7.白貞基  백정기 


              

       1933年3月、上海日本総領事館で               旧長崎刑務所  1995年撮影
          撮影された白貞基の写真                  白貞基は1934年6月5日 この刑務所で獄死した。
                                                                  
                   
  
  白貞基(ペク・ジョンギ)は、1920年代から30年代にかけて中国で朝鮮の独立のため活動したアナーキストである。

 1921年から23年にかけて日本で労働に従事しながら社会主義思想を学んだ。24年中国に亡命し、北京で在中国朝鮮無政府主義者

 連盟を結成する。また、1931年には日本機関や軍事施設を破壊し、日本の要人暗殺、日本密偵処断、反日宣伝を目的とした黒色恐怖

 団(Black Terrorist Party)を組織した。33年(昭和8年)3月、有吉明駐中日本公使が日本政府から密命を帯び、4000万円の資金を使

 って中国国民党要人を買収して、中国政府の反満州国・抗日姿勢を懐柔させ、抗日軍の抵抗を中止させるとともに、中国内での朝鮮独

 立運動を弾圧させようと画策しているという情報を聞きつけて、上海市内の日本料理店 六三亭で有吉公使が宴会を終えて出て来たとこ

 ろを爆弾を投げ込んで有吉公使を暗殺しようと中国料理店松江春で待機中、事前に探知していた共同租界警察によって李康勳、元心昌

 と共に逮捕された。
 
  同年7月、上海日本総領事館の司法領事による予審の結果、長崎地方裁判所で公判に付されることになって、7月11日、長崎丸にて

 上海から長崎市に送られ、現在の平和公園にあった浦上刑務支所の独房に収容された。同年11月24日、長崎地方裁判所によって元

 心昌と共に無期懲役の判決を受け、直ちに諫早市にある長崎刑務所に収容された。翌年6月5日、同刑務所で服役中、持病の肺結核が

 悪化して38歳で死亡した。

  1946年4月、日本で死刑となった李奉昌・尹奉吉と共に遺骨が韓国に戻され、同年7月、3人の国民葬がソウル市内で挙行され、三義

 士墓に埋葬された。1963年に、白貞基は大韓民国建国功労勲章(独立章)を追叙されている。 

  

 1.白貞基の家系

    白貞基は1896年1月19日、全羅北道の扶安で生まれた。扶安は中国大陸と朝鮮半島の間にある海、即ち黄海に面している地域

  である。「扶安郡」という地方自治体の2013年12月末人口は約5万9千人である。

    白貞基は4人兄弟姉妹のうち一番上で、弟が一人、妹が二人いる。幼年期は家庭は貧しかったが、和やかな家庭だったという。

  1902年、6歳の時に現在の井邑市に一家が移住している。井邑市は扶安郡の東隣りで、現在の人口は2013年12月末現在で約11

  万8千人である。井邑市のホームページを見ると、井邑9景の一つに「白貞基義士紀念館」が挙げられている。その他、第1景に挙げら

  れているのは「内蔵山」であり、紅葉で有名なところである。

   白貞基が12歳の時に父 南一が31歳で亡くなり、その年、隣村の曺八洛と結婚している。結婚は父親が死亡する前に決められてい

  たことだった。曺八洛は裕福な家庭に生まれており、貧しい家に嫁いだのは、白貞基の家系が名門だったからであった。
                                          ペク・インゴル                       ペク・イッキョン
   ここで、白貞基の家系を紹介すると、白貞基の13代前の先祖は白仁傑(1497-1579 号は休庵)という人であり、白益堅の次男であ

  る。
           ペク・ヒョサム    ペク・ヒョヨン                                                     ペク・ナミ
  白益堅の祖父 白效參の兄弟 白效淵という人の15代傍系子孫(外孫)が朴正熙元大統領である。朴正熙元大統領の母は、白南義と

