松平 留



  (1)大村純鎮公の墓に刻まれた留姫の事績
 

   第9代大村藩主 大村純鎮 (おおむら すみやす 1759~1814)の正室になった人は、初代会津藩主 保科正之の六男 正容(まさかた 第3代藩主)

  の九男 容章(かたあき)の娘である。容章と側室 嘉代の次女として生まれ、名前は留という。留姫は宝暦9年(1759)12月11日に生まれ、その後、

  第5代会津藩主 松平容頌 (かたのぶ)の養女となって、安永5年(1776)12月7日に17歳で大村純鎮に嫁いでいる。

  文政9年(1826)に67歳で亡くなっており、お墓は東京都港区三田の実相寺にある。


   どうして留姫のお墓が大村家の菩提寺のある大村市の本経寺ではなく、東京の実相寺にあるのか不思議に思われるが、インターネットで留姫について

  調べてみたところ、大村純鎮と離縁しているようである。『呆嶷館』 というウェブサイトの中の「資料、参考書籍」の「会津松平系譜」に第3代正容の系譜が

  あり、「容章」のところに留姫が記載されており、離婚と記載されている。また、『花筐館』というウェブサイトの中の「葵の間」の「江戸大名系譜」に

  会津松平氏系譜があり、第3代正容の系譜の九男容章をクリックすると、側室嘉代との間にできた留姫についての記載があり、括弧内に離縁と記載され

  ている。


   大村市の本経寺内にある大村藩主大村家墓所に、第9代大村純鎮公のお墓があり、墓所は石霊屋(いしたまや)という形式のお墓である。

  
        

         大村藩第9代藩主 大村純鎮の墓所



    上の左写真に見える建物が石霊屋と言われる形式のお墓であるが、この石霊屋の壁面に純鎮公の事蹟が刻まれている。  

   その中に留姫のことが次のとおり記載されている。


              「 公初娶會津侯容頌女為夫人生二女夭夫人後有故大歸 


    これによると、2人の女の子を産んだけれども早く亡くなったこと(夭折)、後に故あって帰ったことがわかる。会津には帰らず、江戸に帰って生活し、

  そのまま江戸で亡くなって、会津松平家の菩提寺の一つである三田の実相時に葬られたと思われる。

   留姫の父親の容章(かたあき)公や母親の嘉代のお墓もこの実相寺にある。また会津藩の藩祖保科正之の継室於萬や幕末の会津藩主松平容保の

  次女泡玉院のお墓もあります。

   下の写真は純鎮公の石霊屋に刻まれている留姫に関する部分である。



                            


  
   それにしても、わずか2万7973石の小藩ながら、大村藩主大村家の墓所は立派なお墓が多く、巨大なものもいくつかある。

  小藩でありながら、このような規模の大きい墓所は全国的に異例と言えるのではなかろうか。




  (2)大村藩の公文書に記載された大村純鎮と留姫の結婚及び離縁


    第9代大村藩主 大村純鎮 (すみやす 1759~1814)が、第5代会津藩主 松平容頌(かたのぶ)の養女 留姫(1760~1826)と結婚及び離縁した

   ことについては、大村藩の藩政日記を集約した 『九葉実録』 という古文書に記載されている。

    この 『九葉実録』 は大村藩第4代藩主純長(すみなが)治世の慶安3年(1650)から幕末の第12代藩主 純熙(すみひろ)の時代まで約230年間

   に渡る藩政日記を集約・編纂したものである。集約された理由は、藩政日記の量が多量になったことと、長年の保存で破損、雨漏れ、鼠害などに

   より内容が後世に伝え難くなったため、幕末になって藩の祐筆役が中心になって全64巻に編纂されたものである。

    この古文書64巻は平成6年、大村史談会の約8年に及ぶ解読の末に翻刻出版され、お陰で古文書が読めなくても、内容を理解するのに便利に

   なった。

    さて、大村純鎮松平留との結婚及び離縁についてであるが、詳しくは記載されていない。離縁についてはわずか1行で終わっている。

  以下に、全文を掲載する。

  
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     安永五年

          (九月)十三日 公會津侯松平肥後守容頌 ノ女留子実ハ容頌ノ伯父靭負佐ノ女 ヲ娶ントシ、幕士長谷川太郎兵衛ヲ介シ請表ヲ呈ス

           十一月六日公江戸ニ至ル 十五日上営献物例ノ如シ 二十六日閣老等公召シ、教ヲ傳フ

           松平肥後守養女其方母方江引取置追而其方江婚姻相整度由願之通被仰付候

              (松平肥後守養女 その方母方へ引き取り置き、追ってその方へ婚姻あい整いたきよし、願いのとおり仰せつけられ候)

      
           十二月七日結納式ヲ行ヒ、夫人入輿ス 是歳様(※原文には木へんはない)教寺請テ曰ク  自今貴邸ニ上ラハ

           客禮ヲ以テ待遇セラレヨト 之ヲ充ス


        六年丁酉正月九日公婚姻式ヲ行フ  十五日上営シ、紗綾二巻ヲ将軍ニ、銀二枚ヲ世子ニ献シ以テ謝ス  此月新夫人ノ傳
      
        両角数右衛門二五口俸ヲ賜ヒ番頭次班ト為シ、新夫人ノ用達西村幸助二三口俸ヲ賜ヒ中小姓ト為ス

         (三月)九日公江戸ヲ發ス

      


