5-1. 金玉均 (1851~1894)   김옥균


  金玉均(キム・オッキュン)は朝鮮末期の官僚及び政治家で、朝鮮の近代化のため急進的な開化運動を指導した人物である。


                      

                                琴秉洞著 『金玉均と日本』より掲載 (3枚)

 (1)前歴 

  金玉均は1851年に忠清南道の公州に生まれた。本貫(始祖の出身地)は安東で、安東・金氏は朝鮮後期、王に代わって政治を行うほど

 の名門の家柄であった。6歳の時、父のいとこにあたる金炳基の養子となり、漢城(後のソウル)で成長した。金玉均は長男であるにもかか

 わらず、養子になったのである。 

  1861年金玉均は10歳の時、養父が江陵府使に任命されると、養父に従い江陵に移住した。江陵は儒学者として名高い李栗谷の出身

 地である。金玉均は15歳までここの書堂(私塾)で勉強し、李栗谷の学風の強い影響を受けた。学問のみならず、書、詩、絵画、音楽など

 も卓越した素質を発揮したという。

  1866年に養父 金炳基が中央政府に高官として復帰したため、金玉均も漢城へ戻った。1869年に朴珪壽と出会い、その門下生となっ

 て開化思想を学ぶに至る。1872年に21歳で科挙の試験を受け、文科に首席で合格した。この年、成均館の典籍(正六品)に任命され、

 成均館の学生を指導した。1874年には弘文館校理(正五品)に任命され、文章作成の仕事に従事するとともに、諌言活動にも参加してい

 る。ここでその優れた才能を発揮し、国王高宗の信任を得るようになった。

 そして、王命を伝達したり、臣下から王への上奏を取り扱う政府中枢機関の一つである承政院の右副承旨となった。右副承旨は刑曹(現在

 の日本の法務省に相当)を担当する役職で、正三品の要職であった。その後、同じく20代で刑曹の参議(正三品)に進んでいる。参議は判

 書(大臣に相当)、参判(次官に相当)に次ぐポストであり、次官補に相当する役職である。判書を補佐する役職であるが、発言権は判書と

 対等であったという (斗山百科)。このように、20代にして正三品になるのはかなりのスピード出世であり、国王からの信任がよほど篤かっ

 たものと思われる。若手官僚のホープとして大いに国王から期待されていたのではなかろうか。

 

 (2)対外・対内状況

  ここで、当時の朝鮮の対外・対内状況を見てみると、1855年にイギリスやフランスの軍艦が朝鮮沿岸で測量を行い、1866年8月には、

 シャーマン号事件(海賊行為を繰り返していたアメリカの商船シャーマン号を朝鮮軍が襲撃して沈没させ、船員全員を虐殺した事件)が発生

 し、同年10月にはフランス人宣教師9人の処刑に端を発してフランスと朝鮮が交戦した丙寅洋擾が起こっている。また、1871年には清国

 駐在のアメリカ公使がシャーマン号事件の謝罪と通商を求めてアメリカのアジア艦隊を朝鮮に派遣し、アメリカ軍は江華島を攻撃し、上陸し

 た。この攻撃で応戦した朝鮮軍兵士240人以上が戦死している。この時、アジア艦隊は日本の長崎で編成されている (ウィキペディア『辛未

 洋擾』)。

       


  1864年1月から国王の実父として年少の国王 高宗に代わって国政を行い、特に鎖国政策を強力に推進してきた大院君は1873年11月

 に失脚し、代わって国王の妻の一族 閔氏が権力を掌握した。1875年9月日本の軍艦2隻が朝鮮沿岸で測量を行っていて江華島に接近し

 たところ、江華島の守備軍が砲撃を行ってここに戦闘が行われた (日本側死者1名、朝鮮側死者35名)。この江華島事件は日本の軍艦 

 雲揚の名をとって韓国では雲揚号事件と呼ばれている。軍艦 雲揚は長崎に寄港して事件の発生を伝える電報を政府に打電している。翌

 年2月、この事件の結果、日朝修好条規(江華島条約ともいう)が締結され、朝鮮は3港を開港することになった (1876年釜山、1880年

 元山、1883年仁川が開港)。
          
  このように、19世紀後半は度々外国から侵略を受けるようになって来ており、朝鮮国内では国政改革の必要性を考える者が出てくるよう

 になった。


                         
 (3)開化思想の師 朴珪壽

  金玉均が師事した朴珪壽(パク・ギュス 1807-1877)は18世紀に実学の大家及び文学者としてとして活躍した朴趾源(1737-1805)の孫

 で、1866年に平安道でアメリカの商船 ゼネラル・シャーマン号の海賊行為によって住民に7名の死者と5名の負傷者が出たためシャーマ

 ン号が焼き払われた事件が発生した時は、平安道の観察使(長官)を務めていた。

  朴珪壽は祖父の実学思想を受け継ぎ、国政改革思想を抱いていた。大院君が推進する鎖国政策には批判的で、むしろ、外国と国交を開

 いて、先進文化を取り入れることを主張していたという (李殷直著『朝鮮名人伝』 明石書店 1989年発行)。ところが、外国船を焼き払った

 ということで、大院君からは大いに気に入られたという。

  1872年、清国皇帝 同治帝の結婚式にあたり、朝鮮から派遣される進賀使の正使となって北京を訪問した。北京滞在中、前年フランスに

 派遣され帰国した崇厚に会い、西洋諸国の事情を詳細に聴き、西洋の書籍、武器、火砲、建築術に関する資料に接している。また、西洋近

 代文明の科学技術を導入し国力増強を図るために展開されていた洋務運動を目撃し、朝鮮を開国し、西洋文化を導入すべきであると痛切

 に感じるようになった。

 1873年12月、右議政(副首相)に昇進したが、自身の開国・開化の主張が受け入れられないことから、翌年9月に辞職し、政治の第一線

 から身を引いた。

  朴珪壽の自宅の居間には開化思想に共鳴する青年たちが集まり、朴珪壽や劉大致(1831-?)から薫陶を受けたり、同志を集めたりしてい

 た。金玉均はここで、後に開化派の有力メンバーとなる朴泳孝(1861-1939)、徐光範(1859-1897)、徐載弼(1864-1951)、洪英植(1855-

 1884)、兪吉濬(1856-1914)らと知り合うようになった。




 (4)開化党を組織

  国政を改革するには、勢力を拡大する必要があり、金玉均は官僚たちに働きかけ、同志として開化思想グループに引き入れることに努

 め、その結果、金弘集(1842-1896 初代総理大臣)、金允植(1835-1922 金弘集内閣時の外務大臣),魚允中(1848-1896 金弘集内閣

 時の度支部大臣)が
有力メンバーとして加わった。こうして1879年頃,金玉均は朴泳孝らとともに開化党を組織した。開化党が目的とす

 るところは、新しい知識を学び、新しい技術を取り入れ、政府や一般社会の古い因習を根本的に変革して朝鮮を近代的な国家とすることで

 あった。そして、富国強兵策を実施して国家の独立を守ろうと考えたのであった (李殷直著『朝鮮名人伝』820貢。)

