高麗媼 (こうらいばば)  =  中里嫛 (なかざと・えい)  1567~1672   



     高麗媼は、平戸領主の松浦鎮信によって朝鮮から平戸に連れて来られた陶工で、三川内焼の陶祖となった人物である。

    慶長3年(1598)豊臣秀吉の死によって慶長の役から日本へ撤退する時、小西行長軍の先鋒を勤めた松浦鎮信は朝鮮人

    152人を平戸に連れて帰って、城下に住まわせた。そこは高麗町と呼ばれるようになった。その朝鮮人の中に慶尚道の熊川

   (韓国ではウンチョンと発音する。当時の日本人はコモカイと呼んでいた。)から連れて来た陶工が10名ほどいて、巨関(コセキ)

    という人物は藩命により中野村で窯を開いている。この中野窯は現在の平戸市山中町紙漉(かみすき)に所在している。

      また、高麗媼という人物は平戸に連れて来られて数年後に唐津領南波多の椎ノ峰 (現在の佐賀県伊万里市南波多町) に

    住む中里茂右衛門に嫁いでいる。このため高麗媼は名前を中里嫛 (なかざと・えい)と名乗るようになった。椎ノ峰で夫と共に陶器

    作りに従事し、慶長18年(1613)に息子が一人生まれたが、夫がまもなく死んだので、その息子に茂右衛門の名を継がせて

    陶工として養成した。


     元和8年(1622)、高麗媼は9歳になった一人息子茂右衛門を連れて、三川内に移って長葉山に窯を開いた。三川内に移住

    したのは岸岳崩れで三川内に移住していた陶工を頼ったからだと言われている。その陶工というのは朝鮮人陶工なのか日本人

    陶工なのかわからない。朝鮮人陶工というのは、文禄慶長の役以前から日本にやって来て、唐津領の岸岳で陶器を焼いていた

    人たちである。岸岳崩れというのは、文禄の役で熊川に布陣していた北松浦半島を支配下に置く唐津の岸岳城城主 波多三河守

    親(ちかし)が軍律違反により文禄2年(1593)に豊臣秀吉から所領を没収されたため、岸岳の陶工たちが各地に離散したことを

    言う。この岸岳には波多親が朝鮮半島から招いた陶工たちもいたのである。その中には岸岳崩れで三川内に移住した者もいたの

    かもしれない。高麗媼が嫁いだ中里茂右衛門は岸岳崩れで椎ノ峰に移住していた者である。

     寛永6年(1629)、高麗媼は茶の湯で用いる灰色陶の茶碗を創製するとともに、寛永11年(1634)にはこれも茶の湯で用いる

     朱泥の水指を作り、本格的に茶陶の生産に取り組むようになった。当時、茶の湯の文化が庶民にも拡大したからだと考えられて

     いる。


      高麗媼が始めた長葉山窯は寛永14年(1637)に平戸藩の藩窯となっている。藩が経営する窯となったわけである。それだけ

     優れた焼き物を焼いていたことが推測される。製品は幕府や朝廷、諸大名へ献上されたり贈答されるようになったのである。
  
     ただし藩窯として最初の幕府献上品が製作されたのは万治2年(1659)年になってからである。この時は磁器皿300枚が献上

     されている。

       長葉山窯が藩窯となったのは、高麗媼と一緒に朝鮮の熊川から平戸に連れて来られた中野窯の開祖 巨関の長男である

      今村三之丞が寛永14年、藩主松浦隆信(宗陽)から長葉山藩窯(御用窯)の設立を命じられたからである。翌年の寛永15年

      (1638)に今村三之丞は「皿山棟梁代官」に任命され、高麗媼の息子中里茂右衛門は窯焼方に登用されている。藩窯となって

      陶器の製造から磁器の製造へと転換された。

       ここで陶器と磁器の違いはというと、一番の違いは原料の違いである。陶器は陶土と呼ばれる粘土が主な原料であるのに対し、

      磁器は陶石を粉砕した石粉が主な原料である。焼き方は陶器が低温であるのに対し、磁器は高温である。

      叩いた時の音は陶器は低い音であり、磁器は金属的な高い音である。陶器は吸水性があり、光は透さないが、磁器は吸水性

      はあまりなく、光を透す、といった違いがある。
 
    
      寛永15年(1638)には高麗媼に孫が生まれ、名前も祖父や父と同じ茂右衛門の名を継いでいる。

      慶安3年(1650)、平戸の中野窯の陶工たちが三川内地区へ移転させられている。

      寛文4年(1664)、高麗媼は幕府献上の功績により、藩主の江戸出府に際し同行を打診されるも高齢を理由に辞退している。

      寛文12年(1672)に高麗媼はこの世を去ったが、年齢は106歳だったという。高麗媼の子孫たちは、天保3年(1832)頃に

      釜山(かまやま) 神社を建てて高麗媼を祭神とし、陶祖として祀っている。



        
                                           釜山神社



                         
                                釜山神社の説明板




        

         
     釜山神社内の碑石(右上の写真)に、「釜山神祠記」という碑文が書かれている。明治16年に書かれたもので、高麗媼のことが

   次のように記載されている。


          「媼本韓人、文禄之役随而東至唐津、嫁中里茂右衛門者生男、寡居、後来此地始開陶窯、

           其法伝自高麗、故世称曰高麗媼、年一百又六、以寛文十二年没」


    寛文12年(1672)に没した時の年齢が106歳ということは、誕生年は1567年ということになる。 

   また、本文に「文禄之役」とあるが、「慶長之役」の間違いと思われる。但し、松浦鎮信が文禄の役で熊川に布陣中に、熊川の

   陶工団を平戸へ送らせた可能性も否定できないと思われる。

    


                 
               高麗媼の墓                 子孫によって新しく建てられた高麗媼の墓石



     高麗媼の子孫は中里家ばかりでなく、横石家、里見家、古川家に分家し、現在までこれらの窯元で三川内焼が作陶されて

    いる。




      
       参考文献

          『三河内焼覚書』   渡邊庫輔著  昭和33年

          『三川内窯業史』   久村貞男著  平成26年

          『肥前平戸焼読本』  野田敏雄著  平成元年

          『三川内青華の世界』  佐世保市教育委員会  平成8年

          『平戸焼恋情』  松浦尚美著  平成27年

          『平戸市史』自然・考古編  平戸市史編さん委員会  平成7年



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