3.カウン・ヴィセンテ  (1580?~1626)   가운 비센테


  カウン・ヴィセンテ (Kaun Vicente)は、長崎の西坂で火あぶりの刑を受けて殉教した朝鮮出身のキリシタンである。

 カウンは名で、ヴィセンテは洗礼名である。カウンは「権」(クォン)という苗字だとする説があるが、筆者は『遥かなる高麗』(J.G.ルイズデ
 
 メディナ著、近藤出版社 1988年発行)に従い、カウンは名という説を採用する。『遥かなる高麗』には次のように記載されている。


 「 Kaun どの写本でも Caun として綴られている。これはビィンセンテの名でもあるし、数名の高麗人著述家の考えと異なって、姓では

  ない。彼らは根拠なしに一音節の Kwon [権] に変形する。カウンは韓国の純粋な熟語で、ソウルの南東、半島の中部にある町の地名

  [佳恩] でもある。この美しい意味の二文字からも、人名として考えられる。もしその少年の名前が[権] であったなら、当然 Kwon と発音

  した筈である。それを聞いたヨーロッパの宣教師たちは、Kwanbaku 関白や Kwanto 関東 あるいは Kwotei 皇帝  Kwomon 黄門 を耳

  にした時に Quambaco、Quanto、Quotei、quomon と書き記しているように、確かに Caunではなく Quon と表記したであろう。しかし、写

