小麦様 고무기사마 ( ? ~1629 )
1.小麦様について ー『長崎県郷土誌』から引用ー
平戸市の根獅子(ねしこ)という海辺に面した町に、文禄慶長の役時朝鮮から連れて来られ、平戸藩主松浦鎮信(まつら・しげのぶ)の
側室にされた朝鮮人女性の墓地がある。その朝鮮人の名前は平戸で「小麦様」と呼ばれており、藩主との間に2男4女を産んでいる。
この小麦様については、昭和8年に出版され、昭和48年に復刻版が出版された『長崎県郷土誌』に紹介されており、下記のとおり全文を
掲載する。
「 獅 子 村
小 麦 様
肥前国北松浦郡獅子村根獅子免字平谷1455番地老松の下に大小二個の墓がある。称して小麦様又は「お墓」と言ふ。大なる方は
方二間、小なる方は方一間位で何れも野面石を以て築いてある。
文禄、慶長の役に、平戸藩主松浦法印鎮信公従軍し、在韓七年、其の凱旋帰国に際して一貴婦人を御同伴申し上げた。該貴婦人を
人呼んで小麦様と言ふのである。小麦様は本名を「廓清姫」と申し上げ、当地では小麦様と申し上げたもので、又晩年には「妙性尼」或は
「妙性姫」と申し上げたと言ふことである。
記録には朝鮮王姫又朝鮮国王娘とある。朝鮮国王第一四世宣祖(昭敬王)の姫君であろう。渡日後は専ら松浦家の隠居所領本村
根獅子に居住して多くの子女を設けた。其の中、男、松浦蔵人信正は鎮信公の御二男として根獅子、獅子、生月に於て禄三千石を領して
いた。信正公の御内室は、唐津城主寺澤志摩守廣高の臣熊澤三郎右衛門正孝の女で波津子と申し上げる。小麦様は、鎮信公没後は
剃髪して妙性尼と号して、根獅子に庵居したものである。
蔵人信正の御内室の早世したことに依つて、松浦家に請ひ、獅子に明性寺を建立し同御内室を以て開基とした。それが高誉妙性大姉
である。松浦家では征韓功労を彰する為、鎮信公の幕下であつた又、特に功労の多い田平村浄香寺第七世住職護庵正守禅師に明性寺
を開山させた。妙性尼は寛永十九年壬午七月三日根獅子に於て他界した。法名「清岳妙芳大師」と言ふのである。前記二個の「お墓」は
即ち高誉妙性大師と清岳妙芳大師の墓であると伝えられている。
小麦様没後は松浦蔵人家より之を祀り、又平戸高野山談議所奥の院よりも、毎年盆祭には一対の灯籠を贈られていたが、後に至つて
同院では此の煩を避くる為、鎮信公の墓側に水向所を設けて之を廃した。平戸奥の院小麦様は之である。根獅子に於ては現に「お墓」或は
小麦様と崇称するのみでなく、往年より例祭として、毎年春秋彼岸の中日及び盆祭には念仏を奉唱し、一切の費用は根獅子部落民の公費
を以てし其の供養を怠らぬ。殊に旧盆月十五日には平戸名物、自安和楽踊を献踊することを慣行としている。
黄金の観音様
人呼んで「黄金の観音」と言ふ。高さ九寸、重量一貫四百四十匁、中空の如意輪観世音菩薩尊像がある。本村根獅子民の共有に係り、
根獅子免一六八四番地海岸山、文性院に安置している。此の観音様は前記小麦様の守護神であつたと伝えられている。
小麦様は砲烟の中を此の観音を守護して逃れ、小麦畑に隠れていたのを鎮信公に発見されたものである。田平村浄香寺永代譜録に
よれば「妙性尼者朝鮮王娘蜜蔵干小麦畑故於茲称小麦姫焉」とある。該観世音は霊験顕著、殊に産婦に御利益が多いと言われている。
如意輪観世音菩薩尊像御写繪の記録には、海岸山円福寺蔵とあるが住職の改まるに伴ひ、初めは円福寺、次に蓮華院と代り現代の
文性院と改称されたものであろう。此の尊像は天冠其の他の作によつて見ても、余程古代の作で、其の色は黒色、黄金とは思われないが
往年盗難に遭遇した際一部損傷の箇所を見るに、燦然たる黄色の光を発していることより推して、口伝の虚説でないことが信ぜられる。
