2.オタ・ジュリア (おたあ・ジュリア) 오타 주리아
1)「Ota」は姓か名か
オタ・ジュリアは文禄の役(1592~93)の際に日本軍が朝鮮半島から連れて来た朝鮮出身のキリシタンである。
生没年や実名、出身地などは不明である。この戦争で多くの子供たちが孤児となり、日本軍によって、日本に連れて来られた孤児が
多数いたと思われる。そのうちの一人がオタ・ジュリアで、1593年にキリシタン大名の小西行長が朝鮮から連れて来て、小西家で
育てられ、洗礼を受けた。洗礼名はジュリアである。名は一般的に「おたあ」と表記されている。日本で付けられた名前だそうである。
何故、実名が伝わっていないのであろうか。自分の苗字もわからないくらい幼かったのであろうか。この「おたあ」という名前にはど
うも違和感が感じられる。普通、日本人には「おたあ」という名はいないとまでは言い切れないが、極めて珍しい名で、特殊な名前の
ように感じられる。聞きなれない名前であることは間違いない。何かいわくのある名前のように思われる。
イエズス会年報で宣教師たちはおたあを「Ota Julia」と呼んでいるそうである(片岡弥吉著『日本キリシタン殉教死』 智書房 2010年
発行)。ホアン・ガルシア・ルイズデメディナ氏は著書『遥かなる高麗』で「大田ジュリア」と書いてあり、「Ota」は「大田」で、つまり名では
なく、姓と考えておられる。『遥かなる高麗に収録されている宣教師たちが書いた書簡には「ショーサク・トマス」、「クザエモン・シスト」、
「パブロ・シンスケ」、「キサク・ジョアン」、「ミゲル・トーゾー」、「コスメ・ソーザブロー」、「アリゾー・ペドロ」、「ジンクロー・ペドロ」といった
名前の入ったキリシタンが多い。しかし、「板倉ロレンソ」、「明石ジェモン」、「明石マルタ」、「林マリナ」、「内藤ジュリア」、「赤星ジョルジ」
というように、苗字の入ったキリシタン名も記載されているのである。したがって、「Ota Julia」は「大田ジュリア」である可能性も十分考え
られる。レオン・パジェス著 『日本切支丹宗門史』中巻 (岩波文庫 1938年発行)の訳者 吉田小五郎は 「ジュリア・オタ」 と表記し、
オタに「太田」とルビを付けている。「Ota」は姓か名かはっきりわかっていない以上、「おたあジュリア」と表記せずに、吉田小五郎が訳
したように「ジュリア・オタ」あるいは「オタ・ジュリア」と表記するのが無難ではなかろうか。そこで、私は「オタ・ジュリア」と表記して話を進
めることにする。
2)オタ・ジュリアの略歴
ところで、オタ・ジュリアに洗礼を授けた神父は、小西行長の領地である肥後国天草郡の志岐(現在の熊本県天草郡苓北町志岐)の
イエズス会修道院長 ペドロ・モレホン神父であり、上記 『遥かなる高麗』 では1596年の5月下旬に、熊本の宇土でモレホン神父に
よって受洗する、と記載されている。
このオタ・ジュリアは、関ヶ原の戦いで小西行長が斬首された後、徳川家康に引き取られ、駿府城の大奥で家康の侍女となる。家康
から愛され、側室になるよう言われるのであるが、オタ・ジュリアは拒絶し、キリシタンとしてキリスト教信仰を厚くしていった。夜、自室で
聖書を熱心に読み、他の侍女にもキリスト教を教え導いたと言われている。キリスト教を捨てるよう家康から要求されても信仰を捨てな
かった。また度重なる家康の側室への要請にも拒み続けた。このあたり、倭国で長年人質にされていた新羅の王子を故国へ逃がした
朴堤上が倭国の王から家臣になるよう再三迫られても拒み続けて、ついには処刑されたのに似ている。
結局、1612年(慶長17年)に禁教令が出されると、オタ・ジュリアは伊豆大島に流され、その1ヶ月後、新島に移され、そして最後に
神津島(こうづしま)に流されている。伊豆諸島に属するこれらの島は現在いずれも東京都に属している。
その後のオタ・ジュリアの足跡であるが、1619年に長崎に滞在していたことが宣教師の書簡でわかっている。いつまで長崎に滞在し
たかは不明であるが、1622年2月15日付けのフランシスコ・パシェコ神父の書簡には現在大阪にいると記載されている。その後のオタ・