  ところで、開化党は路線の違いから二つのグループに分かれている。世界大百科事典第2版の解説によると、甲申政変(1884年)を主導

 した金玉均,朴泳孝,洪英植らを急進的開化派、甲午改革(1894‐95年)を主導した金弘集,金允植,魚允中,兪吉濬らを穏健的開化派と

 いう。

 宗主国たる清国への臣属関係を維持し旧体制を持続しようとした守旧派と対決して,クーデターによって国政変革をめざしたのが急進的開

 化派であり,守旧派と妥協しながら漸進的に改革していこうとしたのが穏健的開化派である。

  彼ら開化党は日本の明治維新に習って政治を刷新しようと考え、そのために日本から援助を受けることを希望していたのである。



 (5)朝鮮使節の日本訪問

  1876年(明治9年)2月、日朝修好条規が朝鮮の江華島で締結された後、日本側の要請を受け、朝鮮は同年4月末、金綺秀を正使とする

 修信使(第一次修信使) を日本へ派遣した。修信使一行76名は、元老院議事堂を初め、陸軍省・海軍省・内務省・文部省・大蔵省・警視庁

 や陸海軍の軍事施設及び訓練状況など近代化の途上にある日本を視察した。修信使が日本へ出発する時までの朝鮮国内世論は日本を

 警戒する声が強かったが、帰国後の金綺秀の復命によって、高宗や閔妃、朝臣たちに開国主義に関心を抱かせるようになった。

  1880年(明治13年)7月、日朝修好条規の改定をめざして第二次修信使が日本へ派遣された。この時、開化派の金弘集も参加してい

 る。日朝修好条規は日本の領事裁判権を朝鮮に認めさせたり、日本の輸出入商品に対する関税を免除させたりするなど極めて不平等な条

 約となっていた。しかし、交渉は日本の反対にあって、条約改正は成らなかった。修信使一行は日本の政府機関や近代的な施設を見学し

 て、明治維新以来日本が急速に発展していることを目の当たりにして、開化に対する意欲を深くした。金弘集は日本滞在中、清国領事館の

 黄遵憲参賛官から『朝鮮策略』という本をもらい受けて、本国に持ち帰り、この本の内容を多くの者に紹介した。この本は黄遵憲が書いたも

 ので、通商を拡大して西欧から軍事や工業技術を学び,富国強兵を図るべきこと、日本やアメリカと連携すべきこと、清国と朝鮮との宗属関

 係を強化すべきことなどが書かれていた。こうして、第二次修信使から日本の発展の様子や『朝鮮策略』の内容を知った国王をはじめとする

 政府当局者たちは、次第に開化政策を推進していくようになるのである。

  翌1881年(明治14年)4月、開化派の魚允中や洪英植ら紳士遊覧団と称する一行61名が日本を訪問した。彼らは分かれて70日間余り

 日本各地をめぐり、行政機関や軍事、教育、工業などの状況を詳細に視察し、8月24日、長崎から千年丸で帰国した。



 (6)金玉均の第1次日本訪問

  金玉均も1882年(明治15年)3月、国王の許しを得て近代化の進んでいる日本へ視察の旅に出ている。初の日本訪問である。この時、

 実家や養家の財産を売却したり、周囲から支援金を集めて日本円2万円を用意して行った。  


  1)長崎訪問

    金玉均は3月17日に釜山を出発し、千年丸に乗船して19日に長崎に着いた。長崎に1ヵ月滞在して4月20日に長崎を離れている。
  
   長崎滞在の様子を当時の西海新聞が報道しているので、すべての新聞記事を次に掲載する (一部の漢字、カナは現代語に直した)。

  
  ○明治15年3月23日付記事
   
    「過日渡海し来たる朝鮮国京城の貴族金玉均外2名は、裁判事務一見せんとて、当地両裁判所へ出願せしよしなれば、本日は一見

     を許さるる都合に立ち至るべしと云ふ。又昨日は当区小学校、中学校、師範学校等巡見せしよし。県庁よりは外務課雇大浦九馬作

     氏が通弁に付き廻られたり」。



  ○明治15年3月25日付記事

    「当港滞在中の朝鮮紳士金玉均氏の我国に渡海したるは、内国漫遊の由にて、近日東京へ向け出発するかの趣き。当地の旅館は

     本籠町岩崎味三郎方なり。又、同氏は朝鮮政府通訓大夫経筵侍読官なるよし」。



  ○明治15年3月26日付記事

   ・ 「昨日は県庁の案内を乞ひ、臨時会議傍聴として当港在留中の朝鮮紳士金玉均氏も出席せられたるよし。」

   ・ 「今度来遊ありし朝鮮国貴族金玉均氏が一昨24日夜舟大工町桜湯にて入浴の節、暫時楼上に小憩せられしが折節、大坂府の人に

     てかの演説者樽井藤吉氏が、結髪長髯の容貌は如何にも本国人と相似て自づと異風あるを見て互に筆談などありしが、其文筆さえ
                           
     本国人に似たりとて甚くも同氏を愛慕(あいわ)し、是非其本国へ連れ帰らんとしきりに懇望せられたれば、同氏も事に依りては韓遊

     せらるべしと云ふ。又右桜湯の主人が兼ねて珍蔵せる岳飛の書幅を示せしに、玉均氏は殊の外歎賞せられ、其表粧の充分ならざる
 
     を憾(うら)まれしにや、自ら資を捐て凡そ50金許りの表粧をなし遣わすとて、早速其職人に付せられ、又右の対幅となすべきため、

     別に賛題一詩を書し、同家主人に与へられしと云ふ」。 

   ・ 「又同氏と同行せられし朝鮮人㝢鼎、金東樸の両氏は昨日午前零時30分出港の郵船広島丸にて東京へ赴かれたり」。
   


  ○明治15年3月29日付記事

   ・ 「本県令には本日馬町自由亭に於て、かの韓客金玉均並に繕工官姜瑋、士人邊燧の数氏を招待し、饗宴を開かせらるるよし」。

   ・ 「右金玉均氏の一行は此の次の便船にて釜山より同国人7,8名の来るを待ち、共に上京せらるると云ふ。又去る22日金氏は腰痛に

     て病院に行き、「ボック」氏の療養を受けられ、24日は各国領事を訪ひ各国の事情など尋問ありしと。26日には小島郷福屋にて清国

     領事の饗応を受けられたり」。



  ○明治15年3月31日付記事

   ・ 「一昨日の紙上に掲げし同日馬町自由亭に於て、内海本県令より韓客金氏其他饗応の景況を聞くに、県官は県令始め金井、上村両

     書記官にて、招待に応ぜし人々は金氏一行の外、清国領事余攜(よ・けい)氏、其他県会議長志波三九郎氏、同副議長牛島秀一郎

     氏等にて、各午後6、7時より登亭せられ席定まるの後、県令は招待の意を書面にて示され、続ひて清国領事及び志波氏等の演説

     あり。又、金瑞、金玉均氏等の詩作もありて、漸く1時頃散会せられたりと」。



  ○明治15年4月2日付記事

   ・ 「韓客金玉均氏には、長崎電信分局据付の電候機械を実見いたしたくとて本県庁へ依頼され、県庁より其旨電信分局へ照会されし

     上にて、金氏には通弁人を随へ去る27日大浦なる電信分局へ参られ、分局主員には懇ろに電気機械、試験器、電槽室等一ゝ親

     しく教示されたりしが、金氏は其妙機に感じ早々自国へも架設いたしたく企望せる旨語られたりと。夫より隣家嗹馬電信会社へも参

     られ、社員より同じく電気流通等細かに示され、右一覧の上、日本電信分局応接所に於て茶菓子を出し、其の際に電信付号文字

     などを精しく尋問され、やや談話に時を移して別れを告げ、待遇の厚きを謝して帰館せられたりと」。



  ○明治15年4月5日付記事

   ・ 「過日来当港に在留する朝鮮紳士金玉均氏の我帝国に来遊せしは、只今日の事情視察の為めのみならず、かねて王命を奉じ、国債

     を募る内相談を我政府の顕官方に謀るとのよしなりと云ふ」。


   ・ 「去る3日は祭日に当り休暇なりとて、当区中学校清教学部師 孫子希氏は、師範学校生徒永松豊山と共に朝鮮貴賓の旅館を訪れ、

     互いに筆談文語を為し、いと珍しき3国の会話にてありしと。又た其席上にて唱和せられし詩を得たれば、左に掲ぐ。

                
                   朝鮮   金 玉 均

       言忠行篤更誰瞋。玉帛従前在善隣。万里東来非偶爾。只要結識有心人。

     
                   豊前   永松 豊山

       狼魯□英競吼瞋。東洋要務在親隣。寄縁萬里初相遇。唇歯同情與亜人。       


                   朝鮮   姜 秋 琹

       普天宜笑不宜瞋。況我交情是近隣。一見便談当世務。知君與亜會中人。 」



  ○明治15年4月6日付記事

   ・ 「昨日の紙上に清国人孫子希氏が永松豊山を従え朝鮮客金氏を問われ、筆談せられたる云々を掲げしが、今其筆談中、国事に関す

     る要点のみを訳し、左に示さん。


      (孫氏)各国通商、千古未有の事たり。現今聞く、西洋亦一、二国あり。馳せて貴邦に往き建議すと、未だ知らず、建議如何。創始の

          難き、大いに心力を費やさん。諸氏遠く異国に適く、険阻艱難歴(へ)ざる所なし。青史標名、諸(これ)を不朽に伝ふも亦、人

          をして欽慕せしむるに足る。


      (金氏)欧米各国、連絡、盟を要(も)とむ。誠、亦、開闢以来未有の局面、幣国従来外交なしと雖も、この頃聞く、美、俄、英、法、徳

          諸国ひとしく声息なきにあらず、朝議、野論自ら岐貮なきに非ず、悶然すべし。然れども大勢の自然、まことに独り免れがたき

          也。僕の東遊は即亦、汗漫遊覧云々、青史は敢えて当るに非ざる也。聞、先生、多く東西洋諸邦の人に交わる、大勢に於い

          て、まさに洞知する有らん。乞う、誨を垂れて迷牖(めいゆう)せよ。


      (孫氏)当今局面、閉国自守のごときは其時に非ず。堅く前議を執るは其凌(しの)ぐ所たるを免れがたし。ただしばらく之を通ずる有

          って、其善なる者を擇んで之に効ひ、不善なる者は我其旧による可し。萬国公法、およそ商を通ずるの邦、苟(いやしく)も起こ

          って其土地を利せんと欲する者あらば各邦の容れざる所と為す。これまた自固自強の権便也。ただ入手の初め、殊に易あら

          ずと為す。其姿をつまびらかにするを得て、善美を尽くして之を行わば、こいねがわくは後患有るを致さざらん。鄙見(ひけん)

          是の如し。想ふに、貴邦軸を乗るもの自ら権衡あり。まさに杞人の憂を俟たざるのみ。



   ○明治15年4月23日付記事

    ・ 「先般来、当港へ滞在せし韓客金玉均氏の一行は、過日本港へ渡来せし同国人徐光範と共に、去る20日出航の敦賀丸便にて東上

      せられたり」。



  金玉均本人に関する記事はこの4月23日付けの記事で終わっている。
  
  4月5日付記事と4月6日付記事の金玉均の詩と発言内容については、横山宏章氏が著書『草莽のヒーロー』(長崎新聞新書 2002年)