記録には閻浮提金とある。果して小麦様の守護神であつたかは明確でないが、祭祀用具中に、松浦家の定紋を表はした一対の水上臺其他
の器物が現存することを思う時に、其の事実であることが推される。 」
ところで、上記の文章には間違いと思われる箇所がある。小麦様の法名は「清岳妙芳大姉」であるところから、生前号していたのは
「妙性尼」ではなく、「妙芳尼」だったのではなかろうか。また、息子信正の嫁の波津の法名が「高誉妙性大姉」であるところから、波津の
方が生前に「妙性尼」と号していたのではないだろうか。それに、波津が開基したお寺の名前は「明性寺」ではなく、「妙性寺」である。
これらのことは、昭和4年に獅子村役場が行った信正を初代とする西口松浦家の第12代当主 松浦勝太郎氏への問い合わせに対して、
勝太郎氏の回答文にそのように記載されている。( 『談林』第40号 「小麦様異聞」 82貢~84貢 )
ところが、現在根獅子にあるお寺は明性寺であり、妙性寺というお寺は現存していないので、話がややこしくなる。妙性寺はいつかわから
ないが、廃寺となったものと思われる。なお、『長崎県郷土誌』では小麦様と波津の法名の最後の部分が「大師」と記載されているのは、
「大姉」の記載間違いである。また、『長崎県郷土誌』では小麦様が持っていた観音様を「守護神」と言っているが、「守護仏」とすべきだった
だろう。昭和11年に出版された『平戸藩史考』では「守護仏」と訂正されている。
また、小麦様が寛永19年(1642)7月3日に亡くなったというのも誤りで、亡くなったのは寛永6年(1629)年6月13日である。
寛永19年7月3日に亡くなったのは小麦様の息子の信正の方である。
『長崎県郷土誌』で小麦様のお墓は野面石をもって築いてあると記載されているが、この野面というのは、山から切り出したままで
加工されていない石を言う。確かに現地で実際にお墓を見てみると、飾り気のない、非常に素朴な石が積み重ねられてできたお墓だった。
小麦様の墓
方向や角度を変えて撮影した小麦様のお墓とされる写真
『長崎県郷土誌』ではどちらが小麦様の墓か波津の墓か記していない。姑にあたる小麦様の墓が大きい方ではなかろうか。 しかし、
この墓に本当に二人の遺骸が葬られたのであろうか。二人の墓にしてはとてもちっぽけに見えるからである。しかも、嫁の波津の方が
6年早く亡くなっており、小麦様が亡くなってからわざわざここに嫁の遺骨も移して一緒に埋葬し直す必要があるのだろうか。
西口松浦家の第12代当主 松浦勝太郎氏によると、小麦様の息子信正の嫁の波津の埋葬地は妙性寺内と述べている。
( 『談林』第40号 「小麦様異聞」 82貢 )
小麦様の遺骸もどこかのお寺にきちんと埋葬されたのではないだろうか。上の写真のようにお寺でないところに埋葬するとは私には思わ
れない。藩主の側室だった人を野面で低く築かれた墓に葬るだろうか。私には疑問に思われる。本当のお墓は別にあるのではないだろうか。
なお、平戸市の中心部にある最教寺には、上記 『長崎県郷土誌』に記されてあるように小麦様の水向所がある。『長崎県郷土誌』に
いう高野山談議所とは最教寺のことである。最教寺は文禄慶長の役に従軍した松浦家第26代の鎮信が創建している。
法印松浦鎮信の墓
奥の院にある小麦様の水向所 四角い形をしたものの正面に小麦様の法名である
「清岳妙芳大姉」の文字が刻まれている。
松浦隆信の墓 松浦隆信の墓
西口松浦家の墓
西口松浦家の墓 西口松浦家の墓
小麦様の長男である松浦信正の墓
最教寺の寺宝が展示されている霊宝館
この霊宝館には李朝時代の仏画で国の重要文化財に指定されている「仏涅槃図」(レプリカ)が展示されているが、霊宝館の受付けを担当されている
お坊様のお話によると、松浦鎮信公が朝鮮から持って来たものだそうである。とても大きな掛け軸の仏画である。
