8.小川渉
 
    わたる
  小川渉については、『会津藩士 幕末人名事典』というホームページに記載されており、全文紹介(掲載)させていただく。

  

「 (1843~1907.2.5) 会津藩士小川常有の次男。藩命により昌平黌に学ぶ。戊辰戦争に参加ののち斗南に移る。1871年(明治4年)に青森田名部支庁に勤め、のち支庁長となり県政に尽力、小川町の名が残る。1875年(明治8年)に北斗新聞社を興し記者生活をする。のちに青森を去り、長崎県尋常中学校教諭となり、その後は会津に帰り、『會津藩教育考』の執筆に専念する。晩年は青森で漢学の塾を開く。墓は青森市香取神社境内。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)

 【文献資料】

 相田泰三『維新前後の会津の人々』会津士魂会 P152-154

 葛西富夫『斗南藩史』斗南会津会 P416-418

 『福島県史 22 人物』福島県 P96

 葛西富夫『続会津の歴史』講談社 P326-328

 小川渉『會津藩教育考』東京大学出版会 P677-679「著者の閲歴」 」

 

この『會津藩教育考』はかなりの名著のようで、『橘正史の考えるヒント』というブログにその緒言が掲載されており、ここに紹介させていただく。

 

「                緒言

 

 会津藩は徳川幕府中世以来文教武道を以て天下に名ありき、是れ決して吾等の私言にあらず、文学博士三島中州翁の曰へることあり、会津藩は尚武を以て俗を成し、往時に鳴れりと、又曰く、余天保の初に生る、当時海内の文藩は、人必ず指を会津藩に屈せり(原漢文)と、会津藩教育の淵源は既に藩祖公時代に発し、歴代益々文武を奨励して、子弟を養成したる結果、幕府の年末天下騒擾に際しては、能く力を王事に尽し、且つ宗家の為には藩国を犠牲に供するを惜まず、特に白虎隊殉国の如き、婦人殉節の如き、壮烈極まる事蹟を世に残すに至れり、近来世道人心大に弛廃し、悪思想天下に蔓延するに当り、憂国の士にして会津藩の教育に注意を惹き、其の資料を求むる者少からず、而して此の要求に応ずる良書としては、故小川渉先生の編著に係る本書に勝るものあらず、先生は会津藩士にして、幼児藩校日新館に学び、才学優秀を以て選抜せられて江戸昌平黌に留学を命ぜられ、博識能文を以て名あり、維新の後奥州斗南に移住し、同志と青森新聞を興して其の社長に挙げられ、公論正義を以て一時縣下を風靡せり、先生夙に会津藩教育の沿革を記述するの志あり、是に於て筆硯多忙の余暇を以て稿を起し、其の間或は上京して旧藩公松平家に就き諸記録を渉猟し、或は諸家の筆記を閲し、或は故老朋友に質し、苦心惨澹、数年を経て脱稿せり、本書即ち是なり、実に本書は土津公治世以来会津教育の淵源、町講所の設立、日新館の興起、市村の教育、教育制度、重なる教令、及び教育に功ありし諸名士の略伝等を年代を追うて記述し、独り文教のみならず、武術の教養及び士道の奨励に至るまで、網羅詳録せるを以て、之を通読すれば、会津教育の沿革、真相及び戊辰壮烈事蹟の由て来る所を知るを得べし、是に由て吾等相謀り、小川家の承諾を得て之を発行し以て希望者の需に応ずることとせり。(略)

 

昭和六年十二月         

会津藩教育考発行会  」

 

 

 さて、その小川渉は明治19年、長崎県尋常中学校教諭となって長崎に赴任して来た。3年後に会津に帰り、「会津藩教育考」を執筆している。この小川渉が長崎にいた同じ時期に旧会津藩士の日下義雄が長崎県知事として活躍しているので、日下知事が小川渉を長崎に招いたのではなかろうか。日下義雄は1851年生まれで小川渉が8歳年上なので、藩校日新館に同じ時期に通ったとは思われないが、小川渉は成績優秀を以て選抜せられて江戸昌平黌に留学を命ぜられた程なので、日下義雄は少なくとも小川渉の名前は知っていたに違いない。
 しかも、小川渉が勤務した長崎県尋常中学校は知事公舎と同じ旧長崎奉行所立山役所の敷地内に建ってあった。戊辰戦争を戦った二人は同郷ということで、長崎で仲良く酒を酌み交わしたこともあったのではなかろうか。日下義雄は後に福島県知事になって福島に帰っているので、会津で小川渉と再会したこともあったかもしれない。

 ところで、旧長崎奉行所敷地は役所敷地や学校敷地など様々な用途の敷地として使用されたが、現在、長崎歴史文化博物館となっているこの敷地内に『長崎歴史文化博物館の敷地の沿革』と題する碑が建立されている。下にその碑文を全文掲載する。

 

「         長崎歴史文化博物館の敷地の沿革

 

 16世紀後半頃      山のサンタ・マリア教会があったと言われる

 1649年 慶安2年   大目付井上筑後守屋敷

 1673年 延宝元年   長崎奉行所立山役所

 1715年 正徳5年   岩原目付屋敷

 1858年 安政5年   同屋敷内に英語伝習所設置(我が国英語教育の先駆け)

 1868年 明治元年   長崎府庁

 1874年 明治7年   長崎英語学校 

   明治前期       知事公舎(設置時期は不明)

1884年 明治17年  長崎県立中学校

 1908年 明治41年  長崎県女子師範学校(現在の長崎大学教育学部)

 1925年 大正15年  巡査教育所(現在の県警察学校)

 1942年 昭和17年  防空学校

1947年 昭和22年  長崎県庁(仮庁舎)

 1961年 昭和36年  長崎ユースホステル 

 1965年 昭和40年  県立美術博物館

 2005年 平成17年  長崎歴史文化博物館

 

 

 補足すると、旧長崎奉行所の敷地の一部に1884年(明治17年)4月1日 、「長崎県中学校」が建設され、同年6月4日に「長崎県立長崎中学校」と改称される。そして2年後の1886年(明治19年)7月11日には、中学校令に基づき「長崎県尋常中学校」と改称されている。小川渉は長崎県尋常中学校に校名が改称された年にこの学校へ赴任して来たわけである。 

 なお、1887年(明治20年)2月14日に森有礼文部大臣が同校を訪問している。

長崎歴史文化博物館敷地内の一角に長崎県立長崎中学校同窓会によって「長崎縣立長崎中學校址」という石碑が平成11年4月に建立されている。石碑には、

「安政5年創立英語伝習所を源流とする長崎縣立長崎中學校は明治17年から大正2年鳴滝に移るまでこの地に在った」という碑文が記載されている。

 
                     
                     長崎奉行所(立山役所)のあった地に建設された長崎歴史文化博物館


                      
                        旧長崎奉行所 (現長崎歴史文化博物館)内の敷地




                            

                       長崎縣立長崎中學校址







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