4-1.韓国キリスト教小史


  (1)韓国キリスト教の黎明期

       
      文禄の役(1592~1593)時にキリシタン大名 小西行長の要請により日本軍キリシタン将兵の教化や慰問のため、イエズス会の二

     人の宣教師が朝鮮を訪問したが、キリスト教宣教師が朝鮮に足を踏み入れたのはこれが最初と思われる。

      スペイン人のグレゴリオ・デ・セスペデス神父と、日本人のファンカン・レオン修道士は1593年12月27日に朝鮮に上陸したが、そ
    
     の翌日、現在の慶尚南道昌原市の鎮海区にあった熊川(熊浦)城に到着した。セスペデス神父は朝鮮から日本へ送った書簡の中で、

     熊川城の様子を次のように報告している。


      「 この熊浦城は難攻不落を誇り、短期間に実に驚嘆すべき工事が施されています。巨大な城壁、塔、砦が見事に構築され、城の

       麓に、すべての高級の武士、アゴスチイノ [小西行長のこと] とその幕僚、ならびに連合軍の兵士らが陣取っています。彼らは皆、

       よく建てられた広い家屋に住んでおり、武将の家屋は石垣で囲まれております。」 (『完訳フロイス日本史5』 中公文庫 )
    
       
      セスペデス神父らは、この城の中でのみ宣教活動が許され、城から出ることは禁じられていた。したがって、朝鮮人に対する宣教

     活動は行うことができなかった。セスペデス神父らは1年間ここに滞在し、長崎に戻っている。なお、セスペデス神父は1587年(天正

     15年)に細川ガラシャに洗礼を施している。


      朝鮮国内で初めて朝鮮人に洗礼を授けたのは、正式な聖職者である宣教師ではなく、文禄の役に従軍していた日本の武士だった

     という。

      ルイス・フロイスは著書『日本史』で、1592年から1593年の間に豊後のあるキリシタンの武士が朝鮮の首都・漢城及びその周辺

     で約200人の子供に洗礼を授けたと述べている (『遥かなる高麗』59貢)。

      『遥かなる高麗』には次のように記載されている。

     「 この武士は、多数の高麗人の子供達が、戦火から逃げる時に両親から見棄てられ、あるいは捕虜とする価値が認められないほど

      幼いため日本兵からも遺棄されて、そのまま死んでゆくのを見て、激しく心を動かされ、死が近いと思われる未だ道理のわからない

      幼児を含め、すべての男女の子供達に、自分の手で洗礼を授けた。彼は槍持の供の者に、水の入っている水筒を常に腰に下げて

      行くように命じ、そのような子供を見付けると、天国に行けるように洗礼を授けた。この武士の供の者たちは、その時期に彼がおよ
  
      そ200人の子供に洗礼を授けた、と確信している。」

      『遥かなる高麗』の著者 ホアン・ガルシア・ルイズデメディナ氏は、「その子供たちこそ、高麗の地におけるカトリック教会の初穂であ

      り、正式に教会の一員と認められる人々である。」と述べている。

       一体、宣教師でない者が洗礼を授ける資格があるのかという疑問が生ずるが、ルイズデメディナ氏は注書きで次のように述べて

     いる。「200名の高麗人幼児に洗礼を授けた教会の代行者は、教会規則(カノン)により、また1588年にマカオ司教区から分かれ

     て創立された府内(大分)司教区の一定の階級の人々の手で、授洗の資格を与えられていた。その資格の授与者は、司教が不在の

     場合にはイエスス会の副管区長であった。世界の公教会と同じく日本の布教地区においても、宣教師でない者が(男女の区別なく)

     洗礼を授けることが出来た。事実これは司祭の数が不足している時には、しばしば行われていたことであり、常に教会によって承認さ

     れているし、また宣教師ではない代行者が、特に明白な承認を得ていない場合も認められていた。」(『遥かなる高麗』63貢)

      このように、洗礼を受けた子供たちには何のことか意味が全くわからなかったであろうが、200人もの子供たちがキリスト教の洗礼

     を受けたこと自体は韓国キリスト教史上、大きな意義があることは間違いないだろう。

 

