さて、明治24年5月16日から市民への給水が開始されたのであるが、上水道設置の効果が市民に認められるようになったのは、火
災を鎮火させるのに、この水道がおおいに威力を発揮したからである。『長崎市制六十五年史 前編』に次のように当時の様子が紹介さ
れている。
「 給水開始間もない五月二十九日の夜半、築町の森崎某宅から出火し、折からの強風と密集地帯のため大火を予想されたが、
消防隊の活躍と消火栓につなぐホースの威力で二戸消失、焼死者二名の被害にとどめ鎮火したが、給水を開始してから防火に
利用した最初の火事であった。
給水が開始されてもまだ市民間に水道の得失論が盛んにたたかわされていたが、有料給水になった7月1日の夜、二度目の火
災が外浦町の饅頭屋から発生した。風下におかれた上野屋旅館が危機にひんした。旅館主 上野弥平は水道設置反対派の急先
鋒として同盟町の指導者であった。しかし火災は消防隊の放水作業の活躍で、上野屋旅館は危うく類焼の難から免かれた。
この二回の火事に示した水道の防火威力を目前にした市民は、しだいに水道に対する認識を改めはじめ、とくに上野弥平をはじ
め強硬な反対者も君子豹変すとの古語のとおり一転して、水道礼賛者にかわった。 」
この上野屋旅館は明治初期に建てられた当時長崎を代表する大きな旅館で、多くの著名人が宿泊している。「五足の靴」一行(与謝
野鉄幹、北原白秋、吉井勇ら5人)も、明治40年に宿泊しているし、明治42月8月には会津出身の陸軍大将柴五郎が少将時代、重砲
兵第二旅団長として下関へ赴任の途中、家族同伴で長崎を訪れ、上野屋旅館に宿泊している(「長崎を訪れた人々<明治篇>」)。
この柴五郎は佐世保軍港の防備のために設置された佐世保要塞の司令官として明治41年12月に就任し、翌年8月2日付けで重砲
兵第二旅団長に就任している。
また、元長崎県知事の日下義雄も大正8年11月に投宿している(「長崎を訪れた人々<大正篇>」)。上野屋旅館は現在の万才町にあ
る長崎家庭裁判所及びその周辺に建ってあったのであるが、昭和20年の長崎原爆で消失してしまった。
(3)五釐金之碑
長崎市の諏訪神社に「五釐金之碑」(ごりんきんのひ)という碑が明治25年に建てられている。碑文は北原雅長が書いたもので、長崎
における現存する数少ない北原雅長関連の歴史資料の一つです。五釐金とはいったいどういうものか、平成11年に長崎市教育委員会
が設置した看板に次のように説明されている。
『開国に当たって文久元年(1861)貿易商人の願いによって貿易額の千分の五の制が成立し、三厘を身許備(みもとそなえ)に、二厘
を市街整備費に当てたが、明治維新によって、いったん官に没収された。明治9年(1876)以降貿易商人たちは、その下げ戻し請願を
繰り返し、その結果、三厘金の積み立ては下付(かふ)されたが、二厘金の下付はなかったので再度その下げ戻し請願を繰り返し、四ヵ
年の歳月を経て明治16年(1883)商工会と表裏一体の貿易会所を設立して、これを受皿に下付された。この貿易会所は、その積立五
厘金を商工会への補助の、13項目にわたって土地用達費として公共事業費に補助したが、最後に明治24年(1891)に完成した長崎
最初の本河内水源地の工事完成のため、その全額を投入して解体した。この偉業を語り継ぐため、水源地に対面する「ここ」諏訪神社
境内の一角にこの碑が建てられている。』
それでは、北原雅長はどういう内容の碑文を書いたのであろうか。
前述したように、北原雅長の数少ない貴重な史跡であるので、ここに全文を紹介する。
『 五釐金之碑
五釐金の碑建んとて有志の人々予に記を求むるまゝつらつら往時を顧みるにこれが起因はさまざまこそかゝれ遠く慶長年間に始り
萬延二年に至りて相對買商人の願に依り貿易高千分の五を積立てたるなりけり明治の御代となりて一度は政府に納めしも諭達して
本の民有に返されたり同しき十一年五月區の総代を選び時の縣令海内氏に該金の下渡を請ふも許さずして其出納を貿易商に任す
べき旨を達せられたるは該五釐金を再ひ積せんとの深き考へもありつらんなれど貿易商の協議纏まらて同しき十四五年物議騒かしく
或は貿易商の専有金なりと云ひ又は區民の共有なりとかたりて區會もまた意見を提出するに至りたるも協議なりてこゝに二度是れか
下渡を請求せり時の縣令石田氏要求を容れて同しき十六年五月現金五萬四千七百五拾圓を公債證書にかへ其利子を下渡して區費
