8.元心昌  원심창



         
           
            元心昌 (1933年3月撮影)


  元心昌(ウォン・シチャン)は、2013年11月、国家報勲処と光復会、独立記念館から「2013年12月の独立運動家」に選定され

 た。

 元心昌を紹介する文章には、「韓・中・日3ヵ国で敵の心臓を狙ったアナーキスト」という表題が付けられている。真に一代の英雄という

 感じのする人物である。彼は満12歳という少年の身でありながら、3.1独立運動に参加したというから、かなりの熱血漢だったに違い

 ない。15歳で日本へ渡り、日本大学で社会学などを勉強するかたわら無政府主義運動に身を投じている。その後、中国へ渡り、上海

 で南華韓人青年連盟という朝鮮人無政府主義団体に入り、抗日活動に本格的に取り組んだ。自分は実行犯ではなかったが、同志と

 共謀して天津の日本領事館や埠頭碇泊中の日本船舶、日本軍兵営に爆弾を投げ込むテロ行為を行って、日本当局を震撼させた。



                            

                            1932年12月 朝鮮中央日報記事


  また、1933年3月、中国駐在の有吉公使が日本政府から巨額の資金を受けて中国政府要人を買収し、満州や熱河地方で無抵抗

 主義を採らせるよう図っているという噂を聞きつけた元心昌は、同志と共に上海の高級日本料亭 六三亭から有吉公使が出てくるとこ

 ろを爆弾を投げ込んで暗殺するということを企て、近くの中国料理店で待機中、事前に密偵から通報を受けた日本の警察に逮捕され

 てしまった。この密偵は日本人ではなく、朝鮮人である可能性が高いと言われている。日本は中国各地にスパイ網を張り巡らせて治安

 維持に努めていたのである。

  この事件は韓国では「六三亭義挙」と呼ばれ、未遂に終わったが、日本と中国国民党政権の親日派との密約が世に暴露されたこと

 で、反日勢力が勢いを増し、中国国民の反日デモが強化されたとして高く評価されている。

  有吉公使暗殺未遂事件で逮捕された元心昌、白貞基、李康勲の3人は、同年7月、長崎へ護送され、長崎地方裁判所で裁判を受け

 ることになった。


                          




  元心昌ら3人は7月11日、長崎へ護送され、長崎刑務所浦上拘置支所の独房室にそれぞれ収容された。浦上拘置支所は長崎に投

下された原子爆弾により全壊し、収容されていた中国人や朝鮮人たちも多数爆死している。現在は平和公園になっている。
 
  
                  