ジュリアについての書簡は今のところ見つかっていないので、その後の足跡は不明である。
3)長崎のサン・ロレンソ教会
オタ・ジュリアがいつ長崎に来て、いつ長崎を離れたかは不明であるが、文禄・慶長の役によって日本に連行されてきた朝鮮人が多数
長崎でキリスト教の信者となっており、1610年に彼らはサン・ロレンソ教会を建てている。2010年(平成22年)にサン・ロレンソ教会
建立400周年記念のミサが長崎市のカトリック教会の一つである中町教会で日韓の信者たちが参加して開催されたが、同年8月11日
付けの毎日新聞記事によると、同教会は当時「高麗町」と呼ばれた場所に建てられたそうで、現在の伊勢町周辺と推定されているとの
ことである。もし、伊勢町にあったのであれば、伊勢宮がある場所に建てられたのではなかろうか。幕府によるキリスト教弾圧でキリスト
教教会が破壊された跡に多くの仏教寺院が建てられているので、伊勢宮も教会の跡地に建てられたのではなかろうか。このように考え
て、長崎県立長崎図書館で調べたところ、既に、伊勢町にサン・ロレンソ教会が建てられたとする文献のあることがわかった。即ち、昭和
56年(1981)3月に長崎市役所が発行した『長崎市史年表』がそれで、次のように記載されている。
「 1610(慶長15)
長崎移住の朝鮮人ら、新高麗町(現伊勢町)にサン・ロレンソ教会を建てる。
※ 朝鮮の役後長崎に連れてこられた多数の朝鮮人は、当時郊外地であった榎津町のはずれ(現万屋町)に住んでいた。やがて、
この付近を含めて浜町の海岸と、中島川筋が発展するにつれて、新高麗町へ集団移住したものと考える。彼等の大部分は、
キリシタンになったという。教会は伊勢宮のあるところに建てられたと思われる。 」
さらに、昭和4年、長崎市発行(昭和56年復刻版)の『長崎市史 地誌篇 神社教育部 上巻』に伊勢宮神社についての記載があり、
沿革が次のように述べられている。
「 沿革 伊勢町が未だ新高麗町と呼ばれて居た頃より町内に伊勢内宮天照皇太神を奉祀したる一宇の小殿 或は云ふ石祠なりと
が在ったが、元亀天正時代吉利支丹の教徒等が蔓(はびこ)りて神社を脅し犯せしより忽(たちま)ちに破壊し盡されて有るか無きか
の状態に陥り斯くて年を経た。
其の後禁教令厳重となり、寛永に入りては吉利支丹宗漸く此の地に影を歿して神社仏閣の創立相踵いた、同五年(1628年)、
新高麗町民は官に請ふて既に廃絶せる神社を再興し肥前唐津出身の天台宗修験南岳院存祐なる者を推して神主たらしめた。 」
新高麗町から伊勢町へ町名が変更されたのは延宝8年(1680)である。伊勢宮付近を流れる中島川には高麗橋が架かっているが、
1982年の長崎大水害に伴う河川改修工事のため、西山ダム河川公園に移築されており、現在架かっている橋は新しく架けられたもの
である。高麗橋は1652年に長崎に住んでいた中国人が架けたものであるが、1652年当時から「高麗橋」という名称だったのであろうか。
ウィキペディア『中島川』によると、中島川に架かる石造アーチは、江戸時代は上流の阿弥陀橋から下流の銕橋(くろがねばし)までを
それぞれ第一橋から第十五橋と番号順に呼んでいたが、正式な名称は定められておらず、現在の橋名の多くは明治15年(1882)頃に
当時の長崎区議長で漢学者の西道仙が選定したといわれているそうである。高麗橋もこの時西道仙によって名づけられたそうである。
伊勢宮 高麗橋
ともかく、サン・ロレンソ教会は朝鮮人が建てた教会であるので、朝鮮人が多数住んでいた新高麗町に建てられた可能性は高い。
しかも、『長崎市史 地誌篇 神社教育部 上巻』の記述を見れば、伊勢宮の地に建てられたように思われる。『長崎市史年表』にもその
ように記述されている。(越中哲也氏が執筆)
しかし、キリシタン研究家の片岡弥吉(1908-1980)氏は、著書『長崎のキリシタン』(聖母文庫 1991年)の中で、サン・ロレンソ教会は
西坂の近くにあったと述べている。その根拠は同書に説明がないのであるが、純心女子短期大学(現 長崎純心大学)が1986年に
