日遙上人  (余 大男)  여 대남


  日遙上人(にちようしょうにん)は文禄慶長の役の時、加藤清正によって朝鮮から日本へ連れて来られ、その後日蓮宗(当時は法華宗)の僧侶となった

  人物である。江戸時代、島原藩主の高力忠信によって島原に護国寺が創建された時、日遙上人は熊本から招かれて初代住職 (開山) となっている。

  本名は余大男(ヨ・デナム)というが、大男は幼名であり、成長してからは学淵及び好仁に改めるとともに、後には本行院と号した。

  韓国のウィキ百科に余大男が紹介されているので、次のとおり全文を翻訳する。


  「余大男(1580年 - 1659年12月16日) は朝鮮出身の日本の僧侶。別称は日遙上人、高麗日遙、高麗上人。慶尚南道の河東郡出身。

   普賢庵で文章の勉強をしていたところ、1592年の壬辰倭乱時に日本の将軍加藤清正の武将高橋三九によって拉致され、日本へ連行された。

   高橋により倭将加藤の前に引き出され、むごたらしい拷問を受けた。しかし、幼い余大男はこの時、紙と筆をくれと言って唐の詩人杜牧の詩「山行」を

   書いて加藤に差し出すと、加藤清正はこれを見て、この子は尋常な子ではないと述べて釈放してやった後、自分の側において面倒をみた。

   その後故郷へ帰らせてくれと加藤に頼んだが受け入れられず、日蓮宗信徒だったという加藤の影響力で出家し、日真上人の弟子となった。

   その後余大男は、師の日真上人の援助を受けて日本第一の仏教学院である京都の六條講院で学んだ。余大男はその後久遠寺、法輪寺などでも

   学び、日遙上人と呼ばれるようになった。1609年、29歳の時、本妙寺の第3代住職になったが、この寺は熊本で中心となる寺で、第2代の住職は

   余大男を出家させた日真上人の弟子の日繞(にちよう)上人だった。

   父親の手紙を受け取った余大男は一時身辺を整理して帰国しようと、加藤清正の息子の加藤忠広に釈放を懇請したけれども拒絶され、手紙の往来
  
   まで統制された。日本の熊本県本妙寺で彼が秘密裏にやり取りした手紙が発見され、2003年2月KBS歴史スペシャル 「壬辰倭乱捕虜追跡」という

   特集ドキュメンタリーで放映されたりもした。 」



    ここで、日遙上人こと余大男が加藤清正の前で書いたという杜牧の「山行」という詩をを掲載しておく。


     遠上寒山石径斜     遠く寒山に上れば石径斜めなり     遠く、もの寂しい山に登っていくと、石ころの多い小道が斜めに続いている。

     白雲生処有人家     白雲生ずる処人家有り          そして、そのはるか上の白雲が生じるあたりに、人家が見える。

     停車坐愛楓林晩     車を(とど)めて(そぞろ)に愛す楓林の(くれ)     車を止めさせて、しみじみと夕暮れの楓の林の景色を()でながめた。

     霜葉紅於二月花     霜葉(そうよう)は二月の花よりも紅なり      霜のために紅葉した楓の葉は春二月ごろに咲く花よりも、なおいっそう赤い

                                             ことであった。



   余大男はウィキペディアの韓国版であるウィキ百科に紹介されているが、日本ではまだ日遙上人あるいは余大男はウィキペディアに紹介されていない。

  しかし、ウェブサイトやブログでは簡単に紹介されているものがあるので、日遙上人についてある程度知ることができる。しかし、日遙上人についてもっと

  知ることができるのはなんといっても出版物である。大正15年(1926年)に発行された『日鮮史話』(松田甲著)や、昭和61年(1986年)に出版された

  『日本のなかの朝鮮紀行』(金聲翰著)、平成24年(1986年)10月に出版された 『四溟堂松雲大師』 という本の中で、日遙上人の異母弟の子孫にあた

  られる余信鎬という方が書かれた「壬乱被虜、日遙上人」 という文章が参考になる。以下、それらの一部を引用させていただきながら、日遙上人について

  もう少し詳しく見て行くことにする。なお、『日鮮史話』は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに掲載されているので、インターネットで見ることが