 で、読み下し文と大意を紹介されているので、以下に掲載しておく。


      「言忠行篤更誰嗔。玉帛従前在善隣。万里東来非偶爾。只要結識有心人。

        忠を言い、篤を行うは、更に誰が瞋(いか)る。玉帛(王の指針)は従前より善隣に在り。万里の東来は遇にあらず。

        只、心有る人に識を結ぶを要する。」


      「欧米各国と連絡し、盟を結ぶことが大切である。このことは開闢以来まことに未有の局面である。従来、朝鮮には外交がなかった

       というものの、最近はアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、ドイツ諸国と交流してきた。朝廷でも、また民間でも議論が分かれ、心

       を悩ませている。しかし、これは大勢の赴くところであり、まことに一国だけで免れることはできない。」



  また、3月26日付記事には金玉均が長崎区(明治22年4月1日に長崎市となる)内の銭湯で、銭湯の主人が珍重する中国 南宋の英雄
 
 岳飛の書の掛け物の表粧が充分でないのを残念に思って自らのお金を出して修理させようとしたこと、自分が詩を書いて岳飛の書の対幅と

 したことは、金玉均の人柄を偲ばせるものがある。この時の金玉均の書が現存しているかどうかはわからない。現存していればぜひ、拝見

 したいものである。この岳飛の書の掛け物の表粧については、5月4日付けで西海新聞が報じている。

  「先般朝鮮人金氏来崎中、当区舟大工町桜湯の秘蔵、岳武穆の真蹟を観て痛く賞玩せしよしは其の時の紙上にも掲げしが、其表粧も既

  に過日美事に出来し、殊に金氏及び清国領事余瑞君、並に本県令内海君等が其真蹟を証せられたる書も之も添ひ居ることなれば、同家

  の主人は其真蹟の益々光輝を発したるを頻りに喜び合へりとは左もあるべし」。

  この岳飛の直筆の書のその後の行方が気になるところである。現存していれば 、相当な文化財的価値があるだろう。ご子孫の家で大切

 に保管されていることを期待したい。 
 


  2)樽井藤吉と金玉均

   3月24日夜に船大工町の桜湯で金玉均が出会った樽井藤吉(1850-1922)は、長崎で4月18日に東洋社会党を結成した人物である。

  「社会党」の名を付けた政党としてはこの時が日本で最初であり、一次日本中で注目を浴びた。だが、7月7日に内務卿命令により、長崎

  警察署長から解散させられている。『増補 長崎の歴史』(松浦直治著)には、金玉均と樽井藤吉の会談の様子を伝える明治15年4月5日

  付け朝日新聞の内容が紹介されている。次のとおりである。


   「 同年4月5日付けの『朝日新聞』によると、朝鮮の若い革新政治家金玉均が、3月24日、ひそかに長崎に渡来し、船大工町の桜湯の

   2階で、奈良県人の樽井藤吉という男と会い、韓南多島海に日本の若い農村の開拓者たちを移住させる相談をしておる。」


  この明治15年4月5日付け朝日新聞を県立長崎図書館で閲覧しようと思って職員に訊ねてみたが、残念ながら、この時期の朝日新聞は

 所蔵していないということだった。上記 『増補 長崎の歴史』 の著者 松浦直治氏は朝日新聞社の客員だった人であるが、続けて次のように

 書いている。

  
   「この樽井藤吉によって『東洋社会党』という、今の社会党とはだいぶ思潮の方向を異にするコレクテイビズム(集産主義)に似た政党が

   結成されたのであった。おそらく、金玉均も、このことはあづかり知っていたものと思われる。」

  
  樽井藤吉は結髪長髯の容貌と西海新聞に記載されているが、1850年生まれであるので、この時はまだ32歳であり、金玉均より1歳年上

 だった。この後、金玉均がクーデターに失敗して日本へ亡命した時も、樽井藤吉は金玉均に会いに行き、日本から援軍を送る話をしている。

 「500名の猛士を汽船に乗せて仁川に到り、不意に京城を襲ひ反対派の大臣を監禁して急転直下、王命を挟んで新政府を公布すれば事

 は直ちに成るであろう」という考えを持っていたそうである (琴秉洞著 『金玉均と日本』 213貢 )。ずいぶん楽天的な考えで、実際には実現に

 は至らなかった。



  3) 金玉均が訪れた長崎の施設

   ここで、 金玉均が長崎滞在中に訪れた施設について、いくつか紹介したい。


    ア)県会議事院 (交親館)

       金玉均は明治15年(1882年)3月25日、長崎県会(現在の県議会)の臨時会議を傍聴した。 県会の建物は交親館といい、

      明治14年10月に落成し、明治15年3月の県会から使用された。上西山町内に建設され、西洋造りの2階建て、建坪は205坪で

      ある。1階は県会議事院で、2階が外賓接待所である。当時、長崎で最もモダンな建物だったという ( 「長崎市史年表」 昭和56年

      長崎市役所発行)。

       建物は大正4年に立山に県立長崎図書館として移転・増改築された。下の写真を交親館として紹介する書物をいくつか見かける
         
      が、周囲の地形からして移転・増改築された後の県立長崎図書館と思われる。ただ、増改築されたとはいえ、外観は金玉均が訪問

      した当時と大きくは変わっていないのではなかろうか。
 

             

    イ)長崎電信分局

      金玉均は3月27日に梅香崎町の長崎電信分局と嗹馬電信会社を訪問した。新聞では大浦と書かれてあるが、正確に言うと梅香崎

     町1番地である

      長崎電信分局は国内通信を取り扱い、明治3年に長崎伝信局としてスタートし、長崎・横浜間電信線の架設工事が開始されている。

      明治6年に長崎電信局と改称され、同8年に梅香崎町1番地に移転している。そして同10年1月、官制改正により長崎電信分局と

     改称されている。明治8年(1870年)、朝鮮で江華島事件が発生した時、日本の軍艦 雲揚が長崎に寄港して事件の発生を政府に

     伝える電報は、この長崎電信分局から打電されたのである。


    ウ)大北電信会社長崎支局

      西海新聞に嗹馬電信会社と記載されているが、デンマークの大北電信会社のことである。嗹馬(れんま)とはデンマークの漢字表記

     であり、大北電信会社は明治3年(1870年)1月、ベルビューホテル内に長崎支局を開設し、同年10月にデンマークから技師が赴任

     している。そして、翌明治4年に長崎~上海、長崎~ウラジオストクに日本最初の海底ケーブルを敷設している。海底ケーブルの陸揚

     庫が小ケ倉の千本海岸に建てられ、ここから陸路ベルビューホテルに電線をつないで、日本で初めて国際通信が開始されたのであ

     る。

      なお、この陸揚庫は昭和46年に小ケ倉3丁目に移設して、原型通り復元された。現在、長崎県の文化財(史跡)に指定されている。


      金玉均はこの大北電信会社と長崎電信分局の電信機械を見学していたく感心し、熱心に社員に質問を行っている。まさしく文明開化

     の日本を見て、朝鮮も早く近代化させなければならないという思いを強くしたことだろう。西海新聞記事によると、「早々自国へも架設

     したい」と語っている。
 



                   

                     かつてベルビューホテルが建っていた附近に建つ記念碑




                      

                           かつてベルビューホテルがあった場所 
                       現在はANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒルという
                       ホテルが建っている。

      

    エ)福屋
  
      金玉均は3月26日に小島郷の福屋で清国領事から饗応を受けた。福屋については、福屋があった場所の下に看板が設置されて
 
     いるので、その内容を紹介する。


       「福屋は西洋料理店のさきがけの一つで、創業者は中村藤吉。建物は明治2年(1869)上棟の日本家屋と明治8年(1875)上棟の

        洋館の組み合わせとなっていて、擬洋風(ぎようふう)の細部装飾が加えられていました。写真は洋館部のベランダ側を写したも

        のです。福屋は馬町の自由亭、西浜町の精洋亭とともに長崎三大洋食屋と呼ばれました。孫文が国賓として来日した際やアメリ

        カのグラント将軍(18代アメリカ合衆国大統領)が来崎した際には、食事の準備を行いました。明治40年代に閉店し、現在は庭

        園の一部や石垣、階段等を残すのみとなっています。」  



      

         福屋 (長崎大学附属図書館所蔵)                   当時の石垣が一部残っている




        

