5-2. 金玉均暗殺に関する新聞記事


  金玉均暗殺について、長崎の鎮西日報は連日詳しく報道している。当時の状況がよくわかるので、以下、その記事を掲載する。


 ●明治27年3月25日付け 

   「○金玉均の上海行 (昨24日午後1時10分大坂発)

      昨日金玉均氏は西京丸に乗込み上海に向かって出発せり 」



 ●明治27年3月27日付け

   「○金玉均氏の用向き
  
      前号の日報紙上に報ぜしが如く、同氏は今回上海に向って出発したるが、其の所用は果たして孰れに在るや、今余輩の聞知したる

     処によれば、氏は李経芳氏の喪に当りて公務を鞅掌する能はざるよりして同氏に代わり之を調理せんが為め同地に赴くにありと。

     或いは曰く、氏は次便の上り郵船位にて再び来朝すべしと。未だ其の孰れか真実なるやを知らず。暫らく上海通信の到るを俟たん。」


   「○金玉均の一行

      金玉均氏の同行者は呉葆仁(清国公使館通事)洪鐘宇及び北原延次(日本人)の3人なりと。而して又金玉均氏はもとより其の実名
    
     を表任せずして東京市麹町区有楽町15番地 岩田三和なる仮名を用ひ居れりと。」



 ●明治27年3月30日付け

   「○金玉均氏殺害せらる (昨29日午後1時27分東京発)

