16. 姜弘重  カン・ホンジュン  강홍중


                江戸時代の12回にわたる朝鮮通信使のうち、第1次から第3次までは、対馬藩が偽造した朝鮮国王あての日本側
    
               国書に対する朝鮮側の回答という意味で「回答使」であるとともに、文禄慶長の役で日本に拉致された朝鮮人を朝鮮
    
               へ送り帰すという意味の「刷還使」の役も兼ねていた。このため、第1次から第3次までの通信使は、「回答兼刷還使」

               という名称で呼ばれている。

                 江戸時代第3次の朝鮮通信使の副使を務めた人物は姜弘重(カン・ホンジュン 강홍중)といい、当時は承文院の
    
               判校という役職だった。承文院は外交文書を扱う役所で、その長官が判校である。判校の位は正三品だった。
   
                姜弘重は『東槎録』という使行録を書いたが、その日記の日付は仁祖2年(寛永元年 1624年)8月20日に
   
               始まり、仁祖3年(寛永2年 1625年)3月26日で終わっている。東槎録には「日記」の他、日本で見聞きした
     
                ことを記載した「見聞総録」や書簡、漢詩類も掲載されている。よくこまめに記載しており、特に人名、地名など固有
   
               名詞を多数記録しているところは感心させられる。
    
                この『東槎録』の中で、対馬と壱岐に関する部分について紹介したい。
    
               若松實(1912~1994)という方が現代文に翻訳されたものが出版されており、その本から引用する。 
    
    
              1.鰐浦到着
    
                 通信使一行が最初に対馬に到着したのは対馬島の北端、鰐浦(わにうら)で、10月2日(新暦11月12日)の

                午後10時頃だった。前日に釜山を出港して数里行くと波浪がひどくて前に進めず、釜山に戻って停泊したが、

                各船の役人以下水夫たちは嘔吐して倒れ、人事不省に陥ったと記載されている。翌日も風がひどく吹き、船は風に

                逆らって進めず、船中の人は大半が目まいがして倒れていたそうである。

                 対馬島が見えた時は、船中の人は初めて喜色があったと姜弘重は書いている。鰐浦の岸に数10軒の家があるが、

                家の構造が朝鮮の家と異なっており、はなはだ粗末だったと姜弘重は書いている。
   
                 また、翌日、船上に留まっていると橘智正という対馬藩の役人が夜明けに来て安否を尋ね、上陸して休息すること

                を請うたが、前途が忙しいことを理由に辞退している。鰐浦を出航する時、対馬の老若男女たちが海岸に出て、

                垣根のように群がって見物をしていたそうです。
    
    
              2. 朝鮮の冠服を着用して礼を行う

                 10月4日の夜、府中(厳原)に到着し、宿所の海晏寺までは見物する男女たちが道端をうずめたそうである。

                また、通り過ぎる民家は皆、燈火を掲げて明るくしてあげたそうである。

                 翌5日、橘智正及び朝鮮国の辞令を受けている馬堂古羅たち5名が皆、朝鮮の冠服を着用して礼を行ったことが記載さ

                 れている。
    
                 橘智正という人物は藩主・宗義智の命を受けて何度か朝鮮へ渡り、国交回復の折衝を行っている。別名を井手弥六

               左衛門と言う。また、「馬堂古羅」とは、「またごろう」と読み、『朝日日本歴史人物事典』での田代和生氏の解説

               によると、馬堂古羅の本名は武田又五郎と言い、文禄慶長の役で朝鮮側に降った「投降倭」だった。対馬の上県の伊奈

               という所の郷士であり、弟の又七と共に「降倭」となって朝鮮側に協力し、加藤清正の陣営を焼き討ちした。

               このため、その功績などにより、戦後、朝鮮国王の光海君から冠服を賜って、受職人として朝鮮との貿易を許されて

               いる。
      
                「降倭」と言うと、沙也可(朝鮮名 金忠善)という加藤清正配下の部将が有名だが、対馬に実名の残っている「降倭」

                がいて、通信使の3使臣に対して礼を表するほどの者がいたことがわかる。

                しかも、文禄慶長の役が終わってから25年以上経つのに、馬堂古羅は通信使の使臣から未だに名前が知られており、

                朝鮮国から官職を授かっていて、朝鮮国の使臣が来た時は朝鮮国の官吏として朝鮮の冠服を着て礼を行ったとは、とても

                興味深く思われる。

 

             3.壱岐・勝本に到着   
                仁祖2年(寛永元年 1624年)10月21日に対馬・府中(厳原)の港を朝鮮の船と対馬藩の船合わせて30隻
     