  できてとても便利である。



   まず、日遙上人の故郷であるが、当時の名称で言うと、慶尚道 河東縣 西良谷であり、現在の慶尚南道 河東(ハドン)良甫(ヤンボ)面 朴達(パッタル)里である。

  良甫面の人口は2015年4月30日現在、2043人である。(河東郡良甫面のホームページより)  この良甫面の下に里と呼ばれる行政区域が7つあって、

  単純平均すると1つの里に292人住んでいることになる。朴達里を訪れた余信鎬氏によると、朴達里は人口の多くない小さな村だそうである。良甫面の

  ホームページによると、良甫面は東北部と西南部を2つの山で囲まれた農村地帯で、キウィと栗かぼちゃ(西洋かぼちゃ)が特産品で、栗かぼちゃの全生産

  量が日本に輸出されているそうである。

  
   日遙上人の父の名前は余天甲(ヨ・チョンガプ)と言い、後に壽禧(スヒ)と改名している。1593年7月の晋州の戦いで父親とともに義兵として日本軍と戦ったようで、天甲の

  父親は戦闘中に負傷し、後日それが原因で死亡したそうである。天甲は日本軍の捕虜となり、広島へ連行された後、1601年に朝鮮へ帰還したという。

  この晋州の戦いの時、日遙上人即ち余大男は、親戚が住職になっている近在の普賢庵という寺に身を隠していたところ、加藤清正軍の高橋三左衛門に

  捕らえられている。この時、大男は13歳であったという。韓国のウィキ百科では余大男は1580年生まれとしているが、韓国の他のウェブサイトやブログを

  見ると1581年生まれとしているものがある。昔は現在と違い、年齢は数え年を用いていたので、余大男は1581年生まれと思われる。『日鮮史話・第1編』

  (松田甲著)によると、本妙寺の記録に、 「萬治二年己亥二月二十六日、疾を感じて遷化す、壽七十九」と記載されているという。萬治二年は1659年である

  ので、逆算すると誕生年は1581年となる。


   余大男は以前から普賢庵で燈邃という親戚にあたる住職から学問を学んでおり、晋州城戦闘後、日本軍が凱旋の途中河東の普賢庵までやって来た時に

  捕らえられたわけである。河東という地域は仏教の盛んな所で、宏大な寺院が多かったそうである。河東の雙溪洞という地区に存在したこの普賢庵という寺は

  雙溪寺という寺に属した寺院と推測されている。 (「日鮮史話・第1編」66頁)  韓国には普賢庵、文殊庵という名前の付いた寺が各地に建てられているが、

  河東のこの普賢庵は現在はもう存在していないようである。



   ところで、余大男はいつ日本へ連れて来られたのだろうか。加藤清正は文禄5年(1596年)6月、小西行長と石田三成の讒言に遭って秀吉から日本へ呼び

  戻され、京の伏見で謹慎させられたが、この時は少数で帰国しているので、余大男が一緒に連れて来られるわけがない。清正はこの年閏7月13日(西暦の

  9月5日)に起きた慶長伏見大地震を契機として謹慎が解けて、9月に大阪城で行われた明との和議交渉が破綻した後に領地の隈本へ帰った。そして、11月に

  家臣7千人と共に隈本を出発し、対馬を経由して慶長2年(1597年)1月に再び朝鮮へ渡った後、翌慶長3年(1598年)11月に帰国している。余大男はこの時に

  清正ら多くの将兵と共に日本の博多に上陸し、隈本へ連れて来られたものと考えるのが普通だろうと思われる。ところが実際はそうではなかった。余大男が

  1620年に父親からもらった手紙の返事を書いた草稿が本妙寺に残っているが、それには捕らえられてから数ヵ月後に肥後へ護送されたと記載されている。

  その草稿の手紙の一部を見てみよう。



   
   「 この息子好仁はわが家中代々の善行の余徳を人一倍うけ、また御父上様がはやくより御教授くださいましたお蔭で、捕らえられました日、青い刃の閃く

    のも恐れず、次の二句をしたためました。
 
        独上寒山石逕斜  白雲生処有人家    (独り寒山に登るに、石の道は斜めに伸び、白雲の湧きおこるところに人家あり)   


     清正将軍が「これは凡庸な子ではない」といって側に呼び寄せ、自分の服を脱いで着せかけ、御前を退いて食事をする時には特別に食べものを分けて

    くれました。このように保護されること数ヵ月ののち、まず私はこの国の肥後の地に護送され、頭を剃り僧になれと言いつけられました。その日から今日に至る

    まで、ただ法華経を唱え、朝夕に苦悩にさいなまれつつ寒さも飢えも忘れて過ごしてまいりました。 」 

                                          ( 金聲翰著 金容権訳 『日本のなかの朝鮮紀行』 35頁~36頁) 