      一昨27日金玉均氏は上海日本旅館に於て同行せし朝鮮人の為めに殺害せられたり 」
  

    「○金玉均氏刺客の手に斃る

       多年間本邦に流寓して憂き日月を消し居たる同氏は、過般上海に向って当地を発し、未だ世人の其の用向き如何をつまびらかに

     せざるに先だち、東電は早くも氏の刺客に遭ふて終に斃れたるを報ぜり。もとより東電の報ずる処は簡単にして其の詳細を知るに由

     なしと雖も、同行朝鮮人の殺害したると別項記載の如く同人の当地を去るに臨み、仕込杖を購ふて乗船したると且つ同人の骨格逞し

     き人物なりしとの諸点より之を推せば、或いは金玉均に反対する党類が相謀りて氏を上海に誘ひ、以て此の挙に及びたるものにあら

     ざるか。本稿を草し終るに方り又一報あり、曰く、朴泳孝氏も亦刺客に遭へり。然れども幸いに其の厄を免れたりと以て知るべし。

     余輩の推測の不当にあらざりしを。金氏は朝鮮開化党の領袖を以て任じ、同国の文化にはあづかりて力ある者今や即ち亡し。同国

     の前途亦危ふべき哉。 」


    「○金玉均氏の長崎に於ける状況

       金氏当港に滞在したるは僅かに1日のみ。即ち去る25日午後6時入港の西京丸便にて当港に着するや、大村町福島屋支店に投

     宿し、宿帳には東京麹町区有楽町15番地住岩田三和、年齢44年、同行には日本人なる北原延次(22年)と、支那人なる清国公使

     館内通弁呉葆仁(32年)、朝鮮人の洪鐘宇(40年)の3名にて、呉葆仁は用向きを帰国と唱へ、他は総て遊歴と称せり。今旅宿に於

     ける模様を聞くに別段差変りたる事もなく、夕餐を了りて4人連れ立ち何処へか散歩を為したるものと見え、暫時にして帰宿し、一同

     寝に就きぬ。

       翌25日〔26日の誤り〕正午頃一同打ち連れ立って、小島郷なる洋食店福屋に到り、昼餐を喫し午後2時頃帰宿したりしが、同家に

     於いて金氏は婦女等に向ひ、自分もちょっと上海行を為すものなれば4,5日も経たらば又当地に来る筈、其の折又々逢ふ事もあら

     んなど、いとも快く同屋を立ち出で帰宿したり。午後6時頃に到り朝鮮人なる洪鐘宇は刀剣を購はんが為め、日本人北原延次と同行

     他出し、外浦町なる福島屋本店に至り同店の丁稚某を伴ひ刀剣買ひ求めんとて、処々方々を徘徊し、遂に本大工町なる古物商ふる

     屋にて桜皮巻の仕込杖およそ身1尺7寸位のものを見当り、代価弐円なり云ふを壱円五拾銭に取極め買ひ取り帰宿するや、間もなく

     一同午後9時出帆の西京丸に搭じたり。

       同船の出帆に際し長崎水上警察巡査は出港人取調として西京丸に赴き、金氏に対し旅行免状を所持するやと問ひしに、自分は御

     覧の通りとて脱帽し朝鮮人たるを知らしめ、用向きは漫遊なりとていとも平然挨拶などなして、別れを告げたりと。又金氏当時の服装

     は全くの洋装にて二重マントを着し、同行人なる洪鐘宇と呉葆仁とは共に自国の服装をなし、体格屈強の壮士なりしと云ふ。」



  ●明治27年3月31日付け

    「○金氏の長崎に於ける状況余聞

       去る27日上海客舎に於て刺客の為に兇害に逢ひたる朝鮮改進党の主領分、当時の一漂客金玉均氏が当港上陸中の模様は前

      号に記載せしが、いささか相違する処あるを以て正誤旁尚ほ探聞するところを再録せんに、金玉均氏一行が当港大村町福島屋支

      店投宿中相互間の対遇は清国人呉葆仁、朝鮮人洪鐘宇、日本人北島延次の3人共に頗る金玉均氏を尊敬せり。金玉均は額上の

      断髪長く左右にくしけづり、髪容いと美はしく、洪鐘宇は髪は自国風に束ねしも金氏と同く洋服長マンテルを着し(前号に洪は自国服

      なりと記せしは誤り)、帽を脱せざれば韓人たることを判知すること能はざる程にて、勿論言語なども呉葆仁、洪鐘宇の両人等しく金

      氏に劣らず我東京弁か爽やかに使へり。
 
       去る25日上陸の夜は4人対酌旅情を慰し金、呉の両人同室し、北原延次、洪鐘宇の両人同室に別寝せり。翌26日午前11時半

      頃より4人同行にて小島郷なる福屋に到り、昼餐を了へ帰宿したる後午後3時金、呉の両人腕車を馳せ居留地なる支那領事館を訪

      ひ談多事にして一度び旅宿へ帰りしが、暫時にして両人は再び車にて下筑後町なる知人某氏等の邸を訪問せり。其の留守中即ち
 
      午後6頃頃洪鐘宇、北原延次の両人は旅宿の丁稚を案内せしめて市中を徘徊したる末、船大工町古物商ふる屋に到り、刀身の長

      さ1尺7寸許りにして精磨氷の如き仕込杖1本を買ひ求めて帰宿せり。然るに金、呉の両氏は4時に帰宿し晩餐の節は旅宿主人よ

      り酒肴の饗応に何れも興を尽くし、8時頃に至るや一行は最早や西京丸に乗らんと云ひしも、宿屋より今晩の出帆は10時に延びた

      れば徐々出発せられよとの辞に、然らばとて金氏は自ら会計を担当し一行の勘定を済まし、給仕女等まで手厚く謝儀を与え、自分

      等は今より此の宿を辞し、外浦町外国亭より直ちに乗船するとて金、呉両人は洪、北原両名を宿屋に残し置き、自分等は給仕女を

      案内せしめ、該亭に到り楼上にて玉突を為し居りたるが、追々時刻も移りたればとて福島屋の案内に応じ、一行4人は午後10時に

      西京丸に乗り移りたるなりと。嗚呼、韓国の名士我が日の本を敬慕し流寓多年なりしも天命常なく吾輩此の悲報に接す、哀哉。」


  
    「○金玉均氏は渡邊税関長を訪はず

       金玉均氏の当地を発するの当日、渡辺税関長を筑後町なる其の本宅に訪ひたる旨伝ふる者あれども、今本社員の氏を訪ひ其の

      直話に係る処の者を聞くに、氏は金氏の隆々として勢力を其の本国に振へるの際知己となり互いに相往来したれども、一旦氏の勢

      力地に落ちて本邦に流寓するに至りてより以来は全く交通を絶ち、音信だに通ずることなかりき。随って、今回金氏の当地に上陸し

       たる際に当り、渡辺氏は氏の来訪を受けたることなく、又氏を音づれたることだになかりしと云ふ。」



    「○洪鐘宇所持の仕込杖

       本社の探知したる処に依れば、洪鐘宇の仕込杖を購ふに当り金氏に知られざる様秘密に需めて、乗船の際も人目に触れざる様

      洋傘と共に之を束ねて携帯したる由なれども、今福屋なる主人の直話を聞くに、金氏一行が松本氏(西京丸船員)と共に同家に上

      りたる節、洪鐘宇は已に一の仕込杖を携へ居りしが、其の仕込杖は桜皮巻、身は1尺7寸位にて、あたかも昨日の鎮西日報に記載

      せし処の者と符合するを以て見れば、該仕込杖は金氏一行が福屋に上りし以前に於て已に之を所持し、あながち洪鐘宇が福屋を

      去りたる後秘密に之を請求したるが如き次第にあらざるべしと言へり。」



    「○金氏の横死は真実らしく思はれず

       金氏は多年来しばしば当市小島郷なる福屋に上りて飲食することありしより、氏と同家とは互いに懇親の間柄となり、今回氏の同

      家に来りたる折りも氏は当主の母なる某女に向ひ、余も之より上海迄出掛くれど1週間の後再び当地に来るべければ、其の節は

      是非土産物を持参すべし、何か所望の品なきやなど物語りたれど、某女は妾も最早老後の身とて別段所望の品も候はず、唯御身

      が再び当地に来られ無事の御顔を眺めるこそ何よりの御土産なりとて、互いに快く袂を分ちしが、29日の鎮西日報を見れば豈図ら

      ん、氏は刺客の難に罹り無惨の死を遂げられたる由記載しあれど、何だか夢の様にて該記事は真実らしく思はれずと、昨日本社員

      の同家に到りたる節某女は語りぬ。誠に左もありなん。」



   ●明治27年4月1日付け

     「○金玉均氏の絶筆

        金氏当市福嶋屋に投ずるの日、当時朝鮮釜山同支店員小田喜次郎氏の為めに、


            君問帰期未有期  已山夜雨漲秋池  耶当重煎西窓燭  却話巴山夜雨時

       
       なる一唐詩を書し、紙尾に 小田君遙正古筠逸士玉 と記せり。而して其の墨痕未だ乾かざるに今や即ち其人亡く、実に金氏最後

       の揮毫とはなりぬ。吁(ああ)人生の無常此に至りて亦極まれりと云ふべし。」 



   ●明治27年4月3日付け

     「○金玉均氏殺害事件顛末

        再度本紙に報ぜし金玉均殺害事件に就ては世説紛々、刺客洪は朝鮮政府の間者なり、否彼れ一個の私怨あり、短刀を以て刺

       せり、否ピストルなりと諸説一定せず、中には金氏の遭難は事実嘘なりと云ふものもありしが、今去30日上海特報に依って左に詳

       録せん。


              金氏上海上陸


        金玉均(変称岩田周作)氏は西京丸を以て去27日午後5時上海に上陸し、直ちに米租界鐵馬路なる日本旅館東和洋行に投宿

       したり。同行中の清人呉氏が宿帳に記せるは左の如し。

            東京麹町区有楽町2丁目      岩田 三和
            (金玉均一名岩田周作)         44年
    
                   同             北原延次郎
            (日本小笠原島産本名和田延次)   22年

            東京柴区桜田本郷町         竹田 忠一 
            (韓人洪鐘宇)               40年

            同麹町区永田町1丁目        呉  葆仁
            清国公使館書記(清人)

       投宿の後、金洪の両氏は格別に室を定め、何れも2階なり。金氏は1号室に洪氏は3号室に入れり。翌日に至り岩田三和即ち

      周作は一同と出遊の為め馬車2輌を容易せしも、微恙に係り日本田口医師の来診を請ひたりしが、其の来診に先ち、洪氏は金

      氏の臥床に近き短銃を以て(前号の刀剣とせしは誤聞)左頬より後頭に掛け銃傷せしめたれば、金氏は驚起して房外に逃れ出ん

      とする際、一は左胸より後背に、一は腹部右傍より微傷を負はしめたり。金氏の宿室は南面角の第1号なりしが、逃れて東方なる

      第8室の戸外に至りて倒れ、2合余の血汁を吐き、間もなく絶息したり。其の当時隣室又は近傍に寓居せしも者多くは外出中にて

      右室の者少なく、殊に同日は該洋行の左近に於て午前より煤竹を放つこと度々なりしかは何れも心付かざりしが、下手人洪氏が

      忙はしく階段を下りて外面に走り出てしより始めて之を訝り、東和洋行の婢僕等が楼上に至り、発見したるときは恰も金氏絶息

      瞬間なりし。此の日、金氏は大坂より持来れる

       
          5千円の手形

     
     