  いう人で、白效淵の子孫であり、本貫(始祖の発祥地)は白貞基と同じ水原である。即ち、白貞基と同じ水原白氏であり、朴正熙元大統

  領の娘が言うまでもなく、朴槿恵大統領である。

   白仁傑は若手改革派ともいうべき士林派のリーダー趙光祖に師事し、朱子学を学んだ。40歳で科挙の文科に合格し、吏曹参議、大

  司諌、工曹参議、成均館大司成、大司憲、議政府右参賛などの要職を歴任した。大司憲は中央及び地方行政の監察を行う役所である

  司憲府の長官で従2品の官職である。議政府右参賛は正2品の官職である。国王宣祖の信任が厚く、清廉潔白な官吏として知られる。

  死後に議政府左賛成(従1品)の職を贈られている。



 2.日本側資料に見る白貞基の活動

   白貞基は1933年(昭和8年)3月17日、上海で有吉明駐中日本公使暗殺未遂事件を起こして共同租界警察に逮捕され、翌日、上海

  の日本総領事館警察に引き渡された。以下に、石射上海総領事が内田外務大臣に宛てた2件の報告文書を『外務省警察史』(復刻版

  第47巻 不二出版)から掲載し、白貞基の活動の一端を見ることにする。なお、文字は現代仮名遣いに直して掲載した。


  1)昭和8年3月18日在上海石射総領事発内田外務大臣宛電報要旨

         無政府主義者の逮捕


   (一)有吉公使暗殺を企て共同租界内に潜入せる無政府主義者の一団元勲、李康勲、白鴎波の三名を3月17日午後9時30分共同

     租界武昌路支那料理店松江春に於て工部局の応援を得て逮捕し、客年虹口公園爆弾事件下手人尹奉吉の携帯せし弁当型大型

     爆弾と同一の爆弾並びに独逸製手榴弾及び拳銃二挺、実弾15発を押収し犯人は当館に拘束取調中なり。

   (二)3月17日元勲他二名逮捕の際昨年4月29日天長節当日に於ける虹口公園爆弾事件下手人尹奉吉の携帯せしと同型の弁当型

     爆弾一個(重量5封度)、手榴弾一個、拳銃二挺及び実弾15発を押収せり。当館に於て取調の結果同人等は有吉公使暗殺を計

     画せる無政府主義系統の者なること判明せり。



  2)昭和8年3月27日付在上海石射総領事発信内田外務大臣宛報告要旨

         有吉公使暗殺陰謀無政府主義者検挙の件

                  記

    「第一 発覚の端緒」と「第二 検挙着手」は掲載を省略

    第三  犯行

      一.白貞基の身許並びにその行動  

          白貞基は明治30年1月19日本籍地に於て生る、幼時漢文を修得したる他学歴無し、16歳の時実父の所持金三百円を

        携帯して井邑憲兵分遣所に於て訓戒せられ、19歳の時誘拐罪にて井邑地方法院支庁に於て取調の上、起訴猶予せられた

        ることあり、大正6,7年頃京城に出て独立運動に従事し爾来北京方面及び本籍地の間を転々し、大正10年日本内地に渡

        航、山梨県甲府に於て労働に従事する傍ら社会主義の研究に没頭せしが、同年5月上京、東京府下新宿淀橋町に於て社会

        主義者李憲、馬鳴その他二、三の主義者等と同棲、労働に従事す、大正12年8月26日東京出発一旦帰郷せしも、大正13

        年夏再び北京に到り無政府主義運動に従事し、大正14年春頃上海に来り昭和4年秋迄仏租界に滞在無政府主義運動に従

        事、更に一旦満州に渡りたるも、翌昭和5年夏再び同滬、仏租界に入り各所を転々して今日に至れり

          昭和3年2月無政府主義者柳絮事柳基石が主唱して南華韓人青年連盟なる団体を組織するや之に加盟し、その運動に

        従事せしが、その後同団体が共産主義団体及び民族主義団体の圧迫のため萎微不振に陥り有名無実の状態に在るを慨し

        居たる処昭和6年11月上旬無政府主義者東方連盟なる団体の盟員なりと称する中国人華均実の勧説により同人と協力し

        て、新たに社会革命実現の手段として所謂破壊工作を用いる事を目的とする国際的恐怖団体の組織を企画し、同年11月中

        旬白貞基の住所、仏租界蒲石路桂福里の家に於て同志四名会同、右団体の組織を了せり、中国人王亜樵、華均実、鮮人白

        貞基及び日本人無政府主義者

          本籍  京都府京都市上京区西洞院通御池下る三坊西洞町五八八
         
          住所  不明

                      田化民事  佐 野 一 郎 (吉田とも称す)   

                              明治36年

        即ち是なり、その後両三度会同を重ね協議の結果、本団体をB.T.P(Black Terrorist Party の略)と名付け、団中に経済部、

        宣伝部、情報部を設く、而して王亜樵を経済部責任に任じ資金捻出の役に当らしめたるも、他の部には当分責任を置かず各

        自その所属国籍者に就いて同志を獲得することとし活動の結果昭和7年1月迄に、
 
           李 守 玄

           李 容 俊   別名  田 理 芳

           金 之 江   別名  朱 烈

           李    達   別名  宋 一 舟

           厳 亨 淳   別名  余 萍 痕

           楊 汝 舟   別名  馬 仲 良

         右六名の同志の入団を見たるが団として何等活動すること無く、生活費並びに米穀その他の日用品を華均実を通じて王亜

        樵より支給を受け無為徒食し居たり、その後白はその無為を恥じ、何等かの活動を為さんと欲したるも使用の武器無きに苦し

        み居たるが、昭和7年8月鄭華岩に会いたる際之が入手方を依頼し、同年9月鄭より弁当型爆弾、独逸製手榴弾各一個及び

        拳銃二挺、実包二十発(何れも今回押収せる品)を受領蔵匿せり、昭和8年2月20日満州方面より来滬せる鮮人無政府主義

        者李康勲を同志として入団せしむ、斯くて熱河問題により日支間の空気極度に緊張せる時期に際し、日本内地若しくは満鮮

        方面に潜入して兇暴行為を決行すべく決意しその機を窺い居たる処、3月5日元心昌の来訪を受け、その際元より日支間外

        交上の裏面なりとて、有吉公使帰国目的等に関する事情を聞かされ此の際有吉公使を暗殺して日支両国外交当局の所謂

        陰謀を世界に暴露するの要ありと感じ、旁々予ねて決意せし兇暴行為決行の機到来せるものと考え、同居中の同志李康勲

        にその決意を打明けその賛同を得たるが、更に3月6日正午団員の集会を催し、之に諮る処ありたり、来り会する者

        鄭海理  鄭華岩  元勲  (以上非団員)