    上の草稿に書かれてあるように、余大男が清正の前で書いた詩の第一句中、「遠く」を「独り」に書き換えていることがわかる。ただ単に覚えた詩をそのまま

   書くのではなく、少しでも創作しているところに清正が感心したかもしれないが、それ以上に年齢のわりには字が達筆だったので、とても驚いたのだろう。

   清正も杜牧のこの有名な詩は知っていたであろう。私も中学か高校の時に漢文の授業で習ったので知っている。


   漢文を読み書きできる余大男は捕虜生活中、加藤清正の陣営にいた清正の補佐役として活躍している日真上人とも時には筆談していたことと思われる。

  日真上人は朝鮮での戦争に随行し、筆談での通訳や情勢の分析と把握、文書作成のほか、本陣との情報伝達役も担当したと言う。加藤清正が築城した西生浦(ソセンポ)

  倭城では朝鮮の僧侶四溟大師(サミョンデサ)と数回講和会談を行っている。この日真上人は天正13年(1585年)に加藤清正が摂津に父清忠の菩提寺として

  建てた本妙寺の開山すなわち初代住職になっている。この本妙寺は天正16年(1588年)、清正が肥後太守に封じられると、3年後の天正19年(1591年)に

  摂津から隈本城内に移されている。対馬島主の宗義智が僧侶の玄蘇を従軍僧として朝鮮に連れて行ったように、加藤清正も僧侶である日真上人を朝鮮に連れて

  行き、外交活動などに従事させたわけである。

   
   日真上人は余大男を自分の師である日乾(にちけん)上人のいる京都の六条講院へ送り、勉強させた。その時期はいつかはわからない。余大男は六条講院での修学後は

  甲州にある法華宗(日蓮宗)の総本山 身延山久遠寺や、下総の法輪寺(飯高檀林)などでも修行を続けている。

   慶長13年(1608年)に日真上人は弟子の日繞上人に住職を譲って引退したが、日繞上人がわずか1年足らずで亡くなったために、慶長14年(1609年)に

  加藤清正は日遙上人を熊本に召還して3代目の住職に任命した。この年日遙上人は29歳だった。江戸時代、第1回の朝鮮通信使である回答兼刷還使が慶長

  12年(1607年)に日本を訪れた際、随行員の一人であった河東出身の官員が京で日遥上人と出会っていることから、熊本に呼び戻されるまでは日遥上人は京に

  いたものと推測される。

   しかし、熊本に戻って来たのもつかの間、加藤清正が翌々年の慶長16年(1611年)6月24日に病で亡くなっている。日遙上人は清正の1周忌に菩提を弔うため、

  法華経を書写している。その翌年の3回忌には日遙上人や山内の僧侶が加わって一夜で法華経69,384文字を書写している。本妙寺では毎年加藤清正の命日に

  あたる陽暦7月23日に頓写会(とんしゃえ)という大法要が行われているが、日遙上人が清正の1周忌に法華経を書写したのが始まりだそうである。



   慶長19年(1614年)に熊本城内の本妙寺が火災で焼失すると、日遙上人は清正の眠る中尾山に3年の歳月をかけて本妙寺を再建した。

  元和6年(1620年)には、それまで死んだと思っていた故郷の父から思いもかけない手紙が届いた。手紙を読もうとして日遙上人は感涙にむせんでしまっている。

  そして藩主の忠広に、父と母のいる故郷へ帰らせてくれるよう陳情したけれども、若い忠広は許可してくれなかった。

   その後時期はわからないが、日遙上人は住職を日選上人に譲って本妙寺を退き、妙光山蓮政寺に移っている。そして慶安4年(1651年)に肥前の島原に護国寺が

  創建された時、その開山となっている。その翌年の承応元年(1652年)に本妙寺第4代住職の日選上人が亡くなると、日遙上人は第5代目として日悠上人をたてて、

  その後見を行っている。

   本妙寺の中興の祖と言われる日遙上人は万治2年(1659年)に病のため79歳で亡くなった。お墓は本妙寺内にある。

   なお、日遙上人の父、余天甲には妻が二人いて、日遙上人には故郷の河東に異母弟が二人いた。現在、島原の護国寺と河東の人たちとで交流が行われている

  そうである。 (「三十番神・護国寺」)




     最後に、日遙上人と父親・余天甲の手紙の内容を 『日本のなかの朝鮮紀行』 (金聲翰著 金容権訳)から2通、ここに掲載させていただくことにする。


   ○ 余天甲からの手紙 (1620年 旧暦五月七日)