を洪鐘宇に渡し、洪氏は現金引換の為め小東門外なる天豊銀号に赴きたるが、しばらくにして回り来り、主人留守にして受取れざる

      に付き明日再び行くべき旨を報じ、洪氏は再び外出し何処よりか朝鮮の衣服冠等買ひ求め、突然韓装に改めたり(其以前は洋服の

      み)。此の時短銃も巳に買ひ求め居りたるならん。元来大坂出発以来金氏は洪の言動を訝り、不意の変あらんことを慮り船中にても

      用心一方ならず、北原に命じて其の左右を離れざらしめ、着申の後も同宿することを厭ひ到着の当夜、金氏の親戚にして上海に寓

      せる尹致晃が上海に寓居するの不得策なるを説きたる際も、金氏は不日洪氏を帰国せしむる考へなりと語りたりと。されば殺害せ

      られたる当日も微恙に託して洪氏と共に外出することを好まず、己は床上に横たはり書見しつつありしが、北原に命じて楼下に至り

      茶を求めしめたるに、此の時恰も呉氏は洪氏の託に由り外出したるときにて、金氏の室に人なかりしかは隣室にありたる洪氏は其

      の虚を窺ひ、忽ち右の始末に及びたるものなり。金氏の不運も亦憐れむべきなり。

       洪氏は銃殺の後直ちに人力車に乗じて逃げ去りたるか、北原は楼上より尚微かに之を眺めたりと云ふ。6発の弾声は他室にあり

      し人の皆聞く所なれども、洪氏は当時何発なりしやを知らず(後の陳述に依る)。逃走の節、該短銃は東和洋行の前なる蘇州江中に

      投じて走りたるは家人の見る所なり。  
       

         洪鐘宇


      は世人の知れる如く多年日本に居住し後、4年間許りも仏国に流遊し昨年日本に再来して金氏等亡命人と相往来したりしが、今度

      金氏の清遊に付き在坂同国人李の進士よりは其の路費として金6百円を給与せられし。上海到着の上は小東門内の天豊銀荘より
      
      更に5千円を受取る手順をなし置くの旨を金氏に通し、之に洪氏を随伴せしめしと云ふ。

     
       北原は偽名なり 


        北原は本名を和田延二郎と称し、小笠原島人にして先年金氏が同島に出遊せし時請受け従僕となせしものにして、万事親密に

      服事し、金氏に対し常に父親と称せし位にして其の言ふ所に由るに、金氏は偶然の漫遊にあらず、蕪湖に在る李経芳氏の召喚に

      依り思ひ立ちしものなりと。李、金の両氏は在日本中十分の往来ありたれば、此の説或いは信ずべし。又金氏は従来凡ての緊急往

      復書類は一見直ちに投火れたるを以て現存するものなしと。又尹致晃の言ふ所に由るに前夜面談の際には現に蕪湖を経て天津に

      赴くべしと言へりと。乃ち

  
       金氏此行の目的は天津に入て李鴻章を訪ふに在り 


       然るに呉氏の陳ぶる所に由れば、金氏の此行別に目的あって存するに非ず。余も賜暇帰国に際し偶同氏と単純なる同行をなした

      るのみ、洪氏の如きも日本出立の当時より別に殺意あるに非ず。来申の後5千円の金に対し欲心を発し、にわかに殺害の企てをな

      したるに過ぎざるべし云々と。然れども単純の同行とは云へ、日本旅宿に同泊し、又殺害当日の情況を察するに、呉氏の説は全然

      信を措くべからざるに似たり。然れども、ここに一つの疑ふべきは金氏等の一行はすべて神戸上海間を往復乗船切符を買居れり。

       之に由れば或いは久からずして日本に帰るの考えなりしやも知れず。


         上海居留地警察署の戒厳


       金氏殺害の報、米租界なる居留地警察署に達するや同署は電話を以て警を四方に伝え、八面に人を派して探索に従事せしめた

      り。また同時に本港碼頭碇泊の中外船舶に電令して当時解纜を禁じたり。されば招商局汽船8隻、怡和太古汽船3隻は貨客を搭載

      したるまま、毎夜12時前後に出帆するの例なるにも拘らず、何れも空しく解纜をひかへたり。


        当夜金氏の屍骸

       
      は依然医室内に安置し、北原一人外に日本人中志士5人団座して香を燃やし夜を徹せり。怪しむべし。清国公使館書記呉葆仁、此

      夜寓に帰らず、飄然として何処ともなく消え去りぬ。 


        洪鐘宇捕へらる


       其翌29日午前1時過ぎ、呉淞口(上海を距る4里半)に於て、洪鐘宇は居留地警察署刑事巡査ペスト氏の為めに捕縛せられた

      り。其模様を聞くに、最初洪が東和洋行より出でて、虹口の北方なる射的場の方に逃走せしと聞き、該署長は必ず呉淞へ向って逃

      れたりと鑑定し、直ちに支那探偵に命じ、其の友人なる呉淞街道茶館主人と共に近傍を探索せしめたり。其の後該探偵は帰り、報

      ずらく茶館主は現に逃走するを見受けたり。探偵も亦其の一農家に入るを見認めたりと。是に於て署長マクユーエン氏は領事巡査

      ペスト氏に命じ馬車を駆りて現場に赴かしめたり。ペスト氏は探偵等とともに該所に到り、洪の寝上に臥し居るを見、之を呼び起こし

      て手錠を嵌めたり。因って直ちに馬車に乗せて虹口警察署に護送せり。


        洪氏は従容縛に就き 


        警察署に到るや逮捕等に語って曰く、此時捕に就く満足の事なり。殺害の当時逃れ出てたるは、彼の従者なる日本人北原が為

       に現場に於て復讐されなば自分の心事は遂に世に表するを得ざるを恐れてなりと。又当時の服装は下には洋服を斉然と着用し

       上には只一枚の朝鮮服を着けたり。或いは呉淞より外国船に乗し此の地を去らん為め、最初より注意したるものならん。然れども

       頭には支那帽子を戴き居りたりと云へば、多少狼狽したるに相違なからんか。ペスト氏が洪を護送して上海に着したる時は已に

       天明にして、8時頃出帆中止の各船舶は何れも伝令に由り解纜を許され、一切出港したるは11時頃なり。


        金氏死体の検査


        此日午前9時より上海知県黄氏は東和洋行に於て屍骸の検査をなすに付き、右署長マクユーエン並びに副署長兼検察官リード
       
       の両氏、立会検査として出張し、同時刻洪鐘宇も亦捕房より護送せられて東和洋行に来れり。関係臨場者は日本医師田邊安之

       助、田口誠之、西洋医師2名、知県属員等数名並びに東和洋行主吉島徳三、北原延次等なり。而して清人呉氏は場に在らず。

       此の外、日本人西洋人の見物人10数名、日本領事館員加藤・速水の両氏も来会せり。


        巡査警戒


        検屍の当時は支那巡査、西洋巡査数十人門の内外を戒め、みだりに外人の出入を許さず、門外には支那人山の如く一時は往

       来を遮断する許りなりし。此時衆員列座の後洪鐘宇は室の東隅より西面して直立し、鮮血尚醒き金玉均の屍骸は、反対の側即ち

       室の西方なる藤床に安置せり。其の遺骸は日本服を着け靴足袋を穿たしめ、被ふに白布を以てしたり。銃殺に逢ひたるときは洋

       服にて悶悩の余り、手つきの前部は悉く手を以て掻き破りたれば、昨夜の中に着替へしめたるなり。氏は平生長顔にして痩身なる

       に死後は一層蒼白を加へ、左頬に印する血痕は疎髯を焦がして黎々たる一団の肉を凹凸し、一見人をして凄惨の情を生ぜしむ。

       洪氏は昨夜服装を改めず、骨格偉大黒皮にして疎髯韓国の衣冠を整へ、下面に洋服を着し洋靴を穿てり。泰然として恐れず、言

       動も亦頗る荘重、只余程疲憊を覚へたりと見ゆ。眼光少しく潤みを帯びたり。検屍に先ち、

      
               知県は先づ洪鐘宇に向ひ


       氏名貫籍を問ひ、何の為めに手を下したりかと問ふ。洪は日本語を以て答へて曰く、余は朝鮮国王の命を奉じて逆賊を誅せり。其

       の命令書は存して大坂なる同盟者の手に在り。若し貴官等にして之を疑はば請ふ、直ちに故国に飛電して之を質せ。知県問ふ、

       命令書とは如何。洪曰く、其の文に曰く、爾忠臣誅大逆無道之金玉均は安其皇帝と言ひ畢りて禿筆を執り、自ら大逆無道の四字

       を書して之を示す。洪はマクユーエン氏の問に答へて曰く、余が金玉均を日本に於て殺さざりしは深き仔細あるに非ず。只彼が日

       本政府及び露国政府の要路に結託して、種々計画することあれば其の秘密を探るの後に於てせんと欲したるのみ。彼は日本に

       在るの時少しも余に意中を語らず、然るに上海に至るの後、彼は悉く意中の事を余に告げたり。故に余は再び彼を生かし置くの必

       要なきを以て直ちに王名を行ふたる耳。


            知県等と洪との問答


       終れり。北原、吉島等より当時の情況を陳述せり。終わりて、医師に命じて診験を行はしめたり。験終りて後、一洋人あり。


            写真機械を据へて金氏の屍体を写し取らんとす


        北原怪しんで之を拒む。マクユーエン氏側より之に告げて曰く、知県の許す処なりと。北原尚慊らざるものの如く、然れども復拒

