1.日下義雄


          
             『日下義雄傅』より掲載
            (大正元年 62歳の時の写真)


(1)経歴

  会津藩と言えば、16、17歳の少年から編成された白虎隊が有名だが、飯盛山で自刃した17人の白虎隊士の中に
 石田和助という者がおり、その兄が第8代長崎県令で初代長崎県知事になった日下義雄
(くさかよしお)である。日下と
 いう姓も義雄という名も後から付けた名前で、もとは石田五助と言う。父石田龍玄は農家出身であるが、苦労して勉学
 に励んで医師となり、後に会津藩主のお側医として仕えて士分にとりたてられた。その龍玄の長男が五助で、次男が和
 助である。




                              
                                     石 田 龍 玄
                                (『日下義雄傅』より掲載


  石田五助は18歳の時に鳥羽伏見の戦いに参加し、右足に鉄砲が貫通して重傷を負っている。会津での戦いでは旧幕臣
 で歩兵奉行の大鳥圭介の隊と行動を共にしていて会津若松城に入ることができず、籠城戦を諦めて、落城する前に会津を
 脱出して大鳥圭介と共に仙台まで逃れ、そこから榎本武揚や土方歳三らと開陽丸などで蝦夷に渡り、函館の五稜郭で新政
 府軍と戦っている。 
  明治2年5月ついに降伏し、捕らえられて東京へ送られ、芝の増上寺に収容される。この時に石田五助は、名を「義雄」
 と改名するが、その心境は何だったのであろうか。新渡戸稲造は『武士道』の中で、忠臣蔵の四十七士を取り上げ、義に
 ついて、「この率直で、正直で、男らしい徳は、最高に光り輝く宝石であり、日本人がもっとも高く賞賛する」ものであ
 ると述べている。おそらく、石田五助は今後、義に篤い男として生きて行こうと決意したのではなかろうか。
 
 翌明治3年に赦免された後、藩籍を離脱して会津藩の人参御用商人だった足立仁十郎(にじゅうろう)を頼って長崎を訪 
 れたが、足立から力になれないと言われ、その代わり会津出身の小松済治(さいじ)を紹介される。小松済治は元の名は
 馬島(ましま)済治といい、会津藩の費用で日本人として初めてドイツに留学し、医学や法学を学んでいる。明治3年に
 日本に帰国して和歌山藩に仕え、翌年新政府の官吏になるが、和歌山藩時代に祖父の元の姓・小松に改姓した。日下義雄
 はその小松済治の口利きで、大阪在住の長州出身・井上馨の書生になり、大阪英語学校に入学させてもらっている。姓を
 日下に変えたのは、井上馨の書生になってからであり、無籍者の身元調査があった時、天日の下に生涯を送るから日下と
 名乗ったという。
 
 明治4年に岩倉具視を団長とする欧米使節団が派遣されるが、井上馨の書生をしている日下義雄は、団員として自分を推薦
 してくれるよう、井上に何度も繰り返し頼み込む。しかし、なかなか井上は、推薦してくれない。そこで日下は毎朝井上の
 寝室に出向いて、推薦を依頼する。とうとう、井上は怒って「うるさい、下がれ」と怒鳴りつけるのであるが、さすがの日
 下もあきらめたかと思いきや、翌朝も翌々朝もやってきて繰り返し頼み込む。そこでついに井上は根負けしたのか、推薦を
 してくれ、日下は使節団に加わって、アメリカに留学することができた。(『日下義雄傳』)

  
  井上馨は日下義雄を後々まで面倒を見る。日下の才能を買っていたこともあるだろうが、私は日下の性格がよかったから
 だろうと思っている。この欧米使節団には小松済治も二等書記官として参加しているが、3人の一等書記官のうち2人は何
 礼之
(が のりゆき) と福地源一郎(福地桜痴(おうち))という人で、共に長崎出身である。

 さて、明治7年にアメリカから帰国すると、明治9年には井上馨に従ってヨーロッパを視察し、ロンドンでは統計学と経済
 学を学んで明治13年に帰国する。その後、太政官権大書記官、農商務省権大書記官、同省統計課長などを歴任した後、明
 治19年(1886年)2月25日に36歳の若さで第8代長崎県令に就任する。同年に地方官官制が制定され、県令が廃
 止されて県知事となり、日下義雄は7月19日に初代長崎県知事となった。



  
           

                 日下義雄が勤務した旧長崎県庁  (明治9年12月落成) 
                 