      文禄慶長の役で日本に捕虜として連れて来られた朝鮮人は2、3万人に上ると言われているが、九州を中心にかなりの数の者が

     キリスト教に改宗している。五野井隆史著 『日本キリシタン史の研究』によると、宣教師が書いた「1595年度日本年報」によれば、

     島原半島の有馬の領内では捕虜となった朝鮮人が前年及び本年の2年間にわたって教理を聴き2000人がキリシタンになったとい

     う (216貢 吉川弘文館 2002年発行)。また、同書には続けて、『「1596年度日本年報」は、「本年はここ長崎にいる高麗の捕虜

     の男女子供多数を教え導きました。話によれば彼等は1300人を越え、その大多数は2年前に洗礼を受け、今年、告解をしました。

     確かな経験によって彼等は聖信仰を受け容れるに充分ふさわしい人びとであることが解っています。喜んで洗礼を受け、古くからの

     キリシタンに劣らぬ慰めを心に抱いて告解をします。大部分の者が僅かの間に容易に日本語を覚え、告解に通訳を必要とする者は

     ほとんどいません」と報』じている、と記載されている (同216貢)。



      これら日本でキリスト教徒となった朝鮮人の多くは1605年に日本にやって来た朝鮮使節に伴って祖国へ帰国している。その後も

     3回にわたって朝鮮から「回答兼刷還使」が来日し、使節一行と共に朝鮮へ帰国して行った者もいる。これらの人々が朝鮮でキリス

     ト教を信仰し続けたかどうかはわからない。信仰を守り続けて生を終えた者もいれば、途中で棄教した者もいたであろう。17世紀前

     半、当時はまだ朝鮮には宣教師は入国していなかったために、一般にはキリスト教は広まっていかなかった。ただ、両班をはじめと

     した知識階級の中にはキリスト教の書物に触れる者もいた。

      李睟光(イ・スグン 1563~1628)は1614年に 『芝峰類説』を執筆し、この中でイエズス会のイタリア人宣教師 マテオ・リッチ

     が執筆して、1603年に滞在先の北京で出版されたキリスト教教義書 『天主実義』を紹介している。但し、書籍として実際に出版

     されたのは彼の死後5年経った1633年だった。しかし、原稿自体は1614年に完成している。おそらく、1614年までに朝鮮から

     明国に派遣された使臣が明国でこの 『天主実義』を手に入れて、それが李睟光の手元に渡ったのではなかろうか。ともかく、キリ

     スト教に関する記述のある文献としては、この『芝峰類説』が朝鮮で初めてとされている。   

      また、1631年に鄭斗源が明国へ使臣として行った際に、万国地図や天文書、千里鏡といった西洋の文物とともにキリスト教の

     書籍を持ち帰っている。



      このように、朝鮮では明国や清国へ使臣として派遣された人々が北京で収集したり、贈り物としてもらった西洋の書籍の中にキ

     リス教の書籍も含まれており、それらを朝鮮へ持ち帰り、知識人たちにキリスト教が知られるようになった。

      朝鮮でキリスト教が宗教として受け入れられるようになったのは18世紀後半であるが、それ以前はキリスト教は「西学」と呼ば

     れていた。一つの学問として取り扱われていたのであり、宗教として広く信仰されるまでには至っていなかった。 



   (2)キリスト教書籍の学習会   

      18世紀後半になって、南人と呼ばれる党派の学者たちを中心にして、キリスト教の学習会が開かれるようになった。朝鮮では党

     派、すなわ派閥の争いが激しく、派閥の歴史を簡単に述べると、朝鮮王朝の建国(1392年)以来ずっと、勲旧派が政治や社会を動

     かしてきたが、第9代王の成宗(在位1469~1494)は、士林派を多く朝廷に登用した。これ以後、士林派中心に時代が動かされて

     いくのであるが、士林派は東人と西人に分裂し、さらに、東人は南人と北人、西人は老論と少論に分かれた。派閥の名称に東西

     南北が付けられたのは、その中心人物が住んでいた場所に因んでいる。