       まず。洋人一は左側より一は右面より撮影せり。北原憮然として両眼暗雨を帯ぶ。其の忠実の質掬すべきものあり。北原は又知

       県に向って死骸引渡の要求をなしたり。知県、東和洋行主人吉島徳三をして屍を受取らしめ、更に徳三をして北原に引渡さしめた

       り。北原は又明後夕(30日)出帆の汽船に因って棺を帯び日本に返らんと求む。知県曰く、尚道台と協議すべきことあれば兎に角

       一週間後に於て日本に赴くべしと。北原少しも肯せず、知県は更に諭して然らば明後夕迄に何分の報道をなすべきに付き、相待

       つべしと問答終わる。後、北原は室を出でんとて洪氏の側を過ぎたる。洪愕然。側なるマクユーエン氏の手を緊執し狼狽一番、其
 
       の不意の襲撃に逢ふて復讐を被らんことを恐れしなりし。


          検屍は12時結了


       洪鐘宇は再び虹口巡捕房に入牢せしめたり。午後北原は本願寺僧を乞ふて霊前に読経せしめたり。又右検屍の際、知県は頻り

      に呉葆仁を見んと要したるも、同氏は昨夜来其の踪跡を蔵し、何処に居るや分明ならず。検屍中マクユーエン氏は日本領事館員

      に向ひ種々談話を仕掛けつつありしが、加藤書記生等は自分は見物に来りし迄にて領事館を代表したるものに非ずとて、頻りに

      弁解を費やしたり。洪氏の縛に就きたるとき其の所有品を検査したるに英金貨14ポンドと天豊銀号宛為替手形5千円を所有せり。

       然るに此の手形は全く偽物にて天豊には斯かる通知もなき由なれば、洪が金氏を上海に連れ出さんとの計画にて故意に模造し

      たるものに相違なし。又


          金氏の所持品を点験するに   


       自分名刺と駐日清国欽差の名刺、洪の名刺及び己が剪截したる毛髪を発見せり。又洪が東和洋行に残したる行李内には仏蘭西

       書籍、仏蘭西漫遊日記及び仏と往復書類等にして、金氏殺害に関しては金洪両氏共更に其の書の徴すべきものなかりし云々。」



    「○社員、金氏の壮士北原氏に面談す

       金玉均氏の壮士 北原延次氏去る31日上海出帆の西京丸に搭じて昨朝当港に入港せしと聞くや直ちに同船に至り、事務長及び

      北原氏に面接して金氏遭難に関する詳細の顛末を聴くに、別項記載の事実と同様なれども尚ほ二、三の事実を聞くがまま左に掲げ

      む。


        北原延次の憤慨


       氏は多年金玉均氏の愛顧を受け、子の如く始終氏に随従せしが、此の度の事件あるや氏は憤慨に堪へず、歯を噛み眼を睨らせ

      本社員が訪問せし折りとても、談話中両眼に涙を浮かべ、拳を握り居るなど其の情思ひやられぬ。氏は社員の問いに答えたる後、

      金玉均氏の遺骸を持ち帰らざりしと云ふに至り、然涙を流して左の如く語れり。


        金玉均氏の遺骸


       別項記載の如く北原延次は飽くまでも金氏の遺骸を日本に持ち帰らんことを主張し、上海知県に之を請受けたしと望みしに、知県

      は異議なく承諾せしも直接北原に渡すこと能はずとて、東和洋行主人吉島徳三と北原両人の連署にて之を受け取り、北原は直ちに

      柩を求め石灰を死体の周囲に詰め込み腐敗を拒ぎ、去る31日出帆の西京丸に搭載せむと一応可否を日本領事館に掛合ひたるに

      領事は金氏遺族の事に就ては本官の関する所にあらねば足下の勝手たるべしとあるにぞ、北原は懿然税関の手続きを済ませ西京

      丸に載せむとて米租界なる郵船会社桟橋まで持ち来り、さて本船に載せむとせしに、西京丸は之を拒みて曰く、日本領事館よりの内

      命あれば金氏の遺骸は搭載する能はずと。北原は愕然直ちに領事館に馳せ付け、何の故に金氏の遺骸を西京丸に搭載する能は

      ざるやとの談判に及びしに、副領事はいい加減の答えを与へしかは、北原は遺骸気に罹れば再び西京丸に引き返へせしに、金氏の

      遺骸は


         居留地警察署より奪ひ去れり


       北原は大いに憤り、元来金氏の遺骸は自分が上海知県の許しを得て自分に請ひ受けたるなり。日本領事も異議なかりしなり。然

      るに居留地警察署の処置其の当を得ずと足ずりなせども、果たして警察署に其の遺骸あるや又何処へ持ち去りしや不分明なるのみ

      な らず、早や西京丸の出帆時刻に間もなければここに於いて北原は断然決心し、日本領事館は頼むべからず、初め自分に向ひ金
     
      氏の遺骸に就いては勝手たるべしと云ひながら、裏面には郵船会社に内命を伝へ、之を搭載せしめざるなぞ前後矛盾せし話しなれ

      ば、一応日本に帰り東京なる友人等と計りて大いに運動する処あらんと。西京丸事務長の1週間だけ止まりて之が処置を為すべしと

      止むるをも肯かず、北原一人西京丸に搭せり。同船は直ちに出帆せり。時に3月31日午前6時なり。


         領事は支那政府の依頼を受けしならん


       金氏の遺骸を日本に持ち帰ることに就いて上海駐在日本副領事は北原に向ひ、今1週間延引しては如何と云ひしも北原は断然

      氏の使にて帰国する旨を答へたり。然るに領事館よりは郵船会社に内命して遺骸搭載を差し止めたるなぞ。或いは上海知県より

      内々の依頼を受けしに非ずやと云ふものあり。勿論金氏殺害せられし日は28日にして西京丸出帆は31日なり。此の間わずかに

      3日あるのみなれば本国政府(東京)に金氏遺骸処置方に就いて問ひ合し返電を受くる時日なし。左れば右の処置は全く領事の

      専断に出でしものならんと云ふ。而して北原は金氏の遺骸は飽くまで自分に於いて取戻し葬送なさざれば止まずと。之に対しては

      如何なる困難なる運動にても為し、

     
        外務大臣に上書して 


    
      までも右は自分に取戻す決心にて帰国するなりと。

             (余白なければ詳細は次号に譲)
      

   
    「○金氏上海行の目的  
     
       金氏上海行の目的を知る者少けれど我社の探知したる所によれば、此の行決して尋常一様の旅行にあらず。出発の前在る知人

      (本邦人士)に語りて、余は今度虎穴に入らずんば虎子を得ずとの決心にて上海に赴くなりとて、意中の一班を漏らせしことあり。

      而してここに注意すべき一大事実は金氏は東京に於いて、さきに本邦駐箚の支那公使たりし李経芳としばしば密会したことあり。
 
      今度の上海行も李経芳の招きによること是れなり。而して李氏は何の為に金氏を招きしやと云ふに、是には深き仔細あり。近年露

      国の東洋政略次第に其の鋒釯を鋭ふし来り、露の勢力は年一事朝鮮の内部に侵入するより、従来高麗半島に跋扈して依然属国

      視し居りたる支那の対韓策に変動を来し、老練なる李鴻章は朝鮮に於いては日清両国連合して従来の勢力を維持し、且つ拡張し

      以て露の勢力に当るの利益必要を見て取りたる結果として、今迄威嚇と軽侮とを以て日本に対したる支那の朝鮮政略を柔らげ、

      次第に日本と近き親しまんとするの色を示し来れり。

       彼の久しく京城内に蟠りて本国の為めに一方ならず骨折りし袁世凱を召喚し、温和なる新公使をして代らしめんとするが如きは

      其の明証なり。支那の対韓政略が変し来ると共に、従来支那の勢力を後援として韓廷に蔓り居りたる閔氏の一派は従って威勢を

      失ひ、近来閔泳駿の気焔漸く薄らぎ行きて開化党の閔泳煥が取って代わらんとするの模様あるも之が為めなり。彼の長らく香港に

      客遊し居る閔泳翊が帰国の様子あるに徴するも、韓廷の形勢を卜するに難しからず。

       而して金玉均が日本に逃れ来りたる後も彼の大院君とは秘密の交通絶えず、時機を待て内外相応じて閔族排の素懐を遂げんと

      謀り居たる処に、意外にも支那の対韓政略変じ来り、李鴻章は李経芳をして内意を金玉均に伝へしむるに至れり。李と金としばしば

      東京に密会せしは之が為めなりとす。故に金氏上海行の目的如何と云へば李鴻章の内訓を帯べる李経芳と会合して、韓廷革新の

      機密を相談せんが為め、即ち時機によりては再び韓廷に乗り込んで開化党の大飛躍を試みるの下地を作らんが為めなり。右は李

      氏が金氏を招きたる主旨にして、金氏が之に応じたる目的なり。虎穴に入らずんば虎児を得ずとの決心も是にて成程と判る可く、

      金氏がわざと変名して三和となせしも、暗に日、清、韓三国和睦の意中を現はせしものならざるか。且つ又、金氏がいよいよ上海行

      の決心を為したるは独り李経芳の招きによるのみならず、かねてより朝鮮の改革に熱心し、しばしば画策する所ありしを以て有名な

      るの某伯爵の如きは大いに金氏今回の上海行を慫慂する所ありしと云へば、従って金氏の旅行は我が政府の東洋政的にも関係な

      きには非ざるべし。此の如く金氏の上海行は其の関する所、頗る大なりしなり云々と二六新聞は云へり。」

 
   