  本には例外なく、現在の発音では Kaunに当る Caun と記されている。」


  さて、多くの朝鮮人捕虜が日本軍から捕らえられたのに対し、このカウン少年は首都 漢城占領中に自ら小西行長の軍に出頭している。

 そして、小西行長の武将の一人で、行長とは親類でもある日比屋兵右衛門ヴィセンテから保護をうけ、九州天草の彼の領地である志岐
 
 (現在の熊本県天草郡苓北町志岐)に連れてこられ、志岐の教会長 ペドロ・モレホン神父(Pedro  Morejon, 1562-1639)から洗礼を受け

 た。そして保護者 日比屋兵右衛門と同じヴィセンテという霊名がつけられた。

  モレホン神父は1590年7 月に天正遣欧使節の4人の少年と共に長崎へ上陸した後、大阪、京都など日本国内で布教活動を行った。

 1614年(慶長19)に宣教師追放令によって日本を去り、後に、『日本におけるキリスト教に対する迫害』という書物を著している。

  カウン・ヴィセンテはこのペドロ・モレホン神父から養育され、成長したのであるが、モレホン神父は1627年3月31日付けの書簡でカウ

 ン・ヴィセンテについて概略を書き記している。その全文は次のとおりである。



 (1)宣教師が紹介するカウン・ヴィセンテの経歴 -1)   -ペドロ・モレホン  1627年3月31日付け書簡-


  「 第二は高麗生まれ、3,000の兵の偉大な隊長の息子、わが修道会のヴィセンテ・カウンであります。戦乱のとき、高麗国王は日本人

   が王国に侵入して来たことを知り、首都を立ち退いて産地へ逃れました。その折、ヴィセンテの父親も家族全員と共に国王について行き

   ました。[その後] 日本人は王宮と市を占領しました。
  
    ヴィセンテは12~3才でした。自由の身で安全な状態でありましたが、神が優れた御栄光をお定めになったので日本軍を遠くから見た

   時に、心のなかに神の恵みを感じて日本軍について行きました。守護の天使が彼を日本軍の総帥ドン・アグスチノ [小西行長] の陣営に

   導き、その親戚の者が天使のようなその少年の身を引き受けました。

    その後、[その親戚の者は] 日本へ戻ったとき、この少年を志岐の島の教会へ引き渡し、少年はそこで洗礼を受けました。また、文字は

   支那と同じですが、高麗の言葉とは全く違う日本語を学びました。そして教理の良き説教者となりましたが、徳が高くて天分に恵まれた少

   年でもありました。

    それで、彼は同国人のために大いに役立ちましたが、彼らは後に自分たちがキリシタンになり信仰を守ることが出来たのはヴィセンテ

   から受けた恩恵である、と語りました。[彼は] 日本人に対しても同じ働きをしました[・・・]。

    彼の受洗は1592年の末で、諸パドレは何年間か彼の秀でた才能を見て、このヴィセンテと他の1人を案内兼通訳として高麗へ渡ろう

   と努力しましたが、戦いの結果不可能となりました。高麗は日本に対して再度出兵してくれた支那と密接に結ばれていたので、パドレたち

