4.山本覚馬
(1)長崎で小銃購入を約定
山本覚馬が長崎に滞在した時期についてであるが、荒木康彦氏の著書『近代日独交渉史研究序説』によると、京都にいた山本が長崎へ発ったのが1866年11月6日(慶応2年9月29日)から1867年1月(慶応2年12月)の間であり、1867年3月3日(慶応3年1月27日)にドイツ商人カール・レーマンと共に長崎から兵庫に帰着しているので、長崎滞在はその間ということになる。
山本は長崎において、カール・レーマンと鉄砲の購入交渉を行っている。そして1867年4月29日(慶応3年卯3月25日)付でシュンドナールドケウェール銃3000挺を山本覚馬、中沢帯刀名義で紀州藩のために約定を行った。さらに、同年5月4日(慶応3年4月朔日)付でシュンドナールドケウェール銃1300挺を山本覚馬、中沢帯刀名義で会津藩のために約定を取り交わした。1300挺のうち300挺は桑名藩用だった。しかし、この約定を取り交わした時には山本は既に長崎にはおらず、実際には同じ会津藩士の中沢帯刀が一人で約定を取り交わしている。
1867年5月4日付の約定案が長崎市のシーボルト記念館に保管されており、その一部を下に紹介する。(読み下し文)
一 代価払済筒渡方之儀者其日本到着より凡三ヶ月猶予いたし候事
一 会津の国君より其自己之事によりて払方不出来時者請取置候前渡金并筒共
ニ其損失としてカルルレーマン受用いたし候事
一 会津の士官山本覚馬氏中澤帯刀氏其国君之ため此約定書ニ姓名を記し置候
此約定ニ付而者 上者諸事者両氏江告知し取扱候事
一 此約定壱件ニ付カ・レーマン留守中者長崎ニ在る処之オ・ハルトマン氏其代として引受取扱候事
一 此約定蘭文者双方之間ニ壱通を以貨幣同様ニ心得候事
一 此約定書同文三通相認め壱通者中澤帯刀氏壱通者カ・レーマン氏外壱通者長崎ニ在る処之プロイス国コンシュル所持いたし候事
千八百六十七年第五月四日 慶応三年四月朔日 於長崎取極む
この読み下し文はシーボルト記念館企画展の説明書きを写したものである。
会津藩の小銃購入約定書案の一部(シーボルト記念館蔵)
(2)山本覚馬建白書『管見』について
鳥羽伏見の戦いが慶応4年1月3日に勃発して(~6日)戊辰戦争がはじまったが、山本覚馬は薩摩軍に捕らえられ、京都の薩摩屋敷に幽閉されてしまう。幽閉中に新政府のために同じ会津藩士の野沢鶏一に口述筆記させた建白書を提出している。これが『管見』と言われるものであるが、管見とは自分の知識・見解・意見をへりくだっていう言葉である。
『管見』の内容は「政体」に始まり「議事院」「国体」「衣食」「条約」など23項目にもわたって山本覚馬の意見が述べられている。ここで注目されるのは「建国術」で、ここには覚馬が長崎で見聞して得られた知識が述べられている。
以下にその全文を紹介する。
「余思うに宇内の国々その国本を建てるに商を専らとするあり。農を専らとするあり。商を以てする国は政行(「成功」の誤り?)し衣
食も足り富裕にして人も勇敢兵備も充実なり。農を以てする国は之に如かず。「ヨーロッパ」の内にては「イギリス」「フランス」「プロ
イス」商を以て盛なる国なり。日本支那等は農を以てする故に之に如かず。それ故如何となれば例えば百万石の地より収る賦凡そ百万金と
見てそれを工人へ渡し器物を作らしめば一倍増して二百万金となる。それを商人へ渡し商はしめば又之に二倍遂には金の増すこと限なかる
べし。然る上に矢張り元の百万金をとるなり。如斯せば農も盛え、思うままに物をも作らし商も利を得べし。余かつて「プロイス」の人「
レーマン」に聞く、「アメリカ」にては器械を以て田を耕し二人にて七十人程の働きをなすと。「和蘭」の人「ハラトマ」に聞く、「イギ
リス」の富を致すは蒸汽器械を発明してよりなりと云々、固より「イギリス」は石炭の多き国なり。故に工人の功を増せしものなり。余か