    「○金玉均氏の閲歴  

       今其の閲歴を繹ぬるに朝鮮の今王李煕殿下はじめて年13にして即位あり。生父 大院君暗に党与を樹つ。適々我が邦と条約締

      盟の事あり。大院君は固く封港論を執れり。是時に当りて金玉均氏は呉慶錫、劉鴻李、李載競等と共に開港説を主張し延いて大院
    
      君の隠退となり閔氏政権を握るに至りて、鎖港論再び盛んなりしも、国王は金氏の党を親信し金玉均に賜ふに謁聖甲科を以て講経

      に託してしばらく之を殿内に召し、国事を諮詢する所あり。明治17年12月4日朝鮮京城に変あり、我が公使館附陸軍大尉磯林眞

      三氏等難に死す。是時に当り開港党のもの皆勢力あり、金玉均氏は承旨に任ぜられ、恵商局堂上を兼ねたり。是日朝鮮政府の典

      洞といふ地に設けたる郵征局其の開業の式を挙ぐ金玉均、閔泳翊氏等其の事に与かり、各国使臣を招きて饗応せり。宴たけなわ

      なる頃、近隣火を失し事倉卒に出で、閔泳翊氏遂に局門を出でんとして重傷を負たり。我が竹添公使は国王の請に由り入りて王宮

      を護衛す。金玉均氏等亦王の傍らに立ち、閔台鎬、超寧夏以下金玉均氏と善からざるもの多く刺客の殺す所となれり。越えて7日

      公使の一行仁川に退くに当たり金玉均氏は朴泳孝等と同じく窮に追随して仁川に至り。其の15日玄海丸便にて長崎より神戸に着

      し同夜、北長狹通の旅亭に投じ、翌日東京に出でたり。爾来我が邦に在留し姓名を変じて岩田周作と呼び、刺客の難を避けて小笠

      原島に赴き、後再び東京に入り又北海道に遊び、露国皇太子の事あるやしばらくニコライを訪ひ為に嫌疑を受けたることありき。

       又夫の東京芝見晴亭の女と情事ありしは人の知る所なり。昨年11月朴泳孝氏の親隣義塾を創立せんとするに方り、之を賛助し

      たり。本月22日何等の思い立ちやありけん。既に紙上に掲げたる如く、洪鐘宇の外呉葆仁(清国公使館訳官)と共に北原某氏を伴

      ひ大坂より神戸に出で、去る23日朝西京丸便にて上海へ向ひ、別項記載の如き不幸の死を遂げたるなり。」


 
    「○刺客洪鐘宇の閲歴

       上海に於いて金玉均氏を刺したる朝鮮人洪鐘宇は本国に於いて如何なる身分の者なるか詳らかならねど、去る20年の頃一朝鮮

      人紳士に随ひて飄然我が邦に渡来せり。大坂に足を留めて為す事もなく消光するを、或る人勧めて活版業を習はしめけるに、洪鐘

      宇喜んで職工となり採字など見習けるが、当時朝日新聞社の活版工場にも出入りしけり。其の人物は躯幹長大にして容貌も野卑な

      らず。談国事に及べば慷慨の色面に溢る其の見識も尋常韓客と異なりて談論聴くべきものあり。国王殿下の事を語る時は必ず容を

      改め、色を正しうす。平素朴泳孝氏には推服したれど金玉均氏に於いて仮借せず、彼、軽躁過激の徒に我が邦大の進歩を妨害し

      たりと評せり。以て其の金玉均氏に対する感情を察すべし。

       洪鐘宇大坂に在ること六、七箇月去りて四国九州を漫遊し、到る処演説会を開き、傍聴料を収めて旅費となしたり。既にして東京

      に赴き滞在すること数月去りて、仏国に遊べり。自ら人に語る所によれば、同国文部卿の家に寄食すること半年ばかり、それより

      東洋語学校の教師となり、語学を教授すること1年余にして東帰したりと。然れど他の一説には、彼、仏国に於いて某教会に入り少

      しく仏語を修めたりと。

       東帰の後再び日本に来り、東京大坂の間を往来する模様なりしも、如何なる事に従へるか詳らかならず。昨年初冬朴泳孝氏親隣

      義塾を起さんとせる際には彼も幹旋する所あり。朴氏が須磨に在りし時などは同じ寓所に居りたり。一日同社員を訪ひ談次欧州の

      事情に及びしに、仏国は物質的文明大いに進み、観る所のもの壮麗、目を驚かすばかりなれど、其の裏面を窺へば風紀壊乱し繁

      華の街ちまた、娼婦肩相摩す、其の醜陋見るに堪へずと語れり。以って、其の志士にして思想も無下に卑しからざるを見るべし。

       其の初めて大坂に来りし時には洪鐘建(ホン・チョンコン)と称しけるに、何故にや仏国から帰るに及び洪鐘宇と改めたり。今回金

      玉均を刺したる事項は別項記する如くにして、去月24日発兌の朝鮮新報には在東京朝鮮公使館と題せる一項の雑報を載せ、永く

      日本に客たる洪鐘宇、李進士の両人、費用に差し支へたるより公使館に就き金を借らんとせしも、同館において応ぜざりしかば、

      壮士を駆り来りて脅迫手段に出でたるにぞ、いよいよ書記は日本政府に照会して護衛巡査をして張り番せしむ(夫より洪鐘宇の経

      歴を略叙し)。其の素行の如何はもとより詳らかにせざれど、斯かる卑劣の挙動をなす卑劣漢にあらざるべし。聞く、近来同公使館

      に出入りする一悪漢あり。或いは金玉均氏云々の計画を為せりと云ひ、妄言を搆へて危懼の念を抱かしめ、探偵費に託して金円

      を貪る者あり云々と記せり。想ふに此の事件は尋常の私怨ならず。洪鐘宇の如き他の使嗾(しそう)を受けて此の兇行を遂げたる

      に非ざるか暫く疑を存して後報を待つ。」  



   ●明治27年4月5日付け

     「○韓廷内外の事情

        金朴暗殺の淵源を知らむとせば韓廷内外の事情を察せざる可からず。請ふ、左の数項に留心せよ。 

      ・現時の朝鮮     数十数来膏盲骨髄に徹し財政の困難は日を逐て益々甚だしく、単に中興の策なきのみならずと動もすれば

        狂瀾怒涛の裡に埋没せられんとするの形勢なり。およそ是等の現状は金玉均をして故国を懐ふの切なるを加へたるが如し。

      ・国王の主義     李氏開国五百年の当主 諱は熹 即ち今の大朝鮮国王殿下は、開化説平和主義を執られ、かねて明敏聡達

        の聞へあり。其の平和主義を執るの近き一現象として見るべきは、昨年防穀事件に付き日韓の談判起こるや、当時韓廷の勢

       力家と称せらるるものは挙げて袁世凱に阿附し熱心に開戦論を主張し、中にも、閔応植の如きは再三再四上書を上り、大いに

       気焔を吐きたるも、国王は堅く日韓両国間の信義を守り、只管其の和親を破らざるに努められたり。因是観之殿下の主義として

       又甲申の当時に於ける革命党に対せし挙動なり推すも、直ちに勅圭を降して金朴二氏を殺し事大党の勢援を添へ、併せて世界

       世界の疑惑を生ずるが如き事を為さざるべし。

      ・閔族の威権     閔氏の一族、王妃の時を時として威権を朝野に振ひ、名器を私蔵して堅く其の門を出さず、現閔泳駿の如き

        は身宣恵庁(大蔵省)の堂上官として、米穀市金の出納に任じ其の金融の己れが手に帰するを幸とし、動もすれば国王の聡明

        を壅塞(ようそく)し、往々王をして柔慢のそしりを蒙らしむ。而して同族閔泳煥の如きは深く駿の威望をそねみ、時を待て己れ

        其の地位に代はらんとしつつあり。勢い此の如くなれば今回刺客事件をして果たして閔族の使族する処とせば、其の旅費等の

        如きは必ず泳駿の一諾を経ざるべからず。而して目下英領香港にある駿の一族泳翊は甲申の乱、金朴の党より其の親を殺さ

        れたる怨みあるにも拘らず、駿と翊とは常に相善からず、果たして然らば駿が翊を翼けて其の不倶戴天の仇たる金氏を倒す事

        に努むるは、いささか疑い無き能はず。」


     「○金朴両派

         事業を同ふし境遇を同ふしながら、金玉均と朴泳孝とは性情徑行全く相反し、金は才子流にして朴は志士風、一は幅広くして

        一は奥深く、一は花見多情にして一は禅機に三昧すと云ふ風なれば、従って金の子分には半可通らしき者多く、朴の乾分には

        壮士らしき者少からず。自ら東京に在る韓人中に金朴の両派起こりて、互いに睨み合ふ姿となりしが、近年、金、朴両人の間に

        も衝突起こりて何時となく、汝は汝吾は吾と云ふ模様あり。金が今回の上海行も朴の知らざりし程なれば、其の交情の温度も推

        し測られしなり。彼の刺客洪鐘宇の如きは面貌気象体格臂力等に於てるも全く朴派の者にして、かねて金を悪口し居りし者なり
  
