7.古川春英

古川春英については、平松勘治氏が『長崎遊学者事典』(平成11年発行 渓水社)で記述されており、全文紹介(掲載)させていただく。

   

「ふるかわ  しゅんりゅう  古川春龍

 18281870(文政11~明治3) 江戸時代末期の医者。幼名は留吉、別に春英。陸奥国河沼郡駒板村(福島県河沼郡河東町)の農家に生まれた。12歳のとき陸奥国会津郡若松城下(福島県会津若松市)に赴き、藩医山内春隴から漢方を学んだが飽き足らず、大阪に出て緒方洪庵の適々斎塾で蘭学と蘭方を修めた。1857(安政4)年藩校日新館内に蘭学所が設置されたことを知ると、急ぎ帰国の途につき、やがて蘭学所の教授に迎えられた。1860(万延1)年重ねて医学研鑽の必要を痛感して大阪に赴き、再び師洪庵のもとで蘭方の習得に努めた。さらに1864(元治1)年37歳のとき長崎に遊学し、オランダ人医師ボードインから本格的に西洋医学を学んだ。戊辰戦争が欲発すると、急ぎ帰藩し、野戦病院となった藩校日新館で幕医の松本良順を助けて傷病兵の治療に当たった。戦後は陸奥国河沼郡島村(福島県河沼郡河東町)の治療所長として傷病兵の治療と後進の指導に専心した。1870(明治3)年師ボードインに再会するため、長崎への出立を思い立ったが、出立直前に腸チフスで没した。

<参考文献> 『福島県史 22巻』『三百藩家臣人名辞典』『日本洋学人名事典』『福島県医師会史(下)』 」 


 上記によると、古川春英は長崎に来たのが1864(元治1)年で、戊辰戦争が勃発すると急ぎ帰藩したとあるが、戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いは1868年1月27日~30日(慶応4年1月3日~6日)に行われているので、遅くとも1868年2月末には会津に着いものと思われる。


ところが、別の資料『会津藩士 幕末人名事典』というホームページには、『慶応4年(1868)戊辰戦争が勃発し、戦地から後送されてくる戦傷者の手当てに窮した藩は、松本良順に応援を依頼する。良順は会津に赴き、治療を手がける傍ら「古川春英はどこにいるのか。会津藩には名医古川春英がいるではないか。早く彼を呼びなさい」と藩首脳部に訴え、藩は慌てて春英を探し出して召還させたという。』と記載されている。そこで、松本良順が会津にいつ行ったかということが疑問になるので、さらに松本良順についてインターネットで調べたところ、『和風上等 Wofu  Joto』というホームページに松本良順の年表が掲載されてあり、それには松本良順は「慶応四年四月 会津に到着する」と記載されている。

そうすると、会津藩が古川春英を探し出すにも日数がかかったであろうから、春英が会津に到着したのは慶応四年の5月、陽暦でいうと1868年6月頃ではなかったろうか。少なくとも松本良順が会津に着いた時はまだ古川春英は会津にいなかったのであるから、1868年6月頃と見るのが妥当と思われる。実は古川春英はいつまで長崎に滞在したのかが気になったので会津に到着した時期を推論したわけである。それとも平松勘治氏が記述されたとおり、戊辰戦争が勃発すると急ぎ帰藩したのかもしれない。しかし、そうすると、会津藩内でどうしていたのかも気になるところである。

古川春英は長崎に来て医学所(精得館)でオランダ人医師のボードインから近代医学を学び、戊辰戦争では多くの負傷者の治療を行っている。上記『会津藩士 幕末人名事典』には「会津戦争中、城内で神業的な外科手術や治療を行い多くの命を救った」と記載されている。また、足を負傷した新選組の土方歳三も古川春英が馬島瑞園とともに治療を行ったそうである。
 古川春英は明治3年(1870)に流行したチフスの治療に当るうちに自らも感染して死亡したが、このような名医が43歳の若さで亡くなったのは惜しまれる。



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