        かつて、福屋が建っていた中小島公園                     金網に設置された長崎市の説明版




    オ)自由亭
   
      金玉均は明治15年3月29日、長崎県令から自由亭で饗応を受けた。当時の自由亭の建物はグラバー園に移築されて、現在も2階

     部分が喫茶室として一般に利用されている。自由亭の歴史については、建物の前に看板が設置されてあり、その内容は次のとおりで
 
     ある。
     
 
       「 この建物は、1878年(明治11年)7月に西洋料理店「自由亭」として、長崎市内諏訪神社下の馬町12番地に建築されたもので

        す。自由亭は、最初長崎市伊良林の若宮稲荷神社の傍らにあり「良林亭」という名前でした。良林亭は、草野丈吉が薩摩藩士

        五代友厚の薦めで、1863年(文久3年)に自宅を改造して造った西洋料理店です。良林亭は、その年の内に「自遊亭」に名を変

        え、1865年(慶応元年)に佐賀藩士佐野常民の薦めで「自由亭」と改称しました。

         自由亭は、当時の長崎の三大西洋料理店(小島郷福屋、西浜町精洋亭)のひとつで、内外の貴賓、地元高官などの社交の場

        に利用されていました。その後、1886年(明治19年)に店主の草野丈吉が亡くなり、1887年(明治20年)に自由亭は廃業。

         この建物は長崎地方裁判所が購入し、検事正官舎として使用されます。1973年(昭和48年)に保存のため裁判所から所管替

        えした検察庁より長崎市が譲り受け、1974年(昭和49年)に現在地に移築復元されました。現在は、建物の2階が喫茶室として

        利用されています。」


      金玉均が足を踏み入れた建物の中で現在も残っているのは、この自由亭だけである。近代日韓関係史上たいへん貴重な建物とい

     えよう。なお、創立者の草野丈吉は、大阪の中の島にも自由亭を開店しており、金玉均が大阪を訪問した時、府知事から自由亭で接

     待を受けたという (琴秉洞著 『金玉均と日本』 55貢 )。

      長崎の自由亭は木造2階建の洋風建築で、玄関は入母屋造である。和風の建物が多い当時の長崎で、モダンな建物として人目を

     引いていたに違いない。




        

                自由亭




            

       1階から2階へ上がる階段部分                              2階部分
                  

    

               


                              自由亭前の説明看板に写っている写真



  4)福沢諭吉らと会う

    金玉均は明治15年4月22日頃神戸に到着し、神戸見学の後、有馬温泉で休養した。大阪には5月8日に着き、この日、府知事から

   中の島の自由亭で接待を受けている。大阪滞在中は、大阪鎮台や活版所などを見学した。5月12日に京都入りし、第2回内国博覧会

   や盲啞院を見学した。京都には10日程滞在し、京都府庁訪問や市内観光などを行った後、神戸から船便で横浜を経由して、6月1日

   東京に到着した。
 
    東京では、福沢諭吉を始め、井上馨、大隈重信、渋沢栄一ら政財界の有力な人物と会って人脈を築いている。また、陸軍省や陸軍

   病院を見学して、軍隊や医療の近代化に関心を注いだ。注目すべきは、朝鮮の貨幣制度の近代化のために、京都で「硬貨製造機」を

   発注したことである。9月1日の「京都滋賀新報」に、「 先般、朝鮮人金玉均、鄭秉夏の両人、京都へ来りし時、同国の京城へ設置する

   積りにて、韓銭鋳造機械を伏見製鉄所へ代価6万円を以て注文」 したという記事が掲載されている。( 『金玉均と日本』 68貢)

    金玉均は7月下旬、神戸から品川丸に搭乗し、帰国の途についた。 8月31日に首都・漢城に帰着している。



 (7)壬午軍乱

   品川丸が下関に停泊中、金玉均は祖国で壬午軍乱が発生したとの報に接し、一時、出航を見合わせている。事件の発生した1882年

  が60干支の19番目である壬午の年に当るので、壬午軍乱または壬午事変と呼ばれる。

   1873年に政治の実権が国王高宗の父 大院君から高宗の妻 閔妃の一族に移っており、閔氏政権は1881年に開化政策の一環と

  して軍制改革に着手した。即ち、それまでの旧式軍隊とは別に新たに新式軍隊である別技軍を設けて、日本人将校が教官として指導に
 
  当り西洋式訓練を行った。兵士は両班の子弟がほとんどで、待遇も当然旧式軍隊に属する兵士たちとは違っており、そのため、旧式軍

  隊の兵士たちは不満を募らせていた。

   当時、朝鮮は財政難に苦しんでおり、そのため、兵士たちへの給料は米で支払われていたのだが、13ヵ月間も支給が滞っていた。

  7月19日(旧暦6月5日)になってやっと1ヵ月分の俸給米が支払われたが、その俸給米には砂やぬかで水増しされており、米の量は半分

  にも満たなかった。残りの米は支給に当たった給米係の役人が着服しようとしたものだった。激怒した旧式軍隊の兵士たちは支給に当た

  った役人を暴行した。このことが宣恵庁堂上 兼 兵曹判書の職にあった閔謙鎬の耳に入り、怒った閔謙鎬は暴行の首謀者を捕え、処刑さ
  
  せようとした。そのため、7月23日(旧暦6月9日)、再び旧式軍隊の兵士たちが暴動を起こし、軍乱へと発展したのである。
  
   李最応、閔昌植、金輔鉉の3人の政府高官が殺害され、暴動を拡大させてしまった閔謙鎬も殺された。新式軍隊である別技軍の兵士も

  この軍乱に加わり、日本人教官の堀本少尉も殺された。暴徒の一部が日本公使館へ向かったが、これを知った花房義質(はなぶさ・よしもと)

  日本公使の一行は自ら公使館に火を放って仁川へ逃げ、仁川府使の保護を受けたが、まもなく仁川でも暴徒から襲撃され、済物浦から小
  
  舟で脱出し、海上を漂流しているところをイギリスの測量船に救われて長崎へ逃げ帰っている。花房公使は7月30日、長崎から井上馨

  外務卿あてに電報で壬午軍乱の発生を報告している。そして、井上外務卿と花房公使が下関で会い、今後の方策を話し合った。その結

  果、花房公使を全権委員として、日本軍兵士1500名余りを軍艦4隻に載せて朝鮮へ派遣することになった。花房公使は明治丸に乗り込

  み、8月16日、仁川に到着した。この時、明治丸には金玉均、徐光範ら開化派の有力メンバーも一緒に乗船して帰国している。

   この軍乱の結果、8月30日に日本と朝鮮との間で6箇条からなる済物浦条約が締結され、朝鮮は日本に賠償金50万円を支払うこと、

  日本公使館に日本の守備隊を置くことなどが定められた。




 (8)金玉均の第2次日本訪問

   済物浦条約第6条は、「朝鮮国は高官を派遣し、国書をもって日本国に謝罪すること」 という条文になっている。壬午軍乱によって殺害

  された日本人の正確な数はわからないが、公使館員や巡査、学生など17人が殺害され、靖国神社に合祀されている。(ウィキペディア

   『壬午事変』 )

   この済物浦条約第6条により、朝鮮から日本へ修信使が派遣されることになった。正使は前国王(第25代王)哲宗の娘婿の朴泳孝で

  である。金玉均が書いた日記 『甲申日録』によれば、当初、朝鮮政府は金玉均を正使にしようとしたが、金玉均は辞退したという。

  日記には次のように記されている。( 『金玉均と日本』 より引用)


   「まさに使を日本に派するにあたり、政府、余にあつるに是の任を以ってせんと欲す。余これを辞し、因って錦陵尉 朴泳孝を挙ぐ。上、

    我れ、暫く日本に遊び、稍々(しょうしょう)情況を知るを以って、期を同じうして朴君と偕(とも)に往き、以って顧問たるを命ず」


  国王から今回の修信使の顧問を命じられた金玉均ら修信使一行17名は、済物浦条約を締結して日本へ帰国する花房公使とともに明治

  丸に乗船して9月20日に仁川を出航し、23日に下関に到着、さらに25日に神戸に着いた。大津、京都、大阪を見学した後、10月10日、

  神戸から東京丸に乗船し、13日に東京に着いている。正使一行の宿舎は青松寺であるが、金玉均、徐光範らは新橋山城町の山城屋に

  宿泊した。一行は各参議の邸宅や外務省を訪問した後、10月19日に明治天皇に謁見し、朝鮮国王の国書を明治天皇に奉呈した。

  この謁見の様子について、琴秉洞著 『金玉均と日本』に当時の新聞が伝えた記事が一部掲載されているので、次に引用する。



   「・・・・・朝鮮国使節の一行は、昨日参内謁見を仰付けられたり。同日参朝の韓人は信使朴泳孝、副使金晩植、従事官徐光範の諸氏を

   始め、李福煥、閔泳翌、金玉均の諸氏にて、同日午後二時兼て宮内省より差廻されたる四輛の馬車にて芝青松寺の旅館を出で、順路

   赤坂仮皇居に至る。頓て信使の一行御車寄せに着す。時に鍋島式部頭、先導して謁見所へ誘引せられ程なく、聖上出御ありて謁見、
  
   信使は国書を奉呈せらる。右畢(おわ)って茶菓を賜はり直ちに退朝せられたり。右参内の附添の方々には井上外務卿、花房弁理公使、

   竹添外務書記官、訳官浅山同三等属等の諸君・・・・」 (明治15年10月20日付『時事』)

  
  
