17.李従茂  イ・ジョンム 이종무




                 李従茂は、1419年に朝鮮が倭寇の根拠地・対馬を攻撃した応永の外寇の際の朝鮮軍司令官である。

                韓国のウィキ百科に李従茂について次のとおり記載されている。

                なお、引用に当っては、日本のウィキペディアを参考にした。
    
 
               1360年  高麗の武臣 長川府院君 李乙珍の息子として生まれる。子供の頃から乗馬と弓に秀でていた。

               1381年  14歳の時に父に伴って江原道に侵入して来た倭寇を撃退した功により精勇護軍となった。
   
               1392年  李氏朝鮮が建国される。

               1397年  黄海道の甕津で万戸(外敵の侵入を防ぐために設置された官職)の職にある時、倭寇が再び侵入して来て

                      城を包囲するや、最後まで戦って敵を撃退した功績により僉節制使(節度使の下に兵馬僉節制使と

                     水軍僉節制使が設置された。)に任命された。さらに都に戻って来てから上将軍に任命された。

               1400年   第二次王子の乱で李芳遠(李氏朝鮮初代王李成桂の息子。第三代王太宗。在位1400年11月28日~1418年

                      9月9日)側に付き、兄の李芳幹の軍勢を壊滅させた。

               1406年  「翊戴佐命功臣」の号を受けて通原君に封じられ、義州などの兵馬節制使に昇進した。

                      その後、安州都兵馬使、安州節制使を歴任した。   

               1417年  義政府左参賛となる。

               1419年  三軍都体察使となり対馬攻撃の指揮官となる。陰暦6月19日、軍艦227隻を率いて巨済島を出発。
               (世宗元年)
                      6月20日、対馬島に到着し、敵船129隻を奪い、家屋1993戸を焼いた。朝鮮人や中国人捕虜を連れ
    
                      帰った。これらの功績により、8月25日、長川君に封じられた。しかし、奇襲を受けて戦死した
    
                      朴実らを失ったことについて、朝廷はしぶとく罪に問うたが、世宗は李従茂をかばった。しかし、11月
    
                      9日、謝罪のため従軍しようとする金訓と盧異を推薦した罪により、義禁府に投獄された。金訓と盧異は無
    
                      能であり、功を上げようとして従軍しようとし、李従茂はこのことについて世宗から許しを得た。しかし、
    
                      司諫院らは不忠な者を従軍させたとして李従茂と金訓、李チョクらを処罰するよう求めた。しかし、世宗は
    
                      拒否し、李従茂は、「年老りは死んで、戻らない方がよい」と述べて断食した。その後絶え間ない弾劾にも
    
                      かかわらず、世宗は李従茂をかばった。
 
               1420年  6月5日、獄を解かれ、都の外に居住させられた。 
     
               1423年  謝恩使として明国を訪問し、翌年2月、副使の李種善と共に帰国した。
    
               1425年  6月9日、享年66歳で死去。世宗は朝廷での会議を3日間中断させ、襄厚という諡号を与えた。

                       6月17日に出した教書で、世宗は、「万里の長城が急に崩れた」という表現で悲痛感を表した。



                ところで、今年は1419年に朝鮮国が倭寇の根拠地であり、海賊の巣窟と考えていた対馬を攻撃した事件が起きてから

               ちょうど600周年にあたる。応永26年に起きたので、日本では応永の外寇と言われている。対馬攻撃に参加した朝鮮の

               兵力は兵船227隻、軍兵1万7285人もの大軍だった。朝鮮軍は65日分の食糧を準備していたが、対馬側の反撃に

               遭ってわずか約2週間で撤退している。対馬市豊玉町の仁位の近くにある糠岳(ぬかだけ)で激戦が行われたことから、

               糠岳戦争とも呼ばれている。

                朝鮮王朝実録( 『世宗実録』 )に記載されている応永の外寇の経緯は次のとおりである。


               世宗元年

                 ・6月17日   対馬へ向けて巨済島を出発したが、逆風に阻まれて巨済島に戻って停泊。

                 ・6月19日   再び巨済島を出発。

                 ・6月20日   対馬に到着。浅茅湾の西側入口の尾崎に上陸。島内を捜索し、船129隻を奪い、家1939戸を焼く。
 
                           114人を斬首し、21人を捕虜とした。また、倭寇に捕らわれていた中国人131名を救出。

                 ・6月?日    浅茅湾の東岸の小船越に進軍し、この地に柵を設けて、対馬人の往来を遮断。朝鮮軍が長く留まる意を

                            示す。また、家68戸と船15隻を焼き、9名の対馬人を斬り殺し、中国人15名と朝鮮人8名を救出。

                 ・6月26日   司令官李従茂は小船越から浅茅湾の北側の仁位に進撃し、三軍を分けて上陸させ、対馬兵を攻撃した。

                           朴実らの左軍は糠岳で伏兵にあって敗北し、有力部将4名を含む百数十人が戦死及び崖から墜落死。

                           右軍は対馬兵と戦い、敵を撃退。中軍はついに上陸せず。

                           世宗元年7月10日付の 『世宗実録』は、対馬での戦死者は180人と記録。

                 ・6月29日?  対馬島主宗貞盛、朝鮮軍の長期間の対馬滞在を恐れて書を朝鮮軍に送り、兵を退き、修好を請う。

                            また、7月になれば風変が多いので、対馬に長く留まらぬよう朝鮮側に告げる。

                 ・7月 3日    李従茂、朝鮮軍を対馬から巨済島に引き上げさせる。



                65日分の食糧を準備して行きながら、対馬側の反撃にあうとわずか2週間で撤退するとは、朝鮮軍はなんと弱小なのだ

               ろうと思われる。正規の兵士はそれほど数は多くなく、大部分は地方からの寄せ集めである雑軍だったようである。

                倭寇の根拠地を征伐できなかった朝鮮は、その後平和的な外交政策をとるようになり、それまで禁じていた対馬との交易

               を制限付きながらも許すようになった。




                    参考文献

                       中村栄孝著  『日鮮関係史の研究』上

                       韓国国史編纂委員会 『朝鮮王朝実録』(電子版)

                       『朝鮮を知る事典』 (「応永の外寇」)

                       ウィキペディア 『応永の外寇』

                         
  
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