発行した『プチジャン司教書簡集』の中で、同氏は西坂公園が二十六聖人殉教の地である論拠として、ルイス・フロイスの書簡とともに、
ペドロ・マルチネス司教が書いた書簡から二十六聖人殉教の場所について、次の文章を紹介している。
「刑は長崎から見ゆるサン・ロレンソの教会に近い、高い丘で執行された」
ペドロ・マルチネス司教がいつの時点でこの書簡を書いたかは筆者にはわからないが、二十六聖人の殉教は1597年2月5日である。
サン・ロレンソ教会は1597年には既に存在していたのかもしれない。
片岡弥吉氏は『プチジャン司教書簡集』の中で、「1603年には既にサン・ロレンソの教会があり、1610年それは朝鮮人の為の教会と
なったことが知られている」と述べている。1610年にサン・ロレンソ教会が新たに建設されたのではなく、既にあった建物が朝鮮人の
為の教会となったと片岡氏は述べている。サン・ロレンソ教会は西坂の丘の近くにあったと当時の宣教師が述べている以上、それは
間違いないだろう。すると、新高麗町にサン・ロレンソ教会は建設されなかったのであろうか。
『日本切支丹宗門史』上巻の第5章(1603年)に次の文章が掲載されている。
「 全市挙ってキリシタンであり、日に日に隆盛に赴きつつあった長崎には、イエズス会員は、僅かに33人しかいなかった。この神父
達の天主堂の他に、市内に3つの天主堂があった。 (中略)
学林に附属して、3人の司祭と3人の修士のいる3つの伝道所があった。12の新しい天主堂が其附近に建てられていた。長崎
から6マイル隔った所に聖ロレンソの伝道所があり、其世話は神から病気を医す特権を与えられていたアントニオという老キリシタ
ンに委されていた。 」
この書物では天主堂と伝道所が区別されており、1603年にサン・ロレンソと呼ばれる建物は天主堂(教会)ではなく、伝道所であった
ということである。そうすると、片岡弥吉氏の記述によると、この伝道所が1610年に朝鮮人の為の伝道所となったということになる。
これに対して、日本キリシタン史が専門の五野井隆史東大名誉教授は、「長崎に残った朝鮮人キリシタンは自らの信心会(コンフラリア)
を組織し、1610年についに長崎の町外れに土地を購入して小教会を建てた。スペイン人のサン・ロレンソに捧げて聖ロレンソ教会と
称した。」と述べている(『日本キリシタン史の研究』217貢 2002年 吉川弘文館)。
五野井氏は「長崎の町外れ」を具体的にどこと考えておられるか知りたいところである。いずれにせよ、五野井氏は新たに教会の建物を
建設したと述べ、片岡氏の説と食い違っている。元の文献資料名を知りたいところである。要するに、西坂の丘の近くにサン・ロレンソという
名の付く伝道所があり、それとは別個に、朝鮮人が新高麗町に同じ名称を付けた教会を建設したとみるしかないのではなかろうか。
朝鮮人たちは自分たちの居住地域に教会を建てたと考えるのが自然であり、わざわざ居住地域から離れた場所(西坂周辺)に自分たちの
教会を建てる必要はないと思われる。それとも、朝鮮人の居住地域というのが西坂周辺だったのだろうか。現在の伊勢町が江戸時代初期
までには新高麗町と呼ばれていた以上、名前からして、朝鮮人たちはこの新高麗町に住んでいたと考えるのが自然と思われる。
そうすると、自分たちの住む町に教会を建てたと考えてよいと思われる。
4)長崎のオタ・ジュリア
いずれにせよ、長崎にやって来たオタ・ジュリアがこのサン・ロレンソ教会を訪れたことは想像に難くない。この教会は長崎奉行所に
よって1620年2月12日に破壊されている。
オタ・ジュリアは多くの朝鮮人が住んでいた新高麗町に行って、懐かしい故国の人たちと会い、朝鮮に住んでいた頃の話や日本での
境遇について語り合ったのではないだろうか。
オタ・ジュリアが長崎に来た理由であるが、文禄慶長の役で連れて来られた朝鮮人がいるところなら、九州各地にも多数いただろう
が、オタ・ジュリアはキリシタンであるのでキリスト教が盛んな長崎にやって来たのであろう。1614年当時の長崎は人口は2万5千人と