               2階建 4棟  建坪 82坪      『長崎県議会史 第一巻』より



                 
                         日下長崎県知事と可明子夫人
                明治19年 日下義雄 36歳の時の写真 (『日下義雄傅』より掲載)


(2)本河内高部ダム

  日下義雄が長崎に赴任して来る前の年の明治18年7月、長崎市でコレラが大流行した。『長崎市史年表』によると
 「7月 盂蘭盆
(うらぼん)の墓前の暴飲暴食が誘因で、市内にコレラ大流行、患者800余人、うち死亡600余人」と
 記載されている。また、同じ7月の欄に「高島でもコレラが流行し、坑夫3000人のうち、875人が死亡したが、
 死んでも死ななくても、発病して1日たつと海辺の焼場に送り、鉄板のうえに5人、10人まとめて焼き殺し、大きな
 社会問題となった」とも記載されている。

  コレラが流行した原因だが、当時の長崎はまだ水道というものがなく、飲料水は井戸水やわき水などに頼っており、
 地下水は大部分が汚水で、清浄な水に恵まれていなかった。このような不良飲料水と、長崎区(長崎市の前身)の人々の
 衛生思想に対する欠如がコレラ大流行の原因とされている。水事情の劣悪さにたまりかねた長崎区内の外国商社などは、
 衛生施設を改善しないなら、日本から引き揚げるぞと外務省におどしをかけたこともあった。

  こうした事情から、長崎に赴任して来た日下義雄は長崎に上水道を布設
することを決意し、金井(かない)俊行長崎区長に
 このことを告げ、金井区長もまた水道布設の必要を痛感していたことから、ここに長崎に上水道が布設されることになった
 わけである。しかし、簡単にはいかず、莫大な工事費を要することから区会(市議会の前身)の反対にあうことになるので
 あるが、紆余曲折の末、なんとか上水道布設議案が区会を通過し、明治24年3月、ついに本河内高部ダムが完成し、横
 浜、函館に次いで全国で3番目となる上水道が設置されたのである。まさに、日下義雄旧会津藩士の英断のお陰であった。

  しかし、当の日下知事は本河内高部ダムの完成を見ることなく、長崎県を去っている。というのは、『長崎市史年表』

 によると、「この年(=明治22年)1月の臨時区会で水道布設案が可決されると、金井区長は公債募集を新聞に広告した
 が、大蔵省では、大蔵大臣の許可なくして公債を募集したことについて県当局を詰問した。日下は、内務大臣の許可を得た
 経過を具申したが、大蔵省と内務省の権限争いを生じ、ついに政府部内の大問題となった。」ということであり、日下知事
 は長崎の上水道問題で責任をとらされ、明治22年12月26日をもって免職(当時の言葉で非職)となったのである。
 (『長崎市史年表』126貢)





          


                    日下知事の英断で建設が推進された本河内高部ダム




                 
    
                 日下知事時代、コレラ対策のため建設された下水溝 (ししとき川)


(3)清国水兵暴動事件 

  日下知事の頭を悩ましたであろう事件として、清国水兵暴動事件がある。日下義雄が長崎に赴任して来て間もない明治
 19年8月10日、清国の丁汝昌
(てい じょしょう)水師提督率いる北洋艦隊が長崎港に威風堂々と入港して来た。ロシ
 アのウラジオストクに寄港していたのであるが、清国に帰る途中、艦艇修理の名目で長崎に入港して来たのであった。
  4艦からなる艦隊の乗組員たちは長崎に上陸し、酒と女で艦上生活の憂さを晴らすのですが、長崎入港後3日目となる
 8月13日、寄合町の遊郭に5人の水兵が女遊びに行ったところ、先客がいるので5人全員は相手をできないと断られる
 と、酒に酔った水兵たちは「女を出せ。」と暴れだし、障子やふすまを破ったりして手が付けられないようになった。
 丸山の派出所の警察官がかけつけて、いったんはその場をしずめたのであるが、その後夜の9時頃になって今度は士官以
 下14,5名の水兵が丸山派出所を取り囲んで騒ぎだし、遊郭で暴れた水兵一人が先ほどの巡査に斬りかかった。巡査は
 頭を斬られて出血しながらもその水兵を投げ飛ばし、逃げる水兵を追跡し、他の巡査の応援でやっとその水兵を逮捕した
 のであった。

