1.朴堤上   박제상


 (1)『三国史記 』に記載された朴堤上


 『三国史記 』の巻第四十五 列伝第五の中に朴堤上のことが記載されており、以下に、「完訳 三国史記(下)」(金思燁訳 昭和56年

 ㈱六興出版)から全文掲載する。



  「 朴堤上(あるいは毛未ともいう)は、始祖である赫居世の後裔であり、婆婆尼師今(5代)の五代孫に当たる。祖父は阿道葛文王であり、

 父親は勿品波珍飡である。

  堤上は官途に就いて歃良州(州治は今の梁山)の干(京官舎知)になった。これより先、實聖王元年壬寅(402)に倭国と講和を結んだので

 あるが、倭王は奈勿王の子、未斯欣(みしきん)を人質にしたいと請うた。王はかつて奈勿王が自分を高句麗に人質として送ったのを怨

 んでいたので、その子に怨恨をはらそうとしていたから、断わらずに送った。それから11年壬子(412)には高句麗がやはり未斯欣の兄、

 卜好を人質にしたいというので、大王はまた彼を送ったのであった。訥祗王(19代)が即位すると(417)、弁士(弁説のうまい人)を捜し求め、

 彼をやって(二人の兄弟を)連れもどそうとしていた。(時に王は)水酒村干(村長)の伐宝靺と一利村干の仇里迺、利伊村干の波老ら3人が、

 賢明で智恵があるということを聞き、呼び寄せて「私の弟二人は倭・麗の二国に人質となってから数年経っても帰れずにいる。兄弟である

 故に思慕せざるを得ない。彼らを生還させたいのであるが、どうすればよかろうか」と聞いた。3人は口をそろえて「臣らが聞きまするに、
 
 歃良州干の堤上は、剛勇でしかも智謀があるといいます。(彼ならば)殿下の心配事を解くことができましょう。」といった。
 
  そこで、堤上を呼んで前に近寄せ、(上の)3人の臣下の話を聞かせてから遠行を請うた。堤上は「臣は愚かで不肖ではありますが、ど

 うしてご命令を奉じないでいられましょうか」といい、聘礼(品物を贈る礼式作法)をもって高句麗に入り、そこの王に「臣が聞きますには、

 隣国と交際する道は誠信だけだといいます。もし(両国が)互いに人質を交換するとなりますと、五覇(中国の春秋時代、五つの覇道の諸

 侯)にも及ばないものでありまして、まことに末世のことといえましょう。今わが君の愛する弟がここに来てからほとんど10年近くなります。

 わが君は鶺鴒(セキレイ)が原に在る(兄弟が互いに難を救う喩・『詩経』小雅、常棣)気持で、何時までも思慕して止みません。もし大王が

 恩恵を施して帰して下されば、(大王にとりましては)九牛に一つの毛が落ちた程度のようなもので、損する所はなく、わが君にとっては大

 王を徳と思うこと計り知れないのがありましょう。王はよくお考えなさいませ」というと、王は、よかろうといいながら、いっしょに帰ることを許

 した。

  