その他、展示されている釈迦如来の頭の部分は朝鮮から請来したものだそうである。頭部以外の仏体は鎮信公が慶長12年(1607)に寄進したとの
ことである。
2.小麦様の出身地について
松浦鎮信が朝鮮のどこに攻め込んだ時、小麦様を見つけたかはわかっていない。鎮信もさすがに陣中日記には書いていないようである。
『松浦家旧記』という書物に松浦鎮信らが都の漢城に攻め込んだ時に、小麦様を見つけたと記録されているそうである。( ウェブサイト
『ようこそ壱岐へ』の「壱岐の捕鯨」より )
しかし、漢城を攻めたのは文禄元年(1592)だけである。松浦鎮信は朝鮮に来て帰国するまで一度も平戸へ帰っておらず、朝鮮に7年間も滞在して
いる。もしも漢城で発見したのであればかなり長期間小麦様を連れ回ったことになるが、そういうことがありえるだろうか? かなり疑問である。
恐らく、慶長の役時に見つけたのではなかろうか。慶長の役時小西軍は全羅道に攻め込んでおり、全羅道内のどこかの城を攻めた時に小麦様を
見つけたと考えるのが無難ではないだろうか。恐らく慶長2年(1597)8月に攻め込んだ南原城か全州城あたりだったのではないかと思われる。
小西軍は同年9月下旬に全羅道の順天に進出したが、翌年11月下旬に朝鮮を離れるまで順天地域に滞在していることからその間に見つけた
可能性も否定できないだろう。ただし、全羅道内で戦闘らしい戦闘が行われたのは、慶長3年9~10月に行われた順天城の戦い以外は南原城攻防戦
だけであるので、砲煙の中を逃げ遅れて日本軍に見つかった可能性のあるのはこの南原城しかないと考えるのが自然ではなかろうか。
ところで、慶長12年(1607)に回答兼刷還使(江戸時代第1回目の朝鮮通信使)が来日した時、朝鮮側は文禄慶長の役で日本へ拉致された朝鮮人の返還を
要求しているが、小麦様についてはその素性を地方の高級官僚の娘であると言ったという。 ( ウェブサイト 『ようこそ壱岐へ』の「壱岐の捕鯨」より
)
なぜ具体的な地名が記録に残されていないのであろうか。不思議である。
ところが、江戸時代第3回目の朝鮮通信使が寛永元年(1624)に来日しているが、この時の副使だった姜弘重はその旅行記である『東槎録』の中で
壱岐を訪問した時の様子を次のように記述している。
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十月二十三日
壱岐島主之族日高虎助殿之其叔松浦蔵人殿請謁。
蔵人殿。則我国昌原人之所生也。兄弟倶以処女被虜於壬辰。
皆為一岐島主之妻。今方生存。其夫島主。即今島主之祖父而已死去。
【現代語訳】
壱岐島主の親族日高虎助殿およびその叔父で松浦蔵人殿が謁見を請う。
蔵人殿はすなわちわが国昌原の女子が生み、兄弟が皆処女として壬申倭乱のときに捕えられ、
皆壱岐島主の妻になり、今まで生存しており、その夫である島主はすなわち今の島主の祖父ですでに死去したという。
引用文献:漢文 『平戸市史研究』第2号 編集 平戸市史編さん委員会 発行 平戸市 1997年
現代語訳 『東槎録』 姜弘重著 若松實訳 発行 日朝協会愛知県連合会 2000年
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ここで上記の記述の背景について説明しておく。壱岐島主というのは、壱岐を領地として支配していた平戸藩の藩主である。
初代平戸藩主松浦鎮信(1549-1614)には子供が4男5女おり、長男が久信(1571-1602)で第2代藩主となっている。久信の長男隆信(1592-1637)が
跡を継いで第3代藩主となっている。鎮信の長女が日高玄蕃信喜の妻となって、日高虎助を生んでいる。鎮信と小麦様との間にできた子供が信正で