        田理芳  李達  金之江  厳亨淳  李守玄  李康勲  楊汝舟  (以上団員)

        の10名なり、然るに兇行決行の下手人たらんと各人相主張して下らず結局、鄭華岩の意見により、抽籤により之を決定する

        こととなり、抽籤の結果偶然にも最初志願せる白貞基、李康勲の両名が兇行の実行に当たることとなれり

         ここに於て白貞基は鄭華岩に対し資金の調達を依頼したるが鄭は3月11日百二十弗、更に17日迄に六十弗計百八十弗を

        支給せり、兇行決行に関する手段方法に就いては元心昌と打ち合わせの結果、六三亭に於て公使が宴会に出席すべきこと

        を想定しその機会を狙う事としてその準備を進め、先ず3月13日午後7時元心昌の案内にて、李康勲と共に現場視察を実施、

        一面17日夜公使の宴会が六三亭に於て行わるる筈なりとの情報に接しいよいよ決行の決意を固め、決行後行わるべき官憲

        の手入れを顧慮して3月14日福履理路亭元坊六号鄭海理の家を去り、仏租界大平橋北白爾路興順坊上海公寓に移り、越え

        て17日午後6時元勲、李康勲と共に、鄭華岩、柳子明、矢田部勇司、田理芳、李達、金之江、厳亨淳、李守玄、楊汝舟等団

        員並びに同志の送別宴に列し、午後8時右会場たる大世界附近青萍菜館を出で更に附近の津々菜館に於て喫茶の上午後9

        時、元心昌、李康勲、矢田部勇司の三名と自動車に同乗同所を出発、松江春に向かいたるものなり



  以上が『第三 犯行』中の『一.白貞基の身許並びにその行動』の全文である。「16歳の時実父の所持金三百円を携帯して井邑憲兵分

 遣所に於て訓戒せられ」たとあるが、実父は既に白貞基が13歳(日本式に計算すると12歳)の時に死亡しており、長男として家を継いで

 いたため大金を所持していても何等問題はなかったはずである。また、「19歳の時誘拐罪にて井邑地方法院支庁に於て取調の上、起訴

 猶予せられたることあり」とあるが、誘拐罪の内容が記載されておらず、誰を何のために誘拐したのか具体的記述がない。白貞基は結婚

 後妻の実家の裕福な財産を管理する立場にあり、金目当ての誘拐は考えられない。『抗日革命家 鴎波白貞基義士』(国民文化研究所

 編著)によると、これら二つの事件は白貞基が上海総領事館警察から取り調べられている時に陳述したものではなく、彼の本籍地を管轄

 する関係機関に照会した回報によるものであろうと推測している。



  それでは、白貞基が逮捕される場面を見てみよう。『第二 検挙着手』の全文を以下に掲載する。


   第二 検挙着手

     3月17日午後に至り元心昌以下4名の一味が爆弾、拳銃を携帯して当夜9時を期し前顯松江春に集合するの計画決定せる事を

    謀知し、直ちに検挙に関する手配を了すると共に工部局警察に移牒、その協力を求め当方の検挙計画に共同して活動するの準備

    を為せり、一味の兇暴計画並びに当方の検挙計画次の如し

      イ.一味の兇暴計画
 
         午後9時を期し元心昌、白貞基、李康勲、矢田部勇司の4名は自動車を以て仏界より松江春(A)に到着、一応勢揃いの上、

        矢田部は先ず六三亭前「カフェO.K」(B)附近に至り公使出発の模様を監視し、元心昌は白貞基、李康勲の両名を案内して

        日本人倶楽部附近(C)に至り矢田部との連絡に任ず

         有吉公使出門を認めたるときは矢田部、元の合図により白、李の両名は直ちに進んで先ず拳銃を以て警護の警官を射殺

        し、続いて爆弾を投擲す

      ロ.検挙計画

         午後8時一味発動の模様確実なる旨の情報に接し、8時15分配置を行う、乍浦路武昌路交差点附近に数名の動哨を置き、

        武昌路松江春前家屋内に3名の監視員を潜伏せしめ、本隊は虹口警察署内に待機せしむ、一味到着の報に接するときは