   修信使一行は、日本滞在中、外務省を訪れて賠償金返済方法について協議し、5年返済を10年返済に引き延ばしてもらっている。この

  賠償金は結局、朝鮮は10万円支払っただけで、残り40万円は明治17年に日本側が寄贈する形で免除されている。

   一行は、このほか、軍隊近代化のために武器を購入したり、様々な工場を視察するとともに、朝鮮で近代的な新聞を発行するために必

  要な活版機械を購入して、予定を大幅に遅らせて12月28日帰国の途についた。ただ、金玉均ら8名は明治16年3月下旬に帰国してい

  る。

   金玉均は福沢諭吉をしばしば訪問し、交流を深めたり、各国の外交官とも面談したりしながら、日本の実情把握に努めた。また、日本か

  ら借款を得たいと井上外務卿に相談すると、朝鮮政府が信任状を発行すれば可能だという返答を得ている。



 (9)金玉均の第3次日本訪問

   金玉均は朝鮮の近代化のために、その費用300万円の借款を日本に要請するため、明治16年6月から明治17年4月まで日本を訪問

  した。3回目の日本訪問である。6月15日頃長崎に到着し、東京へは6月28日に着いている。金玉均は日本に来る前、国王から300万

  円借款をするための信任状をもらっている。ところが、朝鮮政府のドイツ人顧問 モレンドルフ(穆麟徳)が竹添進一郎日本公使に金が王

  からもらった信任状は偽物だと中傷し、竹添公使はそれをそのまま日本政府に報告した。そのため、金玉均が井上外務卿に会って借款の

  要請をしたが、拒絶されてしまった。その理由について、『朝鮮名人伝』によると、日本政府は、朝鮮に有力な開化派の政府が立つと、日本

  の朝鮮進出にさまたげになるという判断をし、開化派に金を貸すよりも、その金で軍備拡張に力を入れ、武力で朝鮮駐在の清軍を打倒す

  ることが朝鮮侵略の早道だという計算をしていたからだという。

   日本政府は金玉均の第1回目と第2回目の訪日時とは違い、第3回目の訪日では金玉均に対する態度は確かに冷淡になっている。朝

  鮮に対しては日本はしばらく動かないでおく方針をとっていることに金玉均自身も気がついている。そこでアメリカ公使や日本の有力財界

  人に借款の話をしてみたものの、やはり断られてしまっている。ここで、この借款の要請に関して金玉均が日記 (『甲申日録』) に記した部

  分を紹介する。( 『金玉均と日本』 より引用)


  
  「 初めに外務卿井上馨に見ゆ、その言辞気色、とみに前日に異なり、是に我を疑忌すること並び至る。吾れ、竹添が穆輩に誣謊せられ、

  すでに報告する所あるを知る。(聞く、竹添謂うに、金某所持の委任状は即ち偽物にして信を取る可からずと、いうを聞く) 

   明かに然れるは、日廷の情況を概論するに、独り竹添が反間を作せし為のみならず、数三朔〔朔は月の初め〕の間、日本政府の攻略

  の趣向とみに変じ、朝鮮に向かってしばらく手をおさめて動かざるが、その主意なり。余既にその実況を知る。もとより呶々(どど)の弁を

  為すを必せず。而して事勢を概論すれば、向日の、意を傾けて、日本の手を藉りるの策、余、帰りて君主に告げ、政府の事を告げしもの、

  誣罔の科に帰するに非ざるはなし。勢い、また奈何ともなく、即ち実状を挙げて之を米国公使ビンガムに議し、その周旋を得て、すなわち

  横浜在留の米国商人モフスを米国乃至英国に送り、之を謀る。然るに諸国未だ朝鮮の如何なる国なりやを知らざるが為、事、意の如くな

  ること能わず。中途にしてモフス帰り来る、事、巳むを獲ず。

   遂に日本第一国立銀行渋沢栄一に向って之を謀り、或は10万、20万円、之が貸与をなさんとす。然れどもまた外務卿の許さざるありて

  成らずと云う (聞くに日廷は金玉均、朴泳孝の輩を以て軽躁浮薄となし、以て事を議す無し、と)。 余乃ち国に帰る (甲申3月)。」



  こうして、日本政府の対朝鮮政策の変更により、金玉均が努力を傾けた朝鮮近代化のための借款交渉は失敗に終わる。



 (10)朝鮮の国内状況                

   1882年7月壬午軍乱が発生した時、閔氏政権と対立していた大院君は旧式軍人たちを利用しようと考え、彼らを煽動して、徐々に開化

  を推し進めていた閔氏政権の要人たちを殺害し、政権を奪取することに成功した。閔妃も命を狙われたが、辛うじて宮殿を脱出して身を隠

  し難を逃れた。日本公使館も襲撃されて公使館員など多数が殺害されている。
  
   再び、政権を掌握した大院君は、1880年に清国の制度を模倣して設置された行政機構である統理機務衙門を廃止した。また、旧式

  軍人たちの要請により、新式軍隊である別技軍を廃止するとともに、1881年に従来の五軍営を改編した武衛営と壮禦営も廃止された。
   
   かわりに、五軍営や三軍府を復活させている。こうして、大院君は復古主義的な政策を実施していくのであるが、執権は約30日しか続か

  なかった。閔妃が清国に清国軍の介入を要請したのである。こうして、清国は宗主国として属邦を保護するという口実で軍隊を朝鮮に派遣

  し、漢城の要所要所に清兵を駐屯させた。清はこの機会に日本に奪われていた優越した地位を回復しようとしたのである。清国軍司令官

  呉長慶は、8月26日、部下の馬建忠に命じて大院君を拉致して天津に連行した後、直隷省保定に幽閉した。これによって、大院君は再び

  政権の座から追われ、閔氏政権が復活した。閔氏の政権はそれまでの緩やかな開化政策を変更し、清国を宗主国として清国との結びつ

  きを強め、事大主義へと変わった。軍隊は袁世凱によって清国式に訓練された。また、政治や外交、経済までも清国の影響を強く受けるよ

  うになった。朝鮮は清国の勧告によってアメリカ・イギリス・ドイツ・ロシア・フランスなど西洋諸国と通商条約を締結したが、これは日本の進

  出を防ぐための方策であった。(李基白著 『韓国史新論』319貢) また、中朝商民水陸貿易章程が締結されると、清国の商人が朝鮮で営

  業する者が急激に増え、朝鮮の商人が大打撃を受けた。このため、多くの国民が清国に対して反感を抱くようになった。



 (11)守旧派(事大党)と開化派(独立党)の対立

   閔氏政権は清国を宗主国として、清国の保護のもとに旧体制を維持しようとしたので事大党(守旧派)と呼ばれ、若手官僚を中心とした

  開化派は日本と結ぶことによって清国からの自主独立と近代化を目指したので独立党と呼ばれる。このように路線が違うので、当然、守

  旧派(事大党)と開化派(独立党)は激しく対立するようになる。

   開化派は新聞・雑誌を出版する「博文局」という政府機関を設置して、日本から購入した新式の印刷機械を使って「漢城旬報」という朝鮮

  で最初の近代的新聞を発行し、改革思想を広めるための政治的・文化的手段としてこの「漢城旬報」を利用した。この事業には福沢諭吉

  の門下生の一人、井上角五郎が顧問として参加している。ところが、この「博文局」を守旧派が支配するようになり、「漢城旬報」の記事内

  容が守旧派から干渉を受けるようになった。

   また、開化派のリーダー金玉均の右腕格の朴泳孝が守旧派から「漢城府判尹」という現在のソウル市長に相当する役職に任命される

  が、わずか4ヵ月で「広州留守」という地方官に左遷された。すると朴泳孝は広州で日本式の新式軍隊の養成を進めたが、守旧派はこれに

  反発した。やがて朴泳孝が広州留守を罷免されると、守旧派の軍隊に組み込まれてしまった。

   開化派は急進的な改革を推進しようとしたのであるが、守旧派の妨害に遭って、思いどおりに推進することができなかった。これは政府

  の要職に就けなかったからである。閔氏をはじめとした守旧派が要職を占め、政治の実権を掌握していたのであった。

   このため、開化派は武力で政権を奪取することを考えるようになった。1884年(明治17年)9月17日、金玉均は開化派の会合で次の

  ように述べたという。


   「われわれは数年の間、あらゆる苦労に耐えながら平和的手段で国政改革をしようとして力をつくしてきた。しかし、成果は上がらないば

   かりか、いまや死に直面するようになった。かくなる上は坐して死を待つより、先に敵を打ち倒さなければならない状態になった。したがっ

   て、われわれはひたすらこの一路を進み、決心を貫かなくてはならない」 ( 『朝鮮名人伝』 829貢)