  しかし当時の日本は治外法権で外国人は処罰できないことになっていた。県警は清国領事館にその水兵を引き渡したの
 だが、怪我をしており、長崎病院で傷の手当てをさせた。翌日朝、清国領事が県庁を訪れ、日下知事に「どうしてくれる」
 と言う。日下知事は昨夜の事件の報告を受けていたので落ち着き払って、「負傷は貴国軍人ばかりじゃありませんぞ。
 わが方も巡査一人、市民一人がけがをしている。双方の負傷者をどうする、ということでないと談判になりませんな。あま
 り小さなことを荒立てて、お互いの国交にヒビがはいっては損ですよ。」と言うと、領事も「なるほど、もっともなご意
 見、万事平和的に解決することにしましょう。」とうなずいたそうである(毎日新聞社刊『明治百年 長崎県の歩み』より
 引用)。ところが、事はこれでおさまらず、15日になって500人近い清国水兵が上陸し、市民に乱暴をし始め、ついに
 は、警官隊と衝突しすさまじい乱闘戦が繰り広げられた。

  この事件で、日本側死者2人、負傷者29人、清国側死者8人、負傷者42人を出したが、この事件は日本と清国との間
 で外交問題にまで発展し、伊藤博文初代内閣総理大臣は、外務省にこの事件を処理するため一局を設けさせた。9月に入っ
 て、長崎で両国の委員3人ずつからなる調査委員会で談判が始まったが、日下知事も日本側委員の一人になって、中国側委
 員と談判を行った。しかし、いっこうに解決がみられず、長崎での談判は11月になってうち切られた。やがて、翌明治
 20年2月8日、井上馨外務大臣と徐承祖
(じょ しょうそ) 欽差(きんさ)大臣との間で条約が締結されて事件はようやく解決
 をみた。

  内容は、「関係者はそれぞれの国の法律で処理する。双方の死傷者に対し弔慰金を贈る」というものでした。清国水兵が
 暴力行為を繰り返したので日本の警察隊が鎮圧したものなのに、喧嘩両成敗の形で決着され、弔慰金の支出額は、清国側銀
 15,500円、日本側52,500円でした。清国側死傷者が日本側より多かったために、当然日本側支出額が多くなっ
 た。この事件は日本人に清国が敵国であると認識させ、清国に対する軍備増強を駆り立てさせるきっかけとなった国家的な
 大事件だったのである。


(4)日下義雄のその後

  長崎県知事の職を免じられた後、しばらく民間にいたところ、明治25年8月に松方正義内閣が倒れて、第2次伊藤博文
 内閣が成立した。書記官長は長崎出身の伊藤巳代治で、書記官長というのは現在の官房長官である。この内閣は外務大臣に
 陸奥宗光、農商務大臣に後藤象二郎、内務大臣に井上馨、司法大臣に山縣有朋、陸軍大臣に大山巌といった名前の知られた
 政治家が名を連ねている。日下義雄は内務大臣井上馨の影響力があったからか、8月20日に福島県知事に任命された。
 故郷に錦を飾ったわけだが、福島県知事時代では、福島県郡山から会津若松を経由して新潟県新津(現、新潟市の一部)に
 連なる岩越
(がんえつ)鉄道の建設に力を注いだ。この鉄道建設は県民が躍起となって運動していたものだった。

  その後明治29年、官を辞して実業界に入り、第一銀行の監査役や取締役に就任した。33年には京釜
(けいふ)鉄道株式
 会社創立常務委員となり、翌34年には同社常務取締役となって、韓国の京城
(けいじょう)(今のソウル)と釜山を結ぶ鉄
 道の建設に尽力した。同社の株式募集のため全国各地を回っている。筆者は昔、セマウル号でソウルから釜山まで行ったこ
 とがあるが、日下義雄がこの鉄道の建設に大きく関わっていたのである。

  鉄道といえば、日下義雄は長崎県知事時代に、長崎佐世保間の鉄道敷設計画にも多大な援助を行っている。県の官吏に予
 定線路の実測をさせたり、収支見込みをたてさせたり、自ら政府担当者への運動などを行い、長崎商工会など民間側の熱い
 期待に応えている。

  日下義雄は福島県から衆議院議員選挙に立候補し、2回当選している。大正12年(1923年)に東京本所区向島の自
 宅で73歳で亡くなった。墓は台東区谷中
(やなか)霊園にある。 

 