                           元心昌らが収容された長崎刑務所浦上拘置支所


    
  同年(1933年)11月15日、長崎地方裁判所で公判が開かれ、元心昌と白貞基は無期懲役、李康勲は懲役15年を求刑された。

 同月24日、再び公判が開かれ、求刑どおりの判決が言い渡された。

  判決を受けた時の元心昌の発言が翌日の新聞に掲載されているので、記事全文を掲載する。

 
 ● 昭和8年11月25日付長崎新聞

    「    李に懲役15年 元と白に無期
   
           元・興奮して何事か喚き立つ     きのうそれぞれ判決


      極端なる無政府主義を信奉しわが有吉公使を暗殺せんとした朝鮮京畿道振威郡西面安享里 元心昌(28)、同全羅北道井邑
      
     郡永元面隠仙里 白貞基(37)、同江原道金化郡西面清陽里 李康勳(31)3名に係る殺人予備治安維持法並びに爆発物取締

     罰則違反の被告事件は長崎地方裁判長谷川裁判長、村上検事係で審理中であったが、24日午後2時40分厳重な警戒裡に

     元と白の両名に無期懲役、李に懲役15年の判決言渡しがあった。

      元は判決理由書を読み聞かされるや興奮の面をぬっと持ち上げ、


        『控訴はしません。しかしあなた方はわたしたちの立場にもなって貰いたい。表面に現はれた事体だけでいかんです。朝鮮
      
        の深い事情を知らんとするなら朝鮮に出張して見なさい』


      と、テーブルを叩きながら裁判長に何事かなほも喚きかかったので裁判長苦笑し、よしよしと取り外してさっさと立ち上がり3人

      は直ちに看守から廷外に連れ去られた。 」




  ● 昭和8年11月25日付長崎日日新聞

    「    朝鮮に対し裁判長は認識不足 元心昌昂然と放言す


      有吉公使を暗殺せんとして事前に発覚した朝鮮人元心昌、白貞基、李康勲の3名に対する判決は夕刊所報の如くであるが、
     
      長谷川裁判長が判決理由書を読み聞かせた後被告に対し、『控訴はするか、また何か言う事はないか』と話すと元心昌は

      昂然と拳を固く握りしめて振りあげながら、『控訴はしないが、裁判長は現代の朝鮮を考えず、ただ表面に現れたことのみを

      もって判決を下すは認識不足も甚だしい。裁判長は一度朝鮮を自分で視察し認識を新しくする必要がある』と鮮民の不平を

      法廷で爆発せしめ、白と李は同じく控訴しないと言明して閉廷した。」




  この判決の後、元心昌はいったん控訴するのだが、 12月17日になって控訴を取り下げ、無期懲役が確定した。この後、元心昌は

 鹿児島刑務所で服役した。日本の敗戦により出獄したのは1945年10月10日で、12年7ヶ月もの間獄中生活を送った。



 ◎元心昌の略歴 (年齢は日本式による)