いわれるが、そのほとんどがキリシタンであったという 『旅する長崎学1.』(長崎文献社 2006年)。
当時の長崎にはキリスト教の隣人愛を実践するため、慈善・福祉事業を行う組織があって、病院や養老院、育児院、墓地などが経営
されていた。特に女性の活動が盛んで、病人や孤児、貧しい人々などを救済するための奉仕活動が展開されていた。信仰心の厚い
オタ・ジュリアが長崎にやって来たのも、大阪かどこかで宣教師から長崎の女性たちの活動の話を聞いて自分も参加したいと思ったから
ではなかろうか。朝鮮人が建てた教会があることも聞いたであろう。
1620年3月25日にフライ・ホセ・デ・サン・ハシント・サルバネス神父が長崎で書いた書簡に、次のとおり、1919年9月に長崎にいた
オタ・ジュリアの様子が記録されている。
「 このころ、数人のベアタ [信仰深い婦人] が、奉行の前に連れて来られました。それは彼女等が女の子を集めて教理を説いたり、
連祷を唱えさせたりしたからです。奉行は彼女等に会って、今後それをしないように命じました。
彼女等の1人、高麗生まれのジュリアは、ロサリオ [の祈り] の大好きな人で、その Santa Cofradia のために常によく働いていた
ので、何回か自分の家から追い出され、今は家もなく、神の慈悲の御摂理に依りすがりながら、家から家へと移り歩いています。 」
( 『遙かなる高麗』 270貢)
ここで、奉行とは第4代目長崎奉行の長谷川藤正のことで、在任期間は1614年から1626年である。長崎の多くの教会を取り壊し
たり、キリシタンの遺骨を掘り出して、市外の墓地へ移したり、また、1622年(元和8)には「元和の大殉教」と言われる大弾圧を行って
いる。
幕府の禁教令下、信仰を持ち続けることはたいへん困難だっただろうが、時の最高実力者 徳川家康の棄教命令にも従わず、遠島
になったくらいだから、オタ・ジュリアが棄教するわけがなく、殉教するか、潜伏キリシタンとして信仰を持ち続けて世を去ったのではなか
ろうか。
5)「Ota」の意味考察
筆者は1)で、Otaは何かいわくのある名前のように思われる、と書いた。何か意味がある言葉だろうと思い、「おたあ」をインターネット
の「辞書」で検索してみると、「おたあーさま」ということばがあり、漢字で「御母様」と書くそうである。母を敬っていう語で、宮中・宮家・公家
などで用いる、と書かれている (大辞泉、日本国語大辞典)。ジュリアは多くの者からお母様という意味の「おたあ様」と呼ばれていたので
はなかったろうか。それを宣教師が聞いて、宣教師もジュリアを「Ota」と呼び、書簡にも彼女のことを「 Ota julia」と書いたのではなかろう
か。日本人が敬意を込めて「おたあ様」と呼んでいるのを聞いて、「おたあ」が名前だと勘違いしたのかもしれない。ジュリアのことを書いた
宣教師の書簡からも、ジュリアが「御母様」と呼ばれるにふさわしい行いをしていることが充分読み取れるのである。
6)オタ・ジュリアについて書かれた書簡
『遥かなる高麗』から、オタ・ジュリアについて書かれた書簡を紹介する。
1)1606年3月10日付け ジョアン・ロドリゲス・ジラン発信 [長崎]
「 宮殿で公方に仕える女性の中に何名かのキリシタンがいます。その中の1人は高麗人で、[かつて] アグスチノ摂津守殿 [小西行長]
の妻に仕え [たこともあり]、きわめて信心深い生活をしています。時にはその信心ゆえの振舞いを抑制する必要があるほどで、その
信仰生活は、俗世を離れて世間の煩わしさや慣習に束縛されていない大勢 [の修道女] に劣らないほどです。
この徳の高い婦人は宮殿における職務のため、また公方とその妻妾のようにわれらの信仰に反対している異教徒の中にいるために、
霊的な書籍を読んだり信心の祈りを捧げることが昼間は出来ないので、夜の多くの時間をそのために費します。それで誰にも見られ
ることがないように、また誰もそこに来ることがないように、巧みな方法で、隠れた場所に小さい祈祷所を造っています。