   は首都・北京へヴィセンテを派遣し、彼はそこに殆ど7年間われらのパドレたちと共に滞在しました。その地の言語や学問をよく学び、支

   那からの経路によって高麗へ入ろうとしましたが、機会がありませんでした。

    それでパドレはヴィセンテに支那人の服を着せて再び日本へ派遣し、日本にいる支那人を改宗させ、同時に高麗人や日本人をも霊的

   に援助できるか否かを見ようとしました。しかし支那人は支那大官の命令に違反して日本に来ているので、彼を信用しませんでした。

    翌年パドレたちは、彼が能力があり徳も優れているので、ヴィセンテが[支那人から]スパイと疑われていることを憂慮して、彼をイエスス

   会に迎え、改めて支那へ派遣するために、マカオへ戻しました。

    その後、日本のパドレが強く要望したので、彼は1620年に日本へ戻り、この最後の6年間パドレを熱心に援助しました。

   私は彼の遍歴と働きを詳細に述べましたが、それは彼の聖なる熱意および諸パドレができる限りの手段を尽くした結果、それに彼が如何

   にイエスス入会と殉教の栄冠にふさわしい人物であったか、ということを知っていただくためです。

    彼は常に徳に優れ、謙虚で努力家でした。捕えられて前述の苦しみに絶え、牢獄内では人々の修練者の指導神父[のよう]になってい

   たので、彼らから深く愛されました。

    彼は自分の遍歴に関して、信仰の熱意と殉教への希望に満ちた手紙を書きましたが、長くなるのでこれは省略します。

    46才で死去、そのうちの33年間は私たちの家にいました。」(『遥かなる高麗』292~293貢)


  モレホン神父はカウン・ヴィセンテの死後、カウン・ヴィセンテから昔聞いたことを思い出して書いたようであるが、カウン・ヴィセンテの父親

 は3,000人の兵士を率いて戦った両班であった。両班とは朝鮮時代の貴族をいい、文班と武班があった。カウン・ヴィセンテの父親は武班

 すなわち、武官であった。3,000人の兵士を率いる武官であればかなり高級な武官だったと思われる。

  カウン・ヴィセンテがモレホン神父から洗礼を授けられたのは1592年12月のことで、翌1593年頃に修道士育成のための初等教育機関 

 セミナリヨに入学した。1591年に天草の志岐にセミナリオが設置されており、カウン・ヴィセンテはここで学んだものと思われる。セミナリオ

 でキリスト教教義の他、日本語と中国語も学んだ後、伝道師や説教者として活動した。


  1612年に中国の北京に派遣され、そこから朝鮮へ入って布教しようとしたのであるが、入国できず7年間北京に滞在している。1919年

 にマカオを経由して日本に戻ったが、再びマニラへ派遣され、1620年に日本へ帰国した。

  そして、1622年に長崎へ行き、長崎在住の中国人に布教活動を行った後、島原半島の有馬地方でイエズス会のイタリア人宣教師 ジョ

 アン・バウチスタ・ゾラ(Giovanni Battista Zola(157576-1626)神父とともに布教活動に邁進した。ゾラ神父は有馬で「こんふらりあ」という組を