戸別割の賦課を補はしめたり爾来年毎に區費幾分の補金たりしも水道論成るの始め今の非職知事日下氏該費の不足にあてゝ證書
額面六萬六百四拾圓を下渡せるにより今は一金を余さゞるに至れり水道工費三十萬圓の多き其の五分の一に餘れる金額を五釐金
に得たるも市内先輩の功績にあらざるはなしかゝる事件のあともなくならむか有志者のうらみとするは予も同し心なれば今こゝに筆を
とりて碑面に書くことしかり
明治二十五年十一月
長崎市長従六位 北 原 雅 長
碑文は北原雅長の直筆と思われるが、120年以上も前の碑なので、かなり読みにくくなっている。諏訪神社の拝殿の隣の土地にひっ
そりと建っている。
五釐金之碑
(4)北原雅長のその後
北原雅長は長崎市長として28年6月7日まで1期6年を務め、5月の市会で第2代市長選挙にも立候補するが、投票の結果北原は
第1位となるが過半数に達せず、決選投票では同数となって規定により抽選を行うことになり、父親が旧大村藩家老で、本人は現県会
副議長横山寅一郎の陣営が当選くじを引き当てたため、北原雅長の再選は成らなかった。
北原が長崎市長在任中は、24年4月にロシア皇太子ニコライ二世が長崎を来遊し市主催で歓迎会を行っている。「長崎市史年表」
によると、ニコライ二世は市民の歓迎に感謝し、貧困者教育費として磨屋町夜学校に1000円を寄付している。この後、ニコライ二世は
滋賀県大津市で日本人巡査から襲撃されて負傷したのは周知のとおりである。また、25年(1892)にはフランス人が校長の海星学校
が設立されている。
上野写真館で撮影
長崎市長退任後3年余りを経て、北原雅長は31年8月、東京市下谷区長に就任した。引退後は、静岡県浜松市に移り住んだ。会津
藩の幕末最後の7年間の激動の歴史を明治29年8月から執筆していたのであるが、36年7月に7年間の歳月を費やして「七年史」と
いう書物の原稿を書き上げ、翌37年(1904)に出版した。会津藩主松平容保が文久2年(1862)に京都守護職となって以来京都の
治安維持に努めたため孝明天皇から絶大な信頼を受け、御宸翰(ごしんかん・天皇直筆の手紙)を何度か賜っている。この御宸翰の
内容を「七年史」で公表し、会津藩が決して賊軍ではなかったことを証明した。しかし、力づくで新政府を樹立した薩長出身の政治家
たちにとってはこの「七年史」という本はなんとも目障りな存在だったに違いない。この件によって北原雅長は不敬罪で拘留されてい
る。余生を歌人として送り、大正2年(1913)に71歳で世を去った。墓地は浜松市の曹洞宗西来院にある。徳川家康の正室築山御前
の墓も同じ墓苑にある。
七年史
参考文献
「長崎市制六十五年史 前篇」 長崎市総務部調査統計課編 昭和31年
「長崎市制五十年史」 長崎市役所編 長崎市役所 昭和14年
「明治維新以後の長崎」 長崎市小學校職員會著作兼発行 大正14年
「長崎市史年表」 長崎市史年表編さん委員会編 長崎市役所 昭和56年
「長崎縣人物伝」 古川増壽著 長崎縣教育會 大正8年
「厳原町誌」 厳原町誌編集委員会編 平成9年
「続会津士魂1」 早乙女貢著 集英社文庫 平成14年
「北原雅長」 フリー―百科事典 ウィキペディア
長崎市長選挙に関する記事 【鎮西日報 明治22年5月19日】
●市長候補者
長崎市会にては愈よ昨18日午前9時半より市長候補者の選挙会を開きたり。当日出席の議員は総数32人にして第1回の
選挙には太田資政氏22票、金井俊行氏9票、太田賢政氏1票(賢政は資政の誤りならん)、第2回には松原英義氏23票、金井
俊行氏9票、第3回には25番(田中勘太郎氏)出席、総数33名となり。北原雅長氏23票、金井俊行氏9票、吉井享氏1票に
して議長は右の結果を報じ最高点者
太 田 資 政(22点)
松 原 英 義(23点)
北 原 雅 長(23点)
の3氏当選に付き其筋へ上申すべしと述べ、次に議事録の朗読ありて午前11頃退会せり。
長崎市長に関する記事 【鎮西日報 明治22年6月8日】
●長崎市長は誰ぞ
長崎市長は誰に決まるやらとは近頃の一問題なり。独り長崎市民が寄り障りに言出づるのみならず、各郡の人々も
何となく注目し居ると見えて地方巡遊に出懸けたる社員などは數ば此の疑問に逢えりと。左れど記者とても点眼通
にあらねば裁可の欽命が太田氏に下るやら北原氏に下るやら又は松原氏に下るやら知り得べき様もなし。因て或る売卜先生に
問合わせけるに先生しく筮竹を案じて曰く、坎下坎上、夫れ坎はアナなり又ケハシキなり、水道はアナ