  帰国すると、大王(訥祗)は喜んで慰めながら、「私は二人の弟を左右の臂のように思っていたのに、いまはただ片方の臂だけがもどっ

 ている。これからどうしたらよかろうか。」というと、堤上は「臣はたとえ魯鈍な才能ではありますが、すでに身を国に捧げた以上は、最後ま

 で命を辱ないように致します。だが高句麗は大国でありますし、王もまた賢明でありますので、臣は一言葉で悟らせることができましたけ

 れども、倭人のごときは口舌で諭すわけには参りませんから、いつわりの謀(はかりごと)を用いて王子を連れ戻すほかありません。臣が

 彼地に参れば、(大王は)臣が国に叛いたということを言いふらして、倭人たちの耳に入るようにして下さい」と答えた。そこで死を覚悟し

 て、妻子にも会わずに栗浦(今の蔚山)へ赴き、舟を浮べて倭に向かって行った。彼の妻はこれを聞き、港の出口に駈けて行って、離れて

 行く舟を眺め、大声で哭きながら、「達者で行っていらっしゃい」といった。堤上はかえりみて「私は王命を奉じて敵国に行く。そなたは再び

 会えることを期待しなさるな」といい残して、それから一路倭国に入り、あたかも(本国から)叛いて来たかのように振舞ったが、倭王は彼

 を疑っていた。



  これより以前、倭に来ていた百済人が、新羅は高句麗とともに王の国(倭国)を侵攻しようとして謀っている、とそしった。それで倭はつい

 に兵をやって新羅の国境の外で巡回しながら偵察させた。たまたま高句麗が来て倭の巡邏兵をみな捕えて殺したので、倭王はようやく百

 済人の言葉を事実だと思った。それに(倭王は)新羅王が未斯欣及び堤上の家族を監禁したという話を聞いて、堤上は本当に叛いた者だ

 と思った。そこで(倭王は)兵を出動させて新羅を侵襲し、同時に堤上と未斯欣を将帥に任命する一方、(両人を)嚮導(案内)にして海中

 の山島に来た。倭の諸将は、新羅を滅ぼした後には堤上と未斯欣の妻子を連れてくることを密議した。堤上はそのことを察知して、未斯

 欣といっしょに舟に乗って遊び、魚や鴨を獲るふりをすると、倭人らはそれを見て、(両人には)別にこれという考えは抱いていないものと

 思い喜んだ。そこで堤上は未斯欣に、そっと本国に戻るよう勧めると、未斯欣は「私は将軍(堤上)を奉ずること、あたかも父のようにして

 いましたのに、どうしてひとりで帰れましょうか」といった。堤上は「もし二人がいっしょに発てば、計画が成功できなくなるのではないかと心

 配します」というと、未斯欣は堤上の首を抱きしめて泣きながら別れを告げ帰国した。堤上はひとり部屋に寝て、遅くなってから起きた。そ

 れは未斯欣をできるだけ遠くまで逃れさせるためであった。多勢の者が「将軍はなぜこんなに起きるのが遅いか」というので、(彼は)「前

 日舟を乗りまわし、疲れて早く起きられなかった」と答えた。(堤上が)外へ出ると、未斯欣が逃げたことを知って、ついに堤上を縛りあげ

 た。舟を漕いで(未斯欣の)後を追ったが、ちょうど煙霧がかかり暗くて見通しがきかず、追いかけることはできなかった。堤上を倭王の居

 場所に送り届けると、彼を木島に流配してから、やがて薪でもって全身を焼いた後に斬刑に処した。



  大王(訥祗)はこれを聞いて哀慟(悲しんでひどく歎く)し、大阿飡を追贈した。その家族には厚く品物を贈った。そして未斯欣は堤上の次

 女を娶って妻にし、(恩功に)報いた。初め未斯欣が戻る時、(王は)六部に命じて遠くから迎えさせ、彼を見ると、手をとりあって互いに泣

 いた。兄弟たちは集まって酒を飲みながら心ゆくまで楽しんだ。王は自分で歌舞を作り、喜びの気持をそれに表現した。いま郷楽の「憂息