つて崎陽に遊び「和蘭」の人「ボートーイン」「イギリス」の人「ゴロール」等に逢うて事を聞くに、彼等日本へ来りし時は僅か壱万金程
ももたざりし由。今に及びて巨万を累ね、舟六七十艘も所持し、崎陽上海の間に商売し一月に拾五六万金に下らずと。此輩の如きは只一商
人にて如斯、その大なること推して知るべし。余二十年前我隣国仙台米沢の事を聞きしに、仙台はその地米沢に五六倍、仙台は農を以て専
らとす。米沢は商を以て専らとす。然るに仙台よりあぐ米の価一ヶ年三十万金の由。方今米の価三倍と見て凡そ百万金、絹の価一ヶ年十八
万金の由、方今の価四倍と見て七八十万金なるべし。その外諸細工物の価等合わせて金の入ることほとんど比較す。仙台は国も広大にして
山海を帯び至極上国なれども、貧国なれば政事も衰え農商共に日々に減じ、米沢は之に反す。故に商を以て国を建つる時は農ははげみ士は
強壮、工は巧みに富国強兵に存らんや。」
上記に「イギリス」の人「ゴロール」というのは武器商人「グラバー」を指している。開明的な山本覚馬は長崎に来て外国商人と出会い
、ますます日本はこのままではいけない、という思いを強くしたのではなかろうか。
ボードイン(左)とハラタマ(右)
『長崎大学医学部創立150周年記念誌』より
(3)ボードインに目を診てもらう
山本覚馬が長崎滞在中、西洋式の近代病院「精得館」でオランダ人医師ボードインから目を診察してもらっている。ここで当時の長崎を
語るに、この西洋式近代病院抜きには語れないという気がするので、「精得館」やその前身・後身について、ウィキペディア『長崎養生所
』・『長崎海軍伝習所』等から抜粋して紹介する。
1855年(安政2年)といえば、ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が江戸湾の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に来航した
年の2年後になるわけであるが、海防体制強化のため西洋式軍艦の輸入などを決めた江戸幕府は、オランダ商館長の勧めにより幕府海軍の
士官を養成する機関の設立を決め、同年長崎奉行所西役所(現在の長崎県庁)に長崎海軍伝習所を設立した。単に軍艦の操縦などを学ぶだ
けでなく、造船や医学、語学などの様々な教育も行われた。ここで学んだ者の中で筆者が知っている者として、勝海舟、榎本武揚、中島三
郎助、川村純義、五代友厚、佐野常民、沢太郎左衛門、松本良順がいる。永井尚志が伝習所の所長に当たる総監(第1期)を務めた。
1857年(安政4年)11月、幕府から医学教授を依頼された長崎海軍伝習所教官のオランダ軍医ポンペは長崎奉行所西役所に医学伝
習所を設立し、幕府医官の松本良順ら11名に医学講義を行っている。ポンペは病院の必要を説いたので幕府はこれに応え1860年(万
延元年)に養生所の建設を決定し、1861年(文久元年)9月、小島郷に養生所が開院された。同時に医学伝習所がここに移転し「医学
所」として併設され松本良順が初代頭取となった。この養生所(小島郷に建設されたので小島養生所と言われる。)はベッド数120 ,給
食設備をもつ木造2階建2棟の病院で,わが国初の近代的病院であり,現在の長崎大学病院へとひきつがれている(長崎大学医学部ホーム
ページより)。養生所が郷民の救恤診療を行ったのに対し、医学所では学生の教育が行われ、薬局・図書館・人体解剖室が設置され臨床医
学の講義が行われました。小島養生所が開院すると大村藩侍医の長與專齋(ながよせんさい)もここで学び、1868年(明治元年)に医
師頭取(病院長)に就任している。(ウィキペディア『長與專齋』参照)
1862年(文久2年)、ポンペが帰国すると彼に代わって同じくオランダ軍医のボードインが教頭に就任した。
1865年(慶応元年)4月には養生所・医学所は統合されて「精得館」と改称され、これとともに館内に化学教室「分析窮理所」を新