蔵人ともいう。そして、松浦家の家系図によると、この信正が鎮信の次男とされている。したがって、日高虎助にとっては信正(蔵人)は叔父にあたる。
朝鮮通信使の副使姜弘重は、松浦蔵人の母親が昌原の人だと書いている。おそらく松浦蔵人が母親から聞いてそれを姜弘重に伝えたか、松浦蔵人が
朝鮮から連行されて来た小麦様の子供であり、小麦様は昌原の出身であるということは当時広く世間に知られており、姜弘重がその事実を誰かから
聞いたのであろうと推測される。
また、小麦様には姉か妹がいて、その姉か妹も小麦様と一緒に平戸に連れて来られ、鎮信の妻にされたと書かれている。この朝鮮通信使一行が来た
1624年当時、まだ二人の姉妹は生きていて、その夫であった人は、今の壱岐島主の祖父だったと書いている。
小麦様の墓地には2基の墓があるが、小さい方の墓は小麦様の姉か妹のものではなかったろうか。しかし、二人が本当に実の姉妹であったかどうかは
わからない。小麦様の付添の女性であったかもしれない。しかし、1624年に姜弘重が兄弟(姉妹)と書いてある以上、そのまま信じてもいいのでは
なかろうか。
ところで、江戸時代第4回目の朝鮮通信通が来日したのは寛永13年(1636)である。この時の正使は任絖という人で、『丙子日本日記』という使行録を
書いている。また、この時の従事官は黄漫浪という人で、『東槎録』という使行録を書いている。寛永元年(1624)に来日した朝鮮通信使の副使・姜弘重も
同名の使行録を書いているので混同しないよう注意する必要がある。黄漫浪は字は子由で、慶尚南道昌原の出身である。その黄漫浪は東槎録に
次のとおり書いている。
「 (丙子十月小)・・・・・・・
二十五日丙申陰風留一岐島待風、有被擄人二名、一則全羅道楽安郡人曺一男、一則興陽縣人申天龍、来謁于臣所乗船、臣親見以問、
天龍則已忘本邑言語、一男随問随答 ・・・・・・・・・・・・・
臣問、平戸太守為何如人、則一男言、太守即我國昌原居両班女人之孫子云、・・・・・ 」
朝鮮通信使一行が壱岐島を訪れたことを知り、日本に拉致されて壱岐に住んでいた朝鮮人2人が一行の元を訪ねて来たこと、
一人は全羅道楽安郡出身で曺一男と言い、もう一人は同じく全羅道の興陽縣出身で申天龍と言い、申天龍は既に朝鮮語を忘れてしまっていること、
従事官の黄漫浪が曺一男に、平戸の領主はどういう人物かと問うたところ、曺一男が昌原の両班の娘の孫と答えたことが記載されている。
松浦鎮信の長男・松浦久信が慶長7年(1602)に死去し、12歳で家督を相続して第3代平戸藩主となったのは久信の長男・松浦隆信である。
久信に家督を譲っていた松浦鎮信は、久信の死後、孫の隆信を後見している。松浦隆信は江戸時代第4回目の朝鮮通信使が来日した翌年の
寛永14年(1637)に没しているが、母親は日本で最初のキリシタン大名 大村純忠の五女・松東院である。したがって、鎮信の側室・小麦様が
隆信を生んでいないので小麦様の孫というのは正確ではないが、立場上は小麦様の孫ということになる。捕虜として日本軍に拉致されて壱岐で暮らす
朝鮮人が小麦様という名前を知っていたかどうかはわからないが、小麦様のことを昌原の両班の娘だと言ったことから、やはり当時、小麦様は
昌原出身ということが広く世間に流布されていたことが推測され、おそらく真実だったであろうと思われる。
なお、上記の2人の朝鮮人の出身地のうち、楽安郡というのは現在の全羅南道順天市楽安面であり、興陽縣というのは全羅南道高興郡である。
3.小麦様の子供たち
小麦様は平戸藩初代藩主となった松浦鎮信との間に2男4女を産んでいる。 長男信正は後に家老に任命されて、松浦蔵人佐信正と