 曲」がそれである。 」




 (2)『三国遺事 』に記載された朴堤上


 『三国遺事 』巻第一 紀異第一の中で朴堤上は「金堤上」として記載されており、以下に、「完訳 三国遺事(全)」(金思燁訳 昭和55年

 ㈱六興出版)から全文掲載する。


 「             奈勿王[那密王とも書く]    金堤上


   第17代 那密王即位36年庚寅(390年)に、倭王の使が来朝して「わが君が大王の神聖であられるということを聞いて、臣に、百済
 
 の罪を大王に申しあげるようにといわれました。願わくは大王が王子お一人をつかわして、わが君に誠意をお示しくださいませんか」とい

 った。そこで王は三男の美海[未吐喜とも書く]を送った。美海の年は10歳で、言葉や動作も未熟であったので、内臣の朴娑覧を副使として

 付き添わせて行かせた。倭王は(彼らを)抑留し、30年も帰さなかった。



  訥祗王即位3年己未(419年)には、高句麗の長壽王が使臣を来朝させ「わが君は、大王の弟君の宝海が、智慧と才芸が秀でていると

 いうことを聞いて、両国がお互いに親しく交わることを願い、ねんごろにお招きしたいとのことでございます」といってきた。王は、大へん幸

 いなことだと思った。これをきっかけにして(両国は)和親を結び、弟の宝海を高句麗にゆかせるとともに、内臣の金武謁を輔佐としていっ

 しょに遣わした。(すると) 長壽王もまた抑留して帰さなかった。



  10年乙丑(『三国史記』には、訥祗王9年となっている。425年)になって、王(訥祗王)が多くの臣下や国中の豪侠たちを集めて、親しく

 御宴を設けた。酒が3回進められると、あらゆる音楽がはじまった。(そのとき)王は涙を流しながら群臣に向かって語った。「さきにわが父

 君(奈勿王)が、誠心から民草のことをお思いになって、愛する息子を倭に送り、逢えないままに世を去られた。今また私が即位してから、

 隣国の兵力が強大で、戦争がやまない。高句麗だけがひとり親交を結ぼうという話を持ちかけてきたので、私はその言葉を信じ、弟を使

 臣として送ったところ、高句麗もまた抑留して帰してくれない。私がたとえ富貴な暮らしをしていても、これまで1日とて(このことを)忘れた

 ことはないし、泣かない日とてない。もしなんとかして二人の弟に逢い、ともに先王の廟に、過ちを謝することができれば、民にその恩を報

 いるであろう。誰かよくその謀りごとを成しとげてくれるものはいないだろうか」。

 このとき百官どもがみな申しあげるには、「このことはまことに並たいていのことではありません。すぐれた智略と勇気があってこそ初めて

 可能であります。臣らが考えますに、歃羅郡(慶尚南道梁山)の太守、堤上がよかろうかと思います」。そこで王が(堤上を)召して、(その

 意見を)聞くと、堤上が再拝して答えた。「臣が聞きますに、王に憂いがあれば臣下は恥ずかしめられ、王が恥ずかしめられれば臣下は

 (君のために)死ぬ、といいますから、かりそめにも、たやすいか、難しいかと、見きわめてから行動するようなことは不忠であります。

 (また)死ぬか生きるかなどを考えながら行動するのは、勇気のないものといえましょう。臣はたとえ不肖なものでありましょうとも、御命を

 お受けしまして実行いたします」。王はたいへん喜び、杯を交わして飲み、手を握って別れた。



  堤上は簾前(御前)で命を受けてから、北海の路に向って走り、変装して高句麗に入った。宝海のいる所へいって、逃げる時期をいっし

 ょに計画した。(堤上が)まず、5月15日、高城の河口に来て待機していた。約束の日がせまってくると、宝海は病だと称して、数日のあい