        と云へり。悪口変じて暗殺となる順序と言へば順序あらざるあらず。」



     「○金姓を褫奪せらる

         金玉均の本邦に逃れ来るや韓廷その姓金の一字を褫奪(ちだつ)し呼で玉均(韓音オクキュン)と云ふ。韓人一般奴隷に至る

        迄皆此の如し。以て金の如何に閔族に憎まれしかを知る可し。朴泳孝に対する感情は是れ程には至らずと或る朝鮮通は言ふ。」



     「○金玉均氏の遺骸引き取り

        金氏の変報東京に達するや、氏が復心の人柳赫魯即ち山田唯一は先ず、かねて金氏を世話し居りし三田の福沢翁を訪ひ、金

       氏の遺骸は氏が第二の故郷とも言ふ可き日本に引き取り、生前交遊したる人々の手向けの香花をも受けさせ度しとて、其の処置

       如何を相談せしに、福沢翁は哀情尤もの次第なるが、今はるばる遺骸を上海より引き取らんとするも手数も日子も掛りて思う様に

       は運び難かる可く、且つ金氏の身に取りては支那も日本も同じく異郷に骨を埋むる者なれば、わざわざ其の儀には及ばざる可き

       か、併し、関係の小ならざる事なれば尚ほ外務省などにも伺ひ出でたる後決す可しとの言なれば、山田は夫より直ちに外務省に

       到りたる由。」

        
     「○金玉均の娘

         17年の変、金玉均は万死を逃れ出でて日本公使館に投じたる後、支那、朝鮮の兵は其の邸宅に押し寄せ、火を放ちたり。
    
       此の時金の養父は毒を呑んで死し、情容赦もあらあらしき閔族の為に其の妻は殺され、三族は夷せられし中に金が親戚の者の

       賄賂によりて一人の娘だけは命を助けられしが、身は官婢とて生涯奴隷の如くコキ使はるる者となり、父には生別し母には死別

       して世に頼りとては無く、未だ咲き出でぬつぼみの花の早くも妬雨嫉風に悩まさるる有様にて、思ひやるだにいじらしく金も時々

       此の事を語り出でて心に泣きしことありと云ふ。」


     「○水に旭日の紋

         金氏が平素着せし羽織の定紋は水に旭日を載せたる者なり。去れば其の模様菊水に彷彿たれば、普通の人は氏が日本に

       来りて楠公の跡を慕ひ、其の紋を選びたる者なるべしなど速断せしが、是れ実は氏が朝鮮を以て自ら任ずるの寓意にして、朝鮮

       と云ふは朝日鮮やかなりと云ふの意味に出る名目とて、朝鮮人は矢張り日本人の如く六に日を重んずるより金氏も此の意を取り

       て、旭日に水を紋と為し、以て鮮やかなる朝日即ち朝鮮をば一身に負ふの意義を表したる次第なりとぞ。」


     「○岩田周作と三和

         金氏日本に来りて選べる姓名を岩田周作と云ふ。是れは朝鮮国がどうやって見ても仕様がなきこと、あたかも岩の田はどこを

        耕しても詮無きが如しと云ふの意味に取りたる者にて、朝鮮に手を尽くし切ったる敗将なれば斯くせりトハ氏が常に友人に語る

        所なりき。去れば氏が今回の上海行に就き殊更に名を改めて三和と云ひたるも偶然にはあらず。其の心中必ず日清韓三国の

        平和を図ると云ふの意有りて、斯くせしならんと想像するは氏の平生を識る者の一致する所なり。」


     「○囲碁に弄花

         概して朝鮮人は囲碁に巧なるが、金氏は特に斯技の名人にて此の遊戯を以て貴顕紳士に交はりたりき。而して氏の力は三段

        以上に在りしとぞ。氏は又花合せと唱ふる牌戦の名人にて、かつて東京ホテルに潜居して数月連戦せしこともありと云ふ。」


     「○芝海水の女主

         相馬事件の引き合いに出されて本名まで世人に知れ渡りたる芝みはらし温泉の女主人種村たかは金氏と浅からぬ宿縁あり。

        即ち、此の女主が始めて金氏のひいきを受けしは今より14,5年前の事にて、当時、金氏は朝鮮の官用を帯びて日本に来たり。

        右温泉に館して威勢盛んに振る舞ひしが、女主も其の頃は花の盛りの名代の美人なりければ、金氏深く思いを籠めついに相思

        の人とはなれり。後、金氏は帰韓して相会ふこと かなはずなりし。後、同女主が女やもめにて暮らすに至れる原因の大部分は

        金氏への心中立てなりしとぞ。去れば金氏は切れ離れよしとてほめらるる丈に、懐苦しくついに寄る辺なき有様と為りし後は、走

        りて右温泉に潜み、わずかに鋭気を養ひけるとなり、多情を才子さすがに小文君をば得たりけり。」



   ●明治27年4月6日付け

     「○金氏の鐘宇を伴ひし次第

         金玉均氏が上海行を思ひ立ちしは昨年来の事なり。而して彼の李逸植及び洪鐘宇等と初めて逢ひしは(日本人川久保常吉の

        紹介にて)、本年2月頃なりき。故に彼等が如何に奸智を逞うして取り入たるにせよ、金氏も実は左程までに奸膽を許したりとも

        覚えず、且つ、わざわざ彼を連れ行くの必要も無ければ、氏は最初より上海まで連れ行く意は無かりしなり。唯だ、彼は金氏が

        上海に行くを探知し、「旅費等の事もあり、幸ひ大坂に李逸植も居ることゆえ連れ行き呉れよ」とて、請ふて金氏に随行せしなり。

         然るに金氏は旅費の不足等より、余儀なく李逸植に融通せらるることなり。本人は勿論李逸植よりも頻りに連れ行き呉れ度旨

        を述べ(或いは上海にて受け取るべき為替手形あれば彼を連れ行きて受け取らしめ呉れよと云ひたりとも云ふ)、ついに思はず

        も洪鐘宇を連れ行くこととなりし次第なりと聞く。」

  
     「○日本人にも連累者あり

         飛説紛々、今回金氏の兇変事件に就ては相当の地位ある日本人中にも連累者ありと上海より或方に達したる電報によれば、

    
            金氏の兇変あるや、当地在留の日本人2名某々は何れへか遁走し行方知れず、右に付き、其の筋にては厳重に捜索中

           なり。   

       
        との報ありしやに伝ふ。真偽果たして如何。」


     「○不思議なる電報

         去る28日金氏兇変の報未だ世間に伝はらざる前、早くも大坂の某氏の許へは金氏の僕和田信次郎の名義にて暗殺云々の

        電報ありしといふ。若し同人より電報を発するほどなれば、大坂の某氏へ宛るよりも先づ、東京に発すべき筈なるが上に、其の

        大坂なる某氏は、同人は勿論金氏も懇意なる人にあらず。まさか兇奴の所為とも思はれざるが、何さま不思議なる電報なり云々

        と語りし人ありしとなり。」


     「○金氏の諸友交詢社に協議す

         金玉均氏が今回不測の難に罹りたるを以て氏の友人等は、去月31日午後5時より東京京橋区南鍋町の交詢社に会して左の

        3件を協議せり。 

           第一    金氏が死骸を日本人として引き取るを得べきか。若し引き取りを得べしとすれば交詢社発起となりて之が方法を

                  尽くす事

           第二    金氏の妾従僕の如きは目下貧困に迫り居れば之を救助する事

           第三    朴泳孝氏の身の上に対して保護を為す事 」


     「○国王と金玉均

         甲申の乱、金玉均 仁川港より我が国に逃れ来る途次、同船の日本人某、金に向て云ひける様 君は朝鮮の国事を以て任ず
 
        るもの、果たして然らば鶏林道の人心を収攬し、再び義旗を掲げて其の宿志を達せんと欲せば何んぞ国王を此の処に奉せざる

        や。時に金氏は答へらく、王を奉ずるは八道の人心を収攬するの術あらんも、此の危機一髪の際に当り、躊躇逡巡せば□に予が

        命を隕して其の宿志を達する得ざるのみならず、不幸にも国王殿下の玉体に矢を加ふるの徒あらば却って不忠不臣の責めを免

        れず、是れ予が身を脱して一時故国を去る所以なりと語り終わりて悄然たりしと語るものあり。」


     「○外相に呈するの書

         去月31日左の如き書を寄するものあり。其の字体及び字句を察するに朝鮮人なるが如し。

         