      南人派は第19第王 粛宗(在位1674~1720)の時代に、張禧嬪が廃妃にされた仁顕王后に代わって王妃となった1690年から

     張王后が禧嬪の位に落とされ、仁顕王后が復位した1694年までの4,5年間政権を担当したが、以後は、老論派と少論派が勢

     力を取り戻し政治を動かしていき、後に老論派が政権の中枢を占めるようになるのである。南人派が再び政権の中枢に登場する

     のは、第22代王 正祖(在位1776~1800)の時代である。



      1779年冬に、京畿道広州にある天眞菴でキリスト教書籍の学習会が開かれた。参加したのは権哲身・権日身兄弟、丁若銓・

     丁若鍾・丁若鏞の3兄弟、李蘗、李承薰ら南人派の若者たちであった。このうち、丁若鏞(チョン・ヤギョン 1762~1836)は正祖に

     文臣として仕え、水原に建設された華城の設計にも参加している。 学習会が開かれた広州の天眞菴はその後、韓国におけるカト

     リック教会の聖地となっている。彼ら南人派の学者、知識人たちはその後もキリスト教の学習会を開いて熱心に教義を学んでいく

     のであるがそれには理由があった。

      南人派は政権から長く疎外されている派閥であり、少数門閥(老論派)の執権によって生じた政治的・社会的な矛盾を克服する

     道をキリスト教に求めたのである。李基白著 『韓国史新論』(學生社刊 昭和54年)によると、弱い者を圧迫して個人利益に没頭

     する門閥や富農・巨商らによって醸成された矛盾に満ちた現実の中で、これに批判的な在野学者たちは、人間原罪説を主張する

     キリスト教(西学)に魅力を感じるようになり、この宗教を信仰することによって成就される天国の建設に希望をいだくにいたったの

     である(279貢)。



、 (3)キリスト教の伝播

      こうして、1783年(正祖7年)に南人の一人 李承薰(イ・スンフン 1756~1801)は、黄仁點を正使とする使臣一行が清国へ派

     遣される時、書状官として派遣される父に随行して行くことになった。出発直前、以前からキリスト教に関心が深かった南人の李

     蘗が李承薰を訪ね、キリスト教教理とその実践方法を詳しく調べて来ることと、キリスト教に関する書籍を持って帰ることを依頼し

     た。李承薰は1784年(正祖8年)、北京の北天主堂でフランス人司祭のグラモン (Louis de Grammont)神父から洗礼を受けた。

     文禄慶長の役で日本に連れて来られた朝鮮人が長崎など各地でキリスト教信者になったことを除けば、この李承薰はキリスト教

     徒として洗礼を受けた最初の朝鮮人であるとされている。李承薰は多くの教理書や聖書、十字架、聖像、ロザリオなどを朝鮮に持

     ち帰った。そして、1785年に漢城(現在のソウル)の明礼坊(現在の明洞)にある中人(朝鮮には両班・中人・良人・賤人の4つの

     身分階級があり、良人にはさらに、絶対多数を占める農業に従事する常民と、匠人及び商人がいた。)階級の訳官 金範禹の家

     を教会堂にして数十名が集まり礼拝を始めた。これが韓国カトリック教会の始まりである。

      『韓国文化史』(梨花女子大学校 韓国文化史編纂委員会編著 成甲書房 1982年) に次のように記載されている。

     「天主教は、このように外国聖職者の宣教活動がいまだに足掛かりのなかった条件下で、みずから教会を建て伝播され始めたと

     言う点が特徴的と言えよう。南人学者たちの役割によって、身分的な圧制の中から抜け出せなかった中人及び常民層と婦女子の

     間にまで広く伝播されたし、地域的にはソウルを中心に、京畿・忠清道に最も多く流布され、全羅道にまで波及されて行った。」

      そして、1795年(正祖19年)、清国から周文謨神父が入国して活躍するにつれてますます信者が増え、約4000人の信者を

     得るまでになった(李基白著 『韓国史新論』 279貢)。1800年までは1万余名の信者が得られたという(『韓国文化史』 202貢)