 組織したという。当時の「こんふらりあ」の様子について、狭間芳樹氏は『キリシタン信仰におけるマルチリヨと「個」についての一考察』で次の

 ように紹介している。


    「こんふらりや」は、二十人ずつの組衆を一単位として持つ一組織であり、毎日曜日と大きな祝日毎に集まることになっていたが、

    目立たないように毎回別の家で集まり、また一切の騒々しいことを避け、皆が一緒に飲食することも禁じられていた。

    また、「こんふらりや」では、最初に皆で、天使祝詞を十回唱え、玄義について繰り返し黙想を重ねた後で、宗教的な講話や霊的

    な読書を行い、その後組内での宗教上の問題はもちろんのこと、困難な事象に対する打開策、病者や貧者の世話などについて

    も話し合われ、最後にもう一度、死者のための「おらしよ」と天使祝詞を五回祈るよう定められていた。


                   (アジア・キリスト教・多元性  現代キリスト教思想研究会 第6号 2008年3月 39~56貢 )



  1625年12月22日、カウン・ヴィセンテはジョアン・バウチスタ・ゾラ神父とともに、密告によって島原半島の口之津で捕えられ、島原

 の牢に投獄された。また、同じ頃、1621年にイエズス会日本管区長となったポルドガル人宣教師のフランシスコ・パシェコ神父も口之

 津で転びキリシタンの密告によって捕縛され、島原の牢に投獄されている。カウン・ヴィセンテはこの獄中に、同じ牢にいたパシェコ神

 父からイエズス会の会員として受け入れられている。

  『日本切支丹宗門史』(レオン・パジェス著)には、カウン・ヴィセンテは「賀兵衛(カヒョーエ)修士」と記載されている。また、同著による

 と、この時、島原の牢に入れられていたキリシタンの数は25人であったという。 



  この島原の牢獄で役人から拷問を受け、棄教するよう迫られるのであるが、拷問に耐えて棄教しなかった。ここで、日本イエズス会副

 管区長 マテオ・デ・コウロス神父の命令で獄中にカウン・ヴィセンテが自分自身のことを書いた書簡を紹介することにする。

  この書簡はジョアン・ロドリゲス・ジラン神父が1627年3月24日付けでマカオで書いた書簡の中に収録されているものである。



 (2)カウン・ヴィセンテ本人が書いた自身の経歴  -ジョアン・ロドリゲス・ジラン 1627年3月24日付け書簡より-
 

  「 貴方様の命令でこれを書きます。

   僕(しもべ)は1592年に高麗から日本に来て、その年の12月に教会に入り、以後神のお恵みによって33年余り、これに所属して

   まいりました。子供のときから聖人伝や栄光の殉教者の死の話を聞いて、ある時は隠者になろうという希望をもち、またある時は神

   の愛のため生命を捧げようと思いました。


       (中略)


    この拷問の期間が過ぎると、裁判官たちは僕を呼び出し、同じく管区長パドレとエルマノ(イルマン)・ガスパル・[・サダマツ]の小者

   2名も呼び出しました。僕は寒さに震えながら牢を出ました。呼び出した理由は僕たちのことを殿(島原藩主・松倉重政)に報告する

   ためでした。
    
    彼らのいる所へ行くと、ほかに書き手がいないので僕に書けと命じました。しかし僕は冷え切っていたし風にさらされて、全身が震え

   ていました。これを見て殿の家来が、僕に着物を着せて暖めなければ書くことは出来ない、と言いました。裁判官らはこれを聞くと、

   僕に冬の衣類を与え火で体を暖めさせました。暖をとり元気を取り戻して、僕は彼らが細かい指示を与えながら命じた通りのことを

   書きました。それは次のとおりです。

    『  僕、イエスス会のパドレ・ジョヴァンニ・バッティスタ・ゾラの同宿ヴィセンテは、高麗王国の首都の生まれです。13才の時に小西

     平右衛門という摂津守アグスチノの家来と一緒に日本に来ました。その年、志岐の島でキリシタンになり、教会に入って数多の

     土地でその手伝いをしました。

      33才のとき支那へ行って、そこに7年いました。42才で日本へ戻り、追われているときにパドレ・ジョヴァンニ・バッティスタ・ゾラ

     に会って、11月23日にパドレと共に捕えられました。 』 (『遥かなる高麗』296,301貢)



