李芸 이 예   1373~1445

                      

       対馬市の中部に峰町という町があるが、この町の東海岸地域に佐賀(さか)という地区がある。

      応永15年(1408年)に宗氏第7代当主の宗貞茂がこの佐賀に居館を置き、応仁2年(1468年)に第10代当主の宗貞国が

      厳原に居館を移すまでは、60年間佐賀が対馬の政治の中心地となっていた。

       この佐賀には曹洞宗寺院である円通寺がある。円通寺は宗貞茂の菩提寺として建立されている。このお寺の梵鐘は

      朝鮮で作られたもので、15世紀李朝初期の作と考えられている。昭和50年(1975年)1月7日に長崎県有形文化財に

      指定されている。


       実はこの梵鐘は、応永25年(1418年)宗貞茂が亡くなった際、貞茂と親交のあった朝鮮王朝の役人、李芸(イ・イエ)が

      第3代朝鮮国王太宗に宗貞茂が亡くなったことを報告し、その弔意使節として李芸が対馬に派遣された際に貞茂の菩提寺である

      円通寺に納めたものと言われている。宗貞茂は倭寇を取り締まり、辺境を侵犯することを禁じたため、朝鮮からその功績を

      認められ、特別に弔慰使が派遣されたものである。

      
       その李芸(1373年~1445年)を顕彰するため、日韓の有識者たちは平成17年(2005年)に円通寺内に、「通信使李藝功績碑」を

      建立した。ここに碑文全文を紹介する。


           「朝鮮王朝前期(室町時代)、国王使節として四十余回日本へ遣わされた李藝は、

            日本往復の途次に対馬に寄るだけでなく、対馬までの正使として何度も来島した。

            李藝の功績は、朝鮮人披虜の刷還や足利将軍等に贈る大蔵経の伝達、また

            両国の文化交流に寄与したことが挙げられるが、対馬からみた最大の功績は

            対馬と朝鮮国の「通交貿易」に関する条約締結に大きく尽くしたことで、これにより

            倭寇が鎮まり対馬に明るい時代がおとずれた。

            当時の対馬島主は、宗家七代貞茂、八代貞盛の時代で、この地に国府があり、

            貞茂の死に際し弔慰使として遣わされた李藝が、「円通寺に至り香典を供えて

            祭をした」と朝鮮国王に報告している。

            李藝が刷還した披虜の数は六六七人に及ぶが、幼少のころ倭寇に拉致された

            母とは遂に再会することができなかったと伝えられる。

            李藝の驚異的な行動は賊と誹られる人たちとも付き合うという怨念を超えた情誼
 
            を披瀝し、絶大の貢献をしたことを思うとき、その人柄と底知れぬ度量に感動し

            畏敬の念をもってその功績を顕彰したい。」



       「李藝~最初の朝鮮通信使」という日韓共同製作ドキュメンタリー映画(乾弘明監督)が平成25年(2013年)に公開された。


      インターネットで宗氏を検索すると、宗貞茂を宗氏8代、宗貞盛を9代としているものがあり、李藝功績碑の記述と異なっている。

      不思議に思って対馬市役所の文化財課に確認したところ、宗重尚(そう・しげひさ)を初代とするかしないかで代が1つずつずれる、

      宗重尚は伝説的な人物なので、公的には宗助国が宗氏の初代とされている、との回答であった。重尚は生没年が不明なので、実在が

      確認できる人物を初代としているとのことである。



       ところで、韓国の文化体育観光部は1990年7月から2005年12月まで毎月、韓国学や文学、美術、音楽など様々な文化

      分野で功績のあった人物を「今月の文化人物」として選定した。

       全部で187名が選定されたが、李芸も2005年2月の「今月の文化人物」に選定された。 また、外交通商部は2010年

      6月に李芸を「今年の外交人物」に選定した。2015年3月には韓国国立外交院内に李芸の銅像が設置されている。

      この年の3月25日に開催された李芸銅像除幕式には韓国の外相や日本の韓国大使も出席している。



        朝鮮王朝最後の王、純宗は1910年7月に李芸に対し、忠肅(ちゅうしゅく)公という諡号(しごう)を贈っている。

       『玄界灘を越えた朝鮮外交官 李芸』(嶋村初吉編著・訳)という本によると、諡を贈った勅命には、李芸の官職が

       「資憲大夫、知中樞府事、世子左賓客」 となっており、これは正二品の官職だそうである。諡を贈る当時、慣例により品を1段ずつ

       高く追贈し、従二品の同知中樞院事から正二品の知中樞府事と高められたそうである(168貢。 「11.李芸の後孫たち」 李明勲著)。


        李明勲氏によると、李芸は朝鮮王朝実録に74回登場するそうである。相当な回数と言っていいのではなかろうか。

       李芸は1401年~1443年に 「四十余」 回日本に派遣され、そのうち日本から帰還させた朝鮮人捕虜が計667名だったと

       王朝実録に記録されているそうである (『世宗実録』)。

        倭寇は朝鮮半島で財物を略奪しただけでなく、人間までも日本にかなりの人数を略奪して行ったことがわかる。

       奴隷として人身売買されたのかもわからない。李芸が日本にいる朝鮮人を帰還させることに力を尽くしたのは、彼が8歳の頃

       倭寇から拉致された母を探すためでもあったようである。


        李芸が生まれた蔚山(ウルサン)は、ハングルを創設した王として知られる朝鮮王朝第4代王の世宗の頃は人口4100人の

       小さな地方都市であり、朝鮮前期に倭寇の侵略を最も頻繁に受けた地域の一つだったそうである。

       2018年3月現在、蔚山広域市の人口は約116万人となっている。

       筆者も2015年(平成27年)10月に蔚山市の倭城を見学しに行ったことがある。海岸沿いに石油コンビナートが

       多数建設されていて、韓国有数の工業都市となっている。

 
        「李藝~最初の朝鮮通信使」という日韓共同製作のドキュメンタリー映画のDVDを図書館で借りて見た。李芸が辿った

       日本各地の史跡を韓国人俳優のユン・テヨン氏が訪ねるもので、日本と朝鮮との文化交流にも寄与したことを知り、ソウルの国立

       外交院敷地内に李芸の銅像が建立されるだけのことはあると思う。




                         
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