     一部門閥の両班が支配する社会や封建的な思想を持つ儒教に対し、自由平等・博愛主義を謳うキリスト教に多くの者が共鳴した

     のである。



  (4)迫害の歴史

    1)明礼坊事件

      一部門閥の両班が支配する社会や封建的な思想を持つ儒教に対し、自由平等・博愛主義を謳うキリスト教に多くの者が共鳴し

     ていったのであるが、これに政権の中枢を担う老論派の両班たちが危機感を抱かないはずがなかった。1785年(正祖9年)、政

     府はキリスト教を邪教と規定して禁教令を下すとともに、翌年には清国からキリスト教書籍を朝鮮国内に持ち込むことを禁止した。

      そうした状況下で権哲身・権日身兄弟、丁若銓・丁若鍾・丁若鏞の3兄弟、李蘗、李承薰らは漢城の明礼坊にある金範禹の家

     に集まってミサをあげたり、キリスト教教理の学習会をしていたのであるが、周囲の者からの告発で駆けつけた捕卒に逮捕されて

     しまった。この時はまだ伝統的な儒教の儀式に反する行動はまだ露見されておらず、金範禹以外の者は皆両班だったため許され

     たが、一人金範禹だけが中人だっため金範禹のみ罪人とされ、現在の慶尚南道密陽に流配された。そこで拷問を受けた傷が悪

     化して1787年、36歳の若さで死亡した。



   2)辛亥迫害

      辛亥迫害は1791年(正祖15年、辛亥年)に起きた朝鮮で最初のキリスト教迫害事件である。キリスト教が朝鮮半島に広まって

     いく間はさほど大きな問題は発生しなかったとされる。韓国版ウィキペディア『辛亥迫害』によると、1790年に北京教区長である

     グベア主教が朝鮮ローマカトリック教会に祭祀禁止令を下すや、全羅道珍山のキリスト教徒 尹持忠が母親の権氏の葬儀に際し

     て儒教式の祭祀を執り行わず、親族からの弔問も受けず、キリスト教の礼式に従って葬儀を行ったため、親族たちの怒りを買っ

     た。これが朝廷に伝えられるや、尹持忠と彼に同調した従兄弟の権尚然の二人は処刑に処せられた。



   3)辛酉迫害

      辛酉迫害は1801年(純祖1年、辛酉年)に起こったが、当時の政権内部の党派争いに巻き込まれた事件ということができる。

     22代王 正祖は祖父で先代王の英祖と同様、朝廷内部の党派争いを防ぐために蕩平策を採用し、当時長く政権を担当してきた

     老論派以外に、少論派や南人派からも人材を登用して派閥間の均衡を図るための政策を推進した。老論派は英祖による王世子

     (思悼世子 正祖の父)処刑をめぐって、僻派と時派に分裂した。僻派は王世子処刑を推進した立場であり、時派は王世子処刑を

     否定する立場で老論派の一部や少論派や南人派からなるグループである。正祖はこの時派を重用したが、中でも側近として知ら

     れるのは、洪国栄(ホン・クギョン 1748~1781)、蔡濟恭(チェ・ジェゴン 1720~1799 左議政・領議政を歴任)、丁若鏞である。

     彼らは長く政権から疎外されてきた南人派の人物であった。正祖の時代は政権の中枢にいた蔡濟恭がキリスト教を黙認する政策

     をとったため、大きなキリスト教弾圧は起こらなかった。

      ところが、正祖が没して、純祖(在位1800~1834)が10歳で即位すると、僻派の大王大后(英祖妃)が垂簾政治を始め、時派を

     政権から排除しようとして、時派の中の南人にキリスト教徒がたくさんいることから、キリスト教徒に迫害が加えられたのである。

     言い換えれば、キリスト教弾圧に名を借りた時派の粛清だったのである。こうして、1801年、朝鮮における最初の中国人宣教師 

     周文謨神父を始め、南人派の李承薰、李家煥、丁若鍾らが死刑となり、丁若銓・丁若鏞兄弟は流刑となった。この迫害で死刑と

     なったり、獄死したキリスト教徒の数は300名余りに及んでいる。この時、キリスト教徒の一人 黄嗣永が絹布に書いた手紙(帛

     書)をひそかに中国・北京にいる西洋人主教へ送ろうとしたことが発覚し、処刑された。帛書には、海軍を派遣して朝鮮政府を威

     脅し、信仰の自由を得られるように図ってほしいという要請が書かれていたが、こうしたキリスト教徒の反国家的な行為によって、

     キリスト教への弾圧はいっそう厳しくなったという(『韓国史新論』279~280貢)。


   4)己亥迫害  