 (12)甲申政変

   開化派にとって武力で政権を奪取するのに都合のいい状況が前年の1883年から生まれて来ていた。フランスが植民地にしようとして

  ベトナムを侵略したことから、宗主国たる清国が救援のため軍隊をベトナムへ派遣したのである。フランス軍と清国軍は小規模な戦闘を

  繰り返していたが、1884年8月、両国軍はついに戦争状態に突入した。このため、朝鮮に駐留していた3000人の兵士の半分がベトナ

  ムへ派遣されたため、朝鮮には1500人の兵士が駐留するのみとなった。開化派はクーデターを起こしたら清国軍が直ちに鎮圧に来るこ

  とはわかっていたので、日本軍の出動を竹添進一郎日本公使へ打診していた。竹添公使が本国へ打電して訓令を待っているうちに、金玉

  均らはその返答を待たずに、クーデターを決行したのであった。その当時、漢城には日本軍は約150人しか駐留していなかった。清国軍

  の10分の1の兵力である。これでは勝目がないことは明らかなのに、なぜ金玉均らは日本軍の増援を待たずにクーデーターを決行したの

  であろうか。

   クーデターを起こしたのはこの年12月4日であった。郵便事業を行う官庁 郵政局が11月17日開局して業務を開始したが、その開局を

  祝う記念宴会が12月4日に行われた。開化派の有力メンバーの一人である洪英植がこの郵政局のトップ 総弁に就任しており、この宴会

  の主人であった。主賓はアメリカ公使をはじめ、イギリス・清国・日本の外交官たちで、招待側は金玉均、朴泳孝や金弘集などの開化派
 
  や、守旧派の軍司令官(前営使・右営使・左営使)らであり、出席者は約20名であった。

   この宴会の途中、開化派は郵政局の隣の建物に火を付けて火災を起こし、騒ぎを起こした。金玉均らは宮殿に入って国王に清国軍が

  変を起こしたと偽りを告げ、日本軍の護衛を請うた。国王高宗はこれを認め、日本公使館へ使者が急行した。こうして竹添公使が命令して

  日本軍が出動したのである。日本に留学した軍人たちもクーデターに参加した。
 
   変を聞いて駆けつけた守旧派の大臣や軍司令官ら7名が殺害された。殺されたのは次の者たちである。

     尹泰駿(後営使)、韓圭稷(前営使)、李祖淵(左営使)、閔泳穆(外衙門督弁)、閔台鎬(内衙門督弁)、趙寧夏(吏曹判書)、

     柳在賢(宦官)



   開化派は翌12月5日、新政府を組織し、領議政に高宗の従兄の李載元、左議政に洪英植がなった。金玉均は大蔵次官に相当する戸曹

  参判になったが、実務面での責任者であった。他に、朴泳孝が前・後営使兼左捕将、徐光範が左・右営使兼右捕将になって、軍を掌握し

  た。新政府の樹立は各国の外交官たちに通知し、アメリカ、イギリス、ドイツの外交官が王に挨拶に訪れた。6日朝に新政権の政治綱領が

  発表された。金玉均の日記 『甲申日録』によると、次の14か条から成っている。(李基白著『韓国史新論』より引用)


    一、大院君を日ならず帰国させること。

    一、門閥を廃止して人民平等の権を制定し、人によって官を選ぶこととし、官によって人を選ぶようにしないこと。

    一、全国の地租法を改革して官奸を防ぎ、民困を救い、あわせて国用を裕かにすること。

    一、内侍府を廃止して、そのなかでも優れた才能がある者は登用すること。      ※内侍・・・宦官のこと
 
    一、このところ奸貪によって国家を疲弊させたことが、もっとも顕著な者は処罰すること。

    一、各道の還上は永久に停止すること。      ※還上・・・還子制度のことで、人民に対する官庁の高利貸行為のこと

    一、奎章閣を廃止すること。         ※奎章閣・・・王立図書館で、特権階級の根拠地のようもものだったという。    

    一、速やかに巡査を置いて窃盗を防ぐこと。

    一、恵商公局を廃止すること。  ※恵商公局・・・褓負商(ほふしょうー朝鮮在来の行商人)を保護するために設置された政府機関

    一、このところ流配・禁錮されている人を酌量・放免すること。

    一、四営を合わせて一営とし、営中から兵士を選んで速やかに近衛隊を設置すること。

    一、およそ国内財政は、すべて戸曹に管轄させ、そのほかの財務官庁は廃止すること。

    一、大臣と参賛は、毎日、閤門内の議政所で会議して禀(ひん)定し、政令を施行すること。 ※参賛・・・次官

    一、政府六曹以外のおよそ冗官に属するものはすべて廃止して、大臣と参賛をして審議して禀啓させること。
 

  
    しかし、このような近代的な改革も実行に移されることなく、新政府は清国軍の攻撃を受けて樹立3日目にして崩壊してしまったのであ

   る。



  (13)日本へ逃避行

     閔妃が密かに使者を派遣して清国軍の出動を要請したため、6日午後3時頃、袁世凱は兵士約1500人を率いて王のいる昌徳宮に

    かけつけ、宮殿を守る日本軍を攻撃させた。日本軍はわずか約150名にすぎないので、たちまち苦戦に陥った。竹添日本公使は国王

    高宗が清国側の陣営に避難して行ったため、これ以上抗戦することをあきらめ、日本公使館へ逃げ帰った。金玉均や朴泳孝らは竹添

    公使に従って行ったが、左議政の洪英植は国王に付いて行ったため、清国兵から殺されてしまった。

     竹添公使や金玉均、朴泳孝らはいったん日本公使館に入った後、日本へ逃げ帰るため守旧派の軍隊が追撃して来る中、仁川へ落ち

    延びて行った。9日夜明け頃、仁川に到着し、第一銀行の木下清兵衛仁川支店長の家に寄留した。そして翌10日、木下支店長の斡旋

    で日本商船会社の千歳丸に乗り込むことができた。ところが、守旧派政府が派遣した政府のドイツ人顧問 モレンドルフは兵士を引き

    連れて仁川にやって来て、竹添公使に船中の開化派人士の引渡しを強く求めた。モレンドルフは彼らを引き渡さなければ重大な国際問

    題になると脅しをかけたため、竹添公使は外交問題に発展することを恐れて、やむなく、金玉均らの身柄を引き渡すことに同意した。

     船中に潜んでいた開化派たちはこれを聞いて非常に落胆し、逮捕されて恥をさらすよりは自決するほかないと決意を固めた。
 
     この時、千歳丸船長の辻勝三郎は、竹添公使に次のように厳然と言い放ったという。

     
      「この船は政府の御用船ではない。一行を載せたのも公使の体面を尊重したからである。若し彼らを下船せしめたなら直に虐殺され
   
      るであろう。私はたとえ公使が命ぜられるとも人道上断じて下船させることは出来ない」
  
                                   (柳赫魯著 「甲申年亡命の思出」『韓末を語る』ー 『金玉均と日本』より引用)


     また、当時まだ20歳だった徐載弼(1864-1951)によると、辻船長は次のように言明したともいう。


      「陸地のことなら私がどうすることもできないが、船内のことは私の権限下にある、いかなる人でも私の船内では、一切無断で入りこ

      んで誰をも捕えることはできないから安心しろ」

                                   (『徐載弼博士自叙伝』ー 『金玉均と日本』より引用)


     辻船長がモレンドルフに、「我船にはそんな者は断じて乗っていない」とつっばねたため、それ以上追及はしないで政府から派遣され

   た役人・兵士たちは都へ引き返して行った。こうして、竹添公使や金玉均らは12月11日の朝、仁川を出港し13日に長崎に到着した。



     長崎へ向かう千歳丸の船中の様子について、開化派の一人 李圭完は次のように書き残している。

    
     「船倉は蓋で覆はれ、縄や色々な荷物を満載し、其中間に座席を作り、其処に居ること三日間、其間握り飯と行灯で過ごした。船中に

     探偵混入を警戒し、船底蟄居のまま12月11日仁川を出航し13日長崎へ着くまで、1週間を費やして長崎に上陸し、一応旅館に着

     し、後東京に入る」

               (『金玉均伝』上巻ー 『金玉均と日本』より引用)


    日本に命からがらたどり着いた時の亡命者一行はどんなにほっとしたことだろう。柳赫魯は先に紹介した「甲申年亡命の思出」の中で

   次のように述べている。

    
    「3日後、長崎に上陸した時には生きた心地はなく、初めてわれにかへった時には、いひ知れぬ涙が止め度もなく流れ、お互ひに相擁し

    て暫くは泣き続けたものであった」


    この時、開化派一行の人数について、徐載弼は 「元来43人だったが、大部分は惨殺、または処刑をうけ、残りがただの9名だけとなっ

   た」と書き残している。 (『徐載弼博士自叙伝』ー 『金玉均と日本』より引用)