 だ朝会にも出ず、夜中に逃げだし、高城の海辺にたどりついた。王が逃亡したことを知って、数十人をくりだし、あとを追わしめた。高城に

 着いてから(宝海に)追いついたが、宝海は高句麗にいたとき、まわりのものたちに恩を施していたから、追手の兵士たちは(宝海を)かわ

 いそうだと思い、みな鏃(やじり)を抜いてから射た。それでついに無事に帰ることができた。



  王は宝海を見てからというものは、ますます美海を思うようになった。一方では喜びながら、一方では悲しみ、涙を流しつつ左右のものに

 いうには、「(いま私は)あたかも一つの体に片方だけの腕があり、また一つの顔に、片目だけがあるような気持だ。たとえ片方が得られ

 たとしても、片方をなくしていては、どうして悲しくなかろうか」。ときに堤上がこの言葉を聞き、(王に)再拝して別れを告げ、馬に乗って自

 分の家にもたちよらずに、まっすぐ栗浦の浜辺に来た。彼の妻がこのことを聞きつけ、やはり馬を走らせて追い栗浦に着いた。見ると夫

 はもはや船の上である。妻が切なく呼んだけれども、堤上はただ手を振るだけで、船を止めずに(そのまま)倭国に向かって行ってしまっ

 た。



  (倭国に着いた堤上は)いつわって、「鶏林王が自分の父兄を、なんの罪もないのに殺したので、逃げてここに来た」というと、倭王はそ

 の言葉を信じ、家を与えて安らかに暮らすようにした。堤上はいつも美海のお供をして海辺へ行き、海辺で遊びながら魚や鳥を捕ったりし

 た。捕ったものをいつも倭王に差しあげた。王は大へん喜んで、疑いをはさむようなことはなかった。たまたま霧がかかってうす暗いある日

 の夜明け方、堤上は美海にいった。「逃げるのは今です」。美海が「ではいっしょに行こう」というと、堤上は「臣がもし行けば、倭人が気づ

 いて追ってくるでしょう。臣はここに止まって、追手をくいとめましょう」といった。美海は「いまやそなたと私は父兄と同じようなものである。

 どうしてそなたをおいて、私ひとり帰れようか」といったが、堤上は「臣は公の命を助け、大王のみ心を慰めれば、それで十分であって、生

 きのびることなどは望みません」といって、酒をつぎ美海に進めた。そのとき、鶏林の人の康仇麗が倭国にきていたので、その人にお供を

 させて送った。



  堤上は美海の部屋へ入っていって、翌朝までそこにいた。召使のものらが部屋の中へ入って(美海に)会おうとすると堤上が出てきて断

 わっていうには、「(美海は)昨日、狩りのため走りまわり、疲れがひどくて起きられない」。真昼をすぎると、倭人たちが怪しんでさらに尋ね

 るので、「美海は(自分の国へ)行ってしまった。もうだいぶんたっている」といった。召使たちが急いで倭王に告げると、倭王は騎兵を出し

 てあとを追わしめたが及ばなかった。
 


  そこで堤上を捕え「お前はどうしてこっそり王子を逃したのか」と問いただした。堤上が答えていうには、「私は鶏林の臣であって倭国の

 臣ではない。いまはただわが君の志を叶えてあげたかっただけだ。あなたにことさら何をいう必要があろうか」。倭王が怒って、「いまお前

 はすでに私の臣下となっている。それなのに、鶏林の臣だなどというならば、かならず五刑を(お前のために)用意する。もし倭国の臣であ

 るというなら、重い禄をほうびとして与えよう」といったが、堤上の答えは、「むしろ鶏林の犬、豚となっても、倭国の臣にはなりたくはない。
 
 むしろ鶏林の刑杖ならば受けてもよいが、倭国の爵禄は受けたくない」であった。王は怒って、堤上の脚の皮をはぎとり、蒹葭(けんか)