                余りが一斉に帆を上げて壱岐へ向けて出航した。すると波浪のため各船が風涛の間に激しく浮き沈み、そのため船中の人々

                は皆魂を無くし、嘔吐する声が汚らしくて聞くに堪えなかったと、朝鮮通信使の副使・姜弘重は『東槎録』に書いている。

                やがてその日の午後、壱岐の風本浦に着き、龍宮寺に居所を定めた。風本とは勝本のことである。ここで、風本と勝本の

               地名の由来について紹介すると、神功皇后が朝鮮の三韓に出兵するため、壱岐で風待ちをしていた際に神社に祈願すると、

               朝鮮へ渡るのにちょうど都合のいい風が吹いたため、神功皇后はこれを喜んで、その地を「風本」と名付けた。また、

               朝鮮で三韓に勝って日本に帰る途中この地に立ち寄り、風本の名を今度は「勝本」と改めたそうである。
   
                                               
              4.朝鮮人の消息を聞く
     
                壱岐島の島主は平戸藩第3代藩主の松浦隆信で、父親の久信が1602年に31歳の若さで急死したため、わずか10歳

               で家督を相続し、祖父の初代藩主松浦鎮信が隆信を後見している。隆信は朝鮮通信使の一行が壱岐に来た時は江戸にいた 

               ので、「副官」の松尾七右衛門という対馬藩重臣・柳川調興の家臣が通信使の接待を行った。
   
                姜弘重は、壱岐に到着したその日に朝鮮側の訳官から次のように聞いた。

                「我が国から捕らえられてこの島におる者がはなはだ多く、使臣が来たことを聞き、(日本側は)隠して出さぬようにし、

                  ある1人の男が一行の下人と話をしようとすると、対馬島の人に叱責されて、足も地に着かずに引き立てられて行っ

                たが、このような者が1人・2人ではない」


                この話が事実であると、対馬側は朝鮮人が通信使一行に近寄ることを妨害していたことになるが、朝鮮人を本国に刷還する

                という通信使の役目を妨害したことになる。これについて、姜弘重は、「思うに、対馬島の人たちが関白(将軍)にそむく

               ようなことが先に聞こえていくと、罪を被るのではないか、ということを恐れてそのようなのであるが、憎むべきことである」

               と書いている。 



              5.壱岐島主の妻となった朝鮮人の話を聞く

                通信使が壱岐に到着して3日目に、平戸藩主の叔父の松浦蔵人信正と、藩主のいとこの日高虎助が三使臣に謁見して

               いる。松浦家家系図によると、初代平戸藩主松浦鎮信(1549-1614)には子供が4男5女おり、長男が久信(1571-1602)

               で第2代藩主となり、久信の長男隆信(1592-1637)が跡を継いで第3代藩主となっている。鎮信の長女が日高玄蕃信喜の

               玄蕃信喜の妻となって、日高虎助を生んでいる。鎮信と朝鮮から連れて来た女性・小麦様との間にできた子供が次男の

               信正で蔵人ともいう。日高虎助にとっては信正(蔵人)は叔父にあたり、また、藩主の隆信とはいとこ同士になる。  
    
                通信使の副使・姜弘重は、日高虎助と松浦蔵人が謁見のため使臣の部屋に入って来た時、 
    
               「膝で歩いて匍匐(ほふく)し、あえて仰ぎ見ることなく、ただ拝礼して退出した」と記述している。 
    
                匍匐とは、腹ばいになって手と足ではうことを言い、使臣の顔も見ないで拝礼だけして退出するとは、まるで将軍や

                国王にまみえるかのような態度であり、朝鮮国王の使臣に対する態度が対馬藩の役人たちとはずいぶん違うのではないか

                と思われる。 
    
                 姜弘重は続けて次のように書いている。 
     
                「蔵人殿はすなわちわが国昌原の女子が生み、兄弟が皆処女として壬申倭乱のときに捕えられ、皆壱岐当主の 
    
                  妻になり、今まで生存しており、その夫である島主は、すなわち今の島主の祖父ですでに死去したという。」 
    
                 初代平戸藩主松浦鎮信が文禄慶長の役で朝鮮から連れて来て側室とした女性は、平戸で小麦様と呼ばれるように

                 なり、鎮信との間に2男4女を生んでいる。長男が松浦蔵人信正で、平戸藩の家老になった。蔵人は母の祖国の高

                 官と面会した時、恐れ多くてかなり緊張したのではないかと思われる。そのため、使臣の顔も仰ぎ見ることができ 
    
                なかったのかもしれない。当時小麦様は平戸島に暮らしていたが、姜弘重は松浦蔵人が小麦様の息子であることや、
    
                 小麦様が朝鮮の昌原出身であることを誰から聞いたのか気になる。当時は壱岐島でもその事実が広く知られていたの

                かもしれない。あるいは、通信使一行を案内する対馬藩の藩士から聞いたのかもしれない。

                 また、姜弘重は小麦様には姉か妹かがいて、一緒に平戸に連れられて来て、やはり藩主の側室にされたとも記述

                している。松浦家の家系にはその姉妹の子孫が記載されてはいない。したがって、本当は姉妹ではなかったのかも

                しれない。小麦様の世話をする付添の女性だったのかもしれない。


                  小麦様は朝鮮にいた時、いったいどういう身分だったのであろうか。これについては、寛永13年(1636)に来日

                した江戸時代第4回目の朝鮮通信使の従事官・黄漫浪が著した『東槎録』に、使臣が壱岐島に来た時、二人の朝鮮人と

                面会し、そのうちの曹一男という者と黄漫浪とのやり取りが次のとおり記録されている。

                 「臣問、平戸太守為何如人、則一男言、太守即我国昌原居両班女人之孫子云、・・・・・」

                つまり、平戸藩主は朝鮮の昌原に居住する両班の娘の孫だと、壱岐に住む朝鮮人が回答しる。このことから平戸で

                 小麦様と呼ばれる朝鮮人女性は両班の子供だったことがわかる。小麦様は寛永6年(1629)年に亡くなっている。
  
                  平戸島の根獅子(ねしこ)という海辺の町に「小麦様の墓」と呼ばれる大小2基のお墓があり、小麦様と信正の妻の

                 墓であると言い伝えられている。

            



                    参考文献: 『東槎録』 姜弘重著  若松實訳  日朝協会愛知県連合会発行  2000年8月1日

                             『東槎録』 黄漫浪著  (「大系朝鮮通信使」第二巻) 1996年 

                              『勝本港の「みなと文化」』  石井 敏夫著  

                             『朝日日本歴史人物事典』



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