名乗り、屋敷を日ノ岳城 (後の亀岡城) 大手門の西に構えた。このため信正は「西口松浦家」、通称「西口様」と呼ばれるようになったという。
( 『談林』 第36号 岡村廣法著 「 「西口文書」にみる平戸氏の一側面」
西口松浦家の家系図によると、鎮信と小麦様の間にできた子供は次のとおりになっている。( 出典: 『談林』第40号 岡村廣法著「小麦様異聞」)
第1子 信正 (西口松浦家の祖・平戸藩家老三千石)
第2子 女 (後藤広明の妻)
第3子 女 (西郷純成の妻)
第4子 女 (桃野某の妻)
第5子 女 (南総右衛門某の妻)
第6子 信 (松浦角左衛門 日高信助勝秀の養子)
西口松浦家の家系図では上記のとおりだが、実は信正は長男ではなく次男であり、鎮信が朝鮮から帰国の途中、鎮信の子供を身ごもっていた
小麦様は船中で男子を出産し、鎮信の命により壱岐に置いて行ったという言い伝えがあるが、真偽のほどはわからない。
なお、『長崎県郷土誌』によると、小麦様は渡日後、専ら松浦家の隠居所領の根獅子に居住して多くの子女を設けたそうだが、藩主が住む屋敷の
近くにも小麦様用の屋敷が与えられていたのではなかろうか。
平戸領主の側室たちの屋敷が立ち並んでいた坂を「御部屋の坂」と呼ぶそうである。側室たちは当時、「御部屋様」と呼ばれており、石段が続く
坂道の中ほどに御部屋様の屋敷があったことから、「御部屋の坂」と呼ばれるようになったそうである。
すると、初代平戸藩主の松浦鎮信の側室である小麦様も、この御部屋の坂のどこかに屋敷を与えられて、住んでいたのではなかろうか。
御部屋の坂 (平成6年9月2日に平戸市史跡に指定)
御部屋の坂庭園の門
伝小麦様遥拝所 平戸市認定文化財 平成26年7月23日認定
『 「小麦様」は平戸松浦家26代鎮信(法印)が文禄・慶長の役に参戦し、帰陣する際に連れ帰ったとされる女性です。
朝鮮のセンラ(全羅道)の城を攻めた時、城内に取り残された女官で、小麦畑に潜んでいたことから小麦様と呼ばれています。 』
伝小麦様遥拝所
4.法印松浦鎮信の文禄慶長の役
昭和11年に出版された『平戸藩史考』後編に、「文禄慶長の役と我が平戸藩」と題して松浦鎮信の朝鮮での戦いの状況を記したものがある。
これは『印山記』という書物の内容を掲載したものである。印山とは鎮信の父である印山道可松浦隆信のことである。なお、文章全体が長いので、
一部省略してここに紹介する。(括弧内の西暦は私管理人が挿入した。)
「
・文禄元年(1592)四月十二日、平戸を出船。
・文禄元年四月二十八日、行長、鎮信兵船釜山浦に着す。釜山浦の城主鄭揆軍を破り城を取り大将鄭揆の首を取る、敵兵一千二百余人
討取、生捕多数なり、此の戦に鎮信の手勢西清右衛門、橋口八右衛門、赤木彌総右衛門名乗りの一番也、手勢討死手負共三十四人、
此の初陣に名ある侍は一人も討れず、戦終つて後ち有馬修理太夫、宗対馬守、大村新八郎、五島萬吉釜山浦に着岸皆々此の城に籠る、
兵糧澤山城にあり。
・同二十九日、東來の城を責崩し大将宗賢象を籠手田栄討取る、夫より梁山の城を掠め、鵲院の麓に一戦し敵兵敗走す、依て密隅金海の
城を乗取る。
・五月七日、金誠一季約等の大将馳せ来り数十萬騎尚州に陣を取る。鎮信彼の陣営に向って追撃し忠州を平げ、同十四日都城の邊に
押詰る。然れども朝鮮王李昭は先達此の城を落ち、遼東境平安道を経て義州に逃る。依て平安道に赴き黄海道の平壌を攻めんとせしに
漢南人小西を取巻き行長危かりける時、鎮信が横合より打て懸り伐崩す。平壌に押寄せんとせしかど大河有つて渡り難きが故に河邊に
陣を敷き数日を送り、諸軍勢皆甲冑を抜ぎ寛々とせるに敵城より高彦伯といふ者軍兵を集め、密に船数艘を催し深更に及び行長の陣を