設し、オランダ人理化学者クーンラート・ハラタマを招聘した。山本覚馬が先の『管見』の中で、「和蘭」の人「ハラトマ」と述べたのは
このクーンラート・ハラタマである。
維新後、精得館は新政府に接収されることとなり、ここを視察した長崎府(長崎県の前身)判事・井上聞多の献策に基づき、1868年
11月(明治元年10月)長崎府医学校・病院へと改編された。
長崎でポンペとボードインに学んだ松本良順・相良知安・佐藤尚中らは、明治新政府が当時のヨーロッパ医学の主流であったドイツ医学
を医学教育に採用することに貢献している。
さて、ボードインについてであるが、長崎にやって来たボードインは実は二人いる。二人は兄弟であり、兄はアントニウス・ボードイン
(1820~1885)といい、生理学と眼科学が専門の医師である。弟はアルフォンス・ボードイン(1829~1890)といい、当時出島に住んでいた
オランダの外交官であった。兄のアントニウス・ボードインは1869年(明治2年)に大阪に移り、大阪大学医学部の前進である大阪仮
病院で教鞭と医療に従事した。筆者は10数年前に読んだ司馬遼太郎の『花神』で大村益次郎が刺客に襲撃されて負傷し、外国人医師から
治療を受けたことを知っていたが、名前は忘れていた。インターネットでボードインを調べていたら、このボードインが大村益次郎を大阪
仮病院で治療したということを知り、なぜか「そうだったのか」と嬉しくなった次第である。ちなみに、このボードインは、後に東京の上
野の山に公園を作ることを提唱しており、上野公園には彼の業績を顕彰する銅像が建てられている。
山本覚馬は慶応2年に長崎の精得館でボードインから診察を受けたが、『近代日独交渉史研究序説』によると、旧会津藩士の広沢安宅は
大正12 年出版の「幕末会津志士伝稿本」の中で山本覚馬は、「長崎に往き蘭医『ボードイン』の診察を請ふ。『ボードイン』熟視して回
復の難きを告ぐ」と述べている。ボードインは慶応2年12月すなわち1867年1月に一時長崎を離れてバタビアへ行き、3月に再び長
崎に来ている。それで1867年1月までに山本覚馬は長崎へ来たことになる。
覚馬が長崎をいつ離れたかはわからないが、1867年3月3日(慶応三年一月二七日)には中沢帯刀と共にカール・レーマンを連れて
兵庫に到着している。
長崎県庁敷地内に立つ海軍伝習所の碑 長崎県庁
ポンペ・ファン・メーデルフォールト ポンペ、松本良順と医学生たち
『長崎大学医学部創立150周年記念誌』より
アントニウス・ボードイン ボードインと精得館の医学生
『長崎大学医学部創立150周年記念誌』より
ボードインが講義した眼科学の口授書
『長崎大学医学部創立150周年記念誌』より
養生所 全景 (1864年 ベアト撮影) 近景の養生所
『長崎大学医学部創立150周年記念誌』より
(4)長崎で小銃購入の経緯
山本覚馬がカール・レーマンを長崎から兵庫に連れて来たのは、会津藩家老の田中土佐に会わせるためだったと思われる。
兵庫で田中土佐とカール・レーマンが会見し、会津藩は兵庫に造船所と鉄砲工場を建設する計画が持ち上がっている。
1867年5月11日付で長崎にいるカール・レーマンが京都にいる山本覚馬に宛てた手紙の写が残っていて、それによると、
「非常に嬉しいことに、私は田中土佐殿から、彼がなお私と共同の負担で船台と小さい工場の付いた造船所を兵庫に整備する気でいるのか
、そして国内でそのために良い場所を買収できるであろうかという書簡を頂きました。」(『近代日独交渉史研究序説』105貢。)と記載さ
れている。そして手紙の最後の部分に「貴方が私のために取った多大の労苦に対し衷心感謝致しております。中沢氏が貴方に是非手渡した
いと望んでいるスタールのパテントの騎銃を私の友情のささやかな証しとして私から受け取って下されるようにお願い致します」と記載さ