[彼女は] 他に方法がないので、知人の女性を訪ねるという口実で、たびたび許可を得て宮殿を出て、[知人を] 実際に訪問し、[その
機会を利用して] 告解をし聖体を拝領します。それを、深い感動と信心を以って行うので、見る人の心に大きな慰めを与えます。
信仰を維持すると同時に仲間のキリシタン女性を励ますのも彼女であり、そのために生ずる苦労を強く堅固な精神で堪え忍んでいま
す。そして異教徒の女性の心を和らげる機会を見逃しません。彼女たちを説得してもキリシタンにすることが出来ないと、少なくとも私た
ちの信仰を嫌ったり、悪口を言わせないように努力します。また、たびたび私たちに関係ある問題やキリシタンの幸せのために必要と
思われることについて、有益な注意を与えてくれます。なぜなら宮殿の中にいるので、そこで起こることをことごとく知っているからです。
しかし彼女の徳の最も感嘆すべきことは、未だ若くて人生の花の時代であり、殊に容姿が秀れているにもかかわらず、棘の中のばら
のように、きわめて多い誘惑の機会にも、霊魂を汚すよりは死を選ぶという決意を抱いていることです。 」
2)1607年2月、アロンソ・ムニョス発信 [大阪]
「 ついでにここで、キリシタンが迫害されたという噂が広まった時、皇帝の宮廷のひとりの貴婦人が江戸でどのような行いをしたかを、
省いてはいけないと思います。
この婦人の名前はジュリアです。信心深く、慈善事業で模範的なキリシタン信徒であり、相当な寄付をもって私たちを助けて下さる
のみならず、他の多数の貧しいキリシタンにも衣類や食物を施していますし、度々教会へ通って熱心に秘蹟を授かります。
迫害のことを知ると、教会に来て許しの秘蹟を受け、聖体を拝領しました。そして遺言集を作り数多の物事を片付けて、銀や米や
その他の品々を貧しいキリシタンに配り、「キリシタンであることを、先頭になって表明しなければならない者は私である」と言いました。
皇帝が他の貴婦人を随意に呼びつけ、彼女等を乱用するので、ジュリアも皇帝の妾ではなかろうかとの畏れがあり、時機が至るまで、
聖体拝領を許されませんでした。それでこの度彼女は、もし皇帝が他の婦人たちを呼びつけるように自分をその居室へ呼んだとしても、
[自分は] それを拒むと言いました。また、それで効果がなかったとしたら、切り刻まれても承諾するまいと言いました。
彼女はこの機会に特に注意深くし、起こった出来事をことごとく江戸の教会に書き知らせ、「今はこうすべきである」とか、あるいは「そ
うする、こうするものではない」とか、「非常に重要であるから、今こそこの殿、あの殿を訪問するがよい」という指示を与えて来ました。
この貴婦人は、宮廷の中で絶えずキリスト教的な信心の暮らしを遂行しています。
それで、教会が [同宿] を必要としていると聞いた時、自分の養子にしていた12歳の少年ともう1人の12歳の少年を同宿として教会
に奉献しました。この少年の兄は、われらのエルマノ・レオンですが、われらの大坂教会がその家にありました。とても可愛らしく、天性
の美貌に恵まれています。その名はアグスチノです。別の兄弟と共に肥後の独裁者・Casindono の宮殿に装飾画を描きに行きました。」
※ 『遥かなる高麗』 の著者によって、「独裁者・Casindono」とは、加藤清正のことと注書きされている。
3)1609年3月14日付け ジョアン・ロドリゲス・ジラン発信 [長崎]
「 [駿府の城内で] ジュリアは城中に仕えている他の女性と共に告解をしたり、ショーザブロー殿の甥ショーキチ殿の家で、彼女たち
および伏見の他の女性だけのためにミサを捧げたりし、そこでおよそ13人の女性が聖体を拝領しました。彼女たちが城内でいかに
立派な行いをしているか、キリシタンではない女性や公方の主な妻妾たちにいかに多くの教化を与えているか、ということを見ると神に
感謝せざるを得ません。彼女たちはその妻妾のそばに仕えているのです。
彼女たちが改宗させた城内の一女性にエルマノが説教をして、私が洗礼を授けました。ジュリアは今は前より地位がよくなって、公方