           拝啓陳は今般金玉均氏、上海旅舎に刺客の毒刃に罹りて斃致候は全く李逸植・権東壽・権在壽3人より洪鐘宇を唆使し
         
          少しも相違なく御座候。さて金氏国家の為め三族とても夷せられ候に付き、誠に可憐候。同氏は明治17年孤身我が国に

          逃れ来て流寓し居候間、零丁孤苦の状甚不忍言候唯今我等に於て金の寃を雪致度候間何卒李逸植と両権共厳しく御
   
          問被下相成候はば自然事寔を顕んと想居候。御乍恐入早く御取計被下度此段御依頼申仕候。

             明治27年3月30日      芝浦居士等頓首

                陸奥大臣閣下

           追って権東壽等今でも還た鉄砲刀及朝鮮王の勅語を持て居候何卒権居る旅館を御取調被下度

          再伸右の手紙は陸奥さんに差上積て同氏が今度の事を漠然して寧ろ貴社に差上と宣ふ御座候。何卒明日の新聞に御掲

          被下度。



   ●明治27年4月8日付け

     「○暗殺陰謀の関係

        金氏暗殺事件の関係に付き、ここに氏が李逸植と通謀して金自身暗殺の大狂言を描き、暗殺請負の一人なる大三輪長兵衛氏

       及び韓廷内外の嘱託者を一くるめに欺き去り、巨万の金円を詐取せむと欲せしと云ふ推測是れなり。此の事に就ては不思議とも

       怪事にも言語同断の話なれども、其の怪報を記載すれば、

        抑々金玉均等が日本に居るに就ては韓廷の感情を悪くし、通商上交際上非常の損害なれば国外に放逐すべしとは大三輪長兵

       衛氏の常に公言する所にして、氏は親隣義塾設立に就き朴氏が義捐金募集を為すに当り、外務省の諸官人も賛成の意を表せし

       中途に及び彼等に遊説して之を妨害せし事もあり、且つ白銅貨鋳造1件の失敗は支那公使袁世凱の故障に出でし点もあるに付

       き、日本政府の微弱なる到底日本人の勢力を韓廷にふるう能はず。従って朝鮮に仕事を為すには袁世凱に取り入らざる可からず

       とは商売に抜け眼のなき氏には有る内なる感想なるのみか、今回の一件張本たる李逸植とは平素非常に親密なる上、該陰謀は

       大坂にて仕組まれし事は疑ふべくもあらず。又過日逃げ去りたる李泰源は大三輪氏手下の一人なりと云ひかたがた、氏が今回

       の事に関係せしことは疑ふ可からずと言ふ者少なからず、氏の疑はるる訳は右の如しとして又如何して李金の詐欺なりと云ふ事

       が言ひ伝へらるるかと云ふに、全く朴泳孝が東海散士に語りたる李逸植白状の始末に基くものたり。此の事や実に奇々怪々殆ん

       ど普通の人情以て推測し得ざる者あれども、李の言ふ所によれば此の計画の真相は大三輪が始終金朴両人の日本を去らむこと

       を望むを知るより、李は自ら考ふらく日本に在りて彼等を殺すは容易ならざれども、若し多智なる金と腹を合せて一狂言やらば甘

       い仕事となるべしと。

        すなわち金に近づき、ようやく之を談ずるに、金も去る者トテモ角テモ天下の事先だつ者は金なりとて、ここに長兵衛だましの秘

       策を書き、先づ李逸植が米穀を積み来れる舟あるを幸ひ両人生け捕り策を仕組み、李は密かに長兵衛に説いて曰く、実に拙者の

       日本に在るは金朴両人討ち取りの為めなり、其れに就ては既に此の通り西洋新製の猿ぐつわをも所持せり、因って彼等を引き縛

       り上の方に穴のあき居る鉄箱に詰め込み、之を荷物の体に装うて本国へ積み送るべし、其の為めに舟は既に着し居れり云々、

       長兵衛何と答へしや分からねど、兎に角彼は話に乗れり。

        去れど李は金と同腹なれば彼を殺す心にはあらず。其の秘謀は間がよくば朴をあやめさせ、金氏上海行と号して長崎に至り、

       金は露艦に身を投じて延太郎とともに露に走り、洪鐘宇をして替え玉と為るべき人物を上海に伴はしめ、上陸早々斬り殺し、洪は

       首と手と足とを斬り取りて亡命し、金玉均殺害さると云ふ電報を大三輪に投ずと云ふ仕組みにて、大三輪には金を上海にだまし遣

       るまでに運びたれば運動費を出せと迫り、東西相応じて近日仕遂ぐ可しと約し、当座の手付けが三千円、客月22日李逸植はまさ

       に大三輪の手より受けたり。而して彼は其の内を以て玉均の旅費其の他千円を払い、残る二千円を以ていよいよ東京に赴き、朴

       泳孝暗殺の真似なりとも為さむと欲したり。此の外いよいよやり果たせたる時の受負賃金六万円にして金斃れると同時に大坂東

       京長崎の3ヶ所に於て連類各々分け取りを為す手筈なりしとぞ。李は実に右の如き供述を以って朴氏の訊問に答へしなり。

        彼が邪智に老け毒弁に富める必ず鄭蘭教等を欺き、幾分か拷問の苦をゆるめむとの心より欺くは疑似の間に相手を彷徨せしめ

       し者なるべしといえども、まるで痕跡なく因縁なき事は如何なるウソつきも早急には出る者にあらず。

        左の数個の事実だけは確かに彼が虚言中の実分子と知るべし。
       
           一  大三輪長兵衛此の一件に大関係有る事   

           一  金は李を釣らむと欲して親密の交際を為せし事

           一  客月22日李が三千円を大坂に於て引き出したる事

           一  金に旅費を給してだましやりし事                」


     「○金玉均氏の一族

         金玉均氏は朝鮮政府の大敵なり。彼の17年の乱起こり金氏等逃れて我が国に航するや、朝鮮政府は跡に残りし徒党一味の

       三族を誅意して復余□なし。然るに独り金氏の妻子のみを生かし置き、今尚忠清道の郷里に在り。是れ最も怪訝の至りなれども、

       其の実政府が恩を金族に垂るるにあらずして、金玉均氏は徒党の領袖なれば之を嫌ふこと蛇・さそりよりも甚だしく、遅かれ早か

       れ之を捕えて刑戮に処するの覚悟は政府片時も忘るることなけれども、如何せん金氏は日本に在れば手を下すに由なし。依りて

       一計を案じ、彼の妻子を殺さば彼れ復本国に帰るの意を絶ちて益々政府を怨むに至るべし、妻子を生かし置き彼をして常に本国

       を慕ふの心を存せしめば帰国することあるべし、その帰国するを引捕へて妻子とも厳刑に処し呉んと所謂苦肉の計をなし、妻子を

       餌にして金玉均氏を釣るの妙案と為したるなりとか。それとも知らぬ金玉均氏は我が妻子三族悉とく誅戮されたりと思ひ、妻子も

       亦他の家族の殺し尽くされたるに独り生存を許されたる不思議を語り合へる内、良人は首尾よく逃れて日本に居る事を聞き、悲し

       き中にも喜び音信を通ぜんと思ひたれど、咎ある身のままならぬを嘆き其のままに打ち過ぐる中一昨年となりぬ。妻は余りの恋し

       さに永く召使ふ老僕を密かに京城の日本人居留地に遣りて、良人に旧縁ある人を尋ねて、つぶさに遭難後の艱難を物語らせ、

       且つ文通を依頼し何卒此の書状を良人に御渡し下されて、憂きにやつるる母子の状をお話し下されと老僕涙に暮れて頼みければ

       日本人も涙を流し、余も金氏の世話を受けたる事もあれば如何にもして其の取り計らひを為して進ぜたけど、文通などしては金氏

       の為にならぬと申す次第を、夫人は女性、其の方は今の時勢を知らねば察しのなきは無理ならねど、実は朝鮮政府の心にては

       之を生け置くは金氏を誘き寄せ、親子一族首を並べて誅戮するといふ恐ろしき計略なれば、今更文通などしては如何に鉄心石腸

       の金氏にても、最愛の妻が筆の跡を見て万一未練の心など起こりもせば却って親子の死を急ぐの愚に類する道理なれば、其の事

       だけは思ひ諦める様夫人へ伝へられよと仔細を分けて説き諭しけるに、老僕も初めて朝鮮政府の挙動を知り、歯噛みして口惜しか

       りしが、さてあるべきにあらねば暇乞して夫人の許に帰り委細を話せしに、夫人も余儀なしとて泣く泣く思ひ止まりたりと云ふ。



   ●明治27年4月15日付け

             朝鮮京城の近信 (4月9日発)


