15.申維翰 신유한  1681~1752 


                申維翰(シン・ユハン)は、1719年に来日した江戸時代第9次の朝鮮通信使の製述官である。
    
              江戸時代の朝鮮通信使は1607年の第1次から1811年の第12次まで計12回日本に派遣された。
    
              朝鮮通信使一行は正使・副使・従事官の3使以下300人から500人の人数で、この中に日本人と
    
              やり取りする文章や詩文を作成する製述官という役職の者が1人おり、申維翰(1681~1752)もその一人

               だった。申維翰が書いた日本紀行文の『海游録』の冒頭で、申維翰は製述官について次のように述べている。


                「 近ごろ倭人の文字の癖はますます盛艶となり、学士大人と呼びながら郡をなして慕い、詩を乞い文を

                 求める者は街に満ち門を塞ぐのである。だから、彼らの言語に応接し、我が国の文華を宣耀するのが、

                 必ず製述官の責任とされるのである。まことに、その仕事は繁雑であり、その責任は大きい。

                 かつ、使臣の幕下にありながら、万里波濤を越えて訳舌の輩とともに出入りし周旋するのは、苦海で

                 あらざるはなく、人はみな畏れて、鋒矢に当たるのを避けるが如くこれを避ける。」


                このように製述官というのはたいへん労力のいる仕事だったようで、申維翰も国王から製述官に下命された後、

              母親が老い、家が貧しいなどの理由を挙げてこれを固辞している。しかし、正使に任命された洪致中が申維翰を

              製述官とすることについて国王の裁可を受けたために、ついに引き受けざるを得なかった。

              韓国の「韓国民族文化大百科事典」によると、申維翰の生い立ち等は次のとおりである。


               申維翰は1681年、父・申泰来、母・金碩玄の娘との間に生まれ、後に申泰始という人物の養子になった。

              字は周伯、号は靑泉といい、慶尚道の密陽で生まれ、同じく慶尚道の高霊で育った。
 
              1705年、24歳の時に科挙のうちの進士試という試験に合格し、進士となった。進士になると李氏朝鮮の

              最高学府である成均館に入学することができ、科挙の文科(小科と大科の2種類がある)のうちの大科を受験する 

              資格が与えられる。大科はまた成績によって、甲科・乙科・丙科という3つの等級があった。また、進士になると 

              下級官吏として任用される資格も与えられる。

               申維翰は成均館に入学し、文章を上手に書く者として知られるようになった。

              1713年、32歳の時に国に慶事があった場合に臨時に行われる増広試という科挙が行われ、申維翰はこの試験を

              受けて文科(丙科)に合格した。
 
              『海游録』(平凡社刊 姜在彦訳注)に記載された姜在彦氏の解説によると、申維翰は正妻が生んだ子ではなく、

              いわゆる庶子(婚外子)だった。朝鮮時代、同じ両班の子であっても嫡出子と庶子間の差別は厳しく、庶子出身は

              科挙に応試することが許されなかった。一時期、庶子でも科挙を受けることが許された時期があり、1713年の

              科挙がまさにそれであった。しかし、科挙に合格しても官位は厳しく制限されていたようである。


               申維翰は1719年、即ち38歳の時に朝鮮通信使の製述官となって日本に渡り、帰国後に就いた官職は奉尚寺の

              僉正(チョムジョン)だった。姜在彦氏の解説によると、奉尚寺は国家の祭祀や諡号を管掌する官庁で、そこでの官階は、

              正、副正、僉正、判官、主簿などあり、僉正は従四品に当たるそうである。そして申維翰は官職に恵まれることはなく、

              奉尚寺の僉正にとどまったそうで、おそらく庶子出身であったからだろうと姜在彦氏は述べておられる。




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