     「 九州肥後国熊本本妙寺学淵日遙聖人宛

       朝鮮国河東に住む父余天甲が息子余大男に送る。

       おまえが癸亥年七月、雙溪洞普賢庵の親戚の和尚燈邃のところで捕えられた後、生死も知れずおまえの母とともに、夜も昼もただ号哭するばかり

      であった。
  
       去る丁未年、わが国の通信使が日本に行った時(従っていた)河東官員が道中おまえに会い姓名をたずねたところ、おまえの答えは名は余大男で

      あり、父の名は余天甲であったという。

       その人が戻り私に伝えてくれて、初めておまえが日本の京都の五山で生きていることを知った。

       おまえの母と私は痛哭し、涙を流しながら語り合った。他の人は次々に逃亡して朝鮮へ帰ってきているのに、ただ独りわが息子大男が帰ってこない

      のはおそらく父母が生きていることを知らぬためであろう、と。

       しばしばおまえに手紙を送ろうとしたが、送る方途がなかった。

       昨年秋おまえの友人河終男が朝鮮に戻って来て私にこう話したのだ。余大男は捕えられて日本の僧になりました。以前日本の都にいたが、九州

      肥後国熊本法華寺内にある本妙寺に下り、そこで暮しています。名前は本行院日遙上人とも、金法寺学淵ともいいます、と。

       おまえが元気だという知らせを聞き、嬉しさにわれを忘れたが、父母が養い育てた恩恵も忘れ他郷に安住し、長い間帰ってこないとなると、かえって

      恨みがましくもあった。

       おまえは日本で何不自由なく暮らしているがゆえに帰ろうとしないのだろうか。僧になり海外で安らかに過ごしているがゆえに帰らないのだろうか。

       考えてもみなさい。私の年は五十八歳、おまえの母はもう六十歳だ。たしかに戦乱はつらく苦しかったが、今では家中の者も変わりなく、奴婢も多く、

      他人が羨むほどだ。ただ息子を失ったことが無念でしかたがない。

       おまえも今や四十歳、その上学問に親しんだというからには、父母を大事にする情も知っているはずだ。父母の生前に戻ってくることも孝行ではない

      か。また天の恵みではないか。父母とともに相まみえ、自分の国で幸福に暮らせば、やはりこれもまた身の幸いではないか。奴婢たちを使って家業を

      行うことも、また楽しいことではないか。

       まして私とおまえの母はすでに年老い、老残の境に入った。よくよく考えてみよ。

       急いでおまえの主人に告げ、おまえの師にも告げなさい。そして帰国の意を(ねんご)ろに申し上げなさい。

       船に乗り海に浮かび、無事生きて帰り、再び空と日を仰ぎみ、父と息子が一つところで出会い、余生をともにすれば、その喜びはいかばかりだろうか。

          庚申五月七日父親  」
 
 

 
    
   ○ 日遙上人から父親あての手紙 (1620年 旧暦十月三日)


     「 御両親様、百度拝礼し返書を捧げます。

          息子好仁謹んで奉る

       朝鮮国慶尚道河東余寿禧氏宅にお伝えくだされたし。

       思いもかけず親書をいただきました。

       御父上様御母上様お二人におかれましては恙無(つつがな)く病苦を免れ、今日まで御身も矍鑠(かくしゃく) たる御様子、琴瑟(きんしつ)相和し、まことに幸いに

      存じ上げます。

       封書を開き読もうとして、まず感涙にむせんでしまいました。これも天のおぼしめしでございましょうか。神の御加護でしょうか。莫としてその由縁を知る

      よしもございませんが、ただ慶びの気持に耐えざるばかりです。

       この息子好仁はわが家中代々の善行の余徳を人一倍うけ、また御父上様がはやくより御教授くださいましたお蔭で、捕らえられました日、青い刃の閃く

      のも恐れず、次の二句をしたためました。

 
         独上寒山石逕斜  白雲生処有人家    (独り寒山に登るに、石の道は斜めに伸び、白雲の湧きおこるところに人家あり)   