        本隊は直ちに二班に分かれて前後両面の入口より同時に侵入す、斯くて待つ中に、9時20分に至り一台の自動車は西方乍

        浦路方面より来着し、三名の鮮人らしき人物松江春に入れり、即ち元、李、白の一味なり、此の情勢を観取したる監視員は
   
        之を直ちに虹口警察内の本隊に報告し、本隊は直ちに出動せり、即ち外人、中国人、日本人(工部局)刑事は防弾衣を着し

        防盾をかざし、我が警察官と共に前後より同時に侵入し、階上に在る一味を襲い、不意に機先を制して抵抗の暇を与えず
    
        無事元以下三名を逮捕し、卓上に帽子を以て隠蔽し有りし爆弾並びに手榴弾各一個及び携帯の拳銃二挺(伊太利製「ベレ

        ッタ」型並びに「ダントン」型)、実包15発を押収せり
     
         而して右爆弾は長さ5寸3分5厘、幅3寸4分5厘、厚さ1寸6分5厘、前孔直径1寸5厘にして、客年4月29日虹口公園爆

        弾事件下手人尹奉吉が投擲の目的を以て携帯し居たる弁当型爆弾と完全に同一型のものなり、手榴弾は長さ三寸二分直

        径一寸九分、円筒型鉄弾に六寸八分の木製中空の柄を附したるものにして、上海事変当時十九路軍の使用せしもの。独逸

        製なりと言う。

        先是矢田部は松江春の直前に於て自動車を去り単身六三亭に向かうの形跡あり、監視員は元等三名に気付かるるを恐れ、

        松江春前の逮捕を見合わせて之に尾行したるが矢田部は之を感知したるものの如く、「カフェO.K」附近の立番を為さずそ

        のまま逃走せり

         元、白、李の三名の身柄は一応工部局虹口警察署に送致取り調べの上即時当方に引渡を受けたり 

        
   
  以上が『第二 検挙着手』の全文である。これによると、白貞基らの有吉公使暗殺計画が露見したのは事件当日の午後に至ってからで

 あり、計画を探知した上海総領事館警察は相当慌ただしく対応したことと思われる。工部局警察に協力を依頼しているが、工部局という

 のは上海共同租界を管理する行政機関で、日本や欧米列強の職員から構成されていた。上海には他にフランス一国だけで管理するフラ

 ンス租界もあった。

  それにしても、上記の報告文書を読むと当時の日本の諜報活動の敏腕ぶりが窺い知れるところであるが、暗殺計画が露見したきっか
 
 けは白貞基の言動によるとこの報告書は伝えている。『第三 犯行』中の「四.暗殺計画の経過」に次のように記載されているので紹介す

 る。

    

    明なる如く本計画の主謀者は白鴎波なり、元来白鴎波は兇暴行為を敢行するの意図を蔵し之が為平素武器と人とを準備用意し

   居り、常にその機を窺い居たる処、會々3月5日元心昌の日支外交問題に関する言説を聴き有吉公使暗殺を思い立ち、その子分

   格の李康勲を動かし、共に兇行決行の決意を為さしめ、一面平素生活の支持を与え来れる鄭華岩の経済的援助を求むると共に、

   元心昌をして兇行決行上必要なる一切の準備に当たらしめ、更に決行後の宣伝計画をも確定し、相当慎重なる用意の下に計画を

   進行したるものなるが、兇行決行の任に在る白鴎波自身が幾分営利売名の意図を存せし為、自然その計画が漏洩し遂に失敗に帰

   するに至れるものなり
 


  上記の昭和8年3月27日付け在上海石射総領事による内田外務大臣への報告文にあるように、白貞基が「営利売名行為の意図」を

 持っていたため、自然とその計画が漏洩したというのは本当だろうか。逮捕された時の白貞基の不敵な顔つきを見ると、とても軽薄な行

 為を行うような人物には思われない。これについて、『抗日革命家 鴎波白貞基義士』(国民文化研究所編著)では、「どこの誰が自分の

 計画を、それも命を賭けた冒険で自ら自分の意図を暴露し、自己宣伝する者がいるだろうか」と批判している。 

  内部に計画を密告した人物がいたのであろうか。それとも日本が張り巡らしたスパイ網に引っ掛かったのであろうか。

  