    甲申政変が失敗した原因について、琴秉洞(クム・ビョンドン)氏は全989ページからなる大著 『金玉均と日本』の中で次の3点を述べ

   ておられる。
    
    「第一は、開化派指導者自身の封建両班出身という階級的制約性と関連して、国王を擁し、政権さえ取れば何とかなるとの考えから、

    このブルジョア革命運動を下から支えて推進すべき反封建的な農民や広範な大衆を組織動員できなかったことである。

     第二は、開化派は政権奪取にのみ眼を奪われ、政変の行動があまりにも拙速に傾き、彼我の力量対比や戦略戦術に綿密な考慮が

    不足していたことである。
  
     第三は、国際情勢に関する見通しが甘かったことと関連して、日本の背信を予測することができず、結局は優勢な清軍の武力干渉を

    招き、頼みとしていた日本軍にも裏切られることになったからである。」 

   
     また、琴秉洞氏は続けて、

    「開化思想に導かれた甲申政変は、朝鮮で初めて封建制度に反対し、資本主義制度を導入しようとしたブルジョア革命運動である。

     当時、朝鮮の両班指導層の多くが儒教思想、殊に朱子学の強い影響下にあった時、このような思想と封建的政策を批判し、ブルジョ

    ア的近代文明を採り入れようと図ることは、国の富強と進歩発展をうながす上で画期的な意義を持っていた」 と甲申政変を高く評価し

    ている。



  (14)長崎での宿泊先

     長崎新聞東京支社が昭和36年1月1日付けで発行した小冊子 『ながさき』新年号に、金玉均と朴泳孝が長崎の民家に身を寄せた

    ことが記載されている。朝日新聞社客員という肩書きで松浦直治氏が「ナガサキ開化咄」という連載シリーズで同号に『月琴と乳猿図』

    と題して書いたものである。

     それによると、千歳丸船長の辻勝三郎は、長崎に13日早朝入港するとすぐに、友人で長崎の御船蔵の丘で牧場を経営する坂本嘉

    平太を説いて、嘉平太の従兄で海産物仲買商の松浦治兵衛の家の奥まった離れ屋に金玉均と朴泳孝を潜行させたそうである。その

    松浦治兵衛の家は岩原郷西坂にあったという。他の7名については記載がないので、分宿したのかもしれない。松浦治兵衛は筆者で

    ある松浦直治氏の祖父である。

     松浦直治氏の記述によると、「金と朴をねらう韓清両国の刺客の潜入は、事実として県の警察部も認め、無鉄砲な日本の壮士たちが

    幾組かふたりの替玉に化け、市内の各所に命がけの身代り分宿を行った」そうである。

     金玉均は松浦治兵衛の家で13日の夜から翌朝にかけて、小幅の花鳥画を描いたそうで、淡彩で、桃の木の梢に児猿をはぐむ母猿

    を描いたものだったという。朴泳孝は愛用の月琴を夜がふけるまでかき鳴らしては唄を口ずさんでいたという。

     また、同氏の記述によると、金玉均と朴泳孝が長崎を離れたのは14日の夜で、同夜になって金玉均らを背後から援助していた井上

    角五郎の密使と連絡がとれ、二人は玄海丸に変装して乗込み、上京して井上の師の福沢諭吉の義侠心に迎えられ、芝の福沢の邸宅

    にかくまわれることとなった、という。。

     長崎を去るにあたって金玉均は花鳥画である「乳猿図」を、朴泳孝は愛用の月琴を松浦治兵衛の家にのこして行ったそうである。 

    どちらも昭和20年8月9日までこの家に保存されていたが、原子爆弾によって灰燼となってしまったそうである。たいへん残念なことで

    ある。その後、朴泳孝からこの家に手紙が数回来たことは筆者の松浦直治氏もよく知っているという。 


 
  (15)日本各地で亡命生活を送る

     以下の記述は琴秉洞著 『金玉均と日本』の巻末に掲載された金玉均の年表を基に記載したものである。

     まず、金玉均ら亡命者一行は長崎を発った後、神戸・横浜を経由して12月下旬に東京・三田の福沢家に入っている。そして、翌

    1885年(明治18年)3月前後、一行は浅草本願寺に寄寓した。そして4月頃、金玉均一行は横浜に移って洋館一戸を借りて住む

    ようになった。金玉均は4月13日、横浜から神戸に来て、8月末頃まで神戸や京都、大阪、奈良で種々の活動を行っている。

      この間、5月26日、同志の朴泳孝、徐光範、徐載弼らは横浜からアメリカへ渡っている。もし、金玉均も一緒にアメリカへ行った

    ならば、もっと長生きできたかもしれない。そして、韓国が日本の植民地となった後、独立運動に身を投じたであろう。韓国にとっては

    惜しむべき人材であった。

     金玉均は同年9月関西から東京に戻った。翌1886年(明治19年)6月、横浜居留地のグランドホテルに居を移している。この月

    11日に山縣有朋内務大臣から15日以内の国外退去を命じられた。日本言論界はこの処分に関してその不当を論ずる論調が圧倒

    的に多かったという。そして、8月5日には山縣内務大臣は沖守固神奈川県知事に金玉均を小笠原諸島へ流すよう命じている。

     8月8日、横浜港で秀郷丸に乗船させられて品川に着き、9日に品川港を出港し、暴風雨のため途中近くの島々に寄港し21日間

    かかって30日に小笠原諸島の父島に着いた。ここで1年5か月を過ごした後、1888年(明治21年)1月下旬、母島に移されている。 

    母島では小学校で児童に書を教えている。同年5月、日本政府は金玉均を北海道に移送することを決定し、7月下旬、小笠原諸島

    を離れ、横浜に7月28日に到着した後、翌29日横浜を出港、8月1日に北海道函館に着いた。北海道では、小樽や札幌、函館を

    行き来した後、翌1889年(明治22年)9月~11月病気療養のため、東京へ戻っている。

     11月19日北海道へ向け東京を発ち、27日に函館に着いた。小樽を経て札幌に戻ったのは1890年(明治23年)1月25日だった。
   
    ところが、また4月に病気療養のため東京に戻っている。これ以後上海で暗殺されるまで東京が住所地となる。同年10月21日、日本

    政府から流配処分が解かれ、4年4か月余りでやっと自由の身になった。



  (16)朴泳孝、金玉均と絶交・大院君の陰謀

     長崎の新聞 鎮西日報は1892年(明治25年)1月、「朴泳孝、金玉均と絶交す」、「大院君の陰謀」という興味をそそる見出しを載せ

    ているが、中身もまたたいへん興味深い。金玉均と朴泳孝の人となりも推測することができる。また、当時の朝鮮の政治事情も知ること

    ができ、貴重な歴史資料といえそうである。したがって、全文を掲載する。


     明治25年1月13日付 

    「 ●朴泳孝、金玉均と絶交す

         昨秋にてありき朝鮮在留の日本人小川実なる者朝鮮政府改革の事に付き大院君の密旨を奉じ帰朝の上、朴泳孝及び金玉均

        の両氏に面会して右大院君の密旨を伝え、大に両氏の蹶起して本国に帰らんことを勧告したる処、金玉均氏は之を聞きて雀躍

        措く能はず。数名の日本人を引率して朝鮮に帰り大院君の望みに応ぜんと企てたりしが、平素謹直温厚にして目下は世事をな

        げうち禅学研究中なる朴泳孝氏は痛く之に反対して、金氏の軽挙は却って本国の大患を惹起するの恐れありとて、ひたすら金氏

        の帰国を止めたれども、金氏は朴氏の忠告を容れず、百方手を尽くして帰国の準備を為し、終に某高等官に泣き付き帰国の旅

        費を懇請せしより、某高等官も幾分か之を補助せんと承諾せり。然るに其の後某高等官は、金氏の渡韓に付き朴氏が大いに反

        対して其の軽挙を戒めたる事を伝聞し、到底其の事の就らざるを察したる乎遂に其の出金を謝絶するに至りければ、金氏は非

        常に狼狽し、斯くては宿望を達することを得ずと再三朴氏を訪ひ、相提携し時期を待ち本国に於ける積年の政弊を洗浄して大い

        に国政を復興せん事を謀りたるに、朴氏は別に深く金氏と釁隙〔きんげき・仲たがいのこと〕のあるにはあらざるより之を拒まざりしも、

        朴氏と志を同うする鄭蘭教、李圭完等は金氏が本邦に渡来以来品行修まらず、私債積んで山を為し居るにも拘はらず、美服を

        粧ふて贅沢三昧に其の日を送り居る状は何人が見ても前途大望を抱き、薪に臥し肝をなめる朝鮮の名士とは見へざるを痛く

        憤慨し、金氏が悔悛の実を表示せざる限りは朴氏と交誼を継続する事を許さずとの意を金氏に通ぜし処、金氏は如何に思ひし

        か、断然之を拒絶したるを以て李、鄭両氏は勿論朴氏も最早是迄なりと諦め、金氏とは全く絶交するに至りしとの報あり。 」



     明治25年1月15日付 

    「 ●大院君の陰謀

        前号の紙上朴金の事を報ぜしが、今更に聞得たることあり。元来大院君は金玉均と結託する所あり。昨年の末、大院君より

       金玉均を朝鮮に呼び返さんことを請求したりければ、金玉均は渡韓を計画せしが為め朝鮮国内の朝野を震動し、一時人心の恐々

       を来したり。又た、我国二三の天涯孤客区々たる策士詐漢の徒事を好み奇利を競ふより、之れが応援をなし将に為す所あらんと

       せしなり。蓋し、大院君は南人派にして現今の韓廷に於て其の権勢を占むる領議政兼内務府総理大臣沈舜澤、閔應植、閔丙爽、

       閔泳煥及び往年我日本に欽差たりし閔泳駿所謂老論派の反対党にして其間氷炭相容れず、互ひに其の行為を誹謗し、ややもす

       れば、刺客を遣り血を見るに至ることあり。又た、金玉均朴泳孝ももとより閔党の人たるに相違もなし。彼の明治15年及び17年

       京城の変乱も其の源は、両党傾軋争門より出でたるものにして彼等の一敗地に塗れたるより、閔党は朴金両氏を以って百世の讎

       敵(しゅうてき・仇のこと)の如く見做すが如くなれども、其の実は余り之を他人視するものに非ず。然るに現今南人派は一人も其の朝