      1,800年に正祖が没して英祖の妃だった貞純王后が大王大后として、幼い純祖に代わって始めた垂簾政治は1,803年12

     月に終わった。次に政権を掌握したのは、純祖の外戚である金祖淳(キム・ジョスン 1765~1832)である。正祖は生前、本来老

     論派だが時派に組し自分の側近として仕える金祖淳の娘を自分の息子の妃にしたいという意志を残していた。1802年に金祖淳

     の娘が純祖に嫁いで純元王后となり、金祖淳はまだ子供である純祖の摂政として、政治を行うようになった。そして、金祖淳は本

     貫(氏族集団の始祖の出身地)が安東で、一族が栄達して政権の中枢を占めるようになり、以後、安東・金氏が政治を独占するよ

     うになった。王の外戚勢力によって行われた政治であるので、韓国ではこれを勢道政治と呼んでいる。

      金祖淳は時派だったので、キリスト教に弾圧を加えることはなかった。このため、教勢が回復してキリスト教信者が増えていっ

     た。1831年9月にはローマ教皇グレゴリオ16世によって朝鮮教区が設定され、独立の教区となった。1836年にはフランスから

     パリ外国宣教会のモーバン神父が入国した。また、その翌年には同宣教会のシャスタン神父やアンベール神父も朝鮮に潜入し、

     布教活動はさらに強化された。

      こうして、教勢が拡大していくと、これに危機感を抱いたのは趙氏を中心とした朝廷である。1834年に純祖が没し、孫の憲宗が

     7歳で即位すると祖母の純元王后を中心とした安東・金氏が引き続いて政治を行ったが、次第に憲宗の母方である趙氏一族が勢

     力を強め、政治の実権を握った。趙氏は僻派であることから、キリスト教に迫害が加えられたのである。

      1839年(憲宗5年)にモーバン神父、シャスタン神父、アンベール神父の3人のフランス人宣教師を始めとした多数のキリスト教

     徒が投獄され、処刑された。「憲宗実録」によると、背教して釈放された者 48名、獄死した者 1名、死刑となった者 118名に

     上ったという (ネイバー百科事典)。この事件は1839年が己亥の年にあたるので、己亥迫害または己亥邪獄と呼ばれている。


   5)丙午迫害

      丙午迫害は韓国カトリック教会史上、朝鮮人として最初の司祭となった金大建(キム・デゴン 1821~1846)神父が1846年に処

     刑された事件である。

      金大建神父は1836年にパリ外国宣教会のモーバン神父から洗礼を受けるとともに、翌年にマカオへ行き、パリ外国宣教会が

     運営する神学校に入学した。1842年に卒業すると帰国を試みたが監視が厳しくて入国することができず中国国内に留まって神

     学の研究を続けた。1845年1月、単身で国境を越え漢城に潜入することに成功し、己亥迫害で萎縮していた教勢の拡張に全力

     を傾けたが、パリ外国宣教会に支援を要請するため、上海に戻った。同年8月、第3代朝鮮教区長のフェレオル司教から朝鮮人最

     初の司祭に叙せられた。朝鮮での布教を果たすため同年10月、金大建神父はフェレオル司教やダブリュイ神父を案内して朝鮮の

     忠清南道江景に潜入した。上京する途中、各地で信徒を激励するとともに伝道を行った。1846年6月に黄海道で宣教師入国の

     ための秘密ルートを開設しようとして付近を探査していたところ逮捕され、同年9月漢城で処刑された。

      梟首の刑を受けたが、死体を信徒が奪い取り、京畿道の安城郡陽城面美山里に葬られた。1925年ローマ教皇から殉教者とし

     て列福され、1984年4月に韓国を訪問したローマ教皇 ヨハネ・パウロ2世から聖人として列せられた。

      1960年7月に金大建神父の遺骨はソウル市の恵化洞にあるカトリック大学内の教会に移葬された。ソウル市の麻浦区にある

     切頭山天主教聖地には金大建神父の銅像が建てられている。   


   6)丙寅迫害

      丙寅迫害は第26代王 高宗の実父である興宣大院君(1820~1898)による大規模なキリスト教徒弾圧をいい、丙寅邪獄ともい

     う。この迫害によってフランス人宣教師12名中9名が処刑されたのを始め、数千人のキリスト教徒が処刑された。

      憲宗時代に僻派の趙氏政権によってキリスト教弾圧が行われたが、憲宗の次に王となった25代王の哲宗(在位 1849~1863)