[家康] に直接仕えています。現世の如何なる特権よりも、救いの道に励む自由を希望しているので、城を出てキリシタンの間で暮す
ことを思って、病気になることを望んでいます。
この善良な女性は火災の時に、辛うじて生命は助かりましたが、所持品はことごとく焼かれました。しかし公方や妻妾たちが殆ど裸で
逃げ出すほどの猛火の中で、彼女とキリシタンであるその侍女1人は、焔が彼女の住んでいる所で激しくなり始めた時に、聖像を失う
ことは他の何物を失うより大きな損失であると考え、あらん限りの力をつくしてこれを救い出しました。 」
4)1614年 セバスティアン・ビスカイノ発信 [メキシコ]
「 これをもって、われわれが [1611年7月6日、駿府の] 宿所へ戻ると、そこに1人の召使、というよりは前記の将軍の城内の侍女と
いうべき女性がいました。これはジュリアというキリスト教信者で、使節を訪ねミサに列するために来たのです。彼女に愛玩用の品を
いくつか贈ると、彼女は聖像やロザリオおよび信心の品々に最も注意を向けました。彼女は善良なキリスト教信者である、と言われて
いましたが、実際にそのように見えました[・・・]。
眠ることのない悪魔はキリシタンの上に挙げられた成果および信者の増加を見て、将軍の秘書・本田正純の重臣で岡本大八という
キリスト教信者の理性を盲目にしました[・・・]。彼の悪事が発覚するに至り、将軍は激しく怒って彼の処刑を命じました。拷問の際、
彼はキリスト教徒であることを自白し、悪魔は彼の妻や他の家臣がキリシタンであることをも発覚させたので、全員ことごとく迫害を受け
ました。
[将軍は] 彼らに、信仰および神の教えを棄てよ、棄てなければ俸禄や財産を没収してその職から追放する、と言って脅迫しました。
大多数の者は心が堅固で、すべて奪われることを受け容れ、彼らに加えられた処分のほかに、自ら頭髪を剃って宮廷を去りました。
前記のジュリアはとくに秀れていて、将軍は彼女に好意をよせていた、と言われていましたが、キリシタンであることを知って彼女を
城中から追放し、大島という離島へ送りました。神にかほど忠実で信仰の堅いこの立派な婦人は、信仰を棄てたり、数多の恩恵を与え
られて将軍の意に従うよりも、侮辱を受け城から追放されて頭髪を切る方が幸せである、と思いました。 」
5)1613年1月12日付け マテオ・デ・コウロス発信 [ 長崎 ]
「 公方の命令で、14名の武士とその家来に追放と財産没収の刑が宣告された後、城内の御殿女中に対しても同じ調査を始めたところ、
そのうち何名かがキリシタンでありました。その主要な者はジュリア、ルシア、クララで、その他の地位の低い女たちはあまり問題にされ
ませんでした。
将軍はこの3人を棄教させるように命じました。直ちに、[役人は] 彼女らの心を脅かすために、牢獄のような一部屋に閉じ込めました。
公方の主要な側室3人が他の大勢の女を連れて来て、彼女らに激しい闘いを挑み、将軍のキリシタンに対する憎悪と怒り、および命令
に従わない場合には酷しい罰を加えることを述べました。
ジュリアたちが声を合わせて、キリストの信仰を棄てるよりは如何なる苦しみをも受ける覚悟である、と勇敢に答えたので、態度を決し
て変えようとしない彼女らの堅い心を見てとり、すべてを公方に報告しました。公方は甚だ遺憾に思って、激しく怒りました。
3人のうちの最も重要な女性は高麗の若い娘ジュリアで、稀な思慮・分別のある人物として将軍からは重んじられ、家中の人々からは
尊敬されていました。それだけに将軍は激怒して、ルシアとクララが心をひるがえさせないのは構わないが、ジュリアがわが命令に服従
しようとせず、思慮のない恩知らずであることを示したのは耐え難いことだ、また予より受けた数多の有難い恩恵、高麗の戦いで捕虜に
なった憐れな外国人の女が日本の天下の主の宮廷の侍女にまでなり、予の最も信頼する貴婦人の1人として、何処へ行くときも予の身
近に同伴していたことを思い出すべきである、このような大忘恩と頑迷さは如何なる場合であっても処罰に値する、と言いました。また、
