は平戸市戸石川町にある高麗碑のあるところです。高麗碑は1994年に建てられています。このあたりは昔は高麗町と呼ばれていました。
ここの公民館は高麗町公民館という名前が付けられています。
高麗町公民館の前を通ってしばらく行くと、高麗碑が現れます。民家の敷地の隣に建てられています。
崔熊澤氏夫妻が祭祀を執り行うため準備を行っているところです。
祭祀にはお供え物がつきものです。なしやりんご、栗、お菓子、酒などが供えられました。
すべて韓国から持って来られたものです。
祭祀用の服や帽子をつけているところです。
3回礼を行いました。
高麗碑の前は朝鮮人陶工たちのお墓が建てられています。
崔さんのお話によると、昔は40基あったそうですが、現在は墓が崩壊してしまっていて、大部分は墓の形態を
留めていない状況です。
平戸焼資料館
平戸焼の陶磁器が井元昭三氏が運営されている平戸焼資料館に展示されています。
井元昭三さんのご案内で、崔ご夫妻と一緒に見学させていただきました。
以下の写真が平戸焼です。
「朝鮮仏」の形をした焼き物
「中野窯」として紹介されています。
江戸時代の明和年間(1764~1771)に焼かれた茶碗
なかなか趣があって、いいですね。
熊川窯跡を見学した後次に向かったのは、文禄慶長の役で日本軍が築いた城(倭城)です。朝鮮内に日本軍は城を18ヵ所築いており、慶尚南道昌原市の鎮海区には熊川城、
安骨城、明洞城、子馬城の4つが築かれました。このうち、熊川城と安骨城の2ヵ所を見学して来ました。
熊川城は1592年に加藤清正が築いたとされており、小西行長軍がここに陣を置きました。熊川は当時熊浦(ウンポ)とも呼ばれており、熊川城がある場所には元々倭寇の侵入に
備えるために朝鮮時代に熊浦城が築かれていたものを、日本軍が補修して使用したものと推測されているそうです。
山の高さは海抜184mで、頂上には天守台が置かれていました。城壁は長さ1250m、高さは地形により3m~8mあったそうです。
熊川城への登り口に設置された看板
この看板は熊川教会の真後ろにありますが、ここを探すのにとても苦労しました。
ここが頂上付近。松の木が生い茂っていました。
かつて天守台が置かれていた場所
天守台から撮影
キリシタンである小西行長の要請により日本軍キリシタン将兵の教化や慰問のため、イエズス会の二人の宣教師がこの熊川城を訪れています。すなわち、スペイン人の
グレゴリオ・デ・セスペデス神父と、日本人のファンカン・レオン修道士は1593年12月27日に朝鮮に上陸し、その翌日、この熊川(熊浦)城に到着しました。
セスペデス神父は朝鮮から日本へ送った書簡の中で、熊川城の様子を次のように報告しています。
「 この熊浦城は難攻不落を誇り、短期間に実に驚嘆すべき工事が施されています。
巨大な城壁、塔、砦が見事に構築され、城の麓に、すべての高級の武士、アゴス
チイノ[小西行長のこと] とその幕僚、ならびに連合軍の兵士らが陣取っています。
彼らは皆、よく建てられた広い家屋に住んでおり、武将の家屋は石垣で囲まれて
おります。」 (『完訳フロイス日本史5』 中公文庫 )
セスペデス神父らは、この城の中でのみ宣教活動が許され、城から出ることは禁じられていたそうです。したがって、朝鮮人に対する宣教活動は行うことができなかったと
思われます。セスペデス神父らは1年間ここに滞在し、長崎に戻っています。なお、セスペデス神父は1587年(天正15年)に細川ガラシャに洗礼を施しています。
熊川城の麓に昨年、セスペデス公園が建設されています。
セスペデス公園
この地を訪れたスペイン人のグレゴリオ・デ・セスペデス神父と、日本人のファンカン・レオン修道士の二人が描かれています。
公園内の様子
次は安骨城です。 1593年に、日本軍の武将、脇坂安治、加藤嘉明、九鬼嘉隆によって築かれたそうです。
城壁は長さが594m、高さが4~7mあるそうです。
安骨城の本丸跡 物見櫓があったと思われる場所からの眺望
長さは東西約110m、南北約60mだそうです。
物見櫓の跡か?