  カウン・ヴィセンテは11月23日に捕えられたと書いているが、12月22日の誤りである。
  
  次に、ジョアン・ロドリゲス・ジラン神父が1627年3月24日付けでマカオで書いた書簡の中でカウン・ヴィセンテのことを述べているもの

 を以下に紹介する。



 (3)宣教師が紹介するカウン・ヴィセンテの経歴 -2)  -ジョアン・ロドリゲス・ジラン  1627年3月24日付け書簡-

 
  「 [私たちが] 初めはカウン、後に俗人の服を着ていた時にはカヒョーエと呼んでいたエルマノ・ヴィセンテは、高麗の高い身分の生まれ

   です。日本人が高麗にしかけた戦いで、一キリシタンの捕虜となって日本に連れて来られ、志岐のわれらの教会に捧げられ、そこで

   13才の時に [導かれて] 洗礼を受けました。

    優れた天性を有し、死ぬまで神への奉仕を続けようという希望を示していたので、同宿として受け入れられ神学校へ送られました。

   そこで私たちの文字と日本の文字とを習得しました。それに偉大な能力を示したので、われらの聖信仰の内容の主要な要綱を学ぶこ

   とになり、彼の同国人に説教するに至りました。彼と同じように捕虜になった大勢の人々に教理を説いたので、その者たちはキリシタン
 
   になりました。日本語を充分に覚えてからは日本人にも説教をし、彼の教理の説明と立派な模範によって、大勢のパドレの布教を救け、

   彼と交渉のあった人々を満足させました。
 
    上長等は、高麗王国に布教の扉を開こうと希望して、彼を一パドレと共にかの地へ行かせようとしました。しかし日本からの道によって、
 
   その扉を開くことは如何に努力しても不可能でした。そこで、次に支那から道を開こうとしました。そのためにこのヴィセンテをかの地へ

   派遣しましたが、これも効果はありませんでした。

    ヴィセンテは支那の言葉と文字を学んで日本に戻りました。長崎に住んでいる支那人や毎年商品を持って来る支那人に説教をし、霊の

   援助をするために、彼は支那人を装っていました。

    しかし彼らは支那の法律に違反して日本に往来し、あるいは居住しているので、ヴィセンテが支那の大官から派遣された密偵で、自分

   たちの身分を暴いて処罰するのではないかと疑い、用心をして彼を避けました。こうした経緯の後、上長たちは、彼に非常に満足していた

   ので、エルマノ(修道士)として入会させ、支那のイエスス会の住院の何れかで手伝いをさせるために、再び彼をマカオへ送りました。

   しかし試練を経た徳の高い説教者が日本で不足しているのを見て、また彼を日本へ戻しました。

    日本に到着した時 [ヴィセンテ] は、日本の服を着ていました。キリシタンの世話で諸処のイエスス会士を援助し始め、最後には島原で

   パドレ・ジョヴァンニ・バッティスタ・ゾラを手伝っていて、パドレと共に逮捕されました。

    彼は非常に謙虚で信心深く特に忍耐強くて、苦行・禁欲に励み、あらゆる方法でその努力をしました。言葉に慎重であったので、誰をも

   傷つけたり、つまずかせたりすることがありませんでした。要するに、数多の徳をも備えていて、何処においても高徳の模範的人物と見ら
  
   れていました。

    牢内においては前に述べたように、とくに立派な模範を示したので、イエスス会にエルマノとして迎えられた高麗人の中の第一番目の

   者(誤り。一番目はガヨである。)にふさわしく、そこで46年の栄光の一生を終えたのです。」 (『遥かなる高麗』306~307貢)