  西 暦  年 齢                      略     歴
 1906年    0 12月1日、京畿道 平沢市 彭城邑 安享里で出生。
 1914年   7歳 3月、平沢公立普通学校(4年制)に入学、1918年卒業。
 1919年  12歳  3月、平沢においてわずか12歳で3.1独立運動に参加。
 1920年  13歳  3月、独立運動闘士を数多く輩出したソウルの中東中学校に入学 。2年で中退。
 1922年  15歳  日本へ渡る。年末に無政府主義団体 黒友会に入会する。 
 1923年   16歳 日本大学 専門部 社会科に入学。無政府主義運動に投身し、抗日運動に積極的に取り組む。
 1924年  17歳  在日本無政府主義者最初の労働組合 東興労働組合結成に参加。
幹部の一人として従事し、労働組合を通じた抗日闘争に取り組む。  
 1926年  19歳  5月、崔圭悰と共に東京で黒色運動社を創立し、独自の活動を開始。
11月、陸洪均と共に黒色戦線連盟を組織。日本人団体の黒色戦線青年連盟に加盟。 
この年、張祥重と共に朴烈系の不逞社を再建し、機関紙「黒友」第2号を発行。
 1927年  20歳  2月、弾圧を避けるため不逞社を黒風会と改称し、無政府主義運動の宣伝を積極的に行う。 
 1928年  21歳  1月15日、自ら中心となって黒風会を黒友連盟に改称する。 
 1929年  22歳  4月、黒友連盟員として活動中、東京留学生学友会事件で逮捕される。 
 1931年  24歳  4月、予審中に保釈で中野刑務所を出獄。より積極的に抗日闘争を行うため中国へ渡る。北京経由で上海へ行き、有名無実化していた南華韓人青年連盟を再建する。同連盟は1928年3月創立された在中国朝鮮無政府主義者連盟を1930年4月に改編、改称したもので、再建を契機に同連盟創立者の柳子明、鄭海里、鄭華岩等と共に抗日運動を行う。 
 1932年  26歳 12月、満州事変勃発で日本の対中国侵略戦争が公然と展開されるや、南華韓人青年連盟は抗日闘争をさらに積極的に推進するため、北京にある東北義勇軍後援会及びその他抗日団体と提携して武力闘争を展開。元心昌は同志の柳基石・柳基文兄弟、李容俊と共謀し、天津の日本総領事館、日清汽船埠頭碇泊中の船舶、日本軍兵営等に爆弾を投げ込んで武力闘争を敢行し、日本当局を震撼させた。
 1933年  26歳  3月5日、有吉公使が荒木陸軍大臣の命を受けて中国が満州と熱河地方で無抵抗主義を採択するよう工作するため、日本人と中国人約100名を上海武昌路の日本料亭「六三亭」に招いて接待をするという情報を元心昌が入手したことにより、黒色恐怖団全員が集まって有吉公使の暗殺を決議した。
3月17日、暗殺計画決行のため六三亭から200m離れた中国料理店松江春で待機中、前もって情報を探知していた共同租界工部局虹口警察署によって白貞基、李康勳と共に逮捕され、同警察署に拘禁される。
3月18日、在上海日本総領事館内の拘置所に移送される。
4月18日、殺人予備、治安維持法並びに爆発物取締罰則違反及び建造物損壊の罪で起訴される。
7月5日、予審が終結し、長崎地方裁判所の公判に付すべき旨が決定される。
7月11日、長崎市へ護送され、浦上拘置支所に収監される。
11月15日、長崎地方裁判所で元心昌と白貞基が無期懲役、李康勳が懲役15年を求刑される。
11月24日、公判が開かれ、求刑どおりの判決が言い渡される。元心昌のみ控訴。
12月17日、控訴を取り下げ、無期懲役が確定する。
 1945年   38歳  8月15日、鹿児島刑務所で服役中、植民地からの解放を迎える。
10月10日、マッカーサー総司令部の政治犯釈放命令で12年7ヶ月ぶりに出獄する。
11月頃、いったん帰国する。米ソによる信託統治案をめぐり左右両陣営が激しく対立している状況を目撃。在日朝鮮人社会の安定、収拾のため再び日本へ渡る。(時期不明)
 1946年  39歳  1月20日、共産党を支持する左派の在日本朝鮮人連盟に対抗して保守勢力を中心とした人士により新朝鮮建設同盟が結成され、事務総長に選出される。委員長に朴烈、副委員長に李康勲を選出。
10月3日、東京・日比谷公会堂において在日朝鮮人の法的地位確立と民生安定などを目的として在日本朝鮮居留民団が結成され、初代事務総長に選出される。団長に朴烈、副団長に李康勲を選出。(1948年10月4日、在日本大韓民国居留民団と改称。)
 1947年  40歳
 41歳
  5月、民団副団長に就任。
12月、民団顧問に就任。
 1948年  41歳  10月4日、李康勲と共に第一線から退く。
 1949年   42歳 4月、民団副団長に復帰。 
 1951年  44歳  4月、民団団長に選出される。 
 1952年  45歳  4月、民団団長団3人中の一人に選出される。 
 1953年  46歳  7月、民団顧問に就任。 
 1954年  48歳 12月5日、南北統一準備委員会を結成。
 1955年  48歳  1月30日、在日南北統一促進協議会を結成。中央代表委員兼事務局長に就任し、祖国の平和統一運動を展開。
 1959年  52歳  11月、祖国の平和的自主統一を推進するための啓蒙紙 統一朝鮮新聞(現 統一日報)を李栄根と共に創刊。代表常任顧問に就任。 
 1965年  58歳 韓国民族自主統一同盟日本本部を結成し、代表委員に就任。 
 1971年  64歳  7月4日、東京大田区矢口の岩崎内科病院で死去。
8月25日、「義士 元心昌先生 在日本社会葬委員会」が社会葬として葬儀を執行。遺骸は東京・大行寺に埋葬される。
 1977年   - 12月13日、韓国政府、元心昌に「建国勲章 国民章(現 独立章)」を授与することを決定。
 1979年   - 9月24日、 元心昌の養子 元亨載が勲章を受け取る。
 1991年   - 故郷・京畿道平沢市の出身小学校校庭に「元心昌義士像」が建立される。 
 2012年   - 7月4日、「独立運動家元心昌義士41周忌追慕式」が京畿道平沢市民によって開催される。
 2013年   - 11月、国家報勲処と光復会、独立記念館が共同で「2013年12月の独立運動家」に元心昌を選定。




◎関係資料


                
       
          昭和8年3月19日付け長崎新聞             昭和8年3月19日付け長崎日日新聞


    
   
                                昭和8年11月16日付長崎日日新聞
                                向って左から元心昌、白貞基、李康勲。






                         


                                 昭和8年11月25日付長崎日日新聞





                                

                                        昭和8年11月25日付長崎新聞





                      