 (荻)を刈ってきて、その上を走らせ〔いま荻の上に血痕があるのは、俗に堤上の血であるといわれている〕、それからさらに尋ねた。

 「お前はどこの国の臣なのか」。堤上が「おれは鶏林の臣だ」と答えると、こんどは堤上を熱した鉄の上に立たせておいて、「どこの国の臣

 か」聞いたが、なおも「鶏林の臣だ」と答えたので、とうてい屈服させることはできないと悟り、木島へつれていって焼き殺してしまった。



  美海は海を渡って帰ってくると、まず康仇麗をやって国中に知らせた。王が驚きかつ喜び、百官には屈歌駅で迎えさせ、王は宝海ととも

 に南の郊外に出向いて迎えた。宮中に入ってきて祝宴を設け、国内に大赦令を下し、堤上の夫人を国の大夫人に定め、その娘を美海公

 の夫人にした。



  このことを論ずるものがいうには、「むかし漢の臣下であった周苛が栄陽にいたとき、楚の兵に捕えられた。項羽が周苛に、『そなたが

 私の部下になるならば、万禄侯に封じよう』というと、周苛はののしりながら屈服せず、ついに楚王に殺されてしまった。堤上の忠烈こそ

 は、周苛のそれに劣るものではないといえよう」。
 


  はじめ堤上が旅立つとき、彼の夫人があとを追ったけれども及ばず、望徳寺の門の南側にある砂の上でひれ伏して、長いこと泣き悲し

 んだので、その沙場を長沙と名づけた。彼女の親戚のもの二人が彼女をかかえて家にもどったが、夫人は脚をのばして座ってから、立ち

 あがろうとしても立ちあがれなかった。そこで、その地を伐知旨と名づけた。ずっとあとになって、夫人は夫を思う心がつのり、三人の娘を

 つれて、鵄述嶺にのぼり、倭国の方角を眺めて、大声で泣きながら死んだ。よって鵄述(嶺)の神母となった。今もその祠堂(ほこら)が残

 っている。 」




 (3) 『日本書紀』に記述された新羅の王子人質の内容


  『日本書紀』巻九は神功皇后について記述しており、神功皇后の新羅征伐や新羅の王子の人質なども記述されている。ここで、中央公
 
 論社発行の「日本書紀 」(井上光貞監訳 昭和63年)から、新羅の王子の人質について紹介する。
 

 「                      新羅征伐


         (中略)


  さて、新羅の王 波沙寐錦(はさむきん)は、ただちに微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質とし、そして金・銀・彩色および

 綾・羅(うすはた (透薄な絹織物))・縑絹(かとりのきぬ (目を細かく固く織った平織の絹))を齎(もたら)して、八十艘の船に載せて、官軍に従わし

 めた。新羅の王が、つねに八十船の調を日本国に貢上するのは、それによっているのである。

      
         (中略)



                       誉田別皇子の立太子


  3年の春正月の丙戌(ひのえいぬ)朔の戊子(つちのえね(三日))に、誉田別皇子(ほむたわけのみこ)を立てて、皇太子となさった。そう

 して磐余(いはれ)に都をつくった〔これを若桜宮という〕。

  5年の春三月の癸卯(みずのとのう)の朔己酉(つちのとのとり(七日))に、新羅の王は、礼斯伐(うれしほつ)・毛麻利叱智(もまりし

 ち)・富羅母智(ほらもち)らを遣わして、朝貢した。使者たちは、前に人質になっていた微叱許智伐旱(みしこちほつかん)をとり返そうと

 いう気持をもっていたので、許智伐旱をとおして、あざむいて、

 「使者の礼斯伐・毛麻利叱智らは、私に告げて、『わが王は、私が久しく帰らないので、ことごとく妻子を没収して、官奴としてしまった』

 と申しております。どうかしばらく私を本土に帰らせていただき、その虚実を知って御報告したい」

 と言わせた。皇太后は、それをお許しになった。そうして、葛城襲津彦(かずらきのそつびこ)を付き添わせて遣わした。

 ともに対馬に至って、鉏海(さひのうみ 対馬の北端、鰐浦か)の水門(みなと)に泊まった。そのとき、新羅の使者の毛麻利叱智らが、ひ

 そかに船と水手(かこ)を配して、微叱旱岐(みしかんき)を載せて、新羅に逃れさせた。そうして蒭霊(くさひとかた 人形)を造って、微叱

 許智の床に置いて、偽って病気をしている人のように見せかけ、襲津彦に告げて言った。

 「微叱許智が、急に病気に罹って死にそうです」

 と。襲津彦は、使を遣わして病人を見にやった。そこであざむかれたことを知って、新羅の使者三人を捕えて、檻の中にとじこめ、火を放

 って焚(や)き殺してしまった。

  そうして新羅に行き、蹈鞴津(たたらのつ  釜山の南の多大浦)に宿泊し、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰還した。このときの