2人の伴侶には、彼女らを苦しめず、以前の特権をそのままにするから、何としてもジュリアにキリスト教を棄てさせよ、と命じました。
城中の身分の高い女性の中の何名かが、これを聞くとジュリアの所へ行って数多の話をした上に、あれほど大きい恩恵を数多く受け
たのだから、公方の意志には従わざるを得ない、と言いました。それに対してジュリアは思慮深く穏やかに、将軍から数多の恩恵を受け
たことは決して否定しないし、それに対してし常にふさわしい御恩返しをしようと希望している。しかし私に生命を下さった神にはさらに
大きい義務を負うている。神は比類のないお恵みを与えて、無信仰の高麗に生まれた私をそこから引き出し、摂津守 [ 小西 ] アグス
チノ殿の手によって私を日本へ連れて来て、この地で救いの唯一の道である神の信仰を教えて下さった。それだから地上の将軍を喜ば
せるために天の神を裏切ることは出来ない、と答えました。
女性たちは、ジュリアが心の中では信仰を抱いていても表面だけは棄教する、と言えばそれで納得する、と説得しましたが、彼女は堅
固な心を変えずに、それは出来ないしすべきでもない、と答えました。皆は彼女に対して激しい憤りを感じたので、生まれが賎しく教養の
ない粗野で野蛮な外国人女、と言って罵りました。彼女は静かに耐え忍んで、それを聞いていました。
その異教徒の女性たちは彼女を説得できないことを知ると怒り狂って、彼女を殺させることに決め、彼女がたびたび隠れて城中から
出て行ったことは、ふしだらな生活の証拠である、と言って彼女を讒訴しました。
公方はこれを聞いて事実を調べさせたのですが、私たちの教会で告解をし聖体を拝領しミサに列したこと以外には何も発見できませ
んでした。人々はみな彼女の同輩たちの憎悪がこのように大きな中傷を惹き起こしたことを理解しました。それはジュリアが徳の高い
女性で、城中でもそのような評判を受けており、その模範に異教徒さえも驚いていることが分かったからです。
彼女は貧しい人々に対しては情深く、また、教理を聞かせる為に身分の高い人々を熱心に教会へ連れて来ました。結局、戒律を守る
ばかりではなく、愛の行いにおいても自分を磨こうと努力していたのです。
公方は、[ジュリアの] 同輩たちの要求している死罪の理由となる落度が、彼女の生活の中には全く見出せないので、昨年[1612年]
4月20日に、彼女を町 [ 駿府 ] の奉行に引き渡すように命じ、駿府の東にある伊豆の大島へ追放させました。 」
- 以下の文は省略する。 -
6)1615年 ベルナルディノ・デ・アビラ・ヒロン発信 [長崎]
「 キリシタンであるために追放されたあの勇敢なジュリアについてほんの一言述べよう。今にも死にそうなほど貧困な少数の漁夫が住む、
あの不毛で惨めな島に、未だ彼女は住んでいる。優美でありながらしかも健気で、華やかさに事欠かぬ日本国王の宮殿に、権威をそえ
るほど凛々しかった彼女を、彼らはあのような場所に追いやったのである。
これから向かおうとする不毛の地には、王宮で使っていた華やかな着物は不必要だと考えて、[彼女は] 乗船する前に、互いによく
知っている貧者たちにそれを分け与えた。ただ1人の侍女を連れて行ったが、この侍女はたまたま身ごもっていて、島に着いてから子を
生んだ。島でジュリアには他に召使いはいなかった。そこで無為に過ごさぬために、まず慈愛の心から、[彼女は]生まれた子を育てる
のを助け、[同行した] 下女には薪をとりに山に行かせた。
山は遠く、女主人とともに育てられたため彼女も華奢だったから、夜までかかってやっと僅かの薪を背負って帰って来るのだった。
ジュリアは2人のために水を汲みに行かなければならなかった。水のある場所もまた遠く、貧しい小屋に帰り着く頃、水は僅かしか残らず、
着物はびしょぬれになる、水を運ぶには小さな器しかない、と模範的な婦人は興味深く書いている。
さらに多くの困難と窮乏に堪えながらも、心はかつてないほど慰められ安らかだったが、これもひとえに勇気を与えてくれるわが主への
愛ゆえであったと述べている。