                            昭和8年11月25日付長崎日日新聞
                              



 ◎金子文子の遺骨受取りに立ち会う

   1926年(大正15年)7月23日、朝鮮人アナーキスト朴烈の愛人 金子文子が宇都宮刑務所栃木支所で死亡したが、母親が文子

  の遺骨を引き取る際に元心昌は母親に付き添っている。のみならず、同志たちが文子の追悼会を開催するにあたり、遺骨を密かに

  持ち出すのにも関与している。以下は同年8月3日付け長崎新聞の記事である。(全文掲載)


  ・大正15年8月3日付け長崎新聞

  「  引取った文子の遺骨  同志一味に奪はる
    
       警戒の刑事数十名がポカン

        追悼会を済ます迄御存知ない

         責任署の失態か


    去る31日、栃木県栃木町女囚刑務所の墓地に於て母親に引渡された朴烈の妻文子の遺骨は母親キク及び布施弁護士など受

   取り、東京府下 雑司ケ谷 布施弁護士宅に一先づ引取り刑事数十名で警戒中であったが、1日午前5時頃同弁護士宅に朝鮮同志

   の一味のもの訪問し来り、同家奥10畳の間に置いてあった文子の遺骨を持出し、高田署の4,50名の警官重視の中をマンマと

   持去った。一方、府下池袋の自我人社に集合した中西猪之助氏等23名の一派は、文子の追悼会を行ふ目的を以て数名の者は

   布施弁護士宅を訪ね母親キクに面会し、文子の遺骨が入って居ると見せかけた大鞄を以て自我人社に引揚げたが、池袋警官隊

   は直ちに同社を包囲し中西外23名を検束し、一方、警官は文子の母キク及び附添人布施弁護士宅加藤某を召喚し取調の結果、
                                                                         ようや
   文子の遺骨は前記の如く持出された事が分かったので即刻各方面に打電し、遺骨捜査を開始した。其の結果、漸く午後6時頃に
       かね
   至って予て注意中の一派の上落会の前田純一方に置き、同家に於て一味が追悼会を行った事迄分ったので警官隊は直ちに右遺

   骨を押収し、一方中西等23名を釈放すると共に、持逃げに関する取調べを進めた。

    右は栃木刑務所より文子の遺骨を持帰る時附添って居た金成根、元必昌の2名が31日夜来布施氏方に詰めて居たので、2名
          ひそ
   の内金が窃かに持出したものであろうと言はれて居るが、40名で警戒しながらマンマと遺骨を奪はれ追悼会を終わる迄知らなか

   ったなどは高田署の責任問題であると言はれて居る。(東京電話) 」


    
     上記記事中、「元必昌」は元心昌の誤りで、「金成根」は金正根の誤りである。金正根はこの後、朝鮮の大邱で真友連盟事件に

   警察によって連座させられ、懲役5年の判決を受けて服役中肺結核が悪化して釈放され、京城で自宅軟禁中、1928年8月6日に

   39歳で亡くなっている。



 ◎出身地:京畿道平沢市

  元心昌が生まれ育った京畿道の平沢市を簡単に紹介する。

  平沢(ピョンテ市は人口約45万人で、京畿道の南部に位置し、忠清南道と接している。西は黄海に面しており、中国青島省との間

 に国際定期船が就航している。韓国海軍第2艦隊の母港があり、在韓米軍空軍や韓国空軍の司令部がおかれている烏山(オサン)

 空軍基地がある。朝鮮戦争が起ったことにより、1952年にこの地に空軍基地が建設されたものである。

  平沢地方は昔から農産物が豊かな地方として知られ、文化財として、「平沢農楽」は1985年に国指定重要無形文化財となってい

 る。

 農楽はとても賑やかで見ていて楽しいものだが、筆者はまだ平沢農楽はまだ見たことはない。韓国の「ウッタリ平沢農楽」というウェブ

 サイト(http://www.ptnongak.or.kr)を見ると、サーカスを思わせるようなものもあり、ぜひ実際に見てみたいものだという気にかられる。

  なお、平沢市は青森市や松山市と姉妹都市になっている。




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