李康勳 イ・ガンフン 이강훈 (1903.6.13~2003.11.12) 独立運動家
1933年3月上海で日本官憲に逮捕された時の写真(29歳)
李康勳は韓国の独立運動に従事した人物であり、1977年に韓国政府から建国勲章独立章を授与されている。
1933年3月に同志と共に有吉明駐中日本公使の暗殺未遂事件を起こして逮捕され、長崎地方裁判所で懲役
15年の判決を受けた。控訴はせず、白貞基と共に長崎県の諫早にある長崎刑務所で獄中生活を送った。
1945年8月15日の日本敗戦時には東京の府中刑務所に収監されていた。
李康勳については、韓国の위키백과(ウィキ百科)と「나무위키」(ナムウィキ)というサイトに掲載されているので、
以下にその内容を合わせて紹介する。(草場翻訳)
李康勳
1903年に江原道金化郡で生まれ、16歳の時に起きた1919年の3.1運動以後上海に渡り、1920年に
大韓民国臨時政府の国務総理室で秘書として勤務した。1921年に北間道の延吉道立師範学校で3年間学び、
1925年新民府に加入して独立運動に本格的に投身した。
1926年に金佐鎮の指示で安図県三因坊にある新昌学校で教師になり、新民府傘下の各級学校で後進養成
に力を注いだ。1929年には韓族総連合会に加入し、同年12月海林で北満民立中学期成会を開催、李チサン、
金ヤウン、金有聲らと共に執行委員として民立中学を設立し、同胞の青少年たちに祖国解放のための民族精神を
鼓吹するのに力を注いだ。
1931年、満州事変を契機に満州に対する日本の侵略が露骨になると、李康勳は1932年に大連を経て再び
上海に亡命した。彼は1930年に柳子明、鄭華岩、白貞基等が在中国朝鮮アナーキスト連盟を改編して創立した
南華韓人青年連盟に加入した後、1933年3月南華韓人青年連盟の行動部隊である黒色恐怖団を組織し、六三
亭という上海にある料亭から出て来た駐中日本公使の有吉明を白貞基と共に暗殺しようとしたが、計画が事前に
発覚して日本官憲によって逮捕され、日本へ押送された。
1933年11月、長崎地方裁判所で懲役15年の刑を宣告され、長崎刑務所で服役した。1940年に懲役8年11
ヵ月7日に減刑となり、1942年7月2日に李康勳の刑は終了したが、日本は彼が民族意識が極めて高く再犯の
おそれがあるとして同年7月18日熊本地方裁判所でいわゆる予防拘禁(無期限の拘束)の判決を受け、東京の
府中刑務所で1945年に祖国解放を迎えるまで、獄中生活を送らなければならなかった。
1945年に祖国が日本の植民地から解放されると獄から釈放され、その後は在日韓国居留民団の副団長として
活躍した。白凡・金九の依頼を受け、日本に一緒に居住した朴烈と共に、李奉昌、尹奉吉、そして長崎刑務所で
殉国した白貞基のいわゆる”三義士”の遺骸を探して祖国へ送還するのに貢献した。
1960年に帰国した直後、韓国社会党の総務委員となり、1961年の5.16軍事政変以後、革新系政党の幹部
として活動して投獄され、1963年に釈放された。以後彼は、1969年独立運動史編纂委員、1977年独立運動
有功者功績審議委員となって抗日闘争の歴史編纂に心血を注ぎ、1988年から4年間にわたり第10代、第11代
光復会会長を歴任した。その間、高齢にも拘わらず、隠れた有功者を探し出すのに全霊を傾けた。
1977年には建国勲章独立章を授与された。
2000年5月に直腸癌と判定され、ソウルの報勲病院で闘病する間、独立運動家の子孫が経済的に困窮し、
独立運動の歴史的評価が粗末に扱われている状況を見て、自分が何もすることができないことに対して深く残念
に思っていたところ、2003年11月12日、100歳で亡くなった。
1933年(昭和8年)11月16日付け長崎日日新聞
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