物見櫓?に設置された説明版
説明板によると、この城跡から17世紀後半以後の朝鮮白磁が出土しており、日本軍が去った後は朝鮮水軍が利用した可能性を提起されているそうです。
物見櫓?に続く石垣
安骨城の二の丸付近からの眺望
熊川について最後に紹介するのは朝鮮時代に作られた熊川邑城です。1434年に朝鮮半島南海岸に出没する倭寇を統制するために築かれたそうです。
文禄慶長の役では日本軍がこの城を占領し、熊川城の支城として利用しました。熊川邑城には東西南北に4つの門があったそうですが、現在は東門とその周辺の城壁だけが
復元されています。この熊川邑城と熊川倭城とは2km足らずの距離にあります。
見龍門 (東門)
ところで、多くの陶工を連れて行かれた熊川(当時、日本ではコモガイと呼ばれていました)では、陶器を焼く者がいなくなり、長い間廃窯となって
いました。 そこで、熊川出身の崔熊鐸(チェ・ウンテク 최웅택)氏は32年前(1984年)に故郷で熊川窯を復活させました。崔熊鐸さんのお話に
よると、日本軍によって平戸に連れて行かれた熊川の陶工は80人にも上ったそうです。
日本の書籍には10人程度と書かれていますが、80人の根拠は?と私が質問すると、先祖代々からの言い伝えだそうです。熊川から陶工全員と
その家族が皆平戸に連れて行かれたため、子孫は一人も残っていないそうです。それで崔熊鐸さんは陶工の子孫ではないそうです。
崔熊鐸さんは朝鮮人陶工の慰霊のため、旧暦の正月に平戸市を、三川内焼の陶祖祭が開催される5月1日に佐世保市を毎年訪問されているそうです。
熊川窯跡から収集した陶器の破片や崔熊鐸氏の作品などが展示されている建物
崔熊鐸氏
内部の様子
500年前に焼かれた熊川の井戸茶碗
当時の熊川焼を復元した崔熊鐸氏の作品
長崎県平戸に建てられた高麗碑と崔熊鐸氏
作品はすべて登り釜で焼かれています 崔熊鐸氏と一緒に記念撮影
崔熊鐸氏のパンフレット 『熊川窯』 から複写
次は、熊川窯の崔熊鐸 (チェ・ウンテク)さんにご案内いただき、昌原市が運営する熊川陶窯址展示館を訪問しました。
この展示館は2011年11月23日に開館したもので、開館式には三川内焼の産地である佐世保市から朝長則男市長さんを始め関係者も
出席されたそうです。
熊川陶窯址展示館 茶碗の形をした巨大な建造物が建てられていました
登り窯の模型を展示するコーナー
崔熊鐸氏の作品
パネルの下の方に日本語で 「日本で活動している熊川出身の陶工の末裔 」と記載されています。
さらに、小さな字は次のとおり記載されています。
「文禄慶長の役(1592~1598)に際して、日本に連行された熊川出身の陶工の末裔が、
現在も日本の佐世保の三川内に住み、陶芸技術を受け継いでいる。熊川陶窯址展示
館の開館を祝し、巨関の子孫・今村家、エイ(高麗婆と呼ばれた)の子孫・中里家、
従次□の塚本家から作品が寄贈された。」
展示館の裏にある陶磁器体験工房館
窯址への登り口 展示館後方の斜面にある熊川陶窯址
熊川陶窯址は慶尚南道記念物第160号に指定されています。2002年の発掘調査で6基の窯があったことがわかりました。
3号基と4号基を見学することができます。
3号基と4号基
上の方の歩道から下を撮影
ここの地名は頭洞という所ですが、頭洞で焼かれた茶碗が日本の国宝第26号に指定されています。
大井戸茶碗の 「喜左衛門」 という名の茶碗がそれです。下のウェブサイトに写真が掲載されています。
http://www.geocities.jp/mi0506jp/idosouzou.html
当時の茶碗の破片が斜面に露出していました。 「熊川陶窯址」の説明板
「熊川陶窯址」の碑 展示館玄関の前から熊川の町を撮影
ワソン湾
崔熊鐸さんにここワソン村 (와성마을) に連れて来てもらいました。崔熊鐸さんによるとこの港からまっすぐ日本の平戸島に熊川の陶工と
その家族たちが連れて行かれたそうです。
平成27年6月
平成27年4月
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平成25年11月