       清正将軍が「これは凡庸な子ではない」といって側に呼び寄せ、自分の服を脱いで着せかけ、御前を退いて食事をする時には特別に食べものを分けて

      くれました。このように保護されること数ヵ月ののち、まず私はこの国の肥後の地に護送され、頭を剃り僧になれと言いつけられました。その日から今日に

      至るまで、ただ法華経を唱え、朝夕に苦悩にさいなまれつつ寒さも飢えも忘れて過ごしてまいりました。
     
       初めに捕えられた日から今日まで二十八年間、常に手を清め香を焚き、(あした)には日輪に祈り(ゆうべ)には仏に拝礼をささげ、かく訴えました。わが先祖代々
   
      悪行ゆえの災禍を受けたこともございませんのに、何の罪あってこの淋しい我身はこのように長い間、かような遠隔の地におきざりにされることになったの

      でしょうか。
    
       このように泣き叫び訴えたことも一度や二度ではございません。

       今まったく思いがけずお手紙を頂戴できたのも、私の思うところでは二十八年間捧げた祈禱の応答ではないかと思うのです。

       私は、この手紙を渡す人につき従って御父上様御母上様の前に駆けつけ拝礼を捧げたい思いでいっぱいです。そして長い間抱きつづけてきたものを

      吐露することができたなら、その日の夕には死んでも後悔はないでしょう。最も無念なことは他でもありません。私が今日まで主人の禄を食み、主人の

      衣服を着て育ったことです。それでこのように堪え難いのです。

       平伏してお願い申し上げます。御父上様御母上様、もう数年心を和らげてお待ちくださるわけにはまいりませんでしょうか。私の考えでは、お送りくださ

      った手紙を持って、この国の将軍と州守に泣訴陳情するつもりであります。誠をもって二、三年間に限り、(ねんご)ろに乞うてみようと思うのです。彼らもみな人の

      子でございます。思いをめぐらし、心うたれることがないとはいえますまい。

       いつか天道がよく回り再び帰国できましたなら、お二人にとっては死んだ息子が生きかえり、私としましては失った父を再び得られることにもなります。

      おおむね吉凶栄辱はみな天道によると言いますが、これもまた幸いなことではないでしょうか。

       私はお送りくださった手紙を朝夕に拝み、決してないがしろにはしないつもりです。お二人もこの手紙を私と思い眺めるようにしてくだされば幸いです。

       ただお送りくださった手紙に「父母が育て養った恩恵を忘れ他郷に安住し、長い間帰ってこないので」云々とございましたが、お言葉に心も千々に乱れ
     
       ました。しかし、無念とお思いのところをすこし解き明かしたく存じます。

        もし泰平の世に私が一人逃亡し、父母や友人を捨て、見知らぬ土地にもぐり込んだのなら、私の無類の親不孝の罪は三千五刑をもってしても足りない

       でしょう。またたちどころに受ける禍だけでも口ではとうてい語り尽くせぬほどのものでございましょう。

        王朝の王子が捕虜として捕えられ、良家の子女が辱めを受けた時に、私が他郷にきたことがどうして光栄であり得ましょう。どうしてそれを望むことが

       できましょうか。

        伏してお願い申し上げます。やむを得ぬことであったとお察しくださり、恩恵に背いたという非難をお広めにならないでくださればと思います。

       祖父得麟氏の安否と師の邃住職の生死をなぜ詳しくお教えくださらないのかわかりません。お二人の鴻恩は夢にも忘れたことはございません。私の

       消息をお伝えくださった河東官員と友人河終男の二人には感謝の意を伝えてください。思いは尽きないのですが、申し上げたいことは限りなく、ここで

       詳しく述べることができません。

        平身低頭して二度拝礼いたします。

        庚申十月三日 息子好仁、日本国本妙寺よりあわただしく書をしたためます。

        つけ加えて申し上げます。お送りくださったお手紙は九月末日に受け取りました。この国には心の通じあう友人がおりません。ただ居昌の李希尹、

       晋州の邵逖、蜜陽の卞思循、山陰の洪雲海、扶安の金汝英、光陽の李荘など五、六人と朝夕に故国の話をするのみです。

        この国では朝鮮の鷹を珍重します。もし日本にくる使臣がいれば、よい鷹を二羽買い送り対馬島主と肥後太守への贈物とし、私をあとおししていただけ

       ればと思います。 」

        




     

 日遥上人の年表

  西 暦 年齢
(数え年)
              
           日遙上人(余大男)の主要事跡
関連事項
1581年 1歳
慶尚道 河東縣 西良谷(現在の慶尚南道 河東郡 良甫面 朴達里)で、父 余天甲と母 蔡氏の間に生まれる。
1585年、加藤清正が摂津に本妙寺を創建。日真上人が開山(初代住職)に迎えられる。