参考文献

 中村孝也著『日下義雄傳』第一銀行内 日下義雄傳記編纂所 昭和3年

 長崎市役所編 『長崎市制50年史』 長崎市役所 昭和14年

 毎日新聞長崎支局編 『明治百年 長崎県の歩み』毎日新聞社 昭和43年

 長崎市史年表編さん委員会編  『長崎市史年表』 長崎市役所 昭和56年

 新渡戸稲造著 『武士道』  PHP研究所  平成17年

 『岩倉使節団』 フリー百科事典 ウィキペディア

  『日下義雄』  フリー百科事典 ウィキペディア

  『第2次伊藤内閣』  フリー百科事典 ウィキペディア

  『日清戦争前夜の日本と朝鮮(14)』ウェブサイト「きままに歴史資料集」





日下義雄が長崎赴任時の新聞記事         【鎮西日報 明治19323日付】  

 ●日下県令着県

   日下本県令には一昨日着港の名護屋丸より着県せられたり。同日午後78時該船着港の予定なるを以て県官 郡区吏 警察
 
 官巡査及び区内諸会社員並びに各町よりの惣代等は出迎えとして大波止海岸より江戸町入口までの間に郡列せしに同日の嵐

 にて着船遅延漸く10時になんなんとするころ着船しさて日下県令には本船まで出迎はれし柳本大書記官以下警部長並びに

 諸課長に伴はれ県庁小蒸気船にて大波止より上陸郡列の衆員は県令の通過を俟ち敬礼す。県令車上より脱帽答礼あり。柳本
 
 大書記官以下警部長区郡長諸課長等は人力車にて随行し小島郷福屋へ投宿せられ県庁属官の内重立つ人々及び諸会社員等は

 福屋に至り着県の賀を表したり。




日下可明子夫人死亡時の新聞記事(1)  【鎮西日報 明治191212日付】  

 日下夫人の逝去
                  
 本県知事日下義雄君の令閨は昨日はせられたり。同夫人は名を可明といひ資性俊敏にして温良の美徳を兼備へに本邦婦人の旧習を脱し家政を処理すると同時に交際の道を開き自他相利するを以て志とせられしかは東京上遊の交際間には日下夫人の名声せきせきたり。殊に近時の美挙たる貴婦人の設立に係る慈善会を始めその他の諸会にありてそうそうの聞えあり。当地に来らるるに及び内外の交際社会に立ちて専ら彼此の交情を親密ならしむるようめられたり。居留外人の間にても推重他になるものありその人を遇する貴賎を以て意に介せず皆な懃懇故に一たび音容に接するものは敬愛せざるるなし。本月7日俄かに脳充血を患ひ一時は危篤なりしもその後追々快復に向いたりしが昨11日午前7時を以て竟に遠逝せられたるぞ哀しけれ。

   

 ●日下夫人の葬式

 同夫人の葬式は本日午後4時出棺皓臺寺に於て営まるるといふ。一体会葬者は燕尾服若しくはフロック、コート左なくば紋付羽織袴を着用するを今日の定式なるが中には喪服の心得なく洋服の襟飾り並に手袋に黒色を用ひず種々の雑色を()くる人あり随分不体裁なれば殊に外客の会葬する際などには注意ありたきことにこそ。

 


日下可明子夫人死亡時の新聞記事(2)  【鎮西日報 明治
191213日付】

 日下可明子の葬儀                                                         

 長崎県知事日下義雄君の令閨(れいけい)可明子の葬儀は昨12日午后4時同邸内を発棺しその行列の順序は第1番に梅香崎警察署巡査(2列)、次に高張1対、松明1対、大旗1流、小旗5対、高張1対、生花17対、高張1対、(さい)花6対、四花1対、香櫨、天湯、天茶、位牌、箱提灯1対、柩、天蓋、葬主、親戚、婦人、各国領事、諸会社員、県会議員、当港紳士、長崎警察署巡査、警部、師範学校生徒、医学校生徒、中学校生徒、商業学校生徒、無慮2千有余名の会葬者にて皓臺寺に着棺の□□師高木忍海氏の引導あり。(おわり)て在長崎基督教一致教会伝道師米人スタウド氏は自己の篤志を以て祈祷の演説をなし()れより各々焼香を修し同5時10分ごろに終り中々盛大なる葬儀にてありき右沿道には見物人雲集し殆んど雑沓を極むる有様なれり該寺の門前には巡査数名出張して制する程なりし。                  

 

 
            
           可明子夫人の墓のある皓臺寺                          明治19年時の可明子夫人
                                                                        (『日下義雄傳』より掲載)