     の治世下では政権を担当したのが時派の安東・金氏一族であったので迫害が緩み、大きな弾圧はなかった。多くの西洋人宣教師

     が朝鮮に入国して布教が強化されたので、信徒数も増え、1860年代初期には2万3千人のキリスト教徒を確保することができた

     という (『韓国文化史』(梨花女子大学校 韓国文化史編纂委員会編著 成甲書房 1982年)。

      興宣大院君は12歳で王位についた息子 高宗に代わって政治を行うようになり、各種の改革を断行するのであるが、キリスト教

     に対して執政当初は比較的寛大であったといわれる。

      ところが、1864年、65年と相次いでロシアが国境を侵犯して通商を要求してくると、国内ではロシアの南下政策を防ごうという

     世論が沸騰した。この時南鍾三らキリスト教徒数名が大院君に接近して、国内にいるフランス人宣教師を通じて「朝・仏同盟」ない

     し「朝・仏・英同盟」を結んでロシアの南下政策を阻止することを建議した。彼らはこれが成功すれば布教の自由を得ることができ

     ることを期待していた。こうして大院君もその気になり、フランス人宣教師と会ってみたいと南鍾三らに伝えたのであるが、地方で

     布教していたダブリィ神父とベルネ神父の上京が大幅に遅れて時機を失してしまった。もともとフランス人宣教師たちは政治に関

     心がなく、外交的に利用することができなかったのである。

      この間、ロシアの南下に恐れをなしていた朝廷は、その後ロシアからの通商要求も行われなくなり、次第に落ち着きを取り戻して

     きた。朝鮮の支配層はキリスト教は伝統的な儒教思想に反抗する邪教と規定し、国内でキリスト教が普及していくのに反発してい

     た。大院君の出世に積極的に支援を行った趙大妃(憲宗の母)もキリスト教が蔓延っていくのを非難し始めた。中国でキリスト教の
   
     弾圧が行われていることを知った大院君は自身の政治的基盤が危うくなることを恐れ、執政以来のキリスト教に対する黙認を止め
  
     て弾圧へと方針転換したのである。ますます激しくなっていく西洋列強のアジア侵略も、キリスト教弾圧の原因になったといわれてい

     る。

      こうして、大院君はキリスト教の大弾圧に踏み切った。この迫害は4回に亘って展開され、最初は1866年春に、2回目は1866年

     夏から秋に、3回目は1868年、4回目は1871年に迫害が行われ、合わせて8000名以上が処刑されたという (『韓国民族文化大

     百科事典』 韓国学中央研究院 )。3回目の迫害は戊辰史獄、4回目の迫害は辛未史獄とも呼ばれるが、大院君によって継続して

     行われたので丙寅迫害に含めるのが通例である。このため、丙寅迫害は丙寅年である1866年1年だけの迫害を指すのではなく、

     1871年までの6年間の迫害を指す用語である ( 『韓国民族文化大百科事典』 )。

      この迫害によってフランス人宣教師12名中9名が処刑された。3名は中国へ脱出している。このうちの一人、リデル神父はフラン

     ス公使に迫害の様子を報告した。これを受けて、フランス公使は朝鮮に軍艦を派遣し、宣教師殺害に抗議する一方、軍隊を朝鮮本

     土に上陸させて朝鮮軍と戦ったが、敗退し、中国へ退却している。この事件のあった1866年が丙寅年にあたるので、韓国ではこれ

     を丙寅洋擾と呼んでいる。 



  (5)キリスト教信仰の自由