れているので、山本覚馬と中沢帯刀名義でこの手紙の7日前に締結された1300挺の小銃購入の約定の席に山本覚馬自身はいなかったこ
とがわかる。田中土佐はカール・レーマンとの会見の後、和歌山に向い、紀州藩と話し合い、その結果、紀州藩は小銃3000挺を購入す
ることに決まった。
実際に会津藩の長崎留守居役を務める足立監物(仁十郎)が長崎の運上所に「覚」を提出して、「剣付き小銃 四千三百弐拾挺 但し付
属品共」を「運上所お買い上げの上、お下げ渡し下さるよう」依頼しているので、会津藩が足立監物に指示をして提出させたものと考えら
れる。(『近代日独交渉史研究序説』69貢。)
しかし、この新式の銃が日本に着いた時は戊辰戦争の最中であり、実際には会津藩には届かなかったようである。もしも、長州や薩摩と同
じ時期に会津藩も小銃や大砲を外国商人から購入していたら、戊辰戦争の行方はわからなかったであろう。山本覚馬は早くから近代兵器の必
要性がわかっていただけに、会津藩の対応の遅さにやるせない思いを抱いていたのではないかと思われる。
しかし、管見を薩摩藩に提出したことで、山本覚馬の才能がさらに認められて釈放され、ついには京都府の顧問、そして京都府議会議長に
までなるのは成るべくしてなったものと思われる。
(5)資料-長崎での小銃1300挺購入約定書の全文-
(荒木康彦氏の著書『近代日独交渉史研究序説』74~76貢より掲載)
今度会津山本覚馬中沢帯刀其
国君の多免カル、レーマン氏江シュンドナールドケ
ウェール見本之通千三百挺左之附属品相添江
注文之事
一 皮具 壱式全備
一 スクルーフ、テレツキケル 壱
一 用意スピラールフェール 壱
一 同 スロットフェール 壱
一 用意ナールデン 弐
一 同 スコールステーンチー 壱
一 ロイムナールト 壱
以上筒一挺毎ニ
一 玉鋳型 弐
一 火薬量 壱
以上筒拾挺毎に
一 シュントスピーケル并パトローン 壱揃
製作用機械
一 パトローン 弐拾万三百
一 シュントスヒーゲル 八拾万
一 紙パトローン袋 八拾万
以上筒千三百挺ニ付
一 筒壱挺附属品共代メキシコ銀三拾四枚に
相極メ候事
一 代償は其日之相場ニ従ひイチブ日本貨幣を以
拂入候事
一 此注文前渡として筒一挺ニ付五両即六千
五百両をメキシコ銀百枚ニ付八拾七両弐分
之相場ニ而メキシコ銀七千四百弐拾八枚五拾
七セントの辻をカル、レーマン氏江今日相渡
置候事
一 筒四百挺は見本之通短く外九百挺は
少シ長く欧羅巴ニおいて「リニーインファンテリー」ニ
相用候品ニ有之候事
一 筒は見本より勝れ候共相劣間敷若又
新規ニ発明之儀有之候節は其発明に
随ひ仕立候事
一 筒は可成丈差急キ大凡壱ケ年ニして日本江
持渡其内出来候分は前以差送り候事
一 筒錆に而損シ又外に疵等出来候節は少し
代價減少を承引いたし候事
一 筒海水に而損傷し又は格別の損所有之
候節は其分不被受取外ニ引替相渡候事
一 代價拂済筒渡方之儀は其日本到着より
凡三ケ月猶豫いたし候事
一 会津之国君より其自己之事ニよりて
拂方不出来時は請取置候前渡金並筒共ニ
其損失としてカル、レーマン受用いたし候事
一 会津之士官山本覚馬氏中沢帯刀氏
其国君之多免此約定書ニ姓名を記し
置候上は諸事両氏江告知し取扱候事
一 此約定壱件ニ付カ、レーマン留守中は長崎に
在るオ、ハルトマン氏其代として引受取扱候事
一 此約定蘭文之内壱通を以双方之間に
貨幣同様ニ心得候事
一 此約定書同文三通相認め壱通は中沢
帯刀氏壱通はカ、レーマン氏外壱通は長崎ニ
在るプロイス国コンシュル所持いたし候事
千八百六十七年第五月四日慶応三年卯四月朔日於長崎取極む
カル、レーマン 手記
オ、ハルトマン 手記
レーマン・ハルトマン申立ニよりて
プロイス国コンシュル
アル、リンドウ 印
千八百六十七年第五月六日慶応三年卯四月三日
中山六左衛門訳