        
         遺髪が納められている可明子夫人の墓


日下知事非職の新聞記事                【鎮西日報 明治221228日付】

 ●地方官更迭(昨27日午12時東京特報)

   本日地方官に左の更迭あり。

     奈良県知事     税所 篤      任元老院議官

     秋田県知事     青山 貞      任元老院議官

     長野県知事     木梨精一郎    任元老院議官

     公使館参事官    周布公平      任内閣書記官長

     弁理公使       湯田徳則       任神奈川県知事

     香川県知事     林 董        任兵庫県知事

     神奈川県知事    沖 守固       任長崎県知事  

     広島県知事     千田貞暁       任新潟県知事

     内務大臣秘書官  小松原英太郎   任埼玉県知事

     内閣書記官長    小牧昌業      任奈良県知事

     大蔵省参事官    成川尚義      任三重県知事

     愛媛県知事     白根専一      任愛知県知事

     兵庫県知事     内海忠勝       任長野県知事

      内務省書記官    佐和 正      任青森県知事

     元老院議官     長谷部辰連      任山形県知事 

     法制局参事官    岩崎小二郎     任秋田県知事 

     青森県知事     鍋島 幹       任広島県知事

     元老院議官      石井忠亮     任和歌山県知事

     内務省地理局長   櫻井 勉      任徳島県知事

     山形県知事      柴原 和      任香川県知事

     愛知県知事      勝間田 稔     任愛媛県知事  

     滋賀県書記官     園田安賢      任一等警視

     非職          長崎県知事     日下義雄

     非職          新潟県知事     篠崎五郎

     非職          埼玉県知事     吉田精英

     非職          三重県知事     山崎直胤

     非職          和歌山県知事    松本 鼎

     非職          徳島県知事     酒井 明

    

   本電は長崎市内は昨日号外を以て報道したる所のものなり。市外へも号外を発送すべきのところ電報到達遅く印刷の後に到れば

 既に昨夜の郵便締切の後となる都合なりし故之れを見合せ更に本欄に填したり。

  


地方官更迭、日下知事非職

  地方官に更迭あるべしとはかねて噂に聞いて待ち設けし事なり。今や果して電報欄内に掲ぐる所の任命更迭を見る以て政府の地方政治を釐革するの鋭意を想見すべきなり。独り意外千万なるは日下長崎県知事の非職なり。近頃昇級の栄を(にな)い未だ幾日ならざるに非職の命あり。その余りの意想外のことなるを以て人或いは他の栄地に転ぜらるるの下地ならんと言ふものあるに至る。吾輩門外漢は只だ意外といふの外非職の理由を(うかが)ふことを得ざれども長崎県治の為にもこの命あるを惜嘆せざるを得ず。既に昨日もこの電報を見たる或る人の話に県下の事業日下知事の計画に()こらんとして未だその功を終へざるものなからず。長崎市内の水道問題の如きも僅かに(まる)(まと)まりて日下知事は人心の協和調停に意を注がれ(ようや)くにその功を見んとする時機なるに(にわ)かに他人の来りて君に代わるに(あふ)ては折角萌芽せしこの市内の折り合いも(より)の戻る憂いはなきや云々と打語えり。地方官の更迭は県下進歩の腰折れと一般の通情なる中にも本県の如きは是迄(これまで)県会と理事者との間柄も都合()く進み居りしことなれば一層この傾きあるを懸念さるるなり。



  

日下知事見送りの新聞記事                             【鎮西日報 明治2317日付】

●日下非職知事の見送り

  非職長崎県知事日下義雄氏は昨日午後5時の上り郵船横濱丸にて帰京されたり。この日見送りの概況を記さんに、午後3時30分頃より大波止に県庁・三菱造船所・三菱炭坑長崎事務所の小蒸気船3艘と米国亜細亜艦隊スワタラ号、第5高等中学校医学部のボートと艀船4艘、市内外浦町汽船問屋福島友吉氏方より特に出したる客船10余艘を用意し、陸上は県庁12部長各課長各課員を初めとし、警察本部よりは警部長・警部、市役所吏員、西彼杵郡役所吏員、長崎・梅香崎両警察署長及び警部、長崎監獄官吏、長崎控訴院よりは人見院長・林検事長その他評定官、長崎始審裁判所よりは秋山所長・羽野上席検事、吉田医学部長・同部員、長崎病院医員、 長崎大隊区よりは島野陸軍歩兵少佐・同入江陸軍歩兵大尉、長崎師範学校員及び男女生徒、長崎中学校教員生徒、長崎商業学校教員生徒、米艦スワタラ号艦長、各国領事、居留外国人、市内各会社員その他紳士、紳商、各町老分まで千余人に及び大波止より樺島町海岸通りに連なりて人山をなし一時は立錐の地なき程なりし。日下氏は県庁小蒸気船に乗り込まんとする際各見送りの人々に向ひ丁寧な告別をなし且つ見送りの厚意を謝せり。斯くて県庁の小蒸気船は(ともづな) を解きて走り他の2艘の小蒸気船・10余艘の船はこれに尾して進行し多数の人々は横濱丸に到りて征衣の客は一片の雲煙を止めて去り、見送りの人は戀々(れんれん)の情を含んで引き返せり。