を穿って鉄管を通ず。水道布設はケハシキ混雑を惹起せり。是卦全く長崎市長は水道と密着関係あるを示せり云々講釈
頗る長し。記者急に其語を遮って先生止めよ 水道の講釈は甚だ退屈なり、誰が市長に上任すべきやを知れば足れりと問返へせしに、
売卜先生眼を圓して曰く、貴公亦性急なる哉、いざ断言せん、坎はキタなり、市長は必ず北に縁ある人に帰せん。
長崎市長裁可に関する記事 【鎮西日報 明治22年6月9日】
●市長就任
長崎市長は愈北原雅長氏就任の裁可を経て本月4日官報に左の如く掲載せり。
長崎県長崎市長候補者中従六位北原雅長は去る一日市長就任の裁可を経たり。
北原氏に関する記事 【鎮西日報 明治22年6月12日】
●北原氏の決心
対馬島司たる北原雅長氏が長崎市長に公撰せられ既に裁可ありしことは過日の本紙に記載せし如くなるが、聞く所によれば同氏
は初め市長の候補者に選挙せられし報を得しまでは飽くまで之を辞する意想なりしも既に裁可を得し今日に至りては就任の決心な
りといへり。
長崎人に関する記事 【鎮西日報 明治22年6月15日】
●長崎に人物なきか
長崎人士は従来他方人士の為に押し倒さるるの勢いありとは土着の人々が常に慨嘆する所にて、最初玉園会発起の旨趣も此処に
ありとか聞き及べるが今度市制実施に付き撰挙されたる重立ちし役員の多く他方人士なるぞ不思議なれ乃ち左に其の原籍を掲ぐ
れば、市長北原雅長(会津人) 助役和田要四郎(島原人) 参事会員毛利康之(長崎人) 同松本孝平(長崎人) 同森敬之(元島原人) 同只野
藤五郎(元会津人)同林耕作(長州人) 同若杉収之助(長崎人) 市会議長家永芳彦(元佐賀人) 同代理者高橋保馬(島原人)之に就いて視る
ときは市長、助役、市会議長、同代理者なる重役は悉く他方人士の為に占められ唯市参事会員の半数だけが長崎人士の手に残り
たる姿なり。殊に甚だ奇妙なるは島原人士の最も縁故多きの一事にして現に森、高橋の両氏は勿論、市長の候補者中にも松原英義氏
おり、其の裁可に落第なるや直ちに和田氏が助役として顕れたり。此の勢いにては書記も多分島原より出で給仕も小使いも島原
人士を充たすならんとは余りに想像過ぎた話なれど、従来の成り行きを以て推すときは是れも必無と云ふべからず。兎に角長崎には
余程人物が払底なりと見へ、銘々の自治政を行ふ役員を他の地方より傭ひ入れねばならぬとはさてさて嘆かわしき事なりと諏訪の氏子
と云ふ名前にて投書ありし。
北原氏の長崎到着記事 【鎮西日報 明治22年6月20日】
●北原島司
対馬島司北原雅長氏は一昨18日午後平丸便にて着崎。江戸町8番戸増永方へ投宿せしが長崎市議員中一部の人々は同夜より昨
日まで続々同氏の旅寓を訪問したるよし。
北原氏の対馬島司辞表 【鎮西日報 明治22年6月23日】
●北原島司辞表を出す
今度長崎市長に撰挙せられ已にその裁可を得たる長崎県島司北原雅長氏は愈よ市長の職に就くことを決心し、一昨21日現官島
司の辞表を提出したるよし。
対馬島司非職の記事 【鎮西日報 明治22年6月26日】
電報[昨25日午後5時15分東京特報]
北原対馬島司は非職を命ぜらる。
北原市長の主義について 【鎮西日報 明治23年1月9日】
●市長の蒟蒻主義
北原市長はメッタに演説せられぬ人なり。学校其他の諸ろの式等に臨でも極めて手短かに祝詞を陳べらるるがお定り
なりといふ。蓋し修辞は達意を主とすと云ふの説なるべし。今この北原君にして一場の演説を致されぬと聞いては人既に珍しがる
べきに加えて蒟蒻主義とは面白あらずや・・・・・と云ったのみにては判然せず請ふ伝聞の全部を写さん。
数日前上手筋の料理屋にて新年宴会を開きたる席上のことなりしぞ。君は例になくつッと起ちて市政の方針に関する
演説を致されて曰く、
余は現金掛値なしの主旨を演説せん。人或ひは余を目して蒟蒻主義と謂ふとか聞けり、善哉言や。余
が主義を評すること誠に当れり。余は益々此の蒟蒻主義を以て市政を調理せんと欲す。是れ自ら説あり、諸君の知らるる如
く蒟蒻は軟性なり。軟性に反するものを硬性とす。硬性の主義を把って物に接すれば物を破ることあり。軟性は之れに反
して物を和らげ物を整ふ。今や市内は水道問題軋轢の後を承けて百事最も調和の必要を感ず。故に余は此の際に臨
んで蒟蒻主義を採る。若し夫れ異日市政協和の後に至らぱ硬性の主義を以て軟性の欠点を救ふことあるべし云々。
例もながら君が活々溌々末節に拘泥せざるの風采には感服仕るなり。吾輩蛇足ながら蒟蒻主義に註明せん。曰く、
天下之至柔馳騁天下之至堅。