 3.有吉明日本公使と暗殺計画について

  ここで、有吉明について簡単に触れてみたい。ウィキペディアによると、有吉明(1876年4月15日-1937年6月25日)は、京都府の出身で、
 
 父は、旧宮津藩藩士の有吉三七といい、京都留守居役を務めこともあるという。1898年に一橋大学の前身である東京高等商業学校を

 卒業して同年外務省に入省している。1909年から1919年まで約10年間、上海総領事を務めた。1932年7月、在中国日本公使とな

 り、1935月5月公使館から大使館に昇格すると、そのまま初代中国大使に就任した。翌1936年3月依頼退職しているが、ウィキペディ

 アによると、有吉明は日本国内の中国(華北)進出論に対して穏健論を通したため当時の政府方針と合致せず、事実上の解任だったとい

 う。

  ここで、有吉明が対中国政策についてどのような考えを持っていたか、当時の新聞記事を見てみよう。長崎新聞と長崎日日新聞に有吉

 明が対中国外交を語っている記事が掲載されているので、全文を紹介する。



  1)1933年3月24日付長崎新聞

   「折れて出るまでは 日本は沈黙を続くる

       対支外交の重大提言 有吉公使帰朝す

   【上海23日発】有吉駐支公使は24日午前9時上海発の長崎丸で岡崎書記官、浅賀書記生を伴ひ帰朝し、内田外相と会見し、支那

   の政情、特に汪兆銘帰国、学良没落後の南京政府の動向につき詳細報告したる上、直接交渉に関し、南京政府の現状よりすれば、
          たとへ
   其の一部に假令直接交渉の空気あるも、支那側が直ちに日支提携の誠意を披瀝し、以って国民政府の責任者が自ら之を提唱し来

   る迄は、日本は絶対に之に応諾せざる態度をとり、沈黙の政策を継続すべき事を主張し、今後の対支外交の重大提言をなす筈であ

   ると(写真は有吉公使)。」



        



  
  2)1933年3月26日付長崎日日新聞

   「日支直接交渉は 共存共栄がその眼目

       相手が支那だ気長にやる
                 もたら
          重要提言を齎して語る


    世界外交史上、未曾有の最難関に遭遇した日支問題の直接渦中に在り、さらでだに頑迷な支那を相手に、万難を冒して東奔西走、

   陰に陽に、日支外交の好転に奔走中の駐支公使有吉明氏は、今後の対支外交方針に対する政府への重要提言を携え、岡崎書記

   官、浅賀書記生帯同、25日午後1時20分上海より長崎入港の郵船長崎丸で赴任以来第2回目の帰朝をなした。汪兆銘の帰国、学

   良の没落等々混沌たる支那の政情殊に南京政府の動向に就いて今後の対支秘策を胸に秘めた公使は、面を外交官独特の微笑で

   まぎらはし、出迎えの朝野の名士に軽快な会釈を交わした後、記者団を招いて左の如く語った。
   
   日支直接交渉問題  現下の支那の政情を目撃しながら、積極的に日本から直接交渉を提唱するのは面白くない。支那それ自身が

    先ず自国の政争を収拾して然る後に彼から我に向って直接交渉を入れるにあらざれば、例へ直接交渉が開始されるとしても結局、

    結果に於ては却って貧しいものになってしまうより外はない。世間ではよく日支直接交渉問題を取り立てて騒いでいるようであるが、

    直接交渉の目的とする處は、日支両国の共存共栄が眼目である。われわれに決して自らのためにのみ日支直接交渉を提唱するの

    ではない、むしろ支那の前途を、よりよくしてやろうという目的のためである。兎角支那という国は気の長い国だから一朝一夕の直

    接交渉は期待されないだろう、暫く満州国を模範とせよ、而して自国の政情を早く収拾すべしと言ったような気持ちを自分は持ってい

    る。

   現下の支那の政情  汪兆銘の帰国後、彼が行政委員長になるとか、ならぬとか言って、ゴテゴテを続けているが、それは他国のこ

    とで何も我の関する處ではない。政治家の離合集散はどこの国でもあることだ。何も吾人が他所ごとにワァワァやって騒ぐ程のことも

    あるまいじゃないか?蒋介石と汪兆銘の間に横たわる溝が次第に深まって行くが行くまいがそんなことはどうでもよい。反蒋運動が

    漸次気勢を掲げて行くだろうが、同じ支那の国民の中でも蒋介石が善いというのもあり、悪いというのもあり、恰度日本に於ける民政

    党、政友会と言ったように、政客の運動という奴は、至極要領を得ないものである。蒋介石という人物は、元来何ごとも表面に出さぬ

    男だから、今後彼がどんな出方をするか、或いはどんな肚を持っているかということもわからず、無理に彼の腹をさぐって見る必要も

    なかろう。

   支那の対日方針  政局が固まらぬ中に対日交渉も何もあったもんじゃない。然し熱河討伐の生傷があるからどうかと言えば、むしろ

    現在では抗日気勢を盛り返したかの感がある。今の處支那の親日方針などというものは性急には考えられない。時勢の行くに任せ

    て、支那自身の覚醒を待つより外はないだろう。駐日蒋公使なども、今の處いつ帰任するかもわからず、支那の対日方針は依然と

    して漠然たるものだ。のみならず蒋介石の北上で、共産党が少し好勢に出たような感があり、対外どころではなく先ず自国の時局を

    一日も早く平穏に帰せしむるよう祈って止まない次第である。要するに日支関係の好転は時機未だ到らずであるから、暫し気長に

    して時機到来を待つより外はない云々。

    
     公使は長崎に上陸、富貴楼にて昼餐をとった後、同船にて午後5時神戸経由東上したが、滞在日数往復を加え約三週間の予定

    で、その間来月三日京都にて営まるる母堂の一周忌の法会に臨むことになっている。」

    

         




  3)有吉公使暗殺目的は誤報によるものか?