       廷に立つことを得ず、其の屈指の人物も大概ね監使をこゆるものあらず。其の怨恨火の如く集まり閔党に在るを以て之を大院君

       に説き、密かに閔党を傾けんことを謀れり。是に於いて大院君は心ならざるも密かに在日本の金玉均に通じ事を挙げんことを

       計画せるに至れるなりしと。 」




   (17)長崎来訪の真偽

     鎮西日報は1891年(明治24年)8月28日付けで「朴泳孝金玉均の両氏将に朝鮮に帰らんとす」と題する記事を掲載したが、これは

    誤報であった。そして、今度は同年11月13日付けで「金玉均氏来崎の風説」と題して次の記事を掲載した。


    「17年の乱後、亡命して日本に流寓し岩田周作と仮名せる朝鮮の名士金玉均は、両3日前来崎したりとの風聞頻々たり、其居所を

    探知すれども得ず、人は云へり、このごろ朝鮮事あらんとするの模様あり、金氏の来崎、将に密かに帰国せんとするなりと。真偽固より

    知るべからずと雖も、当地に於て近く朝鮮の景勢を察せんとすの意あるや稍々(やや)信ずべきが如し、委曲後報に譲る」

                                                              
     ところが、この記事もまた誤報であった。鎮西日報は11月15日付けの日報に14日午後の大坂朝日特発として次のとおり『金玉均

    神戸に在り』と題する電報を載せている。


    「金玉均氏は東京出発後所在不明なる為め、其筋に於ても探索に苦心せる模様なりしが、同氏は目下神戸諏訪山中の常磐楼にあり。

    昨日本社員は面会せり。右滞在の理由は朝鮮より来朝する人を待受け談議する次第なるが為めなり。」


     上の記事に見るように、この時は確かに長崎へは来ていないようである。しかし、西郷四郎研究家の牧野登氏は著書『史伝 西郷四

    郎』の中で、「明治24、5年のことであるが、四郎は、折りから日本に亡命中の金玉均・朴泳孝を、天眼らと図って、長崎市の自宅や

    郊外の仮屋に一時匿ったことがあるという。」と述べている。(『史伝 西郷四郎』185貢)
     
     金玉均はいつかはわからないが、やはり何らかの目的で秘密裏に長崎へ来たことはあったかもしれない。
       
     とにかく、11月13日付け鎮西日報の記事は朝鮮政府を驚かせた。鎮西日報は12月11日付けで「鎮西日報端なく韓廷を驚かす」

    という見出しをつけて次の記事を掲載している。


     「客月13日発兌の鎮西日報には韓客金玉均氏が長崎に来り居れりとの風説を掲げ置きしが右新聞の朝鮮京城に着するや、同国の

     有司等大に振駁し、知人に命じて全文を翻訳せしめ由々しき大事なりとて、去る27日は会議を開き、一時は開港場の取締方を厳重

     にする等、夫々注意せしも、15日発兌の日報着するに及び金氏の神戸に在るを知り稍安慮の模様なりと同地発の通信に見ゆ。蓋し

     風鶴に驚く政府の真情察し得て憐れなりと云はんか」 


      金玉均が帰国すると、また、革命を起こされるのではないかと、朝鮮政府は恐れたことだろう。日本で各新聞が金玉均の帰国説を

     しきりと流しているのを朝鮮政府が知っている訳は、日本の新聞を朝鮮政府が取り寄せているからである。

      上記鎮西新聞記事にあるように、鎮西日報も朝鮮に送られており、政府の役人が読んで情報を収集している。琴秉洞氏は、著書

     『金玉均と日本』の中で、国王高宗も日本の新聞を読んでおり、その中には、「時事」、「東京日日」、「大坂朝日」、「国会」などととも

     に、この時期、朝鮮記事の多い「鎮西日報」も入っていただろうと推測している。また、同氏は、高宗が「日本各新聞紙には本国と関

     係する記事多きを以て一層注意して閲覧し、時々其記事に就て廟堂の議論を惹起することありと云う」(『時事』明治25年3月20日

     付)と、当時の新聞記事も併せて紹介している。(『金玉均と日本』 749貢)

 

  (18)金玉均暗殺

      金玉均は明治27年(1894年)3月28日、上海で洪鐘宇によって暗殺されたが、その洪鐘宇に暗殺を依頼したのが、李逸稙であ

     る。李逸稙は金玉均や朴泳孝らを殺害するよう国王の命を受け、明治25年5月4日日本に渡っている。他に前後して権東寿、権在

     寿兄弟も刺客として日本に派遣された。明治27年3月28日、李逸稙は朴泳孝暗殺を図ったが、未遂に終わり、警察署に連行され、

     4月4日に東京地方裁判所予審判事から尋問を受けている。その予審調書には金玉均暗殺の経緯が記載されているので、以下に

     紹介する。 (『金玉均と日本』 836~839貢より掲載)



     「  問  日本に来る目的、即ち要用は何で来たか

       答  命令を受けて逆賊等を殺す積りで来升た

       問  其命令を受けたのは汝一人か、外の者も受けたのか

       答  私一人です
  
       問  其命令は誰れから受けたか

       答  命令書は国王から出て閔泳韶から渡されました

            (中略)

       問  逆賊として切害しようと云ふのは誰れと誰れか

       答  金玉均、朴泳孝、李圭完、鄭蘭教、柳赫魯、李誼昊の六人です

       問  此の六人を切害するのには汝一人では出来んが誰れ々々と計画して殺さんとしたのか

       答  私一人でぼつぼつ遣る積りで居りし所、仏蘭西から洪鐘宇が朝鮮へ帰りに日本に寄ったので、私が目的を話して殺せと申

         し、已に私には国王からの命令もある事だから私の云うことは国王の教えも同じことだと云ふたるに洪鐘宇も同意致しました。

          私も随分心で運動もして居りました

       問  洪鐘宇に話をして洪鐘宇を同意せしめたのは何時何所でしたか

       答  東京小石川に居る頃でした

       問  其日は

       答  忘れ升たが昨年冬頃でした
      
            (中略)

       問  愈々金玉均を殺すと云ふことを極めたのは何時か

       答  先月12,3日頃でした
          
       問  上海の方へ連れ出さうとは3月12,3日で有たか、夫れまでは日本内地で殺す積りなりしか又は外へ連れ出して殺す考へ

          なりしか

       答  金玉均は日本で遣ると云ふと八箇間敷から玉均は欧羅巴へ行く考が有るので、其時に上海か何所かで遣る積りでした
 
             (中略)

       問  金玉均を上海の方へ連れ出すには先づ何んな計策で連れ出すことにしたのか
   
       答  李経芳と云ふ李鴻章の倅に逢て李鴻章に逢へば東洋の計画を為すには萬事都合が宜しいからと私が申勧め、洪鐘宇も

          仲間で甘く言ふて居た所金玉均は金が無いと申しましたが、私は其事も考へがありました

            (中略)

       問  愈よ金玉均が上海の方へ赴くのに金がないから困ると云ふて汝が与へたのか

       答  左様です

       問  汝から総体で幾ら金玉均に遣ったか

       答  此地で色々の払をして遣たり船賃等で4千円余です

           (中略)

       問  洪鐘宇に殺せと云ふ事は何所で殺せと云ひ付けたか

       答  私が上海に着けば東和洋行と云ふホテルに往く途中で後ろから短銃で撃て首を切て逃げろと申し、尚ほ昼着船したらば

          ホテルに着てホテルで三階ならば短銃で撃て首と手足を切りカバンに入れて逃げろと云ふてカバンを遣り升したが、洪鐘宇

          は途中で遣るのは困ると申したので、然らば遣るのは臨機の場所で遣れ、もし遣りそこなへば御前の首を切ると云ふて遣

          りました 

       問  其事を教へたのは何時で何所で教へたか

       答  私宅で3月12,3日頃から同月22日までは、外の者が来ん間は始終其事のみ話して居たから其間に其事も話して相談も

          致して居りました

            (中略)

       問  上海で金玉均を殺さうと云ふ事は権東寿と権在寿にも相談したか

       答  両人とも知って居ります

       問  金玉均が上海へ出懸けてから権二人と汝と三人で頭を刈て東京へ来たのは何の為めか

       答  髪を切て24日に東京へ来たのは朴泳孝、鄭蘭教、柳赫魯、李圭完、李誼昊の五人の首と手とを切てカバンに入れて夫れ

          を権東寿、権在寿に持たせて国へ帰し、私は上海の方へ参る積りで来たのです・・・・

            (中略)

       問  大きなカバン四ツと毛布六枚は殺す用意の為めに買て来たのか

       答  左様です

       問  殺してカバンに入れ様と云ふのならばカバンは四ツなるに、人は五人だから一ツカバンが不足ではないか

       答  横浜で捜がしましたが四ツよりないので、一ツは私が今まで持て居たカバンを使ふ積りでした 」

                                                                 (『時事』明治27年6月20日付)


        金玉均は中国の李鴻章と会談するため、明治27年(1894年)3月23日午前4時に西京丸で神戸港を出航し、途中長崎に寄港

       した後、上海に27日午後5時に着いた。そして、翌日午後3時30分頃、宿泊先の日本人経営旅館 東和洋行内で朝鮮人 洪鐘宇

       が発射した3発の拳銃弾を受けて死亡した。その顛末については、別掲の「金玉均暗殺に関する新聞記事」に詳しく掲載されてい

       るので、ここでは省略する。 






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