    韓国ではいつキリスト教信仰が自由になったのであろうか。これについて、韓国の『ウィキ百科』の「韓国のローマカトリック教会」に記

  載されているものを以下に紹介する。
  
  
   ■ 信仰の自由が黙認される

      信仰の自由が黙認されたのは1882年である。この年、カトリック教会は人書堂(韓漢学校)を設立した。この学校には信者で

     ない一般の学生たちも在学していた。その後、カトリック教会はソウルと慶尚道に孤児院を建設して運営し始めた。(京畿道の)プオ

     ンゴルに神学校を建て、朝鮮人聖職者の養成に着手した。こうした一連のことは信仰の自由に対する朝廷の黙認なしにはほとんど

     不可能なことだった。こうして、韓国カトリック教会は初めて教会が建てられて100年後に信仰の自由が黙認された。

    
   ■ フランスとの信仰の自由論争

      少なからぬ人々はカトリック信仰の自由が与えられ始めた事件として、朝鮮政府とフランスが1886年に締結した《韓仏修好通商

     条約》を挙げている。フランス側ではこの条約文にカトリック朝鮮教区長 ブルラン司教の要請により信仰の自由許容に関する項目

     を挿入させようとした。しかし、朝鮮側の反対により、これを直接表現する代わりに、フランス人が朝鮮人を「教え導くことができる」

     (教誨)という条文を挿入させた。カトリック側ではこれを「伝教の自由」を保障したものだと拡大解釈した。もちろん、当時の朝鮮朝廷

     としてはこのような解釈に反対したが、ブルラン司教を始めとした朝鮮のカトリック教会とフランス側は、この文言が伝教の自由を認

     めたものだと主張し、彼等の解釈を受け入れさせた。一方、信仰の自由の中で重要な要素が伝教の自由であるため、今日の研究
   
     者の中の一部は韓仏条約が締結された1886年をカトリック教会が信仰の自由を得るようになった年だと解釈するようになった。


   ■ 赦免令と信仰の自由許容

      1895年、朝鮮の朝廷は1866年の丙寅迫害時に殉教した一部信徒たちに対する赦免令を発布した。赦免の対象になった信徒

     たちは少数に過ぎなかったが、この赦免令は信仰の自由を公認するための事前の措置と解釈された。また、この年にカトリック教
 
     朝鮮教区(現在のソウル大教区)第8代教区長であるフランス人のウィテル司教は朝鮮の国王 高宗と会った。この時、高宗は18

     66年の丙寅迫害に対して遺憾の意を表明し、ウィテル司教に親善を提議した。国王である高宗がカトリック教を認め、これまでの

     迫害に対して遺憾の意を表したという事実は信仰の自由を公認したことを意味した。そのため、ウィテル司教自身もその日の日記

     で朝鮮でカトリック教会への迫害が公式に幕を閉じたと記録した。こうした情勢の変化が法的に確認されたのは、1899年に調印

     された「教民条約」においてだった。この教民条約は朝鮮朝廷の官吏とウィテル司教の間で締結された。この条約を通じて朝鮮人

     カトリック信者たちにも信仰の自由が成文法で保障され、カトリック信者たちも一般人と同等の権利と義務があることが認められた。
     
      この「教民条約」は1904年に締結された「宣教条約」を通してますます補完された。この「宣教条約」によって宣教師たちは開港

     場以外の他の地域でも土地を買い入れて建物を建設することができる権利を保障された。
 



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