 俘人(とりこ)らは、いまの桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしぬみ)など四つの邑の漢人(あやひと)らの始祖である。

       
                       中略         」




 (4)朴堤上の処刑場所

  三国史記で「朴堤上」と記載された武将は、日本書記の中には「朴堤上」という名は出てこない。新羅王が倭国に遣わした3人の使者の

 うち、毛麻利叱智(もまりしち)が朴堤上と見られている。それは、三国史記で朴堤上は「あるいは毛未ともいう」と記載されているからであ

 る。また、倭国に人質となった新羅の王子は三国史記では、「未斯欣」(みしきん)、三国遺事では「美海(未吐喜とも書く)」と記載されてい

 るが、日本書紀では「微叱己知波珍干岐」(みしこちはとりかんき)または、「微叱許智伐旱」(みしこちほつかん)あるいは単に、「微叱許

 智」(みしこち)、「微叱旱岐」(みしかんき)と記載されている。

  


  ところで、朴堤上が処刑された対馬の鉏海(さいのうみ)は現在の地名でいうと、対馬の最北端、上対馬町の鰐浦(わにうら)という説が

 有力である。ここは、毎年5月になると入江を囲む山の斜面に純白のヒトツバタゴが咲くところとして有名であり、国の天然記念物に指定さ

 れている。対馬市の木に指定されているが、韓国慶尚南道の梁山市も市の木としてこのヒトツバタゴを指定している。朴堤上は歃良州の

 役人であったが、州の中心地が現在の梁山市である。朴堤上とヒトツバタゴを巡って対馬市と梁山市は縁がある。歃良州は新羅が三国を

 統一した後に設けた全国9つの州の一つである。したがって、朴堤上の時代にはまだ歃良州という州はない。

  韓国の学者たちは朴堤上が処刑された場所を旧上県町の佐護湊と見て、1988年8月、この地に「新羅国使毛麻利叱智 朴堤上公

 殉国之碑」を建立している。これは推測に過ぎないが、韓国の学者たちは日本書記に記述されている鉏海(さひのうみ)の「水門」(みな

 と)という発音に注目し、音が同じであるため、佐護の湊(みなと)という場所を「鉏海の水門」と考えたのではないだろうか。

  しかし、九州から対馬を経由して朝鮮半島へ渡る場合は、最北端に位置する鰐浦を経由する方が距離的に近い。わざわざ鰐浦から南

 方(南西方面)の佐護湊まで下る必要があるだろうか。

  古代日本語の音韻に詳しい国語学者の大野晋(1919-2008)氏によると、 「サヒ」は農具のスキなどを表すとともに、鰐を表し、「鉏海」

 の鉏は対馬北端の鰐浦、すなわち日本書記巻第九仲哀天皇9年10月条に登場する「和珥津」(わにのつ)をさし、あたりの海を鉏海とい

 ったということである。(日本古典文学大系67 「日本書紀 」 補注9-二六  岩波書店)

 『ウィキペディア』によると、「わに」とはサメのことだとする説があり、対馬北端の海にサメがいたことから、このような地名ができあがった

 のかもしれない。



       

                              昭和63年(1988年)8月10日付け長崎新聞


 
 (5)朴堤上の韓国での評価

  日本では一般には知られていない朴堤上だが、韓国ではいかがだろうか。


   1)孝忠祠
 
     朴堤上は現在の慶尚南道梁山市で生まれたと考えられていて、釜山広域市で発行されている「国際新聞」2013年3月14日付記

    事によると、1960年、地域の篤志家が朴堤上の生家跡として知られている土地を買って、そこに30㎡程度の祠堂を建てた後、地

    方自治体や企業などの支援で現在の姿に改築されたものが、文化財として、慶尚南道記念物第90号に指定されている。その建物

    の名称は孝忠祠といい、朴堤上やその息子を祭っている祠堂である。



                                         孝忠祠

                           