 

●日下氏告別

   日下非職知事は昨日午前11時過ぎより県庁に到り、部長各課長に別れを告げ、各課とも廻りて属員其他へも告別されたりと云う。


日下前知事の演説

     去る4日夜交親館の送別会に於いて日下非職知事の演説ありし概旨を摘記し左に掲載す。
   

    「満場の諸君、今夕は歳始多忙の時節にも拘らず斯く多数の諸君が余が為に盛大なる送別の宴を開かる余実にその厚意を謝し、抑々余が此の本県知事の任を受けしは去る明治19年2月にして本県に赴任したるは同3月なり。爾来余は勉めて政府方針の在るところに(したが)い、法律命令に依り孜々(しし)汲々(きゅうきゅう)県下の為め幸福利益を謀るところあらんことを期せしも、余が不肖その任に堪へず諸君の望に背きたることの多かりしは余が深く()ずるところなり。余昨年末非職の命を蒙り、今般諸君と相別れ本県を去るの期に迫れり。離情(まこと)惆悵(ちゅうちょう)に堪へず、余が心の惜別に切なる亦以て諸君送別の情に当たり去り乍ら此の惜別と同時に一方に向て余諸君と共に大いに賀すべきものある他なし。余の後任たる沖氏は賢明の人にして日来二千石の誉れあり、同氏にして本県の知事に任ず。県下に幸福を(あた)ふること必ず疑ふべからず。是れ余が諸君と共に大いに賀するところなり。余更に諸君に向て一言を述べんと欲するものあり。将来諸君が地方自治の実力の伸張に勉励せられんこと是れなり。()れ物に本末順序ありて人々一身を修め一家を構え然る後一町一村の自治を整えることを得べし。一町一村の自治体を整へ然る後一郡の自治体に及ぼし、一郡より一県に及ぼし遂に一国独立の強固を希図することを得べし。故に余は将来諸君が特にこの地方自治の実力を伸張する点に勉励怠らざらんことを望む中に就き、此の長崎市は我国歴史上に関係多き著名の地なればこの長崎市には固有の精神なるものありて存することは明なれば、余はまた時に市民諸君の此の長崎固有の精神は長くこれを保存し、之を発達し以て一市の自治独立を強固にせんことを勉められんことを望む。果たして然らば長崎市の将来は益々繁昌に赴くこと余が(あらかじ)め卜定して疑はざるところなり。別れに臨んで一言すること然り。幸に諸君のこれを諒せられんことを請ふ云々。 」

    

                         交親館    (明治14年10月落成)  
 
               階上 外賓接待所  階下 県会議事院  建坪 203坪   『長崎県議会史 第一巻』より

             
             ※ 交親館は大正4年に現在の県立長崎図書館として移転・増改築されるまでは
            上西山町にあった。(碑文『長崎図書館の由来』に記載されている。)





市民から日下前知事への贈り物                              【鎮西日報 明治
2319日付】

 ●はなむけ

   元居留地地主総代小曽根(しん)太郎外6名より日下前知事へ有田焼花瓶1対、枚、個をはなむけせしよし。




清国艦隊の長崎入港                                   【鎮西日報 明治19811日付】

●  清艦入港 

   予定の如く定遠(旗艦)、鎮遠、済遠、威遠の3号は(いず)れも昨10日午后1時40分浦潮斯徳より入港せり。定遠と鎮遠とは船底(すこぶ)損しれば近々立神船渠に入れ外部修繕をなすならんといへり。





                

                   白虎隊の会によって建てられた日下義雄の顕彰看板  (平成25.1.26建立)         



       
  
                                   顕彰看板の内容




                                トップページへ戻る