    「○金玉均の殺害と国王殿下

        明治17年金玉均、朴泳孝等の開化党が時の勢道たりし閔台鎬、閔泳穆等を殺害して新政を挙げたるの時、国王殿下は金玉

       均を以て戸曹判書に任じ承旨の官をも兼収せらる。然るに同人の事未だ成らずして再び閔族の天下となりし以来、彼等は身を

       朝鮮に容るる能はずして逃れて日本に在り。常に閔族の為め国賊視せらる実に憐れむべきなり。

        金玉均日本に在るの日、時に密かに国王殿下に書を奉りしこと数回に及ぶ。国王殿下又陰に同人等の志を憐察せらるるもの

       多かるべきに、今回金玉均の殺害せられたるの報に接するや、頻りに洪鐘宇、趙義淵等を称揚せられ、速やかに其の賀宴を開

       かせらるる等のことあり聞くもの今昔の感に耐へざるなし。閔族はもとより之を仇敵すべき勿論にして、王妃殿下も閔族のことな

       れば金玉均の殺害せられしを喜ばせらるる必然なりとは云へ、国王殿下の金玉均の殺害を悦ばせらるるは如何にも其の意を得

       る能はずとするも、真に国王殿下の御心を想ひ測り来るときは千斛の涙を注がざる可らざるものあらん、嗟。


    「○朝鮮国王各国使臣を饗せらる(時ならずして)

        去3日午後6時より国王殿下は各国使臣を宮中に招きて謁見あらせられ、終わりて酒饌を賜ひし由。当日は外務督弁趙乗穆

       病気なりしを以て内務督弁主人役となり、来賓は大鳥公使、ウェーバー露公使、ガードナー英領事外2,3名にして暗に金玉均

       殺害事件の御祝宴なりと云ふ。」 


    「○金玉均殺害事件に就いて

        兇漢洪鐘宇が上海に於いて金玉均を殺害せし報道の一たび漢城に達せし以来、朝鮮上下の官民は実に欣舞を為す如き有様

       なるが、平生日本人を忌避し居りしものさへ日本人に対し之を厚遇を為す如き傾きを生ずるに至りたるは実に一奇と云ふべし。

       現に閔泳駿の如きは元来日本公使などに向かっても至て打解けたる談話を為せしことなく、日本公使などにて珍しき談話を為す

       ことあるも同人は只ニガ笑ひを為す位の姿なりしに、今回金玉均殺害の報を聞くや翌朝直ちに我が公使館に来たり、頻りに大鳥

       公使の好意を謝し且つ云へるよう

        「是迄は実に疎遠に過ぎたりしも以後はしばしば来りて教えを乞ふべければ、貴下も時々御来遊せられたし云々」とて、満腹の

       喜悦は其の容貌にあらわれポクポクとして談笑せし程なりと云ふ。

        我が日本公使館にて去23日金玉均が神戸を出発せし電報を得しや、直ちに之を統理衙門に通知し且つ29日に至り金玉均殺

       害の報に接せしや、一々之を統理衙門に通知せしかば、30日の朝には国王殿下よりは特に差備官を以て言はしめて曰く、「金

       玉均の事に就いては時々怠らず其の状況を報ぜらる。実に之を多謝すと」。其の伝言をもたらせし差備官の去りし間もなく、閔泳

       駿が来館して前述の如き挙動を為したるを以て見れば、閔族はもとより如何に清朝の人士が欣喜し居るかを察すべし。」


     「○機器局会弁趙義淵の仁川派遣

         洪鐘宇を指嗾じて金玉均を殺害せしめしと聞きし機器局会弁趙義淵は今回の事件に就いて、国王殿下の御覚へ浅からざる

       由は前便にも一寸報道せしが、同人は去る5日午後4時京城を発して仁川に派遣せられたり。之れ上海に於いて洪鐘宇も支那

       政府の手に引渡され、金玉均の死骸と共に近日別仕立ての軍艦を以て護送し来るとの電報ありしに依り、同人を迎へんが為め

       国王殿下より特に其の名代として派遣せしめられたるなり。最も同人は今回洪鐘宇の用に宛つる為め、衣冠をも新調せし上にて

       携帯せしと云ふ。」


     「○義禁府の捕校仁川に赴く

         洪鐘宇と共に支那より回送すべき金玉均の死骸引き取りの為め、義禁府の捕校20名は去る5日午後仁川に向へり。」


     「○洪鐘宇の到着期日に就いて

         支那政府より特に軍艦を以て護送すべき洪鐘宇及び金玉均の死骸は今7日を以て上海を発し、来る12日頃仁川に到着すべ

       き予定なりと云ふ。」


     「○金玉均の死骸処分に就いて

         金玉均の死骸仁川に着せし上は之を京城に送るべきも門内に入れずして、其の首級は之を門外に於いて獄門にさらし、其の

         身体は之を八ツに切断し、各道に一切れずつを分送し以て諸人の見せしめに為すと云ふ。果たして然らば一層の奇観なるべ

         し。金玉均の死骸到着の当日は閔泳駿を始めとし当時の有力者悉く門外に出づと云へば中々の見物ならん。」 



   ●明治27年4月18日付け

     「○大院君金氏を悼む

         閔族が金氏の横死を悦ぶ趣きは既に記したるが、大院君には金氏の訃報に接して去月30日の夜に雲硯宮中に金玉均氏の

        位牌を祭り、其の前に跪坐して終夜涙にむせびたりといふ。又大院君及び金氏一味の人々は閔族近来の専権を憤慨して金氏

        の横死を悲しみ、洪鐘宇の不義を憤り30日の夜より京城の各所に秘密会を開き、洪帰朝せば直ちに天誅を加へて金氏不瞑の

        霊を慰めんと評議せしと伝え為に、韓廷は大院君及び金氏党の挙動を厳密に探偵せりといふ。」


    
   ●明治27年4月22日付け

     「○金玉均の遺屍と洪鐘宇の到着

         金玉均の遺屍と洪鐘宇とは去13日午後漢陽号にて到着したるが、同日午後1時25分漢陽号の楊花津に着するや、あらかじ

       め同所に派遣せられ居りし壮禦営旗手20余名は直ちにはしけ船にて同船に至り、其の死屍を受け取り、1時39分之をはしけ船

       に移し、「大逆不道玉均」と題せる白旗を掲げて上陸し、漢江附近の倉庫に収めて之を警衛したり。而して漢陽号は該死屍を同所

       に陸揚げしたる後、直ちに再び上流に向かひ2時15分竜山津に着し、洪鐘宇は趙義淵等と共に禁府の捕校20名と兵士6名に護

       衛せられて午後5時30分比京城に入り、趙義淵の家に投じたり。」


     「○惨又惨(金氏梟首)

         我が大鳥公使其の他駐韓各国公使の忠告ありたるに拘らず、朝鮮政府はついに金玉均氏の遺骸を梟示するに至りたること

        は、東電の伝ふる所の儘去18日の紙上に於いて之を読者に報道せしが、今其の梟示の模様に付き朝鮮通信員のもたらす処

        のものを記さんに、金氏の遺骸は去13日楊花津に陸揚げし、翌14日午後9時左図の如く、長さ五尺余りの竹を3本結び合せ

        たるものを同所に建て、之に首級と手足とを掲げたり。中央の上部にあるは首級にして、左右の両個は手及び足なり。

         梟示の傍らに告文あり曰く、「謀反大逆不道罪人玉均当日楊花津頭不待時凌遅処斬」と。嗚呼、たとひ未開の韓国とは云へ

        死屍に迄斯る惨刑を加へて自ら怪しまず。慨歎に堪ふべけんや。」

       
       
         

                           明治27年4月22日付 鎮西日報











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