 (4)カウン・ヴィセンテの拷問の様子について  -ジョアン・ロドリゲス・ジラン  1627年3月24日付け書簡-

    カウン・ヴィセンテが島原の牢獄内で受けた拷問について、カウン・ヴィセンテ自身が記述したものがジョアン・ロドリゲス・ジラン神父が

   書いた1627年3月24日付けの書簡に収められている。以下にその内容を紹介する。

  
    「 僕(しもべ)たちは、城内の要塞へ連れて行かれました。役人が来て僕たちにいくつか質問をした後、彼らの長・主水(もんど)が僕に

     エルマノ(イルマン 修道士)かと訊ねたので僕は、否、同宿であると答えました。僕が偽っている、と [彼が] 言ったので、僕は真実を

     申し上げていると答えました。


       (中略)

   
      棄教した何名かが署名した紙を見せて、同じようにせよと言いました。僕は、他の人の棄教は問題にはしない、他人が棄教しても自

     分はしない、と言いました。

      その時主水は、拷問によって僕にキリシタンをやめさせる、と言いました。直ちに小姓を呼んで、僕を拷問にかける道具の準備がで

     きているか、と訊ねました。小姓たちが、間もなく準備ができるでしょう、と言いました。彼は鉄の釘抜きを持って来させて、神の教えを

     棄てるか、とまた訊ねました。僕は、今日百才になったと考え、人生最後の日と思っている、とすでに申し上げた。如何に自分を苦しめ

     ても、棄教だけはしない、と答えました。

      役人は鉄の釘抜きを持って、僕を部屋の真中におきました。人々は、小者が拷問を恐れていたので叱りました。そして僕を中庭に連

     れ出し、帯の縄を解いて地面に倒し、6人の男が僕を押さえて右手を取り、指と腕を釘抜きで強く締め付け始めました。そうしながら、

     棄教するかと言うので、僕は否と二度答えました。

      中庭に出される前に僕はわが霊と体を神に捧げて、In manus tuas Domine commendo spiritum meum (「主よ、御手にわが霊を委

     ねます」-ルカによる福音書23の46-) と言いました。そして、神の広大で佳良な慈しみを体験しました。それは指と腕を残酷に締め

     つけられた時に、何の痛みも感じなかったからです。ただ手が眠っていて少し動かなくなったように感じただけでした。

      その後、水責めの拷問を僕にかける支度をしました。僕を裸にし地面から1尺ぐらいの高さの所に置きました。2人の小姓が僕を引

     きずっていって、水のたくさん入っている樽から容器で水を汲んで僕に注ぎました。これを見た代官主水は、拷問をかけている者に [よ

     り良い] 方法がある、と言いました。そして、彼自ら桶の水を汲んで注ぎ、水が僕の臍から胸や胃まで流れて溢れました。顔・鼻・眼・口

     に大量の水をかけ僕を苦しめ続けました。多量の水が口に入ったので、3回吐きました。しかしあの野蛮な男は疲れることなく水をか

     け続けたので、僕はほとんど呼吸ができなくなって死にかかり、それで彼らは拷問をやめました。

      拷問が終わると、彼らは残寒の中に裸のまま僕を2時間以上桃の樹にかたく縛っておきました。これで代官たちは引き上げ、3人の

     家来が残って僕を監視していました。この者たちは密かにやってきて、もし代官の命令に従って僕が宗教を棄てれば、彼らは僕を死な

     せないようにする、執拗に言いました。それに対して僕はみなに、そのようなことはしないと言うことの他返事はない、と言いました。彼

     らはそれで僕を称賛し、勇気がある振舞いだと言いました。

      少し時間がたって、代官主水が再び、これ以上の拷問を受けたり生命を失ったりすることのないように、僕に考えを変えるよう説得し

     た上、僕が豊後殿(島原の領主 松倉豊後守重政)に奉公できるように計らい、奉公したくなかったら、好きな所へ送ってやると言いま

     した。僕はその何れも希望しないし、神の教えに関わることは絶対にやめない。僕を焼き殺したいなら、すぐそうするように、もしその

     ほかの拷問で僕を苦しめる方が良いと思うなら、それも早速するように、と言いました。

      彼は答えて、僕を直ぐ殺す積りではなく、死ぬまで牢内に入れておき、この闘いにおいて僕か彼か、どちらが勝つか見守ろう、と言い

     ました。

      この時彼の小姓等が、わが主君は誰が強いか僕を以て試してみる事に決めているのだと大声で叫びました。僕はぜひそれに答え

     たい、という希望はありましたが、彼を怒らせない方が良い、と思いました。その時主水は、僕の縄を解かせ、僕の着ている物を見て、

     木綿の袷を与えるなと命じ、直ちに彼の面前から僕を立ち去らせました。  

      僕は牢に向かいましたが、そこに行って見ると、入口が非常に狭いので、3人の男が無理やり僕を押し入れなければならず、それで

     も充分ではなく、中にいる囚人が僕を引き入れて、辛うじて、牢に入ることが出来ました。

      牢内では冬の風が諸所から入って来て身に染みるので、その寒さは殊の外堪え難いものでした。衣類なしで極度の寒さに苦しんで

     いる14日間、常に縛られていました。食事の時は縄を解かれましたが、前記の裁判官の命令があるので、食事が終わればすぐ確実

     にまた縛られました。

      牢内には僕に分ける衣類を持っている者はいませんし、もし持っていたとしても、規則が厳しく番人が常に見張っているので、それを

     僕に与えることは困難に思われました。」 (『遥かなる高麗』298~301貢)