         
     寛政九年  
    
         十一月廿九日夫人松平氏大帰ス  以テ上告ス 


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    ここで、大村純鎮と留姫に関していくつか箇条書きに整理してみる。

     ・宝暦9年 8月20日 [1759年10月10日]  大村純鎮が生まれる。

     ・宝暦9年12月11日 [1760年 1月28日]  留姫が生まれる。

     ・安永5年 9月13日 [1776年10月24日]  留姫を娶るため幕府に請表を提出

     ・安永5年12月 7日 [1777年 1月16日]  結納式が行われる。

     ・安永6年 正月 9日 [1777年 2月16日]   婚姻式が行われる。

     ・寛政9年11月29日 [1798年 1月15日]  大村純鎮と留姫が離縁
 

    結婚式を挙げたのは大村純鎮も留姫も共に満17歳の時であり、離縁したのは純鎮が満38歳の時、留姫が満37歳の時である。

   したがって二人の婚姻生活は約20年~21年続いたことになる。「大帰ス」というのは、離縁して実家に帰ることをいう。

   大村藩主の菩提寺本教寺にある大村純鎮の墓の事蹟にも夫人が大帰(ス)と書かれている。

       


                                     




     留姫の父 松平容章が1786年、母嘉代が1804年に亡くなっているが、2人の墓が会津松平家の菩提寺の一つである江戸の実相寺にあること、

    また、留姫の墓も実相寺にあることから、留姫は会津までは帰らず江戸に留まったと考えるのが自然かもしれない。 


     なお、興味深い人物が挙げられている。「幕士長谷川太郎兵衛」という人は、池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」のモデルである

    長谷川平蔵宣以(のぶため)にとって本家にあたる人で、長谷川正直ともいい、旗本であり石高は1450石だった。

    長谷川正直も長谷川平蔵宣以も江戸の火付盗賊改方の頭として活躍した。長谷川正直が大村純鎮と留姫の結婚の仲介をした時は67歳で、この時、

    持筒頭という将軍を護衛する鉄砲隊の隊長を務めていたようである。火付盗賊改方頭を辞めてから10年経っていた。17歳の大村純鎮が67歳の

    長谷川正直と以前から知り合いだったとは考えにくいが、どういう縁で純鎮が留姫を娶るために長谷川正直が幕府に「請表」を提出することになった

    のか、興味が引かれるところである。

 
      上記 『九葉実録』には、両角(もろずみ)数右衛門という人が 「新夫人ノ傳」という役職に就任しているが、「新夫人ノ傳」(しんふじんのもり)という

    のは実家から付けられた養育掛又は警固役をいう。したがって、両角数右衛門は会津藩士ということになる。おそらく、用達の西村幸助という人も

    会津藩士だったと思われる。『会津イン東京』 というウェブサイトの「幕末会津藩殉難者名」にも西村姓の者が12名記載されている。

     また、他に留姫には会津藩から派遣されたお側付きの女性も数人いたのではなかろうか。

   
     大村藩主 大村純鎮は大村に帰るため安永六年三月九日に江戸を出発しているので、結婚式は江戸で行われている。おそらく大村藩の藩邸で

    行われたと思われる。将軍に献上した紗綾(さあや)というのは絹織物の一種で、光沢があるものである。この時の将軍は第10代の徳川家治である。

    将軍への献上品が紗綾2巻で、世子へは銀2枚というのはとても質素な気がするが、大村藩の財政力の程度を窺い知ることができるのではなかろうか。



   (3)留姫離縁の理由


      最後に、留姫を離縁した理由について述べる。

    留姫を離縁したのは、寛政9年11月29日であるが、この年の『九葉実録』 の2月5日付には、大村純鎮から老中安藤信成あてに次のとおり上申書が

    出されたことが記載されている。


      
      (寛政九年) 二月五日閣老安藤對馬守二上申ス

                先達御届申上候私妾腹之男子春之進當拾五歳罷成候 

                弥丈夫相成候付嫡子仕候 此段御聞置可被下候
                
                以上

                    二月五日  大村信濃守
     


     つまり、自分の妾が産んだ春之進という男子が既に15歳になり、いよいよ丈夫になったので嫡子にしたいと言っている。

    その後、『九葉実録』には次のとおり記載されている。

    
             三月朔公江戸ヲ発ス  五日公子春之進君ノ嫡位ヲ正シ、且ツ諱純昌ト名ツクルヲ衆庶ニ告ケ、

             因テ自今世子ト唱ヘ、且ツ昌ノ字ヲ避ケシメ、又側室八重女ヲ殿ト唱ヘシム

  

      八重(鈎氏)という側室が産んだ子が世継ぎになるとともに、八重も「殿」と呼ばれるほど地位が上がったことで、娘二人が夭折して子のいない

    正室留姫は居心地が悪くなったのではなかろうか。留姫が疎んじられるようになったのかもしれない。それで留姫の方から離縁の申し出があった

    のではなかろうか。もしそうであれば留姫がなんとなく気の毒な感じがする。なお、春之進は第10代大村藩主となった大村純昌(おおむら すみよし)

    であるが、父の隠居により享和3年(1803)1月23日に家督を継いでいる。留姫はこの5年前に大村純鎮と離縁している。

     留姫は文政9年(1826)に66歳で亡くなった。江戸にお墓があることから江戸で亡くなったものと思われる。

 




          参考文献: 「九葉実録」 1巻・2巻  平成6年  大村史談会発行
                 
                  「大村史話」  中巻     昭和49年 大村史談会発行  
  

                 


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