襲ひ鯨波を作る諸軍周章云ふ計りなし、鎮信は例の如く覚悟なれば即時に打出で相戦ひ、宗義智続て相働き敵兵数多討取る。鎮信家来共
には皆瀬軍蔵、關口武七比類なき働きにて名高し、鎮信が手に討取敵首二百三十人(一説に二百四十四人とある)、味方打死手負合せて
七十余人なり。
・同年六月十二日、平安道の順安城を責むる時、久信の勢共鎗を以て防ぎければ五島勢も味方に続き敵を城門に追込み直に城門を乗破る。
・文禄二年(1593)正月四日大明の援兵大将李如、漢南の軍兵壱萬余人を率ひ安定舘に着す、又朝鮮の士卒馳せ加はり二十萬余人は行長
鎮信が籠りし平壌城を責んと、同月七日二手に分けて押寄す。之に依て都城迄の枝城に日本勢籠り居る所行長使を立てて援の勢を乞ふと
雖も未だ来たらず、平壌の城兵数度の戦に多く伐たれければ小勢を以て防戦す、鎮信内の日高甲斐守、井上馬之助を始め数輩討死す。
・同年三月五日、大明兵司馬不星と云う者謀を廻らし、沈惟敬と云う者を行長の陣所に遣はし詐って和平を乞ふ。依って大明の使者名護屋に
渡海す。諸将四月六日釜山浦に退韓す。
・和睦の謀露顕す。故に同年七月二十日、鎮信も晋州城に向ひ厳しく責付け大将牧司を秀家の家臣岡本舎人討取。
・文禄三年(1594)七月十七日、敵将高龍慶数萬人を率ひ晋龍山に到る、鎮信聞て手勢を率ひ戦ひ大将高龍慶を始め六百八十余人を
討取り残兵東西に敗走す。
・同年十月十日、敵四萬余人慶凉川に到る、黒田、立花の勢と共に鎮信も相共に戦ふ、敵兵悉く敗走す、此時鎮信の手に二百人打取る、
源信平、池川源右衛門雑兵七十一人討死す。
・文禄四年(1595)五月七日、鎮信栄齢山の一戦に旗奉行西清右衛門、小佐々嘉兵衛、無比に働き味方に敵の首二百余級を得、此時
加藤左次右衛門、板森平兵衛打死す、其の外手負死人雑兵六十七人。
・慶長元年(1596)六月二十八日、朝鮮の大将揚方亭、沈惟敬和平を約す。清正、行長の両将共に釜山を発し、日本に帰陣す。
翌年正月十六日行長、清正重ねて朝鮮に至る。
・慶長二年(1597)、和睦破る。納所の城を攻めんと諸将発向す。行長鎮信一手の面々例の如く先鋒す。
・同年大明の大将邪介、其の勢三万四千余騎、之を分ちて李如雲、祖承訓、李芳春、解生等を大将とし此の外三韓の士卒を従へて
日本勢を追返さんと議す。清正は此時蔚山城を加藤清兵衛に籠らせ置く。然るに鎮信は清正に勧めて城壁を速かに修覆せしむ。
同年十二月十三日、揚高等三千の兵を以て慶州を越へ直に蔚山を攻む。然れども城壁堅固なれば翌年正月三日に寄手崩れ退却
して圍み全く解けたり。鎮信が予め此の城壁を修むるの勧め無くんば、今助勢あるとも利あらざりし迚、清正甚だ鎮信の戦略を感ぜ
りと。
・慶長三年(1598)初秋、大明勢海陸の手分をなして大将麻貴は清正の蔚山城に、黄一元は義弘の泗川城に、劉廷は行長の順天
海口に向ふ。大将呉宗道は如何にもして行長を虜にせんとして偽って和を求む。之れ明の大将等謀議の結果なりと知るべし。行長其の
謀を察せずして速かに許諾す。依て劉廷再び使者を遣はし日本国王の代管御渡海し給へば我も名代を途中に出し和平の禮会を為さ
しめんと申出づ。鎮信甚だ疑ひ行長を諫めつれども諸将共に肯ぜず、劉廷を過信し既に会盟の期に至る。果して然りしなり。
・慶長三年九月十三日、大明勢順天城を圍む。鎮信は石火矢(今の大砲)木砲に捲玉、鎮玉を込め発砲す。十余万の敵兵乱れ立ち敵兵
四十九人討取る。鎮信の手に討取る敵は石火矢の外に百八人。
・同年十一月上旬、日本の諸将帰朝せんと釜山浦に退陣す。此の時明兵等太閤殿下の薨去を聞伝へ和睦を変じ日本軍を打果すべき
時は来れりと、其の勢三万二千余騎順天の城岳鼓金と云ふ所に陣を取り兵船数百艘を浮べて日本の兵船を待つ。
此時鎮信は小西行長に向ひ此の帰朝を遮る明兵を破る易々たり、速かに出勢せんと勧めけれども小西用いずして密かに立花等に