    上記新聞記事を読む限り、有吉公使が中国政府要人を買収してまで、積極的に満州問題など日中間の懸案問題の解決を図ったと

   いう事実は疑問を持たざるを得ない。有吉公使は中国国民政府の責任者が自ら日中直接交渉を提唱して来るまでは、日本は絶対に

   之に応諾しない態度をとり、沈黙の政策を継続すべき事を主張しているのである。日中関係の好転は時機未だ到らずであるから、し

   ばし気長にして時機到来を待つより外はないと語る有吉公使が、日本から大金を投入して買収工作を本当に行ったのか筆者にはに

   わかに信じがたく思われるのであるが、真相は筆者には浅学のためわからない。どなたかからのご教示を待ちたいものてある。

    ちなみに有吉公使が上海や長崎で新聞記者に語った頃、白貞基、元心昌、李康勲の三人は上海の日本総領事館警察から有吉公

   使暗殺未遂事件で取り調べを受けている時である。
   
    ここで、この時期の日中関係を見ると、1931年9月に満州事変勃発、翌32年1月上海事変勃発、32年3月満州国成立、33年2月
                                                                               
   日本軍の熱河省侵攻、同2月国際連盟総会で日本軍の撤退を求める勧告案採択、33年3月日本、国際連盟を脱退、33年5月塘沽
                          
   協定により停戦成立といった動きがみられ、まさに激動の時期であった。中国内部では国共内戦の最中で、蒋介石は日中間で停戦

   協定が成立すると、「内戦停止、一致抗日」の世論に背を向け、「安内攘外」即ち、先ず国内の敵である共産党を一掃して安定させて

   から、そのあとに外敵日本の侵略を防ぐ、という基本方針により抗日よりも共産党撲滅に重きを置いていた。このため、蒋介石は日本

   と全面戦争となるのを避け、極力、対日妥協につとめていた時期であった。したがって、日本が中国政府要人を買収する必要はなか

   ったのではないかと私には思われてならない。

    1933年(昭和8年)3月27日付けの石射上海総領事発信 内田外務大臣宛報告要旨(有吉公使暗殺陰謀無政府主義者検挙の

   件)
の中の白貞基に関する部分に、「元より日支間外交上の裏面なりとて、有吉公使帰国目的等に関する事情を聞かされ此の際有吉

   公使を暗殺して日支両国外交当局の所謂陰謀を世界に暴露するの要ありと感じ」て犯行に及んだことが記されている。また、同年11

   月17日付けの鈴木長崎県知事発信 広田外務大臣宛通報要旨(有吉公使暗殺陰謀事件公判状況)には暗殺理由についてさらに

   詳しく記載されていて、それによると、11月15日に開かれた長崎地方裁判所の公判で、元心昌について、

    「昭和8年3月5日、同志白貞基方に於て被告3人の外黒色恐怖団員と会合し、満州問題等より有吉公使が荒木陸相等の密命を帯

    びて蒋介石を懐柔して満蒙を放棄せしむべく買収費4千万円を携行し居るを以て、此際同公使を暗殺して其の謀計を破壊し此機を

    逸せず革命を敢行すべきを熟議決定」したと述べられている。

    4千万円という金額は現在の金額に換算するといくらぐらいになるのか筆者にはわからないが、当時としては巨額の金額に上ると思

   われ、繰り返して言うが、それほどの大金を投入してまで蒋介石らを買収する必要はなかったのではないかという気がしてならない。

    したがって、元心昌が上海市内の華光医院で仕入れた情報は単なる噂に過ぎなかったのではないかと思われる。そもそも密命で

   あれば、外部に漏れることはなかったのではないだろうか。
   
    有吉明は1933年3月25日長崎で記者団に日中関係好転はしばし気長にして時機到来を待つより外はないと語ったように、対中

   外交では非常に穏健である。『朝日日本歴史人物事典』によると、中国大使在任中、関東軍や天津軍などが華北(現在の北京市・

   天津市・河北省・山西省・内モンゴル自治区をいう)分離工作を強行する中、有吉大使は日中両国の関係融和に努め、本省の訓令

   に反対する意見を具申し、そのため、帰国命令を受け依頼免官となったそうである。
    
    このような人物が暗殺の対象になることはあってはならないことであり、上海在住のアナーキストたちは誤った情報によって有吉

   公使の暗殺を図ったのではないかと思われる。



◎ 白貞基の略歴  (年齢は日本式による)

西暦年 年齢 白貞基の主要事跡 関連事項
1896年
 (1.19)
 