1588年、清正が肥後太守に封じられる。
?年 ?歳
河東の普賢庵で親戚の住職 燈邃から学問を学び始める。
1590年、日本の要請にもとづき朝鮮から通信使が来日し、秀吉に謁見する。
1591年、本妙寺を隈本城内に移す。
1592年4月、文禄の役起こる。
1593年 13歳 7月、普賢庵で加藤清正軍に捕らわれる。数ヵ月間清正軍の陣営に抑留された後、清正の領地の肥後へ送られる。 1593年7月、晋州の戦闘
?年 ?歳 日真上人の師 日乾上人のいる京都の六条講院(当時一流の仏教学院)へ送られる。 1597年、慶長の役起こる。
?年 ?歳 甲州にある法華宗総本山の身延山久遠寺で修行する。 1598年11月、日本軍が朝鮮から帰国する。
?年 ?歳 下総の法輪寺(飯高檀林。檀林とは僧侶の学問所のこと)で修行する。 1605年、天皇の勅許で着用が認められる紫衣の着用を日真上人が認められる。以後、歴代の本妙寺住職に紫衣の着用が認められることとなる。
1607年 27歳 回答兼刷還使(江戸時代、第1回の朝鮮通信使)が日本を訪れた際、随行員の一人であった河東出身の官員と日遥上人が京で出会う。 1607年、熊本城が完成する。隈本が熊本と改称される。
1609年 29歳 京?から熊本に呼び戻され、本妙寺の第3代住職となる。 1608年、日真上人が本妙寺住職を弟子の日繞上人に譲る。
1609年、日繞上人が亡くなる。
1613年 33歳  加藤清正の3回忌に山内の僧侶と共に一夜で法華経69,384文字を書写する。 1611年、熊本藩主 加藤清正が亡くなる。
1616年 36歳 1614年に発生した火災で焼失した本妙寺を3年かけて清正の墓所のある中尾山(現在の本妙寺山)に再建する。 1617年、第2回の回答兼刷還使が日本を訪問。
1620年 40歳 故郷の父 余天甲より5月7日付けの手紙が到着する。
10月3日付けで父親に手紙を書く。
1621年、対馬藩が国書を偽造して国王使を朝鮮に派遣する。
1622年 42歳 故郷の父 余天甲より7月8日付けの手紙が到着する。 1624年、第3回の回答兼刷還使が日本を訪問。
1625年 45歳 1月に父親に手紙を書くも、送ることができなかった。 1626年、師の日真上人が72歳で亡くなる。
1651年 71歳 肥前 島原藩主 高力忠信が島原に護国寺を創建。日遙上人が開山(初代住職)として招かれる。 1632年、加藤忠広が改易され、小倉藩主の細川忠利が新しく熊本藩主となる。
1652年、本妙寺第4代住職の日選上人が亡くなると、第5代として日悠上人を
たてて後見を行う。
1659年 79歳 万治2年2月26日、病のため79歳で亡くなり、本妙寺境内に葬られる。 1655年、江戸時代通算6回目の朝鮮通信使が日本を訪問。






   参考文献

       『四溟堂松雲大師』   松雲大師顕彰会編   平成24年(2012年)10月12日発行 海鳥社

       『日本のなかの朝鮮紀行』  金聲翰著 昭和61年(1986年)5月15日発行 三省堂

       『加藤清正 -朝鮮侵略の実像-』  北島万次著  平成19年(2007年)4月1日発行 吉川弘文館

       『加藤清正』  佐竹申伍著 平成3年(1991年)2月10日発行 青樹社 

       『NHK文化セミナー 漢詩を読む 杜牧』 石川忠久著 平成3年(1991年)4月1日発行

       『日鮮史話・第1編』  松田甲著 大正15年(1926年)発行  朝鮮総督府  国立国会図書館 近代デジタルライブラリー

   

                               

      岩永住職様のお許しをいただいて、護国寺内部の写真を掲載させていただきました。



       

                          山門                                                       本堂







       
   
                         案内板







                        

                日蓮聖人の像と歴代住職の御位牌                                     日遙上人の御位牌








                            

                                          日遥上人が父にあてて書いた手紙の写し
                                       
                                         現物は熊本市の本妙寺に保存されています。







                

                 日遥上人直筆の書                                         「日遥」の文字が見える

            「南妙法蓮華経」と書かれています。
     







                     

                                                本堂内部
            









                       

                                 本妙寺の歴代住職のお墓をそっくりそのまま同じ姿で建てたもの。

                                 中央の一番奥のお墓が日遥上人のお墓だそうです。







                              
                               

                                             日遥上人のお墓

                                  ここには、日遥上人の遺骨は埋葬されていないそうです。







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