加勢を乞ふ。鎮信之を知り久信並に籠手田栄、鮎川民部入道等を呼び、我は文禄元年より七ヶ年の間此の國に在り、明兵の術にも
落ちず、堅を破り利を砕き味方を救ふと雖も武功明自ならず、されば行長に遺恨少からず。乍去今帰陣を遮る敵兵を必死の思ひをなし
切崩し、敵味方の耳目を驚かす程の勇戦をなし、秀吉公の泉下に報ぜん事を以てすと。此の時民部入道是を聞き命の如く数度の戦功
を尽くし給ふとも、行長耶蘇の徒なるにより常に不快に渡らせ給ふ故、今朝に及んで大敵遮ると雖も、何んぞ難き事あらんと粉骨を尽くす
べしと云ふ。斯くて鎮信は順天を発せず諸手に拘はらず敵船を乗取る。
十一月十八日数百艘の明船と戦ふ。鎮信采配を以て味方の船に下知し戦ひければ敵船堪へず引取り或は高波に挑み戦ふ中、敵の
大船一艘乗取り甲首三十六討取り、味方は大曲主水、山田四郎左衛門、中倉甲右衛門を頭として雑兵十三人討死。敵船の太鼓、鐘、
その他軍器を奪ふ。
・手勢平戸出陣の時は三千人、二た代りなりしが、或は病死、或は討死し、依て平戸に手当の人数又朝鮮出陣を望む者共渡海しければ
雑兵帰陣まで既に七千二百人に及ぶと雖も、三千人御軍配なれば表は其の意に応ず。
・文禄元年より慶長三年帰陣までの陣中日記、敵打取首級総数四千五百五十四人、負傷打死総数一千九十八人とあり。印山記は豊公
島津征伐の時道可公薩摩発及び鎮信公征韓の事を左の如く簡略に叙している。 」
上記『平戸藩史考』には、熊川や南原、全州、扶余、舒川、井邑に進出した様子がなぜか記載されていない。慶長の役は朝鮮半島の南部を
制圧することが目的とされ、南部のうち東側(慶尚道)を右軍、西側(全羅道)を左軍が担当することになり、小西軍はこの左軍の先鋒に任じ
られている。慶長2年(1597)8月、熊川から全羅道の南原へ進撃して南原城を陥落させた後、全州、忠清道の扶余、舒川へと進み、その後南下して
9月15日に全羅道の井邑に進出している。翌16日にこの井邑で左軍の諸将により軍議が開かれ、各諸将は半島南部沿岸に城を築いてその城を
拠点としてその地域を支配することが決定され、小西軍は全羅道の順天を拠点にすることになり、9月下旬に順天に入った。
この年の11月に宇喜田秀家や藤堂高虎によって順天の海に面した場所に日本式の城郭が突貫工事で築城され始め翌12月に完成すると、小西軍が
この順天城に入ってこの地域の防備に当たった。小西軍は慶長3年(1598)11月下旬から12月にかけて日本へ帰国するまで約1年間順天城に滞在し、
明・朝鮮連合軍と戦っている。
松浦鎮信が小西行長らと共に釜山を出航したのは11月26日である。鎮信は152名の朝鮮人を平戸に連れ帰っているが、その中に慶尚道の熊川
(コモカイ)の陶工も10名ほど含まれていた。その中の一人 巨関(こせき)という人に平戸の中野で窯を開かせている。中野の陶工たちは後に現在の
佐世保市の三川内に移り、三川内焼のルーツとなった。
参考文献 『長崎県郷土誌』 編集 長崎県史談会 昭和48年発行
『平戸藩史考』 平戸藩史考編纂會 昭和11年発行
『談林』第40号 岡村廣法著 「小麦様異聞」 佐世保史談会 平成11年発行
『談林』第36号 岡村廣法著 「 「西口文書」にみる平戸氏の一側面」 佐世保史談会 平成7年発行
『小西行長 - 資料で読む戦国史 -』 鳥津亮二著 平成22年発行
『小西行長伝』 木村紀八郎著 平成17年発行
『大系 朝鮮通信使』 第二巻 責任編集 辛基秀・仲尾宏 平成8年
根獅子にある小麦様のお墓の上の方にある道路付近から撮影 (H28.1.16)
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