 0
全羅北道 扶安郡 東津面 下長里(現扶安邑 新雲里)で、父 白南一と母 尹玉文の長男として生まれる。 1897年、国号を「朝鮮」から「大韓帝国」へ変更する。
1908年 12歳 父 白南一が31歳で死去。井邑郡 永元面 鶯城里の曺八洛と結婚し、永元面 隠仙里へ移住。 1904年、第一次日韓協約締結。
1905年、第二次日韓協約締結。韓国を保護国とする。
1906年、韓国統監府を設置。伊藤博文初代統監となる。
1909年、安重根がハルピン駅で伊藤博文を暗殺する。
1911年 15歳 大金300円所持嫌疑で日本憲兵隊に連行されるが、金の出処と用途が明らかになり、放免される。 1910年、日韓併合。統監府は朝鮮総督府として改組される。初代総督に寺内正毅陸軍大臣が就任。
1914年 18歳 ・近隣農家に日本人警官が土足で入り、穀物などの種や糸車を持って出て、足で踏みつけ破壊しているところを目撃、警官を激しく殴打する。この事件により逃避生活を始める。
・日本帝国の暴政に悲憤し、朝鮮農村の疲弊と遊離離散を激しく嘆き、日本帝国と決死の抗争をすることを決意する。
1912年、土地調査令が公布され、本格的な土地調査事業が実施される(~18年)。これにより多くの農民が土地を失い、朝鮮総督府の所有するところとなる。
1919年 23歳 ソウルで3.1独立運動を目撃、日本帝国に対し直接行動をとることを決心して、同志糾合と資金捻出に東奔西走する。8月に計画が漏れ、中国・奉天に亡命する。 3.1独立運動が全国で展開される。
3月17日、大韓民国臨時政府が上海で樹立される。
1920年 24歳 ソウルへ潜入し再起を図ったが、ソウル中部警察署に検挙される。身分を鉱夫と偽って無事釈放された後、国内各地を秘密裏に転々し、日本植民地下の状況や民情を視察する。 3月5日、朝鮮日報が創刊される。
4月1日、東亜日報が創刊される。
1921年 25歳 日本へ渡り、山梨県甲府で労働に従事するかたわら、社会主義研究に没頭する。五月上京し、東京府下新宿淀橋町で社会主義者 李憲と馬鳴基らの社会主義者と同居しながら労働に従事した。 7月、上海で中国共産党の創立大会が開催される。
1923年 27歳 8月26日東京からいったん故郷へ帰る。 9月、関東大震災発生。「朝鮮人が暴徒化した」との流言で多数の朝鮮人が虐殺される。
1924年 28歳 4月、中国 ・北京へ亡命し、李会栄の家で無政府主義者の李乙奎、李丁奎、鄭華岩と同居生活を始める。6月、同居人らと自由・平等・相互扶助が実現される新しい国づくりを目指して在中国朝鮮無政府主義者連盟を結成する。9月、李乙奎、李丁奎、鄭華岩と上海に引っ越し、中国や台湾の無政府主義者と提携する。 1月、中国国民党全国代表大会で連ソ・容共を採択(第一次国共合作)
11月、孫文が北京へ向かう途上、神戸市で大アジア主義の講演を行う。
1925年 29歳 上海5.30ゼネストに参加。同志李丁奎と共に華南アナーキスト連盟及び上海公団連合会を連携させて多数の労働者を動員し闘争を行う。8月、義烈団員の桂澤壽と共に、独立運動の動静を日本領事館に密告していた同胞の金昌洙の抹殺を図ったが、失敗に終わる。 4月、国体変革や私有財産制度を否定する運動を取り締まることを目的として治安維持法が公布される。
6月、朝鮮総督府警察局長三矢宮松、奉天軍閥警務処処長于珍との間に『三矢協定』が結ばれ、在満朝鮮人の取締を強化することを決定。
1926年 30歳 1月、広東省広州で柳子明と共に義烈団改組会議に参加。意見の相違で訣別し、単身上海へ帰る。4月、上海の金九の家で雲南軍官学校を卒業して上海に来た金宗鎮と出会い、意気投合する。 3月、大逆事件を企てたとして起訴されていた朝鮮人無政府主義者朴烈とその愛人金子文子が死刑判決を受ける。4月、二人とも恩赦で無期懲役に減刑される。7月、金子文子が刑務所内で自殺。
1927年 31歳 金九の斡旋で電車会社に就職し、同志たちを養う。この年、結核に罹っていた義烈団員を自宅で看病し、自分も結核に感染する。 4月12日、蒋介石が上海で反共クーデターを敢行。
4月18日、蒋介石が南京にて国民政府を樹立。
1928年 32歳 7月、南京で、朝鮮・中国・日本・フィリピン・ベトナム・インド等の同志たちと「東方無政府主義者連盟」を結成する。朝鮮代表として参加し、機関紙「東方」の編集委員として活動する。10月、李丁奎が日本警察に逮捕され、同志全員が南京に一時避難する。12月、肺病が悪化し、上海近郊の徐家匯療養所に1年近く入院する。この時、妙齢の日本人女性と恋仲になる。 6月、関東軍によって奉天軍閥の指導者張作霖が爆殺される。
7月、全国の府県警察部に社会運動や反政府的活動を取り締まる特別高等警察が設置される。
1930年 34歳 10月、満州の韓族総連合会で活動する金宗鎮を支援し満州に独立運動の基地を建設するため、鄭華岩・呉冕稙など同志らと共に北満州の海林に移住する。 4月、柳子明、柳基石ら上海に残留していた朝鮮人無政府主義者たちが李会栄を中心に南華韓人青年連盟を結成し、各地に散在する同志との連絡網を形成する。