もし人間的な救いが暴君から得られるのだとすれば、それはこの婦人の手の届かぬはるか彼方にある。というのも、暴君はキリシタン
迫害に力を入れ、ことに己の家中の者だった人々に対しては冷酷で、これらの人々を一層ひどく迫害しているからである。 」
7)1620年1月10日付け ジョアン・ロドリゲス・ジラン発信 [日本]
「 当時日本の主であった内府が彼に仕えていた大田ジュリアという高麗生まれの身分の高い女性を、信仰を表明したことが原因で新島と
いう島へ追放してから8年か9年になりましょう。そこにはその前に、内裏の宮殿にいた異教徒の女性数名が、他の原因で追放されていま
した。
ジュリアはそれらの女性2人と特に親しくなり、彼女らに少しずつ神について話しました。ジュリアが説いた道理と立派な模範によって、
彼女らの心が信仰に向っていってそれを受け容れようと希望し、洗礼を強く求めました。しかしジュリアは洗礼の方式を知らなかったので、
希望を満たすことが出来ませんでした。しかし、彼女らの1人にマグダレナ、もう1人にマリアという洗礼名をつけました。それでその2人は
キリシタンとして振舞い、祈りを捧げ一身を神に任せました。
その後ジュリアは神津島という他の島へ、マグダレナとマリアは八丈島へ送られることになりました。八丈島の支配者がマグダレナに恋慕
して、為すべからざることを希望し、たびたび伝言を送りましたが、それに対してこの立派な新改宗者は、私はキリシタンであるから、生命
にかけてもそのようなことは出来ない、と答えました。
支配者は威嚇の言葉を加えて、伝言を続けて送りましたが、彼女は常に堅固に同じ回答をしました。それで支配者は怒って先ず彼女の
鼻と耳、それから首を斬らせました。こうしてこの幸せな霊魂は自分の血で洗礼を受けて、創造主の所へ行きました。創造主はこのような
感嘆すべき方法で彼女に殉教者の栄冠を与えたのですが、これは全く稀で滅多にないことです。況や一生異教徒の中の召使いであった
若い娘が、手本もキリシタンとの触れ合いもなくその師ジュリアとも離れていたのに、洗礼を受ける前に殉教の栄光を得たことは、誠に
感嘆すべきことです。しかし、神の御恵みによってそれが与えられたのです。 」
8)1620年3月25日付け フライ・ホセ・デ・サン・ハシント・サルバネス発信 [長崎]
「 このころ、数人のベアタ [信仰深い婦人] が、奉行の前に連れて来られました。それは彼女等が女の子を集めて教理を説いたり、
連祷を唱えさせたりしたからです。奉行は彼女等に会って、今後それをしないように命じました。
彼女等の1人、高麗生まれのジュリアは、ロサリオ [の祈り] の大好きな人で、その Santa Cofradia のために常によく働いていたので、
何回か自分の家から追い出され、今は家もなく、神の慈悲の御摂理に依り縋りながら、家から家へと移り歩いています。 」
9)1620年2月28日付け フランシスコ・デ・モラレス発信 [鈴田]
「 貴方様が、ドナ・ジュリアに初めて送って下さった400レアレスと、また二度目に送られた200レアレスが、彼女に、確実に受領された
ことが分かっております。ただし、キリシタンのおかれた状況が苛酷でありますので、領収を知らせる手紙を彼女より受け取っていません。
かわりに、補助金を言付けたことを、貴方様が指示された [ ジュリアと一緒の ] 婦人から [手紙で] 受け取りました。 」
10)1622年2月15日付け フランシスコ・パチェコ発信 [日本]
「 信仰の為に追放された高麗人の大田ジュリアは、いま大坂にいる。私は既に援助したし、出来る術で施している。 」
参考文献
本文に掲載した文献以外の参考文献は次のとおり。
・ウィキペディア 『ジュリア おたあ』
・ブログ 『家康に使えた朝鮮人キリシタン女性・おたあジュリア』
・ウィキペディア 『文禄慶長の役』
・ウィキペディア 『小西行長』
・『長崎叢書 (増補長崎畧史 上巻) 三』(大正15年 長崎市役所発行)
・月刊「聖母の騎士」 高木一雄著 7.大名・旗本の墓めぐり[4] 2002年