 (5)カウン・ヴィセンテらの殉教

    最後に、カウン・ヴィセンテら9名の殉教について、述べる。ジョアン・ロドリゲス・ジラン神父の1627年3月24日付け書簡によると、長

   崎で処刑するため、1926年6月18日夜に島原の牢獄を出発した。この時、処刑される者に敬意を表すため、神父2人はおおいで覆わ

   れた駕籠に載せられ、それぞれ2人の男がこれを担ぎ、修道士はよく縛って駄馬に載せた。彼らに6人の騎馬兵とおよそ50人の歩兵が

   小銃・弓矢で武装し、他に彼らの従者が同行した。6月19日夜明けに長崎から約2里離れた日見に到着し、ここで1泊した。そして翌6月

   20日、日見から長崎へ出発した。

    長崎の近くに行くと村の信徒の長であった良きキリシタンが道に出て、神父らに茶を飲ませたという。さらに日本の習わしによって、別れ

   の盃と果物を饗応しようとしたが、役人たちはそれが手間取ると考えて許さなかった。  

    以下はジラン神父の書簡をそのまま掲載する。

     「 聖なる受難者は、ついに犠牲のために積まれた薪の場所に連れて来られました。殉教の場の入口でパドレ・バルタサル・デ・トレス
 
      は管区長パドレにお先にと最敬礼をしました。彼らは海側から入り、みな入口でひざまずいて、聖なる場所を崇敬し、受けた恵みを

      特に彼らを殉教の道へと召したもうた神に感謝しました。
   
       役人はそこから彼らを丘に連れて行って、裁判長 [水野河内守] の命令どおり、すなわち今までの方法とは違って彼らを強く柱に

      縛り始めました。そして大きな苦しみなしに短い時間で死ぬように、 [柱のまわりには] 多量の薪が置いてありました。両端の柱2本

      は空いていて、三番目から縛り始めました。東方にあたる立山に面した最初の場所はパドレ・ジョヴァンニ・バッティスタ・ゾラが占

      め、中央にパドレ・バルタサル・デ・トレス、その次に管区長パドレがいました。四番目の柱はエルマノ・ペドロ・リンセイに当たり、そ

      こは彼が長年仕えていたパドレの隣でした。第五はエルマノ・ミゲル・トーゾー、第六はエルマノ・ヴィセンテ・カウン、第七はエルマノ・

      パブロ・シンスケです。第八はエルマノ・ジョアン・キサクで、彼は第九番目のエルマノ・ガスバル・サダマツに仕えていた為に栄光の

      殉教に恵まれたのです [・・・]。

       さて、多量の薪に点火されると、初めは煙が非常に多くて何も見えませんでしたが、燃え始めて恐ろしい焔が立ったときに、勇敢な

      受難者が見えました。彼らは非常にしっかりしていて静かで動かず、この恐ろしい焔の中で揺らいだり身動きしたりする者は1人もい

      ませんでした。
  
       ときどきイエスス・マリアの聖名を唱える声が聞こえましたが、それを唱え続けることが出来ずに、きわめて短い時間でその霊を神

      に捧げました。点火されてから絶息するまで、15分を越えないくらいでした [・・・]。 

       全員がこのように喜びのうちに勇敢に死亡すると、島原および大村の役人等は、殉教者の示した稀有の気力に感嘆し、裁判長に

      礼をしてから各自の土地へ戻って行きました。裁判長は、これも劣らず感嘆して市に帰りました。しかしその前にさらに多くの薪を火

      炎に投じて、聖なる遺体を灰にするように命じました。何名かの役人が裁判長の命令を遂行するために、殉教の場に残って、聖なる

      遺体を焼くことに努めました [・・・]。全てが燃え尽きたとき、聖なる灰を取って俵に入れ舟に載せて、かほど美しく価値ある品物を海

      へ運び、種子を蒔くように海中に撒きました [・・・]。 」 (『遥かなる高麗』305~306貢)




   このように、1626年6月20日、カウン・ヴィセンテは、ゾラ神父やパシェコ神父ら8名ともに長崎の西坂で火あぶりの刑に処せられて

  殉教した。享年46歳であった。1867年5月7日、ローマ教皇ピオ10世によって、カウン・ヴィセンテは日本で殉教した他の204名ととも

  に福者に列福された。

         


          

                   カウン・ヴィセンテが殉教した場所  西坂公園                   



 (6)カウン・ヴィセンテ年表
         

   西暦   月日 年齢                  経           歴
 1580?  
  0  首都 漢城(現在のソウル市)で生まれる。
 1592    12  漢城を占領していた小西行長の軍に自ら投降する。
 1592 12月   12 九州・天草の志岐でペドロ・モレホン神父から洗礼を受ける。洗礼名 ヴィセンテ。
 1593     13  志岐のセミナリオに入学し、神学や日本語などを学ぶ。
 1612     32  朝鮮での宣教を目的に中国へ渡る。朝鮮へ入国する機会が得られず、7年間
中国に滞在する。この間、中国語や中国の学問などを学ぶ。
 1619    39  日本へ帰国。長崎で中国人相手に宣教活動を行う。マカオへ派遣される。
1620 40 マカオから帰国。
 1622    42 長崎で中国人相手に宣教活動を行う。 
   ?     島原半島で宣教活動を行う。ジョアン・バウチスタ・ゾラ神父に付き従い、宣教を行
う。この間のキリスト教での身分は「同宿」。
 1625    12月22日 45  島原半島の口之津で信徒の密告に遭い、ジョアン・バウチスタ・ゾラ神父とともに逮捕され、島原の牢に入れられる。同じ牢に入れられていたイエズス会日本管区長のフランシスコ・パシェコ神父からイエズス会の修道士(イルマン)に昇進される。
 1626  6月20日 46  長崎・西坂の丘で火あぶりの刑を受けて殉教する。
 1867 5月7日    ローマ教皇ピオ10世から日本で殉教した他の204名とともに福者に列福される。






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