1931年 35歳 4月、酷寒の気候と過労で持病の肺結核が悪化し、病に臥す。5月、病勢が多少好転したため、鄭華岩が同行して北京の病院に入院する。11月、朝鮮・中国・日本の同志たちと、日本機関や軍事施設を破壊し、日本の要人暗殺、日本密偵処断、反日宣伝を目的とした黒色恐怖団(Black Terrorist Party)を組織する。 9月、満州事変が勃発。在満朝鮮人無政府主義者の大部分が撤収して上海に集まり、南華韓人青年連盟の組織を拡大し、機関紙「東方」を刊行する。
この年、金九が日本要人の暗殺を目的とする韓人愛国団を組織する。
1932年 36歳 中国人同志の王亞樵から蒋介石暗殺の要請を受け蒋介石のいる廬山へ呉冕稙と出かけたが、実行せず帰る。4月29日、上海虹口公園で日本の天長節祝賀会爆破計画を企画するも、同志による天長節入場券購入が失敗し、未遂に終わる。12月、李会栄の満州行を日本警察に密告した同胞二人を同志と共に処刑する。 1月8日、李奉昌が桜田門で天皇暗殺を図る。1月~3月、第一次上海事変起こる。3月1日、満州国が建国される。4月29日、尹奉吉による上海天長節爆弾事件が起こる。11月、李会栄が秘密裏に満州に向かう途中日本警察に逮捕され、大連警察署で拷問を受け死亡。
1933年 37歳 3月5日、有吉明駐中日本公使を中心に日本軍部首脳らが本格的な侵略のため中国国民党政府内の大物を買収しようと上海の日本料理店六三亭で会同するという情報を入手し、黒色恐怖団全員集まって会議場の襲撃を決議した。白貞基が実行者に選ばれ、李康勳を協力者に指名する。
3月17日、襲撃計画決行のため六三亭から200m離れた中国料理店松江春2階で待機中に、前もって情報を探知していた共同租界工部局虹口警察署によって李康勳、元心昌と共に逮捕され、同警察署に拘禁される。
3月18日、在上海日本総領事館内の拘置所に移送される。
4月18日、殺人予備、治安維持法並びに爆発物取締罰則違反及び建造物損壊の罪で起訴される。
7月5日、予審が終結し、長崎地方裁判所の公判に回付される。7月11日、長崎市へ護送され、浦上拘置支所に収監される。
11月15日、長崎地方裁判所で白貞基と元心昌が無期懲役、李康勳が懲役15年を求刑される。
11月24日公判が開かれ、求刑どおりの判決が言い渡される。判決後、諫早市の長崎刑務所に収監される。
2月20日、プロレタリア作家小林多喜二が治安維持法違反容疑で逮捕される。東京・築地署に留置され特別高等警察の拷問により虐殺される。
2月24日、国際連盟が日本軍の満洲撤退勧告案を42対1で可決。松岡洋右代表退場。翌3月、国際連盟脱退を通告。
5月31日、柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的衝突を停止する塘沽停戦協定が日本軍と中国軍との間で締結される。
1934年 38歳 6月5日、服役中に持病の肺病が悪化し独房室内で死亡。死亡通知を受けた弟の白龍基が長崎刑務所を訪れ、刑務所内の共同墓地に埋葬する。 3月1日、満州国で帝政実施。執政溥儀が皇帝となる。
1946年 4月、日本で死刑または獄死した李奉昌・尹奉吉・白貞基の3人の遺骨が釜山に到着。
7月6日、3人の国民葬が挙行され、孝昌公園の三義士墓に遺骨が埋葬される。
1945年末頃、在東京殉国烈士解放義士遺骨奉還会が結成される。

11月3日、日本国憲法が公布される。
1963年 韓国政府から大韓民国建国功労勲章独立章が追叙される。 10月、韓国大統領選挙で朴正煕が当選。
12月、韓国で新憲法が発布、第三共和国が成立。
2004年 殉国70周年にあたる6月4日、出身地の全羅北道井邑市に鴎波白貞基義士紀念館が開館する。 7月、小泉純一郎首相と韓国の盧武鉉大統領が済州島で会談。
12月、小泉純一郎首相、鹿児島県指宿市で盧武鉉韓国大統領と会談



 
        
           

             韓国 全羅北道 井邑市にある鴎波白貞基義士紀念館



                                 
         ※ 参考文献  ウィキ百科(위키백과)より『白仁傑』、『白效淵』、『白南義』、『朴正熙』  
             
                    韓国・国民文化研究所編著 『抗日革命家 鴎波白貞基義士』 
                
                    曺廣海著 『抗日革命闘士 鴎波白貞基』 

                    『外務省警察史』(復刻版第47巻 不二出版)  

                

                                                 戻る