                               2013年3月14日付「国際新聞」より掲載



   2)朴堤上を主人公とした演劇を創作

     2013年3月14日付け国際新聞の記事を次のとおり要約して紹介する。


   『 慶尚南道の梁山市は、2011年に古代の州名である歃良という冠をつけた『歃良文化フェスティバル』で「忠臣 朴堤上」という演劇

    を製作している。この劇は、雄壮なオーケストラの音楽や歌、華麗な衣装をまとった踊り、演劇で構成されており、昨年2012年に

    は、この劇に初めてテーマ曲をお目見得させている。
 
     梁山市は現在、地域の代表的な遺跡地と人物を現場復元することの他に、文化芸術へ昇華させる作業に心血を傾けている。その

    最初の作品が「忠臣 朴堤上」なのである。

     歃良文化フェスティバルは主テーマを朴堤上という人物に合わせている。このため、このフェスティバルはこの地域の遺跡地である

    朴堤上の魂を祭る孝忠祠から始まるのである。

     大部分の自治体は地域の人物と遺跡地復元のため、施設分野に比重をおく傾向が高い。しかし、梁山市は遺跡地の復元はもちろ

    んだが、文化芸術の舞台を通して遺跡地をアピールする事業にも高い比重をおいている。

     梁山市は文化館や展示室など3棟の建物を新たに建設して、孝忠祠一帯を歴史体験場として造成する計画を立てている。 』




                      

                      2012年10月の歃良文化フェスティバルで上演された「忠臣 朴堤上」

                               2013年3月14日付「国際新聞」より掲載




    3)「忠烈公 朴堤上記念館」・鵄山書院址

       朴堤上が倭国へ向かったのは現在の蔚山広域市の港からであり、妻が泣き叫びながら見送ったのも蔚山市の港だった。そし

       て朴堤上が倭国へ行った後、妻は鵄述嶺(チスルリョン)という山に来る日も来る日も登って行っては夫の帰りを待ち続け、そこで

      ついに死んでしまい、死体が石に変わったという伝説がある。そして人々はその石を望夫石と呼んでいる。

       蔚山広域市の蔚州郡にその鵄述嶺という山はあり、その山に人々は朴堤上とその妻を称えるために祠堂を建てて位牌を祭って

      いたのであるが、朝鮮時代になってからここに鵄山(ちさん)書院が建てられたという。書院とは朝鮮王朝中期以後に建てられた

       私立の教育機関、即ち今でいう学校であり、これに対して地方の官立の教育機関は郷校という。

       この鵄山書院址に、「忠烈公 朴堤上記念館」が建設されている。この記念館は2000年に建設計画が樹立され、2008年に

      記念館が完工し、同年9月19日に開館している。

       そして鵄山書院址は、1997年に三国時代の史跡として蔚山広域市記念物第1号に指定されている。



              




               

                                     韓国のプログより掲載

                           http://blog.daum.net/kgwh55/15943745
                           http://blog.naver.com/PostView.nhn?blogId=toamlee&logNo=80170016719





    4)朴堤上 春享大祭

       春享大祭とは早春に行う宗廟(そうびょう)、社稷(しゃしょく)の大祭をいうもので、朴堤上 春享大祭は、忠烈公 朴堤上や

      その妻、娘に対する魂を追慕し、忠、義、孝、烈の精神を地域住民に継承、発展させるため、毎年旧暦3月に祭礼を執

      り行うものである。鵄山書院址の敷地内で行われている。




                 

                          2013.4.23に挙行された朴堤上 春享大祭
                        
                             韓国のブログより掲載   http://blog.daum.net/migiro/995
                            




                                     戻る